序章 「悔恨は重く、宵闇は冷たくて」
◇
目の前の男が、苦悶の表情で少年を見つめていた。
倒れている男の体から滴り流れる血の量は、彼がゆっくりと死への道を歩んでいることを、それがもう引き返すことのできない距離であることを、雄弁に語っている。その赤い液体は、どくっどくっと規則正しい音を奏でながら、ゆっくりと血溜りを広げ、いつしか少年の足元に触れた。
「……とう、さん?」
少年は絞るように声を出す。問うまでもなく、その男は確かに彼の父親であった。だが、何故父がこのような姿になっているのかわからず、少年はただ呆然と立ち尽くしていた。
その場所は、自分と父以外のもの――地面、空、木々、人などはなにも存在せず、闇だけが広がっている。空気ですら、自分が呼吸できているかもわからないような曖昧さ。そして、目の前の父親。
それは、あまりにも非現実的な光景であった。
(……当然だ。夢なんだからな)
内側から第三者が見ているように、彼は少年の姿の自分を認識して、思う。
(これで何度目だろう、この夢を見るのは)
悪夢を見る回数に意味などはないのだろうが、彼はそう考えずにはいられなかった。
「父さん!いま、助けるから!」
夢の中の自分は、何の根拠もない空虚な言葉を父にかけ、どこから流れているかもわからない血を止めようと、必死にもがいていた。
普段から流血の耐えない生活をしているせいか、夢であるにもかかわらず、血の感触だけが妙にリアルに伝わってくる。夢の自分も、夢だと認識している自分も、嫌悪感が涌き出るほどに。
「父さん!父さん!」
(……無駄なんだよ)
子供の自分に、思わず言いたくなる。この後のことは、もう何度も見てきたのでわかりきっていることだった。かといって、慣れてしまったわけでも、慣れてしまいたいわけでもない。それでも、最後の瞬間が訪れるまで、この夢は覚めたことがなかった。
「え……」
少年が驚きの声をあげた。
不意に、父との間に見えない壁ができたかのように、少年の手が押しのけられる。
(そうだ。そして父さんが――)
体がどんどん離されていく。自分が動いているのか、父が動いているのかもわからない。少年は悲鳴のような声をあげるが、周りの闇はそれすら吸い込むのか、反響も起こらず消えていった。確実に二人の距離は開いて行き、それが五十メートルほどに達したあたりで――そのときはやってきた。
ドン!
「うわああああああああああ!」
父親の体から起こる爆発。炎に照らされて、なお闇しか見えない空間。爆風が光に遅れて少年の元に届き、いつしかあたりに静寂が戻ったとき、彼の目の前には全てがなくなっていた。
そして、少年は恐怖する。孤独と、無力さと、絶望に。
「わあああああああああ!」
最後の絶叫が少年から発せられたとき、世界はガラスが砕けるような悲鳴を上げながら崩壊を開始した。
◇
目を開いたとき、彼の脳がまず認識したのは、月明かりにぼんやりと浮かび上がる天井と、規則正しく鼓動を鳴らす時計の針の音だった。
自分の心臓が、眠っていたにしては早いスピードで動き、無駄のない引き締まった筋肉を纏う体が、うっすらと汗ばんでいる。裸で寝ていたため、その大部分はシーツに吸われていたが、体表面の無数の傷跡に沿って汗が溜まっていた。
ふう、と息をついて、彼――高町恭也は、自分が現実世界に戻ってきたことを認識する。
悪夢を見た割に、落ち着いている自分が少しだけ滑稽ではあったが、絶叫を上げて飛び起きたり、布団が濡れるほどの寝汗をかいているよりは良かった、と彼は思った。
徐々に体の感覚が戻ると、長年の経験から己がしっかりと休養が取れたことがわかる。よい夢だろうと悪夢であろうと、眠れているのであれば、それは体にとってはプラスになる。それならば、恭也にとって夢の内容は、たいしたことではなかった。気にならない、と言えばもちろん嘘になるのだが。
「父さん……」
夢での父の姿が、目を閉じてもいないのに脳裏に浮かんだ。
彼の父親は、数年前に他界していた。
永全不動八門一派・御神真刀流、小太刀二刀術――通称御神流と言われる殺人剣術。その使い手である彼の父――士郎は、その技術を人を殺めるためではなく、守るために使うことのできる、ボディガードの仕事に就いた。
剣士としての誇りより、人としての誇りを尊ぶ、強くやさしい男だったが、ある日、士郎の雇い主のアルバート・クリステラの一人娘、フィアッセを爆弾テロから己の体で庇い、永久の眠りにつく。
その事実を、義理の母である桃子から伝えられたのは、自宅で剣の鍛錬をしているときであった。
悲しかった――士郎の死と、泣いている家族達が。
憎かった――理不尽な暴力と、それが存在する現実が。
そして――
「……悔しかった。無力な自分と、そのとき何もできなかったことが」
呟く。そのとき誓った決意を忘れぬように。
「だから、俺は強くならなければならない」
言葉に反応するように、布団の中で拳を握り締める。筋肉の収縮で肩が動くと、すぐ横から細い吐息が聞こえた。
「すー……すー……」
首を曲げると、一人の少女がその裸体を恭也と共にかけられている毛布にくるまれて、幸せそうに寝息を立てていた。
この状況では語るまでもなく、恭也が昨夜床を共にした女性で――剣の弟子であり、従妹であり、義妹であり、そして――恋人。
彼女、高町美由希は義兄とは違い良い夢を見ているのか、時計の針よりもゆっくりとしたリズムで呼吸をしていた。
恭也は上半身を起こし、彼女の寝顔を見下ろす。彼の顔が僅かに和らぐ。
「父さん……俺は、少しは大切なものを守れる力がついたのかな……?」
起こさないよう注意しながら、彼女の頬を手でなぞり独りごちる。
今では家族同然となったフィアッセと、その母ティオレのチャリティコンサート。それの妨害を企んだ犯罪組織『龍』との戦い。それは、怨恨、憎悪、思慕、欲望の絡み合った複雑なものだった。
悲しい戦いだったが、それでも少しはみんなが幸せな方向へ進めたのではないかと、恭也は思い願う。
それが――少なからず自分と美由希の剣術が役に立てたことは、剣の道を生きるものとして、これからの支えとなるはずだ。
そのときの戦闘のおり、美由希は、恭也や父ですらなし得なかった御神流の奥義の極、『閃』をたった一度の偶然とはいえ、成功させるまでに成長した(もっとも本人はそんな奥義の存在すら知らなかったのだろうが)。
彼女はまだ、他の奥義すら自在に扱う段階には達してはいないが、それでも出そうと意識して、かなりの確率で技を放てるようになった。このまま順調に行けば、自分の愛弟子はそう遠くない未来に御神流を修めるだろう。子供のころに誓った約束通り、自分よりも父よりも強く――。
ドクン、と体の全体に、血液がめぐる深い感覚が、青年の顔に焦燥と重圧を与えた。
(そうだ。全ては良い方向に進んでいる。……なのに、この不安感はなんだ?)
それは、ときおり今のように漠然と恭也を襲い、その曖昧さが彼の不安をさらに累乗させる。そしてこの現象は――あの夢を見始めてから始まったように思える。
夢が深層審理のあらわれだというのなら、それは当時の後悔を今でも忘れられない為だろうか。それとも占いのように、これから起こる何かを暗示しているのだとでもいうのか――。
己の考えに、恭也は少し皮肉げに唇を曲げた。
「……悪い冗談だ」