(あぁ、落ち着いて座れるって、素晴らしい)
温かい日差しの下、芝生に腰を下ろした私はそう思った。芝生は夏のころほど鮮やかな緑色ではなかったが、柔らかさまで褪せてはいなかった。
秋真っ盛りで、近くの並木通りの木々は赤く色づいている。紅葉のトンネルの下では子どもたちがはしゃいでいて、彼らに細く輝く木漏れ日が降り注いでいた。ほのぼのとした風景を見ながら座っていると、どこか老成したおばあちゃんになったようだ
青空を雲が漂っている。一際大きなものを見ると、右端がくの字に切れ目が入っていて、クジラが口を開けたような形をしていた。
手を伸ばせば届きそうだ。私は芝生についた手を上げてクジラのお腹に当ててみた。
何もない手のひらを秋の風がかすめて行く。
ここに来るまでには一悶着あったが、もうどうでも良くなってしまった。風の冷たさのおかげで冷静になったのかもしれない。自然と深い息が漏れる。
そんな、ちょっとアウェーな私の額に、温かいものが押し当てられた。
「何してんの? まだ怒ってる?」
栗色の髪の毛に明るい橙色のカチューシャをしたその子は、腰に手を当てて私を見下ろした。
「怒ってないように見える?」
「だからごめんってば。まさかそんなに出撃したかったとは思わなかったんだって」
とりあえずこれ、と紅茶の缶を渡してきた。無言で受け取ると、彼女、白露は私の隣に腰掛けた。
白露型駆逐艦の1番艦である彼女は、2番艦の時雨とは正反対の印象だった。
いつだったか、時雨自身も白露のことを「自分とは違う積極的なひと」と言っていた気がする。確かにそうなのだろう。見た目通りの明るくはっきりした話し口で、近寄りづらさを感じさせない女の子だった。
しかし、積極的だからと言って、すべてが許される訳ではない。
今日、私は朝潮たちと共に出撃するという指令を受けていて、朝潮たちと出撃できることに、ひそかに胸を躍らせていた。ところが、曙とにらみ合いながら食堂を出ようとしたところで、この白露に捕まった。
食堂に入ってきた彼女の姿は、革の手袋に黒いフルフェイスのヘルメットという、白露型の制服が無ければ不審者と間違われてもおかしくない様相をしていた。
白露は誰かを探していて、その誰かというのが私だった。
左右を見回して私を見つけると、彼女は私に近づき手を握ってきた。
「時雨ー。この子であってる?」
彼女はテーブルに腰掛けている時雨を呼んだ。声につられて時雨の方を見ると、何やら手をひらひらさせていた。
それを見るなり、白露は満足そうに頷くと、
「じゃあ、ちょっと行こうか!」
そのまま私を外に連れ出し、バイクの後部席に乗せ、私の文句も聞かずに走り出してしまった。
そして今に至る。海のように透き通った空と、そこを悠々と流れる雲を眺めながら、私はまたため息をついた。
「幸せが逃げていくよ」
「もうとっくに逃げちゃってるわよ」
あんたのせいでね。プルタブを開け、缶の中身をちびちびと飲む。ほろ甘い紅茶がお腹と心に染みわたる。
並木道の方からは、絶えず子供たちの楽しげな声が聞こえていた。並木道の端には落ち葉の山がいくつも作られていたが、旺盛な男の子たちによって片っ端から崩されていた。
今頃、朝潮たちは海の上を進んでいるんだろうな。時折鎮守府に無線を飛ばしながら、目的の海域まで舵を取る。その中にいるはずだったのに。
隣りでは白露が子どもたちを眺めながら缶コーヒーを飲んでいる。一体、何を考えているのやら。出撃前の艦娘を連れだして、こうして横に並んでのんびりお茶会をしたかったのだろうか。だとすれば、この子はかなり空気が読めない。できればお近づきになりたくなかった。
そんなことを思っていると、白露は缶から口を放して、
「秋雲の件」
「え?」
「ほら、秋雲がおかしくなっちゃったでしょ。巻雲とも揉めちゃったみたいだけど、満潮が何とかしてくれたんだってね」
半年前のことだ。秋雲の記憶が無くなって、鎮守府内が慌ただしくなったことがあった。その原因が自分のせいだと知った巻雲と言い合いになったが、秋雲の記憶も戻り、巻雲との関係を壊すようなこともなく事件は終わった。
「別に、大したことはしてないわ。それに、私だけじゃないわよ。朝潮も舞風もいたし」
「でも、最後に全部を丸く収めたのは満潮でしょ。謙遜しなくていいって、時雨から全部聞いてるんだから」
白露はコーヒーを一口飲んだ。
「本当はね、あたしが何とかしようと思ってたんだ。時雨から秋雲のことで連絡があって、急いで鎮守府に帰ろうとしてた。で、あともう少しで鎮守府ってところで、解決したって連絡が来てさ。びっくりしたよ、解決したのが新人だって聞いて」
そう言えば、時雨が「こういう事態で頼りになる姉がいる」と言っていた。
「てことは、私はあんたの仕事を取っちゃったわけだ」
私は皮肉げに言った。
「いやいや。お悩み解決役、みたいに仕事として割り振られてる訳じゃないから。誰が解決したっていいんだよ。出撃の編成とは違うんだよ」
少し強い風が吹く。風は色づいた葉を攫い、宙で踊らせた。
☆
「すいませーん」と声が聞こえた。声の方を向くと、私の方にサッカーボールが転がって来ていた。その向こうで、男の子が手を振っている。
私はボールを拾い、投げ返した。男の子は丁寧にお辞儀をして、彼の友達であろう集団の中に戻って行った。
あの男の子たちは、私たちのことを知っているのだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
男の子たちだけじゃない。並木道を歩く女性や、ベンチに座る老人。今、私の視界にいる人たちは、私たちのことを知っているのだろうか。
今の平和がどうして成り立っているのか。無条件の平和が保たれるために、誰が心身を削っているのか。どれだけの人が、それを理解しているのだろう。
私はひとり肩をすくめ、首を横に振った。私が考えても仕方がないことだ。
私には、やらなければならないことがある。それは、問題を除去しきるまで続けなければならない。その結果が目の前に広がる光景に繋がっている。
私は飲み終えた缶を拾い上げ、
「さぁ、さっさと帰りましょう。今から帰れば、朝潮たちに追いつけるかもしれないし」
「あ、今日の出撃は時雨が完全に引き継いでると思うから、帰っても出撃できないよ?」
缶がするりと手から滑り落ちて、カコンと情けない音を立てる。
呆然と白露を見た。
「それと、今日明日と休暇ってことで、提督にも言ってあるから」
「いい迷惑だわ!」
なんなのだ、この白露という女は!
傍若無人。遠慮とか、他者を重んじるということを知らないのか。
私の憤りはどこ吹く風で、白露は缶の中身を飲み干す。
「まぁそんなに怒らないでよ。別に、意味なく休みを取らせたわけじゃないから」
軽い口調はそのままだが、どこか含みのある言い方だ。
モヤモヤとしたものが胸の内に沸いているが、その言い方に勢いが削られてしまう。
「じゃあ、どういう意味があるわけ?」
白露ははぐらかすように笑い、私に背を向け、バイクの方へ歩き出した。
少し遅れて、私は白露の後を追った。ヘルメットを手渡される。
並木道の公園が後ろへ遠ざかって行く。バイクに揺られていると、ヘルメットに内蔵された無線から白露の声が聞こえてきた。
「満潮はさ、艦娘って何だと思ってる?」
「なによ、藪から棒に」
「良いから、ほら」
そうは言われても、今まで特に意識しなかったことを聞かれると答えに窮してしまう。
少し考えてみる。その間、白露が声を挟むことはなかった。
しかし、答えらしい答えが見つからない。かといって、答えないわけにはいかないので、
「艦娘は艦娘よ。それ以上でも、それ以下のものでもないわ」
「天邪鬼な答えだ」
口を突いて出た答えだったが、そう言われると少しむっとしてしまう。後ろから小突こうと思ったが、事故でもされてはたまらないと思って手をひっこめた。
私の心を知ってか知らずか、白露は口調を変えずに言った。
「まぁ、あたしもそう思ってるんだけどね。艦娘は艦娘だよ」
なんだそれは。胸がまたざわつく。
さっきから、彼女の言いたいことが分からない。
白露の声が、小さなノイズ混じりに聞こえてくる。
「色んな人が議論してるけどさ。ヒトと同種だとか、兵器の生まれ代わりとか、正直あたしにはどうでもいいことなんだよね」
まぁ、それには同意できる。
朝潮からも聞いていた。艦娘についてはいろんな憶測が飛び交っている。
その意見に一喜一憂している艦娘もいるそうだが、少なくとも私は――私と白露は、そのことについて特に思うことは何もない。
途中、高速道路から降りて国道を走り、道沿いにあったコンビニで一休み。
道はどんどん都会から離れていく。
すると、視界の端にススキの群れが流れ始めた。左右を切り、流れる景色には自然が増えていく。風に乗って、仄かな土の香りが感じられた。
「見てほしいものがあるんだ」
無線越しに、白露はそう言った。
次回は1/27(土)投稿予定です。
確定ではないのですが、2/3(土)にお話を投稿する予定でしたが、お休みするかもしれません。
1/27(土)のお話の後書きにて、またお知らせします。