前方よりドタドタと足音を立てて迫る三体の『コボルト』。それらを迎え撃つ少年は一度すぅと深呼吸をすると、その目を鋭く光らせ得物であるナイフを構えた。少年は襲い来る爪を寸前で躱し、握られたナイフが素早く振るわれる。ナイフが瞬いた回数は合計で三回、それと同じ数の斬撃がコボルトの腹、胸、喉に叩き込まれた。
『ガァ……!』
『グルルルル!』
『グガァ!』
崩れ落ちるコボルトの陰から後続のコボルトが飛び出す。二体同時の強襲、しかし少年は焦ることなくナイフを逆手に構え直すと、真っ先に飛び掛かってきた一体の鼻っ面を蹴り、もう一体の腕へナイフを突き刺した。少年はそれを引き抜くことなく手を離すと帯びていたショートソードを抜刀、怯んだコボルトを袈裟斬りで斬り捨てる。深々と肉を抉った刀身は胸の魔石を確かに捉えていた。
コボルトが灰に還ったことで抜けたナイフを拾い上げ、少年は先程蹴り飛ばしたコボルトを一瞥する。そして地を蹴り、一閃。鉛色の刃が喉笛を斬り裂き、確実にコボルトの息の根を止めた。滴る血を払い剣を納刀した少年は、やがて大きく息を吐いて脱力した。
「ふぅ……コボルト相手にもだいぶ慣れたなぁ」
倒れた死体から魔石を回収し、少年ベル・クラネルはゆっくりと立ち上がる──直後、上から聞こえたピキピキという音に彼は反応し、ナイフを鞘から抜きながら後ろに跳んだ。そして落ちてくる蜥蜴のモンスター、『ダンジョン・リザード』。ダンジョンの壁や天井に張り付き、冒険者を奇襲することで知られるモンスターだ。
しかし奇襲が失敗したとなればその脅威は半減したも同然である。結局、ダンジョン・リザードはベルのスピードに翻弄され、その目を潰されてから首を断たれて絶命した。別れた首には目もくれず、ベルは慣れた手つきで体から魔石を取り出す。
「……よし、もう4階層も大丈夫かな」
魔石を巾着にしまいつつベルはぼんやりとそんなことを呟く。そうして歩き出した彼の先にあるのは緩やかな階段、すなわちダンジョンの5階層へ至る道である。
「『ウォーシャドウ』は6階層から、『キラーアント』は7階層からだから5階層は問題ない……筈」
エイナとの『勉強会』で培った知識を改めて思い出すと、ベルは真剣な面持ちで5階層へと続く階段を降りていった。
少年ベル・クラネル。
彼が冒険者となって、今日で半月が経過する。
▽△▽△
おかしい。
5階層に降りて探索を始めたベルが抱いたのはそんな違和感だった。目の前に広がるトンネルのような通路、薄暗く嫌でも警戒心を抱かせるそこからは、モンスターの気配が微塵もしない。
本来現れる筈のモンスターが現れない。
そんな明らかな異常にベルの頬を冷や汗が伝った。
「……戻った方がいいのかな」
忙しく辺りを見回しながらベルはより警戒を強める。まるで
そうして進むこと数分──ベルの前に
その大きさはおよそ数
ベルはこのモンスターの正体を知っていた。故に動きを止め、目を疑ったのだ。
『ブモォオオオオオオオオ!!』
「っ!」
轟き渡る『
彼が動けた理由は単純明快、先のモンスターよりも遥かに強い男を知っているからだ。しかし体が動いても頭がついていかないのか、訳が分からないと言わんばかりの形相でベルは走り、叫ぶ。
「な……なんで!? なんでこんなところに『ミノタウロス』がぁ!?」
『ォオオオオオオオオオ!!』
後ろから響く足音と唸り声にベルは顔を青くする。しかし足は止めない。止まれば待っているのは無慈悲な死で、生きるためには走り続けるしかないのだ。
ミノタウロスのレベルは2。Lv.1のベルには文字通りレベルが違う相手である。真っ正面から戦って勝つことはまず不可能、ならば残された道は逃走の一択だ。幸いにもミノタウロスは足の速いモンスターではなく、ベルの『敏捷』でも追い付かれない程度には逃げることが出来ていた。
「はぁ……はぁ……! でも、このままじゃ……!」
しかし無限に等しい体力を持つミノタウロスに対し、ベルのスタミナは有限だ。逃げ回るだけならばいずれ捕まってしまう。ベルもそれは分かっているのか、走りながらも必死に目を動かして他の冒険者の影を探す。押し付けるのではなく、助力を借りるために。
そんな彼を嘲笑うかのように、やがて現れたのは行き止まりというあまりに無情な現実だった。
『フゥー……フゥー……!』
「そんな……」
直面した黄土色の壁。そして後ろには息を荒らげるミノタウロス。絶体絶命の四文字がベルの頭を過った。最早これ以上逃げることは叶わない。
ここでベルに残された選択は二つ。諦めるか、それとも戦うかだ。前者は言わずもがな、後者もまた生き残る選択として見れば絶望的と言えるだろう。
「(僕は……)」
後ろで鳴り響く足音が近くなる。それに比例して心臓の拍動も早まった。
死が近付いてきている。
「(それでも、僕は……)」
ベルは振り返り、腰から下げられたショートソードを抜き放つ。鈍く輝く切っ先をミノタウロスへと向け、右腕に左手を添えるように置いた。その手にはナイフが逆手で握られている。
「(倒す必要はない。目を狙って怯ませて──その隙に逃げるしかない)」
目を伏せ、静かにベルは覚悟を決めた。恐怖で体は震え、構えた刃が左右にぶれる。込み上げる弱音に蓋をして、やるしかないのだと自分に言い聞かせる。
例え自分にはどうしようもない相手であっても、最初から諦めるなんて真似は絶対に出来ない。希望を捨てずに、精一杯抗うのだ。
ベルの理想である英雄達ならば、きっとそうするであろうから。
『ォオオオオオオオオオオオオ!』
雄叫びを上げたミノタウロスが右腕を振りかぶる。それを見たベルが真っ先に感じたのは、
「なっ……硬っ!?」
渾身の力で振り抜いたにも関わらず、薄皮の一枚も満足に斬れなかったことに、ベルはぎょっと目を見開いた。恐ろしい程強靭な筋肉だ。脇の下をすり抜けるように離脱したベルは、その手に握られた二本の得物を交互に見比べた。
「(参ったな……。さっきの一撃が駄目なら、この二本じゃあいつに傷はつけられない。それにこっちは一発でも食らえば致命傷だ。これがLv.2のモンスター……)」
なんという理不尽な差なのだろうと、ベルの口から乾いた笑いが溢れる。しかしそんな彼などお構いなしにミノタウロスは何度もベルを襲った。大樹の幹のような豪腕から繰り出される必殺の攻撃、それをベルは鍛えられた動体視力と反射神経で以て紙一重で回避していく。じわじわと削られていく体力と蓄積する疲労に、ベルの額にじわりと汗が滲む。
「(まずい……このままじゃ本当に……!)」
ベルはミノタウロスの腿目掛けてナイフを突き立てる。が、刃は通らず歯が立たない。思うようにいかないことに対するもどかしさだけが募っていく。
「くぅ……畜生っ……!」
状況に進展はなく、ただただ追い詰めれていくだけ。一か八か、やがて痺れを切らしたベルはバックステップで距離を取り、深呼吸をして全神経を研ぎ澄ませる。そして──、
『ブモォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』
「っ!」
地面に叩きつけられた腕を踏み台にして跳んだ。ミノタウロスの表情に初めて動揺が走り、ベルの握り締めたナイフの切っ先が光る。
「ここだぁあああああああああああああああああ!!」
振り下ろされる鈍色に煌めいた刀身、それがミノタウロスの左目に深々と突き刺さった。刹那、ミノタウロスの絶叫がダンジョンに木霊する。
『ゴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
「がっ……!?」
それはミノタウロスにとってはなんてことない、目の前を飛ぶ虫を払うかのように手を振るっただけなのだろう。だが、たったそれだけの行為はベルをあっさりと吹き飛ばし、勢いを伴ったままダンジョンの壁へと叩きつけた。彼の口から血反吐が溢れる。
地を這ったベルは突然のことに混乱していた。何故傷を負わせて優位に立った筈の自分が死にかけているのか? 出血と痛みのせいでろくに働かない頭で考えようとして──直感に任せて体を強引に捻った。瞬間、彼の体が凄まじい衝撃と痛みによって宙を舞う。
「ぁ……が……」
ズザザザと壁にぶつかることなく地面を滑り、ボロ布の切れ端のようになって転がったベル。直撃は躱したものの、ミノタウロスの蹴りを受けた体は至るところが内出血と打撲で赤紫色に腫れ上がり、また装備していたブレストプレートやサポーターは盛大にひしゃげ果てていた。恐らくもう二度と使い物にはならないだろう。骨折した箇所も多く、特に最初の一撃と蹴りを受けた左腕は完全にイカれていた。流れる血で赤く染まり、本来ならば曲がる筈のない向きに曲がっている。
徐々に体の感覚が失われていく状況で、ベルは初めて明確な"死"を理解した。最早ミノタウロスの唸り声すらも遠く、視界もぼやけて何も見えないに等しい。僕はここで死ぬんだろうなと、ベルはどこか他人事のように思った。
「(……嫌だ……死にたくない)」
──だって、僕はまだ何も成し遂げちゃいない
悔しさで胸がいっぱいになり、ベルは涙を流した。熱い雫が頬を伝い、地面に落ちては消えていく。
そんな彼の上を、一陣の風が通り抜けた。
ベルはそれを確かに見た。
黄金色の髪を揺らす一人の少女がミノタウロスを瞬殺する姿を。
自分を虫けらのようにあしらった強大なモンスターが、成す術なくやられている。
その姿はまるで、憧れた物語の英雄達のようで──、
死に瀕していたベルの胸に深く刻み込まれた。
「(──凄い)」
そして少女が振り返り、どこからか知らない青年の声が聞こえ始めたところで、ベルは意識を手放して目を閉じた。
▽△▽△
「ベートさんっ!」
「ちっ、分かってる!」
ミノタウロスを倒して剣を納めたアイズ・ヴァレンシュタインは珍しく声を張り上げ、今しがた追い付いてきた
「良かった……」
「はぁ~……ったく、あと十秒遅れてたら死んでたぞ、このガキ」
切れた息を整えながらアイズとベートは血に汚れたベルの顔を覗き込んだ。
「あぁ? アイズ、そのガキ連れてくのかよ?」
「……ミノタウロスが逃げたのは私達のせいですから」
「身の程も弁えねぇ雑魚に構うんじゃねぇよ。ミノタウロスごときに死にかけるような奴が、この先も生き残れるとは到底思えねぇがな」
ギロリとベートの鋭い目がアイズを捉えた。しかしアイズも譲らず、両者の間には暫し沈黙が流れる。
「……」
「……」
「……」
「……ちっ、勝手にすりゃあいい」
結局、先に折れたのはベートの方だった。彼は最後にアイズに抱えられたベルを一瞥すると、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら来た道を戻っていった。アイズもまたそんな彼の背中を見送ると、散らばったベルの装備を可能な限り回収し始める。そして彼女が大量の灰に埋もれたナイフに手を伸ばした、その時である。
「(このナイフ、ミノタウロスの目に……)」
先程仕留めたモンスターの姿を思い出し、アイズは自分の背中で眠る少年に視線を移す。あの場にはベル以外に冒険者はおらず、必然的にミノタウロスへの傷は彼がやったもので間違いない。
Lv.1と思わしき冒険者がミノタウロスに重傷を負わせた、その事実にアイズは乏しい表情ながら驚きを露にした。彼女がまだ5階層に挑むようなLv.1の時には、そんな真似はきっと出来なかったであろうから。
「……凄いんだね、君は」
ベルに向かってそう呟いたアイズは目の前のナイフに手を伸ばした。
ベル君、ミノタウロスに敗北するの巻。
例えるならデモンズソウルの拡散の尖兵戦、とどのつまり負けイベです。あれは本当に理不尽だったなぁ……(遠い目)