レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督2 Enthronement

 

 

 

 梅雨の晴れ間の七月一日は相も変わらず不快指数マックスの一日だった。冷房のない廊下など、ただ立っているだけで汗ばんできたし、日向のアスファルトは直射日光が強すぎるせいで白っぽく霞んで見える有様である。夏の風物詩である蝉はまだ鳴き始めていないが、梅雨が明ければわらわらと地面から這い出て来て、そこら中に茶色い脱け殻を残して一斉に喧しい音楽祭を開催することだろう。

 

 赤城にとって幸いなのは、狭いながらも一日中クーラーの効いた秘書室にいられることだった。秘書室は六畳ほどの広さしかなく、天井まで届く大きな棚が置かれているせいで圧迫感が尋常ではないし、その上赤城の仕事机があり、床には棚に入りきらないファイルが所狭しと積み重ねられていた。几帳面で普段から机周りの整理整頓を怠らない赤城をもってしても、部屋が足の踏み場もないほど散らかっている。その事実が、彼女が今抱えている仕事の膨大さを如実に物語っており、この部屋の惨状を一目見た者は、赤城が一日中涼しい中で過ごせられることへの妬みを飲み込んでしまうのだった。艦娘の戦場は海の上であるが、赤城に限ってはこの部屋がまさにそれである。

 

 だが、この殺人的な仕事量からの解放も既にカウントダウンに入っている。今日、待ちに待った新しい提督がこの鎮守府にやって来るのだ。外国人女性らしいということで一抹の不安がないわけではないが、赤城や金剛がサポートすれば言葉の壁を乗り越えて上手くいくことも不可能ではない。そうすれば、今赤城が抱えている司令長官の業務を手放すことが出来、空いた時間を本来の、つまり海上での「職務」に費やせるのだ。赤城も艦娘である以上、一日部屋に籠って仕事をしているより、海に出て戦いたいのである。

 

 ところで、提督が来る時間は事前に知らされていなかった。当人の予定が流動的なので予めには分からないということだそうだ。今日来るのは間違いないはず。出迎えるためにいつもより早起きし、いつもより化粧に気合を入れ、いつもより多めに朝食を摂って待ち構えていたのだが、遂に時計の針が午後の時間帯を指しても提督は現れる気配すらなかった。

 

 いつでも出迎えられるよう、普段は海で訓練に勤しんでいる加賀と金剛を陸に揚げて待機させているのだが、別室にいる彼女たちもいよいよ我慢しきれなくなっているだろう。とにかく、いつ来るのか聞いておかなければならない。

 

 ということで、赤城は人事局の内線を叩いた。

 

 出た相手は「確認して折り返し致します」と答えたっきり、一時間を経過しても解答を寄こさなかった。赤城はもう一度内線を叩く。

 

「二十一時到着予定とのことです」

 

 ようやく得られた回答に、赤城は思わず溜息を吐いてしまった。

 

 夜に来るならそうと言ってほしい。朝から気合を入れて空回りしていたのは何だったのか。待機させていた加賀と金剛の時間も無駄にさせてしまった。

 

 文句を言われるなと思いつつ金剛たちに知らせると、案の定非難ごうごうである。彼女たちに自由時間を与えて、赤城は秘書室で仕事に没頭し始めた。

 

 

 

 

****

 

 

 

 夕食の後、赤城は急いで身を清め、礼服を身に纏い改まった格好で鎮守府第一庁舎の玄関に立った。後から同じように礼服を着た加賀と金剛が続き、鎮守府の職員代表として加藤幕僚長も現れた。

 

 四十代半ばの加藤幕僚長は大きな体躯を持つ精悍な顔立ちの軍人である。赤城たち艦娘と並ぶと頭一つ高い。

 

 彼の階級は少将。幕僚長とは鎮守府司令長官を軍務・軍令両方の面で補佐する役職である。その役割は秘書艦と被るところも多いが、厳密にいえば秘書艦が幕僚長の職務を一部代行しているのである。

 

 現在の海軍は艦娘による戦力が主体である。兵器であると同時に兵士である彼女たちは“物”としてではなく“人”として管理・監督しなければならないが、ただの人間である幕僚長にそれが十全に行えると言えば、必ずしもそうではない。最近でこそ女性提督・女性幕僚長というのもちらほら見るようになってきたが、かつて軍は完全な男社会であり、そこに強い少女性を持った艦娘が加わったのだから、昔の軍人たちは艦娘の“世話”に大変手を焼いたと聞く。

 

 そうした教訓から艦娘の管理をする役職として「艦娘幕僚」――通称“秘書艦”という職が置かれるようになったのだ。要は、艦娘のことは艦娘に任せようというもので、上官たる司令長官や幕僚長は秘書艦一人を管理することにより、間接的に全艦娘を管理出来るようになる。故に、ある意味では加藤は赤城の直属の上司である。当然、提督不在の間は赤城以上に多忙な人である。ちなみに、彼にはアメリカへの赴任経験があり、英語もそこそこ話せる。

 

 もし提督がやって来て、英語で会話が進むとなると、この場で言葉が分からないのは加賀だけ。彼女が置いてけぼりにされて拗ねるのは目に見えているので、赤城は初っ端から金剛に通訳を頼んでいた。

 

「時間が、遅いね」

 

 頭上から声が降って来て、赤城は少し顎を上げた。見上げる加藤の顔は、あまり機嫌がよさそうではない。潮焼けした浅黒い顔の陰影が濃くなっている。

 

 何年か前、とある風呂をテーマにした漫画の実写映画で主演を務めた俳優に似ていると評判の彼は、鎮守府の艦娘たちからの人気も高い。それどころか他の鎮守府でも噂になっているようだ。確かに顔立ちは日本人にしては彫が深く男前であるし、落ち着きがあり渋さのある声は確かに魅力的だ。ただ彼も人の子であり、機嫌が悪くなるとなかなか直らないという厄介なところがあった。

 

「海外の方ですから、慣習などが日本と違うのでしょう」

 

「そうかな?」

 

 加藤が不機嫌そうにそう呟いた時、鎮守府の正門を一台の黒いクラウン・マジェスタが静かに潜った。

 

 来た。

 

 クラウンは前庭を回り、赤城たちの待ち構える庁舎の玄関に静かに横付けする。自然、体に力が入る。

 

 前部座席には二人。助手席から男が一人降りて来た。後部座席はウィンドウにスモークが貼られていて中の様子を窺えない。赤城たちは敬礼をしたまま、提督が降りるのを待った。

 

 助手席の男が後部ドアを開ける。辺りは不気味なほど静まり返っていた。人々が寝入る時間帯であるということを考慮しても尚、静か過ぎるほどだった。

 

 

 

 

 ゆっくりと、中の人物が姿を見せる。

 

 最初に目に入ったのは、妙に小さな黒い革靴だった。

 

 コツと、小さな音がして足が地面に立つ。

 

 白い礼服も小さかった。視線を足元から脛、膝、腿と辿らせていくと、意外なほど低い位置に腰がある。さらにそこから上には華奢な上体が伸びていて、頭は後部ドアのウィンドウくらいの高さしかない。

 

 子供だ。子供がいる。

 

 赤城は目を剥いた。そこにいるのは、まごうことなき幼い少女である。

 

 真っ白な礼服に、それよりもさらに白く透き通るような肌。背筋が凍るほど整った顔には大きな目がはめ込まれていて、眠たげな瞼から生えた長い睫毛が瞬きの度に揺れる。瞳は宝玉のように透明な真紅で、目を合わせたら吸い込まれてしまいそうなほどの深さがあった。

 

 そこに現れたのは、ハッと目を引くほど美しい少女。

 

 年は、小学校高学年くらい。十代前半だろう。整った顔に気の強さが見て取れたが、彼女が持つ独特の雰囲気を表す言葉は思い付かなかった。

 

 それでも敢えて言葉にするなら、「気高さ」だろうか。それも、単に気高いものではない。同時に身の凍えるような冷たさを伴った、さながら繊細な氷の彫刻の如き気高さである。彼女の傍に立っているだけで鳥肌が立つようだった。否、今の赤城の全身に鳥肌が立っていた。痺れるような感覚が皮膚の上を這い回り、赤城は小さく身震いする。

 

 しばし、赤城たちは言葉を失い立ちつくしていた。現れた彼女の容姿に衝撃を受けたこともそうだが、何より彼女の纏う独特の雰囲気にあてられてしまったのだ。

 

 本能的に悟る。

 

 彼女は、人の上にしか立たない者だ。生まれる前から支配者であることを決められていたような存在だ。彼女以外の全てが彼女の足元に跪き、頭を垂れ、忠誠と服従を誓うのだ。

 

 

 ゾッとした。

 

 

 悪寒とも歓喜ともいえぬ感覚が背筋を走り抜ける。それはオーガズムに達した時に近いものだった。体の奥底が疼き、精神は異様な興奮・高揚をしていた。

 

 赤城は今の自分を支配するこの感情に説明を付けられず、ただただひたすら体が勝手に動き出さないよう敬礼したままの姿勢を堅持した。

 

 

 

「お早う……いえ、こんばんは」

 

 その声は見た目に違わず舌足らずであるが、丁寧な発音に高貴さが感じ取れた。赤城たちはもう一度驚いた。彼女が流暢な日本語を話したことに。

 

「貴女たちが今度から私の部下になるのね?」

 

 柔らかく、険しく、温かく、冷たく。その声は相反する複数の色合いを含んでいる。彼女がどういう感情を持つのか。いやそもそも感情というものがあるのか。まったく読めない。

 

 彼女は人間だろうか。あまりにも神秘的で妖艶でそして怜悧な気配に、赤城には目の前の少女が人の姿をした人ならざる者であるかのように思えた。

 

「さあ、私を愉しませてちょうだい。貴女たちも私を忘れられなくしてあげるから」

 

 彼女は、柔らかく微笑んだ。天使のような、それでいてどこか不安にさせるような微笑みだった。彼女の声に心臓が反応し、激しく鐘を打つように四回も動悸する。

 

 血の色が映っているような紅い瞳が赤城を見据える。透き通るような眼に、己の全てを見透かされたような気がして、赤城は眩暈を覚えた。

 

 

 

 

 ああ、彼女に溺れてしまいそうだ。

 

 

 海に立っても沈まぬ艦娘が、たった一人の少女に沈没の危惧を抱いた。

 

 それが、レミリア・スカーレットという少女との邂逅であった。

 

 

 

 


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