俺の涼風 ぼくと涼風   作:おかぴ1129

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タイミング的には15話め『二人だけの夜(2)』終了後です。
涼風が寝静まったあと、ゆきおが6話めの『二人で一人(1)』のことを思い出しながら、
色々と独白します。


番外編
ぼくの決意とワガママ


「そっかぁ……ゆきおとあたいは……」

「涼風?」

「二人で……へへ……一人かぁ……」

「眠い?」

 

 僕といっしょに布団の中に潜っている涼風の顔が、やっと安らいできた。まるで眠気に耐えられずにうとうととしだす子犬のように、涙で滲んだ綺麗な両目を薄く開き、そしてやがて、微笑んだまま、ぼくの問いかけに返事をしなくなった。

 

「……おやすみ、すずかぜ」

 

 スースーと心地よさそうな寝息を立て、涼風はぼくの胸の中で心地よく眠っている。ぼくの左手を握る涼風の右手から力が抜けた。今なら、涼風の手の内からぼくの手を抜いて、自由にすることができるけど。

 

「……」

 

 今はその気が起こらない。涼風の右手はとても温かくて、ぼくの左手をぽかぽかと温めてくれる。優しく、力なくぼくの手を捕まえている涼風の右手を、強く握り返す。

 

「……」

「……」

 

 涼風の右手が、ぼくの手を強く握り返した。ぼくの胸にドキンとした心地よい胸の痛みが走り、そしてその後ぼくの全身に、心地良い安心が充満していった。

 

「……涼風」

 

 胸が詰まる。再び、涼風の右手を強く握る。心の中を言葉にしてしまいたい衝動にかられ、唇をもじもじと動かした後、思い直して、口を閉じた。

 

 ぼくは、涼風に隠していることがある。

 

 ぼくに勇気をくれた涼風には、絶対に見せられない姿が、ぼくにはある。

 

 ぼく以上の恐怖に悩まされ、今も苦しむ涼風には言えない秘密が、ぼくにはある。

 

 涼風は、ぼくがここにいる理由を『男なのに艦娘の適性があるから』だと信じている。

 

 これは、ぼくが涼風についたウソだ。『どうしてここに来たんだ?』と涼風に聞かれ、本当の事を言いたくなくて、ついたウソ。

 

――……ぼくは、男の艦娘なんだッ

 

 そんなぼくの言葉を聞いた涼風は、きょとんとした顔で、『なんだって?』と聞き返してきてたっけ。当たり前だ。ぼく自身、『男の艦娘』なんて、聞いたことない。

 

 でもぼくは、ウソをついた。本当は、『男の艦娘になるため』だ。ぼくはずっと、艦娘にあこがれていた。巨大な艤装を身につけて、制海権をかけて、深海棲艦と日夜戦い続けるヒーロー。身体が小さくて弱いぼくには、到底なることが出来ない、かっこ良くて、とても強い人たち。そんな人たちに、ぼくはずっと、憧れていた。

 

 ……そしてぼくは、ぼく自身にもウソをついている。ぼくがここにいる本当の理由は、『男の艦娘になるため』なんかじゃない。それは……

 

………………

 

…………

 

……

 

 涼風に無理矢理外に連れだされ、はじめて大海原に出た日からしばらくたったある日。昼食を食べ終わったぼくの部屋に、看護師の女の人がやってきた。その手には、水が入った水差しとコップ、そして、パラフィン紙の包みが二つ。

 

「はい。じゃあこれを、これから毎食後に飲んで下さい」

「はい」

「一応二つ置いておきますけど、一つはこぼした時の予備です。飲むのはひとつだけで構いませんから」

「わかりました」

 

 その二つの包みには、ぼくは見覚えがあった。

 

――苦いんだよねーこれ……けふっ……

  ゆきおがピーマン嫌いなの、責められないなぁ……

 

 包みを開き、中を見てみる。見覚えのある白くて細かい粒子の粉薬のようだ。少しだけ、指にとってなめてみた。

 

「……苦い」

 

 それは、薬をこぼした時の母さんの周囲から漂っていた苦い空気と、同じ味がした。

 

 晩年の母さんが飲んでいた薬と同じものを、ぼくも出された。それが何を意味するのか、気づくのにさほど時間はかからない。答えにたどり着いた時、途端に血の気が引いたのが分かった。

 

「……ッ」

 

 覚悟はしていた。いつの日かその日が来るんだと、覚悟はしていたつもりだった。

 

 だけどこうやって、母さんが亡くなる寸前まで飲んでいた薬を自分にも処方されたとなると、ぼくもその日が近づいてきているんだという事実を、まざまざと見せつけられたような気がしてならない。

 

 足は布団の中に入ってるはずなのに、身体が酷く寒い。カーディガンを羽織ってるのに寒い。身体をなんとか温めたくて、二の腕をさする。それでも寒い。

 

 視界に靄がかかったように、見慣れた室内が歪みはじめた。なんだかとても息苦しい。新鮮な空気が吸いたい。こんな、消毒薬の匂いしかしない、息苦しい空間の空気なんかじゃなくて。

 

「……ッ! ……ッ!!」

 

 喉の気管が締まったかのように息苦しくて、痛くて、息をしていられない。ベッドから立ち上がり、急いで窓のそばまで移動して、閉じていた窓を開ける。途端にカーテンがバタバタとなびき、そして冷たくて新鮮な空気が、ぼくの部屋に吹き込み始めた。

 

「ハッ……ハ……ッ……フッ……フッ……」

 

 幾分息苦しさが改善された。乱れてしまった息を整え、上下に揺れる肩をなんとか収めた。窓の外は、眼下には一本の桜の木。そして目の前には、少し前に、涼風がぼくをおんぶして連れて行ってくれた、あの大海原が広がっている。

 

 息を整えて、気持ちを落ち着けろ。

 

 ぼくは、憧れの艦娘になるためにここに来たんだ。

 

 あの薬も、艦娘になるために必要なものなんだ。

 

 死ぬからじゃないんだ。

 

 そう、思うんだ。怖くなんか……ないんだ。

 

 ベッドのそばに戻り、キャスターの上に置かれた二つの包みを改めて見つめる。そのうち、先ほど開いた一つを手にとって、改めてジッと見つめた。母さんが飲んでいたものとまったく同じもののようだ。この細かい粒子の粉薬は、強烈に覚えてる。ぼくの目の前で母さんが飲んでいた粉薬。あまりの苦さに、母さんが飲んでる最中に吹き出してしまって、周囲の空気が苦くなってしまった、あの粉薬だ。

 

 水差しから水を一杯、コップに汲んだ。緊張で胸がイヤな鼓動を繰り返す。開いた包みを右手に持ち、水が入ったコップは左手に持つ。口に水を一口含み、意を決して、右手の粉薬を一気に流しこんだ。

 

 途端に口の中に広がる、強烈な青臭い苦味。ピーマンやにがうりの苦味を何倍にもしたような、舌に突き刺さってくるようなとてもイヤな苦味が、ぼくの口の中に広がった。

 

「ゲフッ!?」

 

 『良薬口に苦し』とはいうけれど、それでも、ぼくの身体はこの薬を飲み込みたくないようだ。ぼくは咳き込み、口の中の薬と水を口から盛大に吐き飛ばした。

 

 薬をもうひとつもらっておいてよかったと安堵し、キャスターの引き出しからもうひとつの包みを取り出す。その時、ぼくの口から吐き出された粉薬と水で汚れた、この部屋の床が視界に入った。薬を飲み終わったら、拭き掃除しなきゃ……

 

 再度包みを開き、口の中に水を含んで薬を口の中に流し込む。途端に口の中に強烈な苦味が再び広がり、ぼくの身体が再び拒絶反応を起こす。この上ない嘔吐感が、口の中の粉薬を吐き出そうと拒絶するが、ぼくはそれを根性でねじ伏せた。

 

「……んぐッ!」

 

 力を込め、かろうじて薬を水ごと飲み込む。口の中はまだ苦い。コップの中の水の残りを慌てて飲み干し、口の中に残る薬の苦味を洗い流した。

 

「ハッ……ハッ……」

 

 口の中の苦味が消える。いつまでも口の中に残るタイプの苦味じゃなくてよかった。でも、これを飲むならピーマンを食べるほうが何倍もマシだ。そう思えるほど苦い。母さんのことを尊敬する。こんなに苦いものを毎日飲んでいたんだから。

 

 でもこれからは、僕も毎日飲まないといけないんだけど……。

 

 コップをキャスターの上に置いて、脇にかけられた布巾を取った。床にこぼしてしまった水と粉薬を拭き取らないと。時間はお昼すぎ。いつもどおりなら、そろそろ涼風が顔を出す。それまでにはなんとか床を拭いて、室内の空気も入れ替えておかないと。ぼくは涼風が来ないうちに入り口のドアを開いて空気を入れ替え、そして床をささっと拭き掃除しておいた。

 

 そのままある程度時間を置いたところで、再び入り口のドアを閉じ、ベッドに入る。相変わらず窓は全開に開いていて、外から冬の空気の冷たさが部屋に入ってくるけれど、今は閉めたくない。閉めれば、なんとなく息苦しく感じてしまいそうだから。

 

 気持ちを落ち着かせたくてきょろきょろしたら、キャスターの上に置いてあった『艦隊戦』と書かれた本が目に入った。昨日『艦娘になりたいならこれでも読め』と言って父さんが置いていったものだ。その本を取ろうとキャスターに右手を伸ばした。

 

「ふんッ……!!」

 

 本は思いの外重くて、ぼくの力では持ちあげられない。非力な自分が情けない。

 

「んッ……ぐぐッ……!!!」

 

 渾身の力を振り絞り、なんとか本を持ち上げる。そのまま全力を込めて本を手元に持ってきて、そして、布団をかぶせた自分の足の上にドスンと乗せた。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 情けない……本を持ち上げただけなのに……たったそれだけなのに、こんなに息が上がってる。悔しさが胸にこみ上げる。涙が出そうになるけれど、それをグッとこらえる。少し大げさに息を吐き、ツンとした鼻の奥の痛みをなんとかこらえた。涼風には……ぼくに勇気をくれた涼風にだけは、こんな情けない姿は見せたくないから。

 

 少しずつ息を整え、ある程度収まったところで、ぼくは本のページをめくった。『魚雷・雷撃』の項目だ。ぐちゃぐちゃになりそうな気持ちをなんとか沈めたくて、ぼくはそのまま文章を読み進めていく。正直なところ、冷静になれるのなら、内容なんかどうでもよかった。

 

 不意に、トントンと静かなノック音が鳴り響いた。

 

「?」

 

 涼風かとも思ったけれど、その割にはいつもの元気がない。いつもなら、『ドカンドカン』とうるさいノックをしてくるのに。これはきっと、涼風じゃないな。ちょっと残念だけれど。

 

「はーい」

 

 とりあえず返事をしてみる。ドアの向こうから聞こえてきた相手の返事は、ぼくにとって予想外の人物だった。

 

『ゆきおー。あたいだ』

 

 予想外だった。あのノック音は絶対にありえない……そう思った涼風だった。

 

「え? 涼風?」

『うん』

「入っていいよ。どうぞー」

 

 返事の仕方も違和感しか感じない。そのことに疑問を感じながら、涼風を中に招き入れる。ドアノブが静かに回り、カチャリと静かにドアが開いた。

 

……

 

…………

 

………………

 

 あの時は、涼風が何に苦しめられているか、よく分からなかった。本人が言うように、ただ戦う勇気がないだけの、悪く言うと艦娘っぽくない、でも良く言えば、ぼくみたいな人間と同じく、悩み苦しみながら、でも精一杯前に進もうとする、とても真面目な人なんだとしか思ってなかった。

 

 だからぼくは、『そんなことないよ』と、涼風を励ました。涼風は、ぼくの憧れの艦娘なんだから……ぼくを大海原に連れ出してくれて、怒り心頭の摩耶さんに『もうちょっとここにいていい?』といえる人に、勇気がないなんて信じられないと、涼風の肩を押したつもりだった。

 

 でも、今にして思えば……どうして、あんなに無責任で、上辺だけの、いい加減なことを言ってしまったんだろうと思う。

 

―― あたいたちが前にいた鎮守府がさ……すごくひどいところだったんだ

 

 今日、涙を必死にこらえ、それでも流れる涙を我慢出来ずにポロポロと流しながら、涼風は、ぼくに昔の事を話してくれた。ぼくの想像をはるかに超えた過酷な過去に、涼風は苦しめられていた。4人の仲間の死に責任を感じて……一人の男の影にずっと苦しめられて、涼風はずっとこの鎮守府で、一人で震えて生きてきたようだった。

 

「ん……」

 

 ぼくの胸の中から、涼風が離れた。ぼくの手を離して寝返りをうち、仰向けになった涼風の寝顔は、本当に綺麗だ。

 

 今、ぼくの隣で、心から安心しきった寝顔をぼくに向ける涼風は、過去の話をしている間、ずっと……ずっと怯えた顔をしていた。

 

――あたいが、仲間を殺しただなんで、知られたくなぐで……

  知られたら嫌われそうで……

 

 そう言ってビクビクと肩を縮こませ、ぼくの手をギュッと握り、必死にぼくと一緒にいたいと訴える涼風を見て、ぼくは、二人でデートした時に出会った、今川焼きの素敵なお姉さんの言葉を思い出していた。

 

――守ってやんな!

 

 あの瞬間、ぼくの胸の中に、使命感のようなものが芽生えた。

 

――ここにいられる間は、世界で一番大切な涼風を守る

 

 今、ぼくの隣で、半開きの口からよだれを垂らしつつ、幸せそうに眠る涼風。彼女は、『自分が仲間4人を沈めた』という間違った罪悪感を捨て去った。彼女を苦しめていた鎖の一つは、無事に今日、外れたみたいだ。

 

 でも、涼風を縛る鎖は、もうひとつある。

 

――俺の涼風……俺だけの……涼風ぇぇぇえええ

 

 涼風をここまで苦しめた元凶の男の存在は、まだ解決してない。脱獄したという話だから、いずれ涼風の前に姿を表すのかも知れない。

 

 いつもあんなに元気に輝いてる涼風から、笑顔を奪った男。その男がもし再び、涼風の前に姿を見せた時は……ぼくは、絶対に涼風を守る。

 

――だから……

 

 涼風の、無防備な左手を握った。涼風の手はいつもあたたかい。涼風はいつも『ゆきおの手、あったけー』て笑顔で言ってくれるけど、ぼくから言わせれば、涼風の手の方があたたかい。まるで、優しくて元気な涼風本人みたいだ。

 

「……涼風」

「んー……むにゃ」

 

 涼風の顔を覗き込み、その綺麗な顔を眺めた。頭にふらふらと手が伸び、なでてしまう。

 

「ん……」

 

 涼風……ぼくは、涼風を嫌いになったりしないよ。二人で一人の……あこがれの涼風を嫌いになんてならないよ。ぼくは、ずっと涼風を守り続ける。

 

「だから安心して。ぼくは、涼風の隣りにいるから」

「……」

「ぼくは、涼風を守るよ。その男からも、がんばって守るよ」

「……ギリッ……!」

 

 そんな恥ずかしいことを口ずさんだけど、涼風の歯ぎしりが聞こえたことで我に返った。今のつぶやき、聞かれてないかな……そう思い注意深く寝顔を伺うけれど、起きた様子もなければ、笑いをこらえてる様子もない。ホッと一安心して、再び涼風の頭に触れた。

 

――だから涼風……

 

 涼風のやわらかいほっぺたに、右手で優しく触れる。『んん……』と声を上げた涼風は寝返りを打ち、顔がこちらを向いた。ほっぺたに触れるぼくの手を、下敷きにした。

 

「……!?」

「ギリっ……!!」

 

 ぼくの右手に、涼風の歯ぎしりの感触が走った。涼風のほっぺたはとても心地いい。あたたかいほっぺたが、ぼくの右手を包み込む。ちょっとびっくりしたけれど、そのあたたかさはとても心地よくて、いつまでもいつまでも、触っていたい。

 

――助けて

 

 ……でも、そう遠くないいつか、ぼくは、このほっぺたに触れられなくなる。

 

 自由になっている左手を動かし、涼風のあたたかい右手に触れた。その手もとても温かくて、触っていて胸がいっぱいになる手で……ずっとずっと、繋いでいたい手で……

 

――ぼくを助けて

 

 でもその手も、いつの日か、離さなきゃいけない手で……

 

「……涼風」

 

 目に涙が溜まってきた。じっと見つめる涼風の顔が滲んでくる。鼻が垂れてきて、息がしづらくなってきた。

 

「けふっ……すずか……ぜ……」

「……」

「涼風……すずかぜ……」

 

 ずっと涼風の隣りにいたいのに……こうやって、ずっと手を繋いで、ずっと、一緒にいたいのに。

 

「涼風……ひぐっ……」

「……」

「一緒に……けふっ……ずっと一緒に、いたいよ……」

 

 ずっと隣にいたいのに。憧れの涼風の隣で、ぼくも涼風と、ずっと一緒に、笑いたいのに……守りたいのに。手を繋ぎたいのに。

 

「涼風……ひぐっ……」

「……」

「涼風と……離れたくないよ……一緒に、いたいよぉ……」

「……」

 

 死にたくないよ涼風……ずっと、涼風と一緒にいたいよ。

 

「守るから……ぼくが、ひぐっ……ずっと涼風のこと、守るから……」

「……」

「だから、助けて……ぼくを助けて……一緒にいさせて……涼風ッ」

 

 助けて涼風。ぼくは、ずっと手をつないでいたい。一緒にお菓子を食べて、幸せを感じて、そして一緒に本を読んだり、元気なきみに振り回されたりしたいんだ。

 

 もう、あんな苦い薬も飲みたくないよ……『艦娘になるため』って自分に言い聞かせるのも疲れた。死にたくないよ……一緒にいたいよ涼風……

 

「こわいよ……死にたくないよ……ひぐっ……一緒にいたいよ……」

「……」

「すずかぜ……助けて……けふっ……助けてよぉ……すずかぜ……っ」

 

 涙が枕にぼろぼろとこぼれ落ちた。すやすやと眠る涼風の寝顔が、遠く離れた場所にあるように感じた。鼻水が止まらない。咳き込んで、うまく呼吸も出来ない。

 

 ……怖い。怖いよ。涼風から離れるのが怖い。死ぬのがとても怖いよ。助けて涼風。涼風は、ぼくが守るから。

 

 ぼくと涼風は二人で一人だから……涼風はぼくがずっと守るから。だから、ぼくを助けて下さい。涼風、ぼくを助けて。

 

「……ギリッ……ゆきお……?」

「!?」

 

 涼風のとても綺麗な口が動き、舌っ足らずな声でぼくの名を呼んだ。ぼくの嗚咽が大きくて、目を覚ましてしまったんだろうか。慌てて涙を袖で拭こうとするけれど、右手は涼風のほっぺたの下敷きになってるし、左手はいつの間にやら涼風の右手に掴まれてる。身動きが出来ない。まずい……泣いてる顔を見られる……

 

「す、すずかぜ?」

「んー……ゆき……お……」

「……?」

「やったな……まが……れた……」

「……?」

「んふー……あたいと……ゆきおは……二人で……ひと……」

 

 たどたどしい、舌っ足らずな声でそう言う涼風は、嬉しそうにニッコリと微笑んだ後、またギリギリと歯ぎしりの音を鳴らしつつ、安心しきった寝顔に戻った。

 

 涼風は、夢を見ているみたいだ。それも、ぼくが涼風の艤装を借りて、演習場に立った時の、あの、とても楽しかった日の夢を。

 

 ぼくはただの人間なのに、涼風が貸してくれた艤装が作動した理由は、今もよくはわからない。

 

 でもあの日、涼風は確かに、ぼくを艦娘にしてくれた。大海原に連れて行ってくれたときと同じく、涼風はぼくに勇気をくれて、ぼくの背中を押してくれて……そして、ぼくを憧れの艦娘にしてくれた。

 

 ぼくは確かにあの日から、改白露型の4番艦、涼風になったんだ。

 

 涼風が、ぼくを涼風にしてくれたんだ。憧れの、涼風に……。

 

 そんな涼風を苦しめている人がいるというのなら……泣いてちゃいけない。助けてなんて、言ってなんかいられない。

 

 涼風が、ぼくの左手を離し、ほっぺたで下敷きにしている右手の手首を優しく掴んだ。

 

「……ゆきお……」

 

 その途端、涼風の寝顔がフッと柔らかく微笑む。涼風のこの笑顔を、ぼくは守りたい。

 

「……そうだね。泣いてる場合じゃないね」

「……んギッ……」

 

 自由になった左手の袖で、自分の涙を拭った。鼻をずるずると鳴らし、鼻水を全部吸い込む。さっきまであんなに滲んでいたぼくの視界は今、輪郭をくっきりと取り戻し、涼風の寝顔を鮮明に映しだした。

 

「……すずかぜ、ぼくはね。そのうちいなくなる」

「……」

「でも隣にいる間は、絶対に守るから」

「……ギリッ」

 

 鼻の奥が再びツンと痛くなる。涙が溜まってくるけれど、びっくりするほど視界はクリアだし、不思議と喉も震えない。

 

「そして、隣にいられなく……なっても」

「……」

「ぼくは、涼風といっしょにいる……から……」

「……」

「見えなくても、一緒に……いるから……ッ」

 

 たとえ涼風には見えなくても、ぼくは、ずっと涼風と一緒にいるから。いつの日かぼくのことを忘れて、幸せな毎日を送れるようになるまで、ぼくはずっと、見えなくても、そばにいるから。

 

 ベッドの下に視線を落とした。今、ぼくたちが眠るベッドの下には、涼風には秘密にしている、指輪の制作キットを隠している。ぼくがまだ小さい頃、父さんが『惚れた女には指輪を渡すもんだ』て笑いながら言ってた。その時はまだ意味がよく分からなかったけど、今なら、父さんが言っていた事が分かる。

 

 ぼくは今、涼風に指輪を渡したい。誰よりも何よりも大切な涼風に、ぼくは自分の気持ちを渡したい。

 

 でもその指輪は、後に涼風を縛ることになるかもしれない。たとえその時は大切なものだとしても、いずれその指輪が、邪魔になる日が来るかも知れない。

 

 指輪を渡したいのは、ぼくのワガママだ。

 

 だから涼風。ぼくの指輪を邪魔に感じる日が来たら、その時は、渡した指輪は捨ててね。そうしたら、ぼくも涼風のそばから離れる。その時は、『二人で一人』から、『二人』に戻るよ。ぼくは消える。

 

 だから、涼風の薬指に、指輪を通すことを許して。そして、指輪を捨てるその日まで、涼風のそばにいさせて。

 

 指輪を渡した時、涼風は喜んでくれるだろうか……

 

 ぼくが姿を消した時……涼風は、怒ってくれるだろうか。『一緒にいなきゃだめじゃねーかべらぼうめぇ』とか言って、ぷんすか怒ってくれるだろうか。

 

 その時、一緒にいるはずのぼくのことを、感じてくれるだろうか。

 

 ……そしていつの日か、ぼくの指輪を捨ててくれる日が、来るだろうか……。

 

「すずかぜ」

「……」

「好きだよ。大好きだよ」

「……ギリッ」

「だからちゃんと……ちゃんといつか、ぼくの指輪は、捨てるんだよ?」

「……」

「ぼくのこと……ちゃんといつか、忘れるんだよ? それでも元気でやっていくんだよ?」

「……」

「大好きだよ……大好きだよ……すすかぜ……ッ」

 

 涼風は、何も答えてくれなかった。ただ、ぼくの隣で、安心しきって気持ちよさそうに、時々歯ぎしりをして、スースーと静かな寝息を立てていた。

 

 ぼくは、ぼくの右手首を握る涼風の右手に、自分の左手を重ねた。涼風の寝顔を眺めるぼくの視界が、徐々に狭まってくる。大好きな涼風と一緒に眠れる……その安心感は、ぼくの心を蝕む、死への恐怖も、涼風の隣からいずれ離れる悲しさも何もかも鎮め、胸に温かく、心に心地いいぬくもりを届けてくれた。

 

 その日ぼくが見た夢……それは、艦娘となって大海原を駆けるぼくと、そんなぼくのはるか先で、こちらを振り返り、楽しそうに満面の笑みでぼくに向かって手を振る、大好きな涼風だった。

 

――ゆーきーおー!!

 

――すずかぜー!!

 

終わり。

 

 


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