レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督22 Dethronement

 

 

 その知らせを聞いた時、赤城の心情を一番占めたのは安堵であった。次いで歓喜である。

 不安要素が取り除かれたことを確認し、次に仲間が上々の結果を獲得したことに喜びを感じたのである。轟沈を覚悟したかのように南方に赴いた舞風と野分の二人は、姉妹艦が変貌していたとされる深海棲艦「駆逐水鬼」を討伐するのではなく、この敵が確かにかつての姉妹艦であり、そして彼女たちを深海の呪いから解き放ったのだ。

 予想はいい意味で裏切られた。どうあっても二人の心に傷を残す遠征になるであろうと考えていた赤城は、心配事の一切が取り除かれて安心し、喜んだ。しかも、良い知らせはそれだけではない。同じく遠征に参加した川内も、長年彼女を苦しめていたトラウマを克服し、名に聞く「夜戦の鬼」としての顔を取り戻したのだという。

 

 百点満点どころか、二百点満点の結果。

 無論、この奇跡のような勝利の影には、そこに提督レミリアの力があったことは言うまでもない。いやむしろ、彼女はこの勝利を得るためにいろいろと手を回していたのかもしれないし、周囲の反対を押し切って舞風たちの参加を許可したのも、ひょっとしたらこの結果のためだったのかもしれない。恐らく、当初の予定通り第七駆逐隊が参加していてはこうはならなかっただろう。

 知らせはあっという間に鎮守府を巡った。その日の晩には、参加出来なかった七駆の漣が祝賀会のサプライズプレゼントの募集を始めたくらいである。残った艦娘一同全員一致で「㈱間宮製菓 クッキーアソートセット(¥16000)」に決まった。これはこの秋に発売された最新のお菓子で、まだ鎮守府の誰も食べたことがなく、「前に舞風ちゃんがこのクッキーアソートを食べたいって言ってたから」という潮からの情報提供が決め手になった。

 間宮製菓のお菓子はどれもこれも値が張り、一般の艦娘にはなかなか手の出づらいものばかりであるが、今回ばかりは鎮守府の「福利厚生」の予算で(つまり経費で)プレゼントを買うことになった。決裁には提督であるレミリアのサインが必要だが、彼女の口にお菓子を突っ込んでおけば事後承認でも全く問題ないだろう。ザ・秘書艦特権発動である。

 

 と、まあ。このような経緯があり、赤城はしばらく上機嫌の日々を過ごしていた。

 鎮守府を母港とする艦娘母艦の「硫黄島」が遠征に出てしまっている以上赤城たちにはせいぜいが近海の哨戒任務程度の出撃しかなく、レミリアたちが帰ってくるまでの約半月、緊張は適度にすれどものんびりとした時間が流れていた。機嫌が良ければ自然と仕事もはかどり、大したトラブルもなく、非番も加賀と合わせて久しぶりに二人で街に買い物に出掛けたりと、赤城は平和を謳歌していたのだ。

 しかし、そうした穏やかで温かい日々は長くは続かないのが世の常。

 ある日、赤城は金剛と加藤に呼び出された。

 

 

 

 

 

 そこは、鎮守府第一庁舎の一階、休憩所に近い建物の奥まったところにある小会議室であった。古めかしい庁舎の外観とは裏腹に、現代のオフィスのような内装のまぶしい会議室の中には、可動式テーブルと床から延びるコードがつなげられたパソコンが用意され、二人の人物が待ち構えていた。

パソコンの目の前を陣取っているのは赤城を呼び出した張本人、金剛だ。そして、彼女の隣には気難しそうにしかめっ面を構えた幕僚長の加藤がパイプ椅子にふんぞり返って座っている。

 その光景を見て、赤城はこれから自分が聞く話は到底愉快になりそうにないなと予想した。何しろ、まずこの二人の組み合わせというのが奇妙だ。エリート街道まっしぐらの加藤と現場叩き上げの金剛では、ある意味陳腐であるが、仲があまりよろしくなかった。何かと意見の対立があるのが常で、頻繁に赤城は二人の間で仲裁をしなければならなかったし、二人の考え方や好みを熟知していたから、尚のことこうして二人が雁首を揃えているのが不可解で仕方がないのである。

 赤城が会議室に入室すると、金剛は加藤とは反対側の椅子を引いて座るように促す。加藤に一つ会釈をして、赤城はいそいそとその椅子に腰を下ろした。

 

「これを見て」

 

 何の前振りもなく、金剛はいきなりパソコンを滑らせて赤城に見せた。液晶の画面には、海外のホームページだろう、ずらずらと英文が並んでいる。

 人並以上には英語でのコミュニケーションが出来るとはいえ、まとまった量の英文を読むのにはそれなりに時間がかかる。画面に表示されたアルファベットの洪水に若干辟易しながら、とりあえず題名だけ読んでみる。

 

「『北イングランドの歴史と伝承』、ですか?」

「Yes.これはカーライルの地元大学の歴史学者がインターネット上で公表している論文ヨ。Northern Englandの風俗史や伝承についてかなり詳しく書かれているワ。特に、中世以降のものの文量が多い」

 

 言いながら、金剛はマウスをいじってページをどんどんスクロールしていく。ただそれを眺めているだけの赤城には、まるで画面の中を下から上に、黒い文字が津波のように駆け上っているように見えた。

 

「興味深いのはここから。16世紀以降ネ。この辺りはCumbria countyの伝承についての記述がある。見てほしいのは、湖水地方に古くから残る言い伝えのことで……コレ」

 

 白魚のような指が、ある一節を指す。

 

「単なる偶然だとは思えないワ」

 

 そこに書かれている文字を、見慣れたはずのアルファベットを、最初赤城の脳は認識しなかった。いや、出来なかった。

 

「『……そして、中世以降の湖水地方のみならず北イングランドの人々の間で猛威を振るった伝承に登場するこの悪魔の名前は』」

 

 金剛が英文を訳し、声に出して読み上げる。

 

 

 

「Remilia Scarlet」

 

 

 

 

 

 

 

 レミリア・スカーレット、あるいは“紅い悪魔”は、一般に幼い少女の姿をとって現われるという。稚児の姿になるのは獲物である人間の油断を誘うためともいわれ、その体の元になったのはさらに昔にレミリア・スカーレットに襲われた少女のものであるようだ。

 無論、これは仮初の姿形であるから、子供の身なりをしているからといって安易に近付いてはならない。それはこの狡猾な悪魔が用意した罠であり、人々の庇護欲を刺激し、警戒心を解き、より捕まえやすくするための手段に過ぎないのだ。不幸にも見た目に騙され、寄って来る人間を、彼女は――当然のことではあるが――人外の怪力で捉えると、その喉笛をかっ裂き、噴き出す生き血を啜り、挙句には獲物の血を一滴残らず飲み下してしまう。

 想像するだけ身震いするような恐ろしい話であるが、こうした恐怖は口から口へ人々の間で広く伝播し、伝承の大元となった湖水地方だけでなく、遠く離れたロンドンですら、同時代のある貴族の小話にこの悪魔が登場するくらい広まっていた。大いに誇張された形跡があるとはいえ、16世紀後半のイングランドの住人たちにとって――この時代はエリザベス一世の治世であり、大ブリテンが栄華を極めていたにもかかわらず――繁栄に影を落とす存在であったことは否めない。レミリアは時に、その恐ろしい食事風景の形容から、“紅い悪魔”とも呼ばれていた。

 特に、レミリアが住んでいたという湖水地方での人々の畏怖の具合は飛び抜けており、彼らにとって貴重な食糧であり収入源であるはずの牧羊を、一定数生贄として差し出していたり、他にも小麦などの農作物を献上していた。これは湖水地方の住人に対するある種の租税であり、彼らから見れば自分たちがレミリアに襲われないための保険でもあったようだ。

(中略)

 このようにイングランド中にその悪名を轟かせていたレミリアであるが、実情はそれほど詳しくは分かっていない。あくまで伝承の中においてだが、確かに言える(つまり複数のレミリアに関する伝承の中で共通している)項目は、彼女が幼い少女の姿であること、その背中には蝙蝠のそれを大きくしたような黒い羽根が生えていること、犬歯が大人の男のものよりも大きいこと、岩を砕く怪力と100マイルを一瞬で移動する速度を持つこと、瞳が血のような色合いをしていることである。こうして並べてみると、レミリアについて語られることの多くは彼女の容姿に関したものであり、その背景、例えば家族構成などについての情報はほとんどない。唯一確認出来た事例は、1600年に当時の国会議員の日記に出て来る話として、レミリアには妹が一人居るというものであるが、他に同様の証言は存在しない。

 

 

 

 

 

「まさか……」

 

 

 

 信じられなかった。こんな話があるなんて、あり得るなんて。

 そう。彼女は確かに幼い少女の姿をしていて、けれど犬歯は人よりちょっと大きくて目立つだけで、背中に羽根なんて生えていないし、腕力だって見た目相応だ。

 これは何かの間違い。単なる偶然。

 

「赤城、最初はワタシも信じられなかったワ。でも、あまりにも符号点が多すぎる。彼女の名前を聞いた時、聞き覚えがある気がして調べてみたらこんな資料が出て来た」

「悪魔だなんて、そんな」

「ええ。悪魔が実在するなんてワタシも思いたくない。だけど、よく考えてみて。ワタシたちのEnemy、敵は何? 得体の知れない、深海の化け物。この国の古くからの言葉でいうなら『妖怪変化』。悪魔みたいなものデショ? いえ、そもそもワタシたち自身が人の理から外れた存在。この手の人外が他に居ても不思議じゃナイ」

 

 

 

 足元が崩れていくような気がした。

 自分自身が何かに飲み込まれて行ってしまうような気がした。

 

 ――まあ要するに海の妖怪みたいなもんなのね。

 

 脳裏に蘇る、どこかの紅白巫女の声。彼女は確かに、そんな言葉で深海棲艦を例えた。

 あれは不思議の国の中、夢の中でのことだ。現実じゃない。

 けれど、あの夢の中で紅白巫女の隣に居た「東風谷早苗」は実在の人物で、守矢神社も実在している神社だった。それらの存在は報道により広く世間に知れ渡っている。未解決事件として。

 世間一般ではそうなっているが、赤城はあの神社と東風谷早苗という少女がどこに行ったのかを知っている。その場所の名前を述べることが出来る。

 東風谷早苗は新天地で新たな友人に恵まれたのだろう。それがあの時、紅い館の庭で茶会を楽しんでいた面子なのだ。紅白巫女は彼女の友人の一人である。

 

「こんなことが……」

「動揺しているところ悪いが」

 

 そこで初めて沈黙を守っていた加藤が口を開いた。

 赤城はそれで彼の存在を思い出す。そうだ、このお堅い軍人が伝承に出て来る悪魔のことなど真に受けるだろうか。

 

「幕僚長! これは何かの!」

「赤城、その前にこれを見てくれ」

 

 加藤がそう言うと、示し合わせたように金剛がマウスを動かし、それまで表示されていた英文のサイトから、ブラウザのタブを変えて別のページを起こした。

 それは、対外的に公開しているこの鎮守府のホームページである。内部にいるので意外に見ないものであるが、赤城もこの作成には少し関わっていた。

 

「見ての通り、うちのホームページだ。知っていると思うが、ここに鎮守府長官の挨拶が載っている」

 

 加藤の言葉に合わせて金剛がさらにページを開いていく。目次から、「鎮守府長官の挨拶」という文字を選択し、クリックする。

 わずかなリーディングの間を置いて、ページが切り替わった。

 

「……はあ」

 

 全身から力が急速に抜けていく。体を支え切れなくなって、椅子の背もたれに身を預ける。

 確かに、内部にいる限り対外的なホームページというのはなかなか見る機会のないものだし、作成そのものは軍中枢のシステム部門が担当するわけだから、誰かに言及されたりしない限りは存在すら忘れがちなものである。だが、それにしたってこれはおかしいではないか。どうして誰も気付かなかったのだろう。あるいは、これが悪魔の力とでもいうのか。

 

「俺は、幕僚長じゃなかったのか」

 

 そこに書かれていたのは“鎮守府長官”加藤少将の挨拶である。

 今目の前にいる彼の顔写真と共に、覚えのあり過ぎる挨拶文が綴られていた。それもそのはず、この挨拶文を書いたのは赤城自身であり、「提督」からの依頼で、とにかく当たり障りのない内容を意識して書いた覚えがある。その「提督」というのは、つまりレミリアのことで。

 

「なんで、これが!」

「書いたのはお前で間違いないな。赤城」

 

 加藤が唸るように喋り、赤城に確認する。

 

 そうだ。その通りだ。この挨拶文は、レミリアの言葉として書いたのだ。

 決して、加藤のためではなかった。

 

「これは確かに、“レミリア・スカーレット少将”の名前で書いたんです!」

「それなんだがな」

 

 声を張り上げる赤城を遮り、尚も低い調子で彼は続ける。

 

「我が国海軍に、“レミリア・スカーレット”なる人物は所属していない」

「……っ!」

「所属していた形跡もない。当然、少女の年恰好をした女性軍人など、誰も見たことがないそうだ」

 

 

 

 パキン。と、頭の中で何かが割れる音が響いた。

 夢見心地、というよりはむしろその逆のような、つまり“夢から目が覚めていくような”心地であった。

 そう。赤城は今まで、壮大な夢を見ていたのだ。レミリア・スカーレットなる将軍は存在しておらず、鎮守府の長官は幕僚長だった加藤が後を継ぎ、新しい誰かを迎えることもなくこの鎮守府は少し人が変わって、他は概ね今まで通りに運営されてきていた。

 

 

 何もかも夢だったのだ。

 ふわりと笑いかける小さな少女は風に流される煙のように霧散してゆき、少し舌足らずで威厳に満ちた声は木霊の中に消える。朝の司令室で優雅にコーヒーを飲む背中も、三時に紅茶を嗜む姿も、日傘をさして日光をまぶしく反射するコンクリートの護岸の上を歩く足取りも、踊る舞風を楽しげに見つめる表情も、懐いた工廠の妖精が飛び乗った肩も、「硫黄島」の艦橋でレーダースコープを見下ろしながら不敵な弧を描く口元も、弓道場に響いた絶賛の声も、月明かりの照らす司令室で赤城を抱きしめた温もりも。

 すべてが、何もかもが、幻想となり虚空へ消え去っていく。

 戦闘で意識を失い、「硫黄島」の士官室で目覚めた時のように。温かく穏やかな夢が冷たい現実に溶解し、寂寥が心を埋め尽くしてしまう。

 

 赤城が見ていたのは一体何だったのだろうか。彼女の後ろ姿が溶け込んでいた平穏な日々は、単なる幻でしかなかったのだろうか。

 ならば、この胸を刺す痛みの正体を捉えられないのは何故だろう。

 

 寂しさ? 失望? あるいは別の何か?

 

 分からない。感情の正体も、それの処理の仕方も。

 赤城の優秀な頭脳を持ってすら、まったく答えが出ない。

 事実をどう受け止めればよいのか途方に暮れ、今まで当たり前だと思っていた光景が突然鏡を割るように崩壊していくのを、指を咥えて眺めているしかない。現実と感情のはざまに落とし込まれて、赤城は考えるのをやめた。少なくともそうすれば、理解したくないことを理解せずに済むだろうから。

 しかし。だというのに、目の前の二人が、あるいは現実と名の付く言葉が、容赦なく閉じこもろうとする赤城の扉をこじ開ける。

 

「ワタシたちの提督は、加藤少将で間違いない。レミリア・スカーレットと名乗るあの少女は、ワタシたちを誑かし、騙そうとする正体不明の犯罪者でしかないワ」

「洗脳されているんだ。彼女を無害な人物であると思い込まされている。冷静になれ、赤城。落ち着いて考えれば、何もかもがおかしいことは分かるはずだろう」

 

 囁かれるその言葉たちこそ、悪魔の甘言に聞こえた。

 だけど、極度の混乱の中でもかろうじて失われ切れていない赤城の理性が、二人の言こそが正しいのだと、レミリアこそ幻惑の根源であるのだと、やかましく騒ぎ立てる。

 きっとそうだ。正しいのは金剛や加藤で、レミリアが間違っているのだ。彼女は人を騙して軍の重要ポストに居座っていた悪党なのだ。

 

 

 赤城の信じたあの提督は、偽物だったのだ。

 

 

 

 

 両手で顔を覆う。

 涙が出そうだった。今にも泣き出しそうだった。泣き顔を見られたくなくて、手で顔を覆ったのだ。

 けれど、涙腺が干からびたように涙は出て来ない。こんなにも泣きたいと思っているのに、残酷なほど目は反応しなかった。

 あの時は、自然と涙が出たのに。

 

「Shockingなのは分かるワ。でも、受け入れなきゃ」

 

 赤城は首を振る。いやいやをするように、無言で首を振った。

 やっぱり、目元からは何も出なかった。

 どうやっても泣けない。この感情を吐き出す術を、赤城は持たない。

 だから、しばらく顔を隠したままで、ようやく出て来た声で、言葉を繋いだ。

 

「確かめさせてください。その、機会だけは下さい」

 

 それが、精一杯の懇願だった。

 二人は、渋々といったふうに頷いた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 「硫黄島」が接岸したのは、まだ太陽が姿を見せていない早朝のことであった。起床時間には少し早いが、赤城は寝床から起き出して既に「正装」を身にまとっている。正装というのは、礼服のことではなく艦娘の制服、つまり戦闘服のことであった。

 その上で、最低限の艤装――弓や飛行甲板、主機などを除きそれらの装着部だけを取り付けた状態で赤城は桟橋に立った。

 鎮守府の長たる提督を迎える黒のクラウン・マジェスタが静かに桟橋にやって来る。時間が時間ということで、大戦果を挙げた英雄の帰還にもかかわらず、出迎えはそれほど多くない。赤城と係員とクラウンとタグボートくらいで、思った以上に寂しい凱旋となりそうだ。

 それが、まるで今後を予感しているように思えてならない。空は雲が多く、切れ目からちらちらと旭日の陽光が見えるくらいである。そのくせ、初冬らしい身を切るような寒風が吹き付け、赤城の黒い長髪を無造作にかき乱しては大急ぎで陸へ走り去っていく。

 ゆっくりと桟橋に近づいて来る「硫黄島」の周囲を、不安そうにタグボートが寄り添っているが、彼らは操船術において有名な艦長の見事なコントロールに出番をなくして暇を持て余しているようにも見えた。なんの危なげもなく、全長200メートルを超える巨艦は吸い寄せられるように近づいて来る。甲板から係留索が投げられ、桟橋で受け取った係員らが大急ぎでそれをボラードに巻き付けていった。

 バラ積み船の上に飛行甲板と艦橋を乗っけたような「硫黄島」は、喫水から立ち上がる垂直な舷側をぴたりと岸壁に添える。人が忙しなく動き回り、タラップが大慌てで降ろされると、舷門に堵列員が並び、程なく号笛が鳴らされた。

 悠然と舷門に姿を現すレミリア。堵列員に答礼しながらタラップの前まで来ると、地上に赤城の姿を目に捉えたのか、少し微笑んだ。

 それは、純粋に好意のある者に対して向けられる類の笑み。見た瞬間に胸がチクリと痛む。

 果たして今の自分がそのような笑みを向けられるに値するのだろうか。何しろ赤城は彼女のことを……。

 レミリアがゆっくりとタラップを降りて来る。海軍旗に敬礼すると、運転手が開けたドアからクラウンに乗り込んだ。赤城も、彼女の隣に身を潜り込ませる。

 これらはすべて、海軍提督たる人物に敬意をもって行われる持て成しだ。組織として、提督に対し礼儀を尽くしているのだ。

 では、レミリアはその礼儀を受けるにふさわしい人物であろうか。

 ひょっとしたら、彼女は提督どころか、海軍の軍人ですらない可能性がある。

 

「朝早くからご苦労様」

 

 何も知らない彼女は呑気に部下をねぎらう。

 レミリアは、いい提督だと思う。部下のことをよく見ているし、度量が大きく、作戦指揮の腕もいい。今回の南方遠征においても、大成功と言える戦果を残したのだから、正しく彼女の力は評価されるべきだ。彼女の右腕として任務に従事する赤城にとっても、多少の強引さに目を瞑れば、部下として働くことに何の不満もないし、上官として慕う気持ちがないと言えば嘘になる。

 だからこそ、彼女が本当に海軍の、この鎮守府の提督であるのかを確かめなければならない。赤城にも海軍の一員として、防人としての矜持がある。不惜身命の誓いを立て、戦場の海に打ち出るに、真に仕える相手として果たしてレミリアはふさわしいのか。

 この半年、彼女が赤城たちの間に残したものは大きい。彼女の影響はあまりにも広がっていて、故に彼女の正体が知りたくて仕方がない。

 

「長旅、お疲れ様でした」

 

 赤城は何も悟られないよう、表情を取り繕い、いつも通りを完璧に演じてみせる。内心を気取られては、目論見は破綻してしまう。今赤城に与えられている役割は、何事もなく彼女を鎮守府庁舎の、金剛と加藤が待ち構えている司令室に連れていくことなのだ。

 そこには二人以外にも、加藤に率いられた陸戦隊の精鋭たちが“不測の事態”に備えている。司令室にさえ連れて行けば、何が起こってもどうにでも出来る布陣であった。しかし、逆を言えば司令室は処刑場にも等しい場所であり、まさに赤城は彼女をそこに連行する死刑執行人なのだ。

 だが何より、赤城は思っていることをレミリアに知られたくなかった。単に役割をこなす上での障害になるという意味以上に、感情的にそれが嫌なのだ。これが何の感情なのか、赤城は名前を付けることに躊躇する。

 今更だ。今更、自分がそんなことを思うなんておかしいにもほどがある。

 

 

 ――まるで、自分がレミリアを裏切っているように感じるなんて、本当にどうかしている。

 

 

 

「何か、あった?」

 

 気付けば、紅い大きな瞳が赤城を覗き込んでいる。

 ドキリと心臓が跳ね上がった。その音がレミリアに聞こえなかったかと思い、さらに赤城は肝を冷やす。

 バレてはダメだ。ここでバレては、何もかもが終いになってしまう。

 

「あ、いえ……。少し、考え事をしていまして」

「ふぅん。貴女の頭を悩ませるほどの何があるのかしら?」

「大したことではありませんよ。……強いて言うなら、提督のことでしょうか」

 

 不意に、赤城はすべてを打ち明けたくなる衝動に駆られた。今ここで、レミリアに対して何もかもぶちまけてしまいそうになった。そんなことをすればすべてが終わりだが、「構うもんか」という言葉さえ頭に浮かんだ。この矛盾した感情を抱えたまま演技を続けるくらいなら、いっそのこと愚直な正直者に身を落とした方がましだ。

 けれど、もちろんそんなことが許されるはずがない。自分でも意外なほど強力な自制心が、暴れ出しそうだった感情にタガを締め、今一度仮面を被り直して赤城は「秘書艦赤城」を取り戻す。

 

「私、そんなに貴女を振り回しているかしら?」

「ご着任されてから振り回されてばかりなんですけれど」

「そう? これでも我儘は控えているつもりなんだけどなあ」

 

 ほら、他愛のない会話もこの通りソツなくこなせる。

 車内は至って和やかな雰囲気だ。レミリアの軽口に乗り、リラックスしたムードを作るなど、造作もないこと。すべてをいつも通りに、何も予感させず、何も警戒させず、あそこまで連れて行けばいい。

 レミリアの頭越しに、反対側のサイドウィンドウに映る自分の顔を見る。何もおかしなところはないし、普段と変わりない表情を作れている。

 車はほどなくして鎮守府庁舎の前に停車した。桟橋からここまでの、わずかな距離の移動に使われるだけのもので、鎮守府司令官というのはこうした扱いを受ける者なのだ。

 レミリアにとって、恐らく司令官扱いはこれが最後になる。彼女の今後がどうなるかは分からないが、きっと栄光からは程遠い、暗いものになるだろう。

 そう考えると、どうしてか胸が痛む。

 だが、分からない。何故胸が痛むのか。何故、自分はこんなにも将来を悲観しているのだろうか。むしろ、そうなるべきはレミリアなはずなのに。

 

「さっきの続きだけど」

 

 玄関から建物の中へ、赤城に先導されるレミリアが唐突にそんなことを言い出した。

 

「やっぱり、私は貴女を振り回し過ぎていたかもしれないわね」

「提督?」

「なまじ貴女がよく言うことを聞くし、仕事も出来るからそれに甘えていたのかもしれないわ。ごめんなさいね。大変だったでしょう」

 

 言葉が出なかった。何か言おうとしても、声帯は凍り付いたように動かず空気が漏れるだけだった。

 やめてくれ、と思う。今更そんなふうに謝られても、もう後戻り出来ないところまで来てしまっているのだ。彼女との温かい日々は、二度と訪れることはないのだ。

 それに、何よりこうして彼女に謝られると、まるで自分が悪い気がしてならない。感じる必要のないはずの罪悪感を感じてしまう。

 

「今更かもしれないけどね」

「……えっと」

「でも、それももう終わり。そんなに辛そうな顔して、必死で取り繕わなくてもいいのよ」

「……!」

「この先に何があるか、さすがに予想がつくわ。ケジメは、つけないといけないわね」

 

 赤城の足が止まる。靴の裏が床に張り付いたようだ。

 動かなくなった赤城の脇をレミリアがすり抜ける。

 

「行きましょう」

 

 けれど、赤城は硬直し、案山子のように突っ立ったまま。ついて来ない秘書艦の気配を感じて、レミリアが振り向く。

 いつものように、紅く少し潤んだ瞳が、いつもの位置から赤城を見上げている。そんなふうに背の低い彼女が自分を見上げることに赤城はいつの間にか慣れていたし、彼女に対して俯いて表情を隠そうとしても出来ないことはとうの昔に学んでいた。だというのに、無意識に俯いて、彼女と目を合わせまいとする。もしそうなったら、きっと堪え切れないだろうから。

 

 何か言わなければいけない気がした。

 

 けれど、言うべき言葉は何も出て来なかった。

 

 喉は干からびて、唇は渇き切って。

 

 

 

「行きましょう」

 

 もう一度レミリアはそう言い、再び背を向けて歩き出す。ついぞ何も言うことが出来ず、運命の場所へと向かうその背中を追うしかない。

 

 足は、ゆっくりと動き出した。彼女に追いすがるように、赤城は無言でついていく。

 玄関から司令室までの道は、彼女と共に何度も歩いた。最初は、彼女が着任した時。独特の雰囲気に慣れなくて、やたら気を張って案内した覚えがある。しかし、それもいつの間にかレミリアという存在に慣れたことでなくなり、時に仕事の話をしながら、時に雑談に花を咲かせながら、二人して並んで歩いた。

 一回だけ例外がある。その時は、彼女の前で自分の弓を披露した後で、互いにこの上なく上機嫌で、赤城はこの道を歩いている最中、得意気に射法八節の解説をしていた。後にも先にも彼女を弓道場に招待したのはこの時だけであり、その後にあったこと共に、とても印象深く心に残っている。

 

 わずか半年の間にあったことだ。

 だというのに、思い出がどうしてこんなにも鮮やかに色づいているのだろう。レミリアと過ごした半年が、どうしてこんなにも尊く思えるのだろう。

 それがもう戻らないと分かっているからだろうか。だから、こんなにも大切にして宝箱に仕舞い込んでしまいたくなるのだろうか。

 

 

 レミリアは司令室の前に立つ。すべてを終わらせるその場所へ、彼女はやって来た。

 今ならまだ間に合う。赤城は、彼女の袖を掴んで引き留めるべきなのだ。そうすれば、少なくとも彼女が罪人として貶められることなく、どこか海軍も深海棲艦もいない穏やかな場所に逃がしてあげられるのだから。

 手を伸ばす。紺色の、丈の余った制服の袖を掴もうとして、虚しく赤城の指は空を切った。

 レミリアは、とても罪人とは思えないほど背筋を張り、威風堂々と扉を開けて司令室に入る。そこに何の躊躇もなく、むしろ溢れんばかりの威厳に満ち満ちていて、眩しさに赤城は目を細める。

 金剛の話を聞いた時はとても信じられなかったが、今ならあの話もあながち嘘ではないと思った。

 レミリアが何百万の人間を畏怖させた稀代の悪魔だというのなら、真実それはそうだと、赤城は確信を持って言える気がした。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 司令室の中には、案の定金剛と加藤が待ち構えていた。

 加藤は腰に拳銃のホルダーを下げているし、金剛も赤城と同じく戦闘服をまとい、艤装を装着している。

 中にいるのは二人だけだが、隣の秘書室には手練れの陸戦隊員が控えているのだろう。隠し切れない殺気が司令室の中を満たしている。

 しかし、異様な雰囲気の司令室に入っても、レミリアは変わらず堂々としていた。「ここは私の部屋だ。それの何がおかしい」と言わんばかりに。

 

 

 

「お早う」

 

 声にも張りがある。レミリアはまるで動じていなかったし、そんなレミリアを目の当たりにした金剛や加藤も平然としていた。

 

「お早うゴザイマス」

「お早う。少将」

 

 一触即発の空気の中、朝の挨拶が交わされる。

 

「貴方たち二人がこうして出迎えてくれるなんて、今日は幸先がいいのかしらね」

「そうだな。そうであることを祈ろう」

 

 加藤が尊大な調子で言い放つ。東洋人にしては落ちくぼんだ眼孔から鋭い眼がレミリアを見据えていた。

 

 

 

「レミリア・スカーレット少将。いや、スカーレット・デビルと呼ぶべきか?」

 

 

 

 開戦の狼煙は上げられた。

 その瞬間のレミリアの表情を、司令室の入り口の脇に立った赤城が見ることは出来なかった。しかし、彼女の肩が動揺して跳ねることも、膝が震えることもなかった。

 レミリアは実に、レミリアらしくあったのだ。

 

「その名で呼ばれるのは久しいわね。ということは、貴方たちは私の正体についてもちゃんと分かっているわけね」

「Yes. 貴女は湖水地方で古くから恐れられている悪魔――吸血鬼だ」

 

 そう言って金剛は懐から小さなロザリオを取り出した。銀白色の十字架が、電灯の光を反射する。

 銀のロザリオは、西欧で魔除けの小道具として用いられていると聞いたことがあった。それをレミリアに向けるということの意味を、金剛は分かっているのだろうか。

 いや、もちろん彼女は理解しているだろう。この中で、未だに迷いを残しているのは赤城だけなのだから。

 

「そう。そういうこと……」

「極力こちらとしても穏便に済ませたい。投降してくれないか」

 

 加藤は敵意を隠そうともせず、穏やかな振りをして投降を促す。それが形式的なやり取りであるのは誰にでも分かった。加藤は実力行使に頓着するつもりは毛頭ないのだろう。

 レミリアの力が果たしてどれほどのものかは知れない。だが、一応赤城を含めて艤装を付けた艦娘が二人、さらに数人の選りすぐりの兵士がいるのだ。まず間違いなくレミリアには抵抗の余地がないし、だから加藤もこの上なく強気だ。

 

「それは、私に貴方たちに対して膝をつけということ?」

「そうだ」

「ふぅん」

 

 レミリアはゆっくりと頷いて、それからこう言い放った。

 

 

 

 

「お断りね!」

 

 

 ゴウッと風が唸る。窓を閉め切って密室状態のはずの司令室を、生暖かい風が吹き荒れ、本棚から本が吹き飛び、埃が舞い上がる。

 

「こんな物で」レミリアは金剛へ手を伸ばした。「私を抑え込めるなんて思わないことね」

 

 彼女は金剛からロザリオを捥ぎ取った。艤装を付けた金剛は、常人を遥かに超越した膂力を持っているはずだが、いとも容易く、それこそ幼い子供から物を取り上げるように、レミリアはロザリオを奪ったのだ。

 そして、唖然とする金剛が見ている前で、片手でそのロザリオを握り潰す。小さくとも銀で出来た聖なる十字架は、無残にも金属の屑へと返らされてしまった。

 金剛の顔が色を失う。

 

「化け物め! 突入‼」

 

 拳銃を構えた加藤の合図とともに、秘書室と廊下に繋がるドアをそれぞれ蹴破って、何人もの男たちが雪崩れ込んで来た。全員が全員拳銃を構え、すべての銃口が部屋の中心に立つ向けられている。

 

「観念しろ。逃げ場はないぞ」

 

 銃を構えながら、加藤と金剛はゆっくりと兵士たちの側に寄っていく。寒々としていたはずの朝の司令室の空気はいつの間にか硝煙を微かに含んだ熱気に包まれていた。

 銃を向けられ、男たちに囲まれ、降伏勧告を受けても尚、レミリアは今までと変わらぬ悠然とした姿勢を崩さない。それどころか、声には不遜で不敵な響きが満々と詰められていて、恐らく彼女の口元も声と同じく弧を描いているだろう。

 

「逃げ場か。ないなら、作ればいいじゃない」

 

 おもむろにレミリアは懐に手を入れる。

 警告はなかった。加藤の銃が火を噴いて、破裂するような銃声が轟く。レミリアの体がくの字に折れ曲がり、赤城は息を飲んだ。

 制止も何もない。躊躇のない加藤の暴挙に、怒りの視線を向けてみれば、彼の方が驚愕に目を見開いていた。赤城が一瞬レミリアから視線を外したその刹那に、撃たれたはずの彼女は何事もなかったかのように懐から取り出したものを頭上に放り上げていたのである。

 

 それは、この場で出すにはいささか奇妙に過ぎる物だった。

 何の変哲もない、トランプくらいの大きさの紅い厚紙。表面に何か文字らしきものが書かれているのが見えたが、わずかな間の出来事だったので何だったのかは分からなかった。というより、直後に起こったことで何が書かれていたかなんて気にする余裕が失せてしまったのだ。

 投げられたカードは、天井近くまで勢いを保ったがすぐに重力に引っ張られ、ひらりひらりと舞い落ちる。

 

 ――レッド・マジック!

 

 言葉は、彼女が発したのだろう。

 赤い魔法。

 

 まさにその通り、魔法のようにカードから赤い色の弾が飛び出して来た。

 

 

 バケツをひっくり返したかのように、カードから溢れ出る赤い弾。二種類あった。バレーボール大の、わずかに発光する半透明の大きい弾とゴルフボールサイズの小さい弾がそれぞれ雪崩れるようにレミリアに向けて落ちていく。

 だが、彼女に向かっていくのは魔法の弾だけではなかった。耳をつんざく銃声が連続し、ほとんど反射的に加藤が拳銃を連射する。次々と殺意の鉛弾がレミリアの柔らかく小さい体を撃ち抜いていった。

 紺色の制服に血が滲んでそこだけ色が濃くなる。崩れ落ちる彼女の体を、頭上から降って来た赤い弾の群れが隠してしまう。

 

 すべてがスローモーションに見えた。

 

 訳も分からず、赤城は光景を眺めているしかなかったし、目の前で起こっていることが常軌を逸脱し過ぎていて反応しろという方が無理だろう。早過ぎる、そしてあまりにも暴力的な加藤の銃撃と、目を疑うような魔法の同時進行に、金剛や突入して来た陸戦隊員たちもあっけにとられて動きを止める中、レミリアを覆い尽くした赤い弾が、床に衝突し、跳ね返ったのだ。

 

 

 動きはまるでピンポン玉だった。大量のピンポン玉をばらまいたような現象が起きた。

 

 

 無尽蔵に、無秩序にカードから溢れ出る大小の赤い弾が床で反射し、さらに互いやレミリアの体にぶつかり合って、不規則に部屋中に飛び散ったのである。

 

 

 

 一瞬で室内は大混乱に陥った。

 無数の弾がその場にいる全員に襲い掛かり、さらに壁や天井に跳ね返って前後左右上下、あらゆる方向から飛んで来た。

 もちろん、赤城もそれに巻き込まれた。とにかく接触面積を減らそうと、頭を抱えてその場にうずくまる。腕や胴体にどんどんと弾が衝突し、その度に誰かに叩かれたような衝撃が全身に伝わる。幸いにして、弾の威力はそれほど高くない。当たってもせいぜい痛いだけなのだが、それが何十発と押し寄せて来るとなると話は変わってくる。

 再び銃声が轟き、ガラスの割れる派手な音が連続し、悲鳴が木霊した。「銃を撃つな!」と誰かが怒鳴る。

 さらに、パァンと弾ける大音響が炸裂し、一層激しい弾幕が降り掛かって来た。たまらず、赤城は這って部屋から出ようとする。

 弾幕の中で必死に顔を上げたその目の前を、小さな足が横切った。

 

 

 

 

「さようなら」

 

 

 

 

 混迷を極める喧騒の中で、遠くから聞こえたような、それでいて耳元で囁かれたような声が確かにした。

 誰の声かは言うまでもない。

 レミリアはやはり人間ではなかったのだ。あれだけ何発もの銃弾を浴びても、彼女は元気に走って逃げ出せている。その事実に、少し、ほんの少し赤城は安堵した。ひょっとしたら彼女が永遠に失われてしまったかもしれないなんて思ったから。

 だけど、まだ何も終わっていない。終わらせるわけにもいかない。

 

「提督!!」

 

 赤城は叫びながら立ち上がり、レミリアの後を追った。未だ弾幕溢れる部屋から、背中に弾を浴びながら押されるように飛び出した。

 外の廊下も大変なことになっている。司令室から赤城より先に脱出した陸戦隊員が、開け放たれた扉から廊下にまで溢れて来た弾幕に叩かれているのだ。ピンポン玉のように、そしてピンポン玉よりも長く跳ね続ける赤い弾が、ポンポンと廊下を飛び回っている。弾は部屋の中からどんどん出て来ていて、いくらもしない内にこの廊下も司令室の中と同じくらいの混乱に覆い尽くされてしまうだろう。そうなる前に、赤城は全力で廊下を駆け抜けた。

 跳ね回る大小の魔弾に自ら体をぶつけるように、弾を弾き飛ばすようにして突進すると、その内階下へ降りる階段に到達する。レミリアの逃げ足は思いの外早く、既に視界の中にはその痕跡すら見付けることが出来ない。とにかく下に降りたのだろうとあたりを付けて段飛ばしで駆け下だり、最後の三段は省略して飛び降りた。

 よくよく考えれば、今のレミリアに逃げ場などないはずだ。加藤のことだから警衛所や歩哨にもきちんと根回しをして、万に一つにもレミリアが鎮守府から脱出出来ないようにしていることだろう。軍事施設というのは入るのも難しいが、出るのも難しい、ある意味でそれ自体が広い密室のような空間だ。まして、こうなってはまともな手段での脱出など不可能である。

 ならば、レミリアはどこに行くだろう? 彼女が吸血鬼なら、もうそろそろ水平線に姿を現した太陽はまさに天敵なはずだから、日の当たるところには行かないだろう。

 とすれば、日陰。建物の中。

 この鎮守府庁舎の中のどこかに隠れる? いや、混乱から復帰した加藤がすぐさま捜索隊を編成するだろうから、どこに隠れても見つけられてしまう。

 では、どうする? 赤城がレミリアなら、どういう手段を採るだろうか?

 

 頭を絞った。けれど、案など思い浮かばない。小説の主人公でもないのだから、窮地に咄嗟の機転を利かすなんてそうそう出来るものでもない。赤城は艦娘として戦場で戦ってきたから、多少の不測事態には対応出来るが、今回のようなことは初めてだし、元々混乱していて頭が上手く働かない。

 そして、それに反比例するように感情は空転し始め、焦燥がさらに赤城を駆り立てる。

 何としてでもレミリアと会わないといけない。

 先程、司令室への道中でついぞ言えなかった言葉を、別れを告げた彼女に赤城も言わなければならない言葉を、どうしてもこの口で届けなければならない。

 ただの提督と艦娘としてではない。自らの妹に対するそれと同等の慈しみをもって、赤城がずっと前に喪ってしまった姉の代わりとして、この身を抱き締めてくれた彼女に、まだ何も返していないのだから。肉親を喪った寂しさを、ほんの少しだけ温めてくれたお礼をしていないのだから。

 

 少し前の自分を、最後のチャンスを不意にしてしまった愚か者を、この手で殴り飛ばしたい。

 あの時、ちゃんと言葉にしていればこんなひどいことにはならなかったはずだ。きっと、自分が取るべき行動も正しく選択出来ただろう。振り回したことを謝罪し、最後の最後まで提督として堂々と振舞った彼女に、あんな無様をさせるべきではなかった。

 レミリアが加藤に降伏勧告を受け、罪人のように扱われた時、赤城の胸中に生まれたその感情を名付けるなら、それは「怒り」以外にない。レミリアへの侮辱は、赤城への侮辱であったのだ。

 

 

 

 どうして気付かなかったのだろう。

 

 ――ああ、そうだ。

 

 私は、提督を、レミリアを、慕い、信じていたのだ。

 貴女の下で戦えることに、誇りを持っていたのだ。貴女の手兵であることに矜持を抱いていたのだ。

 貴女が例え軍人でなくとも、人間ではない悪魔であったとしても、人々を騙してその地位を手に入れていたのだとしても。

 貴女が私の提督であり、私が貴女に抱いた感情に嘘偽りはありません。貴女が、私に本当の慈愛を注いでくれたように。

 

 

 

 

 

「提督‼」

 

 彼女を呼び止めるために、追いつくために、声の限りを絞り出す。

 

「出て来て下さい!」

 

 階段をさらに降りて一階に到達しても、やはりレミリアの姿はない。

 騒ぎを聞きつけた職員たちがやって来る。

 

「誰か! 提督の姿を見ていませんか!?」

 

 事情を知らない彼らは戸惑い、一様に首を振るだけ。

 問答する時間も惜しい。赤城はさらに駆け出した。玄関へ回るが、そこにも誰もいない。

 

「提督! 赤城です。貴女の赤城ですッ‼」

 

 声が枯れてもいいと思った。とにかく会わなければ、会って想いを伝えなければ、その一心で叫び続けた。

 廊下を駆け抜け、何度も人とぶつかりそうになり、足がもつれて躓きながらも、必死で走った。

 正面に居ないなら、建物の裏手。ちょうど西側であり、庁舎自体が日光を遮る陰になる休憩所の方に回り込む。

 唸る自販機が並ぶ休憩所。当然のことながら、朝食前のこの時間では誰もいない。しかし、人の気配はした。

 レミリアがいるのかと思った。期待に胸が跳ね、赤城は休憩所のさらに裏手に飛び出す。

 ブオン、というのはエンジン音だろう。

 今まで見たこともないこんな早い時間に、見慣れた飲料会社のトラックがある。今まさにエンジンを掛けて出ようとしたところで、運転席の窓越しに赤髪のいつもの女と目が合う。

 ちょっと前に赤城の休日の話し相手をしてくれた人のいい彼女だ。名前は知らない。どこかの書類で見たはずだが、記憶がない。

 彼女は相変わらず愛想よくにこにこと笑い、赤城に向けて会釈すると車を発進させた。

 どうして彼女はこんな時間に来ているのだろう。予定の関係で朝になってしまったのか。

 走り去るトラック。庁舎の裏手からそのまま裏門に抜けていくつもりだろう。

 

「……まさか!」

 

 いくらなんでも不自然過ぎやしないか。この時間は確かに休憩所に人は居ないが、だからと言って少し早過ぎるのではないか。

 何より、彼女が鎮守府を脱出する手段は、現状あのトラックに隠れて運ばれる以外にないのではないか?

 毎週鎮守府に来ている飲料会社のトラックだ。あの女と衛兵たちも顔見知りだろう。ましてや出て行くトラックの荷台の検査なんてしないはずだ。

 

 再び、赤城は駆け出した。脱兎の如く、飛び出した。

 弾丸の如く朝日に照らされるアスファルトの道を突っ走る。しかし、女は気付いているのか気付いていて無視しているのか、トラックはどんどん遠のいていく。

 海の上なら車より早く走れるのに、陸ではあまりに遅い。スクリューを回転させるのと同じように、足は動いてくれない。

 

「待って! ……待って」

 

 息が切れる。酸素を求めて肺が激しく脈動する。

 こんなに苦しいのに、こんなに全力を出しているのに、トラックと赤城の距離は無情にも離れる一方。どれだけ走っても追い付けない。艤装を付けていても、陸の上では艦娘の足は普通の人間と大差ないのだ。 そもそも、速く走るためにあるわけではない。トラックの後ろ姿は警備隊の建物の角を曲がって見えなくなった。その先は、もうすぐ裏門である。

 裏門では許可証を返すためだけに少しの間止まるはずだ。しかし、その間に追い付けるはずがなかった。

 警備隊の建物を曲がる。真正面に裏門。すでに門を出たトラック。

 

「待って! 提督! 待って‼」

 

 叫んでも、もう声は届かない。伸ばした手の指の間から、街中へ消えてゆくトラックを見送るしかない。

 

 

「てい、とく……」

 

 

 足は自然と止まった。膝に手をついて、荒い息を吐き出す。

 顎を滴が伝い、汗とは別の水が頬を流れ落ちる。

 悔しかった。何よりも、寸でのところで何も言えず、チャンスをふいにして失ってしまったことが、それらすべてが自分の不甲斐なさによるものだから、何よりも悔しかった。

 

 レミリアは逃げ切ったのだ。

 周囲のすべてが敵となったこの基地から、見事逃げおおせた。

 実に早い転落だろう。ついさっきまで、彼女は栄光の凱旋を果たしていたのだ。それが、たった十数分の間に一転、逃亡者になってしまった。

 だが、赤城にとってそれは些末のことである。十数分前までの自分なら言えなかったことは、今ならはっきりと宣言出来る。

 

「提督……。私は、貴女の」

 

 届かない言葉を口にする。このまま自分の中で腐らせていても仕方がないと思った。

 だけど、続きを言えなかった。

 絶対に聞こえない想いを虚空に告げても、一体それが何になるのだ。もう、自分が彼女と会うことは二度とないのだから。こんな別れ方になってしまったのは、すべて自分のせいなのだから。

 もっといい終わらせ方があったはずだ。誇り高い彼女を傷付けずに逃がせることだって出来たはずだ。

 

 

 

 

「赤城さん!」

 

 誰かが名前を呼んでいる。

 とても、聞き慣れた声だ。ああ、彼女ならきっと……。

 

「赤城さん!!」

 

 加賀は、普段の冷静さが嘘のように取り乱していた。いつもは低く、ぼそぼそと聞き取りにくい言葉しか発しない口で、聞いたこともないほど大きな声で叫んでいる。

 彼女は茫然自失とする赤城の肩を揺さぶり、反応しないのを見て抱き締めた。

 

「赤城さん。落ち着いて」

「……ぅあ」

 

 涙が止まらない。ぼろぼろと目元のダムを決壊させながら、赤城は加賀に身を任せて泣いた。

 

「本当に……。貴女がこんなに泣くだなんて……」

 

 加賀の、人より少し高い体温が、黒い穴の開いた赤城の胸に温もりを注ぎ込んでいく。失ってしまったもの、失ってしまったことに嘆く赤城を、結局加賀は無言で支え続けるしかなかったのだろう。だから、赤城も何も言わず、訳も話さず、ただ溢れる感情を溢れるままに、加賀の胸に顔を埋めて泣き続けた。

 その間に、遠くでサイレンが鳴り、加藤の声が鎮守府中のスピーカーから流れて来る。

 彼は、レミリアがスパイであること、総員で捜索し必ず発見すること、抵抗する場合は射撃も許可することを繰り返して告げた。早朝の基地は俄かに騒がしくなり、軍靴の音が赤城と加賀の横を走り抜けていく。

 加賀の鼓動は変わらない。落ち着いているのか、彼女は赤城を慰めるのに一生懸命気を割いていてくれているようだった。赤城を離さなかったし、赤城も離れようとはしなかった。それどころか、赤城は加藤の放送を聞き、涙を流しながらも笑っていたのだ。

 嗚咽の中に笑い声を隠し、カタカタと身を震わせる。

 赤城の更なる異変に気付いた加賀が覗き込んできた。

 

「赤城、さん?」

 

 彼女はギョッとしただろう。何しろ、つい今し方まで泣いていたはずの赤城が、何故か笑っているのだ。それは、赤城自身ですらおかしいと思っているのだから、加賀からすれば尚のこと理解し難いに違いない。

 だけど、笑っているのにはちゃんと理由がある。

 必死でレミリアを捉えようとする加藤。スピーカー越しに伝わって来る彼の妄執じみた感情を、赤城は嘲笑っているのだ。ざまあ見ろ! お前の捕まえたい相手はお前の手の届かないところへ逃げおおせたんだぞ、と。

 しかしそこは赤城も手の届かないところでもあり、加藤に捕まえられないレミリアは、同様に赤城にも捕まえられないのである。それを自覚すると、衝動がもう一度こみ上げて来て、赤城はまた加賀の胸に顔を叩きつけるようにして慟哭した。

 もう、ぐちゃぐちゃだった。泣いて、笑って、赤城の中は整理がつかないほど滅茶苦茶に荒れ切っていた。

 傍らの加賀も混乱の極みにあっただろう。支離滅裂な同僚の姿を見て、彼女は困り果てているだろう。

 赤城は動かず、加賀は動けず、二人して道の真ん中で固まっているしかなかった。

 

 

 

****

 

 

 

 赤城がようやく泣き止んだのは、それから五分ほどした時だった。

 さすがに泣き過ぎたのか、涙はもう絞っても出そうになかったし、体力を消耗して加賀の支えなしでは一人でまともに立つことすら出来なくなっていた。そんな情けない同僚のことを、加賀は決して邪険に扱わなかったし、もたれ掛かるばかりの赤城に彼女はしっかりと寄り添った。

 今は、その優しさが何より身に染みる。

 そうだ。いつだって加賀は赤城の隣にいてくれて、言葉は多くないけれど大事なことを察して支えてくれるのだ。

 今更ながらに、自分は加賀なしではやっていけないなと思う。

 

「聞きたいことはたくさんあるけど、取り合えず朝食にしましょうか」

 

 食事の話を振ってくれたのは、加賀なりの気遣いだろう。感謝しながら、赤城は頷いた。

 

「でもその前に、貴女は顔を洗ってきた方がいいわ。とても人前に出られない」

 

 赤城はもう一度無言で頷いた。

 

「今の時間なら食堂は人が少ないはず。みんな、さっきの号令で出払っているから」

 

 加賀は、彼女にしてはえらく饒舌だ。どちらかというと、彼女はあまり気の遣い方が上手ではないが今はとにかくそんな他愛もない、中身もない言葉が嬉しかった。

 

「私もお腹が減ってきました。今日のメニューは何かしら」

 

 結局、話し掛けるのは加賀だけで、赤城はずっと何も言わないまま半分引きずられるように一旦寮に戻って来た。

 途中、何人もの兵士を見かけたが、誰も何も声を掛けようとはしなかった。天下の一航戦である加賀が睨みを利かせて、近寄らせなかったのだろう。がっちりと彼女に守られていたお陰で赤城は何とか寮まで戻れたのだ。

 自室に申し訳程度に備え付けられた洗面台で鏡を見ると、酷く憔悴した女がそこにいた。髪もぼさぼさで、どこかのホラー映画に出て来る幽霊と言われてもおかしくなさそうだ。目元など、普段の一.五倍くらいに腫れ上がってしまっている。

 確かに、これでは人前に出られない。何度か派手に水を撒きながら顔を洗ってみるが、ちっとも良くならなかった。

 仕方がないので赤城は顔を洗うのをやめて、タオルで水をふき取りながら洗面台から寝室へ移動する。不思議なことに、何故か室内に加賀の姿がなかった。トイレを見たがやはりおらず、気配も全くしない。どうやら顔を洗っている間にどこかに出掛けてしまったようだった。

 一人になり、ようやく赤城は落ち着きを取り戻してきた。

 起こったことの整理はまだつかないし、今後のことも考えられない。まして、レミリアのことなどもっての外だ。

 今日は一日、この自室の中で閉じこもっていたい気分だった。けれど、赤城は秘書艦だし、艦娘のまとめ役だ。レミリアのことは加賀や事情の知らない他の艦娘に説明する必要があるし、この大騒動の収集にも当たらなければならない。誰も赤城が休むことなど許さないだろう。

 ひょっとしたら、レミリアなら「貴女酷い顔をしているわ。今日は出なくていいわよ」くらい言ってくれたかもしれないけれど。

 

 

 いや、やめよう。

 赤城は首を振って邪念を振り払った。彼女はもういない。戻っても来ない。

 顔色を隠す厚化粧は、提督不在の一時期の激務ですっかり身に馴染んでいる。やっている内に加賀も戻って来るだろう。

 そうして化粧台で必死に顔を作っている間に、思った通り加賀が戻って来た。手にはビニール袋。

 

「お帰り」

「もう、大丈夫なの? 今日くらいは体調不良で休んでいても」

「そんなこと、言ってる場合じゃないわ」

 

 どちらかと言えば、自分に言い聞かせるように言ったつもりだった。けれど、加賀は自分の心配への否定と捉えたのか、頬を膨らませたが不満は口にしなかった。代わりに、袋の中身を取り出して、部屋の真ん中に置かれているテーブルの上に並べる。

 鏡越しに確認すると、菓子パンだった。

 

「食堂、閉まっているの」

「……そう」

 

 理由は言われなくとも察しがついた。この状況下では、恐らく食堂は昼まで開かないだろう。加藤は鎮守府の警戒レベルを引き上げたはずだから、外部の人間の出入りも制限される。売店も開かないはずなので、菓子パンの出どころは買い溜めをしていた他の艦娘か。例えば、七駆の漣とかだろう。

 

「加賀さん」

「はい」

「ありがとうございます」

「いえ。どういたしまして」

 

 会話はそれだけ。でも、赤城と加賀の会話というのはいつもこんなものだ。

 味気ないと言えば味気ないけれど、こんなものでも通じ合っているのだから、信頼というのは強固に結ばれている。彼女の、静かな優しさが純粋に嬉しかった。

 これから先のことは、きっと赤城にとって辛いことになる。レミリアは罪人として扱われ、彼女を侮辱する無数の言葉を聞くことになるだろう。彼女自身はそうした声からは隔絶した場所に逃れられたとは言え、赤城は苦痛を堪え、耳を塞ぐわけにはいかないし、レミリアが逮捕される可能性がなくなったわけでもない。

 何より、別れの言葉を告げられなかったことが心残りだった。

 

 

 

 

 

「赤城さん」

 

 化粧を終えてそれまで着ていた制服から作業服へ、装いを変える赤城の背中に加賀が呟いた。

 

「はい。何でしょうか」

「……これは、私の邪推でしかないけど、良かったら聞いてくれる?」

「はい」

「赤城さん」

 

 背中越しに返事をすると、もう一度彼女は名前を呼んだ。

 

 そういえば、彼女はどこまで知っているのだろう。どこまで見ていたのだろう。

 金剛と加藤の二人は加賀まで情報を回さなかったはずだ。何しろ、彼女は傍目に見てもレミリア贔屓なところがあったし、この潔癖な同僚は恐らくああいうやり方を許すような性格をしていない。それは逆を言えば、加賀から軽蔑の対象になり得る、レミリアの失脚の企みに参加してしまったということなのだが、彼女は果たしてそこまで分かっているのだろうか。

 

 いや、確認するまでもない。

 加賀は聡い。きっと、全ての事情を知らなくとも、わずかな断片的な情報から全体を想像してしまっているに違いない。そして、その上で赤城を慰めてくれたのだし、寄り添ってくれている。

 

 

 

「提督に何かを伝え損ねて、電話もメールもないなら」

 

 彼女はとても優しい心の持ち主だ。

 だから、赤城にとって今最も必要な言葉を囁いてくれる。

 

「私たちは空母よ。矢文という手もあるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 赤城は疾風のように鎮守府の敷地を駆け抜けた。

 レミリアを追い掛けた時よりもずっとか速く走った。

 その異様なまでの健脚に驚いた人々が振り向く視線も意に介さず、一心不乱、猪突猛進に整備工廠を目指す。

 

 目的は自分の弓だ。練習弓ではなく、実際に海上に出て、敵を射るために用いる戦弓だ。

 寮を飛び出し、無機質なアスファルトを踏み、緑を落とした冬の木々を傍目に見て、猛然と工廠に突入する。突然、鬼のような形相で髪を振り乱して飛び込んで来た赤城に、工員たちは皆唾を飲み込んだ。ずんずんと建物の中に入り込んで来た赤城を誰も咎めようとすらしない。

 赤城は真っ直ぐ艤装の保管庫に来ると、ドアの横にある電子端末に人差し指を押し当て、パスワードを打ち込む。指紋認証とパスの二重鍵だが、設定したのは他ならぬ赤城である。圧縮空気の漏れる音を出しながら保管庫のドアが開くと、赤城は大股で入室した。

 自分の艤装は一番奥にある。命令もないのに勝手に持ち出し使用することは、本来ならば軍規に違反するところだが、構いはしなかった。

 罰なら後でいくらでも受けられる。でも、今しか出来ないことがあるのだ。

 

 赤城は戦弓と、矢を一本持ち出した。

 工廠を飛び出し、視界の広がる前の広場の中心に立つ。

 両足を肩幅に開き、矢を番えた弓を斜め四十五度に掲げる。鏃の向かう空はよく冬晴れした青色で、澄み渡っていた。朝方に覆っていた雲もいつの間にかどこかに行ってしまっている。

 これだけ天気が良ければ、空から下界はよく見えるだろう。渾身の力で弦を引きつつ、赤城は最後に見た飲料会社のトラックを鮮明に想起する。

 

「届いて」

 

 押し出すように呟いた。

 勢い良く放たれる矢。鏃の後ろに、白い紙を結んだ赤城の矢だ。

 矢は高く飛び上がった後、一機の小さな飛行機へと姿を変える。

 

 

 艦上偵察機「彩雲」

 赤城たち空母の目であり、大海原から敵を見つけ出す索敵能力と、どんな敵機の追随も許さない快足の持ち主。今は、追われる者ではなく追う者として翼を広げていた。

 パイロットである妖精ともども、機体はもう帰って来ないかもしれない。むしろ、帰って来なければいいのだ。

 妖精は格好良く敬礼していた。彩雲という装備の化身である彼は、こうして赤城のメッセンジャーとして飛行出来ることを喜んでさえいた。だから、赤城はこの彩雲に総てを託したのだ。

 どうか、私と彼女の間の架け橋になってくれますように、と。

 

 

 

****

 

 

 

 流れ往く街の風景。

 幻想郷にない、コンクリートの森。

 サイドウィンドウにうっすらと反射する自分の顔は、窓に映る景色に紛れて判然としない。けれど、今はそれでいい。憮然とした自分の顔など見ても気持ちがいいものではないだろうから。

 

「危ないところでしたけど、何とかなって良かったですねえ」

 

 隣の運転席でハンドルを握る、飲料会社の作業着を着た部下が呑気なことを言っている。それがまた板についていて、こんな場合じゃなかったら声に出して笑ってやっていただろう。しかし、生憎レミリアはにこりとも笑える気分ではなかった。

 

「あの人、赤城さんでしたっけ。最後まで追って来ていましたよ」

 

 レミリアの機嫌を察していないのか、察していて敢えてそうしているのか、部下――紅美鈴は構わず喋り続ける。

 「うるさい」と言って黙らせることは簡単だが、何故だかそんな気が起きなかったし、さりとて会話に乗る気もなかった。結局レミリアが取った選択肢は、黙って美鈴の独り言を聞いていることだった。

 

「何か、言うつもりだったんじゃないんですかね。捕まえようという感じはしませんでした」

 

 レミリアはその姿を見ていない。その時、レミリアは美鈴が運転するトラックの荷台の中に身を潜めていたからで、助手席に座ったのは鎮守府からいくらか離れたコンビニの駐車場でのことだ。それから、レミリアは自らの顔を隠すように目深に帽子をかぶり、ずっと窓の外を眺めていた。この間に発した言葉は一つもない。

 美鈴は、その能力から、殊“気を遣う”ということに対して他人よりもずっと秀でているはずだ。だというのに、彼女は無神経にも話を続けるし、内容もレミリアの機嫌を下げるのにこれ以上ないくらいふさわしい話題だった。

 

「お嬢様、あの人のことを結構気に入ってましたよね」

 

 それら、美鈴の言うことの一切をレミリアは無視した。口を開けば、この罪のあまりない部下に八つ当たりをしてしまいそうだったからだ。

 

「最後に何か、言うべきだったんじゃないかと思います」

 

 もう戻っては来れませんからね。美鈴の言葉には、言外にそんな響きが含まれている。

 言われなくても分かっているよと返したい。別れの言葉を告げたけれど、レミリアが赤城に対して言いたかったのはそんなことではない。

 彼女が走ってトラックを追い掛けて来ていたのは気配で分かっている。トラックを止めようと思えば止められたし、実際美鈴もそのつもりだったのだろう。

 けれど、結局レミリアは何もしなかった。そのまま、鎮守府から、後を追う赤城から、逃げ去ってしまったのだ。

 もしあの時、車を止めて彼女と顔を合わせていれば、きっとレミリアは威厳を保てなかった。彼女の慕う提督像を最後の最後で崩してしまったに違いなかった。見た目相応の我儘を言って、彼女を失望させてしまっていたに違いない。

 

 吸血鬼とて鬼の一種。この国で鬼が人を攫ったように、レミリアもかつて祖国で無数の人間を誘拐し、血の生贄としてきた。今でこそ幻想郷のルールという縛りもあって人攫いはしなくなったものの、それは出来なくなったことを意味するのではない。幻想郷の外でなら、レミリアは鬼として振舞い、鬼として人を攫えるだろう。

 だが、赤城は攫ってはならない人だ。

 彼女はこの国を守るために欠かせない人材で、何より艦娘として誇りに満ちている。そんな存在を、自らの勝手な感情で攫ってしまうほどレミリアは幼くないし、伊達に五百年も生きていない。レミリアが本当に気に入っていたのは、弱さや脆さを抱えながらも崇高な赤城の姿なのだから。彼女を攫ってしまったら、その瞬間彼女に対する興味は失せてしまうに違いなかった。

 だから、最後に会わなかったのだ。

 彼女がそれによってどれ程傷付くか分かっていようとも、レミリアは荷台の隅で蹲って彼女の気配が遠のいていくのを静かに待つより他なかった。

 

 美鈴もいよいよ何も言わなくなっていた。空虚に言葉を掛けても仕方がないと諦めたのか、ついに内心を察してくれたのか。

 ただ無言がキャビンを支配し、トラックは街から郊外へ。郊外から山へと進んでゆく。

 空は憎らしいほどすっきりと晴れ渡り、日の光を浴びれない吸血鬼には毒々しささえ感じられる青色をしている。トラックは一路北へ向かっているのでキャビンの中まで日光が入って来ることはないが、天気の良さとレミリアの機嫌というのは反比例の関係にある。

 

 

 車は山道に差し掛かった。枯れた木立は森の中の見通しを良くして、生命が隠れる冬がやって来たことを明示している。

 冬は嫌いだった。

 寒いし、乾燥しているし、雪は冷たくて触りたくないし、暖炉が部屋を暖めるにも時間がかかって、その間レミリアはベッドに潜り込んだまま。そして何より、冬は生き物の姿がめっきり減って寂しくなる。静かなのは好むところであるが、やはりレミリアは賑やかなところの方が好きなのだ。

 しかし、今日ばかりは木々が葉を落とし、視界が広がっていたことがいい方向に働いた。

 

「お嬢様。車、停めますね」

 

 そう言うと、美鈴はレミリアの返事も待たずトラックを適当な木陰になっている道端に停車させた。そして、彼女は「外に出てみてください」と言うのだ。

 何事か。問い詰めることはなく、レミリアは言われるがままドアを開けて外に出る。「上です」と同じく道に降りた美鈴がトラック越しに声を掛ける。

 レミリアは空を見上げた。

 枯葉がわずかに残るばかりの茶色い枝の向こうに青空と、自分に向かって飛び込んで来る何か。

 ドンと、胸に衝撃が伝わった。反射的にぶつかったそれを掴むと、固い金属の感触がする。

 物を見て驚いた。

 そこにあったのは、空母娘が飛ばすミニチュアサイズの艦載機なのだ。

 濃緑色の機体、そのコクピットからのっそりとパイロットである妖精が這い出て来て勢い良く敬礼する。機体の後部、尾翼の手前には一本の赤い帯が描かれていて、この飛行機の所属を教えてくれていた。

 

「そうか。お前は……」

 

 妖精は頷く。そして、必死で小さな手を振って、機体の下の方を指さした。

 何かあるのか。覗き込んでみると、小さな白い紙が括り付けられている。

 

「お。飛行機?」

 

 ちょうどタイミング良く車体を回り込んでレミリアの隣にやって来た美鈴に艦載機と妖精を押し付け、レミリアは機体から取った紙を開く。何かのメモ用紙の片隅を破いただけの小さな紙片で、震える指には少々扱いづらい。

 意外に手こずりながら、几帳面に折り目正しく畳まれた紙片を開く。その正体は、予想通りの手紙だった。

 よく見知った、やや筆圧が弱くて線の細い、彼女の性格を表すように細やかで角のまるい丁寧な文字が書き綴られている。

 いや、書き綴られているなんて大層なものではなくて、手紙はとても短かった。余程切羽詰まって書いたらしい。

 溢れるほどのその想いを、彼女は無理矢理一言に詰め込んでいた。

 

 

 

「拝啓 レミリア・スカーレット提督

 

 今まで、ありがとうございました。

 

 貴女の赤城より」

 

 

 

 

 

 静かな木漏れ日が斑の濃淡をつくる山道を、車は走って行く。

 カーラジオからは最近流行りのポップス音楽が流れ、女性歌手がアップテンポの曲を歌っていた。美鈴曰く「よく聞くんですよ」とのことで、すっかりメロディーを覚えたのか、彼女は曲に合わせて鼻歌を鳴らしている。

 幹枝ばかりが目立つようになってすっかり冬の色に変わった山を眺めながら、レミリアは相変わらず無言を貫いていた。手元には寒くなっても葉を落とさない杉のような色の飛行機と、それにもたれ掛かって鼻提灯を膨らませる妖精。大切な手紙は胸のポケットに折り目正しく仕舞い込んでいる。

 

「帰ったら、飲みに行きましょうか」

 

 お気に入りの流行歌が終わると美鈴が唐突に提案した。

 

「どこに?」

 

 と、今度はレミリアもちゃんと反応する。

 

「霊夢のところでもいいし、夜雀の屋台でも」

「それなら神社がいいわ。海を知らない連中に、海の良さを自慢してやりたいの」

「あはは。魔理沙辺りが食いついてきそうですね。あ!」

「何?」

「ああ。お土産忘れちゃった。咲夜さんに海の幸を色々頼まれてたんだけど」

「最後、ばたばたしていたから仕方がないわ。ま、これで済ませましょう」

 

 そう言ってレミリアは懐から缶詰を一つ取り出す。秋刀魚の缶詰だ。

 

「おお! お嬢様、どこでこんな物を?」

「拝借したの」

「海軍伝統の銀縄ですか。お手が早い!」

「誉め言葉じゃないような」

「ふふ。これで何とか『五分間耐久殺人ドール』の刑は免れましたね」

「何それ?」

「咲夜さんの『お仕置き百式・その百五十一』です」

「百式なのに百を超えてるって、これ如何に」

「今は五百を超えていますね。もうすぐお嬢様のご年齢に追い付きますよ」

「何をやってるのよ。貴女たち」

 

 他愛もない会話。

 行く先には、あの騒動だらけで平和な幻想郷。

 海から、戦場から遠く離れた半年ぶりの棲み処。

 レミリアの居ない間に誰かがまた異変騒ぎを起こしたのだろうか。あるいはいつものように少女たちが笑い、特に変化のない、けれど楽しい時間が流れているのだろうか。

 

 幻想は幻想郷に。

 

 あるべきものがあるべきところに収まる。交差した運命の糸はほつれて、またそれぞれの道をゆく。

 

 

 

 

「またね。赤城」

 

 

 

 呟いた言葉はエンジン音に紛れ、儚く消えていった。

 

 

 

 

 


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