「―殺す」
心の準備などいらなかった。右足で地面を蹴り、一息で間合いに入る。左足を地面についた反動でナイフを持った右腕を突き出す―イメージ通りに体は動いた。
…思えば、人にナイフを向けたのは初めてかもしれない。
僅かながらの後悔をよそに、ナイフが女の首を掻き切る―寸前、空気が揺らいだ。
その瞬間、爆音とともにナイフが弾かれた。
「なっ…」
音があまりにも大きすぎてそれが何か一瞬分からなかった。いるはずがないモノが、現界出来るわけがないモノ―サーヴァントがそこにいたのだ。
サーヴァントが発するあまりにも膨大な魔力が、耳だけでなく全身を打ち付ける。―直感的に死を覚悟した。
弾かれた勢いに乗って後ろへ大きくて飛び退き、もう一度女を見た。
女がこちらを見ている。その前に刀を構えた男が、強大な殺気を発して立っている。
一歩でも動けば確実に殺される。サーヴァントとの一騎打ちで勝てるわけがない。
「引きなさい。セイバー。」
仕事が始まる前にやらかしたか…
降参。と、ナイフを捨て両手を上げた。
「ふふ。冗談よ。…貴女、勘違いしてるわ。」
は?顔を上げると、女が笑っていた。サーヴァント、セイバーは刀を下ろし女の後ろで立っている。
「私はただの魔術師。気になってそこの結界を探ってたら貴女がやって来た。…貴女と同じで、陰陽師が来たって思ったの。そしたら突然ナイフ突き出してくるから、慌ててセイバーに助けてもらったってことろなの。」
と言って、セイバーと呼ばれた男と目を合わせる。
「一つ、聞いても良いですか?」
いい加減怠くなってきた腕を下ろし、地面に落ちたナイフを拾い上げ、セイバーを見つめながら吐きそうになる気を抑えて女に問うた。
「…この街で聖杯戦争が起きているのですか?」
耳鳴りが激しさを増している。この男から出ている魔力は紛れもなくサーヴァントのものだ。
「…そのようね。」
自信の無い答えが返ってきた。この女も魔術師なら、聖杯戦争が行われるはずがないと知っている。
「私もよく分からないの。」
女はセイバーに霊体化を指示した。
「でも、聖杯は…」聖杯は、解体されたはずだ。
「そうね。時計塔のロードが解体したって聞いたわ…でも、実際に令呪が宿っているし、セイバーだって召喚できたわ…時計塔がウソを言っているとは思えないけど、そうとする以外に説明しようが無いのよね…」
女はそう言って私に背を向けた。この女が陰陽師ではないという確信はどこにも無いが、私は黙って女の動きを眺めていた。
「まぁ、全部倒してしまえば聖杯の有無は確認できるでしょう。魔術協会への報告はその後でも平気よ。」
そう言ってこちらへ向き返った。
「その事で、貴女に相談があるの。」
女の持つ黒くて透き通った、やましさを微塵も感じさせない瞳が私を正面から見据えている。対し、風に揺られる黒髪が私を誘うように揺らめき、ライン川のローレライが如く私を吸い寄せ、破滅に導こうとしているようにも見える。
「私達と聖杯戦争に参加してくれないかしら?」
風がひときわ強く吹いた。ふと空を見上げると、西の空に曇天が広がっていた。
私には女が矛盾して見えた。―それは私の勘違いや思い込みの類いにすぎないかもしれないが、この一抹の不安を拭えぬうちに女を信用する事など到底できない。
「どういう意味か、詳しく説明してもらえますか。」
「そうね…それなら、場所を変えましょうか。」
女はそう言って再び背を向けた。刺そうと思えばいつでも刺せる距離にいるというのに、私の頭にはその選択肢は存在しなかった。
女の矛盾にただ勝手に振り回されているだけなのだが、もしかするとこの後ろ姿に、強い意志の宿る瞳を持ったこの女に、見とれていたのかもしれない。
女が案内したのは、駅の南口を出たすぐの所にあるビルの二階に店を構える小さな喫茶店だった。
平日の昼間というのもあって、客は誰もいなかった。女は店主と顔見知りらしく、軽く手を振って来店を告げると勝手に奥へ入っていった。
「コーヒーで良いかしら?」
肩越しに私へ問いかけてきた。答えあぐねていると「遠慮しないで。店主の奢りだから。」と、冗談なのかよく分からない事を言った。ふと店主を見ると苦笑いを浮かべながら読んでいた新聞を閉じ、お湯を沸かし始めた。
日本人のジョークは分かりにくい。
「それなら、頂きます。」
実を言うと、日本での生活費は全て協会側から支給されるので、コーヒー一杯くらいどうということは無いのだが、あまり無駄遣いするとあとでミラー教授にとやかく言われそうなので、極力節約したいところではあるが…
(食事は流石に図々しいよね…)
メニューをちらりと見てそんなことを考えた。
昨夜は召喚の疲れで食べ損ねたので、半日何も食べていないことになる。
「どうかして?」
「いいえ。何でもないです。」ハラ減った。なんて言えるわけがない。
「そう、ならさっきの話なんだけど…」
「あの…その前に名前を聞かせてください。」
いくらなんでも、知らない人間と協力しろなんて無理な話だ。初対面があれだと、余計だ。
「あら、そう言えばそうね。私達、お互いの名前も知らずに呑気にコーヒー飲もうとしてたのね。」
ふふふ。となんだか楽しそうに笑っている。
「私は、本坂田《ほんさかた》すみれ。ただの魔術師よ。」
女はただ一言、そう言った。
「あ、私は…保科圭子です。時計塔から、仕事の依頼で昨日日本に来ました。」
胃が鳴りそうになるのを声で誤魔化す。
「時計塔って、あの時計塔?」
「ええ。一応、学生の身分ですが。」
「それじゃあやっぱり優秀なのかしら?」
頭を振る。
「たまたま、この仕事を出来るのが私だけだったので。」
「それって…もしかして陰陽師に関係してる?」
女が期待を含んだ声で聞いてくる。
この場で「そうだ」と答えるのは容易い。しかし、この女が陰陽師だという可能性も否定出来ない。
(どうしたものか…)
答えを探っていると、香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、かえって空腹に拍車がかかった。
振り向くと店主がトレイを手にやって来るところだった。
「お待たせいたいました。」
と、女と私の前にコーヒーとトーストを置いた。
「あら?モーニングの真似事かしら?」
そんな時間でもないでしょうに。と、店主の去り際に女が言った。
「俺の奢りなんだろ?ウチのトーストは絶品だから、是非お嬢さんに食べてもらいたくてね。」
と、ウインクして背を向けた。
呆然としていると「まぁ、確かに美味しいわよ。」と呆れたように女が言った。
確かに、うっすらと焼き目の入った黄金色のそれが発する匂いは、昔母親に連れられて入った小さな喫茶店で食べたトーストを思い出す。
両親と暮らしていた頃はあまり外出せず、家での食事が多かったから、珍しく記憶に残っている。
「食べちゃって良いわよ。話はその後で。」
正直限界だった。
「いただきます。」
サク、という快音とともに舌と顎が刺激され、唾液が即座に分泌される。
―私はトーストという料理を甘く見ていたかもしれない。
口に広がる小麦の香りと、噛むほどに増す甘みが脳を刺激し、無駄な思考を削ぎ落としてゆく。おいしい―久しぶりにそれ以外の感情が浮かばなかった。
イギリスには「食事をしたければ三食朝食を摂れ。」ということわざがあるくらい、はっきり言って飯が不味い。
寮の食事も平凡以下といったところで、飽きた私はしょっちゅう街のファストフード店に通っていた。
そんな、舌が"終わっている"私が食べても美味しいと感じるのだから、店主の言葉に偽りはない。
「そろそろ話をしても良いかしら?」
早々にトーストを食べ終え、コーヒーもカップに半分残すほどまで減らした頃に女が言った。
「貴女は、何の仕事で日本に来たのかしら?」
「…お答えできません。」
まだ言えない、と言った方が正しいか。
もし仮に「陰陽師の殺害」公言した場合、この場に陰陽師がいたら計画は頓挫する。目の前の本坂田でさえ疑惑を捨てきれないのに、後ろには店主がいる。この二人がグルであったらおしまいである。
「そこの女の身分は俺が保証するよ。」
突然、後ろから声がした。
「ウチの店はこの辺りの魔術師のたまり場でね。何でだか知らないが、一般人が入ってきた事はねぇんだ。…すみれは開店した頃からの常連様。ちなみに俺は手塚。一般人ね。」
と言ってトーストの皿を下げて行った。
「彼は一般人って言ったけど、正確には少し違うわ。」
私は首を傾げた
「彼は魔術回路を持たない一般人よ。けど…環境に適応したとでも言うのかしら、魔術師に囲まれてたらいつの間にか魔力だけは感知できるようになったの。」
女はそう言ってカップを口元に運んだ。
「貴女の心配は良く分かるわ。陰陽師かもしれない人間が二人もいて、仕事の内容を口にできるわけ無いでしょうね。」
机にカップを戻してさらに言った。
「でもね、魔術師と陰陽師には決定的な違いがある。」
女の指がカップに触れると、ほとんど無くなりかけだったコーヒーがゆっくりとかさを増し、カップの縁から零れた。
「奴らは魔術が使えない。」
受け皿に溢れたコーヒーを眺めながらそう言った女の手には、令呪が、赤く、三画刻まれていた。
「こんな感じで良いかしら?」
盲点と言えば盲点だった。陰陽師に魔術回路が通っているわけが無い…信じるしかないようだ。
「…私の仕事は、陰陽師を殺すことです。」
「そう…なら、あの結界に心当たりはあるわよね?」
女は初めからこの話がしたかったようだ。
「もちろんです…あれは陰陽師が張る結界です。」
陰陽師の張る結界にも、魔術師が張る結界に似た効果を発揮するものがある。違いは生成する材料―魔力であるかないかだけである。
「でしょうね…なら、あの結界の中に何があるか、分かる?」
少し考える。
「外からあの結界の中を覗き見るのは不可能です。」
残念ながら、私はあの結界の中を推測することしか出来ない。しかし、キャスターは"魔力の貯蔵庫のようなもの"と言っていた。
「そうね。私も何があるか分からなかったわ…けど、あの通りに入る前にセイバーが言ったの『大量の魔力を収納する容れ物がある』と。陰陽師は魔力を使わないのに、どうしてなのかしら?」
薄々と、何かが見えてきたような気がする。それは、勘違いや偶然の重なり合いによって生まれた錯覚じみたものであって欲しい。と、心のどこかで願う私がいる。
「…サーヴァント」
自然と、一番たどり着きたくない結論に至ってしまった。
「サーヴァントが作った魔力を収納するハコを、陰陽師が結界で護っている。そう考えられるわね。」
「何のために…」
ふと、窓の外を見ると雨が降り出していた。眼下の歩道をスーツを着た男達が慌てて走り抜けている。
「その陰陽師が聖杯戦争に参加したマスターである。と言えるかもしれないわね。」
「そんなはずはない…」
そう。そんな訳がないのだ。聖杯戦争は元々、第三魔法を再現するための儀式、魔術師による儀式なのだ。聖杯が、陰陽師をマスターに選ぶはずがない―
「本来ならば、ね。そもそもこの世に聖杯がある事自体が異常なのよ。だから陰陽師だってマスターに選ばれる事だって無いことはないんじゃないかしら?」
既に冷めたコーヒーカップをしきりに擦り、恐ろしさで冷たくなった指を温めようと、無駄な時間を取る。
「だから、貴女にお願いがあるの。―私と…聖杯戦争に協力してほしい。」
リアル多忙につき、更新が遅れたことをお詫び申し上げます(建前)
ネロ祭…周回…ボックスガチャ…アッアッアッ(本音)