レミリア提督   作:さいふぁ

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(゚Д゚)ホワァ!!





















レミリア提督20 No Life Queen

 

 深夜の海は墨のように真っ黒で、目に見えないうねりが川内たちの身体を上下左右に揺らしている。波と波の間を切り裂くように進む内に、川内の身体は持ち上げられ、引き下ろされ、右へ左へ振られて、「波が荒くて走り辛いなあ」という感想は心の内から消えないままになっていた。

 先程までは、海は穏やかで実に走りやすかったが、いつの間にやら風が出て来て、波が荒れ始めている。そのくせ、夜空には雲一つ浮かんでおらず、星は瞬きながら海上へ自らの光を落していた。川内は己の目が“特殊”であることをよく分かっている。星と月の明かりだけで夜闇も昼間のように見通せてしまうのだから。

 五年ぶりの夜間航行。戻って来てみると、夜の海が自分の生きる場所だと再確認出来た。体の調子は絶好調で、気分は清々しい。やはり、自分は夜の生き物だとつくづく思う。

 先程の夜戦は、さまざまな事情があって不完全燃焼のまま終わってしまった。もちろん、ただ戦うために来たのではないが、それでも夜戦が出来るとなると胸が弾む。願わくば、このまま目的も達成出来ればいい。

 

 逃げた萩風と嵐を追う三人は川内を先頭に、舞風、野分と単縦陣に並んで南へと進んでいた。

 眼前には黒々とした火山が海面からそびえ立ち、その後ろに煌めく星が天幕に飾られている。下半分の月は赤よりも赤く、禍々しい光彩を放っていて、川内はまるで常世の国に彷徨いこんだような錯覚をした。長かった今日一日の間に合った様々な出来事がそう思わせているのかもしれない。

 何もかもが現実離れしていて、川内が今まで生きてきた世界を根底から覆してしまったような気がした。

 

「針路を方位150に変更。そのまま島を回り込んで」

 

 心中にいろいろな思いの渦巻いている川内とは対照的に、レミリアの声はひどく平坦だった。感情の読み取れない、抑揚のない淡々とした口調。

 それが、妙に緊張を煽る。気のせいだろうか。

 

「了解しました」

 

 すかさず野分が応答する。声の響きはいささか冷たく、レミリアに負けず劣らず素っ気ないように聞こえたが、彼女と彼女の相棒とは数年来の付き合いである川内には、それが野分が冷淡というわけではなく、ただ単に緊張のあまり余裕がないだけというのはよく分かっていた。普段は冷静な彼女も、今この状況においては酷く精神を強張らせているのだろう。それは致し方のないことであるし、むしろこの状況で緊張せぬ者といえば、それこそ常人離れした余程の胆力の持ち主の他におるまい。しかも、彼女でさえこうなのだから、もう一人の心中はどれほど荒れているのだろうか。

 舞風は先程から押し黙ったままだ。何を思っているのか、それを知りたくて川内は話し掛けた。

 

「舞風、大丈夫?」

「……大丈夫です」

 

 返って来たのは、まったく信頼出来ない「大丈夫」だった。

 

「大丈夫そうな声じゃないよ。怖いの?」

「怖くないです。ただ、あの二人がホントに戻って来れるかなって思っちゃって。矢矧さんや江風さんをあんな風に攻撃したし、時間も五年経ってるし」

 

 少し語気を強めて早口で捲し立てた舞風の言葉には、風に崩されようとしているガラス細工みたく繊細で脆い響きが含まれていた。ほんの少し何かが噛み合わなかっただけで、彼女は簡単に絶望してしまいそうな恐ろしさがある。

 怖くないと本人は言ったが、それは精一杯の強がりだろう。本当は、強い恐怖に苛まれているはずだ。

 

“舞風を振るい立たせるには、貴女の強い言葉が必要よ”

 

 レミリアは助言する。

 

“貴女は私を信じてくれたけれど、もう一人信じなければならない人物がいる。それは、貴女自身。貴女が自分を信じるからこそ、そこで初めて舞風も野分も、貴女を信じることが出来るようになるの”

“うん”

“さあ、言ってあげて。二人とも貴女の言葉を待っているわ”

 

 レミリアはそっと背中を押してくれる。

 彼女は信頼出来る導き手で、きっと契約がなくても川内はレミリアに頷いていただろう。

 

「舞風、それと野分」

 

「はい」と二人は揃って返事をした。

 

「私を信じなさい。必ず、萩風と嵐を取り戻してみせるから。あの二人はまだちゃんとあんたたちのことを認識しているし、さっきの夜戦でも攻撃しなかったでしょ?」

 

 それは、夜戦に参加するまでの間、川内が飛び交う無線を傍聴して分かったことだ。嵐は木曾とやり合っていたが、舞風と野分が攻撃されたような気配はなかった。事実、舞風もそんなことは言っていない。

 

「はい」

 

 果たして野分は頷いた。

 そう、嵐はかつての仲間で、姉妹である二人を攻撃しなかった。その訳は、

 

「攻撃出来なかったんだよ。まだどこかに姉として、妹としての意識が残ってるんだ。だから、姉妹を撃てなかった。なら、チャンスはあるでしょう。私はそれに賭けるためにここに来たんだから」

 

 発した言葉の半分は自分自身に言い聞かせるためのもの。ここまで来て、という思いはある。

 なんだかんだでレミリアに乗せられた気もするが、事実はこうして川内は夜の海に戻って来れているのだ。もちろんトラウマは消えてはいなかったが、行動不能になることはなかった。

 ウェルドックのドアが開き、漆黒の水面を前にした時、少しの記憶の想起はあったが、それ以上に「またここに戻って来れたんだ」という興奮が全身を支配した。レールにセットされ、射出されるまでの僅かな時間すら待ち遠しかった。

 いざ夜の海に飛び出せば、レミリアの言った通りトラウマは問題なく、夜戦の主はまたそこに帰って来た。

 そうして最初の障害を克服したことを確認すれば、後はレミリアに従い、結果に向けて邁進するだけ。最早川内の中では、萩風と嵐は必ず救い出す者と決定されていた。

 

「ですが、一体どうやって?」

 

 一方の野分はまだ不安が抜けきらないようだった。

 それもそのはず、川内は二人を救うための具体的な方法を提示していないのだから。不信感を拭い切れないのも当然の話だろう。

 しかし、それを今見せるわけにはいかなかった。舞風も野分も、まだ“オカルト”の領域に足を踏み入れてはいない。そこへいざなわれてはいない。なら、まだ方法を教えるのは早過ぎる。

 

「後で分かる。今はただ、私を信じてついて来て。あんたたちが信じてくれなきゃ、萩風も嵐も救い出せないんだからね」

 

 言っていて、自分でも無茶苦茶なことだという自覚はあった。問答無用で私を信じろ、と。理由も何もなく、ただただ強引に、一方的に、信頼や信用を強制する。元より、川内が舞風と野分に慕われていなければ成り立たない方法だったが、逆を言えばこんな無茶なことが通用するくらい三人の間には強い信頼関係が出来ていたのである。

 

 初めて出会ったのは五年前。それから今の鎮守府で一緒になったのが二年と半年前のことで、以来川内は頻繁に舞風や野分と行動を共にしてきた。赤城や前提督の部隊運用の都合もあったけれど、多くは川内やあるいは四駆の方から望んで一緒になっていたのである。だから、たった二年半の時間とはいえ、三人の間に出来た信頼関係は何よりも太かったし、お互いがお互いのことをよく理解していて、心は口に出さずとも通い合っていた。

 

「……分かったよ」

 

 先に返事をしたのは舞風だ。川内も先に頷くのは舞風だろうと思っていたから、予想通りだった。

 こういう時、頭でいろいろと考えてしまう野分に比べて、自分の直感に従う舞風の方が決断は早い。往々にして、野分は舞風に引っ張られるように賛同するのだった。

 

「どっち道、もう川内さん信じてついてくしかないんだ。だったら、何も言わない。その代わり、必ずはぎっちとあらっちを助けてあげようよ!」

「……舞風」

「ほら、のわっちも」

 

 舞風が野分に手を差し伸べる。

 いや、実際に舞風が手を差し伸べたわけではない。ただ、そのような言葉を口にしただけ。

 

「うん」

 

 けれど、それは何よりも野分を強く牽引する。彼女は踊り子の言葉に頷き、川内に続くことを決意する。舞風も野分も、川内の言葉に乗ったのだ。二つ目の賭けに、川内は勝利した。

 

「よし。二人ともいい感じだよ」

 

 川内は笑う。

 同時に胸元に手を当て、懐に仕舞っているそれが今もそこにあることを確かめる。これがあるなら、川内はもう最後の賭けに負ける気がしないのだ。

 

 

****

 

 

「スペルカード?」

 

 レミリアの友人だという女が渡してきたのはトランプのような長方形の厚紙で、その表面には川内が見たこともないような文字(あるいは記号)で何かが書かれていた。それを除けば、灰色というか銀色というか何とも言い辛い微妙な色をした、何の変哲もないただの厚紙である。

 それをくるくると回して、川内はしげしげと眺めた。

 

「レミィと貴女がこれから行おうとすることに、そのカードは必要不可欠なの。落さないように大切に仕舞っていてね」

 

 女は事務的な口調でそう告げた。

 

 

 艦室からウェルドックへ急ぐ川内を、自分が急かしたのにレミリアは途中で引き留めた。「会わせたい奴がいるの」と言われて紹介されたのが、従軍記者だと名乗るこの女だった。一応名刺を受取ったが、そこに書かれている有名なマスコミの社名を疑うくらいには胡散臭い女で、レミリアも何が目的で自分に紹介したのだろうかと首を傾げた。

 その狙いがこの厚紙を川内に渡すことなのだとしたら、では一体これは何なのだろうか。

 

 女は“スペルカード”と称される物だと言い、

 

「それは、何もしなければただの厚紙よ。スペルを唱えて掲げることで、初めて効力を持つ呪物」

 

 スペルとは、呪文とは。

 女が語るそれらの意味。それを聞いて、川内はまるで彼女が魔術師か何かのようだと感じた。ならば、彼女がレミリアの友人であるというのも(とんでもなく胡散臭いのも)頷ける話だった。

 いずれにしろ、女もレミリアも、スペルカードなるこの厚紙が目的遂行のためのキーアイテムになるのだと口を揃えた。

 であるなら、川内がそれを拒絶する理由はないし、女に対していろいろと思うことはあるものの、何も口に出さずに持って出て来たのである。

 

“結局、さっきの提督のお友達は、あれなの? 魔法を使えるとか、そういう感じの人?”

“貴女もだいぶ慣れてきたわね。ご名答よ。あれは魔女。見て分かったと思うけど”

“うん。まあ”

“胡散臭いこと極まりないけど、気のいい奴なのよ。ちょっと気難しくて、神経質で、面倒臭い性格で、ねちっこくて、回りくどくて、おまけに人の尊厳なんかなんとも思ってない毒を吐きまくるけど”

 

 出撃してからレミリアに女の正体を尋ねるとこんな答えが返って来た。どうやら女はレミリアにとって気の置けない友人らしく、それからしばらく彼女のことをこきおろしていた。普段そういう言動をしないレミリアだけに、その姿は新鮮に思えた。

 レミリアはその後も「魔女も人間も素直さが一番必要」とか「人の話を聞く時は相手の方を向くとか常識よね」とか、ぶつくさといろいろ呟いていたが、初対面の川内でもあの女がレミリアより一枚も二枚も上手だろうというのは分かった。何をやろうとレミリアが返り討ちにされる未来しか思い浮かばない。普段の頼もしい姿はどこへやら、見た目相応の振る舞いを見せていた。

 

 

 閑話休題。

 魔法のカードは先の夜戦でも落ちずに懐にある。使うタイミングはレミリアが指示すると言うが、効力を発揮させるためのスペルについて川内が教えられていたのは、使う時になれば自然と分かる、という実に曖昧で意味不明なものだった。自然と分かる、というのは一体どういうことなのかという疑問は先程から川内の頭の中を無限軌道で巡り続けているが、答えを魔女にもレミリアにもまだ尋ねていない。

 いやそもそもの話、元からして自分の与り知らぬ理屈の世界でのことだ。聞いて分かるものでもないのかもしれない。

 今はただ、言われた通りに事を進めるだけ。自分に言い聞かせ、頭の中を延々と巡り続ける無為な疑問を切り伏せて、戦闘に思考を集中させる。

 

 川内たちは島の東側を南下していた。どういった方法かは聞いていないが、レミリアは萩風と嵐の居場所を確実に掴んでいるようで、ソーナーのない川内たちはただ彼女の言う通りに足を進めればいい。もっとも、今更レミリアが「こんな魔法で海に潜った相手の居場所を突き止めているのよ」と奇天烈な種明かしをしたところで、川内には絶対に驚かない自信があった。どんなからくりであれ、それはそういうものなんだというある種の達観によって受け入れられることだろう。

 

 

“もうすぐ会敵するわ”

“これ以上、逃げられないよね”

“大丈夫。保障するわ”

 

 レミリアは自信満々だ。

 驚く、驚かないは別として、今後の行動に関わってくるかも知れないのでからくりは一応知っておきたかった。

 

“何か、あるの?”

“結界を張っているのよ”

“結界? 安倍清明みたいな?”

“陰陽道とは違うけれど、イメージでは正しいわ。島の北から東に掛けて、陸地を含めて周辺の海域に円形の結界を張っている。深海棲艦はこの結界の中と外を出入り出来ないようになっているけど、艦娘の貴女たちはもちろん可能よ”

“そんな便利なもんなんだね”

“準備が面倒なんだけれど。で、結界の範囲内に居ることは月を見れば分かるわ”

 

“月?”と川内は空を見上げる。

 

“月が赤く見えるでしょう。それが、結界内に居ることの証拠よ”

 

 どういう原理か不明(不明だからこその魔法なのだろう)だが、それはそういうものらしい。とにかく、月が赤ければ結界の中であり、深海棲艦である萩風と嵐はそう遠くへは逃げられないということだ。

 紅月を目印にすればいい。どの道、決着が着くまで自分たちが結界から外へ出ることはない。

 

“さあ、来るわよ”

 

 レミリアからの再度のテレパシー。川内の思考は中断される。

 島はいよいよ近付いて、真っ黒な影が間近で川内たちの上に覆い被さっていた。

 

 

「舞風、野分」

「はい!」

 

 呼び掛けに舞風が応答する。意味は通じたのだろう。声の響きがかなり硬くなっていた。

 

「もうすぐよ」

「了解……です!」

 

 暗闇の海上にそれらしい姿はない。もしかしたら、まだ潜航したままなのかもしれない。

 だが、こちらにはレミリアが居る。彼女が付いている限り、海中からの奇襲は恐れる必要がない。

 それは実に心強いものだった。夜間において何よりも恐ろしいのは、目に見えぬ、手の届かぬ、海中からの急襲なのだ。その可能性が除去されるだけで、夜戦において艦娘が採れる選択肢は格段に増える。

 

“川内! 正面よ!!”

「艦隊! 逐次回頭。取舵一杯!!」

 

 川内は怒鳴った。身体を左に倒し、白波を切りながら鋭く弧を描く。

 右に流れていく島影。それを背景に、突然海面に大きな水飛沫が立ち上がった。

 

「出たよ!」

 

 海から飛び出してきたのは、萩風と嵐の二人。深海棲艦らしい不気味な姿が弱い月明かりに照らし出された。先程の夜戦での傷はまだ生々しくそのままで、その有様はいっそグロテスクと言ってもいいくらいだ。

 そのまま二人は川内たちを追って来る。追う方と追われる方が逆転し、双方は同航戦の形態で南下をし始める。

 まずいと思った。

 

“川内、もうすぐ結界の外に出るわ。反転して!”

 

 月を見上げる余裕はなかった。萩風の艤装――腰の後ろから伸びる太い右腕に装着された主砲――がパッと光り、主砲を撃って来たのだ。川内を敵と認識したか、あるいは追い詰められていよいよ凶暴性を発揮し出したのか。とっさの判断を迫られた。

 同航戦という形態は交戦時間が長くなりやすい状態。それは夜間と言えど変わりないし、ましてや相手は何隻もの船を沈めてきた二人である。元が艦娘とは言え、現在の行動原理は深海棲艦のそれで、容赦なく攻撃してくるのは火を見るよりも明らかだ。

 主砲の砲撃は牽制と目くらまし。半月と星々の光が海面に描かれた白い筋によって歪に反射され、川内の網膜に飛び込んでくる。

 

「取舵! 十時の方向に艦首向けて!!」

 

 叫ぶや否や川内はもう一度身体を左に倒して、旋回。丁度萩風たちに背を向ける進路を執る。

 背筋を冷たいものが流れ落ち、こめかみから耳の前を、決して運動のために流れ出たのではない汗が伝った。胸が押し潰されそうになる緊張に、呼吸が浅くなり、不規則に短く息を吸っては吐き、ただそれが命中しないことを祈った。

 スクリューが水を掻き分ける不気味な音が間近を通過する。何度戦闘を経験しても、この音にだけは慣れることが出来そうもない。間一髪、魚雷を回避出来たことに安堵する間もなく、川内はもう一度取舵を命じた。

 そう、攻撃は何も魚雷だけではない。同時に周囲にいくつもの水柱が立ち上がり、腹に響く低い轟音が辺りを支配する。

 

「夾叉されています!!」

「構わないで!」

 

 野分の悲鳴を怒声で掻き消し、川内たちは反転。追って来た萩風たちとは擦れ違う。

 慌てて転回する深海棲艦の二人。川内は逃げるように今度は北を向いて走り出した。

 相手の反応は早い。反転して、先程と同じように川内たちを追う形になる。

 

“容赦なく撃って来たね!”

“理性的な行動は期待しない方がいいわ。こちらに舞風や野分が居ると言っても、恐らく躊躇はしないでしょう”

 

 歯ぎしりする川内に、レミリアは相変わらず落ち着いた返しをする。

 

“で、どうすればいい?”

“何とか二人を島の方へ誘導してみて”

“また難しい注文だねぇ!!”

 

 川内の脳は焼き切れるほどの高速回転していた。レミリアの要求に応えるためにどうするべきか、必死で知恵を絞る。

 だが、状況は悠長に思考する暇など与えはしない。再び、背後で砲音が轟いた。

 頭は瞬時に切り替わる。思考を中断し、目の前の状況への対処を優先。

 

 一秒。

 複数の飛翔音が重なり、彼我の間に壁のような水柱が出来る。照準が外れたのか、今度は近弾だ。

 

「雷跡に注意!」

 

 言いながら、川内は心の中でカウントする。

 

 二秒、三秒……。

 

 昼戦の時に確認したことだが、駆逐水鬼「萩風」「嵐」の主砲の発射間隔は最短で七秒だ。艦娘の艤装と同じく、揚弾装置の都合で最低でもそれくらいの時間が掛かるらしい。

 四秒、五秒と数えた時、不意に川内の周囲の海面が大きく隆起する。

 

「ッ!!」

 

 パッと見る限りは小口径砲の威力だが、意識の外からの砲撃だった。遠弾。着弾位置が離れているため当たることはないが、背筋は冷えた。

 

“ああ、そうか。陸地にも揚がっていたわね”

“提督! まさか!!”

 

 結界は、深海棲艦の動きを封じる。張られた時にその範囲内に居た深海棲艦は結界が解除されるまで外には出られないし、他の深海棲艦も結界の中には入れない。だが、何も元から結界に閉じ込められていた深海棲艦は萩風と嵐の二人だけではなかったのだ。

 

 島を見る。熱帯雨林の影と重なって非常に分かり辛いが、そこに何か蠢くものが複数いた。植物とは違う形。明らかに風に揺らされる枝葉の動きではない。そもそも、今は木を大きく揺らすほど強い風など吹いていない。

 

“余計な敵を排除なさい”

“クソッ!!”

「川内さん! 敵の増援ですッ!!」

 

 野分が絶叫する。

 即座に返した川内の応答も同じような叫びになった。

 

「島に上陸していた奴らが戻って来た! 降りかかる火の粉を払うよ! 左砲戦!! 目標、陸上の敵深海棲艦‼」

「了解! 舞風、交戦開始!」

「野分、交戦します!! タリホーッ!!」

「主砲斉射! 撃ち方始めェ!!」

 

 鼓膜を破るような爆音と共に、一瞬川内の視界が明るく輝く。タイミングを合わせて発射された14cm砲と12cm砲が眩しい発射炎を噴き出した。

 

「面舵!! 撃って来るよ!」

 

 進路を右へ。川内は目まぐるしく指示を出す。

 

 先程の射撃で、敵にこちらの位置を晒してしまっているのだ。直ぐに進路を変更して飛んで来る砲弾を避けなければならない。

 島の沿岸部で不規則な炎が光る。第一斉射の砲撃が着弾したようだった。同時に不気味な飛翔音が鳴り響いて、左舷側の海に水柱を林立させ、予想通り攻撃が到達する。着弾の位置も思った通りで、発射炎が見えたところに正直に撃ち込んだのだろう。どうやら萩風と嵐は、変な話だが、教科書通りに攻撃して来ているようだった。

 やはり彼女たちの錬度は低い。低いままに深海棲艦になり、そして今日までほとんどそれが変わらなかったのかもしれない。この五年で、トップレベルの駆逐艦にまで成長した舞風と野分とは対照的だ。

 楽な相手、とは思えない。状況が状況だ。追撃して来る二人だけではなく、陸地からの敵も捌かなければならない。先程の第一斉射では仕留め切れなかった島の敵が、また撃って来たのだろう。黒い森のシルエットの袂に閃光がちらつく。

 

「島へ砲撃して!」

 

 とにかく狙うは余計な敵の排除だ。このまま萩風たちの追撃を受けながら、陸地の敵を掃討していく。

 艦隊の第二斉射。

 時雨から照明弾を貰ってくれば良かったと、川内は今更ながらにほぞを噛む。もう深海棲艦の増援はないものと思い込み、自分の夜戦の腕を信じて碌な装備を持って来なかったのが仇になりつつある。コロネハイカラ島には既に深海棲艦が上陸していたことをすっかり失念していたのだ。

 

“逃げながら撃ってばかりでは仕方ないわ。萩風と嵐への攻撃を許可する。撃沈しないように、砲雷撃で二人を島側へ追い込むのよ”

“ホント、提督は無茶ばっかり言うよねッ!”

 

 レミリアが付けてきた注文に、川内は威勢よく反駁した。もちろん、求められたことには最善を尽くすつもりだ。ただ、直ぐにそれが可能かといえば、生憎そう上手くはいかない。

 聞き慣れた何度目かの音。砲弾が空気を切り裂く気味の悪い音。

 ズドンと、今度は間近で轟音が響いて、視界が白い水飛沫に遮られた。進行方向目の前。追って来ている二人が作り上げた水の壁が艦隊の行く手を塞ぐが、川内は何の躊躇いもなく水柱の中に突入した。

 全方位から身体を叩く海水。それは水が当たったというより、石つぶての雨を浴びているようで、全身に痛みが広がる。足元が揺れ、バランスを崩しそうになるが、重心を前に倒して勢いよく飛び出した。

 

「川内さん!!」

 

 後ろで、きちんと水柱を避けたであろう舞風が心配そうに名を呼んだ。当然だが、着弾の水柱は強引に突破するものではなく、回避するものである。ただ単に、先頭を行く川内に水柱を避ける余裕がなかっただけの話で、いつもこんな無茶をするわけではない。

 

 

「舞風!」

 

 一方の川内も、別の意図があって彼女の名前を呼ぶ。

 

「ちょっとお願い! 萩風と嵐の気を引いてくれる?」

「……ッ! 了解です!!」

「出来るだけ島側へ誘導して。私と野分はその間に陸地の敵を片付けるから」

「別行動ってわけですね」

「そういうこと! 散開して敵に当たれ! ブレイクッ!!」

 

 掛け声と共に、舞風が大きく右に舵を切る。面舵一杯ではなく、体を横に倒しての海面を削りながらの急旋回だ。彼女の小さく、しなやかな体躯が海の上で躍動し、その姿はあっという間に夜闇に紛れる。

 川内も、野分を引き連れたまま右へ大きく弧を描く。

 

「180度回頭したら第三斉射行くよ!」

「はい!」

 

 二人はゆっくり盛大に円弧を海面に刻みながら、北から南へ進路を変える。より島に近い方では、舞風と萩風たちの撃ち合いが始まっていた。

 

「撃てーッ!!」

 

 先程から続く陸地からの砲撃の音。水柱の数。そこから想像するに、陸上の敵はそれほど多くはないはずだ。具体的にどれほどの敵が結界の中に閉じ込められているのかは分からないが、当然その数は限られてくるし増えることもない。

 被弾しなければ状況は少しずつ川内側に有利になるはずだった。

 

 

 

「川内さん、残弾20%切りました!」

「ああ! チクショウ!」

 

 野分の報告に、川内は喚く。無線の向こうでは野分が付けているインカムのマイクが、残弾数減少を警告するアラーム音を拾っている。

 

 そう、四駆の二人は出撃してから何度か海戦を経ているのだった。あまり長く戦うことは出来ないし、減っているのはもちろん残弾だけでなく燃料もそうだ。

 残弾が減れば当然敵への攻撃能力や火力が大幅に減じてしまうし、燃料が減れば燃料切れを恐れる艦娘が自分の行動を無意識に制限してしまったりする。もちろん、タンクが空になればその瞬間に動きは止まり、あとはただ海上に浮くだけのブイと化してしまう。それこそが、本当に最悪の事態だ。そして野分はもうその一歩手前のところまで来ていた。

 

“通信聞いてる!? 提督!”

 

 何故か先程から無線を使わないレミリアに、川内はテレパシーで怒鳴った。そもそも、思考のやり取りそのものと言えるテレパシーで、果たして「怒鳴る」なんて行為が可能なのかは知れないが、とにかく切迫した調子で言った。

 

“ええ。ええ。聞いているわ!”

 

 答えるレミリアの声も珍しく深刻そうだ。それが如何に今の状況が悪いかを物語っていた。いつも余裕そうな彼女が焦っている。

 その事実が、余計に川内の胸中をざわめかせて仕方がない。野分の残弾が少ないなら、当然舞風も同じ状態である。しかも、彼女は囮役なのだ。

 

「舞風! 残弾は!?」

 

 ヘッドセットから伸びるマイクに、川内は自分の声を叩きつけるように怒鳴った。

 だが、聞こえて来るのはノイズの出す不愉快な音だけ。

 

「舞風!」

 

 もう一度呼ぶ。しかし、やはり応答はない。

 ぞっと、背筋を冷たいものが流れ落ちた。脊椎の中に液体窒素を流したかのように。そして、それとは真反対に頭は燃えるように熱くなっていく。よく聞けば、今さっきまで響いていた舞風が姉妹艦と交わす砲音がいつの間にやら静まっていた。

 萩風たちの牽制のために舞風を独立行動させたが、ひょっとしたらそれはとんでもない判断ミスだったかもしれない。

 

「舞風、答えなさいッ!!」

「川内さん! 五時の方向から雷跡ですッ!!」

 

 川内の呼び掛けは野分の身を切るような悲鳴に掻き消された。

 

 振り返る。

 

 白い筋が足元に向かって伸びて来て……。

 

 

 

 

「飛べッ!!」

 

 咄嗟に川内は踵を踏み込んでいた。海に浮かぶための“靴”である主機、踵に取り付けられているスクリューが深く沈み、推力は上を向く。波の盛り上がり、海面を掛け登るようにして川内の足が海から離れた。

 

 

 跳躍。

 

 真下を白く細かな泡を立てながら魚雷が通過していく。

 

 間一髪の回避だが、川内はそれどころではなかった。着水するや否や、魚雷が来た方向に視線を向ける。

 川内の目は特殊で夜闇も昼間のように見通せる。加えて、素の視力も2.0あり、数キロメートル程度先の物なら昼夜問わずにはっきりと見分けることが出来た。

 

 

 思いの外近い距離。闇に浮かぶ青白い二つの顔。

 萩風と嵐はもうすぐそこにまで迫って来ていた。

 

 

 

「ウソでしょッ!!」

 

 信じられないものを見た。信じたくない光景があった。

 嵐の脇に抱えられた、舞風の姿。ぐったりとして動かない。死んでいるのか、生きているのか。見ただけでは分からなかった。

 

 だが、何ということだ。川内は致命的なミスを犯してしまっていた。

 舞風を一人にするべきではなかったし、萩風たちの相手もさせるべきではなかった。三人で追撃を躱しながら陸地の敵の掃討をするべきだったのだ。

 

 このままでは、舞風は引き込まれてしまう。深海棲艦に、駆逐水鬼に、変貌してしまう。

 それは、敵が一体増えるなどという単純な話ではなく、すなわちこれまで川内が築いて来た総てがふいになってしまうということなのだ。そう、何もかもが水泡に帰してしまうのだ。

 

 

“提督!”

 

 

 最早、頼れるのは彼女しか居ない。信じられるのは彼女しか残されていない。

 

 懐に手をやる。そこにあるのは、文字通りの切り札。

 

“やむを得ないわ! カードを切りなさい!!”

 

 レミリアの声が頭の中で反響する。その前に川内はスペルカードを取り出していた。右手に持ち、月明かりにかざすように掲げる。

 

 言葉は自然と出た。あの魔女が言ったように、今まで一度も発したことのない呪文が無意識の内に口から紡ぎ出された。

 

 

 

「金符『シルバードラゴン』!!」

 

 

 

****

 

 

 

 視界が銀色で埋め尽くされ、川内は思わず目を瞑った。しかしそれでも尚溢れる光は、熱量を伴って瞼を貫通する。竜巻のような渦巻く爆風が襲って来て、川内の身体は激しく揺さぶられた。

 何が起こったのか分からない。

 スペルカードを掲げ、自分でも知らぬ内に唱えていた呪文が紡がれると同時に、そのカードから尋常ではない光量が溢れて来て、すぐに川内は何も見えなくなってしまったのだ。

 

 しばらく光の暴力を耐えていると、やがて瞼の向こうで少し眩しさが和らぐ。恐る恐る目を開けると、昼間のように明るく照らし出された水面が見えた。

 先程まではほとんど無風だったのに、今は風が渦巻いて波は高くうねり、黒々とした海面が白い光を反射している。その光の元をたどり、川内は目を見開いた。

 

 

 魔法やら呪文やら、ファンタジックな言葉がやたら出て来たし、自分自身もテレパシーなんてものを使っていたから、何か今までの常識を覆すようなものが飛び出すんじゃないかと想像していた。だが、これはあまりにも強烈じゃないか!

 

 

――発光する巨体。

 

――長い尻尾。

 

――広い翼。

 

――S字に曲げられたひょろ長い首。

 

――鋭い角の生えた蜥蜴のような頭。

 

 

 

 この世に、こうしたものが存在しているという事実を目の当たりにして精神が酷く揺さぶられる。

 

 悠然と羽ばたき、銀色の残光で軌跡を描きながら頭上を旋回するのは、一頭の竜だった。

 

 

 言葉を失う。というより、このような時に発する言葉を持っていなかった。

 突然の異形の登場に、風は恐怖で悲鳴を上げているように唸り、海は世界の動揺を表現するかのように荒れ狂う。 波に揺られ唖然としながら、ゆっくりと上空を飛ぶ竜を、川内はただただ見上げるしかない。あまりにも現実離れした光景に頭が追い付かず、目の前の事象を理解することは到底出来そうになかった。

 体長数十メートルはあろうかという巨体は全身が眩く光を発しており、照明弾で照らされたように辺りは明るくなっていた。 その翼が羽ばたく度に空気を引き裂き、猛風が甲高い声を響かせる。

 

 しかも、出現したのは竜だけではなかった。その背中、あるいは肩と呼ぶべきか、首の付け根の背筋と両翼が交差するところに人影が見えたのだ。

 その影は銀色の光に照らし出されている。頭髪は青紫色で、白っぽいドレスのようなものを身にまとっているのだろう。どうにも目を凝らさないとはっきり見えないのは、竜があまりに巨大なせいであり、また人影が小柄なためだ。

 人影が片手を天に突き上げ、何かを掴み取る。そこに何かがあったのか、あるいは手を突き上げたからそこに何かが“現出”したのか、血のように赤い色をした細長い棒が彼女の突き上げた手を中心に前後に伸びるようにして現れた。その棒の片方の先端は大きな鏃のような三角形で、まるで槍だと川内の脳裏に浮かぶ。

 

 人影より大きな槍。竜の騎乗するその姿が手を振り降ろし、槍を投擲する。

 

 夜闇の中に、定規で引いたような鋭い直線が一瞬光った。続いて眩い閃光が辺りを紅く照らし、鼓膜を破るような轟音が爆風を伴って周囲を無差別に襲い掛かる。

 投げられた槍はコロネハイカラ島の海辺に着弾し、そこに居たであろう深海棲艦の陸上部隊をまとめて葬り去った。閃光の中に派手に吹き上げられた土や植物、そして何より黒い敵の残骸が浮かび上がる。

 尋常ではない威力。ただ一発の槍が、巨大な戦艦の砲撃にも匹敵する破壊力を持っていた。恐ろしいのは竜ではなく、その背中に跨る真実の怪物の方に違いない。

 

 

「何、あれ……」

 

 同じく亡失して呟いた野分の声で、ようやく川内は我に返った。忘れてはならない。ここは戦場なのだ。

 それから、真っ先に川内の頭に浮かんだのは、嵐に捉えられてしまった舞風のことだった。背後を振り返り、先程その位置を確認した方向に目を向ける。

 発光する竜のお陰で視界はよく効いた。果たして、萩風と嵐、そして嵐の脇に抱えられた舞風はさほど変わらぬ場所に居る。二人の駆逐水鬼は、ついさっきまでの川内と同じく頭上を舞う竜を茫然と見上げていた。

 今しかないと決断する。

 空の存在は川内の理解力を遥かに超越していて意識の外に追いやるのは却って簡単だった。ある種の現実逃避のような心理を利用して、川内は己を制御し、中断された戦闘に集中する。

 

「野分!」

 

 唸る風に負けじと、川内は声を張る。

 

「舞風を取り戻すよ!」

「は、はいっ!」

 

 速度は全力。乱れる気流を肩で切り裂き、時化る海を走り抜ける。

 目標はまだ空を見上げていた。このまま気付かれない内に、と思ったところで、不気味な風切り音を立てながらいきなり空から竜が急降下して来る。

 

 

 見上げた川内の目が竜の背に乗る“彼女”を捉え、“彼女”もまた川内を見下ろしていた。

 

 

 嫌というほど見慣れた幼い造形。今まで見たこともないほど深い緋色の双眸。人の姿にて人ならざる容姿。

 

 

「提督……」

 

 

 視線が交わったのは一瞬だけ。竜の巨大な翼が彼女の姿を隠し、その足が海面に落ちる。鷲のように鋭い爪が、そこで見上げていた萩風を掴み取った。

 風が一層吹き荒れ、竜が錯乱して悲鳴を上げる萩風を引っ張り上げた。嵐はなす術もなく攫われる姉妹を見ているしかない。

 まるでおとぎ話の一場面を目撃しているようだった。空から襲って来て姫を攫っていく悪竜と、されるがままの悲劇のお姫様。その姫が、深海から戻って来た亡霊のような存在だとしても、この光景をそのように言ってしまってもいいのかもしれない。

 ほどなく持ち上げられた萩風は空中で竜の足から放たれてしまう。夜空に放り投げられ、彼女は哀れ、絶叫しながら放物線を描いて島の方へと落ちて行く。

 

「ハギッ!!」

 

 見ていた嵐も気が気ではないだろう。薄暗い島の元へ消えた萩風の安否は海からでは見えない。一方で、彼女は完全にそちらを向いて背中を晒してしまっていた。

 竜は川内たちにより大きなチャンスを作ってくれたのかもしれない。目の前で今し方起きた恐ろしい光景に構わず、川内は突撃を止めない。

 

 嵐が気付いたのは、もう真後ろに迫られてからだった。その時には遅く、川内との間合いは嵐にどんな回避も許さないほど狭まっていた。

 右手を肩より後ろに回し、川内は振りかぶる。腰の回転で拳を打ち出し、腕を捻ってさらに捩じりを加えた。

 

 

「歯ァ、食いしばれェ!!」

 

 

 鉄が凹むような、大きな音が鳴り響いた。速度が拳に乗せられ、嵐の顔面を直撃する。骨が砕けるかと思うほどの凄まじい衝撃が襲って来て、あまりの痛みに腕の感覚が飛んでしまう。それでも川内は力を緩めず、全力を保ったまま拳を振り抜いた。

 もんどりを打って海面に倒れる嵐。その脇に抱えられていた意識のない舞風がぐったりとしたまま投げ出される。遅れてやって来た右腕の激痛に反応が鈍ったのと、そもそも速度の出し過ぎで咄嗟に舞風を掴むことも出来なかった川内は、倒れる彼女を背後に見送ることになってしまった。

 あっ、と思った時には遅い。意識のない舞風の身体が海へ落ちようとして、間一髪抱きすくめた者が居た。

 直ぐ背後を着いて来ていた野分だった。彼女は舞風を抱え、急いでその場から離れる。

 

「ナイスキャッチ!!」

 

 川内は野分を褒め称え、狭い弧を描きながら反転する。

 ついさっき嵐を殴ったところを振り返って川内は舌打ちした。そこに、倒れたはずの嵐の姿がない。予想以上に早く彼女は消えてしまっていた。

沈んだのか。いや、そんなわけがない。

 

「野分! 下から来るよ!!」

 

 たった一発の拳だけで、頑丈な駆逐水鬼である嵐が屈するとは思えなかった。可能性はどう考えても後者で、ならば海中からの急襲に備えなければならない。

 ついでに言えば、次に嵐が狙いそうな相手も分かっていた。野分は舞風を抱えていて思うように動けない上、燃料が少なく全速力が出せない。

 それは野分も分かっていて、彼女は出来得る限りで之の字運動を、不規則な航路を描き、逃れようとする。しかしそれも、彼女のほぼ真下から立ち上がった水柱が無意味にしてしまった。

 吹き飛ばされ、なぎ倒される野分。舞風と共に海面に叩きつけられて、降って来る水の礫の中にかつての仲間の姿を見る。

 

「クソッ!」

 

 大声で悪態を吐いて川内は嵐に主砲を向けたが、引き金を引くことは出来なかった。余りにも野分と嵐の距離が近過ぎるし、未だに引かない右腕の激痛と激しくうねる波が狙いを付け辛くしていた。先の夜戦で江風を助けた時のように、万全の状態で穏やかな波ならピンポイントで嵐に当てられるが、今は状況が悪過ぎた。このまま撃てば野分に当たってしまう。

 

 

「カエセ!」

 

 激昂した嵐の声は少し離れたところに居る川内の耳にまで届いた。

 

「“マイ”ヲカエセ!!」

「嵐! 私よ! 野分よ!!」

 

 負けじと叫び返す野分の声も同じく聞こえた。だが頭に血が昇ったのか、とうにそもそもの理性のタガが外れている嵐は姉妹艦であるはずの野分に砲を向けた。

 

「“マイ”トッ!」

 

 それは駄々をこねる幼い子供のような声で……。

 

「マタミンナデ、イッショニ……!!」

「そう! 一緒になろう! 元の、“第四駆逐隊”に戻ろう!!」

「ダメダ! オレタチハモウモドレナイ……。ダカラ、イッショニシズンデクレヨ! “マイ”モ! “ノワッチ”モ!!」

「違うッ!!」

 

 主砲を向ける嵐にも怯まず、野分は声を張り上げる。彼女の眼元には決壊寸前のダムのように水が蓄えられていて、ほんのちょっと動いただけでとめどなく流れ出してしまいそうだった。

 それでも彼女は信じているのだ。また、嵐は戻って来れると。暴力を振るわれても、喉元に凶器を突き付けられても、その信頼にはほんの少しの動揺もない。

 だから、彼女は必死で言葉を掛けた。必死で思いを伝えた。まるで、そうすれば嵐が目を覚ましてくれると祈るように。

 

「一緒に、帰るのよ!! また一緒に出撃して! 甘いお菓子を食べて! 夜更かしして! 昔みたいに戻ろうッ!!」

「ムリダ! ソンナノ、ムリダ!! モドレナイカラ、キテクレヨ! サビシインダッ!!」

 

 嵐は今まで聞いたこともないような悲痛な声を上げながら、野分の額に主砲を突きつけた。

 それで、野分の表情が崩れていく。彼女の中で、彼女を支えていた大切な柱が折れたようだった。

 

 

 

 

 ドンと、腹に響く砲音が轟く。

 

 銀光に浮かぶ一筋の黒い煙。硝煙は、野分のすぐ隣から立ち昇っていた。

 信じられないという表情を見せる嵐。撃ったのは野分ではなく、つい先程まで意識を失っていたはずの舞風だった。

 

「……何、してんの」

 

 震える声で彼女は呟く。

 

「……誰に、向けてんのよ」

 

 それは、温厚で朗らかな彼女が初めて見せた烈火の如き憤怒。

 

「姉妹の見分けもつかなくなったの!? 嵐は!!」

 

 立ち上がった彼女は、さらに二発、三発と嵐に撃ち込む。

 言葉にならない声で喚き散らしながら、舞風はひたすらに嵐を撃った。やがて、元より残弾の少ない主砲が弾切れを起こしても舞風の叫びは止まらず、我に返った野分がその手を掴んでからようやく落ち着いた。

 その間、嵐はただ一方的に撃たれるのみで、砲撃がやんでボロボロになりながらもまだ海に立っていた。

 

 こんな光景は見たくない。こんなものを見るために夜の海に出て来たわけではない。なのに、どうしてこうなってしまうのだろう。

 胸の内で膨らむ何かを抱えながら、川内は構えていた主砲を下ろし、舞風の傍へ向かう。どう見ても嵐は戦意を喪失しているし、錯乱した舞風のことも心配だった。

 

「ゴメン……」

 

 嵐はそれだけを残し、舞風たちに背を向けて走り出す。向かう先は萩風が投げられた島だった。

 加速してどんどんと離れていくその背中から、川内は夜空に目を向ける。

 上空をゆっくりと旋回しながら見守っていた竜の背中の彼女と再び目が合った。彼女は無言で、腕を島の方へ振る。

 

 追え。

 

 テレパシーも何もなかったけれど、言いたいことはそうだと分かった。見えたか分からないが、川内も黙って頷いた。

 二人とも、海上に立ち尽くしたままだ。舞風は燃え尽きたように俯いているし、野分も言葉を失ったようで、ただ舞風の背中をさすっていた。

 そこにいるのは大切な姉妹と決別し、打ちひしがれて傷付いた少女たちの姿。本来ならば敵味方の垣根を越えて手を取り合うはずだった彼女たちは、何かの擦れ違いで反発し合う磁石のように分かたれてしまった。たった今、川内が目にしたのはその場面なのだ。

 だからこそ、川内には言わなければならないことがある。この状況で、その役目を果たせるのは自分しかいないと自覚していた。

 

「行こう」

 

 声を掛けた川内を、野分が泣きそうな瞳で見上げる。舞風は顔を上げず、静かに頭を振るだけだった。

 

「無理だよ……」

「無理なもんか」

「無理だよ。ホントに」

 

 未だかつて、これほど絶望に満ちた声を川内は聞いたことがなかった。すべてを諦めた者というのは、最早涙も流せないのか。舞風の言葉は酷く乾燥していて、そこに一片の希望も探り出せない。

 

「あらっちを撃ったんだ。もう、取り返しつかないよ……。はぎっちも、二人とも、完全に……深海棲艦になってたんだよ」

 

 どうしようもないよ。

 

 身を絞るように呟く舞風。野分も沈痛な表情で、否定しない。

 その様子に、川内の奥歯が鳴る。胸の奥で膨らんでいたものがついに破裂し、猛烈な感情の奔流となって突き上げて来て、そして川内はそれを抑え込む術を知らなかった。

 

「諦めるなッ!!」

 

 舞風の肩が、怒声に震える。野分も驚いて目を剥いた。

 今まで、二人の前でこれほどの怒りを見せたことがあっただろうか。江風の前では何度も激怒したことがあったけれど、夜戦を出来なくなってから自分でも随分と角が丸くなったと自覚していたから、舞風にも野分にもこうして怒ったことはなかったはずだ。

 けれど、今は昔に戻ったように感情が溢れ返って来ていた。

 

「まだ何とかなる! 萩風も、嵐も、まだ助かる! まだ救える!! まだ、何も終わっちゃいないんだから!!」

 

 ついに顔を上げた舞風。

 並ぶ二人の肩に両手を置くと、右手だけ骨が疼くような激痛が走ったけれど、川内は無理やり笑顔で撃ち消した。

 

「そりゃあ、私たちだけじゃどうしようもないかもしれない。沈んだ艦娘が深海棲艦になって戻って来るなんて前代未聞だし、その上さらにその深海棲艦を艦娘に戻そうなんて誰も想像すらしていなかったはずよ。だからはっきり言って確かな方法なんてない。あの二人が艦娘に戻る保証なんてどこにもない」

 

 二人にとって、川内は頼みの綱なのだろう。川内自身が信じろと言ったから二人はここまで付いて来てくれたのだ。

 だというのに、その川内は手の平を返したように「保証がない」と言うので、二人とも目に明らかな失望を宿した。「ああ、私たちは騙されたのか」という、若干の怒りも含んで。

 だがもちろん、川内は否定で話を終わらせるつもりはない。

 

「だけど、私は確信を持って出て来たんだ。トラウマを克服し、単艦で出撃したのは、あの子たちを二人とも助けられる算段があったから。

それはさっき言わなかったよね? 言っても信じて貰えなかっただろうけど、でも今なら分かるでしょ。

上を見なよ。あの、空を飛んでいる存在を! 私たちの想像を上回る、不可思議があるってことを!」

 

 二人の目に、希望は戻らない。ただ、その瞳に月光が少し反射したような気がした。

 

「この世界には、まだまだ沢山私たちの与り知らない事柄がある。その中にはおとぎ話に出て来る魔法もあるんだよ。

私たちには出来ないことも、その魔法なら出来るかもしれない。その存在になら出来るかもしれない。

もちろん保証はないよ。やっぱりどうやったって無理な物ってのはあるだろうさ。だけど、賭けてみなければ始まらないじゃんか。

諦めるのは簡単だよ? でも、舞風も野分も、諦めたくなくて、萩風と嵐をどうしても取り戻したくて。だからあれだけの反対を押し切って、ここまで頑張って来たんだよね。

後一歩だよ? ここで諦めるの?

……私は嫌だね、そんなの。

私はいろんな物を捨ててここに来た。自分が取り返しのつかないことをやって、戻れない道を進んでいるっていう自覚がある。

もう私には、魔法に、奇跡に賭けるしかないんだ。それが自分自身で為せることじゃなくて、所詮は他力本願だとしてもね。

でも、私たちが信じなきゃ、祈らなきゃ、一体誰があの二人のことを信じるの? 一体誰が祈りを捧げるの? 

魔法は魔法でしかなくて、不可思議はあくまで不可思議でしかない。私たちにそれを使うことは出来ないけれど、それをあの二人に対して向かうように仕向けることは出来る。逆に、そうしなければ未来永劫、萩風も嵐も駆逐水鬼のままなんだ!!」

 

 確証も保証もない。川内が手に持つたった一枚の札には、ただ「信じる」という言葉のみが書いてある。

 

 一体、誰を?

 無論、レミリアだ。

 

 彼女を信じることが契約の条件であり、また川内に採れる唯一の選択肢だった。一点の疑いもなく、ただ萩風と嵐が戻ることを彼女に託し、信じ切って、祈らなければならない。そうでなければ、二人を救うことなんてあり得ないし、賭けに成功した時二人を抱きかかえてあげられない。

 ひたすら愚直に彼女を信じ、夢のような幸せな結末を追い求めるだけ。しかしそれこそが、奇跡を起こす原動なのだ。

 

「だから、行こう! 二人を迎えに!」

 

 二人から手を離し、川内はくるりと島へ身体を向ける。

 

 

 本当に他力本願でしかない。悔しいことだが、今の川内たちには事態を好転させる手段はなく、博打を打たなければどうしようもない。

 けれど、心の底から萩風と嵐を救いたくて川内は悪魔に魂を売った。それが倫理に反し、途方もない後悔をする羽目になったとしても、間違った選択だったとは露ほども思わない。

 もうこの身はどうしようもないほど血で穢れている。今更何をしようが罪が消えることはないし、地獄に落ちることも変わりはない。ならば、全力で我儘を言おうじゃないか。天が定めた運命という物が存在するなら、人知を超える力を利用してそれを捻じ曲げ、欲しい結果を手に入れてみせようではないか。

 最早、自分の罪滅ぼしや自己満足なんてどうでも良かった。

 ただ、舞風と野分が、そして萩風と嵐が、四人で笑い合っている。そんな未来があればいいなと思うだけだ。

 

 

****

 

 

 果たして、二人の駆逐艦は川内の後を追って来た。風を切る音、波を超える音、艤装の唸る音に混じって、背後から続く彼女たちの気配を感じ、川内の胸中に安堵が広がる。

 川内はあくまで脇役であり、彼女たちこそ主役なのだ。

 後は、もう二人の主役の元へ向かうだけ。

 

 コロネハイカラ島の周辺は、海面の下に岩礁が隠れているようで、近付けば座礁の危険があると事前に説明を受けていた。その説明を艦娘にしたのは、他ならぬ提督である。

 島の海岸に、先程の槍が穿った巨大なクレーターが出来ていた。それを見てあの槍の破壊力に唾を飲み込んでしまうが、恐らく彼女は岩礁と陸上部隊をまとめて吹き飛ばす意図で槍を投げたのだろう。

 川内はクレーターを横切って、浜辺に上陸する。航行艤装を脱ぎ、裸足で揚がると、足が柔らかい地面に沈み込んだ。

 熱帯雨林の腐葉土は思った以上に冷たく、自然と体が震えた。泥まみれになりながらも、酷く荒れた地面を歩く。

 辺りは凄惨な有様で、着弾の衝撃で薙ぎ倒されたマングローブがそこらじゅうに横たわり、黒く焦げて煙を吹いている。色んな物が焼けた臭いが混ざりあって吐き気のするような酷い悪臭となって充満しており、無意識に鼻に手をやった。

 地面には引き摺ったような跡が、海辺から森の方へと続いている。それを視線で辿っていくと、少し先に上陸したであろう嵐の姿があった。

 

「嵐!」と名を呼ぶと、驚いたように身体を震わせてから、彼女は主砲を川内に向ける。

 

「クルナ!」

 

 嵐は何かの上に跨っていた。その何かの姿を認めた時、川内はようやく彼女が何をしているか悟って、叫んでいた。

 

「やめなさい! 嵐!!」

 

 彼女が跨っていたのは、彼女以上に満身創痍の萩風だった。意識はあるのか、萩風は嵐を見上げているが、抵抗しようとはしてない。嵐の両手は萩風の首に掛けられていた。

 

「クルナ!!」もう一度嵐は喚いた。「コナイデクレ!!」

 

 主砲を向けられて川内も動けない。ここは海の上ではないから、自由に動いて狙いを外すなんてことも出来ない。追い付いて来た舞風か野分かのどちらかが、光景を目の当たりにして息を飲む音がした。

 

「何やってるの!? あらっち!!」

「“マイ”……」

 

 ゴメンナ、と彼女は深海棲艦らしからぬ弱々しい言葉を吐いた。

 

「オレタチハ、モウイッショニナレナイ。“ダイヨンクチクタイ”ニモドレナイ。クラクテ、ツメタクテ、サビシクテ、クルシイ、アノシンカイニ、マタ……シズムンダ!!」

 

 彼女は泣いていた。はっきりと目に見える、涙を流していた。

 その時川内の心に浮かんだのは、「深海棲艦も泣いたりするんだ」という妙な感慨で、だからちょっとばかり親近感を覚えたりもした。

 そう、嵐には喜怒哀楽がある。いや、“残っている”と言うべきか。

 あるいは、こうとも言えるかもしれない。

 

 ――取り戻した、と。

 

 

「ヨニンデ、イタカッタ。ウミニシズミタクナンテナカッタ。

ズット“ハギ”トフタリダケデ、カイテイヲサマヨッテイタ。ダレカニヨバレタキガシテ、ウミノウエニモドッテミレバ、ダレモガオレタチヲコウゲキシタ。ダレモ、オレタチヲタスケヨウトシテクレナカッタ」

 

 深海棲艦の声と言うのは、人間のようでまた似て非なるものだ。妙に甲高かったり、くぐもっていたり、時には気味の悪いエコーが掛かっていたりする。ひと声聞けば絶対に忘れられなくなるような声質で、同じ言葉を喋っていても、遠い存在だと認識するのは、そういうところがあるからだった。

 人の声ではない。艦娘の声でもない。敢えて言うなら、それは怨霊の声だ。死者の声だ。

 不気味で、寒気がする。長いこと聞きたくない。正直に言えば、一時も耳に入れたくない種類の音なのだ。深海棲艦の声と言うのは。

 

 しかし、今は違った。

 今、川内は全神経を傾けて嵐の声に耳を澄ましている。その声を、少しでもはっきりと聞き取ろうとしている。

 何故ならば、少し実その声質が変化していっているから。

 徐々に、徐々に、人ならざる者の声から、人の、艦娘の声へと。

 

「“マイ”ト“ノワッチ”ニ、サイゴニアエテヨカッタヨ。フタリトモゲンキデナ。オレタチは、モウ、逝くよ。

ゴメンな。一緒ニ居られなくテ。ケド、忘れないでくれよ。俺たちのこと……」

 

 戻っている。嵐の声は確かに、深海棲艦のそれから、彼女が本来持つ声へと戻りつつある。

 一方的に告げられる別れの言葉に反して、彼女は確かに変わりつつあった。

 にもかかわらず、嵐は艤装の左手で貫手を作って萩風の胸に狙いを定め、萩風は右腕の主砲を嵐の額に突き付ける。

 後一瞬で、全てがデッドエンド。そんな状態にまでなってしまう。

 

「そうじゃないでしょッ!! 私たちが何のためにここまで来たのか、分かってよッ! 嵐!!」

 

 野分が駆け出す。泥に足を取られるのも構わず、喉を絞ったような掠れた声で叫びながら。

 

「もうちょっとなんだから! もうちょっとで、帰れるんだからぁ!!」

 

 つられるように舞風も走りだした。ほとんど泣きながら、涙を撒き、鼻水を垂らして子供のようだ。

 川内も思わず後を追い掛ける。まだ二人よりかは幾分冷静で、自暴自棄になっている嵐がどういう行動に出るか分からないから二人を止めようとした。

 後を走っていた舞風の袖を掴んで力づくで引き戻す。野分は足元の倒木だか石だかに足を取られてしまい、その場でもんどり打って泥の中に盛大に身を投げることになった。

 そんな、必死で走り寄ろうとする姉妹艦たちに、嵐は泣き顔のような、怒ったようにも、あるいは笑っているようにも見える微妙な表情を見せた。彼女の中でどういう感情が吹き荒れているのか、彼女自身にも表しきれていないようだ。

 ただし、そこに一つはっきりと見出せる感情があるとしたら、それは「嬉しさ」だろうか。必死で駆けつけてくれた舞風と野分に対する、嬉しさだ。

 

「“マイカゼ”ハ、ワラッテ、オドッテ」

 

 言いたいことを言い終えたというより、感情がつっかえて言葉が出なくなってしまったように沈黙する嵐に代わって喋り出したのは、首を絞められているままの萩風だ。彼女はそれまでの戦いで見せていた激しい感情を引っ込めて、穏やかに姉妹艦を見つめている。

 

「“ノワキ”ハ、チャント、“マイカゼ”ヲササエテアゲテ」

 

 フタリナラ、ワタシタチガイナクテモダイジョウブダカラ……。

 

 そう付け加えた萩風は優しく微笑む。

 ああ、何と人間らしい表情なのだろう。一体、今の彼女たちをどうして深海棲艦などという化け物と呼べるだろうか。そこにあるのはただ少しばかりの素朴な感情だけ。

 二人は強大な駆逐水鬼ではない。ただ、姉妹の幸せを願うちっぽけな駆逐艦娘だ。

 けれど、このまま嵐と萩風は心中するつもりなのだろう。それがいかなる心理から導き出された行動なのか、どうしてここまで“自我”を取り戻せて、愛する姉妹が近くまで駆けつけて、その選択をするのか、甚だ川内には分からなかった。

 それとも、何だ。どうやったところで深海棲艦は艦娘に戻れないとでも言うのか。自らを無害な存在にするには、自決するしかないと悲嘆するのか。

 もう、川内たちには打つ手がなくて、嵐にも萩風にもどうしようもないのだろうか。

 

 ならば。ならば!

 

 この救出劇を、バッドエンドで終わらせようというのが世の定めなら、常軌で二人を救えぬと言うならば。

 では、常軌を逸脱した方法で救って見せようではないか!

 

 何せ、こちらにはこの世界が忘れ去った幻想がいるのだ。世界が駆逐水鬼の行く末を悲劇と固定してしまっているなら、世界に存在する誰にも彼女たちを救えぬと言うなら、世界に存在しなくなった幻想ならばその運命を覆せるはずだ。

 いわんや、彼女こそが幻想。世界の果てにて夢幻の住人であるモノ。

 

――故に、川内は彼女を呼ぶ。今、この世界でたった一人、哀れな仔羊たちを救い得る存在を。

 

 

 

 

「来いよ! デーモンロードッ!!」

 

 

 

 

 轟、と風が唸った。残っていた熱帯雨林が激しく掻き乱されて盛大に枝が擦れる。川内の言葉に導かれ、竜が再び降りて来た。

 

 いや、違う。降りて来たなどと言うのではない。落ちて来たのだ。

 

 

 川内から見て、嵐のさらに向こう。艦娘と深海棲艦の頭上を掠め、巨大な銀色の影が生い茂った木々を吹き飛ばしながら墜落する。

 太陽が現れたのかと思う、一際眩しい光が暴力となって川内たちに襲い掛かり、次には鼓膜が破れるような爆音と壁のような爆風が容赦なく叩きつけられた。

 

「ぐっ!」

 

 光と風に怯み、身を屈める。事態の進行があまりにも予想外過ぎて理解が追い付かなかった。

 顔を上げると、マングローブ林は赤々と燃え上がり、闇の中でも黒いと認識出来る煙を濛々と吹き上げていた。炎の熱で顔の温度が上がり、一方で背筋は氷が当てられたかのように冷たい。

 自分たちの知る何かが、自分たちの知らないところで決定的に変わったような気がした。見慣れた世界は見慣れたまま、しかし歯車が狂って知らない世界へと変貌した気がした。

 

 川内の慣れ親しんだ「現実」という世界に、「幻想」という名の異物が混入される。そして、その異物が入った故に世界が変わる。

 

「幻想」は人の形をして、人とは完全に違う姿で、川内の目の前に姿を現したのだ。

 

 

 

 ――燃え上がる炎を背景に、一人の少女が立っていた。墜落の衝撃も、爆発も、まるで何事もなかったかのように彼女はそこに居た。

 身にまとう衣装は見慣れた軍装ではなく、この熱帯の島に酷く場違いな白いドレスだ。何よりも彼女が人ではないことを示しているのは、その背中から左右に飛び出す黒い翼の存在だった。彼女の身長よりも大きいと思しきそれは、蝙蝠のようで……。

 

 

 

「艦娘って、楽しい生き物よね」

 

 場違いな格好の少女は場違いに愉快気な声で、友人に話し掛けるような軽い口調で言葉を紡いだ。

 ゆったりと両手が広げられる。

 

「泣いて、笑って、怒って、喜んで。見ていて飽きないわ。狂おしいほどに愛おしく、狂おしいほどに愉快な存在。戦いの運命に縛られ、傷付き、苦しみ、嘆こうとも、それでもなお屈服せず運命に抗おうとするなんて、本当にもう身悶えするほど愛くるしい」

 

 悠然と彼女は近付いて来る。その声は言葉の通りどこまでも楽しげで、少女は少女らしく、興奮に彩られて軽い足取りだ。

 

「私は悲しい物語より楽しい物語の方が好きよ。悲劇もそれはそれで面白いけれど、やっぱりハッピーエンドがいいわね」

 

 それまで逆光で影になっていた彼女の顔が照らし出される。彼女が広げた両手が光っているのだ。いや、手自体ではなくその掌に何か発光するものが収束していた。

 

「来るなァ!!」

「ヨルノ……『オウ』!」

 

 それまで茫然と眺めていた嵐が叫び、萩風は突然狂ったように嵐に向けていた主砲をレミリアに狙いを変えて撃ち出した。狙いも何もあったものではない。ただの乱射。当然、至近距離から放たれた無数の砲弾が彼女に襲い掛かる……はずだった。

 弾はすべて彼女の背後に着弾する。二人と彼女の距離はほぼ数十メートルという近さなのに、一発として彼女に当たらない。その様子は、川内の目にまるで砲弾“が”彼女を避けて着弾しているように映った。

 

「もしここで貴女たちが死ぬ運命だというのなら、私がそれを曲げてみせましょう。私の両の手が、その運命を変えてみせましょう」

 

 砲撃の中で、悪魔はゆっくりとした口調で語る。

 

「貴女たちが死ぬ必要なんてない。救われないなんて嘆くこともない。涙も悲しみも、全部私が飲み干してあげるわ。

皆、私の子。

皆、私の血。

忘れたなら思い出させてあげる。海馬の奥に、シナプスの影に、私の名を仕舞い込んでいるなら、今こそ貴女たちは忘却に気付くでしょう!

そして、もう二度と私を忘れられなくしてあげる。こんなにも月は紅く! こんなにも夜は暑いから!」

 

 少女は宣言した。

 

「我が名はレミリア・スカーレット!!

栄えあるツェペシュの末裔!

紅月の夜の王!!」

 

 

 スカーレット・マイスタ。

 

 

 レミリアは左手を振る。その掌に集まっていた光が、球状の巨大な大玉となって嵐に放たれた。

 避ける暇もなかったのだろう。大玉は嵐に当たると、風船が割れるような派手な音を立てて弾けた。直撃を受けた嵐も萩風の上から吹っ飛び、地面に叩きつけられる。

 

 そこから始まったのは、正真正銘の弾幕だった。

 一度背中の翼で大きく羽ばたくと、レミリアの身体がふわりと宙に浮かぶ。そのまま滞空しながら彼女が交互に左右の手を振りると、その度に掌から紅い大玉が放たれて嵐や萩風に襲い掛かる。同時に、大玉の周りに大小の丸い弾が飛び交い、無秩序に地面に着弾しては破孔を穿つ。

 そのほとんどすべてが無意味に撒き散らされているもので、木の破片が転がる地面をさらに耕し、土埃を上げ、ひたすらに破壊をばら撒く。狙いが付けられているのは大玉だけだが、着弾した時の激しい音とは裏腹に威力はさほど高くないようで、嵐は両腕で防御の構えを取り、萩風は地面に蹲ってやり過ごそうとする。

 弾幕のほとんどは何か意味があるように見えなかった。周辺に敵はいないし、壊すべき何かがあるわけでもない。この弾幕が、レミリアの持つ尋常ならざる力によって生み出されているものだとしても、こうしてただばら撒くのはその力の浪費なだけに思えた。それでも、敢えてそこに意味を見出すとしたら、それはこの弾幕が描き出す華麗さや美しさではないかという気がする。

 弾幕は不規則に放たれているのではない。大中小の弾がそれぞれ決められたように弾き飛ばされている。レミリアが右腕を振るえば反時計回りに、左腕を振るえば時計回りに弾が撒かれる。まるで、彼女はこうして「魅せる」弾幕を放っているかのようだった。

 だが、見惚れている場合ではない。弾幕がさほど自分に害のあるものではないと気付いた嵐が猛然と反撃に出たのだ。

 その身体は続く戦いの影響で全身傷だらけであり、艤装も破損が酷い。半分潰れた主砲やら惨たらしく肉のえぐれた腕やらが、如何に嵐が追い込まれつつあるかを如実に示している。それでも尚闘志を失わない瞳で、彼女は咆哮し、空に浮かぶ脅威へ立ち向かっていった。

 片方だけになり、焼けただれ、砲身が赤く発熱する主砲をレミリアに向け、雄叫びを上げながら発砲する。最早彼女には、相手がそうした攻撃がまともに通じる存在ではないというのは分かっているだろう。だが、最後まで諦めないのは駆逐艦「嵐」としての矜持なのか、あるいは深海棲艦「嵐」としての破壊衝動なのか、果たしてどちらだろう。

 

 

 

 いずれにせよ、やはり彼女の攻撃は無意味なものだった。

 

 レミリアが弾幕を消す。消える時、弾幕は一斉に掻き消すように宙へ溶けていった。

 そして彼女は小さく羽ばたくと、空中で姿勢を変え、頭を下に足を上げて、何もないはずの空間を思い切り蹴りつけた。

 

 バッド・レディ・スクランブル!

 

 そんな宣言を聞いたような気がした。空間を蹴って勢いよく飛び出したレミリアは、身体に捻りを加えて、白い衝撃波をまといながら錐揉み状態で一直線に嵐の下に飛び込んでいく。

 レミリアに掴みかかられた嵐は、地面に再度叩きつけられ、さらに勢い余って引き摺られる。衝撃の余波で濛々と土煙が立ち上り、川内の目から二人を隠したのも束の間、激しい風が吹き荒れて二人の姿が再び現れた。

 ついに戦闘不能になって倒れ伏す嵐と、その身体に跨って裂けたような笑みを浮かべるレミリア。

 

「嵐!!」

 

 野分が飛び出そうとするのを、川内は袖を掴んで遮った。事態はもう、艦娘にどうこう出来るレベルを遥かに超えている。とっくに、川内たちに出来るのはただ祈り、見守るだけになっているのだ。

 

「後ろ!!」

 

 今度は舞風が叫ぶ。その言葉の通り、レミリアの背後に立ち上がった萩風の姿があった。

 竜に放り投げられ、嵐と心中寸前まで行き、弾幕に襲われて、彼女もまた満身創痍になっていたが、未だその目は爛々と光を放ち、大きく振りかぶって艤装の両腕でレミリアに殴りかかったのだ。

 

 執拗と言えば執拗。勇敢と言えば勇敢。

 往生際の悪さとも、不撓不屈とも言える彼女の精神性を、川内は素直に称賛する。嵐同様、最後まで諦めないその姿勢はひょっとしたら彼女が持つ「仲間」への想いがなせるものなのかもしれない。

 海上での夜戦の時や心中の時とは打って変わって、その顔に現れているのは溢れんばかりの憎しみでも諦観の笑顔でもなく、恐怖と激痛に歯を食いしばりながらも、必死で戦おうとする戦士の意地だ。

 

 これこそが、萩風の本当の姿なのかもしれない。彼女は今まさに、深海棲艦ではなく、「萩風」という一人の少女として戦っていた。

 

 だが、悲しいかな。その健気な反撃も圧倒的な力に粉砕されてしまう。

 

 レミリアは上体だけ捻ると、背後から振り下ろされる萩風の巨大な拳を片手で受け止める。肉を打つ鈍い音がして、飛び掛かった萩風の身体が動きを止めた。

 

 驚愕と恐怖に染まる萩風。掴み取られた拳を離すことも出来ず、あり得ないほどの怪力で振り回され、萩風は宙に浮く。そのままレミリアが掴んでいる方の腕を振り降ろすとされるがままに萩風も叩き伏せられてしまった。

 

 

 勝負は完全に着いた。否、元より勝負になどなっていなかった。

 南方戦線を崩壊寸前まで追い込んだ、未曾有の強敵だったはずの「双子の駆逐水鬼」は今や見るも無残に泥にまみれ、ただ圧倒的な暴力に蹂躙されるだけだった。最早虫の息の二人は指一本動かすことも出来ないのか、苦しげに表情を歪めながら、自分たちを見下ろす深紅の双眸を見上げるのみ。

 

 彼女たちは確かに多くの人間を死地に追いやったが、その代償が果たしてこれなのか。暴力とは、斯くも理不尽に振るわれるものなのか。

 言葉を発せない二人の内、まずは萩風の方にレミリアが覆い被さる。

 ぐったりとした彼女を抱え上げ、背後で燃える炎の明かりにその顔が照らし出されるように掲げるレミリア。

 

 

 その唇が、ゆっくりと開かれた。

 

 唾液で白く反射する小さな歯が見える。その奥に、川内は鋭い牙を認めた。

 

 

 レミリアは正真正銘化け物だ。今まで人の皮を被っていたのが、それをかなぐり捨てて正体を現した。

 

 では何の化け物か。ただ怪力を振るうだけの存在か。

 

 いや違う。彼女は自らの正体を、名前と一緒に披露した。そして今、自らの種族を証明する牙を明かりに照らし出している。

 

 

 レミリア・スカーレットは吸血鬼だ。

 

 

 ドラキュラ――ヴラド・ツェペシュの末裔を名乗る少女は、大きく口を開いて萩風にキスをする。それこそがまさに、彼女を彼女たらしめる行為に他ならない。

 

 捉えられて身動きの取れない萩風は目を見開き、せめてもの抵抗に両腕を振り回すが、万力のように固定されていてはどうしようもない。二人の唇が重なり合う場所で、萩風の皮膚をレミリアの牙が貫通し、そこから血を吸い出しているのを想像して、川内はぞっとした。

 

 

 何とおぞましく、何と淫靡な光景だろう。

 燃え盛る炎を背景に、深々とキスをする少女と少女。それだけなら映画のワンシーンにも思えたけれど、あまりにも背徳的で吐き気さえしてきた。

 

 ほどなく、レミリアは萩風から口を離す。

 意識をなくし、その場に崩れ落ちる姉妹艦を見て、そして次は自分の番であることを悟って、嵐が小さく悲鳴を上げる。

 恍惚とした表情の吸血鬼に、嵐は這ってでも離れようとする。が、あっけなく覆い被さって来たレミリアに取り押さえられ、尚も頭を振って逃れようとするが、額を片手で押えられてはどうにもならなかった。嵐を地面に押さえつけたまま、レミリアは萩風と同じくキスをする。

 一瞬、背中の翼が跳ねたが、やがてゆっくりと下まで降ろされ、二人の顔を川内たちから隠してしまう。

 嵐は足をばたつかせてあらんかぎりの力で抵抗していたけれど、それもやがて大人しくなって、ついには動かなくなる。しばらく嵐を組み伏せていたレミリアも、相手が大人しくなるといよいよ血を吸い出したようだった。

 

 時間は異様に長く感じられた。燃え上がる木々がぱちぱちと弾ける不規則な音は、時計の秒針が刻む音に思え、動きのない光景に川内は自分の心臓すら止まっていたかのような錯覚を覚える。喉は完全に干上がり、火災から伝わって来る熱のせいなのか、こめかみから流れ落ちる汗が止まらない。

 動くことも、目を閉じることさえも許可されていないようで、川内もまたなす術もなくレミリアの吸血行為を網膜に刻みつけるより他なかった。彼女が嵐を離して立ち上がり、紅い液体を口元から流すまで、川内たちに許されていたのは呼吸することだけだった。

 

 

「終わったわ」

 

 彼女は口元の血を指で拭う。映画を観終わった子供のような表情で、彼女はうっすらと笑った。

 

「提督」

 

 川内は、漣が彼女を呼ぶ時のように、レミリアを呼び直した。

 

「……いや、お嬢様」

 

 そう噂されているように、彼女はやはり貴族の出身なのかもしれない。

 化け物の身分に貴賤があるのかはともかくとして、隔絶した力とそれに裏打ちされた自信とプライド、高過ぎるそれらを持つ故に身に付けられた気品が、川内にレミリアをそう呼ばせた。

 

「吸血鬼だったんだね」

 

 確認するように呟くと、レミリアはにっこりと笑みを深めた。

 

「そうよ。私は吸血鬼。夜の王」

 

 不死の女王は喉を鳴らした。

 

「そして、運命の支配者」

 

 

 

 レミリア・スカーレット。

 

 我らが提督にして、永遠に幼き紅い月。

 

 

 川内は自然とその場に膝を着いた。彼女を畏怖して、立っていられなくなったのだ。

 頭を垂れて、恭しく敬意を表する。元より契約したこの身は、彼女に忠誠を誓わなければならないが、その事実を差し引いても尚、心底レミリアを畏れる気持ちがあらゆる感情を超越した。

 目の前に、大きな気配が立つ。顔に冷たい手が添えられ、目を上げると、血色の瞳が見下ろしている。長い睫毛の付いた瞼は眠たげに半分ほど閉じられていて、その奥から底知れない緋色が川内の姿を反射していた。

 彼女はほとんど何もしていない。ただ少し、川内の頬に指を添えているだけ。にもかかわらず、川内はまるで雁字搦めになったように身動きが取れなくなってしまった。肺が呼吸することさえ圧迫されて、息が苦しくなる。

 

 意識が覚醒しているのに金縛りにあっていた。

 

 パッと、レミリアが手を離した。小さな悲鳴が上がる。漏らしたのは野分か。

 

「怖がる必要はないわ」

 

 レミリアは野分に目を向けると歌うように呟いた。この場にはあまりにもそぐわぬ、しかしとても彼女らしい口調。

 

「あの子たちは無事よ。ただちょっと、愛情のキスをしただけ」

 

 自ら行為をそんな風に言い表し、レミリアは軽やかに振り返って歩き出す。

 

 

 手を後ろに組み、ピクニックに出掛けるような調子で。

 

 

 

「さあ、帰りましょう。私と、貴女たち“五人”でね」

 

 

 

 


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