意気揚々とあの廃村を出発してから1週間。俺は荒れた街道を歩き続け漸く森林地帯を脱出する事に成功していた。旅は不慣れと言うか初めてだが、仮にも舗装された道な以上殆ど問題は起きなかった。せいぜいが、肉に溶けていた媚薬成分に反応したり、普通に腹を壊したくらいである。
だがそんな状況を乗り越えて、水も食料も残っており、且つここからはもう平地だ。街を囲う長大な市壁も、目視の範囲内にある。最悪の状況に陥る事だけは、避けることができただろう。
そう判断し、歩みを進める事約1時間。後少しで街に到着する、そう思った矢先の出来事だった。ヒュッという風切り音が鳴り、すぐ隣に1本の木の枝が突き刺さった。罠か、それとも魔物の襲撃だろうか?
「《収納》ッ!」
だが次の瞬間、そんな甘い認識は覆された。飛んできた物は枝なんかではなく矢。方向は、街の方からだ。どうにか手甲に当て収納する事で回避したが、確実に良くない事が起こっている。
「《排出》」
嫌な予感に駆られ、矢を捨て槍を取り出した俺の視界に、案の定それは映った。街から長い槍を持ち馬に乗った3人の鎧騎士と、長い弓を持った軽装の騎士2人が現れたのだ。しかも、明らかに俺を目指して向かって走り出していた。そしてこれは、何をどう考えても友好的じゃないのは明らかだ。
「チッ、力よ来たれ!」
舌打ちをしつつ呪文を唱え、街から遠ざかる様に俺は全力疾走を始める。半分人間じゃなくなった事による身体能力の変化と、魔術により強化した脚の相乗効果で凄まじい速度を叩き出してくれたが、流石に馬に及ぶ事はない。
結局、逃げ切る事は出来ず俺は追いつかれてしまうのだった。しかも呆気なく、前方以外を固められてしまった。
「ちょっ!?」
そしてそのまま一切の警告もなしに、両脇から挟み込む様に馬上槍が振るわれた。そして背後からも、逃げ場を潰す様に突き出されているのが分かる。前には出れず、左右と背後は詰んでいる。ならば逃げ道は一つしかない。
「らぁッ!」
裂帛の気合いと共に足を踏切り大跳躍。軸足にした所為で遅れた右脚を浅く斬られつつも、俺は空中に身を投げ出した。そこに狙いしましたかの様に、2つの矢が到達した。
「《収納》」
その弓矢を片方は槍に当てて収納し、もう片方は胸当てに直撃させて弾いた。衝撃と痛みに耐え、集中力を切らさずに、俺は背後から迫っていた鎧騎士に強化込みの蹴りをブチかました。
無茶というものには、どうあっても代償が存在する。
渾身の蹴りによって鎧騎士を落馬させる事に成功はしたが、俺もバランスを崩し受け身も取れず地面に叩きつけられてしまった。数回のバウンドの後、全身の痛みを堪えて跳ね起きる。
「問答無用って、訳ですか」
槍を持ち直し改めて見直せば、僅かに崩れた敵の布陣は再度出来上がっていた。再度のランスチャージの為か遠くで旋回している2騎。弓に矢を番えるのが2騎。そして、剣を引き抜きこちらに走り出しているのが1騎。
自己否定ーー諦めを否定しました
俺なんかが曲がりなりにも騎士に地力で勝る筈はなく、いつもの様な奇襲は使えず、数で負け、射程で負け、頭数でも負けている。唯一攻撃だけは通じるだろうが、当てられなければ意味がない。
「しッ!」
槍の前段を握り、バントする様に矢を受け弾く事に成功した。そしてそのまま、俺は走り出してから考える。とりあえず走り回っていれば、鎧騎士は追いつけないし弓の命中率も下がるから、棒立ちや戦闘中よりはマシである。
自己否定ーー希望的観測を否定しました
だが、どんなに考えを巡らしても、死ぬ以外の結論が見えてこない。一つだけ試していない手が残っているが、何が起きるか分からないから手を出したくない。
「……いや、そうじゃないか」
躱し損ねた矢が頬を掠め、痛みと共に血の匂いを鼻に届けた。ああそうだった。██って死ぬなんて馬鹿だ。やるならとことんやり切って、死ぬか一片の生きる確率に賭ける事にしよう。0か1かなら、1に全てを賭けてこそだ。
「よし……《収納》《排出》」
これ以上の戦闘で痛まぬ様、コートを収納する。そして槍の前段を口元に当て、仕舞っていた2種類の薬品を口の中に排出する。混ざり合った事でケミカルな味に変化した薬を飲み込んだ事で、心臓が激しく脈打った。
自己否定ーー判定に失敗しました
自己否定ーー判定に失敗しました
視界が異様に明るくなり明滅し、大気の臭いが異常に良く感じられる。肌に当たる砂塵の一つ一つすら分かるほど、触覚も過敏になっており、露出した皮膚を焼く日光が疎ましい。けれど、全身の体調が好転し、何も映らなかった左の視界に謎の透明な流れが見える様になった。
その流れが、魔力の流れだという事が直感できた。痛みだけが一切感じられない今ならば、魔術の精密な発動だって可能だろう。再生なら効果と速度が増し、閃光なら光が増し、強化ならば──
「力よ、来たれ!」
今までと違い、強度だけでも力だけでもなく、同時にその両方の強化が可能になった。倍率も、痛みを無視できる分限界を超えて上げられる。
「はハッ」
増加した分も合わせて、既に枯渇しかけの魔力を振り絞り強化を掛ける。壊してしまいかねない槍を収納し、ありったけの力で拳を握り締め、笑みを浮かべて俺は徒歩の鎧騎士に向かい跳躍する。
「ひとぉつ!」
振り下ろした拳が、砕ける異音と共に鎧騎士の頭部にめり込んだ。途端に、鼻に飛び込んでくる人血の匂い。それによって、何かを繋ぎとめていた細い糸がプツンと切れた。
飛び散る血の赤が美しく見える、鉄錆臭い血の香りが芳しい。そして壊れた手を、同じく壊れた人間の頭に突っ込みぐちゃぐちゃとかき回すのは、嗚呼何とも言い難い快感だ。
自己否定ーー判定に失敗しました
そんなチートの事を無視し、飛来してきた矢を避けるために後方に大跳躍をする。同時に両脚からブチンと何かが千切れる音がし、足に力が入らず着地に失敗してしまった。困惑する俺に、間が悪い事に騎兵達が2度目のランスチャージを開始した。まだ距離はあるが、それが詰められるまではもって数秒。
無茶をして、結局この始末か。そう思った俺の左眼が、その存在を主張する様にドクンと脈打った。
自己否定ーー判定に失敗しました
「◾️◾️◾️◾️」
口からよく分からない音が発せられ、俺の身体が
「がほっ!?」
無事にやり過ごせたと思ったのもつかの間、俺は口から血の塊を吐き出す事になった。理由は不明、痛みも薬で麻痺しているが、これ以上は良くないと本能が警告を発している。
自己否定ーー判定に失敗しました
ならばやる事はただ1つ。とっとと殺して終わりにする事である。
「癒しよ来たれ」
ワンフレーズで魔術を起動、強化したままの足を再生させ弓持ちの片割れに突撃する。再び断裂音が響いた足を再生、身を低くして疾走し、強化した右腕で突き上げる様に抜き手を放つ。
「化け物めがッ!」
そんな弓持ちの声を意識から外し、飛び上がる勢いのまま首筋に噛み付いた。
いつのまにか尖っていた八重歯が皮膚を突き破り、口の中に鉄錆の味を溢れさせる。そのまま吸い付きたい誘惑を振り切り、強化した顎と首の力で相手の首を噛みちぎった。紅い花が咲いた。
「ふたつ!」
そのままの勢いで四肢を使い獣の様に着地、全力で2騎目の弓持ちに向かい走り出す。再び足から断裂音が聞こえたが、痛みは無いし治るから今は問題ない。髪の毛から滴る血液も同様だ。
「死ね! 出来損ないめが!」
そんな俺に、弓持ちが矢を連射してくる。だが、先程までと比べて明らかに精彩を欠いている。理由は分からないが、多少ジグザグに動くだけで回避出来るのは好機に違いない。腰に佩いていた短剣を抜き放ち、俺は突撃を敢行する。
「みっつ!」
どうにか追いつき、逆手に持った短剣を振り下ろす。僅かに錯乱状態に陥っていた弓持ちは、それだけで呆気なく静かになった。血を振り払い、短剣を元の鞘に収める。
自己否定ーー判定に失敗しました
先程から鳴り止まないチートだけは不愉快だが、それ以外は寧ろ調子が非常に良い。たが全身を走る多福感に酔い痴れていたせいで、起こっていた出来事に対し反応が遅れてしまった。
「チッ!」
仕留めることの出来なかった鎧騎士の片割れ、それが街に向かって逃走を開始していた。もう片方がこちらに三度ランスチャージを開始している為、こちらは捨て駒の時間稼ぎだと思われる。
自己否定ーー判定に失敗しました
informationーー最適化を開始します
「◾️◾️◾️◾️◾️、◾️◾️◾️」
逃したら、殺される。そう思った瞬間、再び自分の口からあのよく分からない音が発せられた。だが、今度は何も起きない。今ので魔力は殆ど尽きてしまい、身体を脱力感が襲う。それはランスチャージの回避も、伝令を止める事も不可能になった事を表していた。
万事休すか……そう思った俺の耳に、巨大な風切り音が聞こえてきた。同時に太陽が翳り、強大な気配がいつのまにか頭上に出現していた。ぎこちない動きで空を見上げれば、そこに存在していたのはまさしく化け物だった。
10mはある巨大な図体に、爬虫類を思わせる霞んだ黄緑色の鱗と大きな翼。物理的な法則が無視された羽ばたきを続ける翼と発達した後脚に鉤爪を持ち、強靭な尻尾はそれだけで人を叩き潰す事など造作もないだろう。そして、口を開きその鋭い牙を見せつけ、こちらをその縦長の瞳孔で見つめてきている。そんな特徴を持つ魔物を、俺は1種類しか知らない。
「ギャオォゥ」
それは竜種。数多存在する魔物の中で、頂点に君臨する絶対王者。特徴からして最下位の
何かに導かれる様に、俺は騎兵を指差す。それだけで俺の意思が伝わったのか亜竜は小さく頷き、その巨体に似つかわぬ俊敏さで飛翔した。そして迫っていた鎧騎士を馬ごと鷲掴みにし、逃走していた鎧騎士も一息で食い殺してしまった。
informationーー最適化が実行されました
自己否定ーー魔族化を否定しました
瞬間、心だけがリセットされた。いや、正気の人間としての物に回帰したと言うべきか。今まで自分は何を考え、何をしていた? 何に呑み込まれて暴走していた?
自己否定ーー嫌悪感を否定しました
喉元まで迫ってきていた吐き気が急速に引いていく。だが、自分を苛む気持ちは一切変わらない。気持ちが悪い、その一言に尽きる。口の中に残る血の味と臭いが、更にその気持ちを助長する。
「ガア?」
けれど、そんな事を考えはすぐに中断する事になった。夢中になって鎧騎士を貪っていた亜竜が、俺の方をじっと見ていた。しかも、先程とは違う餌を見る目で。
「グギャアッ!!」
何故か全身から光の粒子を放つ亜竜が、恐ろしい速度でこちらにこちらに迫ってくる。先程までの様な直感はもう発動してくれず、何が起きているのかは分からないがマズイ。あんな化け物は、俺の手に余るものではない。
「《排出》、力よ来たれ!」
愛槍ではなく、スペアとして回収した槍を取り出しなけなしの魔力を使って強化。自分を守る様に構えた時には、既に目の前に黄緑色が迫っていた。
「カッ……」
強化した槍が真っ二つにへし折れ、胴体から異音が連続して俺は吹き飛ばされた。痛みはないが血が溢れ、いつまで経っても地面に落ちる感覚が訪れない。寧ろ、明滅する視界は俺が打ち上げられた事を主張していた。
だが、この程度では終わらない。
半分程透明になった亜竜が、目の前に突然出現した。恐らく普通に追いついたのだろう。そして再び、しなる尻尾が俺を打ち付けんと振りかぶられる。
「《収、納》!」
折れた槍の穂先がある方を掴み、無理矢理突き出す。
狐の最後っ屁の様な俺の一撃は、確かに尻尾を抉り血を噴出させたが、それだけで終わった。粉々に槍は砕け、腕はへし折れ、衝撃を殺すことは出来なかった。
「かひゅっ」
口から出たのは、そんな情けない空気の漏れる音。光に包まれ霧散していく亜竜を見ながら、俺は恐ろしい速度で弾き飛ばされる。確かこっちの方角には【プラム村】の周囲から広がる大森林があった筈。俺の結末は、野生動物の餌らしい。
諦めがつき張り詰めていた緊張の糸が途切れた途端、意識が遠のき始めた。血でも流しすぎたのだろうか?
「ははっ、なっさけないの」
最後にそう自嘲し、俺の意識は安寧の闇へと溶けていくのだった。