吹雪は止み、雪原に静寂が訪れた。
空を覆っていた黒雲は色褪せて、凪ぎた海のように広がり、しんしんと雪を降り積もらせていく。
寒冷期の凍土地方にしては珍しい、風の吹かない穏やかな空模様。
しかしそれは、まぎれもない。凍土の日常の一風景を取り戻していて──
ぎしり、と。
金属でできた何かが蠢くような音がした。
続けて、白一色の景色の欠片を剝がすかのように、白銀色の翼が持ち上がる。
その翼には、霜によって色褪せた赤色の染みが幾多にも刻まれている。
その淡い赤と白銀の片翼に続いて、次は胴体、首、そしてもう片方の折れた翼が、とても緩慢とした動作で地面から持ち上がっていく。
それはまるで、一度死んだ生き物が、再び生を受けて起き上がろうとしているようで。
今、再び古の龍はその四本の脚で雪原に立った。
その脚はいずれも折り曲げられ、自重を支えきるので精一杯であるかのように震えている。
翼は折りたたまれることなく、尻尾と共に力なく地に落ちている。
息は弱く、遅く、浅い。僅かに吐き出される白い息だけがかの龍に残された熱を示している。
そして、その頭部は額を中心に変色し、一部が溶け出して異様、異形の体を成していた。
ただ、それでも。そんな状態でも立ち上がった龍は、ゆっくりと辺りを見回す。
瞳は白く濁り、もうほとんど見えていない。嗅覚や聴覚も効かなくなり、頼れるのは角の感覚器官のみとなった。それも角が折れたせいでまともにはたらいてくれない。
だが、かの龍にとってはそれだけで十分だった。
瀕死の重傷、死の間際にいるのは間違いない。あのまま冷たくなってしまっていても、何もおかしくはなかった。
それでも起き上がったのは何故なのか、かの龍にとって、そんな理由はたったのひとつだ。
おぼつかない足取りで歩き出す。
その先に在るのは、自らをここまで追い込んだ兵器の残骸。
それはもう、再び動き出すことはないように見えたが──。
過去の大戦の記憶が蘇る。あのときも同じような状況だったのだ。この手で確かに沈黙させたはずなのに、こうしてこの兵器は蘇った。
もう風の力は操れない。微風ひとつをこの身に纏うことすらできない。
それならばせめて、この足でその兵器を踏み潰す。それが叶わないならば、この身でそれを押し潰す。
その兵器のかたちを壊して、終わりにする。
そんな執念を身に纏った龍に、すでに意識はほとんどなかった。自らの生存本能すらも捨て置いて、かの龍は兵器の元を目指す──が、それが間近にあったことに僅かに安堵する。
残された時間などとっくに過ぎ去っている。この命はその目的を成した次の瞬間には終える。
しかし最後の最後に、目の前にいる大戦の禍根を砕くことくらいはできそうだ。
かの龍はゆっくりとその前脚を前へ押し出そうとして──
ざんっ、と。その眉間に矢が生えた。
その瞬間、今度こそかの龍の動きが止まる。熱により変質して軟化していた甲殻は易々と貫かれ、その執念の源を穿っていた。
その脚はあとわずかなところで目指していたものに届かず、淡い赤と白銀の巨体が崩れ落ちていく。地響きと共に舞い上げられた雪は、少しの間だけその場を一際白く彩った。
そして、矢を左手にとって、龍の眉間に突き立てた彼は。
目の前の地面を見て、立ち尽くしていた。
──ここだと、寒いだろうな。
ふと、そう思った。
「……僕も、寒いし……早いとこ、戻らなきゃ、な」
ぼそりとそう呟いて、その場にしゃがんで、その手を取る。
驚くほど軽い手ごたえと共に引き抜かれたのは、黒い炭と白い霜に覆われた、彼女の左腕だった。
「…………」
血が流れ出る様子はなく、千切れた端面からは幾本もの導線と真っ黒になった肉が見えた。
黙ってその左腕を傍に置き、その先の、人のかたちに盛り上がった雪を払う。
そこに、変わり果てた彼女の姿があった。
ユクモノ装備は戦いの間に破けてしまったのか、熱によって燃え尽きたのか、ほとんど残されていない。
胸元には大穴が穿たれ、中身が見えてしまっている。そのほとんどは黒く炭化し、端から霜に浸食されていた。焼け残った骨や管、背中の皮がかろうじて上半身と下半身を繋げていた。
胴と首は何とか繋がっているようだった。首元に生えた黒い鱗が放熱の役割を果たしたのか、皮膚の炭化は抑えられている。しかし、そこだけでも夥しい数の切り傷があった。
その顔も同じく、ただ、頬はところどころ焦げ付き、深い裂傷も刻まれている。髪もある部分がばっさりと切り取られ、またある部分は熱で溶けたのかこげ茶色に変色している。
髪飾りは、もとは無地の黄色であったということが疑わしいくらいに、赤黒く彩られている。取れたり破れたりしていないことが逆に不思議なくらいだった。
そして、その目と唇は、当然の如く酷く傷ついていながら、まるで眠っているかのように、静かに閉じられていて、
そこに血の気などというものは全くなく。
かつて確かにそこにあった鼓動と息遣いを、確かめるまでもない。
「……行こうか」
彼女の背中に左手を通す。右手は文字通り潰れてしまって全く動かせない。切り落としてこようかと思ったが、彼女の治療の跡を見て、止めた。
とりあえず何とか左腕だけで彼女を抱き起そうとして、少しだけ躊躇した。……それでも、意を決して地面から彼女の身を離させる。
四肢が零れ落ちる音は……聞こえなかった。
──左腕以外は繋がってた、か。
きっと熱源から最も近かった部位が左腕だったのだろう。その左腕も、置いていくわけにはいかない。
補助具に長い布を持ってきたのは正しい判断だったようだ。僕はかの龍の亡骸に彼女を寄りかからせ、自らの背中を添わせて布で巻きつけていく。
一本の手でそれをするのは想像以上に難しく、何度もやり直して、その度に彼女の身体は力なく地面に倒れて。
それでも黙々と作業を続けて、なんとか布だけで彼女を背負うことができた。
首から吊っている右腕の布の隙間に、テハの左腕を置く。
そして、立ち上がろうとして──どさりと地面に倒れこんだ。足が震えている。
「……そうだった……ゴホッ……矢を杖にして、歩いてきたんだっけか」
一人でも杖を使わなければ歩けないというのに、それが二人になれば、身を起こすことすらできるはずもなかった。
彼女を背負ったままクシャルダオラの頭部まで這っていき、その杖にしていた矢を引き抜く。どろりと黒い血が傷孔から流れ出したが、それらは地面に落ちてすぐに霜に覆われていった。
矢を地面に突き立てて、よろめきながら立ち上がる。……なんとか、彼女を背負ったまま歩くことくらいはできそうだ。
そのまま歩き出そうとして、一度だけ振り返った。
「……お前、ほんとに強かったよ」
それは自然と口から零れ出た、雪原に倒れ伏す白銀の風翔龍に向けた言葉。
何の世辞もなかった。ぶつけたい言葉はいくつもあったが、それらはどうせ空虚なもので、言った分だけ虚しさが増していくだけだ。
この龍は強かった。その事実だけを言葉にして、この場所に残す。
クシャルダオラの亡骸に背を向けて、僕は一歩一歩を踏みしめるようにして、昨日まで僕と彼女がいた場所を目指して歩き出した。
雪は止むことなく、ただ地上の音を溶かして消していく。
自らの足音と、矢を地面に突き刺す音だけが耳に届いて、そして辺りに消えていく。
見晴らしのいい雪原を、膝の下まで雪に埋もれさせながら、僕はテハを背負って歩き続けていた。
バギィやベリオロスが見ればたちまち襲い掛かってくるだろう。しかし、彼らがいるはずもない。ついさっきまでここには古龍がいたのだ。これから数日が経つまで、周辺に姿を現すことはないだろう。
だから、このまま歩いていけば、確実に無事にベースキャンプに辿り着くことができる。僕の体力が尽きない限りは確実に。
それが、彼女が命を賭けて掴み取った証なのだから。
「……なんで、だろうな」
テハがこの命を救ってくれた。
彼女があの地に出向いてクシャルダオラを倒していなければ、僕はクシャルダオラにあっけなく殺されていただろう。
それが分かっていたから──彼女は僕の手を放したのだ。
「お前が嘘をつくなんて……思いも、しなくってさ……」
僕が氷山の頂上で彼女に自らの作戦を告げなかったのと同じように。
テハはあのベースキャンプでのやり取りの間、僕に何も悟らせなかった。──気付いたところで、僕にはどうすることもできなかっただろうが。
目を覚まして、そこに彼女の姿がないことに気付いて、傷む体を無理やり動かして外に出た。
そして、その荒れ狂う空と視界を覆う雪を見て、ようやく今何が起こっているのかを悟った。
何もできないことは分かっているのに、テハがそれを望んでいないだろうことも分かっていたのに、居てもたってもいられなくなって、愚かしくも外へ出た。
そして、洞窟近くの森を抜け、雲が渦巻いている方へと矢を杖代わりにして歩いていたところで──その吹雪は、止んだのだ。
辿り着いたときにはすべてが終わっていた。恐らくは彼女の思惑通りに。
僕ができたことは、瀕死のクシャルダオラに止めを刺すことくらいで。
「お前の、その手段にも……気付けなかった」
それだけは本当に。本当に、気付くことができなかった。
自己破壊処理の任意実行、そしてそれの攻撃転用。
結局テハは、自分の意志で自分の生死に踏み込むことができたのだ。自らを縛っていた兵器の原則を覆すことができたのだ。
その理由を──。僕は受け入れなければならない。
その選択の
それは、確かに。僕がテハに願ったことだから。
彼女に生きてほしいと願った理由の本質だから。
引き金を引けない、はずがない。
「してやられたって……笑わないといけないってのに……」
今まさに示されている。これが、僕の願いが叶ったかたちの一つであると。
これだけは思い描けなかった。全てが終わった後に、確かにその通りだと頷きざるをえないものだった。
言葉通り、僕は彼女に
だから受け入れなくてはならない。彼女に託されて、生き残った僕は、笑ってこう言うのだ。
僕も彼女も賭けに勝った。引き分けだ、と──
「…………どうして、どうして……こんなに悔しいんだろうなぁ……!」
俯いて、歯を食いしばって、そんな言葉を絞り出す。左手に持っている杖代わりの矢を握りしめた。
胸が、心が。引き裂かれるように痛い。
何が……何が賭けに勝っただ。何が引き分けだ。
そんなもの、テハが生きていなければ──何の意味もありはしないのに。
しかし、そんな嘆きも、ただただ空虚なものでしかなくて。
テハを背中に背負った僕は、また黙って雪の中を歩み始めた。
「…………」
考えることを止められたなら楽なのに。
そんな思いとは裏腹に、彼女といた一年の記憶が次々と思い描かれていく。
出会って、目覚めてすぐに、戦争が終わったなら生きる理由はないからと自壊しようとした。
僕に自壊を止められて、初めて共に野宿をし、そこで僕を殺しかけた。それを僕に告げず、自らの内でその理由を探していく選択をした。
人に馴染むことができないようだった。耳を塞いで苦しんで、僕と共にその反応を和らげることはできないかと試行錯誤した。
そして、髪飾りを贈った日。僕の手を取って、共に旅をする選択をしてくれた。
狩人になった。竜や獣を狩って、鉱石や植物を採って、調合や武器の整備をした。
あの日、千年前のままに、たくさんの竜を殺した。今の自然の摂理を知ると、自分なりにそれに合わせようとした。
いくつもの村や街を巡って、ようやく竜大戦の文献を見つけた。
そこで初めて歴史の中での自分を知って、自らは今の時代に存在してもいいのかと疑問を持って、それでも、旅を続けていく選択をした。
彼方からやってきた龍に立ち向かう決意をした僕に付き添って、僕と共に戦った。
かの龍の殺意に戸惑い、それを振り払った。ベースキャンプでのやり取りを経て、僕の願いを知った。
そして──僕が眠っている間に、ひとりで過去へと立ち向かった。
その全ての間、一時も欠かすことなく。
ただ、死ぬという選択をしていない自分と向き合い続けた。
死ぬための理由でも、生きるための理由でもない。
自らは存在してはいけない、つまり死ぬべきなのではないかという漠然とした予感を抱えながら、それでも死ぬことができない、死ぬという選択をしていない理由を探すこと。
例え思考や感性が人と異なっていたとしても、その自己矛盾がどれだけ凄まじいことであるかを。
きっと彼女だけは、分からない。
彼女がそれに耐えることができたのは、いや、恐らく耐えることすらしていなかった。
自己矛盾を延々と自らの内に抱え込み続けて、それができたのは──
──そこに、『
「なあ、テハ。……僕は、お前の……その何にも染まらない空白を、見ていたかったんだよ」
それが、僕の傲慢だ。
見晴らしのいい高台まで登って、青色をした空と、何一つない鏡のような海を見ていた。
薄暗い谷底で静かに佇んで、自らを中心にして広がる血の海と、そこに散らばる幾多もの竜の亡骸を見ていた。
自らの狩った飛竜の上に腰掛けて、果てしなく続く大地と、その地平線へと沈んでいく夕陽を見ていた。
そのときの彼女が、なんとなく取っていた行動。それは当たり前のように数えきれないほどたくさんあって、その全てに共通して当てはまるものがあった。
その瞳は、ただ透き通っていたのだ。
荘厳な景色を見ても、その色彩には染まらない。
全身が血に塗れていても、血の色には染まらない。
きっと、何色にも染まることはない。
そんな透明さを持っていたテハは、自らの生死のついての自己矛盾すらも、その空白の内に在るものとして捉えていたのだろう。
そして、そんな透明さは、きっと彼女だけしか持ち得ないものだったから。
「だから……。だからさ……僕は、お前に生きていてほしいって、願ったんだよ」
その深緑の、どこまでも澄み切った瞳がひどく印象に残っていて。
その瞳が映す光景と、それを以てして下す選択を、見ていたいと思ったから。
「テハと一緒にいた旅は楽しくて、飽きなくて……本当に、かけがえのないものだったんだ」
もう、彼女のいない旅を考えたくなくなるくらいに。
ばきっという音を立てて、鏃の根元から矢が折れた。
その矢を杖代わりにして体を支えていた僕は、当然のように前のめりに倒れこむ。降り積もった雪が上半身をも包み込んだ。
左手に力をかけて身体を起こし、立ち上がろうとしたところで再びその場に倒れこむ。
今更になって、ホットドリンクの効果がとうに切れていたことと、身体の疲労が限界に近付いていることに気付いた。
「……はは、もう、本格的にダメだな……」
背中に担がれているテハはもう答えを返さない。彼女と僕の戦いは終わった。
なら──もう、強がる必要はないだろう。
そう苦笑して認める──ああそうだよ。全身が痛い。
凍傷に塗れた皮膚は、絶え間ない激痛をくれる。何本も骨が折れているのに歩き続けた足は腫れあがり、膝を曲げることすら難しい。ただ息をしただけでも肺が灼ける。狭まった視界は、気を抜けばこのまま永遠に閉じてしまえる。
白状しよう──テハがいない世界なんて、旅をする意味も、生きる意味さえも見出せない。
テハに僕も死にたくないなんて啖呵を切っておきながら、テハに願いを託されておきながら、この様だ。本当に、どうしようもない。
でも、そうだろ? 僕は、お前と共に生きたいって言ったんだ。
お前の記憶と願いを抱えて生きるなんて、ここで生き延びても耐えられる気がしない。
だから……それならいっそのこと、ここでお前と一緒に眠ってもいい気がするんだ。
お前には、怒られるかもしれないけど、そんなかたちで会うことにすら、なんだか期待してしまうんだ。
だから、お前と一緒に地面に身体を預けて、降ってくる雪に包まれて。
力を抜いてこのまま……眠るように、さ…………
──。
──……。
────────。
がり、と。左手にはめたグローブで、雪に埋もれた地面を握りしめた。
そのまま身体を丸めて、四つん這いになって……防具を軋ませながら、ゆっくりと立ち上がる。
そしてそのまま、一歩を。ほんのわずかにだが、片足を前へと踏み出した。
「…………」
激痛が走る、視界が霞む。
それでもまだ、前へと進む。次の一歩を、踏み出す。
意識があるなら、それが途切れるまで。
力が残っているなら、その全てを使い果たすまで。
心が折れてしまっても、この託された命を捨ててしまいたいと嘆いても。
初めて出会ったあの日、彼女の自死を止めた僕だけは──最後まで足掻き続けることを、手放してはいけない。
「なぁ、テハ。……これからの、話をしようか」
でも、やはり地面を踏みしめる度に駆け抜ける痛みは凄まじく、その痛みにまた膝を屈してしまいそうになるから──すぐ傍にいるテハに、話しかける。
それは唐突な話題で、それでも応えてくれるのがテハだった。
そんな彼女の返事は、返ってこない。
「ここから、凍土の村まで戻れたら……しばらく、そこに居させてもらえないか、交渉してみるよ」
これからのこと。もしも、僕が生き残ることができたならという仮定の話。
彼女が一人でかの龍に立ち向かいに行く前、思い描いていた未来図を語る。
寒冷期のため、村の食糧事情次第では受け入れてもらえないかもしれない。
ただ、その村の人々は、この地へと赴こうとする僕たちを心配してくれた。ある程度正直に事情を話せば、受け入れてくれると信じたい。
「怪我の治療は……長い目で、見ていかないとな。やっぱり狩人は、続けたいから」
数か月では完治できないだろうことは察せられる。後遺症が残るだろうことも。特に僕のこの右腕は──もう、弓を引くことはできないかもしれない。
それは狩人には凄まじく不利なことではあるが……それでも僕は、狩人を続けたいと思う。たぶん、これ以外の道を知らないからだ。
テハの返事は、返ってこない。
「それで、やっぱり……ユクモ村には一度、戻らないとな。加工屋のじっちゃんとか、村長とか、心配してるだろうし……」
せめてそれだけは、何年かかっても成さねばならないだろう。怪我の治療費と武具の修繕費で路銀は軽く消し飛ぶだろうから、またお金を貯めるところからだ。
そして、ユクモ村に戻ることができたなら──二人には、本当のことを話そう。
もし、年単位の時間がかかっても、それを成し遂げることができたなら……。
「……また、旅をするんだ」
噛み締めるように、そう呟いた。
「世界は、広いから……。お前に、見せることができなかったのも、たくさんあるんだ」
不意に視界が滲んだ。今まで、流れることのなかった涙が零れそうになる。
「今度は、飛行船を使ってみよう。砂上船にも乗って……砂の海を、見てみよう」
それは、きっと────そこにテハが一緒にいたなら、とても楽しいと思うから。
そんな未来を、あのときは思い描けていたから。
「砂の海にはロックラック、飛行船が集う地にはベルナ村……この一年で、行くことはできなかったけど、どこもそれがもったいないくらいでさ……きっと、いろんな話ができる」
歴史に、地理。気候、生態系、特産品。話の種は尽きなかった。
どんな話にも彼女は等しく興味を持って、会話へと繋いでくれた。
それがこの先も続く未来は──。
きっと、旅の寂しさと苦労なんて、軽く撥ね退けられるくらい楽しいだろうな、と。
「──だから……だからさ…………」
涙が頬を伝う。
声は枯れて、掠れて、震える。
────。
テハの返事は、返ってこない。
それは、もう事実として受け入れざるを得ないものだ。
そう思っていた、はずなのに。
「なぁ、テハ。……僕はたぶん、幻覚を見てるんだよな……」
────とく──とく
雪原に身を投げ出して、深い眠りに落ちる寸前に、聞こえてきた。
本当に微かで弱弱しい、その音は。
「それなのに……何を期待してるんだろうな……」
僕の背中から、聞こえてきているような気がして。
「お前が……お前が生きてるなんて……期待してる、僕は────っ!」
そのとき。
僕が零した大粒の涙を、掬い取ったのは。
僕の手では、なくて。
「──て……は…………?」
まぎれもなく。
傷だらけの、少女の手だった。
大粒の涙がぼろぼろと零れ落ち続ける。
彼女の手は、その涙の受け皿となるように、僕の胸元の防具にそっと添えられていた。
ややあって、とん。と彼女がその防具を叩く。
それが振り向くことを求めていると悟った僕は──本当に情けないが、それまで怖くて振り向くことができなかったのだ──首を回して、僕に背負われた彼女の顔を見る。
かの龍の傍で倒れていたときには、静かに、しかし完全に閉じられていた彼女の瞼が、ほんのわずかに持ち上がっている。
そこには、とても淡くて弱弱しいけれども、確かな深緑の光が宿っていて────目が、合った。
『……ア……ト…………ラ……』
その言葉は、声になっていなかった。声帯が焼き切れていることを、それで悟った。
それでも、唇の微かな動きで分かる。
また溢れてきた涙を、必死に堪えながら。
「──ああ。聞こえなくても、伝わってる。テハ」
その返事を読み取ったのは、耳か、耳元の龍の器官か。どちらでもいい。彼女はその返事を、確かに聞き取ったらしかった。
『クシャ……ダオラ…………は……』
「……止めは僕が刺した。倒せたんだ、テハ。……お前の、おかげで」
『ごめ……なさ…………わたし……あなた、に……うそ……ついて……』
「いいんだ。僕も似たようなことしたからさ……。氷山に取り残されたときの、お前の気持ちが、分かったから……お互いさま、だな」
彼女とこうやって言葉を交わせることが、こんなにも大切に思える。
気にするなと言うよりも、お互いさまだと理由を付け加えた方がいいだろうなと。そんな風に、また考えることができる。
そして、それをもう手放したくないと心から願うから。
恐る恐る、テハに尋ねた。
「……無理、してないか。…………僕がベースキャンプに戻るまで、持ってくれるか……?」
最後の力を振り絞って、なんていうのは、冗談抜きで耐えられない。
テハは少しの間沈黙して────答えた。
『…………は、い』
そこに嘘はないと、信じる。
「なら……任せてくれ。テハの命、預かる」
一歩一歩、歩き続ける。
歩幅はとても小さい。ざり、ざり、と足を引きずるように、半歩ずつ。それでも、前へと進んでいる。
手ごろな枝を見つければ、それを杖にして、もう少しはまともに歩けるようになる。それまでの辛抱だ。
この全身の痛みも、なんとか耐えていける。
傍にテハがいて、見守ってくれるから。
「なあ、テハ。前を向いて、歩く前に……もうひとつだけ、聞いていいか」
前を向いて歩き出せば、声を出せないテハとはしばらく話すことができなくなる。
できればずっと、このまま話し続けていたいが、そういうわけにもいかない。転倒でもすればそれだけベースキャンプが遠のく。
だから、その前に、ひとつだけ。
テハが僅かに頷くのを見て、僕は彼女に、言葉を選びながら問いかけた。
「最後……テハが、自己破壊処理を攻撃に使ったのは、分かったんだ。テハが伝えたかったことも、それを見て何となく分かって──だから、あのときは、お前の死を疑ってなかった。
……こうやってテハが生きてくれてるのは、本当に嬉しい。でも……それができたのは、どうしてだろうって。
──その
彼女が、僕を生かすことに命を賭けたことは分かった。
しかし、彼女にとっての自己破壊処理とは、そう融通の利くものではないのだ。自分の意志で起動させることは可能だが、その逆、すでに起動したものを止めるには他者の意志が必要で、自分の意志だけでは不可能だったはず。
その不可能を覆すに至った
僕のその問いを聞いて、彼女はしばらく瞑目した。
そして、再び薄く目を開けた彼女が宿していたものは、いつもと少し、異なっているように見えて。
『わたし、は…………あそこで……あのりゅうと…………に、いのち……おえる……つもり、で』
やはり、彼女自身もそのつもりだったのだ。
最後まで熱を出し切って、クシャルダオラを完全に殺しきろうとしていた。
それが叶わなかったから、かの龍は再び立ち上がり、彼女はこうして生きている。
『あなたに、わたしの、ねがい……たくせれば…………
……ですが、それが…………わたし……まちがいだと、きづいて……』
自らが最初に持った願い、そして僕がテハを見て感じ取ったものを、テハは間違いだと言い切った。
そこから先は、僕の想像の及ばない域だ。
彼女が遂に掴んだ、彼女だけのものだ。
『わたしの……ほんとうの…………ねがいは……──』
そしてテハは、その命が燃え尽きる直前になって得た
そのときの、彼女は。
「────わたしも……あなたとともに、生きたい」
確かに。確かに微笑んでいて。
それこそが、自己破壊処理を止めた
それを見て、僕は──。
ああ。どうしようもなく、また涙が零れてくる。
感極まるとはこういうことを指すのだろうか──それを、彼女に教えてもらうなんて。
「──お前……笑ったのも、なにかをしたいって言ったのも、初めてなのに…………よりにもよって、そうきたかぁ……!!」
この一年間、彼女が笑みを浮かべることは一度もなかった。
それはきっと、笑顔というのが彼女にとって最も遠い感情で。だから、彼女の笑う姿を見ることはないだろうとすら思っていたのだ。
そんな見立てを彼女は覆してみせた──彼女の微笑みは、とてもきれいだった。
そして、彼女がこの旅で持ち得なかったものがもうひとつ。それこそが、「なにかをしたい」という意志だった。
この一年間、彼女は自分から何かがしたいと言ったことは一度もない。
自我を持ち、いくつかの感情を学んだ彼女でも、その意志を持つに至らなかった。
恐らくそれは、彼女の兵器、機械としての特性故のもの──自意識というものを、限りなく抜き取られたのが彼女の在り方だった。
だからこそ、彼女の自己破壊処理を止めることは難しい。
生存、自己保存の願いこそ「なにかをしたい」の根源であり、彼女が持つには最も遠いものだったから。
だから、確かにその通りだ。
自己破壊処理が止まらないはずがない……他ならぬ彼女自身が、生きたい。と願ったのだから。
絶対に不可能なはずの、その自己保存の願いを──
──願ったのは、共に生きること。
僕という他者を介することによって、テハは覆したのだ。
不器用という言葉では言い表せないくらいだけれども。それくらいが、本当に彼女らしい。
つまるところ、テハは。
最後の最後に、この旅の目的だった「
「死ぬことができない」を
「死ぬわけにはいかない」へと──。
『アト……ラ……あなた、は…………』
そして、彼女の唇がまた動いて。
何とか涙を引っ込めた僕は、ちゃんと見えてる、と目を合わせて。
『こんな……わたし、ですが……それでも、ともに…………いきて、くれますか』
彼女が投げかけた問いに、強く、強く頷き返した。
「ああ、ああ……! もちろんだ!
二人で、生きて帰ろう……! 二人で、旅を続けよう……!」
もう、疑わない。二人で歩むこれからが、ただの旅物語であることを──決して疑いはしない。
僕は、テハと共に生きていく──。
そうして、二人は。
少女は青年に背負われて、青年は足を引きずりながら。他に誰もいない、雪の降りしきる雪原を。
ぼろぼろに傷を負いながらも、確かな意思、穏やかな微笑みと共に。
ただ、歩いていく。
歩いていく──……
今話をもちまして、「とある青年ハンターと『 』少女のお話」完結です。
この最終話まで付き合ってくださった、全ての読者の皆様に感謝を。本当にありがとうございました。
後書きは、二月十一日の活動報告にて公開予定です。
感想、評価等お待ちしております。……最終話くらいなら、言ってもいいかなと思ったのです。