ちらりと時計を見る。半年前に兄貴から貰ったそれは約束の時間の10分ほど後を指していた。
頭をかいて待ち人に思いをはせる。あの人が待ち合わせに遅れた事など片手で数えるほどしかないが、どうしたのだろうか。
「ま、忙しい人だからな」
偶には遅れることぐらいあるだろうさ。
くあ、と小さなあくびをかみ殺していると、小さな足音が聞こえてくる。
聞こえてきた音のほうを見ると、ピンクブロンドの髪をキャスケット帽に押し込んだ女性がこちらに小走りで来ていた。
もちろんいつものサングラスも忘れていない。
「待たせたかしら」
「いーえー、10分くらい飯のいいスパイスっすよ」
「そう、ごめんなさいね」
彼女──マリア・カデンツァヴナ・イヴ──は僅かに額に浮いた汗を拭いながら微笑む。
うむ、美人の笑顔はいいもんだ。見てるだけで得した気分になれる。
「んじゃあ、いきますか」
「ええ、行きましょうか」
二人で顔を見合わせて言葉を合わせた。
「「ラーメンっ!」」
扉を開けて暖簾をくぐるとむわっとした熱気が僕たちを襲った。それと同時にやってきたとんこつやら醤油やらの匂いがないまぜになったラーメン屋特有の匂い。
らっしゃーい、という声に軽く会釈して二人で店の奥の方のテーブル席に腰掛けた。
「マリアさん、サングラス」
「ん、そうね。室内でサングラスは頂けないわよね、うっかりしてたわ」
マリアさんがサングラスを外すと濃い黒色に隠されていた、綺麗な空色の瞳が現れた。その瞳を綺麗だなぁ、と思いながらなんとなく見つめる。
「──? なにか私の顔についているかしら?」
マリアさんが不思議そうに首を傾げた。
「や、何にもないっすよ。それより今日なに食います? 僕はとんこつにしようかと思うんすけど」
「そうね、私は……」
とりあえず話を逸らした。貴女の顔に見とれてましたなんて口が裂けても言えない。
そんな甘い言葉なんぞ吐けるものか。僕の口なんてものを食べるためについときゃいいのだ。
マリアさんがメニューを見てうんうんと唸っている間、僕は壁に貼られているトッピングを眺める。
へー、卵無料なんだ。あ、でもチャーシュー高いな、メンマと海苔増やしてみようかな。
そんな事をぼんやり考えていると僕の対面のマリアさんがメニューをとじた。
「今日は塩にするわ」
「ん、了解っす。すんませーん、塩ととんこつ一つずつ。トッピングは────で」
僕の注文を聞いて店員さんが元気な声で返事をしてくれた。
今は割と混んでいるので注文の品が来るまで少しかかるかもしれないが、その分空腹がいいスパイスになってくれるだろう。
「とんこつ好きじゃなかったっすか?」
「ええ、好きよ」
「なら何で食べないんすか? や、塩もうまいっすけど」
「くっ、食べたいけれどカロリーが、ね」
心底悔しそうに彼女が言う。
確かにとんこつは結構脂っこいしあっさりとした塩に比べればだいぶカロリーがあるかもしれない。
ちらりと彼女のプロポーションを上から下まで見る。もちろん下半身は机の下なのでお腹あたりまでだが。
「別に痩せてると思いますけど」
「女性はいつも男性には見えないところの無駄と戦ってるの」
「そういうもんっすか」
「そういうものなのよ」
そういうもんなのか。
彼女のような出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるように見える人も、ダイエットしてるのか。
今でも十分魅力的だと思うが。
「最近あなたの方は仕事の調子はどう?」
「別に普通っすよ普通。変わりないっすねぇ」
「まあ変わりないのは良いことじゃない」
「あ、仕事といえばマリアさん新曲聞きましたよ、やっぱ上手いですね」
「それが仕事だもの。当たり前よ」
「それでもすげーっすよ」
マリアさんは頬を僅かに赤くして、ありがとう、と言った。その年齢らしからぬ姿に、この人やっぱ引っ込み思案だなー、と思う。
歌うのは好きなくせに人前で歌うのは恥ずかしいらしい。
そんなマリアさんを見て僕が意地悪気にニヤリと笑っていると店員さんがやって来て僕たちの間に二つの丼を持ってきた。
「ご注文お持ちしましたー」
「あ、とんこつが僕で塩が彼女です」
「わかりましたー」
どん、と僕らの前にもうもうと湯気を立てるラーメンが置かれた。湯気とともに香る濃厚な匂いにガツンと殴られるような空腹を感じる。
ごくり、とのどが無意識に鳴った。
対面を見ればマリアさんも僕とほとんど同じようで待ちきれないようにラーメンを見つめていた。
「「いただきます」」
二人で手を合わせ、箸を割る。
ぱきっと小気味いい音で真ん中から二つに裂けたそれを右手に構えた。
一気に麺をすする。まだ茹でたてであろう麺はまだ熱くて口に入れただけで火傷しそうなほどだ。
だが、そんな事は気にせず勢いよく口に運んでいく。
とんこつの少しとろみのあるスープは麺によく絡んでいる。
スープのよく染みた卵を半分かじってさらにスープと共に麺を啜った。半熟の卵はとろりとほんの少し黄身が流れてまた違った味わいを与える。
「くー、うまい……!」
最高にうまい。もう、ごちゃごちゃ言うよりその一言で表してしまいたかった。
「旨いっすね。今日の店は当たりっすね」
「ええとても美味しい。さすが貴方ね、お店を見つけるのが上手」
「いえいえー」
言葉を交わすと互いに食事に戻る。
チャーシューを齧る。ラーメン屋の
しっかりとした柔らかくパサついておらず、噛みしめるほどに焼豚自体の脂を口の中に感じる。
焼豚、麺、メンマ、麺、のり……と烈火怒涛に半分ほどを一気に食べてしまう。
「ふぃー」
ちらり、と自分の正面を伺う。
「ふー、ふー、はふ、はふ……」
マリアさんは自分と違って猫舌なのか箸でつまんだ麺に小さく息を吹きかけてから食べていた。
「あ、髪が邪魔ね」
レンゲを取りスープを飲もうと少し顔を傾ける。すると、珍しいその桃色の髪がスープの中に入りそうだったのか髪をひとふさ左手で搔き上げて耳にかけた。
「んくっ、はー」
左で髪が抑えながらレンゲでスープを飲み、小さく一息。
「ふー、ふー、はむっ、ん〜〜〜〜」
外国人とは思えないほど器用に箸で麺をつまんで、啜らずに口に運び咀嚼。そして、心底幸せそうな表情を浮かべる。
何というか見ているこっちが幸せになりそうな表情だ。
そんなことを考えながらぼんやりと彼女を見つめていると不意に、ぱちり、と目があった。
「な、何かしら」
マリアさんは僕が見ていることに気づくと少し顔を赤くする。
「あ、いやー、マリアさんって本当に幸せそうに食べますよね」
「そ、そうかしら」
「いや、そりゃもう旨そうに食いますよぉ。見てるこっちが幸せになりますもん」
「そ、そう。と、というか人が食べてるのをあんまりじっくり見ないで頂戴!」
「あ、すんません」
むむ、人の食べている顔をじっと見てしまうのは僕の悪い癖だ。
しかし、人の美味しそうに食べてる顔見ると幸せになれるんだよなぁ。
「じゃあ、とりあえずお詫びのしるしにとんこつ一口あげますよ」
ずいっとマリアさんの方へ半分ほど減った丼を差し出す。
「え、いいの……?」
「いいっすよ。気にせず食べちゃってください」
「でも……」
マリアさんは差し出された丼と僕の顔との間で何度も視線を動かし、眉間にしわを寄せる。
もしかしたら、カロリーの事を気にしているのかもしれない。
「ま、一口か二口ぐらい大して変わりませんって」
「でも……、いや、それもそうね。じゃあ……」
マリアさんはしばらく悩んだ様子だったが結局食欲には勝てなかったのか、結局は丼を自分の手元に引き寄せた。
「お言葉に甘えて一口だけ……」
少し控えめに一口分だけ摘んで、マリアさんはまだ往生際悪く食べるか悩み目をぎゅっと瞑って一口で口に入れた。
「美味しい……! やっぱりとんこつもいいわね」
「そーっすね、僕生まれ九州なんで、やっぱりラーメンはとんこつって感じっすわ」
「私もそっちにすればよかったかしら……、塩も十分美味しいのだけれど」
「この胸焼けしそうな脂がガツンときて、ラーメン食ってる! って感じしますよねー」
マリアさんが箸を再び僕のラーメンに手を伸ばしぱくり、と口に入れた。
「いっそのこと翼みたいに九時以降は食べないと決めればいいんでしょうけれど、なかなか辞めれないのよね」
「なんか夜遅くに食う飯には魔力がありますからね」
「そう、そうなのよ。切歌や調が寝ようとしているなか食事をしているという背徳感が私を切って離さないのよ」
「ははは、なんとなくわかるっす」
ぱくり、とまた一口。
「そーいやマリアさんってラーメン啜らないっすね、やっぱ外国人は麺を啜らないってホントなんすか?」
「啜らないっていうより啜れないのよ。イマイチ感覚がね」
「ふーん、僕にはわからない感覚っすねえ」
また一口──食べようとしたマリアさんがはたと手を止めた。
「私は今で何口食べたかしら……」
「そっすねえ、その箸の麺を口に入れるなら四口目っすかねえ」
くくく、と自分が笑うとマリアさんが顔を僅かに赤くした。
「気づいてたなら言いなさいよぉっ!」
「はいはい、狼狽えるな狼狽えるな」
「もおぉ〜〜!」
じとっとマリアさんが僕を睨む。
「貴方は本当にいじわるね」
「わははは」
別にマリアさんの四口なんて僕の一口と大して変わらないから構わんのだ。それより僕は美味しそうに食べるマリアさんがいっぱい見れたら満足なのだ。
マリアさんがはぁ、とため息をついた。
「今日は私が代金を持ちます。少し食べ過ぎたし」
「え、別にいいっすよ。自分の分くらいは──もが」
「私がそうしたいの」
マリアさんが喋ろうとする僕の口を人差し指で抑えて黙らせる。
「私がそうしたいの、いいでしょう?」
まるで言い聞かせるようにもう一度繰り返される言葉。そして、彼女は少し表情を柔らかくした。
「でも、ラーメンくらい自分で払いますよ」
「貴方も強情ね」
「マリアさんほどじゃないっす」
「じゃあ、こうしましょう」
マリアさんが僕がどかした指をピンと立てて僕の顔の前に持ってきた。
「次また、ご飯食べる時も美味しいお店を見つけて頂戴?」
そして、マリアさんが、全米トップアーティストがそれに見合う見惚れてしまうような笑顔を浮かべた。
「……了解、お任せを」
「ふふっ、お願いね」
そんな笑顔出せれては僕の負けだ。そんなの反則じゃい。
「ほらラーメン食いますよ。早く食わなきゃ麺が伸びます」
「そうね、あの、あともう一つお願いがあるのだけれど……」
「およ?」
マリアさんは目線をいじいじと突き合わせている指に落として、ちらりと僕を上目遣いで伺う。
「とんこつ、もう一口だけ頂けるかしら……」
「いいっすよ」
…………わかるよ、美味しいもんね。
マリア・カデンツァヴナ・イヴの日記
「今日は仕事の帰りに彼とラーメンを食べに行きました。彼が以前から気になっていたお店だったそうです。
何を食べるか最後まで悩みましたが、今日はとりあえず塩にしました。大変美味しかったのですが、対面の彼があまりに美味しそうに食べるのでとんこつが羨ましくなってしまいました。
彼に分けてもらったのですがつい食べ過ぎてしまいました。最後は彼が頼んだ餃子も二つほどいただく始末。
明日からは少しの間カロリーを抑えた食事にしたいと思います」
風鳴翼から一言
「本当にマリアは丸くなったな。日に日に丸くなっているような気さえするぞ」
「彼」の日記
「今日はマリアさんとラーメンでした。美味しかったです」
雪音クリスから一言
「小学生かよッ!」