時計塔の寮のベッドではない、酷く柔らかくて妙な匂いがするベッドで私は眠っている。
ふわふわと浮かび上がるような、と言えばオシャレで少しリッチなホテルのベッドかと思われるが、私が伏しているのは他人様の寝床だ。
―そうだ思い出した。仕事だ。
圭子はベッドから体を起こし、部屋を見渡した。昨日から特段変わったところはない。
壁に掛けられた時計をちらりと見てギョッとして、慌ててシャワーを浴びた。
昨夜、何時頃まで起きていたのかは覚えていないが、普段から寝坊とは無縁の私が十時過ぎまで起きなかったのは数える程しかない。
それだけ大変だったのだ。キャスターにはその結果に見合う仕事をしてもらいたい。
―その前に、しっかりと説明をしなければ。
ため息が、シャワーから落ちる湯と共に流れ出た。
私の仕事は聖杯を望む英霊への侮辱。たとえ令呪で従えたとしても、隙を見て殺されかねない程、ふざけた仕事だ。
聖杯が手に入らない聖杯戦争など、時間という概念を持たないサーヴァントにとってでさえ、時間の無駄でしかない。無論、魔術師にとってもやるだけ無駄な事だ。
私は、それをキャスターに強要しようとしている。
ため息以外に出るものは無い。
シャワーを止め、服を着替えて部屋に戻ると、キャスターが工房の結界の前でしゃがみ込んでいた。
私が戻ってきた事に気付き、
「おはようマスター。なかなか良い結界を張るね。」
と、満面の笑みでそう言って振り返った。
私は、…おそらく暗い顔をしていたんだろう。
話がある。と告げられたキャスターの顔が瞬時に真面目な表情に変わった。
最悪の場合は令呪で自害させれば良い。―ミラー教授は簡単にそう言ってくれたが、そんな事をする気は毛頭ない。
「初めに聞くけど、あなたの真名はヨハン・ファウストで間違いないね?」
キャスターが目を丸くした。
「ほー。ヒントも何もなしに僕の真名を当てるなんて、凄いじゃないか。」
驚き顔から一転、その場でくるりと一回転して、キャスターは深々とお辞儀をしてこう言った。
「そう。僕はあのファウスト、全てを見た男だ。」
口元は引き締まっており、英霊としての風格、カリスマ性を持つ声色には"全てを見た男"らしい堂々とした重さを感じる。
やはり、後ろめたさを感じてしまう。この男は全てを見てもなお、英霊として人の世に戻ってきた。
そこに意味が無い訳がない。彼なりの、ファウストにしか理解できない理由があって、このつまらない世界に戻ってきたのだ。―私は、それを裏切るのか。
と、圭子が葛藤しているのを知ってか、はたまた彼の生来の性格なのか、既にファウストはへらへらと笑いながら「格好つけるもんじゃないね。」などと言っている。
「あなたは…どうしてサーヴァントになったの?」
キャスターは笑った顔を少し傾け、一呼吸置いて理由を口にした。
「僕は、とにかく好奇心が強かった。…悪魔と契約するくらにいね。世界のあちこちを回って、生きているうちに美しいものは全て見てきた僕だけど、唯一やらなかった事がヒトに使役されることだった。…理由はそれだけだよ。最後までメフィストの気持ちを考えた事は無かったからね、単に使役される側に回ってみたいっていう僕の好奇心さ。」
悪魔―メフィストフェレスに最期まで振り回された悲しい男…という、私の認識は誤っていたのかもしれない。
「そう…なら、聖杯に願うことは無いの?」
「ないよ。あんな結果だけホイホイ作り出すような夢のないオモチャに興味はない。」
キャスターの言葉に迷いは無い。後世に伝わるファウスト伝説―私がそれを知っているが故の建前ではなく、本気で、聖杯はいらないと言った。
「なら安心した。…少し矛盾する言い方だけど、今回あなたを呼び出したのは聖杯を手に入れるためじゃない。…そもそも、今は聖杯は存在しないはずだから。」
ふっ、と一息ついて本題を口にした。
「あなたを呼び出した理由は、とある人物を殺害するサポートをしてもらうこと。…人殺しに加担できないって言うならここで契約を切るけど、どうする?」
左手の令呪をちらつかせる。この感じだと自殺を命じる脅しのように見えるような…
「使い魔は元より自由意志なんて持ってないから、マスターの意向には従うよ。けど、理由のない人殺しは嫌いだよ。」
キャスターはそこで言葉を切った。その目は説明を求めている。
「意味のある人殺しなら許せる?」
何かこう、見当違いなことを言っている気がするが、気になったので聞いてみた。
「それで何を得られるか、かな。」
遠い目で答えたキャスターは続けてこう言った。
「人は間違いを犯す生き物だ。そして、間違いから学ぶ生き物でもある。君が人を殺す事で何か学ぶことが出来るのなら、僕は止めないよ。」
「人殺しは…悪なのかな。」
自然と、言葉が漏れた。キャスターからもう少し話を聞きたかった。
「悪だね。…けど、悪行を断つ悪行は、見方によっては善行だ。行動自体は覆せない悪だけど、得られる結果が大衆にとっての善なら、いつの間にか善行として扱われ、認知される。…英雄と呼ばれる者達は皆そうして生まれた悪人だ。」
「なら…陰陽師を……魔術師の脅威を排除するのは…?」
キャスターは何か勘づいたようだ。先程のニヤニヤした顔に戻ってこう言った。
「繰り返すようだけどそれも悪行、大罪だ。…けれど、それで魔術世界の平和が得られたなら、君は晴れて英雄だ。」そうだろう? とキャスターは得意げに笑った。
「そうね。」
私も釣られて笑った。
「それなら、早速出かけよっか!」
目的はともかく、とにかく外へ出たい気分だった。
「遅めの朝食を兼ねて、ちょっと街の偵察に行くわよ!」
部屋を出て南へ向かって歩き出した圭子の後ろを、霊体化したキャスターが付いて移動している。
アパートの目の前にバス停があり、駅までバスで行くつもりが、キャスターの「駅までのルートも偵察したらどうだい?」という一言で仕方なくあくることになった。
「歩くったって私は昨日の夜も通ったし、あんたは浮いてるだけでしょ。」
三台ほど、バスに追い抜かれてからキャスターに話しかけた。
「それに私は今ものすごくお腹減ってるの。」
メーターが振り切れんばかりに、不機嫌さ全開でキャスターのいる方を睨んだ。
(悪いね。僕だって街は一度くらいじっくり見たかったんだ。それに、昼と夜とじゃ雰囲気違うと思うよ?)
たしかに、車通りは多かった。渋滞とまではいかなくとも、赤信号の度に長い列を作っている。
「そうね。…これだけ雑音があったら魔力の探知は難しそうね。」
私は、音で魔力を感知することが出来る。と言うより、魔力を察知した私の身体が聴覚神経を刺激することで魔力を感知する。
それ故に、騒音が激しいところでは魔力を探知できない。―だから、キャスターがいるのだ。
「残滓でも良いから、魔力を感じたら教えて。」
と、アパートを出る前に伝えてあるので心配はない。
(それにしても、人通りは少ないね)
軽く頷く。たしかに、車の量に比べて人通りは極端に少ない。
「昨日もそうだったけど、人通りが少ないって言うか、人気を感じないのよね。」
道の先に小さく駅ビルが見えてきたが、未だに誰ともすれ違っていない。
「ここら辺に住んでる人が少ないだけか、あるいは…」
(ストップ)
突然、言葉を遮られた。
(そこ左、かなり強い魔力を感じる。)
左に小さな道が続いている。時が止まっているような、動きのない細い道が、少し続いて折れ曲がっている。
「何があるか分かる?」
(すまない。よく分からない…手前に小さな反応がある…人間が一人。その奥にでかい何かがある…魔力の貯蔵庫かな?)
「トラップの可能性は?」
(分からない。)
…行ってみるしかないか。
胸元にあるナイフの感触を確かめ、魔力源の方へ向かった。空腹を感じなくなり、代わりに緊張が体を支配した。深呼吸をして緊張を抑え、一歩を踏み出した。
数秒も経たないうちに、奥から何者かがこちらへ向かってくるのが見えた。
(魔力の反応がある。)
私にも聞こえた。
「…すれ違って、後をつける。」
平静を装い、人影と向き合う。距離が徐々に狭まり、呼吸音や心臓の脈動が漏れ聞こえるのでは、と思うほど接近した時だった。
女…?
『その先は何も無いわよ。』
すれ違いざま、女が声をかけてきた。
そのまま数歩、歩いて振り返る。
女はこちらを見ていない。あくまで私を一般人だと思っているのか、あるいは襲われても避ける自信があるのか。
魔術師…?いや、まさか…
「それは『貴女が全て回収した』と、解釈しても良いということですか?」
心臓が跳ねている。その割には冷静に、返答によっては問答無用で刺せる言葉を選んだ。
振り返る寸前にちらりと結界の入り口が見えた。あの中の何かが、魔力を溜めていると予想できる。恐らく、アレが人気の無さの原因だ。
そして、あの結界を張れるのは…
「もう一度聞きます。あれは貴女が張った結界ですか?」
肩に力が入る。
「…もし、そうだと言ったら?」
考えるまでもない。
「―殺す」