独立行政法人鎮守府の創始者であり会長でもある神尾は、現役こそ引退しているが元政治家で、そのさらに前は科学者だった。今から三十年ほど昔に医療関係の研究で一花咲かせた有能な人間だったが、彼の作り出したものは世界から拒絶された。
万能生体ナノマシン。名前を『バイオセル』という。
生物の体内に入ると異常個所を見つけて治癒するという代物だ。仮にナイフで手を切ってしまってもバイオセルを投与するだけで寸秒の間に手は完治される。
日が暮れて薄暗くなった執務室をダウンライトの柔らかい光が優しく包み込む。絶望的な、憂いを帯びた表情を浮かべる柏木の耳には陽気だがどこか落ち着きのあるメロディが入ってくる。ステレオが歌う、敗戦国の絶望を和らげて海の向こう側まで響き渡った曲は、傷んだ心の特効薬にはちょうど良かった。
柏木は神尾が置いて行った個人情報リストを見ながらため息をついた。写真付きで経歴が書かれているそれを見ると、皆まだ年端も行かない少女たちだった。そして、皆、体に大きな傷を負っている。
神尾は彼女たちの体にバイオセルの生成炉を作る事で恒常的にバイオセルを体内に在留させ、身体能力の向上を図ると語っていた。神尾の目論見に気が付いた時、柏木は地獄を見た。体を修復するためにバイオセル生成炉を体内に入れ、そして戦うための兵器とされる彼女達をどうすれば良いのだと脳みそが裏返るほど悩んだ。どう、導けば良いのだ、と。
彼女たちが戦わなくてはいけない相手は、深海棲艦という。
二十年ほど前から突如現れた深海棲艦は、生物らしい特徴と機械的な特徴を備えたモノで、人間の乗る船を襲うという事くらいしかわかっていない。日本近海にのみ生息しているらしく、海外での出現情報は全く聞かない事から敵国からのスパイ説、偵察用の潜水艦説など色々言われていたが結局のところ二十年経った今でも大した情報は無い。
未知の存在である深海棲艦と戦う為に設立されたこの鎮守府で、彼は最高責任者の提督として就任していた。兵器となった少女達を海に送り出し、深海棲艦と直接戦わせる指令を出すのが柏木の仕事だ。
「俺は、何をやっているんだ」
机の上に置いた娘と妻の写真が目に入る。写真から飛び出しそうになるくらい無邪気に手を振る、ひまわりのような笑顔を咲かせてくれる娘。それを何とか押さえ込もうとするも、こちらに澄んだ笑顔を振りまいてくれる妻。
彼女達の笑顔が太陽のように輝くことで、柏木の心に暗い影を落とす。バイオセルの有用性を世間に知らしめたい神尾のために使われ、戦う少女たちに、なんて言葉をかければいいのか柏木は迷っていた。
再び、経歴の書類に目を通す。何も変わらない。何も見えないと思っていたが闇の中で初めて見えるものがあった。
失望と絶望の中、蜘蛛の糸に縋るようにここへ導かれた彼女たちへ。より良い人生を歩んでもらいたいから。より良き生活を手に入れて欲しいから。せっかく手に入れた健康的な体を自由に使って欲しいから。柏木は予行演習するようにゆっくりとその言葉を口に出した。
「君の、輝かしい人生に期待しているよ」