さざなみ寮管理人室。
その主である大柄な青年が、机に向かってこまごまと筆を走らせている。
卓上の明かりがその影を映す。筆が紙を滑る独特の優しい音が、安穏とした部屋で踊る。
ふと、音もなく一人の女性が、壁をすり抜けて現れる。
青年はそれに気付くが、驚かずに作業を続けている。
彼女は、すっと青年の傍に添うと、静かに聞いた。
「耕介様、何をなさっているのですか?」
「んー。神咲に、この前の、久遠の禊で邪気がたまってなかった原因が分かったって、手紙を書いてるんだ。メールとか電話なら楽なのになあ……」
面倒くさい、といいながらも、どこかうれしそうに耕介は笑う。
どういうことですか、と十六夜が問うと、うれしいというより、もう、楽しくて仕方ないという様子で、耕介は妻を見た。
「なに、分かってしまえば、ものすごく簡単なことだったんだよ」
盲目の彼女にも伝わるような、底抜けに明るい笑顔。
「久遠はね、憎しみや悲しみも、全部捨てたんじゃない。受け入れたんだ。とても小さくなってはいても、それは捨てていいものじゃない。だって、それは思い出そのものを、今の自分を否定することだから。それに……」
「それに?」
「久遠の、憎しみや悲しみから生まれた『祟り』が抜けた空洞になっていた部分。そこにはさ、もうとっくの昔に、そんなものとは無縁のもので、満たされていたんだからな。那美、さざなみの皆、そして、なのはちゃんの存在。久遠にとっての、大切なもの。……つまり――」
筆を置き、できた文を満足げに見返す。その顔は、どことなく悪戯好きの、子供のそれに近い。
文には、先ほど耕介が十六夜に語った内容が、現代ではごてごてしいほど丁寧な文体に変えて書かれている。
ただし、最後の一文だけ、彼の次の言葉と一字一句違わないものだった。
『よーするに、他のヤツが、入り込む隙間なんて、はじめからなかったってこと』
◇
耕介達がそんな会話をしていた、同日の昼下がり。
一匹の獣が、夢を見ていた。
遠い昔、まだ、自分が恋を知ったばかりの頃の、淡い瑠璃色の夢。
二人が結ばれたあの場所で、久遠はただ一人の少年を待つ。
ふと、やさしい、あの少年の声が聞こえた。振り返ると、望んだ彼の姿。
「久遠」
「弥太」
お互いの名前を呼んでみる。
ただそれだけのことが、とても恥ずかしくて、うれしい。
二人で手をつなぎ、草原を走る。
これが、夢であることは分かっていた。
でも、それでいい。もう二度と会えなくても、つらい別れをしていても、弥太とすごした日々。それは、間違いなくあったのだから。自分の中で、弥太は生きている。それを、いつも感じている。
今でも、弥太を思う気持ちは変わらない。それを失った悲しみも、奪われた憎しみも、なくしていない。
でも、悲しみの涙は流さない。憎しみの復讐を繰り返さない。
それよりも、私は、大切な思い出を夢想し、弥太に笑顔を見せ続けよう。
今は、こんなにも幸せに過ごしていると、彼に伝えるために。
きゅ、と握った手に、少しだけ力をこめて。
目の前の彼に、それを、誓う。
◇
なのはが、いつものように神社に遊びに来ていた。
いつもより、少しだけ薄手の上着は、以前、久遠と一緒に選んだものだ。
季節が移り行くその節目は、服を選ぶのが難しい。だが、それが楽しくもある程度に、なのはも子供から少女へと成長していた。
久々の服を見せようと、なのはは自分の親友を捜し歩く。
程なくして。
「くーちゃ……あ……」
日当たりのいい縁側で、その友人を見つけた。
そこには、幸せそうに眠る子狐が一匹。
ぴすぴすと鼻を鳴らしながら、とても気持ちよさそうに丸くなっている。
この子は、今どんな夢を見ているのだろうか。起きたら、聞いてみよう、と、なのははその横に座ると、やさしくその毛並をなでてやる。
あと何年、自分はこの子と一緒に過ごすことができるのだろうか。
いつかは別れが来ることを思い、一人泣いたこともある。那美に、久遠を譲り受けたいと、申し出ようとしたこともある。
でも、それはできない。
久遠がペットなどではなく、自分の大切な親友だからこそ、それはしてはならないことだと、なのははなんとなく思っていた。
いつかその時がきても、会いたくなれば、自分から会いに行けばいい。
だから今は、ただ久遠といられる日々を、この瞬間、手に伝わってくるやさしい感触を、忘れないでいよう。
久遠の体の暖かさからは、なのはに、すぐそこまで来ている春の訪れを告げていた。
~終~
とらいあんぐる組曲シリーズはこれで閉幕。
次回はコメディ系の短編をちょっとだけ。
そのあとは新しい世界線にて
耕介×薫
恭也×蓮
のカップリングの新シリーズを始めます。
2025/03/03 07:00 より
とらいあんぐる組曲2 ~最後に贈る、鳥の歌~
https://syosetu.org/novel/368571/