あの人の好きな所なんて、挙げればキリがない。
顔も声も、あの人を構成する全てが好きだ。それこそ、嫌いな所なんて無いくらい。
一度それを守矢の巫女に話したら、「重たすぎます……」とちょっと、いやかなり引かれたけど。
だけど、それくらい好きなのだから仕方がない。まあそれを、本人に言ったことはないけれど。
だって恥ずかしいし。
そんな中で、特に好きな所はどこかと聞かれたことがある。
深くは考えなかった。ただ口から出たのは一つで、それを聞いた早苗に呆れられたりして。
「霊夢さんって、匂いフェチなんですか?」
当時の私は、不貞腐れるだけで答えなかった。
とある日の朝。私の気分はすこぶる良かった。
それには理由があって、今日は珍しくあの人の仕事が休みだから。
何時もならとっくに起きて椅子に座っているはずのあの人も、今日はまだ居間に姿を出していない。たぶんまだ寝室にいるんだろう。普段はキッチリしているあの人だけど、休日にはその反動か、すごくだらしなくなる。
休日くらいゆっくりさせてあげたいと、私も起こしたりはしない。そういうだらけたあの人も可愛らしいと思ってしまう辺り、惚れた弱みというやつなのだろう。
そんなわけで、私もあの人に合わせてゆっくり朝食の準備に勤しんでいた。
久しぶりにあの人とゆっくりできる休日だと、少し浮かれて鼻歌交じりに料理していたら、のっそりと居間に見慣れたアホ毛が顔を出す。
「おはようございます……」
「おはよ。ご飯どうする?」
「……お願いします」
欠伸をかみ殺しながら椅子に腰かける旦那。まだ眠たそうで、頭頂部のアホ毛が左右に揺れている。そんな旦那の様子に笑みを零しながら、私は料理の手を少し早めた。
「まだ眠そうね。もう起きて良かったの?」
「ええ。あまり寝すぎるのも良くないと思ったので」
「そりゃそうだ」
こんな感じで、旦那は自堕落な生活を良しとはしない。しかし疲労からか、基本的に休日の朝は自力で起きることが出来ないのだ。
自分で起きられたということは、疲労の方もマシなのかもしれない。
そう思った矢先。
少し目を離した隙に、旦那は座ったまま寝そうになっていた。
「……そんなわけないか」
旦那がどれだけ仕事の虫かは、私が一番良く知っている。その仕事量がどれほど多いかも。そりゃ、妻だし。
今日は旦那が気持ちよく休めるようにしてやろう。
「それはそれとして……」
出来上がった朝食はどうしようか……。
幸いなことに、旦那がそのまま寝てしまうというようなことにはならなかった。
うつらうつらしていたけど、机に食器を並べるとすぐに背筋を伸ばして、頭を振って眠気を飛ばす。そうすればアホ毛だけでなく、寝癖で跳ねた髪も左右に揺れて、私は思わず吹き出してしまった。
「……どうしました?」
「いや、だって寝癖が面白いんだもん」
「寝癖?」
言われて初めて気が付いたというようなリアクションを見せ、ゆっくりと右手を頭に持って行く。それから驚愕に顔を歪め、あわあわと震え出した。
何これ面白い。
「すぐに直してきます」
「まあまあ、待ちなさいよ」
急に立ち上がり、洗面所に向かおうとする旦那の手を掴んで止める。
何を恥ずかしがっているのか知らないけど、別にこういう姿を見るのは初めてじゃない。そこまで寝相が悪いわけじゃないから、そう頻繁に寝癖が付いてるわけじゃないけど。だけど起きたらたまに、こんな風に頭が爆発したみたいになっていることがあるのだ。今更である。それに、
「ほら、ご飯冷めちゃうわよ」
尚も渋る旦那に、机を指差して言う。
一瞬移った旦那の視線が、湯気の立つ味噌汁を捉えた。ついでに旦那の腹の虫も鳴く。意地の悪い笑みを浮かべながら、私は旦那を見る。私の視線を受けて尚僅かな逡巡を見せる旦那だったけど、諦めたように椅子に座り直した。空腹と私の視線に負けたのだろう。人生、諦めが肝心なのだ。
それに、私にもやってみたいことがあったし。
朝食を取りながら、私は旦那にある提案をした。
「ねえ、後で貴方の髪洗わせてくれない?」
「はぁ……髪ですか?」
「そうそう。前から一度やってみたかったのよね」
白く少し硬そうなあの髪を洗ってみたい。随分と前から考えていたことだけど、今回の寝癖を見て改めてそう思った。寝癖直すついでにもなるし、一日暇だし。
嫌そうにしてた旦那だったけど、期待の眼差しを向ける私に溜息を吐く。味噌汁を飲み干して、重たそうにその頭を一度上下させた。
「分かりました。お願いします」
私が机の下で、旦那に見えないようにガッツポーズしたのは言うまでもない。
それからは取り留めもない会話を交えながら、朝食を口に運ぶ。旦那の朝食を取る手が遅いのは、たぶん気のせいではないだろう。
そんな旦那の様子を見ながら、「そんなに嫌かしら」と私は内心首を傾げるのだった。
朝食を済ませ、私と旦那は風呂場に移動していた。
眼前には、風呂桶に腰を下ろす旦那。腰にバスタオルを巻いており、ガッチリとした背中が目の前にある。別に初めて見るわけじゃないから、取り乱したりはしない。もう夫婦だし、することはしてるし。
私は私で、何時もの私服である。少しくらい濡れても構わないので、このままだ。
改めて、旦那の爆発したみたいになっている頭に手を置く。
「じゃあ始めるわよ」
「はい、お願いします」
使うのはシャワー。蛇口を捻ってお湯を出す。
手で温度と水圧を確認して調整。ちょうどいい感じになったのを確認して、ゆっくりとお湯の流れる先端を旦那の頭に持って行く。
「お客様ー、湯加減はどうですかー?」
「丁度いいです」
お湯を充てること数分。いい感じに髪が解れた辺りで、手を止める。
「じゃあ次はシャンプー使うわね」
「お願いします」
一旦シャワーを脇に置き、シャンプーのボトルを手に取る。液体を出して、両手で泡立ててから、旦那の頭へ持って行く。手が触れた瞬間、少し強張る旦那の体。相変らず、他人に触れられることに慣れてないらしい。それも泡立てるように両手を動かしていると落ち着いたようで、体に入った変な力も抜けたようだ。今は気持ち良さそうに、桶に腰かけている。
「気持ちいい?」
「はい。気持ちいいです」
「良かった」
旦那の言葉に胸をなで下ろす。
私から提案したのだが、人生で他人の髪を洗った経験はない。洗ってもらったことはあっても、逆は初めてなのだ。以前、旦那の姉から聞いておいた”他人の髪の毛の洗い方”を実践したのだが、効果があったようで何よりである。
「どこか痒いところはある?」
「……つむじのところが」
「ここ?」
「はい、そこです。はぁ~……」
気持ち良さそうな声。安心して体を預けている旦那に、言い得ぬ感情が湧いてくる。
ただ、少し気がかりなこともあって。私が義姉さんに洗い方を教えてもらったという事は、当然義姉さんもこの人の髪を洗っていたということで。
私以外の人に洗ってもらっている時も、こんな表情してたのかなとか。彼の安心しきった表情を知っているのが私だけじゃないというのは、相手が義姉でも複雑な気分である。
それからしばらくは無言で手を動かしていたんだけど、ふと旦那が口を開いた。
「洗髪は姉の方が上手かったですけど、霊夢さんの方が安心しますね」
「そうなの?」
「ええ。あの人は確かに上手でしたが、少しでも動くと怒られましたから。何時も緊張していたように思います」
言われて、確かにと納得。
あの義姉ならやりそうだと思うと同時に、少し安心した。
それと同時に少し反省する。これくらいの事で嫉妬してしまうんだから、早苗に重たいと言われても反論出来ない。
それでも嬉しいものは嬉しくて、ついにやけてしまう。旦那が目を開けられない状態なのが幸いか。今の顔を見られたら、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだし。
旦那が絶対に目を開けられないように、先ほどよりも入念に髪を泡立てていく。
「霊夢さんは洗髪の経験があるんですか?」
目を閉じながら、旦那がそんなことを聞いてきた。
「魔理沙とか相手に数回だけだけどね。これでも結構緊張してるのよ」
「意外ですね。手慣れているように感じるんですが……」
そりゃ、そう思ってもらえるように髪洗ってるし。他人への洗髪経験が無い人に髪を洗われるっていうのも嫌だろうしね。だから極力ぎこちなさは出さないように洗っているわけで。さっきも言ったが、これでも結構ガチガチだ。
「まあ、貴方が気持ちいいならそれでいいのよ」
気持ち良さそうにしてる旦那を見るのは、私も楽しいし。
そんなわけで、私の初洗髪も滞りなく進行していき、後は泡を落として乾かすだけというところまでやって来た。
「そろそろ泡落とすわね。お湯かけるわよ」
「はい」
一言声を掛け、泡を落とすためにお湯を再び旦那の頭にかける。泡を落とした後はタオルで水分を入念に拭き取り、お次はドライヤー。スイッチを入れて、温風を旦那の白い髪に当てる。櫛で髪を梳かしながら乾かしている間も、旦那は微動だにしない。これもまた信頼の現れだろうか。もう泡も落としたというのに、旦那は未だに目を閉じたまま、緩んだ表情を見せている。
「……隙だらけなのよねぇ」
「何か言いましたか?」
「んん、何でもない」
ある程度髪が乾いたところで、ドライヤーを止めた。
「はい、終了ー」
「ありがとうございました」
「いやいや、こっちこそありがとうね。貴方の髪洗うの楽しかったわよ」
「ならいいのですが……」
申し訳なさそうに言う旦那に、私もあきれ顔。
髪を洗わせてと頼んだのは私なのに、それに対して謝罪するのはどうなんだ。相変らずといった感じなんだけど、旦那らしいと言えばそれまでの話で。
ポンポンと旦那の頭を叩けば、仄かにシャンプーの香りが漂う。
「良い匂い」
「霊夢さんに洗ってもらいましたから」
「いや、そうじゃなくてさ」
確かにシャンプーの匂いもするんだけど、それに混じって旦那本来の匂いも漂ってきて。シャンプーした後でもそれを嗅ぎ分けられる私って、少し変態みたい。
「私、貴方の匂い好きよ」
「……恐縮です」
「あはは、照れてる照れてる」
少し濡れてる背中に抱き着き、首に手を回す。
すぐそこにある彼の白い髪に顔を埋めると、ぞわりと彼の白い髪が逆立ったような気がした。だけど止めない。止めてあげない。
「……霊夢さん?」
「気持ちいいわねぇ」
本当、気持ちいい。
この匂いは私を駄目にする、それこそ麻薬のような物。一度味わうともっともっとと、どんどん欲張りになってしまう。だけどそんな私を彼は受け止めてくれるから、歯止めが効かなくなる。
それでも、このままでいいと思う。
浸ると抜け出せないような癖になる匂いに包まれながら、私は静かに目を閉じた。
こいつら風呂場で何やってんだ……