神尾は語らなかったが、艦娘化の手術というのにもリスクは伴う。 そして過去百回近い失敗の上に現在の成功法というものが確立されている事を、現在艦娘になっている彼女たちは微塵も知らない。
最初の五時間で臓器を摘出し、その後一週間は仮死状態で人体を保存する。その間に摘出した子宮と卵巣をバイオセル生成炉に作り変えて人体に戻す。その後は一か月間使い、通常の生活ができるようにリハビリを行い、さらに三か月を使い故障個所の修繕具合を確認する。そして、医師の判断によりGOサインが出たことで風香はようやく退院し、艦娘として一歩を踏み出した。
風香に与えられた新しい名前は『島風』だった。
「いいじゃないか。足の速い船だったそうだよ。駆逐艦島風、というのは」
初代島風が活躍していたのは今からもう一世紀近く前の話だという。
「今の君にぴったりじゃ無いか。足の速い島風くん」
最初は『島風』という名前も気に入っていた。しかし、用意された制服を見て、島風は唖然としていた。
「こ、これが制服?」
艦娘一人一人に合うように調整された制服がそれぞれ貸与される。体のサイズ、今後装備する『艤装』という名の武器、空気抵抗、防御力、通信機能などなど。それらを考慮して作成された制服には当然個人差が出てくる。
島風は自分が袖を通す事になる制服を見て、唖然としていた。
「これが、制服?」
「二回言っても変わらないよ、島風くん」
鎮守府本庁舎二階にある会議室。今は島風に貸与される物品が並んで置いてあった。机の上に広げられた制服はとても可愛らしいセーラー服のようなものだった。
髪飾りとして長いリボン。これは立てる事でアンテナ代わりになってリボン内蔵の無線機で通信ができるという。セーラー服は涼しいデザインになっていてノンスリーブタイプだ。丈を測ると島風のへそがちらりと見えてしまうほど短い。
「設計ミスとかは?」
「優秀な研究員が作成しているんだ。ミスはないよ」
もう一度唖然としながら島風はセーラー服の丈を見直す。腕と足には日焼け止め用なのか、二の腕まで覆う手袋とハイソックスがあった。
そこはいい。
だが、スカートの丈も短すぎる。その上、それに付随するショーツが酷かった。黒いGストリングのパンツを見て、島風は絶望のどん底に落とされていた。これをフルで装備した暁には、ただの痴女として認定されてしまう事間違い無しだ。
「これを、着ろと?」
「防寒性に疑問があるのかい? そこは大丈夫。こんな見た目でも耐風性能、耐熱、耐寒性能は抜群だ」
「そういう意味じゃなくて! これじゃ! 痴女だよ!」
「不服かね?」
癇癪めいた嘆きを発したが、神尾の冷徹な一言で島風は目が覚めた。
何をはしゃいでいるのだ、と。今、これだけはしゃげているのは艦娘化の手術があったおかげだ。それを忘れてはならないと再度自覚して、島風は「いいえ」と短く答えた。
着替え終わった後に案内されたのは提督の所だった。
「この鎮守府で一番偉い人、司令官とも言える。彼が指揮を取って君たちを訓練し、クジラを狩る作戦を立てる、ここの要だ」
「神尾さんは?」
「僕はもう現場は引退だよ。ただのしがない政治屋であり、元科学者であり。君たちをサポートすることしか出来ない」
くしゃっと、乾いた笑みを浮かべた神尾は、「さあ」と言って島風の背中を押した。丈の短い腰の部分ではなく、服のかかっている肩甲骨のあたりを押したのはほんの僅かな気遣いだろう。
重厚な色合いを出している茶色い木の扉の一番上には『第一会議室』と書かれている。中からは何の音も聞こえない。黄金に輝く取っ手を握る島風の手に力が入る。
思い切って回し、扉を押し開けた。
「失礼します!」
中では談笑中だったらしいが、島風が入ってくるなりぴたりと静かになった。
一番奥、上座には白い制服を着た男性が座っていた。海上自衛隊や海上保安庁の船乗りを意識された制服で、見慣れないが大きい金星が付いている事から彼が提督だろうとすぐにわかった。その右隣には優雅に紅茶を嗜む茶髪の女性が。彼女の真正面には両目を紺色の布で隠した女性が。茶髪の女性の右隣に座るフリルのついた服を着ている少女、その隣に座る小動物のような子は島風に手を振っていた。フリルの少女の前でむすっとした顔で腕を組んで座る女性は、少しイラついているように見えた。
「駆逐級、島風。ただいまをもって鎮守府に着任しました。よろしくお願いします!」
広い会議室にも響き渡るように声を張り上げた。提督は立ち上がり島風の目を見つめた。
提督の目は、ひどく寂しそうな目をしていた。
「私は柏木と言う。ここで『提督』というものをやっている。よろしく頼む、島風」
「はい!」
「君の輝かしい人生に期待しているよ」
部活に初めて入った時に状況が似ているな、と思いながら島風は返事をした。先輩がいて、年下の子がいて、OBがいて。そして、顧問や監督がいる。似たような状況ににやけそうになるのを抑えて、柏木の声を待った。
「その辺にかけてくれ。メンツも揃ったし、オリエンテーションでも始めようと思う」
小動物じみた少女が「こっちこっち」と言わんばかりに真正面の席を指差していたので、島風はおとなしくそれに従った。隣に不機嫌そうな女性が座っているのが少し気掛かりだった。
「ヘイ! 提督! もうワタシたち何回もオリエンテーション受けてるヨ! 解散でいいんじゃない?」
「お前たちの自己紹介もあるだろう。おとなしくしていろ、金剛」
「でも……」
ティーカップの女性と柏木提督が口論になっているのを尻目に見ながら、島風は真正面に座った小動物からの問いかけに答えていた。
「ねえねえ! あなた駆逐級なんだって? あたしもだよ! よろしくね!」
「よろしくお願いします」
「あたし雪風、っていうの! 幸運艦の名前もらったから宝くじ買う時はいつでも言ってね。ついて行くから!」
「んん〜せっかくのお休みの日なのに会議室にカンヅメはイヤね!」
まだ口論は続いているらしく、中々金剛は静かにならない。
「今喋ってるうるさいのが金剛よ。ここで一番の古参だから名前、間違わないように」
突然、無口に見えた不機嫌そうな女性が語りかけてきて島風はびくっとバネ人形のように反応してしまった。
「そんなに驚かないで。私は加賀。空母級よ。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
透き通るような声と、凛とした目、そこはかとなく母性と漂う笑顔に島風は圧倒されてしまった。青い袴を履いているせいか、古き良き大和撫子の模範解答のような雰囲気がある。
「あと、そこのうるさそうなのが那珂よ」
小動物こと雪風の隣で、満面の笑みで島風に手を振っていたのが那珂だった。年齢は島風と大して変わらないだろう。だが、同年代の女の子よりも花束のように晴れやかで、かわいらしさが爆発していた。だが、目の横でピースを作り首を傾げて微笑んでくれた時に、島風は気付いてしまった。美しい花の首に、斬りこみが入っている事に。喉の付近には薄っすらとチャックのような長い傷があった。
「で、金剛の前でおとなしそうにしているのが龍田。目を隠しているけど頭上の輪っかで全部見えているから。手を振っても反応してくれるわよ」
試しに小さく手を振ると、龍田は島風の方を向いて小さく微笑みながら軽く会釈した。
「わかったヨ。手短かに済ませてね、提督」
ようやく口論に蹴りがついたのか、金剛はおとなしくなり、提督は手が空いたように見えた。柏木が「じゃあ……」と話を始める前に加賀がぼそっとつぶやいた。
「自己紹介ならだいたい済ませたわよ。金剛が騒いでいる間に」
「NOOOOOO! ノケモノはよくないネ!」
金剛が頭を押さえて会議室の机に突っ伏す羽目になったのは言うまでもない。
「ワタシは超重火力戦艦級の金剛ネ! この鎮守府でわからない事があったら何でも聞くといいヨ! 覚悟するネ新人!」
「とっぱじめから新人をビビらせてどうするんだよ」
柏木からのデコピンが金剛の額に炸裂したのは言うまでもない。
ボス面をしていたのは見掛け倒しではないらしく、新入りである島風を引率して鎮守府内を案内するとき、金剛はしっかり先導を切って出た。
鎮守府本隊庁舎は五階建てで、一階から三階までが仕事を行う庁舎。四階から上が居住スペースの隊舎となっている。五階は艦娘用の女子寮になっているが、合計二十四室あるためそのほとんど使用されていない。大浴場と娯楽室も見せてもらったが、現在運用しているのが五人だけとあって、相当人口密度の低い場所になっている。それぞれの部屋に机とベッド、その他家電は設置されていて、体一つで引っ越してきてもすぐに生活できるようになっていた。
四階は提督をはじめとした男性スタッフ用の部屋になっているが、こちらもほとんど使用されていない。何せ、提督以外はここを使っていないからである。男性スタッフは別棟にある宿舎か、己の仕事場に寝袋を持ち込んで寝ているらしい。
「みんなハードワーカーネ!」
嬉々として説明する金剛の隣で、島風は白い目でぼそりとつぶやいた。
「それってブラック企業……」
「島風、それ以上の詮索はいけないわ。私たちのホワイトな生活は彼らのブラックの上にできているの」
この世の闇を垣間見た気がした島風だが、顔を青くするだけでそれ以上の言及は避けた。
三階は観測室や通信室、作戦会議室といったものが並んでいる。作戦会議室のテーブルは一面タッチパネルになっていて、豪華さが伺えた。近海の様子が常に表示されていて、旅客船や貨物船、自衛艦や海上保安庁の護衛艦などがかわいらしいアイコンで描かれていて、せわしなく動き回っている。観測機器の周囲には眼鏡をかけた黒髪の女性が一人だけいた。
「初めまして。大淀、と言います。ここで作戦の指示を皆さんに伝えたり、あとは館内アナウンスも担当しています」
澄んだ声が特徴で、テレビのスピーカーが目の前にあるような錯覚を覚えながら、島風は頭を下げた。
他には同フロアに提督の執務室があったが、中までは入れてもらえなかった。一階には食堂と購買が。隣の倉庫みたいな海に隣接している建物は艤装を整備する整備場と船のドックであり、中では何人もの男たちが大型の重機を操り大型船の建造を行っていた。つんと鼻に油と焼けた鉄の匂いが飛んでくる。
庁舎の裏手、一番陸側にあるガラス張りのきれいな建物は研究棟で、バイオセルや艤装の研究開発を行っているため基本は立ち入り禁止だと説明も受けた。少し離れたところには島風が少し前まで入院していた病院があり、その隣には屋外教練場があった。学校のグラウンドのようにトラックが引かれている。それを見て陸上をやっていた頃を思い出して、島風は少し懐かしくなった。
全部を見て回るのには今は時間が足りないから、と相当端折られて島風は文字通り駆け足で鎮守府内の施設を見て回った。新生活に胸をときめかせるにはやや毒味が多い気もしたが、なんとかやっていけそうだった。
「島風。君にはこれから基本教練を受けてもらう。これは他のみんなも受けていて、艦娘としてやっていくために必要な事だ」
事前に神尾から聞いていたとはいえ、柏木に直接言われるのとでは言葉の重みが違った。周りには他の艦娘もいた。別に島風は柏木の真正面に座っているわけでもない。しかし、彼の眼が、纏う空気が、非常に重くて島風に『Yes』を言うのをためらわせる。
「艤装という名の銃器も扱ってもらうし、単身で嵐の海にも出てもらう可能性もあるだろう。今までにやったことの無い事だと思う。君がいた陸の学校という安全地帯からは遠く離れた、戦場の海に飛び出すんだ。それでも君は、艦娘になるかい?」
まるで『NO』と言わせたいみたいだ。
だが、島風の決意は決まっていた。あのまま治らぬ足を治すため病院に通い不治の永遠を生きるのならば、走る希望を失ったまま死んだように生きるのならば、平穏な丘でぬるま湯のような地獄を味わいながら生きるのならば、この戦地とも呼ばれる海に乗り込む事に恐怖はなかった。
「なります」
それ以上、無駄な言葉を島風は発さなかった。他の艦娘の視線が集まる。柏木提督は悲しい目で微笑むと、少し視線を落とした。
「わかった」
立ち上がり島風に向き直ると、柏木提督は力なく笑った。
「改めて。ようこそ、島風。我が鎮守府は君を歓迎しよう。明日から教練を開始する。今日はゆっくり休んでくれ」
島風の新生活は思ったほど悪いものではなかった。
「オハヨー! 島風ちゃん。朝ごはん行こー!」
翌日の朝から正面の部屋の雪風が起こしに来た。
それも、朝六時に。七時に起きれば間に合うはずなのだが一時間も前に。甲高い声ではないが、脳の芯まで響くような独特の声で起こされて、島風は死体のようなのろのろとした動きで扉から出る。
「おはよー、雪風。まだ六時だよ?」
「早起きは三文の徳、って言うでしょ?を徳を積んで幸運になろうよ!」
ぼさぼさ頭の島風を雪風は手ぐしで整えて、無理やり制服に袖を通させ、なれないハイヒールを履かせると、たどたどしい足取りの島風を引っ張って雪風は一階の食堂へ向かった。
食堂は朝の六時から八時まで朝食時間として開いている。その間、バイキング形式で好きなものを取って食べれるようになっていた。早朝だと言うのにも関わらず、人は結構いて十人ほどの団体客もいた。
「いくぞ野郎ども! 朝ご飯の時間だ!」
うるさいほどのパッションピンク色の髪を振りまいている少女を筆頭に、作業着や白衣を着た男達が「イェスボス!」と叫んで入場してきた事で、島風は完全に覚醒した。
「な、なにあの集団は……」
「ああ。あれは明石さんたちだよ。昨日行った、研究施設のボスなんだって!」
ピンクの少女、明石の後ろを歩いている男達に島風は見覚えがあった。先日、造船ドックで見かけた男達だった。
初めての食堂という事と、作業員の一団が来た事で島風は圧倒されていたが、それ以上に圧倒させて来たのは雪風だった。
雪風は初めての環境で慣れていない島風に小皿を運んでは説明を繰り返していた。
「これは金運が付くって言うんだよ」「日本人はご飯食べると健康運が上がるんだって」「島風ちゃんそんな辛気臭い顔してたら幸運の神様が通り過ぎちゃうよ?」「島風ちゃんすっごーい! ピーマン食べれちゃうんだ! 知ってた? 今日のラッキーカラーは緑なんだよ」「ちなみにラッキーアイテムは黒いパンツなんだって!」「島風ちゃんしし座なんだっけ? じゃあ今日は卵を食べるといいみたいだよ!」
うるさいほどの幸運推し。幸運艦という名称を与えられたからなのか。それともこれが彼女の本質なのか、島風は判断しかねた。
「ありがとう、雪風。もうこのくらいでいいよ」
「そう? んじゃあ後はあたしがもらうね!」
自分用の小皿を取りに行った雪風を見送り、島風はある事に気付いた。雪風の着ている裾の短いワンピース。そこから覗く健康的な太もも。だが、右足に限ってはつなぎ目があった。膝の少し上にあるそれは、注視しないと気づかない。膝から下はハイソックスで隠れているため分かりづらくはなっているが、繋ぎ目と膝の僅かな間は人工的な滑らかさを持った物質だった。
義足。
島風の脳裏にその単語が過った。
だが、彼女の足はどう見ても健常者のその動きだ。違和感など覚えさせない軽快な動きで戻ってくる雪風を見ると、爽やかな笑顔で笑っている彼女を見ると島風は言葉に詰まった。
初対面で『義足なんですか』と聞いていいのだろうか、という素朴な疑問は雪風が席に座る頃には飲み込まれてしまっていた。
小鳥が歌を囀るように、雪風の幸運談義は枯れることが無かった。しかし島風が食事を終えるまでに理解できたことは『風水はガチであるから実践したほうがいい』程度のことにとどまった。幸運艦雪風はその後、開いた時間を利用して鎮守府内を再度案内してくれた。金剛のテンションに脳を任せた意味不明の説明や、加賀の一回り上から見られた世界の言葉で話される説明とは違い、同年代の等身大の言葉で、見方で、意味合いで述べられて島風も鎮守府という組織と基地を別の視点で理解することができた。
教練の時間はそれぞれ別個行っていた。これは神尾の方針だという。
それぞれに個性がある、からという理由らしいがその本当の意味を島風は察してしまった。
雪風は足が。
龍田は目が。
那珂は首周辺が。
そして島風自身も足が。
恐らく他の艦娘も何かしらの欠損があるのだろうと察することは難しくない。それぞれ欠損があるから、同じことはさせずに体の調子を見て教練を行う事が目的らしい。
最初の教練は入院中の担当医師と艤装開発班の付き添いの元、屋外での運動技能を測るものだった。広いグラウンドを前に島風の血が滾る。足が震える。走りたいと、叫び始める。
「岡田先生!」
担当だった医師、岡田は少し緊張気味で立っていた。白衣姿しか見たことはなかったが、今は動きやすいようにジャージになっている。薄い頭髪が海風にさらされて寒そうだった。
「先生も運動するの?」
「いいや。ぼくは風香ちゃん……今は島風だったね。ごめんごめん。君の足の具合を見に来たんだ。これでもスポーツ医だからね。その辺の運動部の顧問よりは運動後のケアとか適切な指示が出せると思うよ」
本来、島風の履いているハイヒールは運動には相当不向きだ。だが、この靴でないとダメだというのが鎮守府のお達しだった。なんで、と島風が問うても岡田は苦笑いして返すことしかできなかった。
「足首を怪我しやすくなっちゃうからあんまりお勧めしたくないんだけどね。バイオセル以外の技術的なものはあんまり教えてもらえてないんだ」
「超重要機密事項、ってやつなの?」
「そこはなんとも。ただ、外で喋っちゃダメなのは言うまでもないよね」
岡田以外に作業服姿の男が一名と白衣姿の男が一名島風のランニングを見守るために来ていた。今朝、食堂で明石に連れ添われていた男だった。手元にはタブレット端末だったり、スピーダーやタイマーを持っていた。
「それでは島風さん。この直線を走ってください」
まずは慣らしで百メートル。見慣れた光景であり、忘れた光景であり、栄光を掴みとれた光景でもあった。クラウチングのポーズを取る島風の額に冷え汗が流れる。
走れるのか。
本当に走っても足は大丈夫なのか。
入院中に行ったリハビリでは、軽く走る事、跳ねる事程度はできるようになっていた。杖無しでは痛みを恐れて歩けなかった島風を歩けるようにした岡田の腕は素晴らしいが、それでも拭えぬ不安はある。
全力で走ってもこの足は壊れないのか。
再び、足を失う事が何よりも怖かった。
恐怖が脳から滲み出て体全体に広がっていき、体が硬直する。
「島風ちゃーん!」
岡田の声が聞こえた。
「君の足は壊れない。君自身を信じられなかったらそれでいい。バイオセルとぼくの腕を信じて」
その声を聞いて、体に広がった恐怖は潮風と一緒にフッと吹き飛ばされてしまった。
「はい!」
力強く答えると、島風は用意、の掛け声を待った。
「よーい」
足を上げる。ヒールを履いていてもいつも以上にバランスが取れている事が感じ取れた。
風が吹く。
潮の香が島風の鼻腔をくすぐる。
太陽のぬくもりが背中を押す。
パン、と銃声が鳴った。
いつもなら鼻に火薬臭さ漂いながら走っていた。しかし、今は、匂いすら超えて島風は走った。
一歩目の蹴りでクラウチングスタート台は崩壊し、その瞬間だけで島風は二十メートル以上も前進した。いつも以上に軽い体に恐怖は覚えなかった。そこにあるのは純粋な希望。速く、早く、疾く、夙く。ひたすら疾く走りたいと願った島風は、人類の壁を超越していた。
気がつくと目の前にフェンスがあり、島風は急ブレーキをかけてなんとか立ち止まった。履いていたハイヒールは島風の速さにも耐え、ブレーキにも耐え、原型を留めていた。
地面に溝ができ、土煙が舞った。
どのくらい速かったのか、自身でも正確に理解できていない島風は、スタート地点を見た。ひたすら走り続けて気がついたらグラウンドの端にあるフェンスの目の前まで来てしまっていた事を理解するのに、そう時間はかからなかった。
声は聞こえないが、遠くで岡田が手を振るのが見えた。
「百メートル、三秒五七ですね」
白衣姿の男は持っていたスピーダーを見ながら島風に告げた。その速度に理解が追いつかない島風に、再度白衣の男は告げた。
「時速で言うと百キロメートルです。今の島風さんは体力を考えなければその辺の自動車よりも速い、と言う事です」
「え、え?」
「すごいじゃないか島風ちゃん!」
岡田は目を見開き、万歳して喜んだ。しかし、急に顔色を変えて島風に駆け寄った。
「痛みはないかい? 違和感は? 急に速度を出して急に止まっているからケアは大切だよ」
棒立ちになっている島風に駆け寄り、足の具合を触診する。大した異常がない事を確認すると、ポケットから湿布薬を取り出すと島風に手渡した。
「たぶんすごい筋肉痛に襲われると思うから、これだけは貼っておいてね」
「は、はい。ありがとうございます」
現実離れした数値にまだ脳が追いついていない島風は、続いて別の施設へ連れて行かれた。鎮守府隊庁舎裏手にあるガラス張りの建物。研究棟だ。
そこから先は作業着の男と岡田は入れないとのことで、別れて行動した。
建物内部は隊庁舎とずいぶん雰囲気が変わっていて、東京都内にありそうなオシャレなオフィスビルの一階に似た構造をしていた。白衣の男はエレベーターホールに向かって下階のボタンを押した。エレベーターを待っている間、「そう言えば名乗るのを忘れていました」と言って白衣の男性は身分証を島風に見せた。藤宮賢治と書かれていた。階級や所属も書かれていたが、島風が認知する前に藤宮は身分証を撤収した。
「そういえば島風さん。今日の予定とか聞いていますか?」
「いいえ。全然聞いていないんですけど」
「そうでしたか。私が言うのも何ですけれど……今日は島風さんの適性を測る試験みたいなものです」
「適性? なんの?」
「艦娘としての。現在、あなたは駆逐級として配属されていますがそれは事前に得ていた資料から算出したものです。実際にこちらで適性を測り、再度『級』を決めます。例えば金剛さんは元々重巡級でしたが適性の結果、戦艦級に。那珂さんは重巡級でしたが軽巡級になっています。もちろん本人の希望も尊重できるので気兼ねなく言ってください」
「その、ナントカ級っていうのはどうやって測定を?」
「体の完成具合と、脳の強さです」
「はい?」
体の完成具合、というのはバイオセルの定着具合の事だろう。だが、脳の強さと言うのがいまいち理解できなかった。藤宮に連れられて地下行きのエレベーターに乗り込む。
「具体的に言えば、空母級の適性があるかと言う話です。バイオセルは血に溶け込んでいるため、人間強化の影響は体だけではなく脳にもある事が分かっています」
頭の上でクエスチョンマークが隊列を組んでタップダンスを踊り始めた島風を見て、藤宮は苦笑しながら付け加えた。
「簡単に言ってしまえば、頭が良くなるんですよ」
空母級とはドローンを操る技能がある事を言う。
複数台、多い時には二十台以上の飛行ドローンを飛ばして空から奇襲を行う技能があるかどうかを判断するとの事だ。飛ばせる上限数により軽空級や空母級等のランクが付けられるという。が、今の所空母級の適性があるのは加賀だけだそうだ。金剛も操ることは出来るが一台が限界なので戦艦止まりらしい。
エレベーターが止まり、扉が開く。外側の扉は乗る時よりも重厚な作りになっていた。通路は薄暗く、電灯は付いていないらしい。深い闇が奥に続いていて島風は一歩を踏み出すのをためらっていた。そんな事を気にもとめず、藤宮は慣れた足取りですたすたと闇の中へ歩いていった。
「加賀さんは体の強化がほぼ無かったんです。しかし、その分、頭脳の方で強化が見られていました。あ、体の強化が見られていないことを話した事は本人には内緒にしていて……」
「本人にダダ漏れなんだけど?」
突如、一寸先の闇の中から加賀さんの顔だけがヌッと現れた。
「や、やあ。加賀さん。お元気そうで何よりです」
「藤宮くん、後でお仕置き部屋ね」
威圧感たっぷりの目だけで人を殺せるような笑顔を藤宮に向けた加賀は、島風を見るなり優しさ溢れる笑みを向けた。
「島風ちゃん、いらっしゃい。ここに来た、って事はドローン操作の教練を受けに来たの?」
「そうだよ。適性を測るためにね」
どうだ、と言わんばかりに島風の代わりに胸を張って答えた藤宮には、加賀の冷たい無言の視線だけが突き刺さっていた。
加賀に先導されて廊下を歩き、扉を抜けた先は本当に地下か、と思うほど天井の高い部屋だった。一面白い壁はクッション材が埋め込まれていて、ものがぶつかっても衝撃を吸収してくれるようになっている。それに加え、中では大型犬ほどの大きさの飛行ドローンが猛スピードで飛び回っていた。その数、二十台。その全てがバラバラの軌道を描き、空中を浮遊している黒い球体を狙っていた。バスケットボールほどの大きさの黒い球体も十個近く飛び回っていたが、飛行ドローンに撃墜されてその数を減らしていた。床には球体の破片らしきものが転がっている。
島風が飛行ドローンを感動して見ている間に、全ての球体は撃墜されて飛行ドローンも徐々に着陸を始めた。
「これがここでの教練よ。ドローンを装置で操るの。バイオセルに反応するコレで操ることができるわ」
加賀は髪に付けていた錨が描かれた髪留めを外し、島風に渡した。
「これで、操作できるの?」
島風は新しいおもちゃを手に入れた子供のように目を輝かせて、加賀からもらった髪留めを両手で持って見ていた。
「たぶん、ね」
ちょっと苦笑い気味に答えると、加賀は島風の手から髪留めを取って、島風の頭につけた。
「ちょっと場所に個人差があってね。何かピン、と来たら教えて。そこがあなたの最適の場所だから」
数ミリずつ、細かに場所をずらしながらしゃがんでいる島風の様子を伺って加賀は髪留めを弄っていた。側頭部に差し掛かった時、「おっ!」っと動物のような叫び声をあげた。
「な、なんかきた!」
足が痺れた子供が立ち上がるようなこちない動作で島風は立ち上がり、初めての感覚にどぎまぎしながら加賀に向かい合った。
「じゃあ動かしてみましょうか。あそこにあるドローンに意識を集中させて」
加賀に言われた通り、島風は意識を集中させる。
まるで手がもう一本生えたような感覚に陥るが、いまいち感覚は掴めない。びくとも動かないドローンに痺れを切らした島風は一瞬、力尽くでスプーンに「曲がれ!」と念じるが如く、「飛べ!」と念じた。
その瞬間、ドローンは動いた。
だが、飛ばなかった。
ねずみ花火のように地面を暴走し、猛スピードで前進して壁に当たるとめり込んだ。
「あ、あああああああ」
慌てた島風が更に変な指示を出したのか。衝撃吸収壁に当たって終わるはずのドローンは壁際を走り続けて羽が折れ、尾翼も折れ、何度も壁に激突したせいでプロペラも取れてしまった。
ドローンが止まることができたのは、原型を失ったからである事は言うまでもない。藤宮はその場で崩れ落ちて、顔面も今にも溶けそうなほど絶望的な表情を浮かべていた。
「ごめんなさい……」
死にそうになりながらも、なんとか声をしぼりだして涙目になりながらも島風は加賀の方を向き、深々と頭を下げた。
「大丈夫よ。このくらい。ね? 藤宮くん?」
加賀はにっこり微笑んでいたが、その隣の藤宮は目が死んでいた。死者のような、魂を抜かれた目をして壁を見ていた。木っ端微塵になったドローンの残骸を見ていた。
「ね? 藤宮くん?」
やさしく、ゆるく。しかし重みのある笑顔と声で加賀に語り掛けられた藤宮は、無理やり笑顔を作り引き攣った笑顔で答えた。
「は、はい! 問題ありませんよ加賀さぁん。なにも問題ありません。そうそう、あの機体ちょうど廃棄処分にする予定だったんだ。ははははアッハッハっハハハハハ」
藤宮が壊れたように笑い始めるのとほぼ同時に、それは叫んだ。
壁に設置されたスピーカーから警報が鳴り響く。
『緊急事態。緊急事態。近海に深海棲艦の出が予測されます。繰り返します。近海に深海棲艦の出が予測されます』
大淀の澄んだ声でアナウンスが流れる。あまりに突然の事で島風がうろたえながら周囲をきょろきょろと見まわしていると、加賀は「大丈夫」と島風の肩に手をのせた。
「大丈夫よ。こんなの日常茶飯事だから」
「え、これが、日常茶飯事……」
今にも死にそうな顔を向ける島風にしまった、と冷え汗を流しながら加賀は付け加えた。
「緊急地震速報みたいなものよ。小さくても頻繁に鳴るの」
しばらくすると警報は鳴りやみ、別の放送が入った。
『こちら柏木。現在、那珂と龍田で対応中だ。緊急体制を解除する。以上』
柏木の放送の後、一瞬あたりは静まり返って数秒のタイムラグの後、人々は仕事を再開した。島風たちのいたドローンテストルームにも研究員が下りてきて、絶望を顔に張り付けながら残骸になったドローンを回収していた。何事も無いように動き出す人を見て、島風はつぶやいた。
「本当に警報が鳴るのが日常なんだね」
「そうよ。まあ、そのあたりはまた今度説明しようかしら。藤宮君?」
放心状態の藤宮は加賀に呼ばれると蘇生したゾンビのようにぎこちない動作で振り向いた。
「島風ちゃん、次の所に連れて行ってあげてね」
藤宮と同じく白衣を着た人相手に壊れた残骸の説明をしていた藤宮は、苦笑いで答える以外の術を持たなかった。
島風が造船ドックで魚雷の試し打ちや駆逐級艤装を装着して調整を行い始めたころ、彼女たちは海上にいた。
深海棲艦を狩るために。
激しい戦いはない。悲鳴も無ければ憂いも無い。そこには単純な殺戮と殲滅しかなかった。時折海中から響く爆発音の後に、混沌とした青い海に、ぽつりぽつりと黒い濁りが出てくる。
水上を専用の靴でスケートのように滑りながら、那珂と龍田は投下地点へ次々と爆雷を投下していった。手持ちの爆雷は一人当たり六発。それぞれ腰や足の付け根に装着しているのをパージすると、海に落ちた段階で魚雷はまっすぐ深海棲艦めがけて突っ込んでいく。
「これで全部かしらねぇ」
「ふふーん! かわいい那珂ちゃんの歌声に当てられてクジラさんは全滅だよ!」
那珂は海上を滑ってくるりくるりと回りながら衣装を見せびらかしていた。埋め尽くすほどの観客はいない。海の上という遮蔽物がない中では開放的な気分になれる。自分で注文を付けて制作してもらった特注の艦娘の『制服』に袖を通し、真っ白な照明が降り注ぐひたすら青いステージで、誰に見せるわけでもないのに踊り、歌った。時折、喉に手を当てて調子を見ながら、誰に邪魔もされない優雅な舞台を那珂は一人楽しんでいた。
「那珂ちゃんオンステージ! イン・ザ・シィイイイイイ!」
しかし、舞台は拍手を待たずして終わりを告げた。
懐中から弾のような勢いで飛び出してきた黒い生物。トラックほどの大きさで、ミサイルのような円筒状の体を持ち、緑色に光る眼を持つ黒いクジラ、深海棲艦は那珂を丸のみにしようとして大口を開けてつっこんできた。那珂は瞬間的に反応して、足に残した魚雷を構える。
しかし、それよりも早く動いた者がいた。
龍田は口元をにやりと歪めると、箒でも持つようにのんびり構えていた薙刀を投げつけた。流星のように一直線に飛んで行った薙刀は那珂の頭上をかすめ、深海棲艦の喉元へと突き刺さった。切り口から黒い血が噴水のように流れ出す。黒い雨に降られて衣装が黒く染まった那珂のそばには、返り血を一滴も浴びていない龍田が立っていた。
「さっすが龍田ちゃん! 調子、いいねぇ」
ぽん、と那珂の肩に手を乗せると龍田は柔らかい口調でそっと告げた。
「さあ、帰りましょうか那珂ちゃん。無用な長居は不毛よ」