こんごうさんじゅうななさい
もう何度目か分からないある茶会の時、レミリア・スカーレットは不意に、年老いた人間のように昔話を始めた。老人の昔話が長いとはその通りだが、レミリアの場合もまた同じことが言えた。すなわち、彼女は人並み以上の優れた記憶力にて脳裏に刻んだ事情を、事細かに説明しながら、初めて海を見た時のことを語ってくれたのである。
それは奇しくも、金剛が見ていた故郷の風景と同じ海であった。レミリアの口から言葉にして中空に描かれる海の景色は、金剛の記憶の中にあるそれと寸分違わず、吹き付ける風の感触と濃厚な潮の匂いと共にありありと蘇る。
「初めて見た海というのは、どうしてか忘れずに覚えていられるものよ」
彼女はティーカップを置いて、司令室の窓の外を眺める。
今日は雲の少ない秋空の晴天。トップスの上にアウターを重ねたくなる気温。でも、木々が色づくにはまだまだ早い。
レミリアの瞳には、しかし、そんな秋の港と空は映っていないだろう。彼女が今見詰めている景色の遠さを、金剛はよく知っている。
「あの時は」少女は述懐を始める。「今と同じ秋の頃で、よく晴れていたわ。その割に空は霞んでいたんだけどね。あの町の造船所から出る煙で、気持ちのいい空ではなかった」
灰色がかった空気。どこからともなく漂ってくる鼻について離れない臭気と脂っこくて粘り着くような風。
「それでも、あの日、町外れの海岸から見た海は脳裏に刻みつけられている。潮の匂いも、細波の音も、すぐに思い出せる。女中と二人だけで行ったのよ。道中の列車の旅も、工業都市への訪問も、砂浜を素足で踏んだことも、何もかも初めてで楽しかったわね。靴を脱いで、波打ち際を歩いた。引く波を追い掛けて、寄せる波から逃げて。無邪気に遊んで、結局帰りの列車ではよく寝ていたことを女中にからかわれてしまった。いい思い出よね」
彼女の記憶は彼女の中にしか存在しない。彼女が語る思い出の中の海を、金剛は限りなく類似した“同じ海”で例えることは出来るけれど、まったく同じものではない。彼女の口にする海と金剛の知っている海は同じで別物のはずだ。だから当然、レミリアの語りを聞いて頭の中で勝手に開いたアルバムのページに、写真のように切り取られた思い出の風景にある海は金剛の中にしかないもの。あの午後の海辺で波音を背に悲しく笑う少女の姿は金剛だけのものだ。
けれど、金剛の意に反して勝手に浮かび上がってくるその景色は、レミリアの見たそれと間違いなく共通しているのだろう。あるいは、だからこそ思い浮かぶのかもしれない。例えば、もてなしで出された紅茶を飲んだ時、本当にお気に入りの紅茶の味を思い出してしまうように。
彼女の正体を鑑みると、金剛と彼女との間にはおそらく大きな時間的隔たりというものが存在するはずである。決して同じ日にその町に居たわけではない。けれども、確かに金剛とレミリアは同じ通りを歩み、同じ海を目にしたのだ。
そうして一つの景色を思い出すと、連鎖的に次々と思い出がよみがえってくる。生まれ育った故郷であったさまざまな出来事を、良いことも悪いことも、金剛は余すことなくちゃんと覚えていた。忘れもしない。忘れようもない。“金剛”という女の、そして「金剛」という戦艦の原点。
そう、あのバローの町を。
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今世紀に入ったのがそろそろ一昔前と言われるようになる現在。今日において「金剛」と呼ばれる艦娘がバロー=イン=ファーネスで生まれたのは、パリでベトナム人とアメリカ人が和平協定に調印した年だった。その頃はまだ、人類は人類同士で戦争をする余裕があったのだ。
父は日本人で母がイングランド人。二人は共に同じ会社――ヴィッカース・シップビルダーズ・グループに勤める技術者で、しかも同じ職場の同僚であった。
父は日本から「国際共同開発」という名目で派遣されて来ており、当時最先端の研究開発が行われていたバローの造船所にやって来たのだった。それから金剛が生まれるまでは、ありきたりな、つまり父が同僚だった母に惚れてプロポーズを行い、交際の果て挙式して、という流れがあったわけである。
そこは、それ。金剛の今日までの人生を決定したのは、二人が共通のテーマを持っていたからに他ならない。それこそが、「艦娘」と呼ばれる存在。すなわち、深海棲艦への対抗戦力である。
最初の深海棲艦が現れたのが朝鮮戦争のすぐ後で、それから十年、その活動レベルは低く、人類は連中のことをさほど脅威には捉えていなかった。その状況が一変するのが北海でデンマークの客船が撃沈された時であった。
これ以後、深海棲艦はその活動を活発化させ、行動領域も拡大、人類への深刻な脅威を与え始めた。
当初、各国海軍にて対処していた人類だが、間もなく艦砲や対艦ミサイルの効果が極めて限定的であることに気付いた。それらによる破壊のエネルギーは確かに深海棲艦の動きを止められるが連中はすぐに破損箇所を修復してしまう。加えて数も膨大であり、しかも撃沈は不可能。少なくない犠牲を払い、艦隊全体の残弾がゼロになるほど撃ち尽くしてようやく撃退出来るというありさまであった。
どんなに安い砲弾も無限に供給出来るはすがない。ましてや、命中精度も威力も高いミサイルはそれ相応に高額であり、深海棲艦に対してこれらの打撃力で対処していては、駆逐は叶わず財政破綻も来す。よって、至急対深海棲艦において有効な兵器の開発が求められた。
金剛の両親はその兵器の開発者でもあった。
最初の艦娘が誕生したのはまさにバローの造船所でのこと。これは金剛を含め世界でもごく一部の人間しか知らないことであるが、その最初の艦娘というのは金剛のことである。
日本と英国の間にどんな密約があったのかは知らない。しかし、内容は分からずとも存在は確かだった密約により、父は何かを持って英国の地を踏んだのだ。日本から提供されたその何かと、バローの造船所にあった何かが組み合わされ、史上初の対深海棲艦兵器――金剛型一番艦艤装が完成した。
無論、これは当時の最高機密であり、父母がその製作者であったとしてもそんなことは露と知らず、混血児であること以外にはごくごく平凡な、後に金剛となる少女にはまったくもって関係のないことであった。まだ純真であった自分は父母の抱える秘密など気付きもせず、二人が家でもそうであるように仲睦まじく船を造っているのだろうとしか考えてなかった。
艦娘という存在が質量を持って金剛の前に現れたのは、十七歳の夏に父に連れられて初めてバローの造船所に入った時である。
造船所の巨大で迷路のような敷地の中を連れ回され、休日の一日を潰して様々なテストを受けた。筆記試験、体力測定、水泳などなど。
最後に工場のような場所に案内され、そこでようやく出会ったのだ。「金剛」に。
艦娘の核とは、素体と呼ばれる肉体である。素体はそのままではただの人間と同じであり、深海棲艦に対抗するためには艤装という機械式の武器を装着しなければならない。
艤装を装着した状態の素体は水面に浮くことが可能で、また外部からの何らかの力の作用に対して非常に強靭になるという特性を持っている。 ただし攻撃面において、あくまで深海棲艦を破壊するのは艤装から放たれた砲弾・魚雷・爆弾であるのだから、極論を言えば扱い方さえ知っていれば誰でも艤装は扱える。
それでは、艤装を軍艦に搭載せずにわざわざ素体を必要とする理由は何なのか。答えは、艤装を乗せただけの船や使えるだけの人間には艤装の庇護は受けられないということだ。
「女神の護り」と呼ばれるその効果がなければ、たった数キロの距離で行われる深海棲艦との交戦では生き残れない。巨大な空母や戦艦が艦隊を組んで縦横無尽に海を駆け回る従来の海戦に比して、深海棲艦との戦いは敵も艤装もサイズが極めて小さいために、それ相応に戦闘のスケールも小さくなっている。
敵は大きくてもせいぜいがアフリカゾウ程度であるが、各国海軍が保有する最も小さい艦艇でも、それより一回りは大きい。至近距離で撃ち合うことになる以上、このサイズの差は致命的であり、小さい上に「女神の護り」を受けられる艦娘の絶対的優位は揺るがないということになる。
金剛となる少女の目の前に現れたのは、金剛型の試作艤装だった。見た目も、現在の本艤装と比べてかなり質素だったように思う。主砲を最大四基装着出来る本艤装に比べ、試作艤装は一基のみ。身体を囲む装甲盾もなく、航行装置も最低限の機能しか付いていない物。もっとも、当時の技術ではそれが精一杯だったのだろう。
しかも、今のように素体に直接艤装を装着するのではなく、艤装服というものを身に着けた上でさらにそこに艤装を装着する方式だった。艤装服は頭からつま先まで全身をすっぽり覆う物で、見た目はそのまま宇宙服。それがチャレンジャー号を思い起こさせて嫌だった。
突然、訳も分からず造船所に連れてこられて、訳の分からない機械を身に付けさせられた理由は、すぐに両親の口から聞くことになった。
誰でも艤装を扱えるが、「女神の護り」を受けられるのは艤装を装着する素体のみ。だが、誰でもその権利を天賦されているというわけではなく、素体に選ばれるには極めて高い適性が必要だった。
政府は数年前からこの適性を持つ人間を探していたのだという。それは極秘裏に進められ、対象は老若男女問わなかった。
適性のテストがどのように行われていたのかは結局分からずじまいである。これは現在に至っても機密事項で、軍の一部の人間以外は当事者である艦娘ですら誰も知らない。ただ、当然機密事項であるという理由は金剛を納得させ得るものであるはずもなく、恐らくは知っていたであろう、そして聞いても肝腎なことは何一つとして教えてくれなかった両親に怒鳴った覚えがある。
今思えば、父も母も守秘義務というのを背負っていて、言いたくても言えず、娘からの罵倒を甘んじて受け入れるしかなかったのだろうとは理解している。両親とはそれ以来ずっと不仲だったし、二十歳を最後にもう会っていない。二人が今も生きているかさえ分からない。
自由主義国家にありながら、金剛の自由は十七の時を最後に失われた。艦娘になることへの拒否権はなかった。何故なら、当時素体の適性を持っているのが分かっていたのは金剛だけであったし、仮に金剛以外に適性者が現れたとしても、その人物には別の新しい艤装が与えられるだけで、つまりバローの造船所に連れて来られた時点で金剛の運命は確定してしまっていたのだ。最早、残りの人生は国家が敷いたレールの上を走る以外に許されたものではなかった。まず与えられた使命は、現状では実戦に到底耐えられない試作艤装を、対深海棲艦用特効兵器である本艤装へ発展させること。しかる後、本艤装を背負って深海棲艦を駆逐し、人類に航行の自由を取り戻すことだった。
それは連合王国(そして間違いなく協力関係にあった合衆国や日本といった西側諸国)の意思であり、個人ごときが抗えるものではなかった。それからの三年間は試作艤装を本艤装へと発展させるために費やされ、金剛と両親は親子からパートナーという関係に変化した。
もうその頃には、事情はどうあれ実の娘を政府に売った両親を親とは思えなくなっていたし、何より金剛は世のすべてに絶望していた。いつか、この艤装が完成した暁にはまず造船所を砲撃で吹き飛ばして、それからテムズ川まで行ってビッグベンを瓦礫に変えてやろうとさえ考えていた。
そうした復讐心が当時の生き甲斐であり、そのためだけに金剛は艤装の完成に全力を尽くしていた。思い返せば、ひどく幼稚で短絡的な動機だった。少なくとも、艦娘という存在の意義を理解している今はそのようなことを考えることはない。ただ、つまらないものであってもその復讐心がなければ今日の艦娘の発展はなかったし、自分の働きが意図しなかったとはいえ、世界中において多くの人命を救うことに繋がったのは事実であり、そこは誇りに思っている。
それに、両親がいくら自分たちの研究のためとはいえ、娘を進んで政府に献上したりするはずがないというのも分かっている。二人は適性検査の結果を知らされて驚嘆し、苦悩したに違いない。当時の二人の細かい表情まで覚えていないし、何も知らずに青春を謳歌していたから何も気付かなかった。
拒否権がなかったのは両親も同じ。何の皮肉か、彼らの生涯の研究テーマを完成させたのは彼らの血の結晶だった。あるいは、そういう親の下に生まれたから金剛は艦娘になったのだろうか。
未だに艦娘の適性が現れる要因について学術的な説明はなされておらず、金剛が思うに今後もそれが可能になることはないだろう。艦娘という存在を利用しながら、人類は思いの外艦娘について知らない。深海棲艦と共に艦娘を対象にした研究は続いているが、今も根本的なことはほとんど分かっていないのだった。
かつて抱いていた恨みのような感情はもうない。二人の苦悩も想像出来るし、両親も両親で可哀想な目に遭ったのだというのも理解している。冷たい態度をとっていたことについては謝罪しようという気持ちもないことはない。けれど、頭ではいくら理解しても、感情的に納得出来ないことというのは必ず存在する。
両親をまだ完全に許したわけではない。少なくとも彼らは知っていたはずだ。否、知っていなければおかしい。
――艦娘が年を取らないということを。
それが、未だに便りの一つも出さない理由だった。
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二十歳になってすぐ、本艤装が完成した。それを装着していよいよ本当に金剛が「金剛」になった時、身体に流れる時間は止まった。どんな人間も逃れられない老化の定めから、金剛は解き放たれたのだ。
理由は不明。「女神の護り」の副作用だというのが通説だが、そもそもの「女神の護り」からしてよく分かっていない事象なので、艦娘の老化が止まることの原因は解明されていない。
確かな事実として、金剛は二十歳の頃から顔にシワが増えたことはないし、肌のツヤも衰えていない。乳が垂れてくることもない。
その年にあったことはよく覚えている。英国にとって一番大きな出来事はEUの発足だろうか。
EUの始まりはもう随分と以前のことのように語られる。昨今の金融危機の中で、様々な論者がEUのことを肯定的にも否定的にも語るが、内容はともかくとして、皆口を揃えてその年を懐古的に語らう。
なるほど、人間たちにとっては1993年というのは斯くも昔なのだろう。金剛にはまるで昨日のことのように思える。なにせ、自分の外見はその年から何一つとして変わっていないのだから。
これはすべての艦娘に言えることだった。素体としての適性が現れるのは、初潮を迎えた少女から二十歳頃までの若い女性。適性判定を受けた最高齢は二十二歳だそうだ。
適性判定を受けた少女たちは、概ね一年か二年の訓練と教育を受けた後に本艤装を背負うことになる。つまり、その時点で少女たちの加齢は停止するので、必然的に艦娘には年若い(外見の)者しかいない。
実年齢で言えば、当然最初の艦娘である金剛が最高齢になる。もし真っ当な人間としての人生を歩んでいれば、思春期の子供を持っていたかもしれないくらいの年齢だ。
それはある意味、究極のアンチエイジングであった。これが永遠のものであるのか、また艦娘は老衰で死ぬのか、時間だけが教えてくれるだろう。
しかし、現在においては艦娘は不老になる唯一の手段である。結果的にではあるが、人類は史上初めての「不老」というものを獲得したのだ。それは始皇帝が求めて止まず、エリザベート・バートリが渇望し、多くの人々を狂わせた魔法だった。
まあ、金剛にはそんなもの、要らなかったのだが。
しかしながら、この世に絶望し、破壊欲求と憎悪に囚われていた艦娘になる前の金剛が、結局味方に砲火を噴くことなく深海棲艦との戦いに身を投じていったのは、ある後輩の存在があったからだった。
彼女は文字通り金剛の次に現れた適性者であり、政治的な都合により祖国を離れて日本に行くことになっていた金剛の代わりに(そもそも『金剛』という艦名は日本で就役するから与えられたものであった)、王立海軍にて初の艦娘となった。
その後輩は金剛よりも歳が二つ下で、金剛が十九の時に出会った。彼女がバローにやって来たのだ。当時はまだ艦娘の技術というものがバローでしか扱えなかったのである。
後輩はロンドンの出身だった。その頃には、彼女にはまだ人間としての名前があり(もちろん金剛にも)、とてもありきたりな名前だったように思う。あまりにもありきたり過ぎて、すぐにそれが偽名であることに気付けた程度に。
彼女にはその辺りの妙な胡散臭さというものがあったけれど、人柄に至ってははっきり言って驚くくらい穏やかで誠実だった。彼女は誰をも愛することが出来る性格の持ち主で、故に誰からも愛される人で、金剛も例外なく出会ってからいくらもしない内に彼女と打ち解けるようになった。
もちろん、当時の艦娘適性者というのは金剛と後輩しか居ないわけで、悩み事や苦痛を共有出来る相手というのも互いを除いて他にはなかった。打ち解けるのに時間は掛からないのも当たり前のことだろう。
彼女はとても聞き上手なタイプで、元より饒舌な方の金剛は一方的にあらゆる話をした。多くは自分が楽しかった頃の学校生活などの経験談であり、彼女は積極的に口を挟んだりすることこそなかったものの、適度なタイミングで相槌を打ち、話の内容によって目まぐるしく表情を変えた。面白い話にはコロコロと笑い、自慢話には素直に羨ましそうな目をして、悲しいことには自分もそうであるかのように顔を曇らせた。
希望もなく、厭世感に支配されていた当時の金剛には、彼女の登場は春の朝日のように暖かく明るいもののように思えた。自分と同じ立場にありながら、彼女は将来についていかほどにも絶望していなかった。眩しい程に輝いていた。
きっと、彼女にはバローのすべてがキラキラと光って見えたのだろう。彼女はとても天真爛漫であった。それこそ、金剛が大嫌いだった宇宙服のような艤装服を指して、「未知の世界への探求を感じさせますね」と言うくらいには。
艤装開発のスケジュールの都合上、金剛は毎日のほとんどの時間を後輩と一緒に過ごした。それは金剛の心を覆っていた氷を、彼女の暖かさが溶かすのには十分な時間であっただろう。
少なからず、彼女の肯定的な物の見方が金剛の思考を前向きにした影響はある。気付けば心の奥底で燃えていた憎悪の火は灰の中で燻る程度になっていた。彼女と過ごす優しい時間が金剛の中から冷たいものを取り去って行ってしまったに違いなかった。
時が経つにつれ、金剛と後輩の間の話題は仕事である艤装開発や艦娘のことから、お互いのプライベートへと変化していった。仕事の合間に与えられた細やかな休日も共有するようになり、仕事中だけでなくプライベートでも行動を共にした。造船所の敷地内で住み込みしながらの生活は軍隊よろしく管理されていたけれど、外出は割と鷹揚に許されていたので、休日の度に息苦しい工場の敷地から出ては羽を広げたものである。初めのうちはバローを知らない後輩を金剛が案内していたが、後にはバローを離れて遠出するようになって色々な場所に行った。
不自由の対価なのか給料だけは良くて、口座には金が溜まっていたので外出の折に散々使い回った覚えがある。両親の職業を除けば所詮は庶民の娘でしかなかった金剛と比べ、後輩は本当に良質な物、高級な物を見抜く眼を持っていた。それ故か後輩は金遣いが荒く、しばしば一回の外出で結構な数のポンド紙幣をすってしまい、帰りの交通費を金剛が貸すこともままあった。彼女の場合、浪費癖があるというより、金銭感覚が庶民とはかけ離れていたからそうなってしまっていたように思う。反面、彼女が金剛に勧める物で、それが土産物であれ、美術品であれ、食べ物であれ、ハズレだったことがなかった。彼女は金剛の趣味趣向を把握した上で、良い物を勧めてくるのだ。
後輩と小旅行に行くようになった頃には、金剛も彼女の出自が特別なものであることに薄々気付き始めていた。自分とは違う価値観や金銭感覚、確かな審美眼、そして何よりティーカップに伸ばす指の使い方ひとつにも感じる気品の良さ。彼女は間違いなくやんごとなき家の生まれだった。
ところで、紅茶と言えば、金剛が紅茶をよく飲むようになったのも後輩の影響だった。文化的な背景もあって、元より紅茶を飲む機会は多かった金剛だか、特別に思い入れがあったわけではない。客人にはコーヒーではなく紅茶を出す程度である。
だが、後輩は病的と言えるくらい紅茶を愛していて、頻繁に二人でティーセットをテーブルの上に広げていたものだ。紅茶の種類や入れ方、茶葉や茶器の選び方なんかも、全部その後輩から教わったものだ。
彼女から紅茶についての諸々を教えられる内に、彼女が実家から持参したと言う茶器や、どこかから伝手で取り寄せる茶葉も、すべて庶民には手の届きようのない高級品であることが分かってきた。それもやはり、彼女の出自というものを示唆していたように思う。
後輩ははっきりとは家のことを口にはしなかった。金剛と親しくなっても、彼女は決して実家の話をしようとはしなかったし、金剛も察して何も聞かなかった。ただ、やはり上品な彼女のことは造船所の中でも噂の種になったようで、いつだったか、彼女が王室に近い相当高貴な家系の出であると耳にしたことがあった。
それが果たして真実かは分からない。金剛にとってはどうでも良いことであった。
艦娘になるのに身分は関係ないのだろう。けれど、彼女は一度も艦娘のことを否定しなかったし、それどころかむしろ艦娘になれることを喜んでさえいた。ある時、彼女がふと漏らしたのが、「艦娘になれば人々を守れるようになるんです」という言葉で、そこに複雑な過去を垣間見た気がした。
そして、金剛がそうしたように後輩もまた金剛にとって触れてほしくないところを察して、気を遣っていてくれた。彼女には、金剛が艦娘という存在を肯定的に見ていないし、心中に後ろ暗い思いを抱いているのも分かっていただろう。けれど彼女はその手の話題を避けて一切艦娘についてどう思っているかなどといった愚問は口にしなかったし、それどころか艦娘に関する話題すら仕事中以外で口にすることはなかった。互いに、どこか本音を隠して付き合っているという自覚はあった。
しかし、本当に親しい者同士の間でもこうしたことは一種の礼儀として行われているものだし、金剛と後輩だけが特別な関係性を持っていたわけはなく、またそうあるべしと金剛自身は考えていた。金剛の勝手な思い込みではなく、間違いなく彼女とは唯一無二の関係だっただろうと思うのだ。例え本音を隠し合っていようとも、そんなことは微塵も意味を持たないことである。
あの日まで、少なくとも金剛は彼女との関係をそう思っていた。二人はただの親友同士。そのはずだった。
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二人の関係性が明確に変わったのは、本艤装の開発が完了し、各種動作試験も異常なく終了して、いよいよ金剛が戦艦娘「金剛」として祖国を旅立つ前日のことだった。その日は旅立ち前の慌ただしさから一旦は解放された一日となった。
祖国で過ごす最後の一日の相手に選んだのは両親ではなく後輩だったのは当然のこと。いよいよ正真正銘本物の艦娘として完成した「金剛」には、もはや気を許せる相手は同じ境遇の後輩しかいなくなってしまったのだから。
後輩もまた、金剛との別れを惜しんでいた。それでも気丈な彼女はいつものように振舞っていたけれど、輝きを霞ませる翳りのようなものがその身を覆っていたのは隠し切れていなかった。当然金剛も同じで、人の理を離れて“艦娘”となったことへの衝撃、政治に翻弄されて不自由を強いられることへの悔しさ、遠い異国の地で就役しなければならないという重圧、何より戦場で未知の敵と殺し合わなければならないという恐怖が、金剛の心に重石のように伸し掛かって、今にも潰れそうだった。
せっかく分かり合える無二の相手と一緒になれたのに、また誰かの都合で引き離されることに、金剛の中で一度は消えかけていた怨嗟の炎が再び勢いを取り戻し始めていた。自分はきっとこの憎しみの感情から逃れられないだろうという、ある種の諦観も抱いて彼女との別れに耐えなければならないことに絶望していた。本艤装が完成してからあの日までのひと月ばかり試験に費やされた日々は、金剛の心を磨り減らすのに十分な時間だった。
その日は確かに特別な一日だったが、始まりは波乱を予感させぬ平凡でありふれたものだった。もうだいぶ昔のことなので詳細はかなりあやふやなのだが、多分午前中はテレビ番組か何かを見ていたのだと思う。あるいは映画かもしれないし、実は劇場に足を運んでいたのかもしれない。覚えていないが、何を見ていたか、劇の題名は覚えている。
「ペール・ギュント」だ。夢想家で嘘つきで女と金にだらしないロクデナシが故郷を追われ、色んな女を言葉巧みに誑かしつつ、騙したり騙されたりを繰り返し、財産を築いたり失ったりした後、故郷に帰るという話だ。波乱万丈と言えばその通りだが、原因の九割方はその男自身の言動や性格のせいなので、見ている間まったく主人公に共感出来なかった。それでも金剛がこの話を覚えているのは、故郷に置いてきた純真な娘が年老いても彼を待っていた、という救いがあったからかもしれない。それが、後に続く出来事を示しているように思えたからかもしれない。
劇を見終わった後は後輩を町へ連れ出した。だが、金剛は行き先を決めておらず、適当にメインストリートをぶらついて軒を連ねるショーガラスを覗いては何も買わずに立ち去るという冷やかしを二人で繰り返していた。昼になって腹が減ったので、昼食の場所を相談して決めた。バローにある主だった外食店のことは、その時にはとうに網羅していたから、食べたい物を言い合えば自然といくつか店の候補が絞られて、その中から適当なところを選んだのだ。
覚えている限り、その日のランチでは会話が弾まず、ひどく味気ないものだった。何を食べたかなんてもう思い出せないけれど、互いに口数少なく黙々と食べるだけだったのは確かに記憶にある。
それから、ランチを食べ終わる頃になって、次にどこに行こうかという話になったはずだ。
何にも決めずに出てきたから、どこにも行きたいところがなかった。そもそも、大体バローの町のことは知り尽くしていたのでわざわざ今更行きたいと思うようなところがなかったのだ。
しばらく二人して悩んでいたように思う。結論が出ないまま店を後にした時、ふと後輩が漏らしたその一言は今でも耳に残っている。
「海を、見に行きたいです」
その時金剛が返した言葉は確かこんなものだった。
「海ならいつでも見ているじゃない」
「ええ。でも、渚から海を見たいんです」
彼女にしては珍しく頑なな響きを含んだ言い方だった。
元々予定もなかったので金剛は後輩の要望通り、町はずれにある小さなビーチに向かう。
そこはアイリッシュ海を南に臨むビーチで、湾を挟んで反対側にあるブラックプールの街並みが遠くに見える場所だった。夏場には保養に訪れる人でそれなりに賑わうが、金剛が日本に旅立ったのは秋の中頃であり、海水浴には適さない冷たい風が吹きすさぶ季節となっていたので寒い砂浜には金剛と後輩以外、人影はまったくなかった。その日も例によって冬かと思う風が冷たく吹き荒れていて、コートを持って来なかったことをひどく後悔した覚えがある。
なんてことのない、よく見知った海だった。その場所は以前にも何度か訪れたことがあり、今更風景を見て感動するようなものでもないし、何故彼女がここに来たいと言ったのか分からなかった。
二人で寄せては引く波の音に耳を預けて佇んでいた。海辺に立つには少々薄着だった金剛は早くその場を離れて暖房のよく効いたカフェでお茶でもしたかったけれど、生憎そうはならなかった。というのも、隣に並んでいたはずの後輩がおもむろに履いていたローファーとソックスを脱ぎ、裸足になって砂浜を駆け出したのだ。
あっけにとられる金剛の前で、彼女は高価なスカートが砂と海水に汚れるのも気にせずにそのまま海へと突っ込んでいく。そして、派手な水飛沫を上げて波打ち際から数歩進んだところで立ち止まると、両足を肩幅に開いて背中を反らし、遠い海原へ雄叫びを上げ始めた。
腹の底から力一杯絞り出した遠吠えのような声だった。ビーチの対岸の町どころか、そのずっと向こうにある大陸まで声を届かせんと、彼女は大きく息を吸い込んで何度も雄叫びを上げた。
その時の自分の気持ちを、受けた衝撃を、金剛は未だにうまく言葉に出来ない。その出来事の後に理由は何となく察することは出来たけれど、とにかくその時金剛は本気で彼女の正気を疑った。
よく考えれば、彼女は自分を抑圧するタイプで、金剛との別れというショックもあっていよいよ精神への負担が限界を超えてしまったのか、という可能性がまず頭に浮かんだ。普段の気品ある彼女からは到底想像出来ない意味不明な行動に、どう反応していいか分からなかった。唖然としてその場に立ち尽くす金剛を、気が済むまで叫び倒した彼女が振り返る。
――彼女は泣いていた。控えめに言ってとてつもない美女である彼女は、まるで生まれたての赤ん坊のように顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。美人は美しく泣くものだと言うけれど、多分それは嘘なのだろう。何せその時の彼女の泣き顔といえば、元の繊細な造形をまったく台無しにする不細工な泣きっ面だったからだ。
彼女の泣き顔は立ちすくんでいた金剛の足を動かすのに十分な理由となった。慌てて駆け寄ると、彼女はためらうことなく金剛に身を預けて胸元に顔をうずめる。鼻水を垂らし、おんおんと声を上げながら泣く彼女の背中をしばらく撫でてあげなければならなかった。そうしてしばしの間波打ち際で抱き合っていると、やがて彼女は少し落ち着きを取り戻していきなり叫び出した理由を話してくれた。
「こうして海へ向かって叫べば、貴女は遠い東の果てからでも私の声を聞き取ってくれますか」
彼女の声はひどくかすれていた。
意味が分からないので、仕方なく金剛は彼女の名前を呼ぶ。それは彼女がホテルにチェックインするために必要とするだけの、記号のような偽名だったけれど、その頃の金剛にとっては後輩を指す唯一の名前であった。
「世界中の海は繋がっています。私の歌が偏西風に乗って貴女の耳にまで届くことを願います」
「便りを出すわ」
「いっぱい書いてください。私もいっぱい書いて送ります。でも、手紙だけでは寂しいんですよ。貴女の声が聞きたくなるでしょう。貴女の存在を感じたくなるでしょう。その時私はどうすればいいのでしょうか」
彼女の言葉はひどく震えていた。小さな柱が一つ折れただけでも、全体が崩れ落ちてしまいそうな繊細な響きだった。そして、ようやく金剛は彼女がどうして奇行に出たのか、その理由を飲み込めた。彼女は気が狂ったのではなく、気が狂いそうなほどの寂寥感に苛まれているのであって、海に向かって叫んだのもそうした感情から心を開放しようとしたためだろう。結果は、ますます寂しさが溢れて涙を止められなくなってしまったのだが。
そう思うと急に彼女が愛おしくなる。しかし愛おしくなる故に、もどかしくも目の前で傷付いている彼女をただ優しく慰めるしか出来ない。気の利いたことの一つでも言えたら良かったのにと、今でも後悔している。
「行かないでください」
「行かなければならないわ。大丈夫、いつかきっとまた会えるから」
「それはいつですか? いつまで私は貴女との再会を待ち侘びなければならないのですか?」
「……いつか、よ」
「なら、私も日本に行きます。貴女と一緒に極東戦線で戦います!」
「ダメよ。貴女は祖国の艦隊を率いなければならない」
食い下がる彼女に金剛がそう言うと、ついに諦めたのか、体を離して一歩二歩下がる。うつむいたままの後輩を金剛はただ黙って見下ろしていた。向かい合う二人の足元を寄せては引く波が洗い、すっかり靴はびしょぬれになってしまう。しばらくは波の音が静寂を支配していて、合間に彼女の息遣いが聞こえるだけだった。
こういう時にちゃんと言葉を掛けてやれない自分のことが本当に嫌いだった。この瞬間に何かを言っていれば、きっとその後の二人の関係はもっと良いものになっていたはずだ。
けれども金剛が口を開く前に彼女は一つ深呼吸すると、つっかえていたものを絞り出すように続きを言う。
「せめて、笑っていてください。貴女の笑顔があれば、私はいつまでも頑張れます」
彼女は顔を上げた。
髪はほつれて跳ねているし、目元は赤く腫れあがって上唇には鼻水の跡が白く残っていたけれど、彼女はその顔で笑ったのだ。美人は美しく笑うものだとも言うけれど、やっぱりその通りだと実感する。
あの時の彼女の顔は忘れられない。一生忘れない。
灰色の海と霞んだ空を背景にして、記憶の中の彼女は金色に輝いている。地上に降り立った女神のように後光が差して、彼女はその中心にいる。
「愛しています。私は貴女を一人の人として、心の底から愛しています。だから必ず、帰って来て下さい」
****
それは金剛が受けた生涯で一度の、そして恐らくは最初で最後になる、真実の愛の告白だった。
困惑がなかったと言えば嘘になる。彼女から堰を突き破って出た感情の洪水は金剛を飲み込み、激しく揺さぶった。
動揺しなかったと言えばそんなはずがない。受け止め方なんて知らなかったし、突然のことで頭が真っ白になってしまったのだ。
人生で後悔しない人などいない。誰だって自分の選択や行動、そして言葉に後悔しながら生きている。
もちろん金剛だってそうだ。初恋の彼にクリスマスプレゼントを贈らなかったのも、辛い思いをしていただろう両親のことを少しも理解してあげようとしなかったことも。小さなことも大きなことも、数え切れない後悔を重ねながら今日まで生きてきた。
だけど、そんなことよりももっと後悔していることがある。
どうしてあの時の彼女の告白に誠実に答えてあげられなかったのだろう。悔やんでも悔やみきれない。思い出すと自己嫌悪がぶり返してきて気分が沈む。
結局、金剛ははっきりした返事をしなかった。何せ、彼女からそんなふうに愛を告白されるなんて夢にも思っていなかったのだから。突然のことで混迷を極めた金剛は、愚かしいことにそのまま大切なその出来事を有耶無耶に流してしまった。
自分と彼女の関係は気の置けない親友同士だったはずだ。先輩と後輩、年上と年下という形ではあったけれど、長年の付き合いがあるように親しかった、でもただの友達だったはずだ。
けれども、彼女の方ではそうではなかった。親友同士と思っていたのは金剛で、彼女にとって金剛は恋の相手だったのだ。
思い返せば、年頃の娘二人の組み合わせにしては彼女と交わした会話の中に色恋の話はなかったように思う。そんなものの一つや二つ、あるいは頻繁にしてもおかしくはないはずだけれど、不思議と恋話に花を咲かせることがなかった。金剛自身は人並みに誰かに恋したことがあって、一度や二度の苦い経験だってないこともない。あまり自ら話したいことではなかったから無意識的に避けていたのかもしれないが、彼女からその手の話題を振ってくることがまるでなかったから話さなかっただけに過ぎない。逆に、彼女と言えば容姿端麗の割に色恋沙汰には疎そうな“お嬢様”だったから、金剛からも話すことはなかったのだった。
つまり、知る限り彼女にとって金剛はまさに「初恋の相手」というわけだ。
初恋は実らないとよく言うけれど、告白を受けた当時の金剛にはそんなことを考える余裕はなかった。彼女が“イエス”とも“ノー”とも取れない曖昧な返事をどう受け取ったかは知らない。ひとつ言い訳をするなら、まさか彼女が本物の同性愛者だったとは思いも寄らず、混乱の極みに達してしまったのも致し方のないことだったのだ。
ただ、考えてみればそれもさほど不思議なことではない。彼女がどういう環境で育ったのかあまり分からないが、文字通りの「箱入りのお嬢様」だったことは想像に難くない。華よ蝶よと育てられ、厳しい躾けや“相応しい教養”とやらを身に着けるためにピアノや乗馬を始めとした様々な稽古も受けさせられたらしい。当然、男に恋する暇など碌になかっただろう。女ばかりの環境で育てられ、いざ家から外に出られたと思えば、行先は片田舎の造船所。
そこに居た年が近く、同じ境遇の先輩。知らない世界を知っていて、色々な所にも連れ回してくれて、密度の濃い時間を共有した。きっかけや時間といった条件は不足なく揃っている。同性にもかかわらず、恋に落ちてしまったとしても不思議ではないだろう。
彼女が恋の話をしなかったのは、きっと怖かったからだ。自分が同性愛者だということはちゃんと理解していた。ただし、その恋が成就するには相手もそうでなければならない。
だから金剛の恋話を聞くことで、金剛の好みを知ること、金剛が“自分とは違う”ことを知るのが恐ろしかったのだ。幸いにして、金剛のそれまでの人生において、自身の恋が実った経験はなかったから積極的にその手の話をしなかった。それは、きっと彼女を大いに安心させたに違いない。告白へ踏み出す勇気を醸成するくらいには。
故に、最後の一日に彼女は打って出た。恐らくは彼女にとって一世一代の大博打だ。芯の強い彼女らしい、勇気ある真っ向勝負。
金剛は彼女を称えるべきだった。最大限の敬意と礼節を以ってはっきりと断ってあげるべきだった。
金剛は同性愛者ではなく、しかもいつ死ぬとも知れぬ身の艦娘である。そして、明日には遠い異国の地へと旅立つのだ。彼女を受け入れる余地などあるはずがなかったし、それは自明の事柄で、きっと彼女も分かっていたことだろう。
離れ離れになって一緒には居られない。今までのように楽しい時間を共有することはもうない。それでも、ほんのわずかでも自分の気持ちに応えてくれれば。
そんな風に思っていたのだろう。あわよくば、という考えもあったのかもしれない。すべては想像の域を出ないが、彼女は一縷の望みを掛けて愛を告白した。
それで振られてしまったのならきっと彼女は新たな一歩を踏み出せたはずだ。今までのような親友関係に戻れはしないかもしれないけど、二人の気が合うのは確かなことなので大陸の西と東で離れてしまってもお互いの絆を信じ合える、そんな関係に深化出来ていたかもしれない。
だが、金剛は答えをはぐらかした。はっきりとしたことを言わなかった。何と言ったのか、今となってはもう覚えていない。元より混乱の中にあって咄嗟に出した言葉だ。覚えていなくても仕方ない。
けれど、その後に彼女が言ったことは覚えている。自分の記憶力の良さを疑うくらいに、はっきりと。
彼女の微笑みとともに。
「ええ。待っています」
ソルヴェイグのように。と、劇に出て来た娘に例えて彼女は言った。
「貴女が私を受け入れてくれるまで。戦争が終わって帰って来た時に私にキスしてくれるまで。ずっと、ずっと待っています」
****
その瞬間、二人の間に流れていた時間は止まった。まるで、誰かが懐中時計の針を止めてしまったように。
未だに金剛はあの時の返事をしていない。戦争は終わる見込みがなく、敵は無尽蔵に沸き続けている。もちろん、祖国に帰れる目途も立っていない。
今では日本語も随分と上達し、東洋の生活にもすっかり馴染んだ。知り合いもこっちに居る方が多い。はっきり言って、祖国に戻らずとも金剛はこの国で生きていける。
艦娘という立場上なかなか恋愛は出来ないものだし、「金剛」という名を背負った以上、最早そういったことは諦めなければならないという覚悟はとっくの昔に出来ていて、今更思うこともない。例えば、今なら彼女から告白されてもちゃんと断れるだろう。
後輩――今では「ウォースパイト」という艦名を名乗っている――とは、年に一回程度手紙のやり取りをするくらいだ。こちらから、あるいはあちらから手紙を出して、受け取った方が返事を出す。書く内容はその一年にあったこと。「お元気で何よりです」という半ば社交辞令と化した挨拶の延長上にあることばかり。
互いにあの日のことは一切触れない。触れるとすれば金剛からだろうが、当の金剛がずっと煮え切らない態度だからから、結局告白は宙ぶらりんになったままだ。
返事をしないのは、負い目のようなものがあって言い出しにくいからだ。毎年彼女に手紙を書く度に「今年こそは」と思うのだが、いざペンを握るとどうしてか思い切ったことが書けず、気付けば当たり障りのない手紙なっていて書き直すのも億劫でそのままポストに投げてしまう。今頃になって告白の返事をするのも変じゃないかとか、いつまで引き摺っているんだとか、いろいろと言い訳を作っては告白のことをフェードアウトさせようとする狡い自分が居る。
そして、彼女からの手紙もそれ相応に当たり障りのないもので、向こうから返事を求めて来るものではない。けれど、読めば分かってしまうのだ。単語の節々に、ピリオドと頭文字の間に、文と文の隙間に。彼女が言葉を待っているということが。
読む度に、金剛は自己嫌悪と後悔に陥り、後ろめたいところを糾弾されているような居心地の悪さを感じる。
彼女との手紙のやり取りが年に一回という頻度なのも、到底頻繁にそうする気が起きなかったからで、しかし一方で彼女との関係を完全に断ち切ってしまうのも寂しい気がして、その二つの身勝手による妥協の産物だった。つくづく、自分は優柔不断な女だと思う。
一方で、彼女は金剛の想像以上に忍耐強い性格だったようだ。執念深い、と言ってもいい。
彼女と分かれてからの数年間は、その内彼女も諦めるだろうなんて考えたりもしたのだが、甘かったようだ。未だに健気に金剛の返事を待っているところを見るに、彼女は余程心の根が強いのだろう。そして、そういう彼女の健気さが分かるが故に金剛の中では罪悪感が強まっていき、ますます雁字搦めになってたったの一言が遠のいてゆくのだった。
何もしないうちに時間だけが過ぎ去ってゆく。彼女は確かに我慢強いが、あの日の海辺で堪え切れない感情を海に向かって吐き出したように、いずれそこには限界が訪れる。その時にはいよいよ彼女の気が触れてしまうかもしれない。そうなってはもう取り返しがつかない。
そう理解しつつも、しかしこうしてはっきりとしない関係性があの日以来二十年近く続いていた。
不老とはいえ実年齢で言えば二人ともとうに三十代に入っており、一の位を四捨五入すれば知りたくもない月日の流れを思い知ることになる歳だ。あと何年戦争が続くのかは分からないし、何年生きられるかさえ知れない。
彼女の歌が聞こえたことは二十年経っても一度もなかったし、聞きに行くこともなかった。でもきっと、彼女のことだから窓辺に座って東を見ながら好きな歌を口ずさんでいるに違いない。手紙にはそんなこと書かれていないし、示唆するような記述も見受けられなかったが、間違いなくそうだという確信はある。歌の中には金剛の知っている歌も、知らない歌もあるだろう。賢いのに、歌声が届くはずなんてないと分かっているのに、彼女は極東へと続く空に歌声を飛ばすのだ。ペール・ギュントを待ち続けたソルヴェイグのように。
それが分かっていて、果たして金剛は死ぬまでに彼女に返事が出来るだろうか。いやあるいは。
二人のようにまた会うことが出来るだろうか。
****
レミリアがいきなり思い出話をし始めるので、それに刺激されてか金剛も随分と昔のことを思い出していた。
紅茶はすっかり温くなってしまっている。今日はレミリアが淹れた紅茶だ。正直言って彼女のことは好きではないが、淹れる紅茶の味は抜群だった。どこか、後輩が淹れていた紅茶の味に通じるものがあって、いつの間にやらレミリアとの茶会はお気に入りの時間となっている。
茶会ではほとんどレミリア一人が喋りっぱなしで、金剛は黙って聞いていることが多い。あまり気の合わない相手であるし、元来の性格から気の合わない相手と話を弾ませるタイプではないからだ。もっとも、レミリアはそれについては何も言わず、見た目の割に長々と話を続けるのが常だった。
「バローと言えば」思い出話にも区切りがついたところで、少女はついでのように切り出した。
「最初の艦娘が生まれたところよね」
「Yes. ウォースパイトですね」
世間的にはそういうことになっている。世界最初の艦娘が、英国の政治的な敗北によって他国に渡さなければならなかったというのは、彼らの面子に大いに関わることらしかった。人間というのはいつもくだらないことに気を払って、しょうもない嘘をつくものだ。
お陰で、ウォースパイトは今や深海棲艦対抗戦力の象徴。人類の英雄である。
“世界最初”ということ、実際の海戦での華々しい活躍、気品ある佇まいとそこらの女優やモデルでは太刀打ち出来ないような端麗な容姿。これだけ要件がそろえば、彼女が世界にその名を轟かせるくらいの有名人になるのに苦労はなかったろう。彼女は実質的に世界的な艦娘の代表であり、英国国防省(MOD)内で絶大な権勢を振るう重鎮でもあり、しばしば国連海軍のスポークスマン的役割を担って発言を求められたりもする。“日本初”の艦娘とはいえ、所詮は一介の兵卒でしかない金剛とは雲泥の差だ。
別に有名になりたいという顕示欲があるわけではない。ただ、彼女に告白の返事をしないのは、あまりにも自分とは違い過ぎる立ち位置の差というのも影響しているのは確かだった。あれ程の傑物の愛を蹴ってしまうのは恐れ多いのである。
「ウォースパイト、ね」
レミリアは持っていたティーカップをソーサーの上に戻しながら呟いた。中の紅茶は一滴も残っていない。
「貴女の、『後輩』だったと聞いたのだけど」
金剛は自分のティーカップを見下ろす。こちらにも紅茶は入っていない。恐らくポットも空だろう。
「彼女はバローの生まれじゃない。それは貴女」
二人が向かい合う間のテーブルの真ん中には、バスケットに山盛りにされたクッキーがある。レミリアはほっそりとした指をそこに伸ばすと、鳥の羽を摘まむように一枚取って口に運んだ。
「よくぞご存知で。ええ、その通りデス」
侮れない相手である。レミリアがどこから情報を仕入れて来るのか、とんと分からないのだが、時に信じられないようなことを知っているのだ。金剛とウォースパイトの関係も、本来彼女の階級であれば知るに及ばない情報のはずだ。それどころか、日本の中で知っている者は片手の指で数え足りるくらいしかいない。
ただ、金剛にとっては特に隠す必要性のない情報。あっさりと認める。
「ふーん」
「何カ?」
「いーえ、別に。ただ、私の目の前に“海の女神”の先輩が居るんだなと思って」
レミリアは両肘をテーブルに立てて手を重ね合わせ、その上に顎を乗せた。上目遣いで見つめる目元が楽しげな皺を作っている。
気に食わない。本当に、気に食わない女だ。
何でも見透かしていると言わんばかりの視線。こまっしゃくれた表情。見た目不相応に余裕のある言葉遣い。
子供そのものの顔のくせに、金剛より遥か年上のごとく振舞う。いや、実際そうなのだろう。だから、尚のこと気に食わないのだ。
金剛は知っている。彼女の正体を。彼女の謂れを。
そして彼女もまた、「金剛がそのことを知っている」という事実を知っているだろう。
「それがドウシマシタ?」
「素敵な後輩を持っていて羨ましいわ」
「自慢の後輩なんデスヨ」
「ええ。しかもあれで浮いた話の一つもない。血統に恥じない淑女。手籠めにしたら、どんな声で鳴いてくれるのかしらね」
さらりと投げられた挑発にこめかみがはち切れそうなくらい脈打つ。視界が白っぽくなる。
誘いに乗ってはいけないと、理性が怒りを必死で宥めた。
もちろん、言葉程度で感情的になるほど子供ではない。自分の余裕を見せつけるためにあえて金剛は笑みを浮かべ、
「ウサギのように静かですワ」
と言ってやる。
やっぱりこの女は気に食わない。いずれ、そう遠くないうちに対決する時が来るだろう。
予感ではなく確信があった。