着任してから1か月が過ぎ、桜はとうに散ってしまった。ときおり夏の近づきを感じさせるように気温が高くなることもあるが、風はまだ春のものだった。
午前中は鹿島との艤装航行練習で、早く練習から実戦に移りたいと思いながら水上を滑る。しかし文句を言ってはいけない。ここだけの話、以前鹿島に「早く戦闘に出たい」とその旨を伝えたところ、
「そうですね。練習不足で死人を出して、鹿島を首にでもしたいんでしょうか」
笑顔の向こうに般若が見えて、それ以来大人しく練習に専念することにした。実戦に出る時期はまだ先の話になってしまうが、ものは考えようだ。爪を研ぐ期間が長ければ、それだけ敵に深くかみつくことが出来るはずだ。研ぎすぎて逆に脆くならないようにだけ気を付けておこう。
午後に練習が終わって海から上がると、鹿島が歩み寄って声を掛けてきた。
「満潮さん。お昼ごはんを食べたら、提督室に向かってください」
何かあるのかと鹿島の目を見るが、それだけ言って鹿島は鎮守府庁舎の方へ行ってしまった。
昼食を取ってから、鹿島に言われた通りに提督室へ向かった。執務机の上には、相変わらず大量の書類で山が出来ていた。
「やぁ、いらっしゃい」
司令官は手に持ったマグカップを置いた。朝潮のマネをするわけではないが、わたしは彼のことを「提督」ではなく、「司令官」と呼んでいる。その方が呼びやすいのだ。
執務机の上には、相変わらず大量の書類で山が作られていた。
敬礼した手を下して尋ねる。
「何かご用ですか?」
「うん、僕とケッコンしてくれないかなって」
「失礼しました」
踵を返して執務室の扉に手を掛ける。出て行こうとしたところで提督に肩を掴まれた。
「待って、ちょっと待って。冗談だって」
「冗談が下手ですね」
再び執務机の前に立った。用があるなら早く終わらせてほしかった。司令官に対する心象は正直あまりよろしくない。初めて出会ったときの出来事は、悪い意味で忘れられなかった。
そんな心を知ってか知らずか、椅子に座り直した司令官はマグカップに口をつけてから要件を話した。
「今日から、僕の秘書艦をしてもらうことになったから」
「秘書艦、ですか」
「知らない?」
「いえ、知っています」
司令官はほぼ毎日、深海棲艦の種類や出現位置を予想し、出撃する艦娘の選定・編成していた。過去の出撃記録や撃墜した敵の種類などから、ある程度の敵の予測ができる。統計学がなんたらとか、ポアゾン分布がどうのとか、私にはさっぱり分からなかった。そして予測した敵に見合った艦娘を選んで、艦隊を編成するのだ。
それだけでも十分重労働だ。それに加えて、大本営から送られてくる書類の山にも対応している。艦娘の体調を気にかけたり、艦娘の装備を出撃ごとに確認したり……やらなければいけないことを挙げていてはキリがなかった。
それらすべてを司令官一人の身体でやり切るのはほぼ不可能だ。最初のうちはやり切ることができても、いつかは限界がおとずれ体調を崩し、ひいては鎮守府運営に影響が出かねない。
そんな司令官の補佐として仕事をこなす艦娘が秘書艦だった。秘書艦は他の艦娘に一日の業務を報せたり、工廠に装備の開発や調整の指示をしたり、机に張り付いて動けない司令官の補助をする。作戦立案などの重要なものは司令官自身が指揮するが、それ以外の、彼が自ら指示を出さなくてもいいような仕事を任されている。雑用係のように見えるが、決して簡単な役目ではなかった。
そのため、基本的に秘書艦を任されるのは鎮守府に長く居る艦娘、自然と練度の高い艦娘になる。この鎮守府では大和さんが秘書艦をやっていたはずだ。私より彼女の方が明らかに練度は高いし、鎮守府の事情にも詳しい。私はまだ鎮守府に着任して1ヵ月しか経っておらず、他の艦娘と比べて練度もそこまで高いとは思えなかった。
なぜ私なのか、司令官の考えを尋ねるように聞いてみると、
「別に、練度の高い艦娘が秘書艦をしなければいけない義務はないよ。昨日今日来たばかりの子にやってもらっても構わないし、それこそ他所の鎮守府から引っこ抜いてきた子でもいいんだ」
それに、と続けて、
「満潮に秘書艦をやってもらうのは1週間だけ。その後は響にやってもらうつもりだ。新しく来た艦娘に、秘書艦がどんなことをしているか体験させようと思ってね。気負う必要はない」
最後の一言は私を安心させるために言ったのだろう。鎮守府の生活に慣れたとはいえ、いきなり秘書艦をやれと言われれば、誰でもたじろいでしまうはずだ。
おかしなひとだが、仕事はきちんとすると知っている。ひとつの部屋の中で長時間2人きりになることはないだろうし、仕事をしていれば襲われることもない……と思う。
「どうかな、やってみない?」
再度聞かれ、考える。司令官に対しては少し警戒しておく必要があるかもしれないが、全くやりたくない仕事でもなかった。
「分かりました。お引き受けします」
もし襲われそうになったら、朝潮か大和さんを呼ぼう。提督室にいても遠くへ危険を知らせられる何かを作っておいてもらおうかな。警報器みたいな。
私の返答に、司令官は満足そうに頷く。カップの中身を飲み切る。
「実はね。秘書艦の仕事を頼むと、みんな最初は決まって『嫌だ』って言うんだ。どうしてか分かるかい?」
「司令官のことを警戒しているんじゃないですか?」
遠まわしに、自分も警戒しているぞという意志も込めた。「違いない」とケラケラと笑った。しかしすぐに笑顔をひっこめて、
「でも、それだけじゃない。みんなは秘書艦の仕事が大変で、忙しいということをなんとなく知っている。大和や、ときどき漣の姿を見ているからね。秘書艦の仕事は、実際面倒くさいだろう」
そう言うと、司令官はかなしそうな表情を浮かべた。なぜそんな顔をするのか聞こうとしたが、口を開く前に彼の言葉でさえぎられる。
「僕はね、それがどんなものかも知らないで、勝手に想像して毛嫌いするのがあまり好きじゃないんだ。食べ物でも、仕事でも、人間でも。知りもしないで遠くへ押しやるようなことはね」
司令官が口を閉じると、室内はしんとした静けさが訪れた。時計の針が進む音の向こうに、艦娘の楽しそうな笑い声が聞こえる。気づくと、いつもまにか司令官は軽い笑みがを浮かべていた。そして執務机に片肘をついて、前のめりに身を乗り出す。黙ったまま、私に手を差し伸べてきた。
司令官に対する印象はあまりよろしくない。女の子の身体を躊躇なく触るし、そこが胸だろうとお尻だろうと飛び込むような変態だ。こんな人間が私たちの指揮官だなんて、と彼の顔を見るたびに思っていた。差し出される手を見る。執務机を少しはみ出すくらいに広げられた手のひらは、私より大きく、あまり日に焼けていない。指先が少し黒ずんでいるのは、私が来るまで書類を書いていたからだろう。
この手を取れば、今日から1週間、私は秘書艦として司令官の側で仕事をすることになる。
彼については、最初の印象を変えるつもりはない。油断すれば、いつ自分の胸とお尻が危険にさらされるか分からない。胸の大きさが関係ないことは、曙の一件で証明されていた。ただ――
私は差し出される手を取った。見た目どおり私の手より大きく、思ったより柔らかく、温かさのある手だった。この手が私たち艦娘を指揮し、私たちの命を預かっている人間の手なのだ。
その日から、私は秘書艦の任に就くことになった。