「響、何してるの!?」
小日向未来(こひなたみく)は学生寮からリディアン音楽院への通学路で、張り紙の前で立ち尽くしている親友の姿を見付けて頓狂な声を出した。
「もう、何やってるのよ!!」
「未来、これ!!」
高校一年生という肩書きよりもいくらか幼く見える彼女の親友・立花響(たちばなひびき)は、殆どの人がちらりと見ただけで5秒後には頭の片隅からも忘れ去ってしまうであろう捜し猫のチラシを真剣な表情で睨んでいる。
「迷い猫だって!!」
「いや、それは分かるけど……」
幼馴染みのこういう性分を良く知っている未来は「ああまたか」という表情で嘆息すると、鞄から携帯電話を取り出してホーム画面に表示されている時刻を確認した。始業時間までまだ少しあるが、だがあてもなく探せる程に余裕がある訳でもない。
「私、前にこの子見た事あるよ!! 今ならまだこの近くにいるかも……」
「前にっていつ?」
「えっと、学園とその周りを下見に来た時だから……」
「三日も前じゃない!!」
そんなに前では今から探してもダメだと未来は続けようとしたが、響の考えは違っていた。
「そう、三日も前だよ!! 飼い主さんも心配してるし、きっと猫だってお腹ペコペコだよ!!」
未来の目が、少しだけ驚いたように丸くなった。
「じゃ、未来!! 私ちょっと探しに行って来るから、学校は先に……!!」
「ちょっと響!! 今からじゃ……それにいくらなんでも二日続けて遅刻は拙いって……!!」
未来は慌てて親友の服の袖を掴む。
「う……でも……」
こんな調子で困った、どうしたものかと立ち往生している二人であったが、そこに「ワン」と良く響く鳴き声が聞こえてくる。響と未来が同時に振り向くと、そこには小さな子供なら背中に乗せて走れそうなぐらいの大型犬が歩いてきていた。首輪はしておらず近くに飼い主の姿も見えないが、きちんと躾けられているのか無駄吠えもせず唸り声も上げないので凶暴な印象は受けない。……とは言え、これだけ大柄な犬を前にして未来は思わず何歩か後退った。
一方で響の反応は、
「わぁ、ラエラプスじゃない!! 久し振り!!」
気安い様子で近付いていくと、ちょこんとお座りしたラエラプスの前にしゃがみ込んで耳の後ろや首の辺りを撫でてやる。ラエラプスの方も響には慣れているのか、怒った様子も無くされるがままにしていた。
「響……この犬、知ってるの?」
恐る恐るという様子で、未来が近付いてくる。「うん!!」と頷く響。
「二年前、私がライブ会場でノイズの襲撃に巻き込まれた時、助けてくれた人が居て……今でも時々会ったりはしてるんだけど……この子はその人の飼い犬なの。とっても賢いワンちゃんなんだよ!!」
「……お手」
おずおずと、未来が手を差し出す。ラエラプスは間髪入れずひょいと右前足を彼女の手に乗せた。「わあ」と彼女の顔にも笑顔が広がる。
……と、こんな所で偶然に出会った知り合いの犬と旧交を温めていた響であったが、ここで「はっ」と本来の目的を思い出した。
「そうだ!! ラエラプス、あなたこんな猫見なかった? 迷子らしいんだけど……」
壁からひっぺがしたチラシを、ラエラプスの眼前に広げて響が尋ねる。この行動にはさしもの未来も「響ぃ……」と呆れ顔だ。いくら利口でも犬にここまで複雑な言葉が分かる訳もないし、まさか警察犬でもないのに臭いで見付けさせるつもりなのだろうか。
……などという極めて常識的な未来の思考は、しかし次にラエラプスが取った行動によって根底から覆された。
猟犬は眼前に差し出されたチラシに鼻を近付けて二三度くんくんと臭いを嗅ぐと、迷いのない動きで歩き始めた。呆然とその動きを見送っていた響と未来であったが、しかしラエラプスの方が数メートルばかり歩いた所で二人が付いて来ないのを不思議に思ったのか首だけを彼女の方に向けて、「ワン」と一声吼えた。この動きに、顔を見合わせる親友同士。
「未来、これって……」
「付いて来い、って言ってるのかな……」
恐らくは未来の推測が正解であろうが……しかしどうしたものかと響はちょっぴり悩んだが、すぐに「んっ!!」と決心した表情になった。
「ここはラエラプスを信じてみようよ!!」
「う、うん……」
ラエラプスを追って走り出した響と、そんな親友に遅れまいと未来も慌ててその後を駆けていく。
結論から言うと、響のこの直感的な決断は正しかった。二人は知らない事だがラエラプスは”ある一つの例外”を除いては、どんな獲物をも捕らえる事が出来る「天の猟犬」。その獲物の情報たる臭いさえ記憶出来れば、それがどれだけ遠方に身を隠そうとどこまでも追跡する事が出来るのだ。今回のケースでは猫自体の臭いではなく、響の手にしていたチラシに付着していた飼い主の臭いを追跡していた。同じ臭いは、飼われているその猫にも付着している筈だ。
途中、犬しか通れない所を通られて立ち往生しかけた事が何度かあったが、しかし当事者でない者の眼から俯瞰的に見れば、この猟犬は目標である迷い猫の居場所まで、ほぼ一直線に突き進んでいるのが分かっただろう。そうして程なくして、一本の木の前でラエラプスが立ち止まった。響と未来はここへ来て臭いが途切れてしまったのかと不安そうな顔になったが、だがラエラプスには臭いを探しているような”迷い”の素振りが見られない。これは……
「もしかして……」
そう言い掛けた所で二人と一匹の頭の上から「なーう゛」と不安そうな鳴き声が降ってきた。三つの視線がほぼ同時に上がって、枝の上で震えている小さな白い猫を発見した。体のあちこちが汚れてはいるが、毛の模様や首輪の形といった特徴は捜し猫のチラシに載せてあった写真の猫と合致する。木に登ったきり降りられなくなるのは、子猫には良くある事である。
「お手柄だよ、ラエラプス!! ここからは私に任せて!!」
猟犬の頭をポンポンと撫でてやると、響は子猫を助けるべくひょいひょいと木に登っていく。
「ちょっと、響……」
心配して声を上げる未来であるが、しかし響が上手くバランスを取って猫に近付いていくのを見るとほっとした表情になる。ところが……
「あ、あれっ? 私は何もしないよ!?」
慌てた声を上げるのは響である。何と猫は、知らない人間が近付いてきた事で怯えて逃げて、そして知らない人間つまり響が木の幹から枝へという動きで近付いてくる以上必然的に逃げる方向は枝の先端部分に限定されてしまい……
「ああ、もう……」
困った響は猫を追っていくが、先端へと向かえば当然枝の太さは細くなる。
「響ってば……!!」
未来が心配げな声を上げるが、目の前の猫に夢中な親友の耳には聞こえていないようだった。「ほーら、おいで」と文字通り猫撫で声で近付いていく響が、漸く猫を抱っこして捕まえられたと思ったその刹那、遂に恐れていた事態が起きた。
ベキッ!!
響と猫の体重に耐えられずに、枝がヘシ折れてしまったのである。
「きゃっ!!」
あわや地面に激突!! するかに思われたが、落下点に回り込んでいた未来の体がクッションになって、響も猫も無事だった。
「ごめん!! 未来、大丈夫!?」
「もう、いつも後先考えないんだから!!」
下敷きになってしまった未来であるが、困った顔こそすれ怒ってはいないようだった。「やれやれ」とばかりに微笑んでいる。親友のその笑顔を受けて、響も輝くような笑みを見せた。犬であるラエラプスの表情は分からないが……尻尾がパタパタと動いている。
「ホント、ごめんね未来……それと、ありがと!! ラエラプスも」
響はくしゃり、と猟犬の頭を撫でてやる。気持ちよさそうな素振りを見せるラエラプス。そうして彼女はチラシに記載されていた電話番号へと連絡し、飼い主へと猫を引き渡した。愛猫が戻ってきた事でその飼い主は満面の笑みになって、感謝の言葉を何度も二人へと述べて帰っていった。
「この人助けの充実感ったらたまらないよね!!」
「人助けと言うより猫助けじゃない?」
「飼い主さんが喜んでくれたんだからこれも立派な人助けだよ!!」
こんな調子で談笑していた二人であったが、何か忘れているような……? と、思考を巡らせて、そして表情を引き攣らせた。慌てて時間を確認すると……始業時間はもう十数分後に迫っている。
「た、大変!! 遅刻しちゃうよ!!」
「急ごう、響!!」
「う、うん!! それじゃね、ラエラプス!! 律さんによろしく!!」
和やかなムードから一転、泡喰って駆け出していく二人。特に未来の足は元陸上部だけあって速い。響は付いていくのがやっとだった。ラエラプスはそんな二人を見送りつつ、姿が見えなくなった所でこちらもくるりと踵を返し、去っていった。
そんなラエラプスが向かうのは当然、主人である律の元だ。彼女の姿はすぐに見付かった。雑誌片手にオープンカフェでのんびりと寛いでいる。
「ああ、ラエラプス。どこへ行っていたのですか?」
猟犬は尋ねられて「くうん」と喉を鳴らすと、他の客の迷惑にならないようテーブルの下に潜り込むとぺたんと体を丸めて寝そべってしまった。幸い、このカフェはペットの連れ込みOKであったので、店員に咎められる事はなかった。
「ねぇ、ラエラプス。見てくださいよ。翼ちゃんの新曲のCD、今日が発売日ですよ」
退屈そうに首だけ動かして顔を上げるラエラプス。広げられた雑誌のページには、ステージ衣装の翼の写真が大きく掲載されていて、特集記事が組まれていた。
「そう言えば、響ちゃんも翼ちゃんの大ファンでしたっけ……」
ふと呟いた律の声に、ラエラプスの耳がぴくりと動いた。主人が呟いたその人物には、つい先程出会ったばかりだったからだ。
「あの子ももう高校生ですか……一時期はどうなるかと思いましたが、健やかに育ってくれているようで何よりです」
律は携帯電話をチェックすると、最近響から送られてきたメールを読み直す。適度に絵文字やデコメピクチャが使用された年頃の女の子らしい文章からは今の響が毎日をとても楽しんで生きている事が良く伝わって、彼女はふっと微笑を洩らした。
響とはもう二年の付き合いになる。
きっかけは、ライブ会場の惨劇からだ。重傷を負った響を病院に担ぎ込んだのが縁で、彼女の家族がそれをしてくれた人を探して、そして律が見付かった。律は命の恩人という事もあって響の母や祖母からはいたく感謝され、彼女自身からも好感を持たれていた。
律としては彼女が命の恩人となった人間などいくらでも居るし、その中の何人かとは現在でも親交を保っているが……それでも響は、彼女は特別だった。響はあのライブ会場で、奏が護って繋げた命。彼女の歌を燃え尽きる最後まで聞いていた者。彼女の生きた証を、喪われてしまった命を、受け継いでいる者だから。
自分が助けた命を人を助ける為に使った奏が特別だったように、その奏が救った響もまた律の特別だった。
*
*
律は今日はオフなのか、彼女の行動は悠々自適・のんびりという言葉を絵に描いたようなものだった。デパートでショッピングをして、ペット同伴可の店で昼食を摂って、アクセサリーや服を買い漁って。
と、そんな風に過ごしているとあっという間に夕刻となってしまった。
「さて……そろそろ帰りましょうか、ラエラプス……」
両手一杯に紙袋を抱えた律がそう言って家路に就こうとした、その時だった。すぐ傍らのラエラプスが「ぐるる」と唸り声を上げる。
「……!!」
プライベートモードから一転、表情を厳しく引き締める律。この子がこのような唸り声を上げる時は、決まって……
思考をそこまで進めた所で、サイレンの甲高い音が耳をついた。ノイズの警戒警報だ。
「また、ですか……」
訝しむようにそう呟く。
ノイズは国連総会で”災害”と認定されているが、発生率・遭遇頻度という意味に於いても確かに”災害”と形容すべき部分がある。民間の調査会社のリサーチによればノイズの発生率は、東京都心の人口密度や治安状況・経済事情をベースとして考えた場合、そこに暮らす住民が一生涯に通り魔事件に巻き込まれる確率を下回るとされている。
無論、現在でもノイズに関しては不明な点が多い為にこの数字の信憑性には疑問が残る所ではあるが、しかしそれでもある程度の根拠となるデータによって導き出された結論には違いない。防犯グッズを持ち歩くなどして通り魔に警戒する者は大勢居るだろうが、「通り魔に遭いたくないから外に出ない」という者は極少数であろう。多くの人にとってノイズとは交通事故や建物火災のような認識なのだ。
だが実際にはこの近辺では、昨日もノイズが出現した(その時は現場に急行した翼によって早急に討伐されたが)。そして続いて今日も。偶然かも知れないが……これは、何かしらの人為的な意図が介在している可能性も視野に含めるべきかも知れない。
「……まぁ、今はどうでも良いですか」
そう呟いて思考を切ると、律は視界の先にずらりと居並んだ異形の者共を睨む。
「まずは、目の前の問題を片付けてからですね」
エウロペの首飾りが、極彩色の光を発した。
「ノイズの出現パターンを検知!!」
同じ報告が、既にリディアン音楽院地下の二課本部にも届いていた。矢継ぎ早に送られてくる膨大な情報を受け取りつつ弦十郎は、律と同じ思考に至っていた。昨日、そして今日と二日連続のノイズの発生、これは偶然か、それとも必然か……
「だがまぁ、考えるのはこの事態を鎮圧してからか!!」
目の付け所が同じなら至る結論も同じであった。彼が頭を切り換えたその時に司令室のドアが開いて、制服姿の翼が駆け込んでくる。
「状況を教えて下さい!!」
「市街地にノイズが出現、ですが律さんが応戦している模様です!!」
コンソールを叩きながら、朔也が報告した。モニターには大きく「CODE:EUROPE」と表示されている。律が所有する第一号聖遺物にして完全聖遺物「エウロペの首飾り」が発する固有のアウフヴァッヘン波形、つまりエネルギーの波形パターンであり、これらはパターンの照合によって起動状態にある聖遺物の特定も可能であった。
モニターに表示されているノイズを現す光点は、「EUROPE」と表示された光点に近いものから秒単位で減少を続けており、後数分もあれば全てが消滅する勢いである。
『こりゃあ今回は翼の出番は無かったかな』
決して状況を楽観視している訳ではないが、弦十郎の頭にそんな思考が浮かび、それは彼だけではなくこの本部司令室に居る全員が思い浮かべていた事であったのだが……
しかしそれからほんの一分程後に、誰の想像をも超えた事態が起きた。
突如としてモニターに、ノイズのものとも律の「EUROPE」とも違うエネルギー反応を示す、巨大な光点が出現した。
「反応絞り込めました!!」
「ノイズとは異なる、高質量エネルギーを検知!!」
「波形を照合、急いで!!」
突然の事態であったが、しかし流石はこの二課の人員と言うべきか素早く対応して一分と経たぬ内にデータを解析、事態の把握に十分なだけの情報を捻出する。だがモニターに表示されたその文字列は、了子や弦十郎、そして翼の表情を驚愕で塗り潰すに十分なものがあった。
「これは……アウフヴァッヘン波形……?」
最初に驚いたのは了子だった。つまり、誰かが完全聖遺物またはシンフォギアを使ったという事だ。だが誰が、何を? 現状二課に所属する唯一のシンフォギア装者である翼はここに居るし、完全聖遺物所有者である律は戦闘中。では、一体?
そして、二課のコンピューターは登録されたデータと照合して、パターンに合致した一つの聖遺物の名を弾き出す。
「CODE:GUNGNIR」。
「ガングニールだとっ!?」
信じられないという風に、弦十郎が叫ぶ。翼に至っては、声を上げる事さえ出来なかった。
だってあれは、二年前に。
ノイズと戦闘中の律は、よりリアルに状況を把握する事が出来ていた。
近隣のビル屋上に見えるのは、天に向けてどこまでも突き上げる莫大なエネルギーの奔流。彼女はそれに覚えがあった。あの日、あのライブ会場で、奏が最期の歌を歌ったあの時に。その光の色を目が、吹き散らす風を肌が覚えている。彼女の傍のラエラプスが、光の柱に向けて何度も吼えている。
律はそっと愛犬の体を撫でてやって落ち着かせると、ふと呟いた。
「ガングニール……あの日、奏ちゃんと共に喪われた筈のあの聖遺物が……」