弱体モモンガさん   作:のぶ八

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前回のあらすじ

クレマンの可哀そうな境遇が明らかに!
でも騙されるな! 奴は本物のクズ! 同情してはいけない!


幕間:クレマンの冒険 - 後編 -

 一人の少女が茫然とした様子で虚空を見つめていた。

 周囲の家々は火に包まれ、多くの人々が亜人の群れに追われ逃げ惑っている。

 追い付かれた人々はあっけなく、そして無残に殺されていく。

 一体何が起きているのか彼女には分からない。

 どうしてこうなったのか。

 今までの日常が嘘のように思える程に劇的で、無慈悲。

 昨日まで普通に生きていた人々がそこに哀れな骸を晒している。

 

 だが、ただ生きるだけで精一杯だった彼女にとっては関係なかったかもしれない。

 どちらにせよ彼女には希望など無かった。

 昨日までの生活が続いたとしても緩やかに死んでいくだけだっただろう。

 彼女は孤児だった。

 国は貧しく、十分な仕事さえ見つけられないこの状況で生きる術など無かった。

 仲間の子供達と一緒にゴミを漁り、盗みを働き生きてきた。

 しかしそれももう限界だった。

 近年、この都市では続く亜人の襲撃に怯え逃げ出す住人が出てくるようになっていた。

 いつしか冒険者の数も減り、首都から物資の支援も滞るようになった。

 必然的に彼女の生活も苦しくなっていく。

 かといって彼女には都市を渡る為のお金も体力も何も無い。

 いつかこの都市が滅ぶのならそれが彼女の死ぬ時だ。

 

 きっとそれが今なのだろう。

 

 食べ物が無くなって飢え死にしたり、病気になって死ぬのだとばかり思っていたので驚いた。

 こんな死に方をするとは想像もしていなかったのだ。

 仲間の死は何度も見てきた。

 そのせいか生き死にには達観したようなつもりでいたが、その脅威が目の前に訪れると彼女は泣き叫んだ。恐怖に身を縛られ動くことが出来ない。頭がおかしくなりそうだった。

 死にたくない。

 彼女は何度も心の中で叫んだ。

 そんな願いが聞き入れられる筈などないのに。

 

 ふと小さい頃に聞いた英雄の話を思い出す。

 困っている人々を助けてくれる英雄。

 襲われている人々を守ってくれる英雄。

 心のどこかでずっと求めていた。

 いつかそんな誰かが自分を助けてくれるのではないかと。

 だがそんな存在に最後まで出会える事はなかった。

 やはり英雄譚などただの御伽噺で作り話なのだと彼女は理解した。

 やがて一体の亜人が彼女へと近づいてくる。

 その爪が喉元に迫り死を覚悟した瞬間、ふと彼女は視界の先にある違和感に気付いた。

 

 一人の人間が追われる様子も無く近くの物陰を走っていた。

 この周辺にいる人々はもう殺されたか、自分のように逃げ遅れた者だけの筈なのに。

 深くかぶったフードの隙間から見えるのは短く切り揃えられた金髪。

 そして、猫のような目が酷く印象的だった。

 その姿に少女は見覚えがある。なぜなら彼女は――

 

 

 

 

 ギリギリだった。

 まさに死の一歩手前。だがクレマンティーヌは見事それを乗り越えたのだ。

 

「ひぃっ…! あひっ…、ふぅ…ふぅ…」

 

 時はクレマンティーヌが骨の竜(スケリトルドラゴン)と戦った直後。

 新たに取得した<脳力解放>によるパワーアップで骨の竜(スケリトルドラゴン)を粉砕したクレマンティーヌだがその代償として極度の疲労と肉体損傷が彼女を襲った。

 それは弱り衰弱しきった彼女の体にダメ押しのように圧し掛かる。もしかすると先日の毒すらまだ抜けきっていないかもしれない。

 まともに動けなくなり、その場に倒れ伏すクレマンティーヌ。だが未だここはカッツェ平野。もたもたしている暇はない。このままでは新たなアンデッドに襲われるのは時間の問題であろう。

 

「くぅっ…、いひっ…、あうぅ…!」

 

 故に全身全霊を以って、地面を這いずりながらカッツェ平野の外へと向かう。

 腕や胸、腹の皮が擦り切れても決して諦めない。意識を手放さないように気持ちを強く持ち、あらがい難い痛みと疲労に耐える。亀のように少しづつだが、しかし確実に彼女は進んでいた。

 日が暮れ、夜になっても彼女は止まらない。やがて朝日が昇り、彼女を照らす。それだけの長い時間を掛けクレマンティーヌはカッツェ平野からの脱出に成功した。

 だがそれでもまだ安心出来る訳ではない。動きを止めず、体力の限界まで進んでいく。再び日が沈み、また昇る頃には木々が見え、川の音が聞こえてきた。それにより少しの時間であるが痛みと疲労を忘れ、残った力を振り絞り進む事が出来た。

 だが注意力が散漫になっていたクレマンティーヌは周囲の状況に気付く事が出来なかった。目の前が崖だと気づいたのは体の下の地面が崩れ、身が投げ出された瞬間だった。そのまま岩肌を転げ落ちていく。受け身も取れない状態で何度も頭を打ち、完全に気を失ってしまった。

 

 生きていたのは運が良かったとしか言えない。

 どれだけ時間が経ったのか分からないが、ふと目が覚めた。

 

「ぐっ…。やば…、気失ってた…?」

 

 咄嗟に視線を周囲に向ける。幸い、目に見えるような危険は迫っていなかった。

 それに気を失いながらもずっと倒れていたせいだろうか。少しではあるがクレマンティーヌの体力は回復していた。戦闘は無理だが、歩くくらいならば可能な程度には。

 

「まずいなー…、今どこなのか全っ然わかんない…。まぁあの状態でそんな遠くに来れてる筈は無いし…、少し歩けば街とか見えてくるでしょ…」

 

 そうしてゆっくりと起き上がるクレマンティーヌ。装備は失われておらず、スティレットは腰にささったままだ。武器を失っていなかった事に心から安堵する。

 歩き始めるとすぐに水辺を発見する事ができた。そこで十分に水分補給をし、さらに歩を進める。

 しばらくして林を抜け、森の中へと入っていく。その際には獲物にも困らず空腹に悩まされる事も無かった。夜は木の上に寝床を作り、ゆっくりと眠る。

 カッツェ平野の地獄が嘘のような環境にクレマンティーヌの傷は少しずつ癒え、体力は徐々に回復していった。今ならば魔物が出てきてもクレマンティーヌの敵ではないだろう。全て返り討ちに出来る程度には力を取り戻していた。

 

 そうして数日、森を抜け、丘を越えると塀に囲まれた都市が見えてきた。

 

 ここは竜王国。

 ビーストマンの侵略に悩まされる国であり、人間の生存圏における防波堤とも言うべき国である。

 

 

 

 

 ニグン・グリッド・ルーイン率いる陽光聖典は竜王国において戦いの最前線から退いていた。

 理由は至ってシンプル。例年とは比べ物にならないビーストマンの勢いを止める事が出来ず、軍や冒険者に竜王国から撤退の指示が出たからだ。もはや陽光聖典だけが残っても戦線を維持できずまともな戦いを続けられる状態ではないからだ。

 故に残されたのは都市に住む住人達と一部の農民兵だけ。

 現場は最前線である都市を見捨てると判断したのだが住人達に正直にそう伝える訳にはいかない。

 もちろん一部の有力者達にはすでに通達が出ておりこの都市から逃げ出している。残っているのは平民やそれ以下の身分の者達だけだ。

 これは竜王国の女王ドラウディロン・オーリウクルスすらあずかり知らぬ事。現場の情報を聞き、そう判断を下したのは宰相である。なぜ宰相は女王に伝えず、独断でこのような指示を現場へ出したのか。

 

 都市の人々を見殺しにするつもりだからだ。

 

 ドラウディロンが聞けば全力で反対していただろう。実際に反対して現場がどうなる訳ではないが少なくともドラウディロンはこの非情な判断を良しとはしない。だからこそ宰相が独断で動いたのだ。

 都市の人々を他の都市へ逃がすという手段も可能ではあった。だがそうすれば国全体の食料の備蓄が目減りするのは分かり切っているし、そもそも落とした都市に人々がいなければビーストマン達はすぐに次の都市へと攻めてくるだろう。

 そうせぬ為に、ビーストマン達を足止めする意味も含め、その都市の人々には犠牲になって貰うと決めたのだ。現場には援軍を送ると嘘を伝え、都市から人々が逃げないようにもしている。

 とはいえこの都市を犠牲にしたところで事態は好転しないだろう。滅びへの時間を先延ばしにするだけの行為かもしれない。

 しかしたとえ無駄になるかもしれなくとも国にとって最良の判断をするのが宰相の仕事だ。

 最終的に首都及び女王さえ守り切れば竜王国は持ち直せるのだ。そう信じている。

 それらを守る為ならば宰相は何でもするだろう、たとえ悪魔に魂を売る事になろうとも。

 

 いつか女王に全てが露見し糾弾されるその日まで。

 

 

 

 

 都市の入り口でひと悶着あったものの、クレマンティーヌは無事に中へと入る事が出来た。

 どうやら数十日前に近くの都市がビーストマンの軍により落とされたらしい。そして現在この都市にも軍が近づいてきているようだ。その証拠にここ数日ビーストマンの斥候部隊との小競り合いが続いているようで兵士達はかなりピリピリしているようだった。

 身元の証明が出来ず怪しまれたクレマンティーヌであったが、最終的には近くの村から逃げてきたのだろうと判断されたのか受け入れ拒否をされる事は無かった。

 結果論だが兵士達のこの判断は良かったと言える。

 もしここでクレマンティーヌの受け入れを断固として拒否していればいくつかの死体が出来上がり、この門周辺は無人になっていただろうから。

 

 都市へ入ると久しぶりの人のいる空間にクレマンティーヌの緊張が緩む。

 幸い金はあるので店で色々と食べ物を買う。

 品ぞろえは悪く、活気も無い。それに値段も高いような気がするが都市に入ったばかりで騒ぎを起こす気にもなれず素直に従う事にした。

 その後はそれとなく色々と話を聞いてみるとこの都市の現在の状況を知る事が出来た。

 

(えー…、竜王国やばいじゃん。いや前からやばいとは聞いてたけどここまで疲労してるとはね…。しかしまさかよりにもよってビーストマンとの交戦地区に来ちゃうとは私も運が悪いな…。しかも肝心の冒険者の姿はほぼ無いし。この国唯一のアダマンタイト級冒険者チーム「クリスタルティア」は装備を整える為に首都へと帰還中、か…)

 

 少し考え込み、結論を出すクレマンティーヌ。

 

(ビーストマンの交戦が始まった事を聞いて援軍が向かってきているとはいえそれまで持ちこたえられるのか…? ていうか陽光聖典は毎年こんな所に派遣されてたのかな、全く頭が下がるよねー。今年も派遣されてるのかな? 幸いまだこの都市にはいないみたいだから鉢合わせしなくて済んだけど…)

 

 どちらにせよクレマンティーヌにとってこの都市に長居する理由は無いに等しかった。

 陽光聖典と鉢合わせても面倒だし、ビーストマンとの戦闘が本格化してとばっちりを喰らっても困る。そうなる前にとっととこの都市を離れようと心に誓うのだった。

 

(まぁ今日は宿に泊まって十分に休むとして明日にでもなったら早々に出よう、てかこのパンまずいな)

 

 そう考えながら口にしていたパンを見やる。

 すると買ったパンのいくつかにカビが生えているのを発見する。

 

(あ、あんのクソ店員…! カビ生えてるやつ売りやがったな…! 何が貴重だ…! 次会ったら殺す…!)

 

 悲しいかな、その店員は嘘は吐いていない。

 現在食糧難のこの都市においてはカビの生えたパンすら貴重なのだ。少なくとも売り物になる程度には。

 しかしそんな事まで考えが至らないクレマンティーヌはカビの生えたパンの入った袋を近くの路地裏へと恨みを込めて投げ捨てる。

 

「…いたっ」

 

 するとその袋は路地裏の奥に蹲っていた一人の少女へとぶつかった。

 何事かと突如降ってきた袋へと視線を移す少女だがその中身を見て驚愕する。目をパチクリさせ何度も何度もクレマンティーヌを見る。

 その視線や行動が自分を非難していると判断したクレマンティーヌは少女へとガンを垂れ返し捨て台詞を吐く。完全に逆切れである。

 

「あぁん、何見てんだクソガキ、文句でもあんのか? 汚ねぇカッコしやがって…。ゴミにはゴミがお似合いだろーが」

 

 だがクレマンティーヌの言葉を理解していないのか少女は驚いた様子で何度もクレマンティーヌに頭を下げる。肝心のクレマンティーヌはビビって頭を下げていると思ったのかいくばくか溜飲が下がっていく。

 ちなみに自分の恰好も相当にゴミのように小汚くなっているのだがそれは気にしていない。

 

「ふん、最初っからそうしてればいいんだよー」

 

 そうして去っていくクレマンティーヌの背を見ている少女の瞳がキラキラと輝いていた事など彼女には知る由もない。

 

 

 

 

 一応この都市でランクの高いとされる宿に着いたクレマンティーヌ。

 だが客はほぼおらず、建物も管理が行き届いていないのか寂れたような印象を受ける。とはいえビーストマンが迫っている状況では営業しているだけマシなのだろう。文句を言わずクレマンティーヌは部屋へと案内を促す。 

 そして部屋へと入るなり、用意されたベッドに勢いよく身を埋める。すると体が布団に沈み込んだ。体を包み込む柔らかい感触に思わず顔がにやける。

 野外とは違い、どこも痛くならないし寒くもない。

 もはや懐かしさすら感じるこの幸せな感触を楽しむクレマンティーヌ。あまりの快適さに意識は一瞬で途切れそのまま眠りについてしまった。今までの慢性的な睡眠不足を取り返すかのように爆睡する。少しぐらいの音では起きる事も無いだろう。

 久しぶりの、本当に久しぶりの心地よく深い睡眠がクレマンティーヌを包んだ。

 

 だがすぐにその穏やかな時間は終わりを告げる事になる。

 

 

 

 

 深夜と思わしき時間。

 耳を衝くような喧噪でクレマンティーヌは目を覚ました。

 外から聞こえて来るのは人々の悲鳴と泣き叫ぶ声だ。

 跳ね起きたクレマンティーヌが窓から様子を見ると眠気が一瞬で覚める。

 大勢のビーストマン達により住民達が虐殺されていたからだ。

 

「な、なぁっ…!? なんで都市内に奴らが…! 昼間は全然大丈夫だったろうが…!」

 

 この都市がやばいというのは自覚していたがまさかこんな短時間で門が破られ侵入されてしまうなど想定もしていなかった。援軍が来る来ないの問題ではない。

 これは単純に都市の防衛につける人間が少なすぎてビーストマンの接近に直前まで気付かなったという事も含め、情報の伝達が上手くいかず発見してもそれを伝える前に狩られていた事にも起因する。

 

 それに普段のクレマンティーヌならば獣のような第六感で危険を感じ取る事も出来たろうが今日だけは違う。この心地よい睡眠のおかげでこの状態になるまで気付く事が出来なかった。

 別にビーストマン自体は怖くは無いが、相手の規模も分からない。とばっちりは御免だとすぐに逃げる準備を整えマントを羽織る。この都市がどうなろうがどうでも良い。ただ自分が助かればそれでいいのだ。

 

 宿の裏口から慌てて外へと出るクレマンティーヌだが至る所にビーストマンの姿が見える。完全にやり過ごすのは不可能と思える数。

 裏の路地から逃げるにしてもごく少数だがビーストマンが見える。

 

「ちっ…、やるしかないか…」

 

 腰からスティレットを抜き、隠れたまま近くビーストマンへと近づき脳天を串刺しにして茂みへと死体を隠す。

 それに気づき反応した二体をも叫び声を上げる間もなく瞬殺し、同様に路地の目立たぬ場所へと死体を引き摺っていく。

 そうして死角となった路地を進もうとしたクレマンティーヌだが背後に強者の気配を感じ立ち止まる。

 

「驚いたぞ…、こうも見事に兵達を屠れる者がまだ残っていたとは…」

 

 見つかったのは単純に運が悪かったとしか言えない。

 振り返ったクレマンティーヌの前にいたのは明らかに他の者より体格の大きなビーストマン。それだけで並のビーストマンでない事が理解できた。

 

「へぇ…、ビーストマンにはあまり突出した強さを持つ者はいないって聞いてたけど…。てことはアンタが隊長が何かって事かな?」

 

「そんなもんだ」

 

「ふーん、じゃ色々と忙しいんだねー」

 

 軽口を叩きながら周囲を窺うクレマンティーヌ。

 どうやら今はこの路地に他のビーストマンはいない。この一体だけのようだ。

 

「それがそうでもないのだ。どうやらこの都市にまともな人間共はいないようでな。戦いという戦いにもならずあっという間に都市を落とせてしまったのだ。全く、こんな事なら斥候部隊に穴など掘らせずに最初から全力で攻めるべきだったな…。警戒しすぎて無駄な時間を使った…」

 

 全くだ、と心の中でクレマンティーヌは思った。

 

(本当だよ…、落とすならさっさと落としといてよ…。そうしたらこんな都市寄りもしなかったのに…。ていうか穴堀りって…。まさかこの都市はそんなしょうもない工作で攻略されたのかよ…。警備の連中は本当に無能だねー)

 

 と心の中で愚痴るがそんな事を言っても今は仕方がない。

 そもそもこの都市の状況と既に国からも見捨てられ、慢性的な人手不足に陥ってる事などクレマンティーヌには知りようが無かったのだから。

 

「まぁ忙しいみたいだし私は行くねー」

 

「おいおい馬鹿か。見逃すわけないだろう?」

 

 ですよねー、と心の中で返事をするクレマンティーヌ。

 

「言っただろう? まともな人間がいなかったと…。手応えのある人間がおらず暇を持て余していたのだ。さあ、我と戦え。我の部下を瞬殺できる程の技量を持つのだ。人間とはいえせめて戦士らしく殺してやろう」

 

「一人で大丈夫ー? 部下は呼ばなくていいのかなー?」

 

「人間相手に部下を呼べと? ハッハッハ! 馬鹿を言うな。そんな事をしたらお前を部下に取られてしまうではないか。みな強者と戦いたくてウズウズしているというのに…!」

 

 そう言いながらクレマンティーヌへと歩み寄るビーストマン。

 

「なるほどねー、いやぁあんたが馬鹿で助かったよ」

 

「は?」

 

 会話中に複数の武技を発動し終え、一瞬の隙を突いてビーストマンへと飛び掛かりスティレットを突き刺す。

 

「がっ…!? き、貴様ぁっ! うぐっ!」

 

 すぐに反撃をしようとするビーストマンだがクレマンティーヌはそれを許さない。

 足を払い、体勢を崩した所を押し倒す。次に左手を口へと突っ込み声を出せなくし、後は右手に持ったスティレットで急所を何度も突き刺す。

 痛みに悶えるビーストマンの爪がクレマンティーヌの皮膚を切り裂くが躊躇はしない。口に突っ込んだ左手も牙が突き刺さり激痛が走るが仕方なく我慢する。マウントに近い状態ではいくら力で勝るビーストマンとはいえ簡単にクレマンティーヌを引き剥がせない。

 そうしてクレマンティーヌが十数回スティレットを突き刺す頃にはビーストマンは息絶えていた。

 短い時間で勝負はついたが今回は運が良かった。

 完全に隙を突けたことと、向こうがある程度クレマンティーヌを甘く見ていたからだ。

 ビーストマン側も陽光聖典やクリスタルティアの容姿は熟知している。故にこの場に彼等以上の戦士がいるなどと考えてもいなかったのだ。せいぜいが骨のありそうな奴だといった程度だろう。

 だからこの勝負の結果程にクレマンティーヌとこのビーストマンの力の差は無い。まともに勝負すればクレマンティーヌとて少しは手こずる程の相手だった。

 

「本当にあんたが馬鹿で助かったよー」

 

 ニヤリと笑い、捨て台詞を吐くとすぐにクレマンティーヌはその場を後にした。

 左腕には唾液、服やマントには大量の血液が付着しているがそれらを落とす時間も無い。

 今は一刻も早くこの都市から脱出せねばならないからだ。

 

 

 

 

 ビーストマンに追われ大勢の人々が逃げ惑う。

 皆、我先にとビーストマンが侵入した場所から反対の方へと走り逃げる。

 それをビーストマン達が笑いながら追っていく。すでに都市の主な門は別の部隊が外で抑えている。逃げ場などどこにも無いのだ。そうとも知らず醜く逃げる人間達を追い込むこの瞬間をビーストマン達は心から楽しんでいた。

 これは狩りだ。

 追い込み漁のようにわざと一方向から攻め立て、ジワジワと追い詰めていく。

 足が遅く逃げ遅れた者は順番に殺していく。なるべく残酷に、惨たらしく。

 それが残る人間達への最高のスパイスとなる。

 仲間が死ねば死ぬ程、人間達の叫び声は大きなる。それがどうしようもなく楽しく、ビーストマンとしての獣の本能が刺激され信じられぬほど高揚するのだ。

 全てが終わった後は人間達を吊るし、いつも通り順番に食べていく。

 その過程すらも愛おしい。

 味も良ければ、狩る過程や、調理の時でさえ人間達は楽しませてくれる。

 

 人間にとっては地獄絵図でも、彼等にとっては最高のパーティなのだ。

 

 だがそのパーティが崩れ去る知らせが一匹のビーストマンの耳へと届くことになる。

 

「な、なんだと!? お、弟が…、弟が殺されただと…!?」

 

 その知らせを聞きわなわなと震えるのはこの都市を攻めているビーストマン達の長。いくつかあるビーストマンの部族のうち一つの頂点に立つ者である。彼の上に立つのは全ビーストマンを統べる王ただ一人。

 

「そんな事が出来る奴がこの都市に残っていたのか…!? おお、なんという事だ…我が弟よ…! 生きていれば我を超える長となる事も出来たろうに…!」

 

 膝をつき涙を流しながら弟の死を嘆くビーストマンの長。

 しばらくするとムクリと立ち上がり低い声で命令を出す。

 

「狩りは一時中断だ…。門を押さえている以上、人間共はもはや逃げられん…。今は弟を殺した者を見つけ出す事が最優先だ…。絶対に逃がすな…! 何があってもそいつを捕まえろ! 何があってもだ…! 我の前に連れてこい! 可能なら殺しても構わん! 全員で探し出せ!」

 

 長は憎々し気に顔を歪めると小さく呟いた。

 

「絶対に殺してやるぞ…! 人間…!」

 

 

 

 

 人々が逃げる方向とは真逆にクレマンティーヌは逃げ続けていた。

 多くの人々と同じ方向に逃げなかったのは巻き込まれない為だ。人々がそちらに逃げるという事はビーストマンの多くがそちらへ追っていくという事。故に逆へと逃げれば大勢のビーストマンから追われることはない。

 多くの獲物がいる方と一匹しかいない方、追う側からすればどちらを追うかなど明白だ。

 もちろん逆へ逃げるのはそれはそれで十分に危険なのだがクレマンティーヌ一人ならばどうにでもなる。ビーストマンの本隊とさえカチ合わなければいくらでも捌ける自信があった。

 

 逃げる途中、クレマンティーヌは至る所で逃げ遅れた者達を目にした。家に閉じこもる者、井戸に身を隠す者、干し草の下に忍ぶ者など…。だが彼らが捕まるのも時間の問題であろう。

 ビーストマンは鼻が利く。匂いで居場所がバレてしまえばどうしようもない。すぐに周囲にある沢山の骸と同じ結末を辿る事になる。その証拠に周囲にいるビーストマン達には近くに隠れているのがバレているように思える。

 逃れたければクレマンティーヌのように高速で動き彼等を撒くか、複数の人々を囮にしている間に姿を眩ますかしかない。

 

 ふとその時、突如として遠くからビーストマンによる大きな遠吠えが響いた。都市全域に届くのではないかという巨大な咆哮。それが何を知らせる合図だったのかクレマンティーヌには分かる筈もない。

 周囲のビーストマンの動きが変わったのが理解できたが深く考える事なく逃走を続行した。

 路地の裏を隠れながら進むクレマンティーヌ。視界の端に一体のビーストマンを見つけるがこちらに背を向けており気付いている様子は無いので無視して進もうとしたその時――

 

「に、逃げて!」

 

 突如、そのビーストマンの向こうの物陰から小さな子供の声が聞こえた。

 それはクレマンティーヌへと投げられたものだったのだろう。声を上げた子供、もとい少女の瞳はしっかりとクレマンティーヌへと向けられていた。

 

(ちっ、あのガキ…! 言われずとも逃げるさ…。ていうかお前のせいでそのビーストマンが私に気付いたじゃねーか! クソが…! 黙って喰われてろよ…!)

 

 心の中で悪態をつくクレマンティーヌ。

 目の前のビーストマンがクンクンと鼻を鳴らす仕草を不思議に思うも、即殺する為にスティレットを引く抜く。だがクレマンティーヌが攻撃を仕掛ける前にビーストマンが突如としてその場で吠えた。

 威嚇でもなく、何かを伝えるような咆哮。

 

「な、なんだ!?」

 

 今までのビーストマンと違う動きに驚くクレマンティーヌだが気を取り直し目の前のビーストマンを瞬殺する。

 その様子を見ていた少女が目を輝かせながらクレマンティーヌを見やる。

 

「お、お姉ちゃん凄い…! も、もしかして私達を助けに…? み、皆! お姉ちゃんが()()助けてくれたよ!」

 

 その少女の奥にはまだ複数の子供達が隠れていた。そのいずれもが少女と同様に輝くような瞳でクレマンティーヌを見ている。やばい、とクレマンティーヌは直感的に思った。

 何を誤解しているのか知らないがこういう時は大抵面倒な事になるものだ。下手すると安全な所まで連れていってとか言い出すだろう。そして断れば泣き叫ぶ。だから子供は嫌いなのだ。

 どうしようか思案するクレメンティーヌ。

 てっとり早くこの子供達全員を殺す事にした。クレマンティーヌであればほんの一瞬で息の根を止める事が出来るだろう。それを実行しようとした刹那、先ほどの咆哮を聞きつけたのか複数のビーストマンが現れた。

 

「クソッ…! やっぱり仲間を呼んでたのか…? 仕方ねぇ…! おいガキ共よく聞け! お前達は向こうへ逃げろ! 死ぬ気で走れ!」

 

「そ、そんな無理だよ…。それにお姉ちゃんは!?」

 

「私は別方向に逃げて奴等を引き付ける! その間にお前達だけでも逃げるんだ、いいか全員で逃げろよ! 危なくなっても私を信じて走り続けるんだ! 絶対に私が助けてやる!」

 

 悪い顔で言うクレマンティーヌの薄っぺらな言葉に少女が感動したように頷く。

 

「わ、分かった…! お姉ちゃんを信じるよ…! 私達を助けてくれたのはお姉ちゃんだけだったから…! 昼間だって…」

 

「昼間…? ま、まあいい。ほらさっさと行け!」

 

 もちろん全て嘘である。

 クレマンティーヌにビーストマン達を引き付ける気などない。少女達を囮にして自分だけ逃げる算段をつけているだけだ。

 ビーストマンとて一人だけの人間と複数いる子供達、どちらを追うかなど火を見るより明らかだ。彼女達が喰われている間にクレマンティーヌは姿を消す。完璧だ。

 一匹か二匹はクレマンティーヌを追ってくるかもしれないがそのくらいはどうって事はない。

 クレマンティーヌの悪い笑みになど気付かず言葉通りに少女達は走り出す。子供の遅い足ではすぐにビーストマンに追い付かれてしまうだろう。だからこそここに隠れ続けていたのに。

 クレマンティーヌの言葉を信じて逃げだした少女達。

 きっとすぐにビーストマンに追い付かれ無残に殺されるだろう。

 だがしばらくしてもビーストマンが少女達を追ってくる事は無かった。しかしその時、少女達の正面から新たに数匹のビーストマンが走り寄ってきた。誰もがダメだと諦め膝から崩れたがビーストマン達は少女達を無視するように駆け抜けていった。

 何が起きたか分からず、不思議に思った少女達は後ろを振り向く。

 

 そこでは襲いかかってくるビーストマン達を次から次へと斬り伏せているクレマンティーヌの姿があった。

 

 どうやってビーストマンを引き寄せているのか分からない。なぜか姿を見せるビーストマン達は狂ったようにクレマンティーヌにだけ襲いかかっていく。少女達には目もくれずに。

 だが最も驚くべきはその強さだ。

 ビーストマンをものともしない人間離れした強さ。

 次々とビーストマンが倒れていくその様子は凄惨でありながらも流れるような一抹の美しさを感じさせた。

 

「英雄…」

 

 子供達の誰かがポツリと呟いた。

 誰もが小さい時に聞かされた英雄譚。

 困っている人々を助けてくれる英雄。

 襲われている人々を守ってくれる英雄。

 心のどこかでずっと求め、憧れていた存在。

 いつかそんな誰かが自分達を助けてくれるのではないかと誰もが妄想した。

 しかし英雄譚などただの御伽噺で作り話なのだと誰もが理解していた。

 

 だが違った。

 

 英雄は確かにいて彼女達を助けてくれたのだから。

 昼間にはパンを恵んでくれた。あれもただの偶然ではなかったのだ。

 英雄はいつだって困ってる人を助けてくれるのだから。

 空腹から救ってくれ、命までも救われた。

 

 これが英雄。

 なぜ英雄が人々の間で長い時を経ても語り継がれるのか少女はこの日、本当の意味で理解した。

 

 

 

 

「な、なんで全員こっちに来るんだよ! あっちに行けって! 旨そうなガキ共が沢山いんだろ!」

 

 計画が一瞬で狂った事でクレマンティーヌは慌てていた。

 なぜかビーストマン達が子供達には一切反応せずクレマンティーヌだけをしつこく狙ってくるのだ。

 建物の屋根を上ったり追いづらいように逃げているのに必死でビーストマン達が追ってくる。

 

「クソがぁっ!」

 

 仕方がないので逃げながらも次々と襲い掛かってくるビーストマンを斬り伏せていく。

 だがその数は減らない。

 むしろどんどん集まり増えていくのだ。

 それにどれだけ斬り殺しても全く臆する事なく向かってくる。

 一体何が起きているのかクレマンティーヌには全く理解できない。

 

 遠吠えによりビーストマンの長の弟が殺された事はすでに大多数のビーストマンに伝わっていた。

 詳細な命令が下された訳ではないが誰しもが本能的に察知したのだ。

 長に連なる者が殺される事は部族にとって一大事だ。部族の誇りを保つ為には絶対に血で償わせなければならない。それは狩りよりも優先される。

 さらに仲間の仇はもちろん、強者を倒したとあれば部族内での地位も上がる。狩りでハイになっている事も関係するだろう。仲間が倒れようとも必死で襲いかかる。故に現在、誰もがクレマンティーヌを狙う事態となっていたのだ。

 何よりビーストマンは鼻が利く。

 至ってシンプルな理由でクレマンティーヌの犯行だという事は彼等に露見していたのだ。腕からは唾液、マントには大量の血液。このタイミングで長の弟の匂いを撒き散らす人間がいれば他には考えられない。

 もちろん都市全体まで匂いが届くわけでは無いし、見つかってさえいなければどうにか逃げれただろう。匂いだけで0から探すには少々時間がかかるからだ。だがもう無理だ。

 一度見つかってしまい、遠吠えで大まかな位置を伝えられたらそこから逃げるのは不可能に近い。ある程度の位置を絞る事で嗅ぎつけれる射程範囲に入ってしまえば後は匂いの元を追っていくだけなのだから。

 

「クソッ…! こっちにもいやがる! どうなってる!?」

 

 クレマンティーヌがどれだけ姿を隠そうが、どれだけ距離を開こうが、どれだけ非常識な場所を通ろうとビーストマン達は迷う事なく追ってくる。むしろ逃げる先々で待ち構えている者も多く、次第に逃げ場所は失われていく。

 気が付けばクレマンティーヌは都市の小さな広場に追い込まれていた。

 

「ちくしょうがっ…!」

 

 周囲はアリの通る隙間が無い程、ビーストマン達の軍勢で囲まれていた。

 都市の中という事もあり視認出来る数は数百程だが、見えない場所にもそれ以上いるのが感じ取れる。

 ここに来るまでに何十体ものビーストマンを斬り伏せてきたがそれがごく一部に過ぎないと否応にも理解させられた。

 クレマンティーヌがどれだけ殺しても仲間の死体を踏みつけながらどんどんと迫ってくる。

 物量が違う。

 士気が違う。

 殺気が違う。

 常識が違う。

 感覚が違う。

 戦闘能力が違う。

 人間という種族よりも高いスペックを持った軍勢に追い込まれてはクレマンティーヌといえど打開など出来る筈が無い。格下といえど、この数に対しての平均能力が高すぎる。このまま戦い続けては最終的に押し潰され敗北するのは己だと理解できる。

 どうしたものかと心の中で試案していると、急に周囲のビーストマン達が静かになった。

 そして一カ所、まるで道を作るように大勢のビーストマン達が割れた。

 その先から歩いてくるのは一際巨大なビーストマン。

 クレマンティーヌが殺したあの一回り大きいビーストマンよりもさらに大きな体躯を持つ者。

 

「貴様か…。驚いたぞ、我が弟を下したばかりかこれだけの数の同胞をも屠る事の出来る人間がいたとはな…」

 

 部族を束ねる長。

 その実力はビーストマンの中でも三本の指に入るだろう。

 冒険者で言えば間違いなくアダマンタイト級以上。

 単純に戦闘能力を比べるならクレマンティーヌと同格かそれより上だ。

 

「はは…、こりゃ詰んだ…、かな…?」

 

 弱音を吐くクレマンティーヌを見て長が笑う。

 

「安心しろ人間。我が来た以上、部下達に手出しはさせん。我が相手をしてやろう」

 

「そりゃどーも…」

 

 同格とはいえ今はタイミングが悪い。 

 普段であれば互角の戦いが出来るかもしれないが、今は極度の疲労、さらに重傷ではないとはいえ多くの傷を負っている。まともに勝負など出来る筈が無い。

 仮に目の前の長と互角の勝負が出来たとしても周囲のビーストマン達をどう攻略すればいいのだろうか。

 どう転んでもクレマンティーヌに未来は無い。

 

「ていうかさぁ、一騎打ちって事は勝ったら見逃してくれんの…?」

 

「ハハハ! 勘違いするな! これは一騎打ちではない! 処刑だ! 愚かにも我らに仇なした人間への断罪! 我が弟の魂を鎮める為に貴様を殺す! 部族の誇りと弟の誇りを守る為に! それをここにいるビーストマン達に見せつけ証明する為だ! 弟に勝った事は素直に褒めてやるが人間風情が部族を束ねる長たる我に勝てる筈がない!」

 

 高らかに笑った後、長が静かに息を吐く。

 

「弟の無念、ここで晴らしてくれる…!」

 

 そう呟くと長は一気にクレマンティーヌへと距離を詰めた。

 

「っっ!」

 

「ほう! 反応するか人間!」

 

 長の踏み込みと同時に放たれた抜き手を間一髪で躱すクレマンティーヌ。だが攻撃はそれで終わらない。

 

「フン!」

 

 避けたクレマンティーヌへと追撃するように長の爪が襲う。

 

「くっ…!」

 

 避けられないと悟ってスティレットで受け流すが、爪による切り裂き攻撃が何度も浴びせられる。

 たまらず後ろに飛び距離を取るクレマンティーヌだが長はそれを逃さない。

 一瞬の隙を付き、長の手がクレマンティーヌへと伸び首を掴む。

 

「がっ…!」

 

 首根っこを掴まれ、宙に浮くクレマンティーヌ。

 バタバタともがくが逃げる事は叶わない。

 

「ハッハァ! 意外とあっけなかったな人間! 素早いと聞いていたがこんなものか!」

 

 即座に長がもう片方の手でクレマンティーヌの腹へ拳を打ち込む。

 

「ぐふっ!」

 

 その一撃でクレマンティーヌの口から血が零れる。体からは力が抜け、腕がダラリと落ちる。

 それを見た周囲のビーストマン達が高らかに吠える。

 長の勝利に。

 長の強さに。

 部族の誇りに。

 異常な熱気が辺りを包み、周囲のビーストマン達から殺せというコールが鳴り響く。

 

 それを聞いた長がクレマンティーヌの首を掴んだまま勢いよく地面へと叩きつけた。地面は砕け、その破片がクレマンティーヌの背中へと突き刺さる。

 そして再びクレマンティーヌを引き上げるとさらに地面へと叩きつける。

 長のそれはパフォーマンスなのだろう。

 その行動で周囲のビーストマン達の熱気がますます高まっていく。

 

 虚ろな目をしたクレマンティーヌを見下ろし長が口を開く。

 

「後悔しろ人間。我らビーストマンに手を出した事をな…。我らはやがて全ての亜人種の頂点に立つ存在だ…! 頂点にして至高…! 何人も我々の道を阻む事は叶わん…! 人間達の国も全て支配してやろう…! 全ての種族は我らに跪くべきなのだ…!」

 

 狂気にも似た笑いを顔に貼り付け長が叫ぶ。

 クレマンティーヌはそれを聞きながら己の中に形容し難い感情が沸いてくるのを感じていた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()存在が身の程も知らず喚いている事に何の感情を抱いているのか理解が追い付かない。

 怒りとも違う、憐憫とも違う。

 愚かしいとは思うが何かが違う。

 自分の中の何が動かされたのだろうか。

 

「クズが! ゴミが! 多少強かろうと人間など所詮は我らがエサよ! 我々偉大なるビーストマンの糧となる事を喜ぶがいい! 反抗するなど百年早いわ!」

 

 長は反応しなくなったクレマンティーヌの顔を何度も殴打しながら狂ったように叫び続ける。

 力を誇示するように。また己が優れてるのだと確信して。

 この世の頂点に近く、いつかはその頂点さえ極められると信じて。

 

 瞼が腫れあがり、口が裂け、歯が折れ、鼻が潰れながらやっとクレマンティーヌは確信に至った。

 

 自分の中に沸いた感情、それは喜びだ。

 

 初めて拷問をした時と同じ感情が湧いてくるのを感じる。

 もちろん自分が殴られている事にではない。

 これから自分が行う事を想像して、だ。

 

 まずはここから抜け出そうと必死に長の腕を引き剥がそうとする。爪が剥がれる程ひっかき、顔を動かし噛みつこうとする。

 だが腕力で劣るクレマンティーヌが簡単にこの拘束から逃れる事は出来ない。それでも暴れる。息が苦しく視界が狭まろうと己の欲求を叶える為に全力で。

 どうせ死ぬなら、最後に楽しませて貰おうと。

 

「無様だな人間…。最後の足掻き、死の舞踊か…。それもいいだろう。貴様に相応しい最後だ」

 

 クレマンティーヌの頭部は見るも悲惨な事になっているがまだ体は無事だ。

 手は動くし、足も曲がる。 

 まだ、戦える。

 

(<能力向上>、<能力超向上>…!)

 

 静かに武技を発動し、己の身体能力を高める。

 だがそれでも足りない。

 この状況を打破するにはもう一歩必要だ。

 つい先日会得したばかりの彼女のオリジナルの武技。

 

(<脳力解放>!)

 

 これを使えばその後しばらくはまともに動けなくなるし、肉体も損傷するが後の事を考える必要は無い。

 どうせ死ぬなら、もう関係ないのだから。

 

「ん…? ぐぅあっ!」

 

 クレマンティーヌの手が長の腕をガシリを掴んだ。

 その握力は先程までの人間のものとは思えない。予想外の痛みに長の体がビクンと跳ねる。だがそれでも長を跳ねのける程ではない。

 まだ足りないのだ。

 

「ぐぅっ…! ま、まだこんな力が残っていたとはな…! いや流石は我が弟を殺した人間というべきか…! もう遊びは終わりだ…! 貴様はここで我が全力の一撃を以って屠るとしよう!」

 

 そうして長が力を込め、拳を振り上げたその時。

 クレマンティーヌの首を掴んでいた筈の長の手から奇妙な音がした。

 長はもちろん、周囲のビーストマン達も何が起きたのか理解できない。

 ただ一つ言えるのは、かつてクレマンティーヌの兄が評したように彼女は確かに天才だったのだ。

 

「<脳力超解放>ォォォオオオ!!!」

 

 この土壇場で彼女は以前習得した武技のさらに上へ辿り着いた。

 己の肉体の事など省みない、諸刃の武技。

 <能力向上><能力超向上>と<脳力解放>、さらにその上位版の重ね掛け。

 一時的とはいえその力は以前の力を遥かに凌駕する。

 肉体への負担は計り知れないが。

 

「あぎゃあぁぁあぁぁ!!!」

 

 長の叫びが辺りに轟いた。

 周囲のビーストマン達がその異常事態に気付いたのは長の肘から先が真逆に折れ曲がってからだった。

 苦痛に悶える長を蹴り飛ばし、クレマンティーヌが立ち上がる。

 その口からは蒸気のように白い息が漏れていた。

 肌も異常なほど血管が浮き出ており、皮膚は赤く染まり、全身からは湯気が立ち昇っている。

 体中の血液が高速で全身を廻り、筋肉は熱を帯びる。

 エンジンのように心臓音が大きく響く。

 あまりの負荷に血管が耐えきれないのか、至る所からピューピューと血が噴き出る。

 明らかに異質で異常。

 人間の限界を超え、人間を辞めた事による弊害。

 この瞬間だけならば、純粋な人間として恐らくこの世界で最強と呼んでも差し支えないだろう。

 

「好き放題やってくれやがって…! お前だけは泣かす…!」

 

 長を見下ろし吐き捨てるクレマンティーヌ。

 その言葉にプライドを刺激されたのだろう。怒りに支配された長が立ち上がり攻撃を仕掛ける。

 

「ナ、ナメるな人間がぁぁぁ! たかが一度のまぐれくらいでぇええ! 殺して…が…あぁぁ…」

 

 だが長の攻撃が届く前にクレマンティーヌのスティレットが長の首を貫いた。

 長の動体視力を以ってすら視認できない神速の一撃。

 

「かひゅっ…、かひゅっ…、な、何が…」

 

 状況を認識出来ていない長へ間髪入れず蹴りを入れるクレマンティーヌ。以前なら無理だったろうが今のクレマンティーヌの一撃は容易く長の丸太のような足を粉砕した。

 

「いぎゃあぁぁああぁ!!」

 

 その場へ横転し痛みに悶える長。

 その眼前にクレマンティーヌが再び立ちはだかり再度見下ろす。

 

「どうしたビーストマン…。私を処刑するんだろ…? やってみろよ…!」

 

「ひっ…!」

 

 初めて長の口から悲鳴が漏れた。

 それは己よりも強大な存在を前にした時に感じる本能であろう。

 野生で生きれば生きる程、その本能は正しく正確だ。

 長は理解したのだ。

 目の前にいるのは怪物だ。

 自分が全力を出してもなお届かぬ高みにいる魔物だと。

 だが認める訳にはいかない。

 そんな筈がないのだ。

 自分が人間などに負ける筈が無いのだから。

 

「お、お前達っ! や、やれっ! こいつを殺せぇぇえええ!」

 

 長の命令を受け、即座に複数のビーストマン達がクレマンティーヌへと襲いかかる。深く考えてはいない。長に命じられ、反射的に動いたのだ。

 だが次の一瞬でそのビーストマン達は変わり果てた姿へと変わる。

 

 一匹はクレマンティーヌの渾身の裏拳により腹部が爆散して即死した。

 次の一匹は蹴り上げられたアゴ先が消し飛び、首はへし折れ180度曲がり顔が真後ろを逆さで見ている状態になった。

 次の一匹は胸部に正面からの正拳突きを受け、砕けた骨や折れた骨が背を破って飛び出てしまった。

 次の一匹は腹から臓物を撒き散らし――

 次の一匹は脳がこぼれ――

 次の一匹は――

 

 そうして瞬く間に数十の無残なビーストマンの骸が辺りに転がった。

 その悲惨な様子に他のビーストマン達は足が竦み動けなくなっていた。

 単純な腕力だけでいえばまだ長の方がクレマンティーヌより高いかもしれない。

 だがこのような破壊を可能にしたのはクレマンティーヌの速度。

 元より圧倒的に優れた速度を持つ彼女だ。

 それが身体能力が跳ね上がる事によりさらに速度を増す。

 速度とは破壊力だ。

 そこに確かな腕力と技術が介入すれば信じられぬ結果を生み出す。

 

「ど、どうしたお前達! や、やれぇ! こいつをやれぇぇえ!!!」

 

 だがもう長の叫びは届かない。

 誰もが得体の知れない恐怖に囚われ動きは鈍い。どれほど愚かであろうとクレマンティーヌの異常さは感じ取れるし、目の前で嫌というほど見せつけられた為だ。

 再びクレマンティーヌが長へと向き直り、見下ろす。

 

「ひっ…」

 

「そう、その顔だ…! お前にはそれが相応しい…! ()()()()()()()()()…! 自分が強いと信じ、優れた存在だと誤解してる哀れな道化師だ…!」

 

 愉悦の表情を浮かべながらクレマンティーヌが続ける。

 

「身の程を知らず…、調子に乗り…、ただ吠えてるだけの愚か者…! それがお前だ…! お前は優れてなんかいない…! 強くなんてない…! この世にはな、もっと規格外のクソみたいな強者共がウヨウヨしてんだよ!」

 

 クレマンティーヌに詰め寄られ泣きそうな表情を浮かべる長。

 

「ああ、楽しいなぁ…。勘違いしてる奴の鼻っ柱を折り、身の程を知らしめ、絶望に叩き落すのは最高だ…! この世の理不尽を叩きつけられ! 自分が矮小な存在だと理解する! 奪われるだけの弱者だと! そう理解し、震える奴の表情がこんなに甘美だとは知らなかったよ…! なぁ、今どんな気分だ? 教えてくれよ、アンタの口から生の感想が聞きたいなぁ…!」

 

 崩れ落ちそうな理性を必死で保ち、長が震えながら口を開く。

 

「お、王が…、我らが王さえ来れば貴様など……」

 

「そういう事を聞いてんじゃねぇ!」

 

「あぐぁぁあああああ!!!」

 

 クレマンティーヌが長のまだ無事な方の足を踏み砕き、恫喝する。

 

「アンタの上の奴の話なんか聞いてねぇんだよ! テメェだよ! テメェがちっぽけでクソみたいな存在な事をどう思ってんのか聞いてんだよぉぉぉ!! 偉そうにお山の大将やってた奴が! それが全部偽りで! この世の真実に直面し! ここで無様に泣きながら突っ伏してる事実をどう思ってるのか聞いてんだよぉぉ!」

 

 再び砕けた足を何度も踏みつけ原型が無くなる程に踏み抜く。

 

「や、やめっ…! た、助けて…! 助けてくれぇ…! わ、我が悪かった…! だから頼む…! し、死にたくない…! 死ぬのは嫌だ…! 頼む…!」

 

「そうだ! 気の利いた事が言えねぇなら命乞いでもしてみろ! 私が助けたくなるような見事な命乞いをなぁ! ほらどうした! いいのか!? 次は残った腕だ! それが無くなったら頭を砕くぞ!」

 

「い、いや、やめて…! 何でも…、何でもするから…お願い…」

 

「駄目だぁ!! 全然普通だよ! 私が拷問してきた人間と何にも変わらねぇ! 命乞いまでクソだな! テメーみてぇなクソったれが身の程も知らずにデカイ口を叩いてたかと思うと吐き気がする!」

 

 クレマンティーヌは新しい性癖に目覚めていた。

 今までのようにただの弱者を嬲り痛ぶるのではなく、身の程を理解せず、()()()()()()()()()()()()()に現実を理解させる事だ。

 それが過去の自分を否定する事になるし、許される気分になるのだ。

 何より、図に乗った者の哀れな姿ほど絵になるものは無い。

 もう今はただの弱者になどに興味は湧かない。

 きっと次から殺すのは身の丈を勘違いしている愚か者だけだ。

 

「あははっはっははははっは!!!」

 

 いつしか長の口から命乞いは出なくなっていた。

 目玉が飛び出し、舌は引っこ抜かれ、腕や足は千切れ飛んでいる。

 その物体が長だとかろうじて認識出来る要素は彼が装備していた物の成れの果てだけだ。

 もはや長が死体とも呼べない状態になった時、一匹のビーストマンの口から悲鳴が漏れた。

 

「お、長が殺された…。お、長が…。う、うわぁああぁぁああ!」

 

 そうして悲鳴を上げ恐慌状態に陥った一匹のビーストマンが逃げ出した。

 それが引き金となったのだろう。

 周囲にいた何百ものビーストマン達が釣られて脱兎の如く逃げ出した。

 長はもちろん、自らの同胞がゴミのように殺される瞬間を見続けて正気を保てる者などいなかった。

 もう部族の誇りも何もない。全ては地に落ちた。

 皆が己の命の為だけに本能に従う。

 その叫びはこの都市内にいるビーストマンはもちろん、外で待機する者達にも届いた。

 自分達を支配する強大なる長。

 それが一方的に敗北したとなれば敗走するには十分だ。

 

 しかしその実クレマンティーヌは限界に近く、今や数で圧し潰せば大した犠牲も出ず簡単に殺せるのだが彼等にそんな事など分かる筈も無い。

 正体不明の化け物から逃げ出す事で精一杯だ。

 彼等の目に映ったのは絶大なる自らの長を、逸脱した圧倒的な暴力で蹂躙する怪物の姿だったからだ。

 

 気が付けばクレマンティーヌのいた広場には彼女と数え切れないビーストマンの死体だけが残った。

 

「あ、あれ…。みんないなくなっちゃった…。は、はは、ラッキー…。も、もう体の感覚が無くなってきててヤバイとこだったんだよねー…」

 

 九死に一生を得たクレマンティーヌはすぐに逃げる準備をする。

 少なくとも体が動く内にこの都市を出なければならない。

 

「逃げた奴らが仲間を連れて戻ってくるかもしれないしねー…。王とやらがどんだけ強いか知らないけどさっきの奴より強いなら勘弁して貰いたいしねー…、あーイタタ。やばい信じられないくらい痛い…。なんかイラついてきたな…」

 

 最後に腹いせで長の死体を蹴り飛ばすと外へと向かって歩き出すクレマンティーヌ。

 

 この後、無事に都市の外へと脱出する事は出来たのだが再び倒れ、数日間動けなくなってしまう。

 そしてまた空腹、水分不足、極度の疲労等のような地獄を再度味わう事になる。

 今度は前回以上の苦痛と共に。

 

 彼女の受難はまだ終わりそうにない。

 

 

 

 

「な、なんだ…? ビ、ビーストマンが…、ビーストマンが逃げ出したぞ…!」

 

「都市の外にいた奴等もいなくなってる…!」

 

「き、奇跡だ! 奇跡が起きたんだ!」

 

 ビーストマンが去った後、生き残った住人達は歓喜に沸いた。

 なぜビーストマン達がいなくなったのか誰にも分からない。

 だがそれでも自分達の命が助かった事は事実であり、誰もがこの僥倖を喜んだ。

 

 後に一人の少女が語る。

 この街を救った一人の英雄を。

 短く切りそろえられた金髪が印象的な美しい女性。

 手に持つスティレットの如く細い肢体を持ちながら、ビーストマンをも圧倒する強さを持つ。

 まるで御伽噺のように可憐で強大な力を持ちながらそれを誇示する事もせず人知れず姿を消したと。

 その少女の言葉が正しかった事は都市の広場にある無数のビーストマンの死体が証明していた。

 

 やがてその者はこの都市で語り継がれる事になる。

 金色の英雄として。

 

 そして英雄に相応しく慈愛にも溢れ、餓えた者には貴重な食料さえ笑って分け与えてくれる。

 だが少女曰く、照れ隠しでつく悪態がなんとも不釣り合いで可愛らしいとの事だ。

 

 

 だが危機は去ったわけでは無い。

 まだこの都市はビーストマンの脅威から逃れられた訳ではないのだから。

 

 

 

 

 元、竜王国の都市の一つであり現在はビーストマンの拠点。

 その中で一際大きな建物の中に一匹のビーストマンが勢いよく走り込んでいく。

 

「お、王っ! 王! た、大変でございます!」

 

「どうした騒がしい…」

 

 建物の中には机や椅子を寄せ集め、簡易的な玉座が作られていた。

 その玉座に鎮座するのはビーストマンの王。

 この種族の頂点に立つ存在である。

 

「は、はっ! そ、それが…ここより北の都市に向かった牙の部族なのですが…」

 

「ふむ、もう落としたか流石だな。牙の長はビーストマンの中でも儂に次ぐ実力者…。当然と言うべきか…」

 

「い、いえそれが…」

 

 だが報告をしようとしているビーストマンは王の前でなかなか言葉を紡げずにいる。

 

「どうした何かあるならさっさと言え、無駄な時間は好まんぞ…」

 

「は、はっ! 申し訳ありません! で、では率直に申し上げます! 牙の長及びその弟、数百の者達が戦死しました! 残った部族の者達は敗走しこの拠点へと逃げ帰ってきております!」

 

「なんだと!?」

 

 その報告に王は手にもっていたグラスを落とす。

 

「ば、馬鹿な…! 奴がやられたというのか…! まさかクリスタルティアか…? いやそれとも毎年顔を出すあの魔法詠唱者(マジックキャスター)集団か!? いや奴等は引き上げたと報告があった筈だぞ…。だが仮に奴等だとしても牙の長がそんな簡単に後れを取るとは…」

 

「ひ、一人だそうです…」

 

「何!?」

 

「どうやらクリスタルティアとも魔法詠唱者(マジックキャスター)の部隊とも違う、見た事の無い人間だったと…」

 

「ば、馬鹿な! 竜王国にはまだ隠し玉がいたというのか!? おのれ…、忌々しい人間どもめ…」

 

 怒りに顔を歪ませ王が呟く。

 

「全軍で出るぞ…」

 

「は、はっ?」

 

「儂が指揮する。牙の部族の生き残りは我が配下に組み込め。爪の部族や他の部族も全てここに呼び戻せ…。全軍をもって蹂躙してくれる…! もう手加減などせん…! そのまま竜王国の首都まで攻め込んでやろうぞ…!」

 

 王が立ち上がる。

 その体躯は牙の長よりも巨大であり、一般のビーストマンが小さく見える程。

 腕力もスピードも全てが牙の長に勝る。

 アダマンタイト級冒険者ですら勝算が薄い真の実力者だ。

 

「我がビーストマンが軍勢20万をもって滅ぼしてくれる…!」

 

 もう竜王国には彼等を止められる者など存在しない。

 クリスタルティアや陽光聖典ですらこの数を相手には何も出来ないだろう。

 金色の英雄と祭り上げられたクレマンティーヌさえ都市から逃げ出しすでにいない。それどころかすでに竜王国国境の湖を無事に南下しておりエリュエンティウへと確実に近づいている始末。

 

 もう竜王国の滅亡は時間の問題であるといえる。

 ビーストマンの軍勢が揃い、侵攻が開始されるのは数日後。

 

 

 

 ただこの時――

 奇妙な仮面を被った四体のアンデッドがひっそりと竜王国に入国していた事を除けば。

 

 

 

 

 大陸の東に位置する海上都市。

 そこにリグリット・ベルスー・カウラウは訪れていた。

 ツアーの協力で評議国のドラゴンの力を借り、近場まで運んで貰っていたのだ。

 そうでなければいくら魔法があろうと人一人では評議国からここまで途方もない時間がかかってしまう。

 

 そうしてリグリットは都市へと入り、最下層へと向かって下っていく。

 

 この世界の技術では考えられぬ透明な板が張り付けられた巨大な壁。そのおかげで水中に位置するこの下層では海の様子がハッキリと見て取れる。

 この世のものとは思えぬ幻想的な光景だ。

 

 だがリグリットはこの景色を楽しみに来たのではない。気を取り直し再び歩を進める。

 途中様々なギミックがあるがリーダーの残した言葉を頼りに進んでいく。

 やがて最下層に到着するとドアを開けその部屋へと入る。

 

 中央にあるのは巨大な水槽。

 その中で女性が裸のまま揺蕩っている。 

 リグリットも直接見るのは初めてだが実際に見るとリーダーから聞いていた以上に女性は美しい。

 まるで人間とは思えぬ程に。

 

 寝ている彼女を起こしてよいものだろうかとリグリットは思案する。

 リーダーからは基本的に害は無いとは聞いているが無礼を行って機嫌を損ねる訳にもいかない。

 とはいえここでずっと待っている訳にもいかない。

 意を決してリグリットは声をかける。

 

「寝ているところすまん。儂はリグリット、リーダーの友人じゃ。いきなりですまんが世界を救うためにどうか儂らに力を貸して貰えないじゃろうか?」

 

 少しして彼女の目がゆっくりと開かれた。

 リグリットの声が届いたのだろうか。

 あるいは、百年の揺り返しの時が来たからか――

 

 目が覚めた彼女は何を思い、何を為すのか。

 友との約束を守る為ならばきっと彼女は何でもするだろう。

 手元に抱えるのは彼女が持つたった一つの物。

 彼女の希望であり、彼女の全て。

 

 世界すらも改変しうる二十しか存在しないアイテムの一つ。

 それが彼女に呼応するように手元で妖しく輝いていた。

 

 

 

 

 スレイン法国。

 

 未だ占星千里は己の部屋から出てこようとせず引きこもったままでいた。

 漆黒聖典の者達が何度も説得に来るが占星千里が耳を貸す事は無い。

 

 彼女は己が予言した事で一つだけ国に伝えていない事があった。

 それこそが彼女が真に引きこもった原因であり恐怖の対象。

 国に伝えれば騒ぎになるだけの一大事。

 

 彼女の予言は世界を滅ぼす災厄の渦。

 帝国から始まり、やがてそれは世界へと広がるというもの。

 その予言の延長上、断片的にだが彼女は信じ難く、受け入れがたいものを見た。

 

 何と形容するべきだろうか。

 

 あれは()()()()()とも言うべき壮絶なものだ。

 人知の及ばぬ、規格外の戦い。

 人類最高峰と呼ばれる自分達漆黒聖典さえものの役に立たない。

 だが彼女の心をヘシ折った最大の要因は番外席次についてだ。

 

 法国最強であり、その強さだけならば神に匹敵するのではと言われる化け物の中の化け物。

 法国の切り札。

 

 それが、占星千里の見た未来では。

 何者かに敗れ倒されていた。

 

 人類最強の存在であり、人類の守り手である彼女が敗北するのだ。

 

 それは法国の敗北を意味し、また人類の終わりを意味する。

 もう何をしても無駄なのだ。

 番外席次の敗北は不可避。

 全てが、終わる。

 

 だからこそ占星千里は気が狂い部屋に閉じこもった。

 せめてわずかでもその恐怖から目を逸らすようにと。

 

 きっと今も終わりの時は少しずつ近づいてきている。

 刻々、刻々と。

 




帰ってきました。

そしてごめんなさい…!
自分でも信じがたい程の時間が空いてしまいました…、忙しくなるのは分かってたのでせめてこの後編まで書いておきたかったのですがこんな事になってしまい…、うぅ…
やはり時間が空くとダメですね、書いてた事も忘れるし書き方も忘れていました
自分で読み直さないと話の整合性が取れなくなるという事態がさらに投稿を延ばす結果に…
反省しなければ…

それと今話はあまり詳細にやるとまた分割になりそうだったのでかなり削って一話に収めたので少々窮屈かもしれません…。お許しを…

何はともあれ次回から再びモモンガさんパートになります
クレマンでかなり時間を使ってしまいましたがこの前フリが必要だったのでどうかご容赦下さい

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