世界は奇跡に満ちている。
中学生の頃は陸上の記録を伸ばし続け、一時期は次期オリンピック選手にもなれるんじゃないかとまでもてはやされた。中学二年生の夏。それは彼女が最速だった時期だ。記録を塗り替えて最速の中学生として降臨した。彼女より速い記録を持つ者は確かにいたが、本番の時は風に押されるように、風と一体化するように彼女は勝ち続けていた。
中学二年の春から足に違和感があった。
しかし、それでも彼女は走り続けた。走りたいから走る。走ることで風を感じ、時間を掌握し、大地を踏みつける感覚がたまらなく好きだった。だから違和感があっても走り続け。痛みがあっても走り続け。大会が大雨になる中走り続け。根気と努力だけで記録を塗り替えて彼女は中学二の夏、全国大会で勝ちを刻んだ。
「島崎さーん!」
その代償に、彼女はもう走れなくなることを当時の彼女は知らなかった。
「島崎風香さーん」
総合病院のエントランスで、相手に恐怖感を与えずに優しさで包み込むような看護師の声で呼ばれた風香はハッと顔を上げた。遊んでいた携帯ゲーム機をスリープモードにしてスクールバッグの中にしまい、椅子の立てかけていた松葉杖を慣れた手つきで脇の抱えるとぎこちない動作で歩き出した。
金糸のような滑らかで輝かしい髪を棚引かせて病院の待合室を闊歩する彼女はどこか場違い感がある。死んだような顔で待合室にいる老人の中に現れた輝く黄金は、白黒テレビの中で唯一着色されたピンク色の煙のようだった。当の本人はそんな事気にする事もなく、ぶっきらぼうに医師の元へと行く。
「調子はどうですか?」 「痛みはありませんか?」 「何か変わった事はありませんか?」「お薬に副作用はありませんか?」
似たような事を毎回聞かれるが答えはいつも同じだ。
「変わった事があったら、もうここには来ませんよ」
皮肉めいた笑みで医師に告げ、月一回貰っている飲み薬を要求する。医師も同じように苦笑いをするしかなかった。
右足の膝付近の骨の剥離骨折とそれに伴う筋組織断裂。それが彼女の症状だった。剥離骨折だけならば手術をすれば歩けるようになるのだが、剥離した骨のかけらが神経に刺さっていた上に、筋組織を傷つけているために医師も手術には踏み出せないでいた。そのため、定期的な検診と飲み薬により痛みを抑えつつ、注射によりこれ以上の骨の剥離を食い止める事が今できる最善の方法だった。
打ち込んでいた陸上競技が急にできなくなってからの風香の変貌は、目に見えるほど単純でその心は容易にわかった。
まず、足がダメになった翌日から校則など完全に無視して彼女は髪を染めてきた。眩しいほどの金髪。髪を染めているのは学年でも数人だけだったが、彼女もその仲間入りを果たした。
「やりたい事をやらないなら生きている価値はないよ。その結果法律とか校則とかに縛られて罰則を受ける結果になってもね」
生活指導室に呼び出された彼女は、松葉杖をつきながら現れて、死んだ目でそう語ったという。陸上部の顧問で生活指導室も兼ねる教諭は、なにも言えなかった。
「それでは島崎さん。お薬出しておくので駅前の薬局で処方箋提出してもらってくださいね」
一回、処方箋を無視して薬をもらわなかった事がある。その結果転げまわるほどの痛みに襲われてから、風香はおとなしく薬を服用するようになっていた。いやいや処方箋を受け取り、病院を出ようとした時だった。
横からよそ見をして出口に向かっていた老人がぶつかってきた。咄嗟に松葉杖を投げ捨て、左足一本でバランスを取って接触を回避したが、風香が躱した事で老人の方が倒れてしまっていた。 派手な音を立てて老人が倒れ、周囲から野次馬魂丸出しの視線が飛んでくる。放置したまま立ち去る事も憚られたので、風香は優しく声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「ああ。申し訳ない。よそ見をしてしまっていたようだ」
老人は「ははは」と力なく笑って風香が落とした処方箋を手渡してきた。
「すまないね。君の方が重症そうなのに」
よっこいせ、と老人特有のゆったりとした動作で立ち上がるのを風香は黙って待っていた。少し前の風香なら『遅い』と一蹴して、一度謝ったのだからいいだろう程度の感覚で既にこの場を立ち去っていただろう。しかし、今の風香は松葉杖が無いと長距離を歩くことはできなかった。老人が拾ってくれた松葉杖を受け取ると、頭を小さく下げた。
「ああ、足を悪くしているのかい。よかったらそこでお茶でも奢らせてくれないかい?」
「いえ、何もそこまでは」
「時間はたっぷりあるんじゃないのかな? 平日の昼間から学校に行かないで、病院に来るくらいだ」
老人の言い方に少しカチンと来たのか、風香は露骨に嫌そうな顔をした。
「……そりゃあ怪我していますから。その考え方は失礼ではないですか?」
こちらは好きで病院に通っているわけではないのだ、と前面に押し出して「失礼します」と言って立ち去ろうとした。
「足。怪我して長いんでしょう。でも、もし、治せるとしたら」
自動扉を潜り抜けた風香に、老人は渾身の声をかけた。
風香が振り向かないはずがなかった。風香が止まらないはずがなかった。聞き耳を立てずにその場を素通りする理由など、どこにも見当たらなかった。
「どういうこと、ですか?」
風香の眼に興味の炎と希望の光が灯ったのを、老人は見逃さなかった。
「少し、僕の話を聞いてくれるとうれしいのだが、お時間はあるかな? お嬢さん」
老人は神尾と名乗った。
場所を病院の外にある小洒落た喫茶店に移し、神尾が頼んだコーヒーと、風香が頼んだパフェを待っている間、ぽつりと神尾は語り始めた。出て来たお冷で砂漠のように乾燥した唇を少し潤し、滑りを良くしてから愛想の良い笑顔を顔に貼り付ける。
「最先端の技術があるんだ」
詐欺師が「うまい話がある」と言い、存在しない未公開株を売りつける話に似ているな、と風香は感じた。しかし、うまい話を払いのけるほどの勇気は今の風香には無かった。一縷の希望に縋り付いてしまうほど、見え透いた毒の入った池に自ら進んで入ってしまうほどに風香の心は乾ききっていた。
神尾の唇のように。
「ナノマシン、というモノを知っているかい?」
「文字通り小さい機械、という事しか。何に使うか用途は様々って聞いています」
「その通り。僕たちが開発しているナノマシンは、有機物で出来ていて、人間の治療を行う為のモノだ。体の中から体を修復したり、より良い状態に持って行ったりする」
風香から滲み出る疑惑の念を感じ取ると、興味が逸れる前に神尾は懐からペンを取り出して左手の甲に思いっきり突き刺した。あまりに唐突なことで風香は目を見開いて叫びそうになったが、神尾は「黙って見ているといい」と、にんまりと微笑んだ。
血はすぐに止まり、傷着いた肌は再生され、気がついた頃には元のしわくちゃの肌に戻っていた。傷は残っていない。
「これが、僕たちが開発したナノマシンの、『バイオセル』の力だ。まあ、僕の場合は使い捨ての奴を一定時間ごとに注射しているだけなんだけどね」
店員に見えないようにジャケットの内側を広げるとそこには墨汁のような黒い液体が詰まった注射器が二本と、空の注射器が一本入っていた。
「今の修復で、この注射器一本分、っていうところかな」
あまりに現実味の無い出来事にぽかんとしている風香の手を握り、神尾は優しく語りかけた。
「興味はないかな? この治癒力に」
「あります!」
夢から突然覚めたかのように、大きく目を見開き風香は訴えた。
「これを使えば私の足も……」
「ああ、治るとも」
少しトーンを落として神尾は「だけどね」と付け加えた。
「だけどね、君の足を治すにはこれだけの量じゃたりない。僕の傷は表面だし、バイオセルの量もアレだけで足りた。けれど君の場合はもっと多くの量が必要だ」
風香はがっかりした。
ここでこの老人は金を請求してくるのだな、と。目の前でキラッキラの希望をぶら下げて置いて、お金をせしめ取る。大病院に定期的に通う事ができる財力が実家にあることを見透かされていたようだった。
しかし、神尾の口から出た言葉は風香にとって想定外だった。
「大量のバイオセルを注射で打つか、と言ったら答えはNOだ。大量の薬を投与すれば副作用が出るのと同じで、バイオセルもまた拒絶反応を起こしてしまうんだ。君の体に馴染んだバイオセルを生成する必要がある」
熱意の篭った口調だった。神尾の発する言葉は詐欺師の相手に同調するような色の無い声では無く、風香にもはっきり見えるほどの赤い熱意が見えた。
「それって、どう言う意味ですか」
「バイオセルを作り続ける臓器が必要だ。バイオセルの材料には変化しやすい卵細胞を使う。卵巣と子宮の半分をバイオセル生成炉に作り変える。時間が経てばバイオセルが全身にいきわたり、体を最善の状態に作り変えてくれるんだ。君の足は治るよ。確実にね」
確実に足が治る。
その言葉で、風香の心は決まった。仮に金がかかろうが。仮に騙されていようが。仮に、重大なリスクが孕んでいようが。夢物語のような臓器を改造するというプランを前に風香の思考は停止していた。呆気にとられて言葉を発する事を忘れた風香に、最後の一押しのと言わんばかりに神尾は付け加えた。
「手術費の事なら気にしなくていい。国で保障しよう」
うまい話にデメリットはつきものだ。だが、風香はそんなことを気にしてはいられなかった。
「やります、その手術」
だから、気付けなかった。
神尾の目が、罠にかかった獲物を見るように、凶暴な肉食獣じみた光を出していたことに。
「すばらしい決断だ。ありがとう、風香くん」
パフェが来る前にパフェより甘い話に乗っかった風香は、パフェのデコレーションのような輝かしい未来を掴み取るべく、パフェよりもとろけそうな笑顔を張り付けた老人の握手に全力で答えた。
そして、その硬く結ばれた手は離されることはなかった。
「さあ、行こうか風香くん。善は急げというだろう?」
「へ?」
そのまま半ば強引に島風は喫茶店の外に引きずり出した。考える暇を与えずに力強く、素早く。突風のように、思考能力を削ぎとるように次々に神尾は風香に語り掛けた。
「ご両親には僕から連絡しておくよ」
「いや、でも。そんな突然……」
喫茶店の前にはいつの間にかに表面が鏡のように磨かれた黒塗りの車が停まっていて、巨大なぬいぐるみでも押し込むように風香は乗せられた。
「突然! その通りだ。恋は突然出会いは突然。幸運の神様には前髪しか生えていないように捕まえにくく、今のチャンスを逃せば次の機会は回ってこないことだってある」
神尾が右側の後部座席に乗り込むとすぐに車は出発した。どこへ行くのか聞かされぬまま、風香は不安げに外を見ようとしたが、神尾の声は風香を離さない。
「人生とはいかにチャンスをつかみ取るかが重要なんだ! そうは思わないかい?」
「ど、どうなんでしょうね……」
「さっきも言ったけど、僕たちの組織は文部科学省の下にあってね。独立行政法人ってやつだ」
国の機関にある、という信頼できそうなワードを聞いて風香の表情は少し和らいだ。
「組織の名を、鎮守府と言う。かつて日本の海を守っていた日本海軍の拠点の名前をそのまま頂いているんだ。まあ、ゲン担ぎみたいなものかな。鎮守府では『深海棲艦』と呼ばれる生物とも兵器ともつかないモノを駆逐することを目的としているんだ。深海棲艦は知っているかな?」
「一応は。二十年前くらいからに日本近海で現れた黒い生物群の事を言って、人や船を時々襲う、と聞いています」
「半分正解で半分不正解かな。彼らはただ船を襲うんじゃない」
まるで風香に質問をさせないためにか、それとも知っていることをまくしたてて圧倒するためにか。せき止められたダムが決壊するかのように神尾は車内で風香にしゃべり続けた。
「彼らは日本近海にのみ現れる。そして完全に不定期に多くの人が乗る船を襲う。襲われた船を見ていると貨物船は対象外だ。なぜだか知らないけどね。主に漁船や護衛艦、旅客船といった物が襲われている。日本に現れた恐ろしい敵だ」
「そ、それが私の足とどう関係するんですか?」
「そうとも。君はこれからバイオセルで足を治すね。だがその副産物としてとんでもない力を手に入れる。バイオセルの能力は素晴らしい。人間の体を、生物の体をより強靭に、より頑丈に、より素晴らしく作り変えるんだ。ああ、見た目に変化は無いから安心するといい。例えるならスーパーマンのようになれるんだ」
そこまではなりたく無いんだけどな、と思いながら怪訝な目を向けると神尾はにまにま笑いながら話を続けた。
「君は足を取り戻し、新人類としての幕開けに携われるんだ。デメリットは何も無いよ」
「悪くは、無いですね」
「そこで、だ。深海棲艦っていうのはどんなものか見たことはあるかね?」
「いいえ」
「奴らはちっちゃいクジラみたいな形をしている。小さいものは小型犬程度の大きさで、大きいものはトラックくらいかな。小さくてすばしっこい分、通常の護衛艦では討伐が面倒なんだよ」
再びだからなんだ、と言いたげな風香の冷たい視線が刺さる中、神尾は前のめりになりながら唾が飛びそうな勢いで風香に力説した。
「風香くんに専用の装備を与えるから深海棲艦を狩ってほしいんだ! 一人でやれとは言わないよ。君と同じような境遇で体を治した子達がたくさんいる。みんなで深海棲艦をやっつけてヒーローになるんだ!」
ヒーローという単語に、悪く無いな、と一瞬思ってしまった。一人でやるわけでも無い。国の機関ならばそこまで危ないことも無いだろうしリスクもそこまで無いだろう、と。
「足が治る上にヒーローになれると思えば、いいこと尽くしとは思えないかな?」
「確かに、悪くは無いかも」
「おお! そうか。ありがとう。ありがとう、風香くん」
神尾は仰々しく風香の手を取り硬く両手で握手をした。上下にぶんぶん振られて脳まで揺さぶられた風香がようやくまっすぐ前を見れるようになる頃には、座席の間にあるテーブルの上に万年筆と契約書が置かれていた。金のペン先が毒々しい輝きを見せている。
「ここにサインをすれば足は治る。必ずだ。僕と、バイオセルを信用してほしい」
立て板に水どころか滝のようなマシンガントークに圧倒された事と、深海棲艦を狩るという事にそこまでデメリットを感じなかった。
現実が、見えなかった。テレビに映るライオンが危険だと教わっていても、実際にライオンの檻に入れられるまで、本当の危険性に気付くことはできない。風香もまた、その危険性に気付くことのできない一般人の一人だった。
そして何よりここまで来ていて手術を受けない選択肢は無かった。
見た目以上に重量のある万年筆を手に取り、流れるような動作で風香は書類にサインした。
「これでいいの?」
「いいとも。いいとも! すばらしい。ありがとう。風香くん」
車が止まり、神尾が降りる。風香も降りようとしたが、風香が扉を開ける前に開かれ、外で待機していた男が風香を車椅子に乗せた。
遠くまで見える青い空。宝石を使った絵具よりも澄んだ色を出している海。自然でこれほどの色を出せるのか不安になる程白い雲。どこまでも続く白と青の世界の片隅に、七階建ての病院が建っていた。その周囲にはガラス張りの建物や、海のそばには五階建てのレンガの外壁を持つ建物、船が入りそうなほど大きな倉庫がいくつも建っていた。グラウンドも見ることができる。
ふと、磯の香りが風香の鼻腔をくすぐった。
「さあ、ようこそ鎮守府へ。君の輝かしい成果に、期待しているよ」