『アニキなんか……アニキなんか、大っ嫌いッ!!死んじゃえばいいんだ!!』
最後に見た妹の姿がカズヤの夢の中で流れていた。
「……このタイミングで妹の夢を見るか?普通」
一方的に罵倒した後、脱兎の如く逃げ去っていく妹の後ろ姿を茫然と眺めていた所で目を覚ましたカズヤは天井を見詰めながら自嘲気味に消え入るような声を漏らした。
さてと、今日は忙しくなるぞ。
妹の夢を見た事で感傷的になっていた気持ちを切り替えたカズヤは両脇で眠る愛娘の明日香や涼華、そしてその更に向こうで眠る愛妻の千歳と伊吹を起こさぬように時間を掛けてゆっくりとベッドから抜け出した。
「ご主人様?」
「もう起床なされるのですか?」
「あぁ、今日はカレンとの約束を果たす日だからな。早めに行動して先にやることをやっておかないと時間が無くなってしまう」
朧気な月明かりに照らされた薄暗い部屋の中で闇に紛れて寝ずの番をしていたレイナとライナの2人に問われたカズヤは、まだ暗闇に包まれている窓の外を横目で眺めつつ蚊の鳴くような声で答えた。
「では、お着替えとご準備の方をお手伝いさせて頂きます」
「レイナ。それは有難いんだが、こう暗くては何も見えんだろ?あっちの執務室に予備の服があるから、それを――」
「ご安心下さい、ご主人様。私達はヴァンパイアですから夜目が効きます。どうかお任せを」
「ライナがそう言うなら、お願いしようか」
声を潜めながらも自信ありげに言い切ったライナの言葉に苦笑しつつカズヤは2人に全てを任せる事にした。
「では直ちに準備を致しますので申し訳ありませんが、今しばらくお待ち下さいませ」
カズヤの言葉を皮切りにレイナとライナの2人は種族の強みを最大限に発揮し暗闇の中でテキパキと動き始める。
そして、足音やメイド服の衣擦れの音1つ立てずに無音のままカズヤが着る服や身に付ける装備を準備したばかりか、行動開始からものの5分で全ての準備とカズヤの着替えを済ませてみせた。
「凄いな……2人とも」
「「お褒めに預かり恐悦至極」」
カズヤが漏らした感嘆の声にレイナとライナの姉妹は揃って深々と腰を折った。
2人の有能なメイドのお陰で出掛ける準備が整ったカズヤは最後に妻と我が子が眠るベッドに歩み寄り、別れの挨拶をする。
「行ってきます。ん……んんっ!?」
まず最初にベッドの右端で眠っている千歳の元へ赴いたカズヤは囁くような声で別れを告げ、最後に千歳の額に口付けを落とす。
しかし、額に唇が触れる寸前にそれは起きた。
寝ているはずの千歳の両腕がカズヤの首にシュバッと俊敏な動きで絡み付いたかと思うと、上半身を起こした千歳がカズヤの唇を強引に奪ったのだ。
瞬く間に淫靡な蹂躙劇が開始され、唇を割って侵入した千歳の舌が触手のように暴れまわりカズヤの歯茎や舌を思う存分舐めねぶり堪能する。
そんな思ってもみなかった展開に目を剥いて驚く夫をよそに、情熱的で濃厚な口付けは妻が満足するまで永遠と続いた。
「ん…んんっん……はぁ……いってらっしゃいませ、ご主人様」
「……起こしてしまったか?」
互いの唇が離れ、僅かに距離が出来た所でカズヤは申し訳なさげに千歳に問い掛けた。
「いえ、たった今目覚めたばかりですよ。ご主人様」
「そうか……」
優しい嘘を交えた千歳の答えにカズヤは自然と眉尻を下げた。
「ご主人様、そんな顔をしないで下さい。夫の気持ちを汲み取る事は妻の務めですが、出掛ける夫を見送る事もまた妻の務めなのです」
「ハハッ。ありがとな、千歳。それじゃあ行ってくる」
起こさないようにという気遣いを尊重し無駄にせぬよう、またカズヤが気に病まぬように今の今までわざわざ寝たフリをしていてくれていた千歳にカズヤは礼を言ってから側を離れた。
「……」
「……」
千歳の側から離れベッドの反対側へ回り込んだカズヤは、若干“荒い呼吸”を繰り返しながら眠っている伊吹の寝顔を何をするでもなく少しの間、無言でじっと見詰めていた。
「……」
「……んっ、んん……」
すると眠っているはずの伊吹が焦れたように、何かを急かすように、寝返りを打ち仰向けになった。
「……じゃあ、行ってくる」
あざとくもいじらしい伊吹の姿に、ついついイタズラ心が鎌首をもたげたため、カズヤは言葉だけを伊吹に送り踵を返した。
「……分かっている癖に酷いです。カズヤ様」
「悪い悪い。少しからかいたくなったものだから」
言葉だけで立ち去ろうとしたカズヤの服の裾をすかさず握って足止めを行い、頬を膨らませる伊吹。
そんな子供のような伊吹にカズヤは潜めた笑い声を漏らしつつ謝罪の言葉を口にし、千歳の時と同じように口付けを交わした。
「行ってきます」
「「いってらっしゃいませ」」
そして最後に愛娘達の頭を優しく撫でた後、満足気な笑みを浮かべる2人の妻に見送られながらカズヤはようやく出発したのだった。
かつてはエルザス魔法帝国の副都市であり、帝国における経済・物流の中心地でもあったグローリア。
パラベラム軍の激しい攻撃の果てに陥落し占領された今ではパラベラムの国外における最大の根拠地として栄えていた。
ちなみにカズヤがグローリア陥落から間を置かずに視察を行い、砲爆撃で荒れ果て瓦礫の山と化していた港や市街地を自身の召喚能力で瞬く間に整備・修復し、一大拠点を構築する事で意図せぬままグローリアに住まう者達へ畏怖と畏敬の念を植え付けていた事と憲兵やソ連国家保安委員会――俗に言うKGB等の経験者で構成された秘密警察が送り込まれ治安維持の任に従事していたため、グローリアの治安は限りなく平穏だったりする。
「それでリヴァイアサンとの戦闘で損傷した『霧島』以下の艦艇の修理状況はどうなっている?」
近代的な設備が整い数多の艦艇が停泊しているグローリアの軍港。
その軍港の中心部にある海軍の司令部内でカズヤは、緊張で顔を強張らせている将官――損傷艦の管理を任されている大佐に声を掛けた。
「ハッ。損傷艦は全艦修理が完了し現在は補充要員の練度を向上させるため訓練航行中であります」
カズヤの問いに対し、その有能さを証明するかのようにまだ年若い大佐は、まるで新兵のような気合いの籠った返事を返す。
「そうか。この短期間でよくやってくれた」
「ありがとうございます!!」
「今後もこの調子で頼むぞ」
「ハッ!!了解しました!!」
雲の上の存在から送られた称賛と激励の言葉に大佐は胸を張って答えた。
好感の持てる実直な大佐の姿を見て笑みを漏らしたカズヤは機嫌よく司令部を後にした。
「これでやっと全部終わった」
「――そう。“ようやく”終わったのね?」
司令部を出て待機していた車両――軍用レベルの装甲板で完全に覆われ、車体には特殊鉄鋼やチタン、セラミックなどの素材を使用した複合装甲を採用し、ドアや窓も過剰なまでの防御力が付加され近くで爆弾が爆発しようがロケット弾が命中しようが壊れない最強の盾たる車――キャデラック・プレジデンシャル・リムジンに乗り込んだカズヤは車内で待っていた美女の言葉に顔を青くして激しく反応する。
「うっ、待たせてすまなかった!!」
「いいのよ、別に。私より仕事の方が大事だものね」
私は不機嫌ですと言わんばかりのオーラを漂わせながら、プイッと横を向く美女。
「いや、そういう……」
訪問の案件を1件忘れていたという自分の不手際が彼女の不機嫌の原因だと分かっているだけにカズヤは目を泳がせながら、たじろぐしかなかった。
「プッ、軽い冗談よ。だからそんな情けない顔をしないの。……でも今日1日は覚悟してもらうわよ?」
「ハッ、承知致しました。我が姫よ。この私めに何なりとお申し付け下さい」
「フフッ、キザな言い回しや言葉使いは無理しない方がいいんじゃないかしら?正直、貴方には似合ってないわよ」
「酷ェ……」
護衛車両に前後を守られながら動き出したキャデラック・プレジデンシャル・リムジンの車内ではカズヤとその妻であるカレン・ロートレックが、これから始まる2人っきりの時間を心待ちにしていた。
2人を乗せたリムジンは軍港を抜け、グローリアの市街地を前にすると市街地の側にあるパラベラム軍の物資保管庫に入った。
そして、10分後に物資保管庫から出てきたリムジンは再度軍港へ向かって走り出し姿を消した。
それから更に30分後。
物資保管庫の通用口から頭だけを出して辺りをキョロキョロと見渡し、人目を気にするような素振りを見せる2人の男女が出てきたかと思うと、その2人は恋人繋ぎで手を繋ぎながら足早に市街地の雑踏の中へ紛れ込む。
怪しげな男女にとって幸運だったのは、物資保管庫から出てくる姿を誰にも見られなかった事と一般市民のような平凡な格好をした自分達を気にする者が誰も居なかった事である。
「ふぅ……上手くいったみたいね」
「あぁ、尾行者も無し。成功だな」
多くの人々で賑わうグローリアの大通りを市民に紛れて歩くのは服を着替えて変装し身分を隠したカズヤとカレンだった。
「……それにしてもよく私達2人だけでのデートの実現が出来たわね」
「そりゃあ苦労しましたとも」
カレンの何気ない一言にカズヤは重いため息を漏らす。
「護衛や供を連れないこのデートを実現させるために、根回しに次ぐ根回し。そして渋る千歳にどれだけ頼み込んだ事か」
「時間が空いたとはいえ、あんな事(暗殺未遂)があった後だものね。千歳が渋るのも無理はないわ」
「あぁ、伊吹の援護がなけりゃ絶対無理だった」
「伊吹?彼女がなんで私と貴方のデートに力添えをしてくれたの?」
「ま、色々あるんだよ」
「?」
怪訝な顔でこちらを見つめるカレンに苦笑いを返しながら、カズヤは心の中で呟く。
まさか、万が一の場合に備えて思い出作りをしておきたくて事情を知る伊吹に援護を頼んだとは言えんよな。
まぁ、今となってみれば俺の寿命の事を伊吹に知ってもらっておいて良かったな。
カレンとの約束を果たすという大義名分もあったが、何より自分が死ぬまでに愛しい者達との時間を作りたいと思っているカズヤは伊吹という“共犯者”の存在に感謝の念を禁じ得なかった。
「さて、今は俺の苦労話より2人で楽しもう。出会った時のようにな」
「えぇ、それもそうね。時間は有限なのだし」
自由を縛る身分から一時的に解放された2人は、ただの男女として白亜の建物が並ぶ街中を散策し始めた。
「ねぇ、これなんてどうかしら?」
「うん、似合ってる」
「……カズヤ。貴方さっき違う服を着て見せた時もそう言ってたじゃないの」
「そう言われてもな……元がいいと何でも似合ってしまうんだからしょうがないだろうに」
「あら?総統ともあろうお方が、お世辞で誤魔化すつもりかしら」
「本音なんだけどなぁ……」
「っ!!ふ、ふん。まぁ、許してあげるわ」
ある時は服屋に入りカレンが試着した服の感想を言って、最終的にはカレンの顔を赤らめさせたり。
「はい、ん〜ん」
「カ、カレンさん?何で果実を口にくわえて差し出しているんでしょうか?普通だったらここは、あーんとかじゃないんですか?みんな見てるんですけど!?」
「ん〜ん」
「いや、だから……」
「ん〜ん!!」
「公衆の面前で口移しプレイはちょっと」
「んー!!」
「え?――もがぁっ!?」
またある時は昼食を取ろうと入った食事所でカレンの口移し攻撃を受け、カズヤが羞恥プレイを強要させられたり。
周囲からバカップル扱いされるような行為すら楽しみ、2人は束の間の安息を心から堪能していた。
しかし、楽しい時間というモノはあっという間に過ぎ去るものであり、それはカズヤとカレンにとっても例外では無かった。
「ふぅ……こんなに楽しかったのは久しぶりだわ」
「あぁ、本当に。――ん?」
遊び倒し充足感に満ちた心とは裏腹に、休息を訴える体に従って喫茶店に入った2人。
「どうかしたの、カズヤ?」
「いや、何かあっちで人だかりが……何かの騒ぎが起こっているみたいだ」
和やかに会話を交わしている最中、カズヤが店の近くで人だかりが出来ている事に気が付いた。
「放っておきなさいな。どうせすぐに憲兵がやって来て鎮圧するわよ」
「そうだな」
カレンの言葉に一先ず頷いたカズヤは人だかりから視線を外し、目の前で微笑むカレンに意識を向けた。
「――それでね。……カズヤ?」
「え?あぁ、悪い。何の話だっけ」
しかし、どうしても騒ぎが気になるカズヤの意識は時間の経過と共にカレンから逸れていく。
そのせいで、カレンとの会話も上の空になっていた。
「はぁ……いいわ。早く行って騒ぎを収めて来なさい。他の事に気を取られている貴方と話していてもつまらないから」
まるで聞き分けの無い子供を諭すような語調でカレンはカズヤに告げた。
「……すまん。すぐに戻る」
カレンから許しが出るとカズヤはバツの悪い顔でおずおずと席を立ち、足早に人だかりへと向かった。
「全く……もう。これがお忍びでのデートだっていうことをカズヤは覚えているのかしら。素性がバレたら本土に帰るしかないのに。……夜はたっぷり懲らしめてやりましょうか。そろそろ子供も欲しいし」
喫茶店に1人残されたカレンが、そんな事を呟いていたとか、いなかったとか。