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引き戸を開けた先は広い浴室だった。石造りのタイルはきれいに磨かれていて、目地にも汚れ一つ見当たらない。明か前後左右はヒノキの壁で囲まれていて、まさに温泉のようだ。今は数人しか湯につかっていないが、木製の浴槽は一度に20人は易々と入れそうな大きさだった。
鎮守府では『ドック』と呼ばれている場所だ。深海棲艦と戦えば、少なからず負傷する艦娘が出てくる。傷ついた艦娘がドックの湯に身体を浸けると、傷口が自然治癒する。傷ついていないものも、ドックをただのお風呂として使用していた。
シャワーで身体の汗を流して湯船へ向かう。足先で温度を確認してから身体を浸けた。首まで沈むと、自然に深い息が漏れ出た。張りつめていた気持ちが解けていく。
「疲れた?」
浴槽の縁に座って、足だけ浸けた朝潮が話しかけてきた。
「そうね。転校生はきっと、あんな気持ちになるんでしょうね」
「新しい仲間が来て、みんな嬉しかったんだよ」
くすくすと朝潮は笑った。笑い声が浴室を反響して聞こえてくる。
提督(とは思えないほどの変態だった)への挨拶を終えて部屋を後にした私を待ち受けていたのは、新人歓迎会という名のパーティーだった。朝潮たちに連れられるまま訪れた食堂に入ると、無数のクラッカー音で迎えられた。破裂音に驚いて呆然としている間に、私は駆逐艦娘に囲まれてしまった。
「いらっしゃい。これからよろしくね」
「あなたは何型の駆逐艦かな」
「分かった、満潮だね。艦娘としてだけど、また会えたね」
飛び交う挨拶や質問、彼女たちの中には私に抱きついてくる子もいた。その温かさに思わず涙してしまったのは、思い出すだけで恥ずかしくなる。涙で見えなかったが、みんなは困った顔をしていたに違いない。泣き止むまで背中を撫でてくれた誰かの手も温かかった。
私が泣き止んでから、手ごろな席へ案内された。私も、周りにいる艦娘の名前がなんとなくわかったので、昔を懐かしみながら会話を交えた。テーブルに並べられた料理を、止まらないしゃっくりを抑えながら味わう。
日が沈んだ頃にパーティーはお開きになって、私は朝潮に連れられてこのお風呂に来たのだった。
浴槽の縁に腰掛けていた朝潮が全身を湯船に沈めた。
「さて。転校生気分な満潮的に、この鎮守府をどう感じた?」
「どう感じたって言われても」
「何でもいいよ。思ったことを言ってみて」
湯船から上った湯気がうっすらと浴室を曇らせている。浴槽の反対側にいる子たちは会話に花を咲かせていた。
お湯の中で膝を抱えた。
「退屈はしなくて済みそう」
「あはは。素直に『いい場所だった』って言えばいいのに」
何をおっしゃいますやら。これでも十分素直に言えた方だ。
パーティー会場は、常に大らかな笑い声が絶えず響いていた。それに当てられた私も、顔がほてって、頬が緩んでしまっていた。きっと、彼女たちの一人でもかければ、あのような楽しい空間は作れないだろう。この鎮守府の団結力のようなものが見えた気がした。
提督は桃色の花畑にいるようにフワフワしている人だったが、話しづらさは感じなかった。この鎮守府にいる艦娘からも、少なからず信頼はされているだろう。
「私、この鎮守府に着任できて、よかったと思ってる」
ぽつりと、朝潮は言った。
「恥ずかしくて、はっきりと言うことはないんだけど」
「私には話してくれるのね。新人だから?」
「どうしてかな。お湯のせいでのぼせちゃったのかも」
朝潮は天井を仰いだ。私もマネして、首だけ上に向ける。天井には梁が組まれているが、湯気で曇ってはっきりとは見えなかった。
「あら~。二人だけで楽しそうに話してる」
私も混ぜて、と朝潮の隣に荒潮がやってきた。私たちと同じ、朝潮型駆逐艦だ。
「満潮、さっきぶりねぇ。泣き止んでくれなかったから、あやすのが大変だったわ」
「その話はしないでっ」
荒潮はいたずらっぽく口元を緩めていた。薄く茶色かかった髪を、タオルで作った帽子の中に収めて湯につかる。「生き返るわ~」などと、おばあちゃんのようなことを口にする。のほほんとした顔が、彼女の穏やかさを表していた。
こうして、姉妹が肩を並べてお湯に入るのはいつ振りだろう。昔はもっと身体が大きくて、それに合わせてドックも広かった。
何となく、自分の今の姿が気になって湯船に目を落としてみる。しかし、乳白色の湯は天井の明かりを反射するだけで自分の身体は見えなかった。どうしたものかと思って、隣にいる朝潮の二の腕を指でつつくことにした。不意に腕を触られた朝潮が「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げる。
「ちょっとどうしたの? びっくりするじゃない!」
朝潮は触られた腕をさすりながら身じろぎした。
構わず今度は肩の端に指を置いて、腕のラインに合わせて指を添わせた。つやつやした肌を指で押すとプニプニと柔らかい。
「もう、どうしたの!」
「いや、本当に人間の身体になってるんだと思って」
私が今度は太ももに手を当てると、朝潮はくすぐったそうな声を上げた。
「そうよぉ。手で触ると温かいし、頬なんてほら。こんなにモチモチしてるんだからぁ」
荒潮が朝潮の首に手をまわして頬ずりする。
次はどこを触ってみようかと思っていると、朝潮は顔を赤らめてお湯から抜け出した。
「もう! 気になるなら自分の身体で確かめなよ!」
そのまま踵を返して脱衣所の方へ行ってしまった。
別に朝潮の後を追うつもりではないけど、このまま湯船の中にいたらのぼせてしまう。
「私もそろそろ上がろうかな」
「じゃあわたしも~」
荒潮と二人で浴室から出ると、朝潮は濡れた髪にドライヤーを当てていた。水気が飛ぶと、元の艶のある髪に戻って行く。
私はタオル掛けにかかったバスタオルを手に取り、さっと水分を拭き取ってから下着を着る。朝潮と入れ替わりで、鏡台前の椅子に座ってドライヤーで髪を乾かす。鏡を見ると、朝潮は着替え終わって、ドック出口前の椅子に腰かけていた。私たちが着替え終わるまで待ってくれるようだ。
ドライヤーを置き、新しい下着と服を着る。少し遅れて、荒潮が着替え終わった。
「朝潮、お待たせ~」
「つーんだ」
「もう、まだ怒ってるのぉ? なんなら私の胸を触ってもいいよ」
「そんなことしません!」
私たちは揃ってドックから出た。春の夜風はまだ少し冷たいが、湯上がりには心地よかった。このまま夜桜を眺めに行けば、情緒ある夜のひとときを過ごすことが出来るだろう。
コツコツという軽い足音が3人分、それぞれのリズムで聞こえてくる。
「ここに大潮が来れば、旧第8駆逐隊勢揃いなのにね」
ぽつりと朝潮が呟いた。
「今遠征に出てるから、帰ってくるのは来週になるんじゃない?」
「帰ってきたら大喜びするわ、きっと」
そう言う二人は嬉しそうに頬を緩めていた。そんな二人の横顔を見ると、なんだかこちらまで嬉しくなってしまう。
朝潮も荒潮も、再び姉妹に会えたことを嬉しく思っている。それは私と話しているときの表情からも、声風からも伝わってきた。
艦娘という、人の身体で生まれ変わった存在だとしても、姉妹と再会できたことはある意味奇跡だ。艦船のころにはできなかったことが出来ている。声音、表情、行動や感情。嬉しいと思うことも、悲しいということも、艦船のころには示し様のなかったものだ。それが出来る今、私は何かするべきことがあるのではないのか。
私はどう思っているのだろう。姉妹と会って、他の艦娘と話して。ただ嬉しいというだけではない。遠い昔、離ればなれになった友人と会ったときのように懐かしく思う。一方で、つい昨日も一緒に肩を並べていたような親しさも感じていた。
このまままっすぐ歩けば、船着き場に突き当たる。その先は海だ。空と海の境界は夜の闇で混ざり合っている。それでも、あの向こうには水平線があるはずだ。
「私は」
視線を二人から外し、遠く、今は見えない水平線を見据える。
「みんなのことが、大好きよ。今も、昔も」
沈黙。コツコツと歩く音だけが耳に入ってくる。
気になって隣を見ると、朝潮と荒潮がきょとんとした顔でこちらを見ていた。しかし、すぐにニヤニヤとした笑顔を顔に張り付けた。
「あらぁ。恥ずかしいことを言うのねぇ」
「可愛いじゃない」
さっきの仕返しとばかりに、「このこの」と朝潮は私の頬をつつき始めた。楽しいのだろう、一向に止める気配がない。
「ほっといて」
私は急に恥ずかしくなってそっぽを向いた。森の中の葦や深い峡谷に叫ぶわけではないが、誰にともなく言えば平気でいられると思ったのだ。全くそんなことはなく、さっきから顔が火照って仕方なかった。
のぼせた。そう、湯につかりすぎてのぼせてしまった。きっとそうだ。このまま夜風に当たり続ければ自然と熱さが抜けていくに違いない。
夜空に月は無く、雲の影一つ見当たらない。そこかしこに散らばる星々は、悠々と輝きを放っていた。