部屋に壁時計の秒針の音がカチ……コチ……と響く。
俺はこの音があまり好きではない。物事を考えこんでいる時にやたら耳に付くあの音は1秒1秒時が経つことを如実にこちらに伝えてくるのだ。それは時計がまるで「何を無駄な時間を過ごしているのだ」と笑っているように聞こえるからである。
いや、もしかしたら俺が月の本当の怖さを今でも覚えているからかもしれない。制限時間以内にタスクをこなさなければならないということを視覚的に聴覚的に伝えてくる時計の針と音はもはやトラウマレベルと言っても過言ではない。
あの町はどこでもやたら時計の音が聞こえてくるからなぁ。
うん、自分でもどうでもいい理由だと思っている。だが、気になるものは気になるものだ。
本来であれば秒針の音が目立たない連続秒針の時計を買うのだが、引っ越しという慌てていた状況、ハンバーグ追求のための節約の結果、適当に安い物をうっかり買ったら通常の秒針の時計だったと言う訳だ。
「うーん……」
「わかったかしら?」
エリカがそんなことを言っているのが聞こえるが、俺は構わず考え続ける。
「とにかく手を動かした方がいいわよ。何気なく書いたメモが正解のために必要な物のことがあるし」
「……」
エリカはそういうが、メモを取るためのとっかかりすら思い浮かばないため手が動かず、頭で考えることしかできない。
そう言いながらも無駄なことに思考を割いているからもはやこの考える時間に意味は無いのかもしれない。
くっそ、時計の秒針がうるさい。あああああああああああああああああああああああああああああああああ月が落ちてくるよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。
「全然わからん」
「もう! なんでわかんないのよ! 水平なx軸のx1の位置に質量m1の物体、x2の位置に質量m2の物体があって、2つの物体の距離は固定されている。そして、xGの位置に重心があり、この位置に上向きの力がはたらいていて、2つの物体の重力とつり合って静止している。だから、xGの回りの力のモーメントは0だから、(m1+m2)g×0 + m1g(xG-x1) - m2g(x2-xG) = 0ってわけ」
「む、むう……そこはわかるよ。公式も覚えてるし、基本的な原理も分かってるけど、問題としてちょっと捻られて出されると途端にわからなくなる」
あと少しで6月になろうかという今日この頃。文化祭という一大イベントが終われば学生の本分である勉強のイベント、中間試験の季節である。
試験一週間前は放課後の部活動などの課外活動や選択授業は原則禁止となる。それは名門黒森峰女学園の戦車道チームも例外ではない。
「アンタ、何が分からないわけ?」
「何が分からないのかが分からない」
「それ、一番どうしようもないやつよ」
と言う訳で、学校が終わってから放課後にエリカとともに我が家でテスト勉強中。俺とエリカは机としての機能のみを果たすこたつに向かい合って座り、問題集、教科書、ノートを広げている。
物理が致命的なまでに理解できない俺は物理が得意科目であるエリカを先生として今回のテスト範囲の部分を教えてもらっているのだ。物理以外は黒高の平均くらい余裕でとれるのに、物理だけは本当にどうしようもない。
「もうセミナーの問題の解答の丸暗記でもしてなさい。今の物理の先生は全部セミナーから問題出すから」
「もうそれしかないか……」
俺はセミナーの解答集に目を移し、問題の解き方を理解することに努めることにした。
エリカも自分の勉強に戻ったようだ。
……
とはいえ、物理は嫌いなのだ。
答えを見ながらだというのにどうしてこうなるのかがいまいちわからず、セミナーを投げ捨てたい気持ちに駆られているが、物に当たるのはよくない。
そんな俺の集中力はもはや風前の灯火。特に意味もなく伸びをしながら首を回すと部屋の片隅に制服と一緒にぶら下げられているメイド服が目に入る。文化祭で使ったメイド服である。これを作った生徒に返そうと思ったのだが、俺のサイズに合わせて作ったものであるため返却を拒否されたのだ。捨てるというのも彼女に悪いし、とりあえず部屋に飾っている。
自分の部屋ながら学生服とメイド服が並んでいるこの情景は言葉にしづらい如何ともしがたい思いを感じる。
「しっかし、文化祭が終わってすぐに中間試験っていうのは、中々酷だよな。そう簡単に切り替えが出来るかっての」
「集中しなさい」
「はい」
怒られてしまった。
まあ、今のは俺が全面的に悪かった。集中しているエリカを巻き込むのはよくないよな。
すると、部屋にインターホンの音が響いた。
「ん? 今はアマゾンに何も頼んでないんだけどな。つーことは、ネットか新聞か宗教か。この時期多いんだよな」
よっこらしょ、と言いながらテーブルから立つ。
モニター付きのインターホンならわざわざ玄関まで行かずに追い返すことが出来るのだが、残念ながら家のインターホンにそんなものは無い。
「どちら様ですか?」
「あなたの両親」
「は?」
数秒固まってから俺は冷静にドアを開けずに覗き穴からドアの向こうを確認する。もしかしたらたちの悪い強盗かもしれない。
すると、確かにそこに居るのは俺のオヤジとオカンであった。
「ど、どうしたのさ突然」
俺は扉を開けてそう言わざるを得なかった。
オヤジは仕事の都合で海外で生活をしている。オカンはそんなオヤジに付いている。なぜ俺が両親と一緒に生活していないのかというと、当時小学生だった俺が海外に行くことを断固拒否したからである。その結果、熊本のばあちゃんのお世話になることにしたのだ。
「チズルが黒森峰に転校してちゃんとやれてるか心配になってな。黒森峰って結構な進学校だろ?」
オヤジが言う。
「ちょうどお父さんがお休み取れたから見に行こうってなったの」
オカンが言う。
「来るなら来るって前もって言ってくれよ」
「お? なんだ? 突然来られたら困るようなものでもあるのか?」
「いや、ないけどさ」
オヤジがニヤニヤしながら言ってくる。困るようなものってなんだよ。エロ本みたいなものか? 未成年の俺にそんなもの買えるわけないだろ。大体、今の時代ネットがあれば……おっと、なんでもない。
「それじゃあ、お邪魔しまーす」
「ああ、うん」
オカンがさっさと家に上がってリビングに向かう。リビングでは勉強しているエリカがいるため、当然遭遇することになる。
「あら、エリカちゃん! 久しぶりね~。5年ぶり位かしら? とっても美人さんになったわね~」
「お、おばさん!? お久しぶりです」
どうやら遭遇したようだ。
「お、なんだ? エリカちゃんが来てるのか。家に連れ込むとは、お前も中々やるな」
「何言ってんだ。来週試験だから一緒に勉強してるだけだぞ」
リビングから聞こえたエリカとオカンの会話を聞いたオヤジがそんなことを言ってくる。こうやってオヤジは昔からエリカとの仲をちゃかしてくるのだ。
「ところで!」
オヤジは俺の方に腕を回して声を潜めた。
「A、B、C。どこまで行ったんだ?」
「え? なんだそれ?」
ABC? 会話の流れからすると男女の仲の何かだと思うんだが、何のことを言ってるのかわからん。何かの頭文字か? A……ア……アベック? どうぶつの森によると友達以上恋人未満くらいの関係をアベックというらしいが、そのことだろうか?
確かにエリカは友達と呼ぶには距離が近いし、恋仲ではない。そういう意味では俺とエリカはアベックと言える……のか? わからん。
じゃあBとCは? っていう話になるわけだが。
「あれ? もしかして意味わかんない? うむむ、今の子は使わないのか……」
何だかよくわからんがオヤジはとりあえず納得してくれたらしい。俺から腕を外してリビングへと向かう。
「あ、そうそう、チズル。どうせハンバーグばっかり食べてるんでしょ? だからはい、挽き肉」
流石我が母だ。ここでハンバーグばっかり食ってる息子に野菜を与えるのではなく挽き肉を与えるオカンが俺は好きやで。
「チズル、黒森峰の制服はどれだ?」
エリカとの挨拶を終えたオヤジが聞いてくる。オカンもそれが気になるのか、俺のことを見てくる。
「そこに掛けてるやつだよ」
「「こ、これは……」」
指さした方向を見る両親。
壁に掛けられている制服とメイド服。
……うん?
「うーむ、やはり郷に入っては郷に従えということか?」
「女子高に転校というのも大変なのね……」
「ちょっ」
そっちじゃねーよ! すぐ横に超カッコイイ制服があるだろ!
「ハッ、さっき言ってた突然来られても困らないということは、チズルはもう完全にこれを受け入れている!?」
「それじゃあご主人様はエリカちゃんかしら?」
「あんなメイド要りませんよ」
あのー、本人そっちのけで話を進めるのやめてもらえませんかねぇ。
ていうか、なんでエリカが主人なんだよ。いや、別に俺がエリカのご主人様になりたいと言う訳ではないが……
「あ、エリカちゃん夜ご飯まだよね? 私が作ってあげるから食べていきなさい」
「ありがとうございます。おばさんの料理はとてもおいしいので」
相も変わらず話を進めていくエリカとオカン。
「俺ならこの辺に……」
息子の性的嗜好を探ろうと寝室のベッドの下を漁っているオヤジ。
はあ……
今日はもう勉強はできなさそうだ。
部屋は騒がしいはずなのに、やたらと時計の音が聞こえる。
笑うなこのヤロー。