レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督11 Flaming Night (1)

 

 

 

 涼しいというには少し温度の低い風が真正面から吹きつけて来て、レミリアは思わず目を瞑った。さあっと、少女を通り過ぎた風は、海からやって来て陸へと急ぎ足で駆け去っていく。

 

 もうすっかり秋になった。気温はだいぶ落ち着いたし、陽光も夏のギラギラとした殺人光線じみたものに比べれば随分と優しくなっている。もっとも、今日は空一面を灰色の雲が覆い、レミリアの肌に天敵である太陽光をきっちりと遮断してくれているので、日傘も差さずに外を歩くことが出来た。明後日には台風が上陸するということで、嵐の来訪を予感させるように今日から天気は下り坂だそうだ。人間が発明した、そこそこの確率で近日中の天気を言い当てる予報がそう教えてくれていた。

 

 風は少し冷たいが、長袖を着込んでいれば身を震わせることもない。程よい気温に、レミリアは例によって上機嫌で鎮守府行脚をしていた。

 

 この国には各地に鎮守府というのは設置されているわけで、当然各々司令官というのが存在する。そして、それぞれ鎮守府の運営方針というのは異なるだろう。ずっと司令室に構えていて何もかもを部下に任せる者もいれば、現場重視で現場の環境を整えることに尽力する者もいるだろうし、はたまた専ら本部に居てばかりの者も居よう。一口に鎮守府司令官と言えどその実情は十人十色。だが、その中でもレミリアは特に異色で、これほど奇異な司令官は他にいないと思う。

 

 別に、自画自賛というわけではない。ただ、こうして鎮守府を歩き回り、現場の軍人や艦娘と頻繁に話をする司令官は世界広しと言えどレミリアくらいしかいないのではないだろうか。この鎮守府では、日傘を差しながら敷地内を徘徊するレミリアの姿はすっかり名物となり、最初は不審な目で見ていた人々もやがて気軽にレミリアと話をするようになった。彼らにとっては自分たちの不満を長官に直訴するチャンスが割とたくさん増えるということでもあり、結果レミリアは下からの実に様々な要望や意見を吸い上げるようになった。それらの中には、この鎮守府では古株の部類に入る赤城でさえ知らないこともあり、しばしば彼女を感心させた。

 

 もちろん、レミリアは暇だから行脚を繰り返しているわけではない。赤城という、優秀過ぎるほど優秀な部下がいて、大概の仕事を丸投げしても大丈夫なのは確かなのだが、何よりレミリアが鎮守府内を見回るのは、レミリアが海軍という組織に不慣れであり、実情に対して余りにも無知だからだ。

 

 すべては百聞は一見に如かず。人伝に話を聞いても知識は増えるが理解が増すわけではない。知識に過大偏重している友人を思い浮かべながらレミリアは常からそう感じているのであり、それ故の行動であった。何よりもこうしたレミリアの方針が、赤城という今やすっかり片腕となった存在の理解を得ているのが大きい。

 

 かくて、レミリアは今日も今日とて鎮守府行脚に繰り出た。朝から工廠に顔を出し、雑談もそこそこにいくつかの機械の不調で作業が滞っているという情報を仕入れてから、今度は海沿いに、桟橋や突堤を見ながら歩いた。その中で釣り糸を垂らしている彼女を見かけると、ほんの一瞬立ち止まってからレミリアはそちらに足を向けたのである。

 

「ごきげんよう。釣果はどうかしら」

 

 横合いから声を掛けると、彼女は反対側に顎を振るように顔をそむけた。

 

 不機嫌なのか、とも思ったがそうではないようだ。彼女の顎の先、レミリアから見てちょうど彼女の体の影になっている側に水の張ったバケツがあり、その反応がレミリアが来たこと自体に対するものではなく、掛けた言葉への返答だったと気付いた。ひょいと彼女の頭越しにバケツの中身を除くと、水以外に何も入っていなかった。

 

「上々ね」

 

 冗談で秘書艦の口癖を真似てみる。

 

「太公望は休業中よ。絡むんなら漣のところにでも行ったら? 非番、一緒だし」

 

 冗談に怒ったのか、気を悪くしたのか、休業中の太公望はそっけない。

 

「たまには貴女とお話してみたいの」

 

「……あっそ。好きにすれば」

 

 彼女の言葉はひどく冷淡に聞こえる。顎先は微かに上を向き、釣り竿の先を見据える横顔はとんがっていた。不機嫌どころか取り付く島もないような様子だが、かき上げた髪の合い間から覗く耳たぶはやたら血色が良くなっている。

 

「好きにさせてもらうわ」

 

 彼女の、曙の反応を楽しみながらレミリアはゆっくりとその隣に腰を下ろす。嫌がらないので、受け入れてくれたということなのだろう。

 

 大きく海に突き出た突堤。足元のコンクリート護岸に波が当たっては砕け、当たっては砕けを繰り返している。彼女が海の上に突き出した釣り竿から延びる糸の先にはブイが取り付けられていて、絶え間なく突堤を洗う波にゆらゆらと不規則な軌道を描いて揺られていた。

 

 それにしても、波とは実に不思議なものだ。

 

 海というのは、それは湖も含めてだが、それ自体はただ単に巨大な水たまりに過ぎない。海は地球の表面積の七割を占めるというが、裏を返せばこの地上に海の水が入ってしまうくらいの大きな窪地があり、海というのはそこに水が溜まっているだけなはずだ。そうであれば、そこに本来水面の揺らぎである波という現象は発生しないのではないだろうか。コップに水を溜めたところで、そのコップを揺らさなければ水面に波は生まれない。仮に生まれても、揺らすのを止めればいずれ波も静まる。

 

 だがしかし、海は常に波打っている。そこはいつも揺れている。

 

 それは海の上を風が駆け抜けるからだろう。雨雲が空から雨という形で水を補給するからだろう。大地は一年間に数センチという極めて遅い速度で動いているからそれもあるのだろう。

 

 けれど何よりも、この地球自体が自転している。地球は太陽の周りを公転し、さらに自らも一日一周の速度で回っている。空を太陽が半周するのは、太陽が動いているからではなく地球が回っているからだ。言うなれば、海という中身を溜めた地球というコップは、常に動いており、故に水も常に揺らされている。

 

 そう考えると、今この足の下でコンクリート相手に玉砕を繰り返している波というのは、実はこの地球の自転が作り出した現象であり、深く考えれば自然の雄大さへと思い至るのだ。日が昇って沈み、波が護岸で砕け、私たちが回転しているというのは本質的にまったく同じなのである。

 

 なるほど、これほど世界の広さ、大きさを示すものはない。内陸の、山に囲まれた狭い土地の中にいるだけでは意識し得ないことだろう。海という開かれた場所に出て来たからこそ、レミリアはこの自然の雄大さに思いを馳せるようになった。海は広いな大きいな。まさにそうだ。母なる海。生命の故郷。

 

 そう考えると、自分たちというのは本当にちっぽけな存在でしかないのかもしれない。人間も艦娘も深海棲艦も、地球という巨大な船の中で這い回る虫けらのようなものなのだ。

 

 と、レミリアが世界の大きさに感慨を抱いていると、隣の彼女はおもむろにバケツの横、自分の荷物が入っているであろうバッグの中から一冊の文庫本を取り出した。かわいらしいウサギの絵柄がプリントされたブックカバーに覆われ、本の題名は分からない。

 

 それを見て、レミリアは曙という少女の度量の大きさに舌を巻く。

 

 彼女はこの雄大な海を前にして、釣り糸を垂らしながら、しかし自然に負けず劣らず鷹揚に構えて読書するというのだ。どこぞの知識人のように知識を漁るのではなく、小説という知的生産物から高度な知性と感性の摂取を行い、現実の世界を目の当たりにしながら細かな活字の世界へと旅立つ。レミリアでさえ畏れを抱かずにはいられなかった海に対し、海の上に立つことを生業とする彼女はまるで自らの優位を誇示するかのように余裕の態度で本を開いたのである。

 

「何よ?」

 

 彼女の尊大にして、悠然とした姿に感心と敬意の眼差しを向けていたレミリアに気付き、曙は心底鬱陶しそうな表情でそう言った。

 

「いいえ。なかなか、いいものだと思って」

 

「は?」

 

 言葉通り彼女は眉をハの字にして、ナニソレイミワカンナイと付け加えた。

 

 しかし、レミリアにそれ以上の意図を問うこともなく、彼女はまた文字の中に没入してしまう。どうやら静かな時間を過ごしたいようだったし、手持無沙汰ながら彼女と肩を並べて世界の動きを眺めているのもなかなかに情緒なものだと思ったから、レミリアも話し掛けずにいることにした。

 

 風は優しかったが、もう少し厚着をして来ればよかった。

 

 隣の曙と言えば、上着こそ夏服の半そでだが、寒さを勘案してかタイツを履いているし、上着の上にはフィッシングベストを羽織るという本格ぶり。水だけ入ったバケツの横には餌箱も置かれている。

 

 なかなか様になっていると言えよう。だが、肝心の釣果の方はさっぱりだった。

 

 曙は本を読んだまま、レミリアは水平線の向こうに視線を投げて頭を休めたまま、主観時間で十分は経過しただろうと思われる頃、隣の太公望はおもむろに文庫を閉じてしまった。

 

「何よ?」

 

 ぶっきらぼうに、藪から棒に、さっきも聞いたような単語だった。

 

 視線もあからさまに不審がっている。レミリアが何もせずに並んでいることが相当気になったらしい。

 

「別に。暇を潰してるだけよ」

 

「仕事しなさいよ」

 

「これも仕事の内」

 

「今、暇って言ったじゃない」

 

「暇な仕事もあるってことよ」

 

「意味分かんない」

 

 暖簾に腕押し。糠に釘。のらりくらりと遊びのような言葉で曙の追及をかわす。

 

 レミリアには確かに彼女に対して用事があった。釣り糸を垂らす背中を見た時、今朝赤城を通して聞いた要件を伝えなければならないことを思い出したのである。

 

 だが、曙は今まさに自分の趣味を楽しんでいるところ。この雄大な海に対し、たった一本の糸を垂らして幸を頂戴しようと挑戦している最中である。まして、この要件の内容を鑑みれば、彼女に今仕事の話をするのは無粋というものだろう。

 

「そうやって黙って横に居られるの、気持ち悪いから。用件があるんならさっさと言ったらどうよ? ただ暇なだけならどっか行って」

 

 と、曙。レミリアの心中を知る由もなく、彼女は彼女らしいきつい言葉を鞭のように振り回して叩きつけて来る。

 

 これが素の性格なのか、あるいは虚勢を張っているだけなのか、とにかく曙は口が悪い。仮にも上官たるレミリアに対してもこの言い方である。

 

 普通の者なら目に余る態度に激怒して営倉送りにしてしまうかもしれないが、生憎レミリアはその程度のことには目くじらを立てないほどに鷹揚で、見た目に反して老成していた。彼女がつんけんした物言いをする度、温かい視線を配って微笑みながら、まるでじゃれてくる子猫を見るように穏やかに接するのだ。それがなおのこと、プライドの高い曙を刺激するのも計算に入れながら。

 

「だから、何ニヤついてんのよ! 気持ち悪いなあ。用事は何よ?」

 

 おっといけない、とレミリアは無意識に緩みかけた口元に手をやる。これはけったいな能力を持つ妹の友人のせいなのに違いない。

 

「まあ、用事というほどのことでもないんだけどね」

 

「大したことじゃないわけ? まあ、いいわよ。せっかくだから聞いてあげる」

 

「あら。貴女は優しいわね」

 

「ッ! 余計な御託はいいの! それより早く言いなさいよ」

 

「早く言ってもいいの? 時間が余っているんでしょう?」

 

「ひ、暇じゃないしッ!」

 

「その割には釣れてないわね」

 

「うっさい! これから釣れるんだから!」

 

 ついに彼女は立ち上がって背筋を伸ばし、キンキンと実に良い声で叫び出した。

 

 これだから曙という娘は面白い。ちょっとからかうだけでこちらの期待以上の反応を見せてくれるのだから。

 

 レミリアだけでなく、周囲の誰もが彼女を温かく見守っている所以は、そういうところにあるのだろう。

 

「だからニヤけんなって!」

 

 ただ、あまりいじり倒してもかわいそうであるし、いい加減何も話が進まない。別にレミリアとしては暇が潰れるからそれでもいいのだが、やり過ぎると曙がへそを曲げて話を聞いてくれなくなる可能性があった。ここはそろそろ本題とやらに移るところであろう。

 

「それじゃあ、太公望の貴女に一つお仕事があるのよ。ホントは明日するつもりだったんだけど、今日こうして出会ったんだから先に言っておくわ」

 

「何?」

 

 その場に立ったまま、腕組みをして見下ろしながら彼女は不機嫌そうに眉を吊り上げる。それでも一応ちゃんと話を聞こうとするんだなと苦笑した。

 

 赤城が伝えてくれた上層部から来たという仕事の内容。正確には指令というものだが、聞いて実に面妖な内容だと思った。

 

 

「簡単なものよ。秋刀魚を釣りに行くの」

 

 

 

****

 

 

 

「おうええぇぇぇぉぉぉろろろえッ‼」

 

 ぼとぼとと嫌な音を立てながら海面に落ちていく今日の朝食。パンだかベーコンだかよく分からないドロドロに溶けた塊が、群青色の深い海に吸い込まれていく。

 

 海は偉大だ。吐瀉物さえ何も言わずに受け入れてくれるのだから。

 

「提督、お水どうぞ」

 

「ありがどう……」

 

 膨大な水の上を、馬力のあるエンジンで力強く進む漁船は、しかし小さいが故に波に乗り、波に揺られる。遠くの水平線は一度たりとも定まった高さになく、大きく不規則に上下に振れる。それを眺めていると、胃袋からまた込み上がって来るものがあった。

 

 もう何回やらかしたか分からない。十回より先は数えていない。

 

 吐き過ぎて喉が荒れて声が老婆のようにしわがれてしまっていた。

 

 潮に差し出してもらったミネラルウォーターを浴びるように飲みながらレミリアは思った。ついて来なければ良かったと。

 

 

 

 問題の上層部からの指令の内容。それは「沖合での秋刀魚漁を支援すること」であった。

 

 重要なのは支援の中身なのだが、艦娘らしく漁場から深海棲艦を排除して漁の安全を確保する、と考えていたが現実はレミリアの予想を遥かに超越した。もちろんその意味も含んではいたのだが、主として秋刀魚漁自体を行うことが指令の内容だったのだ。

 

 一体全体、軍人たる艦娘たちが漁師の真似事をしなければならないとはどういうことなのか。聞いたことに対する答えは意外なことに曙がよく知っていた。

 

 いわく、「去年もやったわよ。任務でね」とのこと。

 

 聞けば、去年はレミリアの鎮守府(まだ前任者が率いていたが)に直接声は掛からず、たまたま大規模遠征後で手の空いていた第七駆逐隊の三人が近隣鎮守府の秋刀魚漁に応援戦力(軍事的な意味合いではない)として派遣されたらしく、その際も漁船に乗り込み漁師よろしく海に出てたらふく秋刀魚を獲って来たそうな。肝心の漁をする目的なのだが、学術研究機関からの依頼による秋刀魚の生態調査と新型燃料としてのバイオ燃料の開発らしい。

 

 前者はただ単純に深海棲艦が魚類の生態にいかなる影響を与えているのかというのを研究する目的だが、後者がややこしい。理屈は赤城から聞かされたものの、レミリアは内容の半分も理解していなかった。どうやら秋刀魚だけが何故か加工することで艦娘の燃料になるということのようだ。七の倍数で計算する、つまり七尾で一単位の燃料が手に入るらしい。その「単位」の意味だが、これはどうやら「個」という単位で数えられ、一単位の燃料とは英語で言うところの“a tin”らしい。

 

 すなわち、「そういうこと」であり、「そういうこと」だから艦娘が漁師の真似事をするという面妖な任務が下された。というのが事の次第だ。

 

 よって、レミリア隷下の第七駆逐隊は軍が用意した漁船に乗って秋刀魚漁に繰り出たわけである。漁の面子は経験者の七駆で即決した。

 

 もちろん、七駆以外の他の艦娘は「硫黄島」に乗り込んで同じ海域に出撃する。七駆が向かうのはまだ深海棲艦の脅威が完全に排除されていない危険な海域であり、当然のことながら民間漁船はもっと安全な、陸に近い場所で漁を行う。「硫黄島」の戦力は、当然仲間である七駆を護る護衛という役割を担うのだが、同時に旬に合わせて一斉に出漁する民間漁船の安全も保証するという任務を請け負っている。七駆にはある程度の自衛も求められていた。

 

 しかしながら、こうした軍らしからぬ特殊なイベント、それも内陸に住んでいてはまず経験出来ないであろう海に出ての漁とあれば、それがレミリアの興味を惹かぬわけがなかった。赤城や漣がそれとなく反対するのを押し切り、レミリアは“司令官として”漁に同行することを決定してしまったのである。途方もない後悔をする羽目になるというのも露知らずに。

 

 

 出港前、初めての漁に無邪気にはしゃいでいた自分をぶん殴りたい。こんな目に合うならば大人しく「硫黄島」で待っていれば良かったのだ。漣の「漁船は揺れますから船酔いしちゃいますよ」という忠告に素直に従っていればこんなことにはならないですんだ。「硫黄島」に乗る分には船酔いは全くしなかったから、心配はないと慢心していたのが駄目だった。赤城の陳情を思い出すと耳が痛んで仕方がない。

 

 だが、後悔先に立たず。好奇心は猫をも殺す。

 

 「硫黄島」は近傍の海域にいるとはいえ、彼我の距離は数十海里も離れており、今すぐそちらに乗り移ることなど出来ない(なぜかと言えば、『硫黄島』のような大型艦が近くにいると魚群が逃げてしまうからだ。秋刀魚は特に臆病な魚だった)。さりとて、秋刀魚漁もれっきとした任務であるから港に戻るわけにもいかず、少なくとも一昼夜はこの漁船の上で酷い船酔いに耐えなければならなかった。

 

 徴用された漁船は二十年は使われていると思しきオンボロの小型船で、普段レミリアが乗り込む「硫黄島」とはクジラと金魚くらいの差がある。とはいえ初めての漁ということもあって、レミリアは上機嫌でこの漁船に「スカーレット・グローリー号」という輝かしい命名を行い、船体全部を深紅に塗り上げようと工廠に持ち掛けたがあえなく一蹴され、それでも何とか粘って船尾に名前だけ書いてもらったという経緯がある。「すかあれっと・ぐろうりい丸」と。

 

 しかしこの「スカーレット・グローリー号」改め「すかあれっと・ぐろうりい丸」は、恩深き名付け親であるはずのレミリアに対していささか冷たいようで、はっきり言えば乗り心地は最悪であった。海上のうねりに沿うように船は上へ下へ、前へ後ろへ、左へ右へ、時に転覆しそうになるくらい大きく傾いては、その度に不気味に軋み、レミリアの三半規管をひっくり返すのだ。

 

 お陰でこの様である。出港してから程なく、比較的波の穏やかな港内を進んでいる内からまともに立っていられなくなり、すぐに船のへりから身を乗り出して海に汚物をぶちまける羽目になった。以来、ずっとへりにもたれかかっては、こみ上げて来たものを吐き出す動作に終始している。

 

 波とは実に恐ろしいものだ。かつて、これほどまでレミリアを屈服させ、屈辱を感じさせた存在があっただろうか。

 

「お願い、もうちょっとゆっくり行って!」

 

 痛みに苦しむ重病人のような枯れた声で悲鳴を上げるレミリア。プライドも何もかもが打ち砕かれ、自分でも涙が出るほど情けなく喚くしかない。いや、喚けばぶり返してくる。

 

 レミリアのプライドを捨て去った叫びは、しかし、波の音やスクリュー音、エンジン音で騒がしい船上ではまったく聞こえなかったらしい。操舵輪を握る漣の耳には届かなかったようだ。

 

「さざなみぃ!」

 

 もう一度呼ぶが、やっぱり聞こえないようだ。先程水を渡してくれた潮も、今は漣の横に立って何か機械を操作している。もう一人の曙と言えば、彼女は漁船から降り、海に出て周辺警戒に当たっていた。

 

 どうやらレミリアが指示するまでもなく(それどころではないのだが)、船上での三人の役割分担は決まっているらしい。一人が操舵し、一人が雑用を行い、残る一人が艤装を付けて漁船の警護をする。そのために、彼女たちは艤装を二セット持って来ていた。三人で役割をローテーションしているようだった。

 

「さざなみー!」

 

 三度彼女を呼ぶが、やっぱり騒音で声が届かない。それならば近くに寄るかもっと大きな声を出せばいいのだが、生憎今のレミリアの状態ではどちらも出来そうになかった。

 

 何せ、頭がぐわんぐわん揺れるし、ずっと胃袋の中をナメクジが這い回っているような気持ち悪さが残っていて、何かすればすぐにぶり返してしまいそうなのだから。

 

 絶望的な状況だった。逃げ場のない漁船。酔い止め薬もない。おまけに任務の秋刀魚漁が終わるまで陸には帰れない。

 

「生きて、帰れるかしら……」

 

 レミリアは天を仰いだ。

 

 自分にはちょうどいい曇天で、この雲の向こうには茜空が広がっている。もういくばくもしない内に太陽は水平線に沈み、夜の暗幕が世界を覆っていくだろう。そうなれば、少しは調子を取り戻すかもしれない。むしろ、そうでなければ困るのだが。

 

 だから、レミリアは必死で自分に言い聞かせた。もう少しだ。もう少しの辛抱だと。

 

 

 

****

 

 

 果たして期待は見事に裏切られてしまった。

 

 胃が搔き乱され、脳みそが揺れるような気持ち悪さは日が沈んで完全に夜になってもまったく収まる気配など見せず、それどころかますます酷くなっているような気さえした。船のへりから離れることが出来ず、時折脱水症状にならないように潮に水を持って来てもらっては、腹を下す勢いで飲み干す。その繰り返しである。

 

 さすがに潮も呆れてきたのか、時間が経つにつれ対応が事務的で素っ気無いものになってきたし、視線に「何でついて来たんだ」という若干の非難が混じるようにもなってきていた。しかし、それはレミリア自身が一番痛感していることであり、こんな事態はまるで想像していなかったのだ。ああ、自分の浅ましさが悔しい。

 

 そんな役立たずを尻目に、「スカーレット・グローリー号」は漁場にたどり着いたようだ。「こちら『すかぐろ丸』。漁場に到着です。これより秋刀魚漁に取り掛かります」と無線にしゃべる漣の声が聞こえて来た。「『スカーレット・グローリー号』よ」と小声で訂正する。

 

 外洋は波が荒く、容赦なくレミリアを揺さぶる。無線の向こうで漣に誰かが応答し、漣は「了解でーす」と気の抜けた返事をした。何となく、相手は赤城だろうと思った。いよいよ漁の準備に取り掛かるのだろう。船上にいる漣と潮は二人とも慌しく動き始めた。

 

 秋刀魚漁は深夜、漁船に明かりを点けて行われる。秋刀魚には光に集うという習性があるのでそれを利用するわけだ。

 

 それら、漁に関する手順は出港前に一通り曙から教えてもらった。そもそも秋刀魚漁船というのは特徴的な見た目をしていて、船体自体はごく一般的な漁船なのだが、そこに櫛の歯のように船体から斜めに飛び出す集魚灯の支柱がいくつも取り付けられている。漁は初め、水中探信儀=ソナーで魚群を追い、狙った魚群の上に来たところでまず右舷側の集魚灯を点灯して魚をそちらに集める。その間に左舷側から棒受け網を海中に投下して沈めておく。網のセッティングが完了したら、船尾に近い集魚灯から順に消灯していき、タイミングを合わせて船首と左舷の集魚灯を点ける。すると魚は光を追って右舷から船首側へ移動し、さらに左舷側、すなわち網の上方に誘い込まれるのだ。

 

次に明るい集魚灯を消して代わりに赤色灯を光らせる。赤い光に興奮した秋刀魚は水面まで上がって来るので網を引き揚げて逃げ道を塞いだ後にポンプで海水ごと吸い上げて船倉へ流し込む。これを船倉が一杯になるまで繰り返すと任務終了だ。

 

 萎びたほうれん草のように船のへりにもたれかかってそこから離れられないレミリアを尻目に、漣と潮の二人は手際良く準備を進めていく。気持ち悪さと吐き気が小康状態になったレミリアは、その様子を眺めていた。忙しそうにする二人の背中からは「手伝え」という無言のオーラが醸し出されているし、それでなくとも人手が足りないので何かしなければならないのだという認識はしているのだが、生憎動けば船内で嘔吐するのは間違いないのでこの場を離れられない。実際、船酔いが襲って来て最初の一発はレミリア自身にとっても予想外であったので、船の中でぶちまけてしまっていた。

 

 その処理は二人がしてくれたのだが、以後吐く場合は海に吐くように漣にきつく言い付けられてしまった。普段はふざけてばかりいるが、漣は怒るとなかなか迫力があるという、貴重な教訓を学ぶことが出来た。

 

 思い出したくもない醜態のことを脳が勝手に想起して羞恥に身を悶えさせていると、船に近付く重低音と泡の音が聞こえて来る。前者は主機の稼働音であり、後者はそれによって回されるスクリュー音だ。海の方に顔を戻すと、案の定、警戒に出ていた曙が戻って来たところだった。

 

「あんた、まだ回復してないの?」

 

「……ええ」

 

「はあ。何しに来たのよ?」

 

 さすがは曙。潮が気を遣って言わなかったことをはっきりと言葉にしてくれる。心臓をナイフで切り刻まれるような痛みにレミリアは唸るしかない。

 

 提督が閉口している間に曙は漁船の揺れとうまくタイミングを合わせてへりに腰掛けると、艤装を付けた足を上げてくるりと180度反転して船の中に乗り込む。それから、へりに腰掛けたまま航行艤装を脱ぎ始めた。

 

「あけぼのー。こっち手伝ってよ!」

 

 左舷側で網の準備をしている漣が叫んだ。

 

「すぐ行くわ」

 

 答えた曙も、手早くがちゃがちゃと艤装を取り外していき、間もなく身軽になるとレミリアの傍にそれを置いた。隣にはもう一つ予備で持って来た綾波型艤装が並べて置かれている。

 

「分かってるわよ。そんなことは……」

 

 誰にも聞こえない独り言は、ほぼ同時に叫ばれた漣の声と被ってレミリア自身の耳にも届かなかった。

 

 

 

 

 

 

「魚群発見‼︎」

 

 いつの間にやら操舵室に戻った漣が声を張る。操舵室はこの「スカーレット・グローリー号」の艦橋にあたり、舵輪の他、航法装置やソーナー、レーダーの画面と操作機器が置かれている。集魚灯のスイッチもあり、誰かがそれを押したのか煌々と明かりが一斉に点灯される。

 

 思った以上に光りは明るかった。レミリア自身は昼でも夜でも同じように景色を見れるから、視界が明るく照らされること驚きはしないが、光量の急激な変化に反射的に目を細めた。

 

 まさに昼間のよう。船は漆黒の海に白く浮かび上がる。今夜は生憎の曇天で、星も月もないから尚のこと明るく感じられた。

 

「上行くわ!」

 

 曙が叫んで、操舵室の波除外壁に取り付けられた梯子を登って行く。操舵室の上にはマストが立っているのだが、その根本に探照灯が据え付けられており、これで離れたところにいる魚を集魚灯の光の範囲内まで誘うのである。

 

 曙が探照灯を点けると、右舷外側に光線が落ちて、円く紺色の海面が浮かび上がった。

 

「来てるよ! 右舷!」

 

 船上が俄かに緊張し始める。七駆の三人は、まるで深海棲艦と遭遇したかのように張り詰めた顔を見せていた。

 

 それはそうだ。漁は決して遊びではない。

 

 これは任務であり、彼女たちにとっては紛れもない職務であり、当然成功させる責任が生じているものだ。そして、部下である彼女たちが全力を投じて任務遂行にあたっている以上、その上官たるレミリアも動かなければならない。

 

 繰り返すが、これはごっこ遊びではない。だから、レミリアは立ち上がろうとした。今何が出来るか、そもそも漁という作業自体が初めてのレミリアには分からなかった。だが、少なくともここでこうして座り込んでいることが役割ではないのは確かだ。

 

 けれども、いかに強く決意したところで生理現象には敵わない。まるでタイミングを狙ったかのように船が波に乗り上げて大きく揺れる。普段から海の上で活動している七駆の三人は、柳のようなしなやかな体幹と強靭な足腰で揺れを吸収したが、舟揺れに慣れぬレミリアは立ち上がり掛けたところを、バランスを崩してまた元のように座り込んでしまう。

 

 おまけに、その拍子に三半規管を揺すられて込み上げて来たものがあった。

 

 慌ててへりから顔を出して海に吐こうとしたところで、しかしレミリアは必死でそれを飲み込まなければならなかった。

 

 集まっていたのだ。光に誘われた魚たちが。

 

 波が集魚灯の明かりを乱反射する水面の下、暗い水底に紛れるように泳ぐ無数の影。時折、腹の銀色が煌めく。

 

 視界に映る限りに魚たちが泳いでいる。

 

 吐くなど出来るものか。彼らに不浄な吐瀉物を浴びせられるものか。

 

 船は今、魚群の上にいるのだ。

 

 絶句して飲み込んだ胃液が喉を焼く。けれど、その痛みは高揚した精神に打ち消されてしまった。

 

「魚‼︎ 魚よ!」

 

 気付けば自分も叫んでいた。操舵室を振り返ると、漣が無言で親指を立てているところだった。

 

「どんどん集まって来てるわ!」

 

 探照灯を回しながら曙も絶叫する。彼女が照らす先、海面まで秋刀魚が登って来て、勢いよく跳ねる水音が響き渡った。

 

 潮と操舵室を飛び出した漣が急いで左舷の網を投下する。二人は手早く網を海に投げ入れていき、一通り終わると漣はまた走って操舵室に戻る。

 

「行くよー!」

 

 そして、合図する。

 

 目の前の集魚灯が消された。いよいよ漁は第二段階に入ったのだ。これより、船首を回るように魚を誘導していく。

 

 バチン、バチン、と順番に右舷の集魚灯が消されていき、それまでレミリアの真下の海面下を泳いでいた魚たちが船首方向へ離れていく。

 

「前に行ってるわ!」

 

 興奮と緊張が抑えられない。心臓が柄にもなく脈動している。腹に先程吐き出せなかった胃液が溜まって気持ち悪いが、我慢して再び立ち上がろうと試みた。

 

 その内に集魚灯は左舷側だけが点けられている状態になっていた。レミリアのいる右舷は相対的に暗くなる。小さな漁船なので、明るいのは明るいのだが、操舵室や漁具庫の影になった。

 

 その間隙を突くようなポトリという小さい音。レミリアが音の発生源――自分の左足の傍を見下ろしたところで、すべての集魚灯が消された。刹那、本物の闇が船上を包む。

 

 

 入れ替わりに点灯される赤色灯。

 

 一斉だ。一斉に海面まで上がって来た魚が跳ねて、壮大な水音を鳴り響かせたのだ。恵みの雨が海面を叩いている。

 

 いよいよ仕上げの時間。

 

 重い機械音が混じり、投げ入れられた網が秋刀魚を掬い上げる。

 

「網を上げて!」

 

 曙が叫びながら降りて来て、三人は船のへりから網を引っぱり上げ始めた。

 

「重いわ! 大漁よ‼︎」

 

 彼女の顔は笑っていた。

 

 そうだ。これ程の群れを捕まえたのだ。三人で持ち切れないくらい沢山の魚が掛かっているはずだ。

 

 

 

「上々ね!」

 

 

 

 レミリアも両手で網を掴むと、小さな体躯からは想像も出来ないような力で一気に引っぱり上げる。

 

 魚の跳ねる音が盛大になった。活きのいい尻尾に弾かれた水滴が頭まで掛かる。あっという間に全身ずぶ濡れになってしまう。

 

「あんた⁉︎ 生きてたの?」

 

 急に復活したレミリアに驚愕する曙。提督はそんな彼女を笑い、

 

「勝手に殺さないでくれる?」

 

 と、軽口を叩いた。

 

「また吐かないでしょうね! 無理しないでよ」

 

「心配ないわ」

 

「本当かしら?」

 

 棘の付いた気遣いの言葉にレミリアは朗らかに答える。曙というのはこういう娘だ。素直になれないのが微笑ましいというのか、可愛らしいというのか。彼女の人徳だろう。

 

 そして、実際レミリアは心配に及ばない状態だった。少なくとも、今から港に戻るまでは再び船酔いに苦しめられることはない。

 

 というのも、友人の魔女から魔法の酔い止め薬を貰ったからだ。先程、三人の意識が左舷の魚に向いた時、魔女の使い魔が薬を落としていった。それを飲めば、さすがに一流の魔女が調合した薬だけあって、効果は抜群。気持ち悪さはあっという間に消え去ったのだった。

 

 かくて、レミリアは劇的な復活を遂げる。船にへばりついて嘔吐を繰り返すだけの無様な時間は終わった。いよいよ、栄えある「スカーレット・グローリー号」の船長として活躍する時が来たのだ。

 

 レミリアの加勢により網の引き上げは一気に進み、機を見た漣が「ポンプ投入しまーす‼︎」と掛け声を出す。

 

 潮が船倉の蓋を開け、曙がどこに用意してあったのか、大量のロックアイスを持って来た。

 

 ポンプのモーターが唸り、左舷の海中から水ごと秋刀魚を吸い上げ始める。半透明のポンプの中を無数の魚影が流れていき、出口が突っ込まれた船倉の中へどんどんと秋刀魚が流し込まれる。曙は一緒にロックアイスを投入していった。

 

 豪快と言えば豪快。雑と言えば雑。

 

 魚は釣竿と糸と針を使い、水辺で何時間も掛けて捕獲するものだと思っていたレミリアからすれば、こうした漁は迫力あると感心もするし、情緒がないと白けたりもする。何と言っていいかよく分からない。

 

 小さな漁船の小さな船倉はいくらもしない内に一杯になってしまう。それでもまだ網の中には秋刀魚が大量に残っていたし、漣が別の船倉を開けたがそこもすぐ満杯になった。

 

 この漁場にはライバルが居ない。民間の漁師たちは陸から離れたこの場所まで来ないし、魚群を根こそぎさらって行く人間という天敵から解放された秋刀魚たちは繁殖極まって無尽蔵に泳ぎ回っている様子だった。

 

 この小さな漁船が沈みそうなくらい秋刀魚を抱え込んだところで、どうということもないのだろう。

 

 海は広大で偉大だ。その懐深さにレミリアは心底感服した。

 

 人々がいくら漁船を一杯にしたところで、海には何らの影響もなく、むしろ持って行けと言わんばかりに魚を与えてくれる。人里の人間が山でちまちま取った山菜をカゴ一杯にするのとは訳が違う。きっと、あの「硫黄島」の広い格納庫に満杯に魚を詰め込んだとしても、海は何も変わらない。捉えきれない魚が生きている。

 

 ポンプで魚を吸うのが豪快? あんなもの、別にどうということはないのだ。それくらいしなければ、お役は務まらないというわけだ。

 

 

 母なる海。無数の命を抱えて、無数の命を生かす。

 

 吃水の上がった船上から、漆黒の海面を眺め下ろし、レミリアはつくづくそう思うのだった。

 

 

 




長いので分割します。

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