山と山の間の細い道をひたすらバイクで走る。並行して伸びる一本の線路を、ときどきボロい電車が通り過ぎる以外はものすごく大自然だ。こころなしか涼しい気がするのはきっと木陰のお陰だろう。姉ちゃんのアパートのあったところよりも、蝉の声が力強い。
日が暮れてきた。さすがにケツが痛い。だんだん日も暮れてきた。だけどもうそろそろだろう。右手側の山がしだいに遠のき、代わりに原っぱがじわじわ広がる。見慣れた景色に近づいてきた。
一回だけ、テンマと山に入ったことがある。俺が街を出る直前のことだったから、多分俺たちが10歳のときだ。道とも言えないような、木の根と石ころでできた地面を二人で駆け抜けた。やがて嘘みたいにぽっかりと開けた場所に出た。まるで円形の広場みたいな空間で、太陽の光がよく当たっていた。
テンマが立ち止まる。俺もつられて立ち止まる。テンマがツイッとあごをしゃくる。俺もテンマと同じ方向を見る。山の下の風景がよく見えた。だだっ広い草っ原。そして壁みたいに立ちふさがる向かいの山。その向こうの景色は見えない。海も見えない。
「ヒロ、知ってるか? あの山の向こうにも世界は広がっているんだ」
テンマが屹然と言った。茶色い目が、憎い敵を前にしたように燃え、唇はぎゅっときつく結んでいた。
俺はテンマが何に怒っているのかよくわからないまま「そりゃそうだろ」と言った。あの山の向こうにも世界は広がっている。東京があって、アメリカがある。社会の時間で習ったことだ。
するとテンマは酷く驚き俺を真正面から見つめた。「なんだよ」とたじろぐと、あいつはニッと笑顔をつくった。
「キミに言われたら、そんな気がしてきたよ」
「あ?」
馬鹿にしてんのかと口を開きかけると、テンマはすでに視線を景色に戻していた。さっきとまるで変わり映えしない光景だ。上空を漂う白い雲だけがゆっくり流れる。俺はなんだか声を出すことも躊躇って、テンマと一緒にしばらく雲を眺めた。
「高校生になったら、ボクは外に出るよ」
唐突にテンマは言い放った。
「そうか」
それはちょっと、淋しいな。テンマに顔を見られたくなくて足元の石を蹴り飛ばした。
あれから8年。俺たちは自分たちの想像していた人生と、ほぼ真逆の道をたどっている。いや、テンマはこうなることをうすうす感じてたのかもしれない。だからあの景色を俺に見せたのかもしれない。バイクを走らせながら、そんなことを考える。
「……おお!」
見覚えのない建物が飛び込んできた。線路の上にかるから駅だろう。だが、なんとも違和感のある形をしている。姉ちゃんの好きだった時代劇を思い出した。確か、ヤグラと言っただろうか。見た目はそのヤグラにそっくりだ。ばかに広い駐車場が隣にあり、様々なサイズの車が停まっている。
この感情をノスタルジーというんだろうか。俺がいないことに気にも留めず、あの街の時間は進み続けている。当たり前のことなのに、妙に歯がゆい。
道もかなり舗装されていた。俺が外に出た頃はほぼ砂利道だったのが今では真っ黒いアスファルトで塗り固められている。正面に車の姿はない。念のため後ろをミラーで確認しても、結果は同じだ。こんなに綺麗な道を独走するってのも変な気分だ。
視界の端を、懐かしいものが横切った。車道の真ん中で停車する。ヘルメットを脱ぎ、目をこらす。
白いジャングルジムだ。原っぱの向こうの山のふもとという場違いな場所に公園がある。小学校の教室くらいの大きさの、小さな公園だ。
バイクのハンドルを掴み、原っぱに前輪を突っ込む。そのまま公園に向かって走り出す。昨日の雨のせいか若干地面がぬかるんでいる。背の高い雑草の葉が、手や顔の皮膚を裂く。だがそんなことは関係ない。ただただ、一直線に公園に向かってバイクを押す。
「ヒロ、お別れだ」
テンマとの最後の思い出を思い出す。ジャングルジムの足元で、テンマは握手を求めてきた。俺はなんだか気まずくなって、差し出された手から目を逸らした。
いつものテンマなら苦笑いをして、すっとその手を引くはずだ。だけどテンマは手を引かないまま、何かを決意したように、重く、口を開いた。
「ヒロ。もしもボクがいつか本当に困って、本当にどうしようもなくなった時、その時、キミは」
らしくない言葉に驚きながらも、俺は変な意地を張ったままテンマの足元を見た。白いランニングシューズだった。テンマは「キミは」の続きを、いつまで待ってもよこさなかった。俺はちょっと心配になって上目遣いでテンマの表情を確認した。テンマがすっと手を引いたのは、その時だった。
「なんでもないんだ」
テンマは言った。
「なんにせよ、淋しくなるよ。ヒロ」
テンマは両手を後ろに回してはにかんだ。こころなしか「ヒロ」と呼びかける声が、いつも以上に多い。これから一生その名前を呼ぶことがなくなるから、今のうちにたくさん呼んでおきたい。そんな意思のある呼び方だ。
俺はテンマの右手を奪うように掴んだ。何度か握り直し、大きく二回、腕を振り、最後に一度、力いっぱい握りなおした。自分でもなぜそうしたのか分からないくらい、感情的な握手だった。
俺はテンマの目をまっすぐ見て、テンマの言いたかったことを精一杯想像した。そして、一番ふさわしいと思える返答をテンマに告げた。
「約束する」
テンマは目を大きく見開くと、満面の笑顔で俺の手を力いっぱい握り返した。関節技を決めるようなかなり痛い握り方だった。俺はたまらず手を離し、テンマは「アハハ」と声を上げて笑った。
「お別れだ。テンマ」
「さようなら。ヒロ」
テンマに背を向け、公園の敷地のすぐ傍に停められた軽トラックに乗り込んだ。親父がトラックのエンジンをかけ、砂利だけの道をゴロゴロと発進させた。俺は一度も振り返りはしなかった。代わりに手の平をじっと見つめ、拳を握った。
あの時、握手をした時、テンマの頬を涙が一滴伝っていた。でもお前は凄く強いから、きっとそんなものは見間違いだったんだろうとずっと思っていた。
草っ原が途切れ、タイヤが砂利道に乗り上げた。公園はもう目の前にあった。ジャングルジムと、子供用の背の低い鉄棒と狭い砂場しかない。記憶よりも小さく見えるのは俺があの頃よりデカくなってしまったからに違いない。
砂利道にバイクのストッパーを下ろし、公園の中に入る。敷地内に雑草は生えていなかったが、ジャングルジムは近くで見ると錆が目立っていた。ひょいと手をかけるとザラザラした赤茶けた粉が手の掌に付着した。ひょいひょいと一番上まで上り、頂上に腰かける。草っ原と山。あの日山の上から見た景色は全く変わっていない。
ジャージのポケットからくしゃくしゃになりかけた手紙を引っ張り出す。何度読み返したかわからない中身を広げる。
『ヒロ。君の助けが必要だ』
白い便せんの真ん中にテンマの面影のある字で、ただそれだけ書かれている。これじゃあ分かんねえよ。だけど逆に、そういうところがお前らしいとも思う。
「テンマ。来たぞ」
声が届かないことは承知で報告した。懐かしいこの場所に、俺は帰ってきた。待ってろ。すぐ行くぞ。でも、まずはお前が今どこにいるのかを探すとこから始めなきゃな。
次回 3章 北関陽(きたぜき ひなた)