「魔法使いは幸せを望むすべての子供の母親で希望なの。だけど簡単に会うことはできないのよ。でももし、あなたが正しい心を失わずにいたなら、魔法使いは必ずあなたを助けてくれるわ」
幼い頃に母から聞かされたのは夢と希望に満ちたおとぎ話だった。そしてその頃の彼は、そんな母の話を聞くのがなによりも好きだった。
けれどそれは遠い過去の話。
夜が明けると慶次の仕事が始める。家畜の世話から広大な屋敷の掃除。そして洗濯まで。すべての家事を昼までに終わらせると今度は庭に作った畑仕事が待っている。
母は慶次が幼い頃に亡くなり、父はその後で別の人と再婚した。母が亡くなった事は悲しかったが、新しい母やふたりの兄ができたのは嬉しかった。けれどその幸せもすぐに終わってしまう。
父と継母は新婚旅行に出掛けたまま帰ってこなかった。旅行途中で船が沈没してしまい、ふたりとも天に召されてしまったのだ。
それでもその時の慶次はまだ独りではなかった。継母が連れてきたふたりの兄とともに力を合わせて生きていけたらと考えていたのだ。
けれどそれが間違いであると気づいたのは、父たちが亡くなって数ヶ月が経った頃だった。
仕事があるからと出掛けた兄たちはたまに帰るだけとなってしまう。思えばまだ子供だった慶次は継母がどんな素性の人なのかを知らなかった。そして年の離れた兄たちがどんな仕事をしているのかもわからない。
そうして独り広い屋敷を維持しながら、慶次は17の誕生日を迎えようとしていた。
朝から屋敷の掃除をした慶次は暖炉やかまどの灰を集めて畑に運ぶ。その足元を家畜小屋から出てきたアヒルがつきまとっていた。
「ガーコさん、離れてないと灰まみれになるよ」
畑に肥料として灰をまく作業の合間もアヒルは慶次にまとわりつく。そのため慶次はアヒルを避けることに苦心しながらなんとか灰をまき終えた。
作業を終えた慶次は道具を片付けながら顔に垂れた汗をぬぐう。今日はさわやかな晴天に恵まれ外の作業も苦にならない。しかしふきだすような汗は少し気持ち悪かった。
意を決して屋敷を飛び出した慶次はアヒルに声をかけながら庭を駆け抜ける。
「川で水浴びしてくるから留守番よろしくな!」
声をかけたところでアヒルから何かが返されるわけがない。ましてやアヒルが留守番などしてくれるはずもない。けれど慶次はいつもそうやって家畜に話しかけていた。
屋敷から少し走ったところに緩やかな流れの川があり、慶次はよくそこで魚を釣って夕食などにしていた。そんな馴染みの場所ではあるが、今まで他に人を見たことはなかった。
街から遠く離れたこの土地は森に囲まれ近くに民家もない。そのためまさか川に人がいるなど考えてもいなかった。
お気に入りの場所へ近づいた慶次は茂みの中から恐る恐る先客をみる。釣りをしているらしいその若者は慣れた様子で針にミミズを刺して川に垂らしていた。
しばらく見ていると若者の竿に魚がかかる。この川は流れも緩く栄養も豊かで魚にとっては良い環境だ。そのため慶次が釣ってきた魚もどれも大きくよく育っていた。
そして若者もおそらくかなりの大物を相手にしているのだろう。狭い足場で苦戦していた若者の身体が不意に傾く。
「あぶない!」
とっさに飛び出した慶次は若者にしがみつき支えようとする。けれど支えきれずふたりはそろって川に落ちた。
流れの緩やかな川の中で立ち上がった慶次は流されていく竿を眺める。すると若者から大丈夫かと声をかけられた。
そのため慌てて振り向き笑顔を作る。
「俺は大丈夫! それより支えてやれなくてごめんな」
久しぶりに人と話すためいくぶんかの緊張はあった。けれどそんな慶次よりも若者のほうが驚いたようなおかしな顔を見せている。
しばらく停止していた若者はかなりの間を開けて首を縦に振った。
「あ、ああ…それは構わない。それよりこの近くの子か?」
「そうだよ。すぐそこに家があるんだ」
若者からしたらこんな森に人が住んでいた事が驚きなのかもしれない。だから変な顔をしていたのだろう。そう思いながら慶次は岸に上がった。
「どこから来たのか知らないけど、これから帰るなら濡れたままだと風邪引くよな。それならうちで服を乾かすとか……」
途中で馬のいななきが聞こえたため慶次は言葉をとぎらせる。振り返ると茂みの向こうに黒く大きな馬がいた。馬には人が乗っていて、並び立つ白馬の手綱をつかんでいる。
帽子を目深にかぶっているため顔はよく見えないが背の高そうな男だった。黒い軍服を着た男は騎馬に乗ったままこちらを見つめている。
「なぁ、あの人は…」
「すまない。もう行かないと」
男に気づいたとたんに若者は慌てた様子で岸に上がり駆け出した。茂みをかきわけ馬に近づくと白馬にまたがり慶次に顔を向けてくる。
若者が何かを言う前に、慶次は思いきって手を振ってみた。
「また会おうなー!」
笑顔で声をかけると若者は小さく手を振り返してくれる。ただそれだけで慶次は嬉しい気持ちに包まれた。
馬蹄の音を響かせて森の中を進む若者は前を進む男に目を向ける。
「隊長、こんな森の中にも人が住んでいるんだな」
思いきって男に問いかけてみる。すると前を進んでいる馬が歩みを緩めて若者の隣にやってきた。
「いないと思ったのか?」
「こんな広い森の中では不便しかないからな。それに隊長が勧める場所だから、誰もいないと思っていた」
誰もいなければ警備もいらないからと、若者は苦笑いを浮かべて言う。そんな若者に男は鼻で笑って返した。
「ガキがひとりいた程度で問題にならねぇだろ」
「確かにあの子が俺を襲うとは思えない。だが…」
あんな可愛らしい子がこちらを衝撃するなど考えられない。だとしたらあの子がいたところで、隊長としては警備に支障を来さないのだろう。そう思いながらも若者は先ほど知り合った人物について頭を巡らせた。
そんな若者を横目にした男は口許を緩める。
「おまえがあいつを襲いでもしない限り何も起きねぇよ」
「はっ!?」
男から向けられたからかうような言葉に若者は顔を赤らめる。するとなぜか男は顔をしかめてにらみつけてきた。
「マジか」
「隊長の言いたいことはわかってる。こんな辺鄙な場所に住む平民を相手にするなんて非常識だ」
「いやそういうことじゃ…」
「それにあの子は男だからな」
「あのな…」
「だけど一目惚れなんだ。むしろ俺は最初あの子を森の妖精なのかと思ったくらいだ。だけどあの子はどうやら人間で、この国の民だ。だとしたら恋愛関係になるのも不可能じゃないはずだ」
熱弁を振るう若者の隣を進みながら男はため息を吐き出した。