雨が降ろうと槍が降ろうと、たとえ誰かから記憶がなくなろうと鎮守府運営が滞ることはない。鹿島の航行練習も通常どおり行われ、今日も私は雨の降りしきる海上で居残り練習に勤しんだ。
鹿島の腕時計のアラームが鳴り、ようやく長い練習が終わった。疲労で背中が曲がるのもそのままに港に戻り、昨日と同じようにドックに向かう。温かいシャワーを頭から浴びる。汗を流したときの爽やかさは昨日と何ら変わりない。汗の流れとともに、たまっていた疲れも排水溝に流れていく。それなのに、胸に付きまとうわだかまりは一向に消える気配がなかった。秋雲に自分の存在を忘れられたことが思いのほか響いていた。
着替えた服を手提げ袋に入れ、食堂へ向かう。
「あ、満潮おかえり。丁度いいところで来たね」
私の姿を認めるなり、朝潮が声をかけてきた。今日はいつもと服装が違い、制服の上からフリルのエプロンを着けていた。「似合う?」とその場でくるりと一回転してみせる。エプロンの裾がふわりと踊る。
「似合う似合う」
「えへへ、ありがと」
心底嬉しそうに朝潮ははにかんだ。喜んでくれたのならなにより。
「料理でもしてるの?」
「当たり! 秋雲に作ってあげてるの」
手で示された方を見ると、横長のテーブルに秋雲の姿を認めた。側には響と、駆逐艦娘の時雨がいる。
時雨は白露型の次女で、艦艇時代には私と同じ艦隊だったこともある。長く戦いを生き延びた幸運艦であり、数々の艦船(なかま)が沈むのを目の当たりにした悲壮艦でもあった。そのことが影響しているのかは定かでないが、性格は大人しく控えめで、物静かな印象を受ける艦娘となっていた。
「じゃあ、続きを作ってくるね」と言って朝潮が厨房に戻り、私は3人のもとへ歩み寄った。小さく声を掛けて、響の隣に腰掛ける。訓練の間はずっと立ちっぱなしのため、イスに座れたことが何よりうれしかった。深い息が漏れた。
「おつかれ、満潮」
「ホント、もうくたくた。響も来週は頑張ってね。鹿島さんが愛情をたくさん注いでくれるから、ありがたく受け取りなさいよ」
「お手柔らかにお願いしたい、かな」
響は苦笑いを浮かべて頬をかいた。
ふと、秋雲がこちらをじっと見ているのに気づいた。
「どうしたの?」
「あぁ、えっと」
秋雲は何やら言いづらそうに言葉を濁す。しかしそれは一瞬のことで、すぐに真剣な顔つきになって私を見た。
「キミ……誰だっけ?」
心臓が跳ねた。突然の刺激で全身に血液が一息に送られたように感じ、洗ったばかりの肌に汗が浮くのが分かった。
冗談で言っているのか。初めは本当にそう思った。しかし秋雲の顔は真剣そのもので、いたずらに私を脅かそうとしたわけではないようだ。まさかと思い、私は秋雲に尋ねた。
「昨日のこと、覚えてないの?」
「昨日? キミとは、今日初めて会うはずだけど」
心の平静を保つ暇もない。背中を伝う汗が、まるで濁ったオイルのように粘つき、気持ち悪い。彼女の言葉が表すこと。
秋雲は、私のことを“また”忘れたのだ。
「覚えてないんだ。昨日、舞風たちと倉庫とか工廠に行ったみたいだけど、秋雲はそこでのことをほとんど忘れてる」
時雨の言葉で、背もたれに預ける体重が大きくなった。
昨日の嵐の強行手段に驚いたことも、スケッチブックに私たちを描いたことも。雑多な土地を更地にするかのごとく、ともに行動した面々のことを、たった一夜で忘れた。そんなことがありえるのだろうか。だとすれば、昨日やったことは全て無駄だった、というのか。
一日で何とかなると思っていたわけではない。しかし、何も手ごたえがなかった。その上、新たに喪失感を植え付けられたような気がして、辛い。虚空にひとり取り残されたかのような、漠然とした虚しさと焦りが一挙に押し寄せようとする。それを時雨が止めた。
放心した私の様子を見て、時雨が慌てて言葉を足す。
「いや、全部を忘れたわけじゃないみたいだよ。そうだよね、秋雲」
秋雲が首を縦に振る。
「う、うん。確か昨日、舞風に工廠まで連れて行かれて、そこで椅子に座らせれたのは思い出せるんだ。でも、そこで何をしたのかが、良く思い出せなくて……」
二人の言葉を、霞む頭の中でなんとか理解する。秋雲が覚えているのは、忘れていない艦娘との出来事だけ。すでに忘れている、私や朝潮とのことだけが、何事もなかったように消えた。つまり、振り出しに戻った、ということか。それでも、辛いことには変わりないのだけど。
私の顔が曇ったままなのを見てか、秋雲が申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめんね、思い出せなくて。舞風のことは分かるし、時雨のことも覚えているんだけど」
「あ、いや。秋雲が悪いことはないんだ。私が、ちょっと先走り過ぎただけ。気にしないで」
今後、秋雲の前で暗い顔をするのはやめておこう。ただでさえ記憶が無くなって困惑しているのに、他人に気を使わせては負担が大きくなる。
うつむく秋雲の方に、時雨が手を当てる。
「仕方ないよ。前みたいに、またすぐに覚えられるようになるよ」
しんと、気まずい静けさがやってくる。しかし、すぐに沈黙は破られた。場違いにも、耐えかねたように私のお腹が鳴ったのだ。視線が集まる。今度は私がうつむく番だった。響が顔を背けている。大体どんな表情をしているのか、震える肩を見れば一目瞭然だ。
「じゃあ、響は秘書艦の仕事に戻るよ」
と笑い押し殺した口調で、響は食堂を後にする。
しばらくして、秋雲がトイレに席を立った。それを見計らい、恥ずかしさを紛らわすのも兼ねて、私は時雨に尋ねた。熱くなった顔を手であおぐ。
「ねぇ。秋雲って、前にも記憶がなくなったことがあるの? さっき、それらしいことを言ってたから」
「う~ん、そうだね。記憶がなくなるっていうのとは、ちょっと違うかな」
時雨がグラスに口をつける。
「秋雲はひとの顔を覚えるのが苦手だったんだ。みんなで自己紹介したんだけど、次の日には誰が誰だか分からなくなっていた」
「でも、それって普通といえば普通じゃない? 着任してすぐに仲間をみんな覚えるのは難しいと思うけど」
「そうだね、着任してすぐなら普通だよ。でも秋雲は少し違う。着任して3日たっても、僕らのことを何も覚えていなかったんだ」
「それは……」
流石に、物忘れが激しいだけで済みそうにない。仲間のことを知っていなければ艦隊運動にも支障が出るし、日常生活でも不便なはずだ。忘れられた側も、良い気はしないだろう--今の私のように。
「ただ、」と時雨は言う。
「4日目くらいには、ほとんどの艦娘を覚えられていたんだ。だから、秋雲は仲間を覚えるのに、他の子より時間がかかるだけってことで落ち着いた。それに、なかなか覚えてくれなかったのは着任してから数週間だけ。最近は新人の顔をすぐに覚えてるよ。満潮のことも忘れてなかったでしょ」
確かにそうだ。着任したての私を秋雲が忘れることはなかった。
……ダメだ。頭の中がごちゃごちゃして、本格的に分からなくなってきた。空腹に耐えかねたお腹がまた一つ鳴り、私は机に頬を付けた。
「お腹すいた」
「朝潮の料理ができるから、もう少し待とう」
時雨は空になったグラスの縁をなぞって遊ぶ。私も水でいいから何か口に入れたかった。
「ねぇ。秋雲の前で、あんまり記憶のことは話さない方がいいんじゃない?」
「秋雲自身、何かを忘れているっていう自覚はあるんだ。変に遠ざけるより、隠し事せずに話したほうが秋雲のためだと思う」
そう言われると、昨日の秋雲はどこか事態に慣れているようにも見えた。過去に似たようなことがあったから、それほどパニックにならなかったのかもしれない。かといって、接し方を考える必要はないということはないだろう。
小さく「それもそうね」と相槌を打つ。それきり、会話は途絶えた。雨の音が私たちの間を満たす。壁越しに少しくぐもって聞こえるその音が、私は嫌いではない。でも今は、雲の上の青空が恋しく、愛おしかった。
「白露がいればなぁ」
時雨がぽつりと呟いた。
「白露?」
「僕の姉。白露型駆逐艦の長女だよ。今は外に出ているからいないけどね。事が長引くようなら、一応帰ってくるように連絡してみようかな」
「姉、ねぇ」
私の姉はまだだろうか。いい加減、おなかと背中がくっつきそうだ。3回目のお腹が鳴ったとき、トイレから秋雲が帰ってくる。そしてタイミングを見計らったように、朝潮が厨房からやってきた。
テーブルにへばりつく私を見ると、
「満潮、行儀悪いよ」
「お腹がすいて身体が持ち上がらないのよ」
「そうだとしても、姿勢はきちんとしないとダメだよ。ちょっと待ってて。満潮の分も作ったから」
朝潮は再び厨房に戻り、両手に皿を掲げて帰ってきた。私と秋雲の目の前にひとつずつ置かれる。野菜たっぷりのあんかけ焼きそばだった。色彩豊かで、白い平皿の上からは湯気が立っている。香ばしい香りも相まって、自然とよだれが出てきた。
「昔ね、秋雲に夜食を作ったことがあるんだ。同じ料理を食べたら、何か思い出すんじゃないかなって」
夜食にあんかけ焼きそばですか。秋雲が注文したのだろうか。夜中に食べるのは、少しカロリーが高い気がする。
秋雲とふたり、手を合わせて料理を頂く。透明な餡でふやけたところと、ぱりっと焼かれたところが絶妙なコントラストとなっていて食感が楽しい。白菜やニンジンも柔らかく食べやすかった。
朝潮なりに、秋雲のために何かしようと考えていたのだろう。そこで思い付いたのが、夜食として出した、この焼きそばだったに違いない。
私も、自分に出来ることはないかと考えている。しかし、なかなかいい方法が思いつかないでいた。昨日はいろいろと苦言を呈したけど、秋雲のために即時行動していた嵐や舞風を素直に羨ましかった。
箸を動かす手は止まらず、平皿はあっという間に綺麗になった。秋雲も、満足そうに頬をほころばせている。
「どう、何か思い出せた?」
時雨が秋雲に尋ねる。
食後のお茶で一息ついていた秋雲が、はっと目を見開いた。
「しまった。美味しすぎて、食べるのに夢中になっちゃった」
朝潮が苦笑いとも照れ笑いとも取れる微妙な表情を浮かべた。
一朝一夕に記憶は戻らない。気長にやるしかなさそうだった。
締め切られた窓の向こうから、雨の音がしみ込んでくる。空の群青は、まだ見えない。
次回は9月23日(土)投稿予定です