レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督26 Pivot

 

 極東の島国は、比較的気候の安定している大陸西部とは打って変わって、夏は暑く冬は寒い、レミリアには少々苦手な気候の場所である。ずっと春のような心地良い天気が続けばいいと思うのに、夏暑い日は暴力的な直射日光が地表を熱し、冬寒い日は体の芯まで凍り付くほど気温が下がる。特に真冬の今日はひと際冷え込んでいて家から一歩でも出る気力が湧かない。こういう日は、日がな一日中、暖炉の傍で薪の弾ける音を聞きながら怠惰を貪るのが良い。

 

 ベッドの上で寝転がりながら好物のクッキーをかじっていたら、メイドがひどく胡乱な目を無言のまま向けてきて非常に居心地が悪かったので、仕方なく安楽椅子に腰掛けて「お上品に」読書することにした。読書の時に手にする本は大抵が家の図書室から持ち出して来たもので、気の置けない親友はレミリアが勝手に蔵書を借りていっても、白黒魔法使いを相手にした時のように、不快そうに眉間に小皺を立てたりしない。だから、暇な時はせっかく家にある無尽蔵な知識の宝庫を少しばかり活用してやろうと気を利かせて読んでやるのだ。第一、借りた本はすぐに返す。

 今日の読み物は、財政学の本だった。あの活字中毒の魔女はとにかくあらゆるジャンルの本を図書館に溜め込んでいるらしく、知りたいことは大体あそこで調べられた。

 好きな物に金を掛けることを躊躇しないレミリアは、しばしば金遣いが荒いと指摘を受けることがあって、その自覚もしている。紅魔館の家計簿をつけているのはメイドなので、基本的に金のことは全部彼女に任せているのだが、最近は特に酷くなったのか、収支が赤字に偏り過ぎているので自重するようにと、忠告を受ける始末だった。実際財布の口が狭まっている。主人がこれではいけないと反省して、少しばかり勉強をしているのである。

 情けないお天道様とは違い、暖かな暖炉の火は優しかった。最近は「昼行性蝙蝠」と揶揄されるような昼夜逆転生活――昼に起きて夜に寝る――を送っていたから、昼間はあんまり眠くならない。といっても日光が苦手なのは相変わらずなので、散歩よりこうして家の中で一日中活字の世界に没入していた。そもそも、冬は寒くて外に出る気がしない。温かい自室の中でぬくぬくと暇を潰しているくらいが丁度よい。そして、レミリアがそういう生活をしているせいか、すっかり怠け癖がついてしまった近頃寝食を共にしている小さな妖精は、現在椅子の傍の足高テーブルの上で、わざわざこしらえてやった専用のミニ布団を被ってぐっすりである。

 

 彼(なのか彼女なのか。見た目は男性個体ぽいが基本的に彼らに性別はないと言われている)は妖精と言っても、ここ幻想郷に元より暮らしている妖精とは違った存在で、外の世界の艦娘が扱う艤装の妖精である。幻想郷の妖精が自然現象の擬人化であるように、艤装の妖精は艤装の擬人化だと言えるだろうか。

 彼は自分そのものである小さな飛行機に乗って、レミリアの手元に飛んで来たのだ。一つの手紙を携えて。

 以来、レミリアはずっとこの妖精(と飛行機)を傍に置いている。

 

 本来は攻撃隊に先んじて敵の目前まで進み、その情勢を偵察して情報を持って帰る勇敢な役目を追う妖精だ。しかしながら、平和で平穏な幻想郷には偵察するべき敵などおらず、そもそも飛行機を飛ばす燃料すらないので、彼はずっとこの紅魔館の中で食っちゃ寝を繰り返していた。最近は手に乗せると以前より少しばかり重みを感じるのだが、気のせいだろうか。

 いずれの話だが、この妖精は本来の主人の下に返してやらねばならない。土壇場で、手紙と言えないような紙切れを飛ばして来たあの艦娘に。

 しかしテーブルの上に寝かせたままにしておくのは良くないかもしれない。ここには三時になると紅茶を置くし、そういう場所に布団を敷かせているとメイドがいい顔をしないのだ。それどころか、最近のメイドはしばしばレミリアに対して小言を言うようになっていた。今まで以上に家の中でだらけているからだろうか。彼女がレミリアの私室を掃除する時に部屋に残っていると、露骨に「邪魔だ」という視線を向けてくるのですごすごと図書室に退避しなければならなくなったりと、何だか扱いがぞんざいになっている気がする。

 レミリアは読んでいたページにしおりを挟むと、気持ち良さそうに寝ている妖精を起こさぬよう両手の指で器用に布団ごと彼女をすくい、そのままゆっくりと書斎机に移動させた。書斎机は普段使いの足高テーブルと違い、ごくたまに何か仕事がある時に作業するための物で、日頃はちょっとした物置と化していた。現に今も図書室から借りてきて読み終わった本が雑然と積み上げられている。

 これらの本も返さなければならないと思いつつ、まだ返却していなかった。レミリアとの仲だから魔女が未返却の本について何かを言って来ることはない。むしろ、最近積極的に利用していることに対して彼女は傍目に見ても気を良くしている様子だ。

 とにかく、レミリアにしては珍しく、色んな本を読み漁っている。蔵書には困らないし、膨大な活字資源の有効活用でもある。積み重ねられた本の背表紙を見ても、「魔法使いの医療」「癌に対する魔術的アプローチ」「魔法薬調合法」「賢者の石の作成と活用について」「吸血鬼研究史」「スラヴ吸血鬼伝説考」「クジラと狂犬病」「ポルフィリン症の基礎」「幻の動物とその生息地」などなど、実に統一性も脈絡もない。概して難解な学術書の類ばかりであるというのが共通点と言えようか。いくつか外の世界の本も混じっているようだ。

 

 しばしの間重ねられた本を眺めているとコンコンとドアがノックされた。

 返事をすると、一つしかない入口のドアがゆっくりと開かれ、案の定メイドが姿を見せる。

 

「お客様です。お目通しされますか」

 

 慇懃な調子でメイドが問うので、レミリアは「私が呼んだのよ」と頷いた。

 見る限り、メイドは一人で来客の姿など彼女の背後にはなかったのだが、そこはさすがに不可思議が当たり前に存在する幻想郷。次の瞬間にはメイドが立っていた場所に入れ替わりのようにその客人が現れる。

 

「あ、あれ?」

 

 幻想郷にやって来てまだ数年しか経っていない客人は、突然自分の周りの景色が変わったことに目を丸くしていた。これがメイドの「能力」で、彼女は時間を止めることが出来るのだ。今も時を止めて、どこかで待たせていた客人をレミリアの部屋まで運んで来て、さっさと自分は仕事に戻ったに違いない。まあ、お茶くらいはすぐに持ってくるだろう。

 

「よく来たわね。さあ、座って。座って」

 

 レミリアは書斎机の前から離れて客人を迎える。足高テーブルの周りには来客用にもう一つ椅子があるので、それを勧めた。

 

「ありがとうございます」

 

 客人は丁寧に礼を言ってゆっくりと差し出された椅子に腰掛ける。どこぞの巫女とは違い、似たような肩書を持っていながら彼女の態度は礼節を弁えている。きちんと躾されてきたのだろう。

 

 彼女の名前は東風谷早苗。幻想郷にある二つの神社の内、新しい方に居る巫女だ。もっとも、新しいと言っても由緒を辿れば博麗より余程古いと思われるが。

 正確には風祝という名称らしく、(当人ら曰く)厳密には巫女とは違う聖職者らしい。だが、西洋文化圏から来たレミリアにはその違いというのが説明されてもよく分からなかった。仕える相手がはっきりしているかいないかの違いだろうか。どちらも脇を出しているのには変わりない。

 

 

 閑話休題。

 早苗が座って一息つくともう二人の間の足高テーブルにはティーセットが一通り広げられていた。風祝は特に驚いた様子を見せない。先程は自分の場所移動に驚いていたようだが、同じ能力を使って突然出現した(ように見える)ティーセットには特別な反応をしない。

 レミリアが不思議に思ってそのことを指摘すると、「見慣れちゃいました」という答えが返って来た。

 

「レミリアさんがいらっしゃらない間、よく咲夜さんに誘われてお茶をしてたんです。あの人、いつも能力で用意を全部済ませちゃうからもう驚かなくなって」

「へえ。あの子も随分と社交的になったものね」

「あ。ヒドイですね。咲夜さん、話し上手聞き上手なんですよ」

「研ぎ澄まされたナイフみたいな性格だったんだけどね」

「優しい人だと思いますけど」

 

 と、なかなか早苗からの評価が良いメイドである。

 どうやら結構な頻度で茶会を開いていたらしい。当然、早苗だけでなく年の近い白黒魔法使いやらもう一人の巫女やらも誘われていただろう。最近何度か館の門前でその巫女がうろついているのを見掛けたが、あれはそういうわけだったようだ。

 レミリアの知り得る限り、咲夜は紅茶と茶菓子の腕前においては右に並ぶ者が居ないほど卓越している。少なくとも紅茶に関しては本場出身のレミリアにも一家言あるのだが、メイドにはまったく敵わない。当然、同世代の少女たちの胃袋をがっちりと掴むのは造作も無いことだろう。実際その先例としてレミリアがあり、つまるところ彼女を家に置いているのは、その家事能力の高さもさながら、茶と菓子の腕前が第一の理由である。

 

 それにしても、とレミリアは首を傾げたくなった。主人が留守にしているのをいいことにメイドは友人と茶会を楽しんでいたらしい。別にそれについて文句を言うつもりはない。咲夜も年頃の娘なので友人と過ごす時間を長くしたいと思うのは当然のことだろうし、彼女の交友関係が紅魔館の外に広がっていくのは育ての親でもあるレミリアにとっても歓迎するべきことだ。

 ただ、問題はその頻度である。早苗の口調からはそれなりの回数を繰り返していたようだった。

 正直なところを言うと、紅魔館は豪奢な建物だが、外箱とは裏腹にあまり裕福ではないのが実情だ。いや、裕福ではなくなったと言うのが正しいだろう。原因は言うまでもなく主人の奢侈過剰による赤字である。基本的に家のことは何もしないレミリアが家計などというものに目を向けざるを得なくなるくらいの状況ということだ。

 だから、部下たるメイドが高頻度で茶会を開いているというのは矛盾する話ではある。とは言え、レミリアが生きていく上で不可欠な菓子と紅茶の材料については、有能なメイド兼秘書である咲夜が格安ルートをしっかりと確保しているらしいので、茶会程度なら問題ないと彼女は判断したのかもしれない。

 結局、その程度なら目くじらを立てるほどのことではないなと考え直して、レミリアはメイドのちょっとした“遊び”には目を瞑ることにした。

 

 そんなことを考えている内に、早苗が褒め称えたからか、いつの間にやら彼女の眼前に一切れのチーズタルトが置かれていた。これは咲夜の得意料理の一つで、誰もが垂涎する絶品である。一方、主人に出された菓子は簡単なブリオッシュだけだった。この差は何なのだろう?

 

「まあ、いいわ」

 

 やたら手厳しいメイドの対応に失意を覚えつつも、レミリアはせっかく招いた客人の相手を再開する。

 

「そうそう。ご用事は何でしたか?」

 

 美味そうにチーズタルトを頬張りながら、早苗も尋ねてきた。一口くらい分けてほしいと思ったけれど、彼女がそうしない理由は目の前に同じチーズタルトが置かれているのに気付いたことで分かった。

 

「別に、そんなに大したことじゃないんだけどね」

「ふむふむ」

「私が居ない間、こっちに来たのが居たでしょ?」

「あ! あの人ですね」

 

 早苗はすぐに何のことか察したようだ。「艦娘の、えっと……」

 

「赤城」

「そうです! いきなり本物の艦娘さんが来られてびっくりしちゃいましたよ。あれ、何ででしょう?」

「偶然ね。どうも糸が繋がったのかもしれない。咲夜がすぐに帰したんでしょ?」

「はい。あんまりにも急だったのでお話全然出来なかったんですけど」

 

 ティーカップを持ち上げながら早苗は残念そうに首を振る。赤城と話せなかったのを今でも残念がっている様子だ。

 最近(と言っても数年前だが)幻想郷にやって来た彼女は、当然海を知っているし艦娘や深海棲艦のことも分かっている。外の世界において彼女たちの存在を知らない人間は居ない。もっとも、内陸部に住んでいたという早苗には、艦娘を生で見る機会などなかったようで、赤城と出会えたことに感動しているようだった。

 実際会ってみれば分かるが、艦娘と言えどそこらの人間とさして変わらない。ただ彼女たちは不思議な機械を操作出来て、年を取らないだけだ。デスクワークに勤しむ赤城など優秀な秘書そのもので、どこかの企業や公官庁でスーツを着て働いていてもまったく違和感がないだろう。海に出て敵と相対している姿を見なければ、彼女たちを艦娘と実感することは少ないかもしれない。

 

 ところで、人と似ているようで少し人と違う存在と言えば、目の前の神職もそうだ。

 一般には彼女は人間だと思われているが、厳密には純然たる人間ではない。普段は見てくれも言動や振る舞いもまったく思春期の人間の少女そのものである早苗でも、レミリアのような者が見れば差異は一目瞭然だ。

 彼女は現人神と呼ばれる存在で、言葉を変えて言えば「半人半神」。彼女は守矢神社の二柱の神に仕える風祝であると同時に、自身も同様に信仰を受ける三柱目の神でもある。その神格は八坂や洩矢に比べればずっと低いが、それでも神は神。力は本物だ。

 では、そのような本物の神から見て、“あれ”はどういう風に目に映ったのだろう。

 

「ねえ、東風谷。貴女、赤城を見てどう思った?」

「どう、ですか」

 

 早苗は一口啜ったティーカップをソーサーの上に戻す。

 レミリアはあえて漠然とした言葉で問いを投げ掛けた。早苗がどう答えるか見てみたかったのである。

 それに対して、早苗は意図を察しようとしているのか、しばし黙り込んで考えた。もっとも、その間も手は止まることなく、小さなフォークで小さくチーズタルトを小分けに切り分けていた。

 

「そうですね」

 

 彼女は一口サイズにチーズタルトを分解したところで、ようやく手を止めて問い掛けの答えを述べる。

 

「この人、神を信じてくれなさそうだなって思いました」

 

 考え込んだ割にはあっさりとした答えである。「でも、勧誘したんでしょ?」と返してみると、風祝は頷いた。

 

「第一印象で信仰に興味を持ってくれそうな人かそうじゃないかっていうのは大体分かるようになりました。けれど、どんな人でも一度は勧誘するようにしています。例え入信してくれなくても、神社に参拝に来られる方の全員が信者というわけではありませんし、守矢神社のことを知ってもらうという意味では大事なことだと思います」

「へえ。赤城は信仰してくれなさそうだったと」

「ええ。それは霊夢さんにも分かったと思いますよ。だから、やる気なさそうだったし。あ、それはいつものことか」

「いつものことでしょう。それでチラシを渡すだけにしたのね」

「いえいえ。それは単純にお守りを手持ちしていなかっただけです。ただ、あれで守矢神社と赤城さんとの間に『縁』が出来ました。それがどう転ぶか、どう化けるか分かりませんけど、こうやって地道に種を蒔いていくのも私の仕事ですから」

「なるほどね」

 

 年端もいかない娘、などと軽んじて良い相手ではない。早苗は同年代の少女たちどころか、大人と比べても遜色ないしっかりとした考えの持ち主であるようだった。二十歳にも満たない娘が、「種を蒔く」仕事の意義をちゃんと理解しているのだ。すぐに結果に繋がらなくても、続けていくことに意味があるのだというのをよく承知している。これは全く以って教育の賜物だろう。

 その点で言えば、咲夜は早苗に少し負けているのかもしれない。メイドにはまだ目先の結果を追い求めすぎる未熟さがある。掃除を丁寧にすればより館は綺麗になるし、料理では下準備を整えればより美味しい物が出来上がる。彼女の仕事の性質を考えればそういう傾向を持つのも致し方のないことだとは思うが、こうして差を見せられると何となく悔しいのは何故だろうか。

 

 

 閑話休題。

 レミリアは思った以上に早苗が良い話し相手であると分かったことに気をよくする。聡明で礼儀正しい彼女のようなタイプは幻想郷では珍しい。

 

「『縁』か。私には少し難しい言葉だわ」

「漠然としていますもんね。はっきり言い表そうと思っても中々上手に説明出来ないですし、それどころか説明しようとすればするほどどんどんあやふやになっていく気がする不思議な言葉です。噛み砕こうとしても霞を食べているような、そんな感じ。だから、そうですね、大雑把に言えば『繋がり』と訳せるんでしょうか。そんな、はっきりした物じゃないですけど」

「あるいは『運命的』な関係」

「『運命』ですか。それも難しい言葉です。同じじゃないかもしれないけど、近いところではあると思いますよ」

「確かにそうね。まあ、要は赤城と守矢の間には『運命』的な、『縁』のような繋がりが出来た。貴女はそれを作った」

「そうなりますね」

 

 早苗はチーズタルトを会話の合間に食べていたので、あっという間にそのお菓子は皿から消えてしまった。

 レミリアも出されたチーズタルトを突付き始めた。あまり長いこと放置していると酸化して風味が落ちてしまう。この手の日持ちしない食べ物は出来立てが一番美味い。

 一切れを口に運ぶと、とろけるような食感と共に優しい甘さが広がる。顔を綻ばせるには十分で、かといって無意味に強調し過ぎない程度には控えめな甘さ。余程入念に味を計算しなければこんな菓子は作り得ない。これが外の世界の菓子職人の手によるものなら、レミリアは本心から絶賛していただろう。

甘い菓子は癒やしだ。

 どこに居ても、何をしていても、これが食べられるというならレミリアは何でも乗り越えられる。

 

 

 

「聞くところによれば」

 

 三切れ程食べてから、レミリアはまた早苗に問い掛けた。

 

「貴女たちは幻想郷に移転するにあたって、外の世界にあった元々の神社を燃やしたそうね」

「ご存知でしたか」

 

 早苗は特に憚る様子もなく頷いた。

 建物への放火は、外の世界ではもちろんのこと、幻想郷においても基本的には大罪である。ましてや火を着けたのが神を祭る社殿とあれば、祟りがあってもおかしくはない。だが、目の前の神職は悪びれた風もなく、香ばしい液体を丁寧に啜っているだけだ。

 

「あれは、神奈子様の指示だったんですけど。

幻想郷への移転の手筈がすべて整った後、最後の仕上げとして、私は神社に火を放ちました。拝殿、幣殿、神楽殿、勅使殿、廊下、神馬舎、手水所、灯篭、御柱……。とにかく木造で燃える物は全部燃やしました。残したのは社務所と燃やせなかった鳥居くらいです。後は、森林火災に繋がらないように、鎮守の森は結界で守りましたけど。

ただ、これで、外にあった守矢神社は全焼してしまいました。それこそ、神社があったと分からないくらい徹底的に焼き尽くして、もう復興出来ないくらいになりました。

でも、これは必要なことだったんです。守矢神社という存在が外の世界と決別し、幻想郷に来るために私たちは人々に『もう守矢はなくなってしまったんだ』と思わせなければならなかったんです。

幻想の存在が幻想郷に引き込まれるためには、外の世界で忘れられること、幻想であると認定されることが条件だと言います。ならば、燃やされた神社は、そこにあった信仰が社殿もろとも灰燼に帰したことで、誰の目にも見えて手に触れられる建物がなくなることで、誰もが守矢神社が永久に失われたのだと考えることで、ようやく外の世界から切り離された『幻想』になることが出来たと言えるのです。今はひょっとしたら新しい社殿が建て直されているかもしれませんが、そこにあるのはあくまで守矢神社の“レプリカ”のような、空っぽの入れ物でしかありません」

「それはそうかもしれないけど、自分の神社を燃やせと言うのはすごいわね。実行する貴女も大概だけど」

「いえいえ。びっくりしたんですよ? この場だからぶっちゃけて言えますけど、正直初めて聞いた時は神奈子様の正気を疑いました。だって神社ですよ? 千年単位で信仰されてきた聖域ですよ? そこに火を着けて燃やし尽くせって、普通の考えじゃないですよ」

「それを思い付ける辺りが、さすが神話時代の生き証人と言うわけか」

「神奈子様の仰ることなら間違いはないと、思い切ってやりました。実際、それで正しかったですし。けど……」

 

 それまで饒舌に話していた早苗は、ふと何かに詰まったように言葉を切って虚空を見上げる。

 ほんの一瞬のことだったけれど、彼女の瞳にはどこか遠い景色が映ったのだろう。近く、そしてはるか遠い郷里か。残してきた親御や旧友たちか。

 

「寂しいんですよね。神奈子様のやり方を批判するわけじゃないですけど、外の世界との繋がりを、『縁』を無理矢理にもぶった切ってやって来たようなものですから。もう自分があそこに戻ることはないって思うと、ちょっと、寂しいような気がして。

ああして赤城さんを勧誘して、チラシを渡して、ほんの気休めかもしれないけど、外との『縁』を作り直そうとしたのは、寂しさがあったから、というのもあります」

 

 幻想郷に導かれるには二つの方法がある。受動的か能動的か。外の世界から忘れ去られるという状況を甘受することで幻想へと至るか、あるいは自ら外の世界との繋がりを絶って宙に浮き、幻想郷に引き込まれるか。その二つだ。

 前者は「忘却」という哀しみを、後者は「決別」という哀しみを、背負うことを避けられない。そうした者たちを幻想郷はすべて受け入れる。なるほど、とても残酷なことだろう。

 

 あるいは、だからこそ幻想郷の住人たちは楽しく生きようとしているのかもしれない。大きな哀しみを背負ってきたからこそ、最後の楽園で哀しむことなく日々の享楽に耽るのだろう。この、何時までも続く余生を精一杯楽しもうとする。

 何しろここには楽しい連中がたくさん居る。レミリアの周りを見回しても、ぐーたらな巫女や、はちゃめちゃな魔法使い。スカした人形遣いに、底抜けに明るい目の前の風祝。弄る方のウサギと弄られる方のウサギに、殺し合うほど仲睦まじい不死人たち。死んでいるのに大喰らいな亡霊といつも振り回されてばかりの従者。神出鬼没の隙間妖怪にパパラッチの烏天狗。

 どいつもこいつも、見ていても話していても楽しい相手ばかりだ。毎夜毎夜、酒を飲んでは騒いで食べて。時折誰かが異変を起こしたら、巫女や魔法使いが右へ左へ行き交うのを笑い、トトカルチョの嵐が巻き起こり、それが終わればまた徹夜で宴会。考えることも馬鹿馬鹿しくなるくらい楽しい日常が、この永遠の楽園にはあった。

 

 忘れ去られた哀しみがあるからこそ、そうした日々はますます色鮮やかに、キラキラと光を帯びて輝いていくのだ。それをレミリアはとても尊いものだと思っている。

 もう、この楽園から離れるつもりはなかった。もちろん、幻想郷を出たらどこにも行く当てがないのは確かだが、そんな消極的な理由ではなく、ここが好きだからこそレミリアは死ぬまで幻想郷で暮らしていくつもりだ。もしこの箱庭を壊そうとする不届きな輩が現れたとしたら、レミリアは己の全てを以ってそいつを叩きのめす所存である。

 

 それは同時に今まで自分が五百年過ごしてきた世界との永遠の決別を意味する。守矢の風祝のように感傷を抱くかどうかなんて分からなかった。少なくとも、今自分は寂しいとは思っていない。

 

 

「それで、その『縁』が上手く結ばれる見込みはありそう?」

「分かりません。あまり期待はしていません。さっきも言った通り赤城さんはあまり神を信じるタイプには見えなかったので。

だけど、もしあれが実を結べば、私たちは新たな力を得られるはずです。私の目的はあくまで布教。神奈子様や諏訪子様への信仰を獲得していくことにあります。その範囲は何も幻想郷に留まりません」

「でも、貴女たちは外で信仰を得られないからこっちに来たわけでしょう?」

 

 レミリアが問い返すと、お菓子も紅茶も食べ終わった早苗は静かにフォークを置いてから頷いた。従者の“作品”をじっくりと味わっている主人の手元にはまだ両方が残っている。

 

「はい。外では誰も神を信じなくなったから、神奈子様と諏訪子様は幻想郷への移住を決意されました。それはその通りです。

ですが、だからといって外の住人に対して布教しても無駄だということにはなりませんよね? それをお二方に止められたわけでもありませんし。

何より、赤城さんはこの紅魔館に来られました。この幻想郷に。忘れ去られた楽園に。

直接その目で見て、空気を肌で感じて、巫女や魔法使いと喋って、しかも魔法で出来たお星まで食べたんですよ! あの時、幻想は確かに赤城さんの目の前で否定しようのない現実として存在していたんです。信じるとか信じないとか以前に、紛れもなくそこに在って、手で触れられたわけです。守矢神社も、魔法の星も、“時間を操る程度の能力”も、実体として赤城さんに迫って来たはず。赤城さんがどんな人間性を持った方であろうと、それを否定するなんて出来るわけがないんです!」

 

 食べ終わったからか、早苗はいたく熱が入った様子で力説した。

 確かに赤城は幻想郷に来て、幻想を目の当たりにし、そこから紙切れ一枚を持って帰って来た。たかが紙切れ一枚、されど紙切れ一枚。早苗の狙い通り、「縁」が出来たからこそ起こったことだろう。

 赤城が幻想郷に飛んだのは、恐らく本当に偶然だ。どこかの気まぐれな妖怪の賢者がちょっかいを出した可能性がないとも言い切れないが、そうする理由も意味も考えられないので、やはりただの偶然と思われる。だが、偶然と言えど何もないところで突然起きるわけではないし、ならば赤城が幻想郷に来たのはそれ以前からレミリアという「縁」が結ばれていたからに他ならない。早苗がチラシを渡したことは、彼女と幻想郷との「縁」をより強固にする方向に働いたと見るのが正しいだろう。

 

「幻想郷自体が外との繋がりなくして成り立たないじゃないですか。

例えば、ここは内陸だから住人たちが、人間にしろ妖怪にしろ、自力で塩を生産することは出来ません。けれど、塩を摂らなければ人間は死んでしまいます。そして、人間が居なくなれば、妖怪たちも存在し続けられませんし、人間も妖怪も居なくなれば幻想郷は崩壊します。

そもそも、幻想郷自体が外の世界と“区切り”があることによって成り立っているわけじゃないですか。外の世界と分けられることによって幻想郷は存在することが出来ているとも言えるのです。

だからもう外との関係を完全に断ち切るなんていうのは不可能ですし、それどころかむしろ依存していると言ってもいいでしょう。そこにはもう切っても切れない『縁』が結ばれているわけです。

だったら、入って来るばかりじゃなくて少しばかりこちらから外へ向けて『縁』を結ぼうと働き掛けてもいいんじゃないですか。

その意味では、赤城さんとお会い出来たのは絶好の機会でした。ああして外来の方とお話出来るチャンスは中々ないですからね」

「でも、赤城は難しいんでしょ。神を信じてくれなさそうって言ったじゃない」

「ええ。だから“絶好”の機会だったんです」

 

 早苗は笑う。巧く自分のペースに顧客を引き込めた時のセールスマンのような目をしていた。

 

「赤城さんは信仰してくれなさそうな人でした。

でも、そういう人を口説き落とすのが私のような神職の仕事なんです。布教とはそういうことです。

赤城さんを落とすのは難しそうでしたけど、その分ああいう人は一度落とせば敬虔な信徒となって、そうそう簡単に信仰を捨てたりはしません。掴めるなら、がっちり掴んでおきたいタイプなんです。勧誘したのは、それが一番の理由だったんですよ。

だから、あの時私は本気で赤城さんを口説きに掛かりました。お守りを持っていませんでしたけど、あれば絶対に渡していましたし、出来るなら神社に連れて行って、神奈子様と直接お引き合わせしたかったですね。目の前の神様に本物の神力を見せられれば、例えそれで感服しなくても、強烈な印象を与えることくらいは出来たはずですから」

 

 だけど勘付いた霊夢さんに妨害され、咲夜さんに阻止されちゃいましたけどね。と風祝は残念そうに首を振る。その姿が可笑しくて、いよいよレミリアは声を上げて笑い出してしまった。

 早苗は目を丸くする。目の前の悪魔がどうしていきなり笑い出したのか理解していないようだ。

 

「いや、なるほどね。貴女は保険の販売員なんか向いてそうね。ああ、これでも褒め言葉よ」

 

 ひとしきり笑い終えてから、吸血鬼は冗談半分にそう言った。

 

「あ、ありがとうございます。でも……、保険、ですか?」

「いいの。例えだから」

「はあ……」

「でもさ、一つ訊いていい?」

「何でしょう?」

「外での信仰を得たところで、それが眉唾やペテンじゃないっていうことを信者に信じ続けさせるにはどうするつもりなの? 信仰を維持するために何をするの?」

 

 すると早苗は小首を傾げて宙に視線を上げて考え込む。答えを考えているというより、自分の中にある答えをどのような言葉で表現しようかと考えているような様子である。

 彼女は数秒程度の時間、そうして逡巡していたが、やがてレミリアに視線を戻してこう答えた。

 

「信仰とは、神を求めることです。言葉にしろ、声なき声にしろ、神を信じる者が信じる神を求めることで成り立つのです。

そして神はそうした声を、祈りを、拾い上げ、自らの力を示し、正しい道を教え諭さなければなりません。古来よりそうして信仰というのは続いてきました。人は神に救いを求め、神は奇跡を起こして人を救うのです。そこに、場所は関係ありません。

もし、守矢の神を信じる人が外の世界で救済を求めているならば、例え神奈子様や諏訪子様が動けなくても、私がその人を救いに外に行きます。私だって奇跡を起こせますから。私だって、現人神なんですから」

 

 人を、「救いに行きます」という言葉は、言おうと思っても実際に言うのは憚られるものだ。早苗は、自分が口にしたことの一切に疑いを抱いていないような、その状況が訪れれば躊躇なく言葉通りのことを実行すると決意しているような、揺るぎない口調で宣言する。なるほど、彼女は確かに神であるらしかったし、同時にそのひたむきさが彼女が人間らしい人間であることを示しているようでもあった。

 

 

 

 博麗神社かどこかで宴会が開かれると、レミリアはたまに守矢の主と席を共にして飲むことがある。件の神様は酒が入るといたく饒舌に昔話を語ってくれたりするものだが、それ以上に長々と聞かされるのは彼女の神社の娘のことである。本人が聞いたら羞恥で居た堪れなくなるのは確実な言葉で散々に褒めちぎるのが常だった。レミリアを含め周囲は大抵幻想郷のパワーバランスを占める大物たちが並んでいるので、神の娘自慢が始まるとそこからやいのやいのと自分たちの従者やお気に入りの自慢を負けじと語り出すのもお約束の流れとなっている。

 レミリアもその例に漏れず咲夜の自慢話を声高に語ってみせたことなど、それこそ数知れずあるが、今早苗を前にして、あの神が鼻高々に自慢する気が分かった。今度、また神と飲む機会があったら、自慢話をするのではなく風祝の出来の良さを褒めてやろうと思う。

 

 

 そんなことを考えつつ、ようやくメイドの菓子と茶を味わい終えたレミリアは、存分に己の舌を愉しませられたことに満足しながら椅子に沈み込んだ。

 

「なるほど、ビジネスチャンスがある、というわけね」

「ビジネスじゃないですよぅ」

 

 答える早苗の声はお菓子のように甘ったるい。

 

「私は、私に課せられた使命を全うしようとしているだけなんですから」

 

 彼女の目的は、あくまで布教だ。先程、当人が言っていた通りである。

 だが、その姿はどう見てもやり手のセールスマンにしか見えなかったのだが、彼女の機嫌を損ねても悪いと思ってあえては口にしなかった。

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

「カミ」

 

 唐突に放り投げられた単語。

 何が言いたいのだろう? たっぷり三拍は間が開いた。単語を発した主は、続ける言葉を選ぶのに戸惑っているようだ。そんな妙な沈黙だった。

 レミリアは聞き返さずに、自分を寝間着に着せ替えているメイドが述語を口にするまで待つ。

 

「切らないんですか?」

 

 という問い掛けが来たので、ようやく主語が意味しているのは“God”ではなく、“Hair”だと分かった。今日の昼間に本物の神が訪ねて来てお茶したから、それに関する話だと思ったのだが違うようである。まったく、紛らわしい。

 

 それはさておき、この紅魔館においてレミリアからメイド長の役目を拝命しているのは十六夜咲夜である。紅魔館で唯一、レミリアの身の回りの世話を許されている存在で、種族は正真正銘純粋な人間だ。といっても、紅魔館の労働者は、他に、遊んでばかりのメイド妖精か従順なだけが取り柄のホフゴブリンしか居ないので、必然的にメイド長という役職をこなせるのは咲夜だけになる。

 彼女の仕事は基本的に部下となるメイド妖精やホフゴブリンを取り仕切ってハウスキーピングに務める傍ら、レミリアや他の住人たちの食事を作り、アフタヌーンティーを用意し、朝と晩に主人の召し物を取り替えることだ。その他、日々のベッドメイキングから侵入者の排除まで、職務の範疇は非常に広範である。そして、その中には伸び過ぎた主人の髪を切るということも含まれていて、先の問い掛けはそれを踏まえたものだった。

 

 実際、彼女に指摘されるまでもなくレミリアの髪は伸びていた。幻想郷に来た頃から、ずっとレミリアは髪型をミディアムか長くてもセミロング程度にしていた。それが今や後ろ髪の毛先が肩甲骨より下まで伸びている。

 

 こうなったのには二つの理由があった。

 一つは外の世界の鎮守府に潜入していたために髪を切るチャンスがなかなかなく、何だかんだでしばらく切らずじまいだったこと。もう一つが、意識が「髪を切れない」から「切らない」に変わったこと。すなわち、

 

「伸ばしているのよ。ちょっとした願掛けね」

「願掛け、ですか」

 

 メイドはレミリアの寝間着のボタンを掛ける手を止めず、興味深そうな声色で返した。

 言われるまでもなく、自分でも似合わないことをしていると思っている。まるで思春期の少女がするような根拠のない願掛けである。それこそ今日の客人であった現代っ子がしそうなことだが、そもそもあれも神の一柱であるから願掛けなどしないのかもしれないと思い直した。

 とはいえ、レミリアは割りと真剣にやっているつもりだ。夏になると汗をかいたりしてそれなりに苦労するかもしれないが、その時が来るまで髪は切らないと心に決めている。

 

「こだわるのですね」

「まあね。邪魔になり過ぎない内に切れれば良いんだけど」

 

 昼の部屋着から寝間着へ、レミリアの着替えが完了すると、咲夜は脱がせた部屋着をわざわざ丁寧に畳み始めた。どうせこの後すぐに洗濯するのだから畳まなくてもいいのにと思ったけれど、咲夜は変なところで意地を張って几帳面さを見せることがある。言っても首を振るだろう。主人の服はどんな場合でも丁重に扱うのが彼女の流儀なのだ。

 次いで、咲夜は簡単にベッドを整える。こうして主人の寝床を作るのも彼女の立派な仕事の内に入るのだが、時折それが就寝を急かしているような気がするのも事実。何となくそれが気に食わないので、せっせと仕事をするメイドの背中についつい意地悪な言葉を投げ掛けてしまった。

 

「ねえ、お前は私の髪を切りたいのかしら?」

 

 メイドの手は相変わらず止まらない。滞りなく、無駄もなく、テキパキと布団を整えながら、

 

「変なことを仰らないで下さい」

「おやおや。私にはお見通しなのよ?」

「何のことですか? さ、早く寝ますよ」

「素直じゃないね。正直に言えば触らせてあげるのに」

 

 意地悪な顔で言う意地悪な言葉。対して、振り返った咲夜の顔は無反応だったけれど、その手が痙攣したように微かに跳ねたのを見逃さない。

 レミリアはこれ見よがしに後ろ髪を一房摘んで、指で弄った。もちろん、強情なメイドへの挑発以外の意味はない。

 

「……違います」

 

 急に小声になる咲夜。言葉も先程までのようなハキハキとした言い方ではなく、自信なさそうな弱々しいものだった。

 

「違わないわ」

「違います。ただ、その……お手入れ、しないといけないと思って」

 

 尻切れトンボの語尾は聞き取れないくらい小さかった。それに、レミリアはようやく満足する。

 完全で瀟洒な従者姿はどこへやら。咲夜は年相応の姿を見せ、照れているのか頬や耳たぶがほんのり赤く染まっている。

 

 こんな姿を、彼女はレミリアの前でしか晒さない。

 咲夜がこんなにも弱々しく愛らしい少女であることはレミリア以外知る者は存在しない。

 普段の言動には抜けたところがあっても、咲夜は完璧なメイド長を演じきっていて誰もが彼女は大人びていて頼りになる性格だと思っている。もちろんそれはその通りだが、一方でハリボテの虚勢であるのもまた事実だ。

 つまり、それを知っているレミリアというのは、世界で最も効果的に咲夜の弱点を突くことの出来る存在で、そうするとメイドはあっさりと主人に屈服して弱さを曝け出してしまう。時に意地悪なレミリアは、そうやって咲夜の仮面を剥がしては楽しんでいた。

 

「ふふん。じゃあ髪を梳く権利を与えるわ」

 

 素直になればいいのに、咲夜はこういうところで妙なプライドが邪魔をするのか、意地を張る。どうせレミリアには全部見通されてしまうのに、虚勢を見せずにはいられないらしい。

 今も、メイドはバツの悪そうな顔で躊躇いを見せていた。

 本当に、素直じゃない。

 言い方を変えよう。

 

「髪を、梳いてほしいのだけど」

「……寝る前ですよ?」

「このまま寝たら寝癖がつきそうなのよ」

「分かりました」

 

 と言う頃には既に彼女の右手には櫛が握られている。心なしか顔も嬉しそうだ。

 レミリアがベッドの端に腰掛けているので咲夜も同じように隣に腰を下ろす。背中を向けると、恐る恐るといった感じで彼女は髪に触れた。

 そっと、櫛が入れられる。力が入り過ぎているのか、手が震えている。それが伝わってきて、思わず笑い出しそうになった。

 

 彼女にとって主人の髪を梳くのは決して慣れぬ作業ではないはずなのだが、今し方のやり取りもあって変に緊張してしまっているらしい。

 妙なところで力んでしまう人間だった。そういうところも咲夜の「可愛さ」としてレミリアはいたく気に入っているのだが。

 ただ、しばらく無言でいると咲夜も程よく力が抜けたらしい。余裕が出て、「願掛けはいつまでされるのですか」と囁いた。

 

「ちゃんと終わらせられるまで、かしら」

「ですが……」

「ええ。そうよ」

 

 レミリアは目を閉じる。

 視界に映る自室の景色に代わり、脳裏を占めるようになるのはあの外の鎮守府の光景。そこで働く人々と艦娘。絶え間なく打ち寄せる波。磯臭い海風。

 

「仕切り直したい。一度はしくじったわ。二度はない」

「……」

「だけど、その権利すらないの。状況は既に私の手を離れてしまっている」

「私から、博麗に取り次ぎさせましょうか?」

「そうね。その時になったらお願いするかも。でも、まだいいわ。考えがまとまっていないもの」

「何か、秘策があるのですね」

「まあね。今までとはやり方を大きく変えるわ。戦略の大転換――Pivotってやつよ」

 

 レミリアは目を開ける。

 そこに在るのは見慣れた自室の風景。軽く頷くと、咲夜は手を止めて櫛を髪から離した。

 小さな主人は隣に座る従者の首筋に、細っそりとした手を伸ばして巻き付ける。合図を察した咲夜は静かに腰を持ち上げ、逆らわずに身を寄せて主人の目の前で跪いた。それでも、ベッドに腰掛けるレミリアよりも咲夜の目線の方が高いので、主人は従者の頭を両手で抱き寄せ、従者は腰を折って主人の腕の中に埋もれる。

 レミリアは静かに、触れるか触れないかの繊細さで咲夜の鼻先に口付けをする。恐らくはそんなところへの接吻など予想だにしていなかったであろう未熟な従者は、素直に驚きを顔に出して、頬を赤らめた。長いまつ毛のついた瞼が、二度三度慌てたように瞬きして、その奥にはめられている透き通った青色の瞳が重力に従って落ちていく。

 もちろん、老獪な主人には今の従者の心理までお見通しだ。こうして彼女の想像の範疇にない行動を突然起こして、その度に動揺する様を眺めて楽しむのが、性格の悪い吸血鬼のお気に入りの遊びの一つであった。

 

「怖い?」

 

 レミリアは囁いた。吐いた息で相手の前髪が揺れる距離。咲夜は「いえ……」と蚊の鳴くような声で答えた。

 

「ただ、またお嬢様が危ない目に遭われるんじゃないかって」

「心配?」

「はい」

「そう。人間のくせして、私の身を案じるなんて、お前も偉くなったもんだねえ」

「すみません。出過ぎたことを申しました」

 

 意地悪を言うと、咲夜は悲しそうに謝った。彼女はまだ人生経験の浅い少女で、とても純真なのだ。主人の底意地の悪い言葉も率直に受け取ってしまって、勝手に傷付いて勝手に悲しむ。今までもこの手のやり取りは何回もあったが、未だに彼女は慣れないらしい。いい加減にあしらい方を覚えればいいのに、レミリアの言うことなら何でも真に受ける彼女の心は、きっと汚れを知らず澄んでいるのだろう。

 だから、レミリアはこう言った。

 

「怒っているわけじゃないわ。むしろ、私はお前のそういうところが気に入っているの」

 

 レミリアは咲夜の感情を振り回す方法を熟知している。呆けたように主人の顔に目を向ける従者が思っていることなんて、一から十まで手に取るように分かるのだ。ただし、小振りながら鼻梁の通った鼻から、彼女の白さを汚す赤い物が垂れたのは、さすがのレミリアと言えど予想外であった。

 

「あら」

 

 滅多に見せない従者の粗相に、思わず声が出てしまう。ところが、こういうことは本人には意外と感覚が薄いものなのか、咲夜は(彼女にしては)長い間それに気付かなかった。右手の人差し指を唇の上に当てて、そこに付着した物を目で確認してようやく鼻血が出ていることを認識したようだ。

 その瞬間、レミリアは咲夜の肩に手を置き、ほんの少しだけ力を込めた。そうでもしなければ、従者は時を止めてすぐにでも主人の面前から逃げ出していたであろうから。

 逃走を封じられた咲夜は、その代わりに謝罪することを選んだ。

 

「申し訳ありません。出直して来ます」

 

 だが、レミリアは肩に置いた手で咲夜を体ごと引き寄せると、彼女の鼻の下に口を寄せて血を舐め取った。ほんの一瞬の出来事で、理解が追い付いていない咲夜はあっけにとられてレミリアが満足気に笑みを浮かべた時も、まだ何をされたのか分かっていなかった。そんな彼女の血はレミリアにとって最も好ましい味をしている。

 やがて咲夜が衝撃から復帰して事態を認識した時、彼女はいよいよ顔全体を真っ赤に染め上げた。動揺のあまり時間を止めることすら忘れたのだろう。湯気が吹きそうなほど羞恥に身を焦がし、忙しなく何度も瞬きを繰り返していた。

 

「お、お嬢様!?」

「何よ?」

「な、何てことを……! 不潔ですわ!」

「何がよ?」

 

 いよいよ両手で鼻を覆い隠した従者は、精一杯の抗議の声を上げる。だが、主人は至って冷静に、そして悪辣に応答した。何しろ、レミリアは悪魔である。

 

「血、血を! 鼻血を!」

「血? 何を言っているの? 私は吸血鬼よ。血くらい舐めて当然じゃない」

「……ッ! 失礼しますッ!!」

 

 ついに耐え切れなくなった従者は姿を消した。彼女はきっと大慌てで洗面所に向かったのだろう。今頃は必死で顔を洗っているところか。

 いたいけな少女を散々甚振った悪魔は、その夜満足して熟睡することが出来た。ただし、その代償というものは当然のごとく付いて回るものであって、それは翌朝に訪れたのである。

 

 次の日、思う存分眠ったレミリアが気分良く朝食の席に着くと、珍しく朝から赤ワインが置いてあった。においを嗅ぐとやたらと獣臭い。試しに飲んでみるとイノシシの血であったので、レミリアは慌ててトイレに駆け込まなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 


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