あの日、美月さんが事務室を出て行った後……。
「美月は躊躇せずに佐藤の家に行った訳だが……八千代は行かないのか?」
杏子さんが私に言いました。そう聞かれても……私には分からない。なんで、美月さんがあんなに必死だったのか、私が佐藤くんの家まで行った方がいいのか……。
「あのっ……杏子さんっ!?」
「ん?」
「私は……どうすればいいんでしょうか……?」
気が付けば杏子さんを頼っていた私。
「何がだ?」
「えと……美月さんみたいに……私も佐藤くんの家に行った方がいいんでしょうか?」
そう私が聞くと、杏子さんはあごに手をやって考え込み、
「ふむ…………ていうか、最近、佐藤のやつと良く出掛けていたみたいじゃないか。何か変わった事でもあったのか?」
「変わった事ですか……? そうですね、別に普段通りだったと思いますけど、強いて言えば、佐藤くん最近は一緒に遊びに行ってる時はちょっと表情が硬かったといいますか……まあ、私と佐藤くんが付き合う事になったとかそれ位ですよ」
笑顔で私が言うと、
「それ位って、それだよ、わたしが聞きたかった変わった事ってやつは」
多少呆れ気味な声色で杏子さんが言いました。
「そうなんですか?」
「そうなんですかって……八千代……お前、もしかして、付き合うってなにか勘違いしてないか? アレだろ? 佐藤は男女の付き合いっていう意味で言って来たんだろ?」
「ええ、そう言ってましたけど?」
「……それってまさか、あの日、わたしがラーメン食べ歩きした時、佐藤との用事をキャンセルした前の話か?」
「えっ? そう……ですけど?」
「はぁ……そうか、それじゃあ、もしかして、今佐藤が休んでるのは、佐藤とのデートをわたしとのしょうもない用事でキャンセルされたからじゃないのか?」
やけに核心的に杏子さんが言いまいた。けど、私にはピンと来ない。私には杏子さんとの用事が最優先だもの……なにか私、おかしなことしたのかしら……?
「店長の言う通りだと思うよ~俺の推測でも」
その時、ふいに奥から相馬くんが現れそう言いました。
「ていうか、美月さん、佐藤くんの所行っちゃったじゃない……ああ、あの二人最近、良い感じらしいし、まずいんじゃないかなぁ……」
私に聞かせているのかいないのか……ぶつぶつと言いながら近くに来ます。
「まずいって、何が? 相馬くん。佐藤くんだって、もうすぐ戻ってくるわよ……きっと、少し具合でも悪かったんだわ……」
そうよ、杏子さんはともかく、相馬くんは何を言っているのかしら。佐藤くんはたまたまちょっと休んでいるだけですもの……。
この時、私は、美月さんに怒りをぶつけられたショックもあったのか、相馬くんや杏子さんに言われた事を真面目に考えようとしていませんでした。佐藤くんだって、たまたま休んでいるだけ……来週には顔を出す……そうやって決め込んで考えようにしていたのです……。
それから、更に一週間が経ちました。なんと今週も佐藤くんは一日も顔を出さなかったのです。これで三週間の間、顔を出さなかった事になります。流石にお店の皆も、困惑しているようでした。佐藤くんはもう来ないんじゃないか? そんなウワサも聞こえているほどでした。初めは冗談まじりに佐藤くんが来ない事を話題にしていた皆も自体を重んじてか佐藤くんの名前すら余り出さない様にしているようでした。
私は……というと、正直、落ち着いていられませんでした。一週間前のあの日、意地を張って、どうにかなるなんて思っていた自分が恥ずかしいです。今思えば美月さんの言う通りでした。美月さんの言う通り……私も佐藤くんの家に行くべきだったのかも……あの時に……。
「どう……? 今日で三週間経ったけど?」
休憩室で落ち込んでいる私を見てそんな風に声をかけてきたのは相馬くんでした。
「相馬くん……どうって……笑い事じゃないのよ……私は真剣なのよ……? 佐藤くんの事……やっぱり、私が原因だったのかと思うと……今も落ち着かないわ……」
私としては少し軽蔑の意味を含めて言ったのですが……
「そうかい、ようやく真剣になったんだね! 轟さん、それで、佐藤くんに対して答えは出たの?」
そんな私の言葉をむしろ嬉しそうに聞きそう言いました。
「答えってなぁに? 私は佐藤くんが休んでいるのは自分のせいだって思わなかった事に後悔はしているけど……佐藤くんに対しては何も酷い事はしてないわ……」
言葉とは裏腹に私の声は自信無さげでした。
「佐藤くんとのデートすっぽかした事には罪悪感は全くないって言うのかい?」
相馬くんの言葉は私の胸の奥をジクジクと刺激します……。
「私は……杏子さんとの約束が第一なの……佐藤くんには悪いとは思ったけど……あれはしょうがない事だったの」
……だったら、なぜ、こんなにも後悔しているのでしょう。
「そうかい。ねえ……はっきり聞くけど……轟さんは、佐藤くんの事……好きなんじゃないの?」
相馬くんは踏みこんだような調子で聞きました。
「好きよ……佐藤くんにもそう言われたし……私も言ったわ」
「ええっ!? なにそれ? それでも、店長を取ってるの? うわーこりゃ、佐藤くん、生殺しにも程があるなぁ……そりゃ、店も休むわ……」
頭を抱えて言っています……。相馬くんには予想外だったみたいです……。
「はぁ、でも、結局、佐藤くんの好きより、店長に対する好きの方が大きいって分けでしょ?」
「ええ……そうね」
私が答えると、相馬くんは腕を組んで、ウウーンと考え込んでいます。私の言っている事はそんなに変な事なんでしょうか? ただ、杏子さんの方が好きって言っているだけなのに……。
「これは、男の俺には手に負えないな」
ははっ、と笑いながら、相馬くんはそう言いました。
「どういうこと? 相馬くん」
気になって聞いてみると、
「女の子の恋愛感は男の俺には分からないって事だよ。それに、轟さんは店長の事の方が好きなんでしょ? だったら、結局、轟さんが佐藤くんの事を店長以上に好きになってもらうしかない。それには俺が何を言っても無駄そうだってこと」
達観したようにそう言うと、休憩室から出て行ったのでした。
相馬くんが出て行った後も、私は帰る気にはなれず、独りぼんやりとしていました。いつもなら漏れ聞こえてくる他のみんなの声も今は全く聞こえてきません。
「……私……何で、ここで待ってるんだっけ……」
と、疑問だったのですが、声に出すと直に答えが頭に浮かびました。杏子さんを待っているのでした。今日は月末なので、色々と書類関係の仕事があるんです。杏子さんが珍しく仕事を頑張る日です。私はこの日は休憩所で杏子さんを待って、一緒に帰ることがたまにあります。今日がその日でした。ふいに時間が気になってポケットから使い慣れないケータイ電話を取り出します。時間を見るくらいなら開くだけなので簡単です。ケータイを開くと『新着メール1件』と表示されていました。おもわず期待してしまいます。佐藤くんからだったらいいな、と。そう咄嗟に思った自分に驚きました。こういう時って自分の素の気持ちが出てしまうんですね。自分にはウソは付けないんですね……。
そんなモヤモヤした事を思いながら、メールを開きます。なんてことのない広告メールでした。そこでがっかりした自分に、改めて佐藤くんへの気持ちが前以上に大きくなっているのを感じました。でも、わかんない。佐藤くんへの私の「好き」ってなぁに? わかんない。わかんない。わかんない……。…………。
「やちよ……やちよ……やちよっ!」
「ハッ!?」
杏子さんの声が聞こえて、目を開くと私の肩を揺さぶる杏子さんの姿がありました。
「杏子さん……? 何してるんですか?」
「寝ぼけてるのか? 時計を見ろ、八千代」
「えっ? ……あっもうこんな時間……もしかしてわたし寝てました?」
もう、外はすっかり暗くなっていました。
「うむ。ぐっすりだったぞ。さっきから名前呼んでたからな」
「ごめんなさい! 杏子さん!」
「いいって、さ、もう店閉めるから帰るぞ」
「はいっ! 杏子さん」
裏口から二人で店を出て鍵を閉めると、肌寒い風が頬を通りました。もう少しで北海道は雪の降る季節です。イヤです。雪は嫌いです。その内、カラカラカラ――と、杏子さんの車が砂利を踏む音が聞こえ、ヘッドライトの明かりが眩しい中、私の前に止まります。私はすぐに助手席に乗ると、既にエアコンが効いていて車内は暖かかったのでした。こういう配慮に私は気を使わせてしまっているなと返って心苦しかったりします。もちろん嬉しいですが。杏子さんはそんな気なんて使ってないと言いたげな横顔で運転しています。そういう所がかっこいいし好きです。そういえば佐藤くんもそういう所が……。
……気付けば、また佐藤くんの事が頭に浮かんでいたのでした。佐藤くんを思い浮かべると、心が苦しい……です。困ります。どうしていいのか……わかんないです……。
「どうした? やちよ……?」
正面を向いているはずの杏子さんが私の変化に気付いてかそんな風に声をかけてくれます。すぐにそういう変化に気付いてくれる杏子さんは凄いですし、短い言葉の中に心配の気持ちが汲んで取れるのがまた嬉しく思います。
「えっ……いや……その……なんでも……ないです」
でも、なぜでしょうか? 迷惑かけたくないと思ったのか私はそう言って拒否してしまいます。
「本当か?」
「はい……」
「やっぱり、顔色が悪いな……なんでもないわけないだろう……」
運転がてら前を見てそう言うと、杏子さんは車の速度を落とし、脇に停車させ、ハザードランプを付けました。
「ほら、話してみ? やちよ」
今度は、はっきりと私の方を見てそう言う杏子さん。言った後、少し私を見てシートベルトを外し車内のライトを付けます。
「…………」
黙って様子を見るも、車内の狭い空間。1mにも満たない距離で腕を組みこちらを見る杏子さん。やけに大きく聞こえるハザードランプの音と、エンジン音。車内独特の明かり。エアコンの生暖かい風。嗅ぎなれた杏子さんの匂い。……そんな色んな要素が合わさったこの場の雰囲気……それを感じていると、私の心の奥底も結構近くにある気がして……気が付けば口が勝手に動いていました。
「杏子さん……私……相談があるんです」
「……うん…………佐藤の事か?」
少し考えて、杏子さんが言いました。
「はい……私……佐藤くんの事がどのくらい好きなのか……分からないんです」
「なるほど……それは、八千代本人じゃなきゃ……分からない事だからなぁ」
「でも、私……3週間も佐藤くんが店に来なくなっちゃって……それが、私のせいだって思うと、凄く申し訳なくて、今でも佐藤くんの事を思い出すたびに胸が痛むんです……! どうしたら良いんでしょう……!」
「よし、八千代、ホラ」
そう言って、杏子さんは両手を差し伸べてくれます。これは私が杏子さんに助けを求めたときに必ずやってくれる行為です。私は条件反射もあって、シートベルトを外し杏子さんの胸に顔を埋めます。すると、杏子さんはヨシヨシと、私の背中を撫でてくれます。うわーん、うわーんと声を出して、私は泣きます。昔から杏子さんの胸で泣くと気持ちがはれました。元々、杏子さんと出会う前は、お母さんにやって貰っていた事でしたが、杏子さんと一緒にいるようになってからは、杏子さんにやって貰っています。杏子さんは私の母親代わりです。ひとしきり泣くと気持ちがすっきりしました。自分の中のモヤモヤが晴れたのでした。
「八千代……今夜、久しぶりに家に来るか?」
私が泣いた後、突然そんな風に杏子さんが言いました。杏子さんの家に行く事は実は滅多にありません。よく私が行きたいと言ってもダメと言われ、最近ではその質問は言っちゃいけないんだなとさえ思っていました。入ったのは数回ですし、それにこんな遅い時間は今までありません。杏子さんは言わなかったけれども、夜遅いと私の家に迷惑をかけるからなんじゃないかと思います。まあ、私ももうハタチですし、そこまで気にして貰わなくても良い気もしますが。
「でも、杏子さん、今からじゃ……」
「家に泊まればいい。八千代の家には私から連絡しても良いし……」
いつになく、強引な杏子さんでした。今まで、家に入れてくれなかったのが嘘のような強引さです……逆に私は驚いてしまって、即答できません。
「……イヤか?」
「い、いえっ! そんな事ないですっ! 杏子さんの家、行きたいに決まってるじゃないですかっ!」
慌てて否定する私。
「そうか。まあ、八千代に話して置きたい事があるしな、大事なことだし……早いほうが良いだろう」
そう言うと、杏子さんは正面に向き直り、
「じゃあ、さっそく家に行こう」
そう言って、車を動かし始めました。
「あの……杏子さん? お話って?」
不安げに聞く私。
「ここで話してもいいが……真面目な話だしな。家でゆっくり話そうと思って」
「そうですか……」
こんなに改まった杏子さんを見るのはとても珍しいことでした。いったいどんな話をするんだろう? 久しぶりの杏子さんの家に初めてのお泊り……それに、真面目なお話って? 色んな気持ちが私の中で交差していました。なんだか分からない緊張感が私の心臓を絞めつけるのでした。