「……佐藤」
真柴がぼそりと言った。布団から出された綺麗な手は俺の手に握られたままだ。汗ばんできた事を気にして引っ込めようとすると直に強く握ってくるので俺はその場から動けない。恥ずかしくないのだろうか? とも思うのだが、具合が悪くて不安な気持ちは俺にも分かる。しかし、こいつは特に独りに慣れていないのだろうか? 俺は子供の頃から独りでいることが多かったから慣れているが、普通の奴はそうでもないのか? ……今度、松本に聞いてみよう。
「……なあ、佐藤。あの公園でのばした男二人だがな……」
そんな風に真柴は突然口を開くと、
「あの連中、お嬢に軽い気持ちで近づこうとしやがって……しかも、近づくなと言っても全然、私の言うこと聞かなくて……っ!」
さっきの公園での事を話し出す。後半はテンションも上がってきたのが、声量が大きくなる。
「……ああ、大体は分かってるよ」
「……そうなのか? だから、私は最初から喧嘩しようと思っていたわけじゃないんだよ!」
身を起こして言う真柴。
「おい、具合悪いんだから興奮するな。……大丈夫だよ、ちゃんと分かってっから」
俺が、真柴の体を押さえながら言うと、
「……お前……まさか、けっこう近くで見てた……?」
弁解するような態度のさっきとは打って変わり、ジト目で俺の方を見る。
「……なんだよ、悪いかよ」逆ギレである。
「えっ? ああ……いや、そんなことは無いが…………ってことは、もしかして私があの時、言ったことも聞いてた?」
「…………聞いてたが?」しれっと、言ってやった。開き直りである。
「う……あ……」
そして、顔を固まらせた真柴が、握られた手を素早く離し、布団に仕舞うと俺に背を向ける形でそそくさと体勢を変える。
なんだよ、今になって照れてやがる……可愛いじゃねーか――――可愛いってなんだよ!?
なんだか、俺も恥ずかしくなっちまった。……そうだ。丁度、手も離されたことだし、トイレ行ってこよう。
スッキリして洗った手を拭きながら、布団を見ると背中を見せて黙って寝ている――フリだろう――をした真柴。
「そうだ。もう、具合はいいのか? 薬なら色々あるぞ? 風邪薬とか胃薬とか、頭痛薬とか……飲むなら、湯冷まし作るが?」
「いや、もう、大丈夫だと思う。すまんな。……それよりちょっと聞いてくれ」
そう言って、手招きする真柴。俺はさっきまで座っていた布団の横に座ると、
「私はな、お嬢の事が好きだ」
真柴が再び俺の方へ体を向き直して言う。
「ああ、変な誤解はするなよ?」
顔をしかめた俺を見てテンパリながらそう一言。
「まあ、お前と轟は昔から付き合いがあるみたいだからな……」
そう言った俺に、真柴は軽い笑みを返すと、目を細め思い返す様に語り始めた。
お嬢と私は、そりゃもう、長い付き合いだ。姐さんの近くにはいつもお嬢はいた。あの頃は楽しかったなぁ。学校が終わると毎日、姐さんとお嬢とあと陽平とで、一緒につるんでいたよ。大体何をするわけでもなく、公園でボケーっとしていたなぁ。暇だったから、川原で野球したりね。姐さんがいつもバット持ってたから。……釘バット? 普通のバットも持っていたよ。私か陽平がピッチャーをやると片方が外野をやるんだが姐さんは必ず外野超えの当たりだよ。だから定位置じゃなく深めに守ってた。そしたら全部守ってる私めがけて一直線にボールが来るんだよ。本当はホームランだけど。ある時、お嬢がわたしもやりたいって、言い出したんだ。まだ、小学生位の時だよ。ピッチャーは無理だから、外野になるだろ? そしたら姐さんが内野を守れって言うんだよ。お嬢は大体、ショート位の位置に付くんだ。そんで、姐さんが打つのは決まって内野フライかボテボテのショートゴロだよ。お嬢は最初、全然取れなくてよく頭にボールぶつけてたけど、その内に少しずつ取れるようになってきてたなぁ。ああ、使ってたのは軟式球だぞ。気が付けば、お嬢のノック練習みたいになってるんだけどその内、ファーストまで送球出来るようになると、私がファーストに入ったりなぁ。グラブに収まったお嬢の返球を感じながら思ったんだよ。……姐さんは4人全員が楽しく遊べるように最初から考えてそうしたんじゃないかってな。後は、近所の度の過ぎたヤンキーをシメる旅だよ。万引きとか……人様に迷惑かけているような連中のいる学校に行ってはボコってたよ。それが主に私らの仕事だった。そういう日は決まってお嬢は連れて行かなかった。お嬢にも迷惑が掛かるからな。だけど、私らがそういう事をしているっていう噂は当然、近隣では広まっていたし……だから、お譲とも一緒に居ないほうがいいんじゃないかと本気で悩んだこともあった。だけど、お嬢は相変わらず健気でな。私らと一緒に居たいって言って……姐さんはモチロン、私や陽平にも同じ位に笑顔で接してくれていた。お嬢の……なんつーか、優しさって言うかそんな簡単な言葉では表せない位の純粋無垢な気持ちは、私の心にとても響いたんだ。だって、私より6つも下で……あの時なんて、まだ、小学生や中学生っていう時期だよ。そんな子がさ、全然年上の私や陽平と一緒に居たいって言ってくれるんだもの、気遣ってくれていたんだよ。私らをさ。
それからも、いつでも私らは一緒にいたよ。私が高3になった頃は、色々忙しかったし、お嬢は姐さんのそばに居たみたいだった。それでもたまに様子を見に来てくれて、勉強頑張ってくださいね。なんて、わざわざ差し入れを持って家まで来てくれた事もあった。本当に気が利くというか、優しいよ、お嬢は。しばらくして、私は今の仕事にも慣れてきてとりあえず落ち着いた。自分が社会人としてやっていけるか不安だったけど、なんとかなってよかったと思う。姐さんも何度か褒めてくれた。陽平も含めて私ら姐さんの舎弟は、社会人として真面目にやって行けてないのも少なくなかったからな……。
その頃になると、お嬢もワグナリアで働き出した頃かな。杏子さんと一緒に働けるって、わざわざ私の家まで来て嬉しそうに報告に来て私も一緒に喜んだっけな。
――――言い終わると真柴はふう、と一息ついた。
「なんだか……面白い話だったよ」
俺は思った事を素直に口にすると、
「そっ……そうか?」
驚いたように反応する。
「ああ、なんつーか、俺の知らない頃の八千代が想像できて、当たり前だけど俺と会ってなかった頃も色々やってたんだなぁ……って」
「当たり前だ! 私はお前よりお譲とは長い付き合いなんだからな!」
「……そうだよな」
なんだかそう思うと、俺が知っている八千代なんてまだまだごく一部でしかないのかもしれない。いや、一部なんだろう。じゃあ、八千代にとって俺なんてちっぽけな存在のような……そういう事なのか?
「……なんか、寂しそうな顔して……もしかして気にしてんのか?」
「ばっ! ちげーよ!」
忘れてた。目の前にこいつが居るんだった。
「照れるなよ! まあ、そうやって私が嫉妬されるほどお嬢が好きって事だろ? いいじゃねーか、お嬢の事、知らないならもっと話とかしてこれからを知って行けば」
「……まあ、な」
「過去の事はお嬢本人から聞けばいいんだしよ……?」
覗き見るような眼差しで俺を見る真柴の顔を見ながら、何だがいつの間にか俺が励まされている事に気が付いた。そういや、こいつさっきまで弱々しくしていたのに……具合良くなったのか? そう思って俺は、真柴の額におもむろに手を近づける。
「えっ!? なに!?」
額に当てようとした所で、なぜか、全力で顔を引かれる。
「どうした? 熱を測ろうとしたんだが……まあ、それだけ元気があれば大丈夫か?」
「えっ? なんだ、そうかよ。急に手を近づけるから何かと思ったよ」
そんなに驚く事か? 俺が変なのか? ……なんて、思っていると目をつぶって妙に真剣な顔をして黙ってこっちを向く真柴。……え? なにこれ? 待ってんの?
しかたないので、手を置いて熱を測る。
「おい、こら、あんまり動くな、分かりにくい」
なんて、言って真柴のせいにしたが正直な所、熱があるのかどうか分からない。ああ、そうか、こういう時は、おでこ同士でくっ付けて――って、そんなベタな事できるか!
しかたないので、自分のおでこに手を当ててみる。……しまった。変な事を考えていたもんだから俺の顔も熱くなっている。これじゃあ、分からねぇ!!
「うん……、まあ、いいんじゃねーか?」
何がいいんだか意味不明である。
「そうか。それはよかった……それにしても……今思えば、私は何を普通に男の部屋で寝てるんだろうな……? しかも、男の布団で……」
何だか、急に我に返ったように困惑している真柴。多分、具合が良くなった事で素に戻って困惑しているのだろう。しかし今更だろう。しかも、緊張で顔が赤くなって具合が良くなってんだか変わらないんだか分かんねぇ。ていうか、それを思っても口にするかねぇ……女って言うのは思った事を心に留めて置けないのだろうか? ま、それが可愛い所なのかも知れねーけど。
「あっ……」
背を向けて布団にうずくまる真柴がふいに言った。
「どうした?」
「……あ、いや……その……いま、何時?」
慣れない家だから、時計の場所が分からんのか。
「えっと、9時49分…………って、げっ、もう、10時かよ」
自分で言って驚く。思えば真柴と会ってから時計なんて見る暇なんて無かった。
「もう、遅いから帰ったほうがいいな……」
そう言ったが、なぜか、寝たふりなのか反応を返さない。具合は多分もういいハズだが、良くなったり、ぶり返したりで、本人ではない俺は今どの程度なのかは分からない。だが、仮にも若い女なんだから、あまり夜遅くまで帰宅しないというのはあまり良い事ではないだろう。
「お、おい……真柴……? 帰るなら、車、エンジンかけないといけないから……」
……やはり、何も返なさい。……本当に寝ているのか?
「……泊まるか?」
しかたないので……っていうか、勘でそう言った方が良い気がしたので言ってみる。
「………………うん」
長い沈黙の後、確かにそう答えた。ていうか、やっぱ起きてんじゃねーかよっ!
「ん……じゃあ、俺はソファで寝るから」
そう言い残して立って背を向けると、
「佐藤……お前は……優しい奴だな……」
背後からそう聞こえた。
「なんだよ……急に」
「お嬢は……幸せだな……」
…………それは、どういう意味……だよ? うっ……何だか、恥ずかしくなってきちまったじゃねーかよっ!!
――ソファで横になり天井を見つめていた。部屋の隅からは女の寝息が聞こえる。何でもない休日だったってのに、気が付けば、なぜ、こんな事になってしまったのか。仕事中以外では、一番多くの時間を過ごしているこの部屋で、いつもと大きく異なる光景。他人自体をほとんど入れた事が無いこの部屋に、女を泊まらせている。それも、自分の布団に寝かせている。なんだが、自分の中の歯車が狂い始めている……そんなような気がしてならない。これは、今まで無難に生きていたツケなんだろうか? 一生の内のイベント事が今まさにどんどん展開されている。そんな事なのだろうか? 不思議とこういう時の俺の勘は当たる。早い未来に何か起きるに違いない。根拠は無いがそう思った。
いや、もしかすると、そんな思い込みこそが俺の行動力を助長させているって事なのか。何にしても、これからこっち方面で忙しくなりそうなそんな予感……。
――ベランダでタバコを吸った後、部屋に戻ると規則正しい寝息を立てて寝る真柴の姿があった。もう寝ようと電気を消す直前、子供のような寝顔だなと思った。