~幕間-夜~
夜の寮内はとても静かでした。
明るいうちは昼間独特の爽快な空気感や、艦娘の姦しい声で退屈しません。そのギャップからでしょうか、余計なものが混じっていない空気で肌がピリピリと痺れます。それはおそらく、静かな雰囲気だけではないでしょう。
わたしは秋雲の部屋の前にやってきました。
ずっと心に決めていたこと。あの日からずいぶん時間が経ってしまったけれど、やっと叶えることができます。
ドアノブを捻り、軽く手前に引いてみます。やっぱり、鍵はかかっていませんでした。不用心だから気を付けてと言ったのに……でも、おかげで部屋に入れます。
部屋のなかは、相変わらず本と紙だらけでした。壁を覆う本棚たちに囲まれて、床に散らばる本の間で、身を埋めるようにして秋雲は眠っています。
わたしは懐中電灯を照らし、本を踏まないように、音をたてないように、目的ものを探しました。秋雲は床には『アレ』を置かない。自分でそう言っていました。ということは、目的のものは本棚か机の上にあるということにです。机の上には画材しか置かれていませんでした。残るは本棚です。似たようなものばかりだったので、一冊一冊開きながら探します。これは時間がかかるかな、と思いましたが、案外早く見つけることができました。
入り口の反対側にある本棚。そこに収められていた、一冊のスケッチブックを手に取りました。1ページ目には、遠い昔の自分が描かれていました。あの頃より、秋雲は絵が上手になったのでしょうか。他のページを開きたい心を抑えます。たとえ似顔絵だとしても、それはその人の個人情報です。
ずっと眺めていたいけど、いつ秋雲が起きてくるか知れません。私はやるべきことを思い出して、スカートのポケットに手を入れます。
「あれ」
ポケットにあるはずの感触がありません。すぐに思い至ります。準備だけして、部屋に置いて来てしまったのです。
わたしはスケッチブックを持って、早足であてがわれた仮の私室に向かいます。
やっぱり。ベッドの上に置いたままになっていました。わたしは“それ”をスケッチブックに挟んで、再び秋雲の部屋に戻ります。
しかし、曲がり角を曲がったところで秋雲の部屋の扉が開かれました。慌てて身を隠します。
「あー、閉めるの忘れてたね。危なかった」
そして扉が閉められて……なんということでしょう、鍵か掛けられてしまいました。
わたしはそっと角から出て、扉の前に立ちます。どうしましょう、これではスケッチブックを元に戻すことが出来ません。明日は次の潜水艦掃討に出撃します。夜遅くまで帰れないです。困ったことになりました。
しばらく悩んだ結果、わたしはしぶしぶ、スケッチブックを抱えて自室に戻りました。泥棒のようになってしまいましたが、明日、秋雲が部屋にいない時間を見て戻しに来ましょう。
ベッドの縁に腰掛けると、クッションのような柔らかさでお尻が沈み込みます。遠雷の、低い唸るような音が聞こえました。明日の午前は曇りで、午後からは確実に雨が降る予報だったはずです。出撃の帰還途中に雨に降られるのは、ほぼ間違いないでしょう。
膝の上に置いた、表紙の色あせたスケッチブックに開きます。1ページ目にはあの日の「わたし」がいます。この「わたし」が描かれた日が瞼の裏に浮かんで、何だか懐かしくなりました。
――喜んでくれるかな。喜んでくれるといいな。
小さな勇気が無駄にならないことを祈って、わたしはスケッチブックを閉じました。
~幕間-終~
小さな雫は数をなして、暗い空から落ちてくる。鎮守府を出たときに比べて雨脚が激しくなり、槍のように地表を突いた。
平坦だった道は勾配を持ち始め、ついに急な上り坂になった。濡れた地面はぬかるんでいて、下手をすれば滑りこけてしまいそうだった。それでも足を止めず、短く息を吐きながら坂を上った。
巻雲の方が私より艦娘としてのキャリアがある。もしかすると、航行スピードだけでなく、走る速さも私よりあるのではと思った。勢い込んで鎮守府を出たのはいいが、追いつけなければ元も子もない。雨水に混じって、じわりと嫌な汗が浮かんだ。
坂道を上り切ると、途端に景色が開けた。灰色の空の下に広がる水田には、アメンボが通った後のようにあちこちで波紋を生んでいた。
その水田に左右を挟まれた道を走る。薄桃色の少女を見つけた。坂道を一気に下る。先の不安は杞憂に終わり、あっという間に巻雲に追いついた。一息に踏み込む。私は懸命に腕を伸ばし、巻雲の腕より長い袖を再び捕まえた。
勢いが殺された巻雲は前につんのめるように静止する。すぐに走り出そうとして、袖をつかむ私から逃れるために、必死で腕を振り回した。
「放して! 放してぇ!」
ダダをこねるように私の手から逃れようとする。
雨のせいでお互いの服はずぶ濡れだ。でも、そのおかげで巻雲の袖が掴みやすかった。私が手を放さない限り、巻雲が離れていくことはない。
その間も、雨は容赦なく振り続ける。疲れることを知らない雨粒は容赦がない。濡れた服の上からバチバチと肌を叩いた。
私の手から必死に逃れ続けようとしていた巻雲だが、観念したのか、力なくその場にへたり込んだ。
「どうして、どうして放してくれないんですか」
非難しているようにも聞こえる言葉。
私は、もう間違えないと心に決めた。今、自分がいったいどういう状況に置かれていて、どうしてこんなことをしているのか。それは、巻雲の様子が急激に変わった、あの寮内ではっきりした。
「巻雲……」
私は慎重に言葉を選ぶ。相手と同じように、感情的になってはいけない。
一度、ゆっくりと深呼吸した。
「さっきは、ごめん……私、どうかしてた。巻雲が盗んだって確証はどこにもない。秋雲のことをどう思っているのかも、2人の間にどんな過去があるのかも。私は知らない」
握っていた袖を放す。巻雲は、もう、逃げたりしないだろう。
「でも、巻雲は何か知っているはずよ。それを教えてほしい。教えてくれないと、何も進展しないままで終わっちゃう。そんなの……私は嫌なの」
言葉を一つひとつ、自分の中で確認しながら口に出す。その分、今までよりずっと話すのが遅かったように思う。
じれったい気持ちが私を追い越していきそうになるのを必死で止めて、銃弾の一言が放たれないように檻に閉じ込めた。
「話しづらいかもしれない、言い出しにくいかもしれない。でも、今の秋雲を助けるためには、巻雲の力が必要なのよ」
これ以上は、もう何も言えない。今の私では、これが精いっぱいだ。
私が黙り込むと、絶え間なく降り続ける雨の音が耳を突いた。ノイズのような雨音の中で、私は座り込む巻雲の背中を見つめていた。
巻雲は何も言わない。もしかして、私はまた間違えたのだろうか。ここでもまた、巻雲を傷つけ、ただ見つめるしかできなかったのだろうか。
「巻雲の力が必要、ですか」
彼女の声はどこか自嘲めいていた。
「巻雲は、秋雲に、とんでもないことをしてしまったんです。こんな巻雲に、いったいどんな力があるというのですか。秋雲と顔を合わせたくない、合わせる顔がない。何も覚えていない秋雲に、巻雲の感謝も、謝罪も、伝わることはないんです」
そんなことはない、とは言えなかった。同じ過ちは繰り返さない。相手の心が分からないのに、軽はずみに言葉を出すわけにはいかなかった。
巻雲は遠く空を見上げる。その眼には、薄灰色の空も、涙のような雫も映っていなかった。
「秋雲のスケッチブックは、私が盗んだんです」
次回は10月21日(土)投稿予定です。