瀧の案内で、2人は新宿通りを少し外れた場所にある居酒屋に入った。おしゃれな内装で落ち着いた雰囲気の店だ。瀧は家の内装デザイナーとして働いていると聞いたが、なるほど、確かに彼の紹介してくれたお店はどこもおしゃれだ。ついでに言うと、服装もなかなかきまっている。ボーダーの入った明るめのインナーに、黒系のジャケットでビシッと決めている。きちっとしすぎず、それでいて真面目さを感じさせる組み合わせで瀧によく似合っていた。三葉は現在アパレルメーカーに勤めていて人のファッションには敏感なのだが、瀧のそれは、そんな三葉から見ても高評価だ。そのうえ美容院に行ったのか、この前初めて会ったときよりも髪が短く切りそろえられている。やっぱり無造作に伸ばすよりこの方が瀧には似合う。つまるところ三葉の感想は「かっこいい」の一言にまとまる。
最初の一杯で瀧は生ビールを、三葉はカシスオレンジを、そのほかに瀧がおすすめのおつまみをいくつか注文した。
「正直、最初のデートから居酒屋っていうのはちょっと気が引けたんだよな。」
瀧が徐に口を開く。
「ううん…ぜ、全然、そんなこと…」
ーー改めて2人になると緊張するなあーー
「そう言ってくれると助かるよ。ところで、前もって聞いておけばよかったんだけど、お酒はどのくらい飲める?」
「え、えっと…まあ普通かな。」
実は普通よりも強くない。割とすぐに酔いが回ってしまうタイプだ。しかし、弱いと言えば瀧は間違いなく気を使ってしまうだろう。そう思い、三葉は無難な答えで返した。
「そうなんだ。まあ無理はしないようにな。」
ーー優しいな、なるべくかわいいお酒で頑張ろうーー
「たーきくん。えへへ、呼んでみただけやよー」
なんとなく予想はしていたが、まさかここまでとは…。店に入って30分ほど経った辺りから三葉は饒舌になり始めた。そして1時間ほど経っただろうか、三葉は今かわいい甘え口調になって瀧の隣に座っていた。
最初瀧は居酒屋にして正解だと思った。初めて会った日のレストランでもそうだったが、三葉と話しているとそれまでの緊張していたのが噓のように、まるで同級生と話しているみたいに自然体になれる。今日は、お酒の力も借りて、高校、大学生時代の思い出話、互いの友人、職場の話などなど話題は尽きなかった。三葉の幼馴染二人が近々結婚するという話も聞いた。やがて会話が進み、お酒も進み、どんどん三葉は饒舌になっていき、ついに今の状態になってしまったというわけである。三葉はたぶんそんなに酒に強くないんだな。やっぱちょっと居酒屋は失敗だったかなあ。それにしても三葉が甘え上古だったとは…。うん、これはこれで……。
「たーきくん。あーんして」
と言って箸でつかんだマグロのカルパッチョをテーブルに落とす三葉。
「いや、いいわけないか。」
これじゃまるでバカップルだ。幸せを満喫するだけでは飽き足らず、それを周りに見せびらかしてくる奴ら。うらやましいとは思わず、むしろ瀧は今までそういう連中を軽蔑していた。だけど…、酔ってこの上なくかわいく甘えてくる三葉を見ていると、もう少しだけこうしていたいと思う心の中の自分が顔を覗かせる。今、瀧の心の中では「理性」という名の壁を「性欲」という名の怪物が崩しにかかっている。密着する三葉から伝わる体温が、柔らかい感触が怪物の勢いを増長させる。
「たきくん、どうしたん? わたしはまだよってないんよー」」
「三葉、いったん水…。」
「だいじょうぶやって。そんなによってないからぁ」
「いいから、ほら。」
瀧はそこそこお酒に強い方だ。そのため飲み会の時はだいたい最後まで飲んでいて、介抱も手馴れたものだ。しかし、三葉はまだ意識を保っている(瀧も酔いつぶれた三葉はさすがに見たくなかった)。そして何より、ただでさえかわいい甘え方がさらにエスカレートしてきた。ひたすらに密着してくるのだ。水を飲ませるのも一苦労だ。
ーー俺の理性がぶっ飛ぶ前に、帰ろうーー
瀧は足取りのおぼつかない三葉の肩を組んで歩き、四ツ谷駅から電車に乗った。三葉の最寄り駅は知っていたが、家まではさすがにわからない。三葉のスマホから四葉に電話して迎えに来てもらおうとしたが、彼女のスマホにはロックがかかっていた。少々予想外だった。別に普通のことなのに(瀧は高校生のころから変わらずかけていないが)、何で意外に感じたんだろう…と、ふと思ったが、いよいよ手詰まりになり瀧は本格的に悩み始めた。とりあえずどこかに座って三葉の酔いを覚まそうと瀧は考え、目に入ったベンチに腰掛けた。三葉の腕を肩から外すと、瀧の肩に三葉が体を預けてくる。
「ちょっ、三葉?」
「…すぅー…」
三葉は静かに寝息を立てていた。その幸せそうな寝顔を見て瀧は小声でつぶやく。
「やっぱり、かわいいな」
今日一日の疲れからか、急な眠気に襲われた。そういえば、三葉といるのが楽しくて少し飲みすぎてしまったかもしれない。それからまもなく瀧も夢の中へと落ちていった。
俺は走っていた。早くしないと手遅れになる、そんな思いに突き動かされて。もう夜のはずなのに、空は異常に明るかった。俺はなぜかその明るい空を見たくなかった。前だけを見て必死に走る。つま先に何かが当たったという感覚を感じたときにはもう遅かった。俺の身体は、いや、これは俺であって俺の身体ではなない。その身体は前方に投げ出され、激しく地面に叩きつけられた。全身に激痛が走る。もう立ち上がれないそうにない。だめだ! ああ、誰か俺に、力をくれ…。俺は固く握られた右手を開く。なぜか、そこから力をもらえる気がして。その手のひらの中には、見覚えのある筆跡が……
「…きさん、瀧さん!」
聞き覚えのある声だ…。そう思うと同時に意識が覚醒した。目の前には姉をたたき起こしている四葉がいた。
「お姉ちゃん! 何しとるん!? こんなところで寝よって。」
「……んん、ああ、たきくん…?」
「何寝ぼけとるの。早よ起き!」
三葉はどうにも一度寝るとなかなか起きないらしい。2人がかりで彼女を夢の世界から引きずり戻した。
「…私、寝てたん?」
「そうやよ。電話にも出ないし、もしかして、その…ホテルにでもいるのかと思ったんだけど、一応ここまで探しに来たんやよ!」
「な…四葉! なんてこと言うとるん!」
三葉は真っ赤になって四葉に食いかかる。瀧は思わず想像してしまった。恥ずかしくなって慌てて煩悩を振り払う。
「ごめん四葉。三葉の酔いが覚めたら送っていこうと思ったんだけど、つい俺も一緒になって寝ちゃって。」
「まったく、世話の焼けるお姉ちゃんとお兄ちゃんやなあ。」
今回のことは瀧も反省しているゆえ返す言葉がない。ていうか、今しれっと「お兄ちゃん」って呼んだな。
「ごめん三葉。風邪ひいてないか?」
「え、そんな。瀧くん何も悪くないんよ。四葉もわざわざありがとう。」
瀧の優しい言葉に思わず口元が緩んでしまう。しかし、三葉自身も今回は2人に迷惑をかけてしまったと激しく反省した。酔って潰れて寝てしまったのもすべて自分だ。それにしても、こんな記憶が飛ぶほど飲むなんて…。瀧くんじゃなかったら…と思う急に恐ろしくなった。
「悪いけど四葉、あとは三葉を任せた。」
「もちろんだけど、瀧さん、終電あるの?」
「えっ!?」
瀧はあわてて腕時計に目をやる。時計の短針はすでに文字盤の1を通り過ぎていた。
「…な、無いです…」
「瀧さん、なんならうちに泊まっていけば? 始発で帰れば明日の仕事間に合うでしょ?」
「いや、悪いよ。タクシー拾って帰るから大丈夫。」
「遠慮せんと。ほら、お姉ちゃんもいいよねー?」
「え!? ああ、うん。瀧くんがいいなら…」
瀧は三葉と四葉を彼女たちの家まで送っていった。歩いて10分かそこらの距離とはいえ、夜道を女の子二人で歩くのは危険だ。特に、今の三葉の状態ならなおさらである。三葉と四葉はマンション暮らしだった。正直、遠慮せずに三葉の住む部屋に泊まってもいいのではという思いはあった。だけど、明日は仕事だし、何より瀧は自信がなかった。今でも、今日感じた三葉のぬくもりを瀧は鮮明に覚えている。四葉がいるとはいえ、そんな心の状態で三葉に何もしない自信が持てなかったのである。三葉の一挙一動が、それほどまでに瀧の心を動かしていることに、彼女自身は気づいていないのだが。
「四葉、先に部屋に行ってて。」
四葉を先に上がらせ、三葉は瀧の方へ向き直る。
「瀧くん、今日はありがとう。本当に楽しかったんよ。最後は、その…ごめんね。」
「いや、俺も最後のは反省してるから、お相子ってことで。明日から仕事あるし、2人にも迷惑かかるだろうから、俺は帰るよ。」
「…うん。」
三葉は先ほどから少し寂しそうに微笑んでいる。月明りに照らされた彼女の姿は、この世の何よりも美しいと瀧は思った。しばし沈黙が流れる。2人ともその場から動こうとしない。
「……じゃあまた。」
瀧は手を振り、三葉に背を向けた。道路に出て曲がる寸前で瀧はふり返った。三葉は今まさにマンションの入口の方へと向かうところだ。
ーー三葉が、行ってしまうーーまるで一瞬夢を見ていたかのように、恐ろしい不安が突然脳裏をよぎった。もう彼女に会えないのではないか、そんな思いが心を支配し始める。そのとき瀧の身体は理性とかそういうものを飛び越して勝手に動いていた。踵を返して三葉のもとへ歩み寄ると、それに応えるように彼女も振り返った。
瀧くんは、私の部屋に泊まっていくことを断った。正直ちょっと期待していた…かも。でも今日私はすごく迷惑かけたし、あんな醜態を見せてしまってすごく引かれてしまったかもしれない。私は、喜びや不安や後悔の入り混じった複雑な気持ちで瀧くんの後ろ姿を見送り、部屋へ戻ろうとエントランスへ向かった。――瀧くんが、行っちゃうーーなぜかは分からない。ただ、もう瀧くんに会えないような、出会ってから今日のこの瞬間までがすべて夢だったのではないか、そんな恐ろしい不安が突然私を襲った。声にならない叫びとともに私は振り返る。いつの間にか駆け寄ってきた彼は、初めて出会ったあの時と同じ目で私を見ていた。そのまま彼の腕は、強く、でも確かな優しさを伴って私の体を包み込んだ。
瞬間、自分がしていることの重大さに気づいた。まだ正式に付き合ってもいない女性を抱きしめるなんて。しかし、俺の腕が彼女を抱きしめて放さない。自分でもどうしていいのか分からない。
「ごめん、三葉。もう少しだけ……」
三葉は一瞬身体をぴくっと震わせたが、やがてすべてを受け入れたかのように力を抜き、瀧の背中に腕を回した。一言も何も発さずに。
どのぐらい経っただろうか、瀧の腕が三葉の身体を解放した。お互いに顔を合わせられない。ーーやってしまった…、気を付けていたのにーー瀧の頭に自責の念が広がる。
「…ごめん三葉。その…こんなことして、あ、明日に響くから、今日はこれで…」
「ま、待って!」
「え…?」
「瀧くんは……き、きょうの私、どうやった?」
「…え?」
「その…今日の私の格好、変やなかった?」
「う、うん。恥ずかしくて言えなかったけど、すごくか、かわいいと思う。」
「…本当に? 本当は似合っとらんって思ってるやろ?」
「今回は本当だって。」
今回は? ふと口に出てしまったのだが、今回も何も、彼女の私服を見たの今日が初めてだったんだけど。三葉の方を見ると、彼女はクスクス笑っている。俺もなんだか可笑しくなってきて、2人で声に出して笑い合った。
瀧くんを見送り、私は瀧くんに抱きしめられ感じた彼のぬくもりの余韻に浸っていた。あの瞬間は嬉しさとかそういう感情を通り越して頭が真っ白になっていた。ーー瀧くんは、もうどこにも行ったりしないよね?ーーさっき感じた不安はいつの間にか私の中から消えていた。もう怖くない。きっと彼がぬくもりを残してくれたから。欲を言えば、もう少しだけ、くっついていたかったなあ…。
この第6話は構想を練るのにとても苦労しました。草案は割と早めに出来上がっていたのですが、読み返して見ると納得のいかない表現が次から次へと出てきて、最終的に草案とはかなり異なった内容になり、また一つ執筆の難しさを思い知らされました。
さて、ここにきて一気に距離を縮めた2人。物語は駆け足気味に進んでいきます。お楽しみに。