「佐藤くん? それでね、杏子さんがね?」
「ああ……」
とある平日の昼下がり。俺はいつも通り、八千代の店長話を聞いていた。
キャベツの千切りを量産しながら、それが切れるリズミカルな音と共に、八千代のテンション…………なんか、聞いた事のある台詞だな――なんて、脳内で突っ込む俺。
なんだよ……この光景。キャベツ刻んでる俺の横で熱心に店長話をする八千代。まあ、いつもの光景と言えば、そうなのだが、何か釈然としない。なんでだ? なんで……。なんで……。
――トントントントン……。
俺の右手が止まった。包丁の音も止まった。
そう、それは昨日の話。俺と八千代は付き合う事になったハズだ……俺の記憶が間違っていなければ……。いや、そんな訳はない。俺はまださっきの事の様に、昨日の八千代の表情や声、あの居酒屋の雰囲気、頬で感じていた室温まで覚えている。「わたし、佐藤くんと付き合う」そう言っていたじゃないか八千代は。思い出すと恥ずかしいからあんまり思い出さないようにしていたが……たしかに言った。聞いた! この耳ではっきり聞いた! そして、現実に戻る。右を見る。八千代が嬉しそうに喋っている。「京子さんが~」
すまん、八千代、あんま聞いてない。
俺は疑問だった。昨日付き合い始めたハズの俺達。しかし、あるのはいつもの光景。漠然と俺は……付き合えば何か変わると思っていた。……ま、まあ、いきなり関係が変わるというのも、何か違うのかもしれない。店長の話をしているコイツはそんなに嫌いじゃないし、まあ、焦らないでいつも通りに聞いてやるか……。
――そんな風に、ナアナアにしてしまったのが良くなかったのかも知れない。その日以来、俺は今まで通り八千代に接するようになった。正直、最近、デートだとか告白だとか、神経をすり減らしすぎた。俺にも心の休養が必要だったのだ――なんて、自分に都合よく考えていたのもそれを助長させた原因か。次の日、また次の日とそうやって普通に接していく日々を向かえる内に、気付けば一週間経っていて今日が最終日で明日は休みだ。前の休みに八千代と付き合う事になったなんて、あれは何だったのだろう? 悪い冗談か何かに思えてきた。そんな事を思いながらキッチンを片付けていると自分の仕事をしながら相馬が話しかけてきた。
「ねえ、佐藤くん。前に俺と小鳥遊くんとで話し合ったよねぇ? あの時、頑張るとか何とか言ってたけど、結局いまだに何もしてないの?」
「……いや、進展はあったよ」
自信なさげに俺が答えた。
「進展って……今週も以前と変わらず、いつも通りだったじゃない?」
いぶかしげな顔で相馬が言う。そう言われて、反論できない俺。というか、他人から見てもやっぱりそうだったのかとショックを受ける。
「……そう、思われてもしかたがないかもしれないが」
「……とは? 進展って何さ?」
一瞬、言うかどうかためらったが、ここで何も言わなかったらまた、ヘタレ呼ばわりだ。あれは言われると結構、腹が立つ。
「八千代と俺は付き合っている…………ハズ」
自分でも疑問だが。
「えっ……? 付き合ってるの? 合ってないの?」
「……少なくとも、付き合いましょう的な返事を貰ったと記憶している」
「ああ、そう。良かったじゃん」
本当に良いと思っているのかどうか分からない感じで相馬が言った。笑顔だがコイツの笑顔は返って裏がありそうで不気味だ。
「でも、いつもと同じ様子だったけど?」
自分の仕事が終わったのか、俺の隣まで来て片付けを手伝いながら相馬が言った。
「むぅ…………」
声にならないような声で俺が返事をする。
「……えっと、轟さん、付き合うって言ったんだよね?」
「……まあ」
「それって、もしかして轟さん、付き合うって意味よく分かってないんじゃないの?」
少し、天井に目を向けて思いついたように相馬が言った。
「意味が分かってない? そりゃどういう意味だ?」
俺が言うと、相馬は近くのイスに腰を下ろし、「まあ、座りなよ」と言い、座った俺を見て、
「男女として付き合うって事が何をすることなのか分かってないんじゃない? って意味さ、ホラ、轟さんだったらありうるでしょ?」
と言った。俺は、そんなまさかと思ったがよく考えてみると、あの時は緊張で八千代の様子をあまり見られなかったが、あの居酒屋での時。八千代は何か、変な事を言っていた気がする……。そうだ。たしか、好きな女の人と男の人は付き合うものなの? とか、それが普通なんでしょう? とか……。
……ああ、なんて事だ。あの時の変な言動……相馬の言う通り「男女として付き合うって事が分かっていない」という前提だと、辻褄が合う発言だ……。
その事を、簡単に相馬に説明すると、
「じゃあ、間違えないじゃん……ということは、君らの仲は実際には何も進展してないって事じゃない」
呆れた様子でそう言った。俺はやっぱりそうなのかと思った。
「しかしよ、相馬……俺はもう疲れた。何度も八千代と会ったんだ。もう胃が持たない」
「……まあ、今回ばかりは気の毒だと思うかな。たしかに佐藤くんは最近、佐藤くんらしからぬ頑張りを見せたと思うよ」
「だろう? まあ、俺らしからぬってのは余計だが……しばらく休養だな……」
ふぅ、と、溜息をついて俺が言うと、
「いや、それはダメだよ」
相馬がはっきりと言う。
「最後の頑張り時だよ! 佐藤くん! もう一度、轟さんと会って……もう、こうなったら、実力行使しかないっ!」
やたら、気合の入った様子で立ち上がって相馬が言った。
――最近、ずっと思っていることだが、なぜこいつはこんなにやたらの応援したがるんだ? まあ、昔からそんな素振りが無かった訳じゃないが……何かあるのか?
いや、今はそんな事どうでもいいか。相馬が何を企んでいようといまいと、それは大した問題じゃない。たしかに、八千代と今のままではここまで頑張ってきた意味がまるで無い。振り出しに戻ってしまった。その事の方が問題だ。
「実力行使って言うが……その……八千代を襲えって言うんだろ? そんな事は出来ねーぞ」
「まあ、あれは極端な例で……いやそれもアリなんだけど、そうだな……どこか、暗がりに連れ込んで、キスでもしてみたら?」
「……キスねぇ」
なんだかふざけた話に思えるが、たしかに、「付き合う」という事に効果が無かった以上、そういう事になる。
「考えてもみなよ? 少なくともこっちは、付き合ってる状態な訳でしょ? だったら、突然キスを迫っても何も不思議な事じゃない」
たしかに。……それに、そういった事をしなければ、八千代には付き合うという意味を認識させられないだろう。
「……前とは状況が変わった。分かった。今度会った時……その……頑張ってみよう」
但し、言葉で説明して……それで分かってもらえなかったら……だ。その時は、もう本当に、相馬の言う通り実力行使しか道は無い――。
そして、俺はその気持ちが薄れない内に実行に移すことにした。
「八千代……もう一度、二人で会いたい……都合の良い日を教えてくれ」
翌日の仕事帰り、八千代が一人になった所を見計らって声をかけた。
「えっ? また、飲みに誘ってくれるの? 嬉しい。そうだわ、今回は私がお金出すわ、いつも奢ってもらっちゃって悪いし……」
俺にとっては大事な用件なのだが――まあ、いつもだが――そんな事、分かっていないような様子で八千代が言う。
「お金の心配はいい、まあ、割り勘でいいだろ、お互い気にしないで済むし……」
「そう? 私が出したいんだけど……佐藤くんがそう言うなら……」
「そんな事より……都合の良い日は?」
「ああ、そうね……4日後の休みの予定はまだないわ、この日なら大丈夫よ」
笑顔を向けた八千代が言う。
「よし……じゃあ、その日……頼んだぞ……準備して待ってる」
つい、言葉にも力が入る。
「えっ? ……わかったわ……その日、わたしも楽しみにしてるわね……」
相変わらず、分かってない様子だったが……まあ、その日に俺の頑張り次第……なんだろう。とにかく今は、早くその日になる事を待とう。
そうして、俺は家に帰った。4日後のもう一度、会う日……その日が色んな意味で勝負の時なんだと思う。男女の付き合うという意味を理解していない八千代に取って、俺の言葉……あるいはキス――まあ、結果的にこっちが本当の勝負だ――を受け入れてもらえるかどうか……? それが、結果だ。おそらく八千代は自分でも良く分かってないんだ。俺の事がどの程度好きなのかを。だったら他人の俺が分かる訳が無い。本人だって分かってないのだから。だったらもう、実力行使しかない……って、気付けば、相馬と同じ考えじゃないか……。まあ、実際そうなのだけど……。
――そして、もう一度八千代と会う日の前日の夜。
「ついに、明日か……」
俺は、部屋で明日の準備を進めていた。まあ、普通に会うだけなんだからこれと言って特殊な物を用意するわけじゃない。物というより心の準備だ。明日……今度こそ、八千代を振り向かせられるかどうか……明日はやり直しは聞かない。最悪、八千代に嫌われることになるかもしれないし……大事な日だ。……思えば、なんで俺はこんな急に積極的に行動しているんだろうな? 何か俺にあったのか? ……そうか、たしか相馬が家に来て……無理やり……いや、俺から話したんだっけ……言いたくもない過去の話……だが、他人に話したことで色々吹っ切れた気がする。実際こうして、八千代との事を積極的になれている俺がいる。それだけでだいぶ変わった気がする。なんだ。考えてみれば原因は相馬だったのか、こんな事になっているのは。まあ、内容はともかく、アドバイスもくれた事だし……案外、良い奴なのか? あいつ。ま、それでも何か企んでいるなんて少し思ってしまう俺は捻くれているのだろうか? まあ、そんな事はどうでもいいか。とにかく明日だ。正直かなり緊張しているのだが……俺は……八千代と、本当の意味で付き合いたい……。
そんな決心を固め、俺は床に就いた。
――ヴィィィン! ヴィィン!
心臓に悪いようなそんな重低音は木の台に置いてある俺のケータイ電話のバイブレーションの音だ。そう言えば、マナーモードを解除していなかった。そんな事を思いながら、布団から顔を出し、ケータイを開くと、そこには着信八千代の文字。それを見た瞬間、一瞬にして目覚め、俺の瞳孔が開いた。外で名前の知らない鳥が鳴いている。カーテンの隙間からは光が差し込んでいる。要するに朝だ。初めに、「しまった!」と思った。寝坊という最悪にカッコ悪い失態をしたと思ったからだ。しかし、時間を見るとまだ、10時過ぎ。もう少し早く起きようかと思っていたのだが、休みの日なので問題はない。八千代との約束も昼過ぎなので問題ない筈だ。何なのだろう? まあ、考えても仕方が無い。そう思い、強く息を吐いてから通話ボタンをプッシュする。
「はい……」
「あっ! ……佐藤くん? 私だけど、おはよう」
「えっ、あ、おはよう」
「……それで実はね、急に今日予定入っちゃって……あっ、昨日だったんだけど、京子さんにちょっと誘われちゃって……あの、だから今日はダメになっちゃったの、ゴメンなさいっ!」
慌てた感じでそう八千代が言った。
急な事だったのですぐには俺の頭は回らない。寝起きだという事もある。……いや、ウソだ。本当は寝起きだろうが、よく理解していた。「今日の予定をキャンセルされた」それだけの事だろう? 寝起きだろうとそんな簡単なこと直に理解できる。
「佐藤くん……?」
無言だった俺に、心配そうに聞く八千代。
「……ああ、分かったよ。まあ、それだったら仕方が無いな、店長と楽しんでこいよ」
「ゴメンねっ? 佐藤くん。また今度誘ってね?」
落胆した俺の気持ちに気付かない様子で八千代が言う。
「ああ、いいよ……」
「あっ? そうだわ! 良かったら佐藤くんも一緒に来ない? えっとね、旭川の有名なラーメン20杯まで食べられる券があってね、今日までなの! それで京子さんと一緒に何件回れるか試すって……」
すっかり、いつもの調子に戻った八千代が今日の予定を話し始める。
「八千代……悪いが」
そう言って、俺は八千代の話しを切り、
「今は店長の話はやめてくれ。二人で楽しんで来い、それじゃ」
さすがにそこで電話は切らないが、話を終わらせるためそう言う。
「えっ? ……そう、わかったわ、それじゃあね……? 佐藤くん」
「ああ、じゃあな」
「ええ、それじゃあ」
そこで会話を終了させると、そのままケータイの電源を切り、俺は布団に体を倒した。
見慣れた天井を見て、ボーっとする。こういう時、さっきまでのなんというか、数分以内に行われた大きな出来事って言うか、そういうのが、今のこの何もない自由な長い時間とのギャップになんか、スゲェなって思う。
……朝か。ピヨピヨ近所の鳥が鳴いている。まあ、泣きたいのは俺の方だっ……てか。
「とりあえず、トイレ行って、コーヒーでも飲むか」
なんとなく口に出して言う。口に出すことでなんか前進しているような気がした。
ソファに座り、テレビを付ける。とりあえずニュースにでもしておくか。いかにも予定のある朝っぽい。そんな事を思いながらコーヒーを飲みタバコを吸う。
ニュースを見て、まるで何処かの父親のような気分でいると少しは落ち着くかなと思ったがそうでもなかった。ニュースから聞こえる女子アナの声は全く耳に入らない。やはり気付けば、さっきの事を考えていた。
俺にとって大事な日だった。いつも大事だが特に今日はそうだったような気がする。八千代に対して大事な用だとは言ってはいないが、それを言わずとも通じ合えるような仲になりたかった。そのために俺は頑張っているのだとも思う。俺は八千代とどうなりたいのだろうか? 付き合うって何だ? 男女だとか……そんな事を抜きにしても、他人と分かり合いたい……それが人の望みなんじゃないかと思う。少なくとも俺はそうだった。人と分かり合うのは不器用で……苦手だったけども、頑張った。頑張ってきた……。昔、ひでぇ女に騙されて……それで、あんまり他人と向き合うのが嫌にもなったけど、裏も表も無い……そんな、純粋な八千代に惹かれて……好きになって……それで、頑張ったのに。それで頑張って……この結果かよ。
結局、俺は店長には勝てなかった。俺の大事な用を八千代は分かっていないようだし、付き合ってくれって言っても意味分かってないし、店長に遊びに行こうと言われれば、俺との用より店長を取るのだ。どちらが大事だとかそんな事は関係なく……ハナっから、俺は店長には勝てないのだ。どんなに頑張っても、俺は二番目。永遠の二番手だ。付き合うとか男女の仲だとかそんなレベルじゃない。2番目の友達。俺はそんな立ち位置なんだろう……。
なんだか、気分が悪くなってきやがった。久々に精神的に限界だ。寝よう。大体……なんで俺はこんな時間に起きているんだ。それは八千代に電話で起こされて…………はぁ。……寝よう。
そう思って俺は、テレビを消し、カーテンを隙間無く閉め遮光すると布団に包まりうずくまった。