明け方に目が覚めてからどうも眠気が戻って来なくて、布団から抜け出して制服に着替えた。雨音だけが入るように窓を少し開ける。ベッドの端に腰掛けて、柔らかい音に耳をゆだねた。
自然と、この後のことに考えを巡らせていた。ひとつの結論をつけるころには、外はすっかり明るくなっており、雨の音に混じって鳥の鳴き声が聞こえた。朝食を食べる気分ではない。それでも習慣を崩すわけにはいかず、私は重い足取りで食堂に向かった。
10時。昨夜の彼女の後を追うように、足は秋雲の部屋まで向かっていた。その間も、頭の中では彼女からどのように話を聞きだすかに専念していた。
部屋の前に着く。いつかと同じように、そこには巻雲が立ち尽くしていた。
私は早足に彼女に近づいた。私を見とめた巻雲が逃げるように踵を返す。しかし、2度も同じようにはいかない。さっと歩みを速めた私は、巻雲の長い袖をつかんだ。巻雲がぎょっとした顔をこちらに向けた。
「どこに行くの?」私は尋ねた。
「どこでもいいじゃないですか。満潮さんには関係ありません」
私の手を振り切ろうと腕を振った。巻雲が腕を振る度に、袖をつかむ私の手も揺さぶられる。シルクのような材質のせいで、危うくすり抜けてしまいそうになった。
必死に私を振り切ろうとする巻雲を見つめた。
「いいえ、関係あるわ。私は秋雲の記憶を取り戻したい。取り戻せる可能性も見つけた。秋雲が記憶を失くした原因も」
私は一息に、その後の言葉を繋いだ。
「秋雲が記憶を失くした原因を、あなたは知っているはずよ。関係ないはずがないわ」
そう言うと、巻雲が困惑の表情を浮かべた。
「原因なんて知りません。巻雲は秋雲のことをよく知っています。でも、だからと言って、秋雲のことをすべて知っている訳ではないです。秋雲が記憶を失くした原因なんて、知りません」
あくまで知らないと言い張るのか。
肌が静電気を浴びたようにピリピリと痛み始める。さっきから線香花火がはじけるような耳鳴りがしつこく響いていた。短く息を吐いて、一歩踏み出す。
「とにかく、早く秋雲のスケッチブックを返して。あんたが持っているんでしょ」
「……知りません」
「とぼけないでよ!」
突然の怒声に、巻雲の目が驚きで見開かれた。
マズイ。頭の中では必死に牙を収めようとしているのに、一度開いた口は閉じようとしなかった。ささくれ立った胸は徐々に鋭さを増していく。
「秋雲が記憶を失くして、それでよく平然と嘘をつけるわね! ちょっとした気の迷いかもしれないけど、ひとのものを持って行くなんてどうかしてる!」
私が一言発するたびに、巻雲の表情は空模様のようにころころと変わる。しかし、今の私にはその移り変わりを気に留める余裕は残っていなかった。
曇った口元がわなわなと震え、瞳が潤んだかと思うと途端に涙をあふれさせた。
「勝手なことを言わないでください! あなたに何がわかるんですか!」
ゆがんだ口から出された声は、巻雲が発したとは思えないほど大きく、耳がジンと痺れるような怒気をはらんでいた。
「あなたに何が、一体何が分かるんですか!? 勝手な想像をして、巻雲を嘘つき呼ばわりしないでください! ずっと仲良くしていた友達が、昨日まで何ともなかった秋雲が、出撃から帰ってきたら巻雲のことを何もかも忘れていたんですよ! それが巻雲のせいだというんですか!」
巻雲の激昂でこころが逆なでされて、理性で自分を止めることが出来なくなっていた。私を止めようとしていた私はすっかり鳴りを潜めてしまった。
それに気づけない私は、ポケットから書類を取り出して巻雲の前に突き出した。それは昨日、妖精から受け取った、秋雲の建造記録だった。
「これを見なさい! 秋雲は建造されたとき、本棚と一緒に生まれてきた。その本棚が、秋雲が『ひとの存在を記憶する』手助けをしていたの。秋雲はスケッチブックに私たちの似顔絵を描いて、それを一緒に生まれた本棚に収めて私たちのことを記憶していた! 誰かが本棚から、私やあんたが描かれたスケッチブックを抜き取ったから、そこに描かれていた私たちのことだけを忘れたの! 現に、忘れられていない艦娘もいるでしょ! その子たちが描かれたスケッチブックは本棚に残ってた!」
「……スケッチ、ブック」
巻雲の顔から急速に怒りが引いて行く。
そう。私はここで止まれば良かったのだ。怒りで熱を持った自分を、それこそあの日の夜風のように冷やして、巻雲の言葉に耳を傾けていればよかった。
そうしていれば、巻雲が嘘をついている訳ではなく、本当に心当たりがないことに気づけたはずだった。
でも、私は止まれなかった。一方的で、無意味な糾弾の言葉が、私の口から銃弾のように放たれていった。
「その『わたしには分からない』みたいな顔はやめて! 昨日、あなたが秋雲のスケッチブックを持っていたのを見た! あなたがスケッチブックを盗んだんでしょ!? それをいつまでとぼけたままでいるのよ! 何で盗んだのかは分からないけど、それを本棚に戻せば――」
そこから先の言葉は出なかった。冷静を促していた私がやっと飛び出してきて、牙をむく私を檻の中に閉じ込めた。巻雲の表情が、見たことのないものに豹変していた。
驚愕と悲しみが“ない交ぜ”になったような表情で、見開かれた両目からは涙が絶え間なく零れ落ち、開いた口は息が続かなくなった魚のように動き続けていた。
「ま、ま、巻雲の……っ」
巻雲はその場で崩れ落ちるように床にうずくまって頭を抱えた。あまりの変わり方に、握っていた袖を手放してしまう。
そこからの巻雲は、まさしく歯車がずれた機械そのものだった。
「まき、巻雲のせい――巻雲のせいで?! 秋雲はいらないって言ったのに巻雲が余計な気を回したからっ。恥ずかしがったせいだ、勇気がなかったせいだ、私が弱かったせいだ! ごめん秋雲、ごめんなさいみなさん、助けて夕雲姉さん怖いよ嫌だよ。大好きだったのに巻雲が自分で壊しちゃったんだ、たくさん話したのに一緒に笑ったのに……全部、巻雲が――」
巻雲は身体を覆うように自分の二の腕を掴んで、震える身体を必死に抑えようとしていた。歯の根がかみ合ってないのか、口を動かすたびにカチカチと音を立てている。
――間違えた
震える巻雲を前に、私は必死で次の言葉を探した。しかし、頭は凍りついたように働かない。何か言わないと。早く声を掛けないと、巻雲が壊れてしまう。そうなったら、私にはもうどうすることも出来ない。
はっと我に返ると目を見張った。いつの間にか、巻雲の姿が消えていた。そこでまた私の頭はフリーズする。慌てて辺りを見渡すが、やはり、巻雲はどこにもいなかった。
静寂が耳を突き、重りとなって両肩にのしかかってきた。余りの重さに耐えきれず、私は壁を背にへたり込んだ。
「ダメ……だった」
止められなかった。
感情を抑えられなかった。
考えてみれば、私が巻雲に投げつけた言葉には何の根拠もなかった。私は何をもって、巻雲が秋雲の記憶のことを知っていると思ったのだろう。確かに、スケッチブックは巻雲が持っていた。でも、それを盗んだと断定する要素なんて、思えばどこにもなかった。秋雲がどこかに忘れていて、それを巻雲が拾っていたのかもしれない。
それを、自分の勝手な想像で責めて――。
「何をしているんだ、私は」
薄暗い廊下には、重苦しい空気でくぐもった雨音が響いている。その音に耳を傾けていれば、いつの間にか時間が過ぎていて、何もかも解決しているような気がした。秋雲のことも、巻雲との言い合いも、時間が洗い流してくれる。それでいいではないか。
そう思うと、何かしようと躍起になっていた自分が哀れに思えた。
「あれ、満潮じゃん。何してんの、そんなところで」
呼ばれた方を見る。そこには秋雲がいた。
「元気無さそうだけど、大丈夫?」
大丈夫ではない。心労が激しすぎて、立ち上がるのも億劫だった。
それでも何とか声を振り絞る。
「私のこと、覚えてくれたんだ」
「あー、うん。満潮の言った通りだったね。あの本棚にスケッチブックを入れたら、満潮と、あと朝潮と嵐のことを思い出したよ」
「そう。それならよかったわ」
昨日の夜。夕食の後に、私は工廠から持ってきたスケッチブックを件の本棚に収めた。前に舞風が買ったスケッチブックで、似顔絵を描けば私たちのことを思い出すかもしれないと言って秋雲に描かせたものだ。
ただ、思い出したのは、私たちの似顔絵を描いた日からのことだけ。それ以前のことを思い出すには、巻雲の持つスケッチブックが必要だった。
「あれ、あそこ」
秋雲が窓の外を見て声を上げる。
「あの子どうしたんだろ。傘も差さないで、何処に行くつもりかな」
察しはついた。おそらく巻雲だろう。
巻雲のことを思うと、再び気だるさに襲われた。追いたくない。追う必要はない。どうせ、夜になれば帰ってくる。私も巻雲も、頭に血が上ってしまっていた。今では私の頭も冷水を浴びたように冷えていたし、雨に濡れれば巻雲の頭も冷えるだろう。
帰ってくれば、巻雲は秋雲にスケッチブックを返すはずだ。何となく、そんな気がした。
だから、このまま時間が過ぎるのを待てばいい。そうすれば、秋雲の記憶は戻る。全て丸く解決するじゃないか。
そう思うのに、胸は苦しいままだった。
「あの子のことも、わたしは忘れているのかな」
窓の外を見る秋雲がそんなことを呟いた。その顔は、いつか見たことがある横顔だった。
「このままは嫌だなぁ」
秋雲は湿っぽい声を漏らした。
相変わらず、視線は窓の向こうを見ている。その先に、何があるんだろう。
「忘れたままだったらさ、きっとあの子のことを傷つけ続けることになる。ずっと仲良くしていた友達が、昨日まで何ともなかったのに、いきなり自分のことを何もかも忘れていたらさ。わたしなら、絶対傷つく」
窓の外の雨は降り止もうとはしない。巻雲は今頃、ずぶ濡れになっているだろう。風邪を引けば、次の出撃に支障が出るかもしれないのに。寒くはないだろうか。
「だから、今のままは嫌だな。辛いままでいるのも嫌だし、傷つけたままでいるのも嫌だ」
わたしにはどうすることもできないんだけどね、と秋雲は自虐気味に笑った。
今のままは嫌――か。
「時間が解決することもあるわ。どうにかしようって考えるのは、疲れるだけよ」
「そりゃ疲れるよ。普段やらないようなことをするんだから」
でもね。秋雲はそう前置きした。
「ベタなセリフだけどさ。何もしないでいるより、何かやった方がいいじゃん。それが成功するにしても、失敗するにしても。その方が、後でスカッとするしね」
横顔は笑っていた。私に笑いかけてくれたのか、良いことを言ったと思った自分に酔っているのか。私は少し、ひねくれているらしい。
いい加減、変な座り方をして腰が痛くなっていた。膝を押さえて立ち上がり、お尻を数回はたく。
「秋雲。さっきの女の子、どこに向かったか分かる?」
「へ? んっと、正門から出て行ったけど、その先は分かんない」
「大丈夫、ありがとう」
正門の外にある道はほぼ直線だ。かなり進まないと分かれ道は出てこない。今から追えば、すぐに見つけられるはずだ。
私は秋雲に背を向けて駆け出した。
「あの子を追うんでしょ? わたしも」
「秋雲は待ってて! 私も、秋雲とおんなじだから。巻雲のことは、私が何とかする!」
秋雲は私に何事か言っていたが、構わず寮から外に出た。
雨の中を走り抜ける。結局長靴を買わなかったせいで、靴の中に雨水がしみ込んで仕方なかった。
迷わず鎮守府の正門を出る。このまままっすぐ行けば、巻雲を見つけられる。あとは、私の足が巻雲より速いことを祈るだけだ。
途中で差していた傘を閉じた。雨が顔に当たって鬱陶しいが、風に煽られない分この方が走りやすかった。
私も秋雲と同じだ。
何もしないでいるのは、もう嫌だ。
そう。
嫌だったんだ。
次回は10月14日(土)投稿予定です。