「そのファイルはその棚の下から二段目の一番右に入れて。そっちは、別だから机の上でいいわ。ああ、そこそこ」
加賀は赤城に指示された通り、手に持っていたB5サイズの青いバインダーファイルを棚に突っ込み、別のファイルを赤城の事務机の上に置いた。その間も赤城は手を止めることなく、二台のパソコン――自分の物と提督の物――を叩き、カタカタと何やら書類作成に勤しんでいるようである。
「赤城さん、先月分の制服の申請控えは?」
「そっちの棚の一番上の段よ。八月分まで入っているのでその隣に」
赤城の指さす書類棚の一番上に、丁寧にラベルの張られたファイルが並べられており、加賀は少し背伸びをして「制服申請八月分」のファイルの隣に九月分を差し入れる。
現在、一航戦の二人はマンハッタンのようにファイルが積み重なった塔が林立する秘書室に居た。赤城はそこで事務仕事をこなさなければならず、一方の加賀はそんな赤城の状態を鑑みて自ら仕事の手伝いを名乗り上げたのである。
と言っても、秘書艦の仕事のほとんどは秘書艦にしか出来ない。能力の問題と言うより、組織管理上の権限の問題であった。端的に言えば、秘書艦の仕事を秘書艦以外の艦娘が行うことは軍規に反するのである。
そこで加賀は、秘書艦以外が出来る仕事、例えば散らかった部屋の片づけを始めたのである。どこに何を仕舞うかは赤城の指示に従わなければならないわけだが、現状それは赤城にとって大いに助けになっているようであった。
不意に電話が鳴る。ワンコール後、加賀が電話を取った。「はい、秘書室です」
相手は港務部だった。出たのが赤城ではないと分かったのだろう、「赤城さんはいらっしゃいますか」と尋ねる。
加賀は忙しそうな赤城をちらりと窺って、「今席を外されています。代わりに承りますが?」
相手は伝言をと言ってから要件を加賀に伝える。その内容が加賀にも解かる簡単なことなので、赤城の代わりに加賀は対応した。港務部の女性事務員はそれで事が済んだらしく、礼を言って電話を切った。
「……いちいち、この程度のことを赤城さんに聞いてどうするの」
受話器を置いてから加賀は吐き捨てるように呟いた。別段赤城に向けた言葉というわけではなかったが、秘書艦は苦笑を浮かべる。
「それだけ、皆さんに頼りにされているということだから」
「頼りにされ過ぎよ。何でも赤城さんに聞けばいいと思ってる。答える方の手間を知らないで」
「そうね。ところで加賀さん、一段落しましたし、そろそろ休憩でもしませんか?」
言いつつ、赤城は立ち上がる。「そうね」と加賀も同意した。
午後一から始まった部屋の片づけは、二時間経ってようやく終わりの兆しが見えて来ていた。林立していたファイルの塔はすっかり姿を消し、残すところは赤城の机周りだけとなっている。それも、元より几帳面な部屋の主がある程度整理していたので、ほんの三十分もすれば綺麗になるだろう。
赤城は自分の席の後ろ、背の低い棚の上に置かれている電気ケトルとインスタントのコーヒースティックを手に取った。紙コップとホルダーを二つずつ取り出し、スティックの粉末を入れてお湯を注ぐ。
加賀は赤城の隣の空き机(提督のパソコンや資料を置く補助の作業台として備品庫から持って来た物らしい)に腰掛けながら紙コップホルダーを受け取った。口を付けると、砂糖を溶かし過ぎた甘ったるく熱い液体が喉を流れ落ちる。
「だいぶ片づいたわね」
すっきりとした部屋を見ながら赤城は呟いた。
「ええ。これで仕事もしやすくなるでしょう」
「そうね。助かります。お陰で今日までに終わらせたかった仕事も全部出来そうだし、明日からは多分海に出れるわ。久しぶりに皆で航行訓練しましょう」
「楽しみね。やっぱり、赤城さんがいないと締まらないから」
「私がいなくてもちゃんと締めないと」
言いつつ、赤城は心なしか楽しそうである。誰が見てもワーカーホリック気味な彼女であるけれど、本来的には書類仕事より海に出ることのほうが嬉しいのだ。昔から変わらない赤城を見ていると加賀の心も落ち着いた。
日々殺人的な量の仕事をこなしている赤城だが、加賀や金剛、加藤幕僚長らの手伝いもあり、こうして海上訓練の余裕を持つまでに仕事を減らすことに成功した。本来彼女のやる必要のないことまで赤城はしているが、文句を言ったのは最初だけで後は黙々とやり遂げてしまう。それは純粋にすごいことであると、加賀は賢明な赤城に心中で称賛を贈っていた。
「ところで赤城さん。提督はどちらに?」
実は先程から気になっていたのだが、この秘書室の隣、司令室からは物音が一切せず、人の気配も感じられなかったのだ。加賀は提督はどこかに出かけているのだろうと当たりを付けていたが、果たして赤城の返答は予想通りであった。
「工廠。お昼から新しい機械の導入について工廠長からプレゼンを受けてらっしゃるわ」
「赤城さんはいいの?」
「決裁しましたから」
赤城はそう言ってにっこりと笑った。
ああ、なるほど。加賀は得心する。そう言えば、この鎮守府の実権はほぼすべて目の前の彼女が握っているのだった。
本来鎮守府司令官たるレミリアが持つ最高決定権は、彼女自身が半ばその権限を放棄したことで赤城に移っている。提督の決裁すなわち赤城の決裁であり、あの加藤幕僚長ですら今では赤城に稟議を提出するのだという。初めこそ提督の仕事まで押しつけられて嘆いていた赤城だが、期せずして手に入ったその権力を、いつの間にか存分に振るっているようである。
「何か提督に用事があったのかしら?」
「いえ……」
「いつもこんな感じよ。居ても、居なくても、ずっと静かだわ」
赤城は音を立てることなくコーヒーを啜った。猫舌気味な彼女は、熱い飲み物をすぐに飲まず、ある程度冷めたと思ったところで舌を火傷しないように少しずつ啜る癖があった。いつもはしっかり者のくせに、時折こうして幼さを感じさせる仕草を見せる時の赤城が、加賀はたまらなく好きだった。
「もうすぐ南方への遠征があるみたいだけど、その間どうするの?」
あんまり赤城を注視していて気付かれても恥ずかしい。彼女は加賀を拒絶したりはしないだろうが、“その気”のある人だと思われるのは不本意だった。だから、加賀としてはあまり重視していない事務的な事柄について尋ねて紛らわせようとした。
何も疑問を持たない赤城は紙コップから一度口を離して答える。
「あんまり考えてないけど、基本的にはルーチンを回す感じかな。提督やあの子たちが居なくても、仕事が減ることはないしね。ただ、七駆には負担が掛かっちゃうかも」
「いつも通りって言うことかしら。提督が居なくて赤城さんも大変じゃない?」
「私が? 冗談。いつもと変わりないわよ。あの人、何にもしないんだから」
と、赤城は楽しそうに笑った。言葉にこそ棘が多少含まれていたけれど、口ぶりは至って軽やかで多分に愉快さを含んでいる。なるほど、赤城は随分レミリアと仲良くなったようだと加賀は得心した。
初期の頃と比べ、赤城はレミリアに対してだいぶ肯定的な目を向けるようになっていた。膨張した仕事量に比例して、赤城の持つ権力も増大しており、それが彼女自身にとってもメリットになったからということもあるだろう。以前から鎮守府のいろいろな問題を認識し、それらを解決していきたいと思いつつも、秘書艦という立場上なかなか出来なかったこともあり、実質的な提督代理として手に入れた力を使えるようになったことは、赤城に自由な「改革」を可能にしたのである。
ただ、それ以上に赤城自身のレミリアに対する感情の変化というのが大きい。
初めは印象が悪く、赤城もレミリアのことを好いてはいなかったようだが、あの演習の時以来彼女を指揮官として信用し、随分と協力的になっていた。もちろん、その後も色々とあって二人の間に徐々に信頼関係というものが形成されていったのだろう。金剛は「現金なヤツ」となじっていたが、加賀としては秘書艦である赤城が提督と仲良くやれるようになったのは好ましいことだと歓迎している。
「でもね、よく見てらっしゃるのよ。私たちのこと」
赤城は続けた。加賀にとっても思いの外、良い評価である。
正直なところを言えば、驚いたとまでは行かないまでも、意外さに心に小波が立った。何故なら、それは加賀がレミリアに対して下している評価とそう変わりがないからだ。確かにレミリアは頻繁に鎮守府の中を出歩き、そこに居る人間や艦娘、妖精をよく観察している。
「随分と、持ち上げるのね」
「ええ。この間も、遠征班のメンバー決めで揉めたでしょう?」
何のことか、それは記憶に新しい出来事で、今度の南方への遠征メンバーを決める際に一悶着あったのだ。加賀もその騒動に参加して、レミリアに反対の意を表示する側だった。加賀に限らずほとんどの鎮守府の艦娘がレミリアのメンバー決めに反対したのだが、元よりそれを素直に聞き入れるような性格をしていない提督は、強引に遠征メンバーを確定させてしまった。お陰で、未だにへそを曲げている者がちらほらと居る。
「あれも何かお考えがあってのことよ。強引で頑固なところのある人だけど、間違いはしない、と思う」
「……そうね」
思い浮かんだのは狭い士官室の中で赤城を撫でる少女提督の姿。
あの時彼女は何を思い、何を考えながら赤城を見下ろしていたのだろう。撫でる手付きは子を愛する母のように優しく、瞳には慈愛が溢れていた。見た目は年端もいかない幼い姿なのに、どうしてかそこに溢れんばかりの母性を見出してしまった。
あれ以来、加賀は変に色眼鏡を掛けてレミリアを見るようになってしまった。悪い意味ではないが、思考にバイアスが掛かり、一つの疑問が心を離れないでいる。レミリアを見る時、常にその疑問が頭に浮かぶ。
どうして彼女はあれほどまで慈悲深い眼で赤城を見下ろしていたのだろうか。
それは赤城にだけ向けられていたもの? いや、きっと彼女はもっと懐が大きい。だから、遠征メンバーをあの四人にしたのだ。レミリアはとても困難なことを成し遂げようとしていて、そのために必要な人材を選出したに過ぎない。きっと誰も聞いたことのないことをやろうとしている。彼女の持つ慈悲の心が大きいゆえに。
それら全ては加賀の想像の産物。根拠はなく、事実ではない。
だが、加賀には見えたのだ。この遠征の先、“彼女たち”が笑う未来が。まるで運命が目の前に明示されたように、ふと一つの映像が脳裏をよぎった。
「信じたいと思うわ。提督は、とてもとても優しい方だから」
「あら? 加賀さんも随分と提督にぞっこんね」
赤城はいたずらっぽく笑う。冗談のようなことを言うその笑顔に、かすかに彼女の抱く甘えを見出す。そんなところを見せてくれるのは、ここに居るのが加賀だからに他ならない。そういうところも加賀はとても好意的に見ていた。
****
片付けが終わると加賀は秘書室から出て行った。そもそも片付けを手伝いに来てもらっただけなので、どの道それ以上この部屋に留める理由もなかった。「少し弓をいじりたいから」とか言っていた気がするが、その時赤城はキーボードを叩くのに熱中していてあまり聞いておらず、生返事をしたように思う。
結局、仕事は思った以上にはかどった。余計な片付けのことを考えずに済んだというのもあるが、何より必要なものを不要なものの山の中から探す手間がなくなったことが一番大きいだろう。整理整頓がいかに仕事の効率を上昇させるか、赤城は改めて確認するのだった。
加賀が手伝いを申し出てくれたことに心底感謝する。彼女がいなかったら仕事が終わらなかっただろう。部屋がすっきりしたのに伴ない、心なしか気分も晴れやかだった。
時刻は六時を回ったところ。あと一時間もしない内に夕食の時間となる。海上で訓練に勤しんでいた艦娘たちも上陸して、今頃は艤装の片づけとシャワーをしているところだろうか。
何をするにも中途半端な時間だった。
やるべきことはすべて終わってしまっているし、片付けも済んでいる。何か新しく始めようと思っても、頭に浮かぶのは時間の掛かりそうなことばかりだった。
よし。今日の仕事は終わりにしよう。
いつも頑張っているんだから、と勝手な言い訳を作り出す。赤城は公人の身分だからきちんと職務に励まなければいけないが、ちょっとくらいなら許されるだろう。許されてもいいだろう。
空き時間に暇潰しくらい誰だってするもんじゃない。ともう一つ言い訳を立てて赤城はパソコンの画面で開きっ放しになっているWordやExcel、ファイルを次々と閉じて行く。そして、デスクトップ画面に戻すと、インターネットのアイコンを開いた。
ザ・ネットサーフィンである。
普通、艦娘がインターネットにアクセス出来る環境というのは、鎮守府の外部に行かないとないのだが秘書艦は別だった。いわゆる秘書艦特権というやつで、パソコンを貸与されている赤城はいつでも自由にネットに入ることが出来た。
他の鎮守府にはその特権を利用して、仕事中に頻繁にネットサーフィンを繰り返しているというけしからん艦娘もいるらしい。赤城がするのはこれが初めてだが、自分が言えたことじゃないなと思う。
もちろん、規則には触れる行為だ。しかし、悪いことをしているという自覚を持ちつつ、わくわくとした感情が抑えられない。
「2ちゃんねる」という掲示板を見てみましょうか。それとも「まとめサイト」? 「ニコニコ動画」や「YouTube」もいいですね。
一時間に満たない間で、何を見ようか一瞬悩み、それから「2ちゃんねる」にした。ネットの掲示板といえばこれである。
トップページを開くと、カテゴリーの一覧がずらりと並んでいる。その一番上に来ているのが「地震」なのだから、この国の国土事情というものを端的に表していることだ。
ページをスクロールしていくと、実にさまざまなカテゴリーがあった。政治経済軍事社会といった堅めの内容のものもあれば、生活や趣味など、身近な話題をカテゴライズしたものもある。さすが最大の掲示板。その規模は質量共に圧倒的だ。
その中で、赤城の目を引く項目があった。「艦娘」である。
クリックしようか迷う。そこに書いてあるのは、一般庶民から見た艦娘の姿。一部、ネットばかりしているという秘書艦も書き込みをしているかもしれないが、大多数はそうだ。
自分たちが人々からどう思われているのか。それが気にならないと言えば嘘になるが、しかし「もし悪いことばかり書かれていたら」「誹謗中傷されていたら」という不安もあって見るのが怖い。
赤城はしばらく逡巡する。所在なさげな右手がマウスをいじっていると、画面の中で矢印がふらふらと揺れる。
十秒ほど考え込んで、結局見ないことに決めた。興味より不安が勝った。
けれど、だからと言って他に見たいものがあるわけでもない。便所の落書きと揶揄されるだけあって、ここに書いてあることを見ても大して知見が増えるわけでもないし、正真正銘時間を無駄に潰すためにあるようなものだ。
選択肢が多すぎるというのもそれはそれで不便であるらしい。いろいろと目移りしてしまった結果、最終的に「世相を知ろう」と思ってニュース板を開いた。
ズラリと並ぶスレッドタイトル。まず思ったのは、字が細かくて見辛いこと。
目を細め、画面に顔を近付けて丹念にタイトルを追っていく。
どれも最近の出来事を話題にしたスレッドだ。大多数が政治経済社会のトピックだが、中にはニュースと呼べるのか疑問符が付くようなものもある。「マ○コ・デラックスVS戦艦長門」というタイトルには声を出して笑ってしまった。
画面をさらに下にスクロールしていく。延々と青い文字が続いているが、その中で強烈に赤城の目を引くスレッドがあった。
「守矢神社再建![無断転載禁止]ⓒ2ch.net(108)」
まさか、と思った。
あり得ないと、思いたかった。
震える手でマウスを動かし、スレッドタイトルをクリックする。
内容は、大きく関心を引くようなものではない。タイトルの通りで、ある神社が再建されていたというものだ。元のニュースも、全国的な取り扱いではなく、地場の新聞紙のホームページから引っ張ってきたもの。言うなれば地方の小さな扱いのニュースでしかなかった。
ある内陸の県で、数年前に火災で全焼してしまい、それから長らく仮設の社殿だった神社が、ようやく最近になって再建されたという話。
火災のニュース自体は当時それなりに話題になったようで、レスを見ても覚えのある人はそこそこいるようだ。
――あの神社、まだ再建されてなかったのか。
――なんか警察関係とかでいろいろもめてたらしい。
――なんで警察?
――火事になった時、神主の娘が行方不明になったんだよ。死体も見つかんなかったし、その子が放火したとか言われてた。
――マジか。
――この間この神社に肝試し行ったら女の悲鳴が聞こえたわ。
――そういう話はオカ板へどうぞ。
――ってかその子どこ行ったんだよ。
――まだ見つかってなかった希ガス。
――守矢神社でググれば火事のことはすぐ分かるはず。
じわりと、背筋を冷たいものが流れていった。
何か、知ってはいけないことを知ってしまったような。言い知れぬ不安感が赤城を襲う。
これ以上は探ってはだめだ。
頭の中で警報が鳴り響く。しかし、手は意志に反するかのように動き、気付けば「守矢神社 火事」と検索していた。
真っ先に出て来たのは有名なオンライン百科事典。ページを開くと、そこそこの分量で守矢神社のことが書かれていた。地元ではそれなりに有名な神社らしく、来歴から祭神、神社の祭などがつらつらと記されている。
ページを下に繰っていく。火事については、書かれていた。
それは確かに三年前にあった出来事のようで、しかしあくまで軽く触れる程度のことしか書かれていない。脚注が付いていたのでクリックするとページが出典元へ飛ぶ。そこから、先程と同じ新聞紙のオンライン記事のページへリンクが繋がった。
幸い、記事はまだ生きていた。
写真付きの記事。その写真には激しく炎上する社殿が写されている。
三年前のある秋の日。深夜に守矢神社の本殿から出火。火は瞬く間に燃え広がり、木造の本殿と拝殿など四棟を全焼させた後、明け方にようやく鎮火された。この火災で守矢神社は境内の主要な施設がほぼ全滅するという甚大な損害を受けてしばらく封鎖されることになる。
しかし、被害はそれだけではなく、神社の神主の一人娘が火災の後、行方不明となっているのだ。当時中学一年生の少女は、何故か深夜に行方をくらませた。
火の気のない本殿から出火したこととの関連から、当初はこの少女による放火の疑いで警察も捜査していたようだが、放火の痕跡こそ発見できたものの、一向に少女の行方は分からずじまいであった。
その後、神社は最近になって再建されたが、この少女の行方は今現在も分かっていない。
彼女の名前は、「東風谷早苗」といった。
「うそ、でしょ……」
赤城は絶句する。
東風谷という珍しい名字で、しかも同じ名前。年齢も当時十三歳で、もし彼女が今日まで生きているとしたら十五歳か十六歳。ちょうど高校生くらいの年恰好になる。
符合点が、あまりにも多すぎる。唯一違うのは、彼女が語った守矢神社の祭神で、彼女は「八坂加奈子」なる神がいると言っていたが、実際に守矢神社に祭られているのは「タケミナカタノカミ」という神様だ。
けれど、それだけでは否定材料にならない。
あの夢の中で、自分は一体どこに彷徨いこんでしまったのか?
持ち帰ったチラシ。
実在する守矢神社とその焼失。
火災の後行方不明になった少女。
思い浮かぶのは有り得ない仮定。否定材料のないそれは、普通に考えれば笑止千万な荒唐無稽な仮説である。
あの夢の中で、赤城は何を思い出したか。
そう、不思議の国のアリスだ。アリスは河畔の草地で昼寝をしていて、摩訶不思議な地下の世界へと彷徨う込んでしまった。到底夢とは思えないリアリティのある夢。否、アリスは本当に不思議の国を訪れていたのだ。
「赤城さん!」
突然扉がノックされ、名前を呼ばれた。赤城は飛び上がって、その拍子に椅子がはねて音を立てる。
「赤城さん?」
「は、はい」
再度の呼び掛けに、赤城は動揺しつつ応答した。声は裏返っていた。
「失礼しますよ」
扉が開いて、ひょっこり顔を見せたのは潮である。トレードマークの、頭頂部付近から寝癖のように立った一房の髪がふわふわと跳ねた。
「あの、もう夕食の時間です」
「え?」
赤城はパソコンの時計に目を移す。時刻は七時を十分も過ぎていた。
もうそんなに時間が経っていたのか。
「あ……。ご、ごめんなさい。すぐに行くから、先に食べててね」
取り繕うような愛想笑いを張り付け、赤城は動揺を悟られまいと潮を追い払うように言った。心配顔の潮は「分かりました」と返して下がる。聞き分けのいい子で良かった。これが、加賀辺りが直接来ていたらまたややこしいことになっていただろう。
赤城は大急ぎで立ち上げていたネットのページを閉じる。丁寧に履歴まで消去し、私用の痕跡を消す。
今日見たことは何かの間違い……ではない。
何もかも現実なのだ。
不思議の国の夢は、本当は夢ではなかった。
「あそこは……」
東風谷早苗は、自身の神社を紹介する時こう言っていたはずだ。「幻想郷を代表する守矢神社」と。
だが、実際の守矢神社というのは内陸のある県にあった。そこは別の地名で呼ばれている地域だ。
あの夢が現実なら、赤城が迷い込んだ不思議の国の名前は「幻想郷」と呼ばれる場所ということになる。それが不思議の国の名前。そうだ、幻想郷とは、こことは違う世界。燃え上がる炎と共に守矢神社は消滅し、彼の不思議の国へといざなわれた。
そこははたして死後の世界か。異世界か。
「幻想郷……」
赤城は仕事机の一番下にある引き出しを開ける。そこには申請書や稟議書の控えを種類分けしたファイルが何冊も詰まっているのだが、その一番奥に一枚だけ仕事には関係のない紙を挟んでいる。万に一つも同室の加賀に見られぬように寮室には置かず、自らのテリトリーであるこのデスクの中に仕舞い込んでいた。
取り出したのは、少女らしい手書きの勧誘パンフレット、とも言えぬような粗末な紙。それでも一生懸命書いたであろう本人の真剣な顔が浮かぶような力作だった。
夢の中でこれを赤城に渡したのも、「東風谷早苗」という少女だった。