それはさほど難しくない要撃任務だったはずだ。
本土を目指して西進して来る深海棲艦の前衛部隊と思われる敵を迎え撃てば良かった。決して簡単とは言えないし、気を抜いてはならない任務ではあったけれど、一航戦とその随伴の実力をもってすれば手こずるようなものでもない。もちろん油断も慢心もなかったし、いつも通り冷静に事を進めていたはずなのだ。
けれど、気付いた時にはもう遅い。
赤城たちは、引き返せないところにまで足を踏み入れてしまっていた。
どんなに悔いても後の祭り。自分の行動や判断を一つ一つ思い出していって失敗や失策を見い出そうとしても、小さなことはあったけれども、大局を左右するような致命的な失敗はなかった。ただ、運が悪かった。敵の方が何枚も上手だった。
負けを認めるにも時間が必要。
確かにその通り。けれど、赤城は未だに敗北を受け入れられない。
****
出撃は慌ただしかった。
昨日の夕刻、突然本土に向かって行進する深海棲艦の艦隊が発見されたのだ。洋上偵察用の無人哨戒機からの報告だった。
それから夜を通しての敵艦隊の解析と予想進路の割り出しが行われ、結果、空母ヲ級フラグシップを旗艦に二隻の戦艦タ級フラグシップと重巡や軽巡が随伴する比較的強力な艦隊であると判明。三十六時間以内に敵艦隊は艦載機の行動可能圏内まで本土に接近すると見込まれた。
敵の予想進路に最も近い拠点は赤城たちの鎮守府であり、当然一航戦がこれを迎え撃つ決定が下される。
緊急の出港。もっとも、この程度のことはしばしば起こり得るもので、実際経験の長い赤城たちは幾度となくこのような慌ただしい出撃を繰り返して来た。場数を踏めばそれだけ慣れるもので、突然の出撃にてんてこ舞いの人間たちを尻目に、ベテランの多い艦娘は特に慌てることもなく淡々と準備をしていた。
発見から翌日の早朝には「硫黄島」に乗って出港すると、そのまま一路東へ向かい、昼前には完全装備の艦娘が六人、ウェルドックに集合している。
艦隊の編成は、旗艦を赤城に、加賀、金剛、曙、漣、潮と続く。この鎮守府では一番オーソドックスな編成である。
サポート体制は万全だった。
既に複数の無人哨戒機「トライトン」が空を飛んでいたし、有人機のP-3Cや早期警戒機も参加している。その上、偵察衛星も動員されており、まさに敵艦隊は丸裸にされている状態だった。攻撃隊どころか、偵察機さえ発艦させていない段階で、もう赤城は敵の情報を思いのままに知ることが出来ていたのである。
増援の要請も行われていた。近隣の拠点や関東地方の主幹拠点から続々と増派部隊が編成され、準備が整い次第順次出撃することになっていた。
何も怖いことなどない。ここまでお膳が立てられれば、今日初めて海に出た新人空母だって戦果を挙げられるに違いない。そう言っても過言ではないくらい盤石な迎撃態勢が構築されていた。
これが海軍の強みである。
人間の軍隊とは違い、深海棲艦の襲来には兆候というものが存在しない。ある日突然、ある場所に突然、奴らは現れるのだ。今回のように一晩の猶予があったのは幸運な方で、中にはまったく無警戒のところを襲われることさえある。当然、そうはならないように常日頃からの哨戒活動というのは入念に行われているのだが、それでいざ敵を発見しても準備が整わなければ満足な迎撃は出来ない。
故に、海軍の即応力というのは歴史上類を見ないほど高いものとなっている。対深海棲艦において主力となる艦娘の艤装は常に最良の状態に保たれ、日常の点検の他、専門の整備職が管理をしている。艦娘の海上拠点となる母艦はガスタービンエンジンを搭載し、特に艦娘の燃料や弾薬はほぼ常に入れっぱなしになっている。一度出港したら洋上での再補給が必要だが、全通甲板を持つ「硫黄島」ならそれも難しくはない。
現状で何週間も継戦するのは困難だが、手痛い一撃を食らわして敵の出鼻を挫くには十分過ぎる戦力だ。
「敵は方位90。真っ直ぐ東。発艦準備が整い次第報告せよ」
「こちら赤城。了解です」
オペレーターに返事し、赤城は空を見上げた。
雲が多い。一抹の不安を抱く。
空は一面灰色の重そうな雲に覆われて視界が悪い。雲上から襲って来られたら目視で発見するのは不可能だろう。
いくらサポートが充実しているからと言って、機械に索敵を任せきりにしたくはない。それは別に機械の力を信用していないからというわけではなく、ただ単純に自分の目と、目に繋がった艦上偵察機によって確かめなければどうにも不安だからだ。もちろん現代のレーダーは非常に高性能だし、艦載機による索敵でも見付けられなかった敵を発見することもあり、その力は信用している。要は、赤城の頭が古いということなのだろう。事務仕事をやっていても、相手に何か要件を伝える時にメール一辺倒ではなく、ちゃんと電話を掛けて口で伝達しないと気がすまない質なのである。
程なく赤城はオペレーターに報告を入れた。発艦準備と言っても、陣形をそれまで単縦陣で進んでいたのを輪形陣に変え、彼我の位置情報から攻撃可能時間や移動距離などの諸々の計算をしていたくらいである。今回は防空戦も想定して艦戦を多めに搭載して来ていたので、打撃力はそれほどでもない。
「第一次攻撃隊、発艦します!」
号令を合図に、加賀と二人で攻撃隊と護衛の戦闘機隊を空に打ち上げていく。
「敵の動向は? 発艦の兆候が見られるようなら、このまま直掩機も上げたいのだけど」
と、加賀が進言する。
「いや、敵艦隊に動きはない。まだいい」
「動きがない……?」
聞き返した加賀の声に不審の色が混じる。
考えていることは一緒だ。赤城も今のオペレーターの回答が不審なものであるという感想を抱いた。彼自身のことではなく、純粋に彼が言った内容について。
敵は索敵をしていないのだろうか。これだけ無人機が飛び回っているのに、敵の索敵機とは遭遇しないのだろうか?
確かに、高性能なレーダーで索敵出来る味方の方が深海棲艦より優位である。敵もあれでレーダーを装備していたりするのだが、さすがに合成開口レーダーや早期警戒機といった最新装備で警備する海軍の索敵能力には数段劣ってしまう。故に、深海棲艦の隠密行動といえば潜水艦よろしく潜行以外にない。海上に出て活動を始めた場合、ほぼ間違いなく軍の索敵網のどこかしらに引っ掛かってしまうのだ。
そうは言っても、現在捕捉中の敵艦隊は発見されてから時間が経っているし、昨晩からずっと無人機が張り付いて追跡している。その無人機が追い払われたり撃墜されたという情報はないが、連中は人間に追跡されていることに気付いていないのだろうか。
それはそれで赤城にとっては都合が良いのだが、あまりにも上手く行き過ぎると逆に不安になってくる。
これは、何かの罠ではないか?
深海棲艦の知能は一般に低いが、中には人間並みの者も居る。昨年の駆逐水鬼討伐戦で判明した通り、中には“元艦娘”の深海棲艦も存在するわけだから、人間のように緻密な戦術や戦略を組み立てられる頭のいい敵が居ても不思議ではない。
しかし、赤城たちの警戒とは裏腹に状況は気持ち良く進んだ。
発艦した攻撃隊は結局直前まで敵に気付かれることなく接近し、そのまま迎撃態勢の整わない敵艦隊を蹂躙する。元々の艦攻の数が少ないから撃沈多数とはならなかったが、主力であろう空母を中破させて無力化したのは大きい。航空戦力を喪失した敵艦隊なら、後は戻って来た攻撃隊を再出撃させてじっくり叩けばいい。
一発で空母を潰せて運が良かった、というのが正直な感想。
ようやく昼と夜の時間が同じくらいになってきた三月。冬と違ってゆっくりと太陽が傾き始めたころに攻撃隊が戻って来た。
その収容を終えてほっと一息ついたその瞬間だった。
「Warning!! 五時の方向から魚雷接近!!」
突然インカムを震わせる金剛の怒声。年相応に落ち着いて滅多に怒鳴らない彼女なだけに、突然の大声に赤城の背中が跳ねた。
金剛は輪形陣の最後尾に陣取っている。だから、背後から狙い撃たれた魚雷に彼女だけが気付いたのだ。
だが、その時にはもう遅い。
赤城の右隣で爆音が轟く。自分の身長より数倍高い巨大な水柱が真横で立ち上がり、すぐに礫のように水飛沫が頭上から降りかかる。
「加賀さん!?」
果たして、命中弾を受けたのは相方であった。
水柱が収まったそこには、加賀の姿がある。
直撃だ。「女神の護り」が効いたのか、あれほどの爆発でも死ぬどころか五体満足だが、その姿は最早健在とは言い難い。
魚雷をまともに食らったのだ。彼女は立って航行も続けられているが、意識が飛ばされてしまったのか朦朧とした様子だった。主機にダメージが入って速力も落ち、艦隊から落伍し始めている。已む無く艦隊の速度を減速させる。
「潮! 追い払って!!」
曙の怒号が飛ぶ。現在艦隊の中で対戦装備を搭載しているのは潮だけだ。加賀の右隣に位置取りしていた潮が艦隊から離れていく。
「状況を報告せよ」
次いで慌てたようなオペレーターの声。突然の事態に、彼も動揺している。
落ち着かなければならない。こういう時こそ、旗艦である自分が動じてはならないのだ。
そう、自分に言い聞かせて、赤城は努めて冷静に応答する。
「こちら赤城。加賀が大破しています。現在我が艦隊は敵潜水艦の襲撃を受けています! 撤退の許可を!」
「了解した。北西へ退避せよ」
オペレーターの代わりに答えたのは提督の加藤だ。
判断はやけにあっさりしているが、基本的に大破艦が出たら撤退する。これはどこの鎮守府でも、どの艦隊でも、そしてどんな作戦中でも同じだ。彼の判断は間違っていないし、だから赤城もすぐさま北西への転針の合図を出そうとした。
「敵潜水艦より第二射接近中!」
潮の警告に再度体を強張らせる。
「回避! 回避!」
曙が叫びながら雷跡に向かって主砲を放つ。
だが、そんなものは気休めでしかない。艦隊の面々は一斉に迫る魚雷に背を向けるように回頭する。
シュッ、シュッという水を撹拌する不気味な音が脇を通り過ぎた。
「加賀の容態は!」
加藤の問い掛けに、赤城はもう一度加賀を見る。
一見すれば彼女は立って航行できているからどれほどの損害を受けているのか分かり辛い。しかしそれは、艦娘が艤装から受ける「女神の護り」の効果によってなされているものにすぎない。ほとんど意識を喪失した加賀に代わり、艤装の方が自動で航行とそれに必要な姿勢保持をしているだけだ。赤城が加賀の状態を「大破」と言ったのは、彼女が自分の意志で艤装を制御出来る状況ではなくなったからである。
破片は装甲によって弾き返されたから外傷は目立っていない。だが、被弾の瞬間彼女の体を貫いた強烈な衝撃は確実に脳にダメージを与えている。
「出血は軽微ですが意識がありません。脳挫傷の可能性があります!」
「まずいな。とにかく早く帰って来い。増援の部隊も出撃している。急がせるから諦めるな!」
「了解!」
そうだ。まだ加賀が大破しただけだ。味方は他にもたくさん居る。
想定外の事態に赤城の胸が苦しくなるが、思っているほど状況は悪くない。今のところ潜水艦だけが脅威だし、味方の庇護下に入れば取り敢えずのところは一安心である。
悪い方に考えすぎることはない。
自分にそう言い聞かせる。けれど、どうしてか不安が拭い切れない。
程なくして大きな爆音がした。
「敵潜水艦を排除しました!」
喜色ばんだ潮の声が耳に入ってくる。
「上々ね。すぐに艦隊に戻って来て下さい」
脅威が取り除かれたことに、赤城は胸を撫で下ろす。後の心配事は、ほぼ加賀の容態だけとなる。
「……あ」
無線を通して微かに聞こえたかすれ声。
「……あかぎ、さん」
「加賀さん!」
どこか浮ついたような相棒に名前を呼ばれて咄嗟に振り返る。加賀は相変わらず脱力したような不自然な姿勢で(そうなるのは艤装が無理矢理彼女を立たせているからだ)、けれどもゆっくりと首を動かして赤城の方を向く。
「加賀さん、聞こえますか?」
「はい……」
「大丈夫ですか? どこが痛いですか?」
「……足。あと、全身……」
「頭は? 頭はどう?」
「そっちは、大丈夫。多分、脳震盪で、気を失ってただけ」
予断は許さないが、しっかりとした加賀の返答に赤城は安堵した。足を中心に骨折や打撲はあるだろうし、中枢系の損傷も詳しく診てみないことには素人に判断出来るものではないから安心し切ることは出来ないが、意識を取り戻したというのは大きい。やはり、何をするにも自分の意志で艤装を操らなければならないからだ。
「現在、私たちは北西方向へ退避中です。『硫黄島』が迎えに来てくれています。増援部隊も既にこちらに向かっています。加賀さんは敵の潜水艦からの雷撃をもらってしまったんですよ。でも、その敵は先程排除出来ました。あとは、このまま母艦に戻るだけです」
「……そう」
赤城が状況を説明しても、加賀の返事は短かった。
様子を見るに、だいぶ具合が悪いのだろう。下半身を中心に痛みを訴えて、余裕はなさそうだった。
モルヒネでもあれば良いのだが、艦娘艦隊に衛生兵など居ない。衛生用品も、「女神の護り」任せにしているから持ち出して出撃することなどまず滅多にない。加賀には悪いが、しばらくの間は痛みに耐えてもらわなければならなかった。
「赤城さん……」
ところが、加賀は相棒を呼ぶ。
相当辛いであろうに、一体何を話そうというのだろうか。余程重大なことだと思い、赤城は耳を傾ける。
「……運命って、信じる?」
こんな時に、彼女は何を言い出すのだろう?
赤城は思わず我が耳を疑い、次いで加賀の正気を疑う。被弾の衝撃でちょっとおかしくなったのだろうか?
「何の話ですか?」
「運命、が、もし見えたら……」
しかし、加賀は思いの外強い調子で赤城の言葉を遮った。
その気迫に押される形で閉口する。
「こんな、ことにはならない。彼女は、目の前の運命を、見ることが出来て、だから海中からの奇襲も、知り得た……」
加賀の言わんとしていることが分からない。
“彼女”とはレミリアのことだろう。確かにレミリアは未来予知でもしているかのように深海棲艦の奇襲を言い当てた。ヲ級改の時に一回、そして赤城は聞いただけだが、南方での作戦の時にも駆逐水鬼の攻撃を予知したらしい。
それが、加賀の言うように運命を見ること云々に繋がるのかもしれない。
だが、それは今この状況で話さなければならないことだろうか?
「加賀さん、苦しいんなら黙って……」
「罠よ!」
今度は叫んで遮る。
その反動で痛みに顔をしかめる加賀を、赤城は何も言えずに見詰めるしかなかった。
「……これは、罠よ。さっき、気を失ってる間に、運命が、見えたの。これは、敵が仕組んだ罠。まだ、安心しちゃいけない……」
「ああ、そうだな」
絶句する赤城に代わり、加賀の言葉に答えたのは加藤であった。
しかし、無線越しに聞く彼の声は、いつものような張りや、あるいは生気が抜けてしまっているような気がした。
「赤城、端末を見ろ」
そう言うので、赤城は手首に巻き付けられた情報端末の画面を見下ろす。
そこには無人機や艦隊の他の艦娘が探知した敵の情報を合成して表示されている。デフォルトでは画面の背景は濃緑色なのだが、今は様子が異なっていた。
先程までとは違う。敵の存在を表す白い光点が、ここより凡そ東の方向に無数に表示されているのだ。
「敵艦隊出現だ。この現れ方だと、海中から浮上して来たな」
人は、あまりにも悪い事態に直面すると、思いの外取り乱さないらしい。
そんな、知りたくもない知識が増える。
加藤は落ち着いていた。何故なら、彼はもはやどうにもならないことを理解していたし、取り乱す気力も失せてしまっていたから。
どうしてそんなことが分かるかと言えば、もちろん赤城も同じ精神状態になったからだ。
敵艦の白い光点からさらにモヤのようなものが広がる。言うまでもなくこれは、敵の艦載機である。
「Holy Shit!! 航空戦用意!!」
金剛が口汚く罵る。彼女がそう言いたくなる気持は痛いほど分かった。
戻って来た潮も合わせて、艦隊は再び輪形陣に戻り、随伴の四人は主砲を空に向ける
敵の正体は不明だが、ヲ級クラスの敵ならなんとか攻撃を凌げるかもしれない。轟沈寸前の加賀に着弾しなければそれで良い。
しかしながら、彼女が見たという運命は赤城の想像を遥かに超えた、非常に残酷なものだった。
声が聞こえた。
深海棲艦の声。
艦娘を水底へと誘う亡霊の声。
「久シブリダナ」
何故だろう。どうしてだろう。
いや、答えは決まっている。すべては仕組まれていたのだ。
最初の敵艦隊は釣り餌だった。それを叩いて満足しているところに、足元から潜水艦が奇襲する手筈だった。実際、それは成功した。
魚雷の威力も、堅牢な正規空母を一撃で大破させる威力だったのだから、敵はおそらくフラグシップクラスの潜水艦だったのだろう。
ほうほうの体で鈍足な損傷艦を引き連れて逃げる赤城たちは奴らの格好の餌となる。
そう。すべてはあいつが仕組んだ罠。
かつて、一度だけ刃を交えたことのある強敵。
最近ちらほらと姿を見せるようになって軍としても警戒していたところだった。だというのに、このザマである。あいつは相当に頭がいいのだろう。
まさか、こんなふうに嵌められるとは思わなかった。
でも、何も、今じゃなくていいじゃないか。お前じゃなくていいじゃないか。
「何でお前なのよ!?」
赤城は叫んだ。この声が聞こえたかは分からない。
ただ、どこからか嘲笑うような声が虚空に反響する。
「空母……水鬼……ッ!!」
****
深海棲艦の分類に「水鬼」というカテゴリーが作られたのは比較的最近のことだ。
それまで最高クラスだった「姫」を超える存在としての意味である。「姫」よりも堅固で、より高い破壊力を持ち、より大規模な艦隊を統制出来る指揮能力を持つ者。それが「水鬼」という深海棲艦だ。
空母水鬼は文字通り、数ある空母系深海棲艦の頂点であり、MI作戦で赤城たちを苦しめた空母棲姫を凌駕する最強の空母だ。棲姫を超える膨大な数の艦載機を操作し、生半可な攻撃では傷一つ付かない堅牢な装甲を備える。従える野獣のような艤装(このクラスの深海棲艦になると艤装の一部が分離独立している)は今まで見たこともないほど巨大なもので、彼女はその上に悠然と腰掛けている。
想像以上の強敵。
突如現れたそれに対して、為す術はなかった。精々、防空用の直掩機を上げるくらいだが、それも焼け石に水のような気がしてならない。
先の海戦の時と同じく、負傷して戦えない加賀が自分の矢筒を赤城に渡してくる。前回はこれで航空戦力の数的不利を覆したが、今度の相手は空母水鬼で、ヲ級改などとは次元の違う存在だ。
まして、前回のように艦載機の同時制御数の限度を超えたために失神するようなことがあれば、それこそ艦隊の全滅も有り得ることである。取り敢えず矢筒は預かったものの、使うかどうかは未知数だった。
せめて加賀が健在であればと思うが、それもないものねだりというか、そもそも敵潜水艦の狙いからして空母だったのだろう。完全に敵の手の平の上で踊る道化になっていた。
無線の向こうでは味方が激しくやり合っている。主に「硫黄島」の加藤やオペレーターが他所の部隊にありったけの増援をすぐにでも連れて来いと命じているようだ。ただ、位置関係からどう考えても増援が到着する前に敵の攻撃隊に襲われる。
端末の電探画面上では、発艦した敵艦載機隊を示す白いモヤが三つに分かれていた。赤城たちの後ろ、六時方向から来る一派と、五時、七時方向の進路を取るのがそれぞれ一派ずつ。敵は完全に飽和攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。何百機居るかさえ分かったものではない。少なくとも、赤城が打ち上げた直掩機の数倍の数なのは間違いない。
自分が生き残れるビジョンが見えなかった。
だから、赤城は一言だけ無線に吹き込む。
「皆さん、覚悟してくださいね……」
誰もが承知している。皆、決して口に出して言わないが、寮の自室の何処かに、ある日突然このような事態に直面してもいいように遺書を書き残しているはずだった。もちろん赤城もそうである。果たしてそれを残す相手はもう顔も忘れた両親くらいしか居ないけれど、せめて自分が戦った痕跡を残したくて遺書を書いていた。
今まで運良く生き残ってこれたので遺書はただの紙切れでしかなかったのだが、今日こそその遺書が遺書たる意味合いを持つようになる日かもしれない。
「『硫黄島』直衛の四人も出撃させた。合流次第海上で連合艦隊を編成し、艦隊防空に努めよ」
「了解です」
加藤は「硫黄島」を守っていた木曾と川内、舞風と野分の四人も出したようだ。最も近い増援と言えば彼女たちのことだが、肝心の航空戦力の補強がないのであれば心許ない。
敵艦載機隊は刻一刻と近付いて来ていた。赤城は直掩機を上昇させて高度の優位を取る。せめてもの対策だった。
「敵発見しました!」
輪形陣の左を守る漣が、自分の斜め後ろの上空を指しながら叫ぶ。
つられてそちらを見上げると、確かに灰色の雲に黒胡麻を撒いたような粒が見える。あれだけでも百は下らない数だろう。
「ちょっと、大盤振る舞いしすぎじゃないかなぁ」
と、漣は呆れたように呟いた。
「気合い入れなさいよ。ここまでやってくれるなんて、逆に名誉なんだからね」
「曙はポジティブだね。ま、やるけどさ」
次いで上空の艦載機から情報が送られて来る。雲の上にも敵編隊を発見したようだった。
「来ますよ。全艦、交戦開始!!」
戦いの幕が切って落とされる。
初めは熾烈な航空戦。上空では翼と翼がぶつかり合い、火花を散らし、血飛沫の様な紅蓮を噴き上げて堕ちてゆく。
しかし、直掩機だけでは攻撃を防ぎきれない。
穴だらけの防空網を突破し、歪な形の敵機が襲い来る。
「回避! 回避!」
誰かが絶叫している。
陣形も何もあったものではない。無我夢中で回頭する赤城の直ぐ側に高い高い水柱がそそり立つ。
敵機は四方八方から押し寄せていた。空を見上げれば、流体力学を無視した不気味な形の深海艦載機ばかりが飛んでいる。味方機はどこに行ったのかと探すが、視界に映る範囲には居なかった。それでも赤城は自らの子供とも言える彼らとは意識が繋がっているので、見えないところで彼らも奮戦しているのは感じていた。
あまりにも敵の数が多すぎて判然としないが、どうやら狙いは赤城と加賀らしい。そりゃそうだ。大物から狙っていくだろう。
だから、赤城は必死で動き回っていた。出来るだけ元気に見えるように動いた。
何故なら、赤城はまだ一発も被弾していないのだ。二、三発くらったところで沈みはしない。
だが加賀は違う。彼女はあと一発でも被弾すればすぐにでも沈んでしまいそうな深手を負っている。
随伴の四人も、赤城を追随していた。激しく転進する艦隊運動の中でも、手慣れた彼女たちは効果的に弾幕を展開している。針路が変わっても射線が被らないように互いを見ながら阿吽の呼吸で調整を繰り返し、極力穴が開かないようにする。口で言うのは簡単でも、実際にやるにはベテランの業が必要だ。
攻撃が始まって体感的に十五分は経過しただろうか。
これだけの数だ。敵機が爆弾や魚雷を一通り投下し終えるにも結構な時間が掛かるだろう。果たしてそれまで保つのだろうか。
戦場の海は歪な翼が奏でる耳障りな風切音と、聴覚がおかしくなりそうな対空砲の射撃音に包まれている。それに混じって、時折腹に響く轟音が轟く。
「Yes! Bandit down!」
無線を通して軽やかな英語が聞こえる。背後を守る戦艦の主砲が敵機を弾き飛ばしたらしい。大口径主砲で敵を撃墜出来るのは世界広しと言えど彼女くらいなものではないだろうか。
と、自分の目の前を黒い塊が横切る。
敵の艦攻だ。防空網を突破して陣形の中まで突っ込んで来た。ただし、問題はそこではない。
「二時に雷跡! 回避して!」
曙の叫ぶ通り、赤城は自分に向かって来る数条の白い線を海面に認める。
咄嗟に舵を切った。艦船より余程小回りの効く艦娘ならではの動き。雷跡と雷跡の間に身を滑り込ませるようにして回避する。
だが、ほんの一息も吐く暇はない。今度は別方向からの艦攻の肉薄。
「右! 接近して来ます!」
敵機は悲鳴を上げながら対空砲を振り回す潮の肩を掠め、猛スピードで海面スレスレを飛びながら突入して来る。
その機体にはもう魚雷は下げられていない。だというのに、まるで自爆特攻するようにまっすぐ赤城に向かって来るのだ。
誰かが放った高角砲弾が敵機の目の前で爆発、黒い煙の塊が中空に現れた。それを食らったのか、バランスを崩した敵はそのまま波間に突っ込んで水柱を立てる。
その影から、白い雷跡。
当たる、と思った。
自分が何をしたかも自覚出来ないような刹那、かかとを踏み込んでスクリューを沈める。当然推力は上へ向き、波に乗る赤城の体を中空へと持ち上げる。
膝を畳んで、わずかな間、海面から完全に足を離した。
その瞬間、獲物を喰らい損ねた魚雷が真下を通過していく。
「はは……」
思わず笑いが漏れる。
この手の身軽な動きは軽快な小型艦艦娘が時々見せるが、正規空母のような鈍重な艦娘が行うものではない。艤装の重さが違うのだが、まあ四の五の言っている場合ではなかったのだ。
敵の雷撃は、しかしそこで一瞬途切れる。
意図して出来たものではないだろう空白。肺に溜めていた空気を吐き出すしか出来そうにない束の間。
加賀のことが気になって振り返る。
彼女は再び落伍し始めていた。主機にダメージが入っていてどうあっても 速度が出ないのだ。
先程までは艦隊の速度を落とすことで彼女に合わせていたのだが、この空襲下にあって速度を落とすことは自殺行為に等しい。結果、付いて来れない加賀が遅れ始める。
それでも彼女は懸命だった。
「女神の護り」は痛覚を遮断するものではないから、今現在彼女の全身を激痛が襲っているだろう。常人なら呻き声をあげて動けなくなるくらいの痛みに違いない。それは、いつも以上に強張って土気色に変色したその顔が明瞭に物語っている。
モルヒネはない。ちょっとでも身をよじれば電流のように痛みが身体を駆け巡る。そんな状態にあって、彼女は自身の速力を自覚し、空を注視し、ギリギリのところで魚雷や爆弾を回避している。もはや碌に効かなくなった舵を必死で切り、転回方向に身体を倒して何とかまともに旋回している。だが、そうした動きは刻一刻と彼女の身体を蝕んでいくだろう。筋肉や骨格、関節を破壊していくだろう。
それでも、直撃を食らうよりは遥かにましだ。次の被弾は轟沈を意味している。
そんな加賀のフォローに入っているのは金剛だった。
身を守ることさえままならない彼女の代わりに、長大な主砲と大型艦故の補助兵装としての針山のような機銃を絶えず射撃して敵を近付けんとしている。
奮戦、というにふさわしい。
持てる力のすべてを、出し得る技量のすべてを、金剛は護るために振るう。
「敵機、直上!」
空を見上げていた加賀が叫ぶ。
頭上は死角だ。特に今日のような雲底の低い日は。
だからこそ、赤城も急降下爆撃を警戒して直掩機を艦隊の直上に配置した。しかし、数に優る敵はその盾さえ突破して来る。
空から落ちる黒い塊。
「回避してッ!」
悲鳴のような声は裏返ってひどく甲高い。
加賀が左に転舵する。身体を倒して、水面に着くんではないかというほど倒して。
だが、間に合わない。
瞬間、爆音。
盛り上がる紅蓮の炎。その中に加賀の姿が包まれる。
「加賀さん!?」
助けに行こうとする。足は無意識に彼女の方向を向いていた。
炎は黒い煙へと姿を変え、ゆっくりと上空へ昇ってゆく。悪魔の口から吹き出したようなどす黒い爆煙に、最悪の可能性が脳裏をよぎる。
すわ轟沈かと手を伸ばした赤城の先、煙の下に居たのは加賀ではなかった。
「金剛さん!!」
加賀を庇って被弾したのは金剛。
お陰で加賀は何とか無事だ。否、無事と言えるような状態ではないが、少なくとも沈んではいない。
「Ahh!」
無線からかすかな呻き声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「Yeah! 中破で済んだワ」
煙を突き破って戦艦が再び姿を現す。さしもの堅牢な金剛と言えど、爆弾の直撃を食らっては無事では済まなかったらしい。
ピカピカに磨かれていた装甲は黒く煤で汚れ、主砲塔の二つは割れてしまっている。金剛自身も怪我が酷く、頭から出血している。けれども、彼女は笑って親指を立ててみせた。
「そんな簡単にワタシがやられるわけないデショ!」
「そう、ですよね」
「さ、行きましょう。まだ空襲中ヨ!」
そうだ。ゆっくり喋っている場合ではない。
空にはまだまだ無数の敵機が飛び交っていて、爆撃を続けようとしている。
気を抜いてはならない。
何も終わってはいない。
そう、自分に言い聞かせた時だった。
耳元を、蚊の羽音のように不愉快な音を立てて黒い塊が通り過ぎた。
一瞬、それを目で追う。
所謂、新型機と呼ばれる敵機で、バスケットボール大の白い球体に目と口がついている異形の航空機だ。今通り過ぎたのは、確かよく魚雷をぶら下げている艦攻だったと思う。
雷撃が来る。
振り返った視界の隅で、
大きな水柱が立った。
思いの外近い其処には、誰が居ただろうか? 魚雷は、誰に当たったのだろうか?
水柱の中に、青い袴と長弓が見えた。
悲鳴は出なかった。赤城の口からも、金剛の口からも、彼女の口からも。
爆発の衝撃で、何かが飛び出した。
それは偶然、赤城のすぐ傍に墜落する。
艦娘には「女神の護り」という特殊な加護があって、それさえあれば爆撃を受けても砲撃を受けても、普通なら身体が四散するような衝撃であっても、精々が重傷で済む。これはどんな時も艤装を着けている限り艦娘を護るが、一つだけ例外があり、大破した時のみその効果が薄まってしまう。だから、大破した艦娘が強い衝撃を受けると普通の人間と同じように肉体が破壊されてしまうことがある。
大破時の被弾。 轟沈の原因は今のところすべてこれだ。
故に、艦隊に大破艦が出た場合には即座に撤退が命じられる。艦娘の命は無理して喪うにはあまりにも貴重過ぎるから。
しかしながら、もし撤退中に追撃を受けたなら、そしてその時に直撃弾を受けたなら、その艦娘の死は不可避となる。
人体が間近で爆圧を受ければ強度的に弱い関節部を主にしてバラバラに分離してしまうように、その艦娘も見るも無残な状態になってしまう。
今、赤城の目の前に落ちた“それ”もそうだった。
見慣れた人の顔がある。不自然なほど低い位置に、つまりは海面に浮いている。
薄茶色の瞳からは生気の光が失せていて、空っぽのガラス玉はただ鈍色の空を反射しているのみ。波間に漂うその体は、腰より下がない。
海水に赤黒い何かが広がっていく。すらりとした左右の腕も、片方は肘から先が、片方は肩から、千切れてなくなってしまっていた。断面からはやはり赤い液体が海を汚し始めていた。
「加賀……さん……?」
行き過ぎて、慌てて舵を切って戻る。
助け起こそうとして手が宙を掠めた。
もうその時には、浮力を失った“それ”は沈んでいたから。
主機を止める。その場にうずくまって、海の中に両手を突っ込んで沈んだ彼女を掴み取ろうとする。
けれど、どこまでも重い塩水しか触れない。
彼女の身体から漏れ出た赤い重油が海面を漂うだけで、もはや影も形もない。
それでも、彼女を助けようとして手を伸ばした。
誰かに、肩を掴まれて引き上げられる。
誰が? 誰が邪魔をするのだ!?
「赤城ッ!!」
その瞬間、音が戻って来る。
すぐ近くで轟音が鳴り響き、全身を震わせた。
「早く!」
手を引かれて動き出す。焦げ付いた栗色の髪の毛が前を走っている。
「加賀は死んだわ! 早く逃げて!!」
金剛だった。
金剛は赤城の手を引きながらぐいぐいと進み出していた。
「あ……、かが、加賀さん! そう、加賀さんが被弾したの! 早く曳航の準備をしなきゃ。金剛さん待って下さい」
「違う! 加賀はもう駄目!」
視界に曙の姿が映った。彼女も心配して駆け付けてくれたのだろう。
ちょうどいい。曳航は駆逐艦に任せてしまおう。
「曙、加賀さんを曳航してあげて。すぐに!」
すると、一瞬曙は彼女らしくない、泣きそうな表情を見せて首を振る。
「曙! 早くしなさい! 旗艦命令よ!」
「加賀さんは……」
「赤城ッ!! いい加減にしなさいッ!!」
怒鳴られた。
また金剛が、それこそ阿の形相で怒鳴っている。
「加賀は沈んだの! 轟沈よ! 轟沈が出たのヨ!!」
「……」
「上よッ!!」
言葉を受け入れられぬ内に遮られる。今度は曙の悲鳴だった。
反射的に上を見上げる。
自分に向かって来る黒い粒。その大きさは変わらない。
見かけの大きさが変わらない爆弾は、当たるのだという。外れコースに入っている物は逆に徐々に大きく見えるそうだ。
だから、当たるなと思った。
意識が途切れる。
同時に何十本もの金槌で頭を叩かれたような衝撃だった。
体が宙に浮くのを感じる。巨人に掴まれて放り投げられたように自由が効かない。
けれど、それも瞬きする間もない短い時間。
次には何か硬いものに身体が叩きつけられていた。ごりごりと骨が砕けるような不気味な感触が響いてきた。
視界が激しく明滅し、やがて身体の動きが止まったのか白い泡に包まれる。
泡だらけで何も見えない。全身が持ち上げられる感触がして、視界が明るくなった。
意識が朦朧としている。目の前が白っぽくなって何も見えない。
少し、その感覚が心地良いと思った。このままこうして寝ていたいと思った。
すぐに、激痛に意識が叩き起こされるのだけれど。
「っあ!」
全身を駆け巡る悍ましい激痛。身体が引き裂かれるのではないかと思うほどの猛烈な痛み。
思わず身体を丸めて、さらなる痛みに声なき声を上げる羽目になった。
状況は明確だ。
間違いなく直撃弾。長い艦娘歴の中でもここまで手酷くやられたのはほんの一回か二回だったはずだ。あまりにも全身が痛いので、どこに被弾したのかさえ分からない。恐らくは爆轟の衝撃波に晒されて身体の奥深くまでダメージが浸透したのだろう。
こんなに痛かったっけと、意識がどうでもいいことを思い出そうとする。そうでもしなければ気がおかしくなりそうだった。
ただ、この痛みは赤城の頭を覚醒させるには十分な作用をもたらす。現在は目下空襲中で、呑気に痛みに呻いている場合ではないのを思い出す。呆けてこのまま海に沈めば肉体の損傷で死ぬ前に溺死してしまうだろう。艤装だってどうなったのかはすぐに分からない。
慌てて立ち上がろうとする。
脚が火を吹いているように痛い。歯を食いしばって無理矢理にでも身体を起こした。
「くっそ……」
思わず下品な悪態を吐いてしまう。
こんなことを言っていたら相棒にまた窘められてしまうだろう。
……相棒?
「マズハ、一人」
どこか遠くから、けれどもすぐ耳元で囁かれているような声が聞こえる。不自然なエコーがかかった不自然な声。人間のものではない。
深海棲艦の声だった。
一部の深海棲艦は人間の言葉を話すことが出来て、一応意思疎通も可能だ。それが相互理解に繋がった前例はないが、相手の声が聞こえれば相手にもこちらの声が聞こえるらしい。それは一種のテレパシーのようなものだと解釈されていた。
今の声は空母水鬼のもの。
赤城も以前戦った時に聞いたことがある。同じ個体なのだろう、同じ声である。
「悪魔ノ手下。次ハ、オ前ダヨ」
次は?
次があるなら、前もあったはずだ。
「お前、何を……」
「加賀ハ沈メタヨ」
「加賀……」
赤城は天を仰ぐ。
声の、その音源を探るように。
空は相変わらずの曇り空で、鉛色の雲が途切れることなく水平線まで覆っている。
もちろん、雲の上の太陽も青空も見えない。
そうだ。それは分かる。
こんなことあり得ないのは分かっている。
きっと、目に血でも入ったのだ。それで、こんな風に見えるのだ。
――空の全てが赤く染まっている。
天上には雲に遮られて見えぬはずの月が、血のような真っ赤な月が浮いている。
声は相変わらず響いていた。
まるで、冥土へ誘う死神の声のように。
「赤城、オ前モ沈メ」
「……ぃ」
「諦メルンダナ。モハヤ、逃レル術ハ無イ」
「……さいッ!」
「サア、コッチニ来イ。赤城」
「うるさいッ!!」
弓を取る。左肘からごりごりと何かがぶつかりあうような不愉快な感覚が伝わる。
矢筒に右手を伸ばした。思う通りに動かない。それでも力任せに動かすと、今度は矢を取り落としそうになった。人差し指と中指で引っ掛けるようにして何とか弦まで矢を持っていって番える。
するとどうだ。まったく右腕に力が入らないので弦を引けないではないか。仕方がないので、弦と矢筈を一緒に口で咥え、首を伸ばして弓を引く。途中、背中の方からメリメリという不気味な音がしたが構いはしなかった。
ふっと息を吐いて矢を離す。案の定力の入っていない矢は碌に飛ばなかったが、重要なのは飛距離ではない。空母娘が、艤装の長弓を使い、艦載機の矢を番えて射出するという動作なのだ。
矢は三機の艦攻に分かれる。先程敵の囮艦隊を粉砕した赤城の牙。村田隊だ。
同じ動作を繰り返し、赤城は次々と矢を放ってゆく。その度に身体の至る所が軋み、関節が潰れ、骨が砕かれ、筋肉が破断する音がしたけれど、やっぱり構いはしなかった。今ここで自分の体がどうなろうとも知ったことではない。
ここで使い物にならない身体など要らない。
赤城は矢を放ち続けた。射ち尽くすまで。
そのすべてが艦攻だ。
無論、狙いはただ一つ。
艦載機に編隊は組ませない。先に発艦したものから順次上昇させていく。
矢を射ち尽くすと、今度は直掩機に指令を出す。空戦に次ぐ空戦ですっかり消耗し切ってもう数えるほどしか残っていない艦戦隊だけれど、すべての防御を捨てて艦攻の護衛につくように命じた。
もちろん、彼らには帰りの燃料はない。残弾も殆ど残っていない。それでも、艦攻には護衛が必要だから無理にでも命令する。
「赤城! 何しているんだ!? 被害報告を先に行え!」
無線の向こうで加藤が喚いている。
彼だって動揺しているのだろう。だから、そんな“つまらない”ことを言うのだろう。
ああ、彼女だったら「行け」と言っただろうに。
今は居ない小さな少女を想起し、赤城は口元を釣り上げた。
防水性抜群のインカムは生きている。無線はまだ使えた。
だから――。
いつも通り、冷静沈着な一航戦の旗艦を装い、はきはきと明瞭な言葉で宣言する。
「第二次攻撃隊、全機発艦!」
****
海戦の間に、いつの間にか彼我の艦隊の距離は接近したらしい。というより、海面をのたうち回る艦娘艦隊に敵が追い付いたと言うべきか。
もはや、敵の姿は水平線の上に現れて目で捉えることが出来ていた。
それ故、こちらからの攻撃隊の到着も早い。
一旦上昇した村田隊はそのまま急降下爆撃を敢行するように魚雷を抱えたまま一気に高度を落とす。
当然、敵の迎撃は熾烈だ。なにせ、今も赤城たちを襲う攻撃隊を除いても十分な数の直掩機を出せるくらいなのだ。肉薄する村田隊を認めた敵艦隊の中心から、黒いモヤのようなものが立ち上がった。その一つひとつが敵の迎撃機である。
そして、そのモヤの根本に仇敵が居る。
艦載機を通して送られてくるビジョンに意識を集中させた。敵の攻撃は続いているが、被弾など怖くなかった。
ただただ、あの敵を沈めることだけが頭を占めている。
加賀を沈めた、あいつを。
「コノ期ニ及ンデ、往生際ノ悪イコトダ。イイダロウ……相手ヲシテヤル」
敵は尚も悠然と構えていた。
圧倒的優位な立場から、這い回る蛆虫を見下ろすように。それどころか、憎しみに駆られて捨て身の反撃を試みる赤城を嘲笑しているようだった。
数的不利が覆らないのは事実だ。艦載機の数が半端なければ、随伴の数も半端ない。片や、赤城はと言えば大破して身体は壊れたブリキ人形みたいにまともに動かすことさえやっとの有様。これで馬鹿にされなかったら、深海棲艦は人間より余程礼節を弁えた紳士淑女だろう。
何十隻という大小様々な深海棲艦が一斉に砲塔を空に向け、視界が白く染まるくらい濃密な弾幕を作る。いや、弾幕というよりもはや装甲と言った方が良いかもしれない。最初に突入した三機はあっと言う間に捕まって火を噴きながら海面に突入する結果となった。
次の三機は陣形の最も外側に居た護衛の駆逐艦に雷撃した後、被弾して錐揉み状態に陥る。相打ちのように、その駆逐艦を吹き飛ばした。
もちろん、迎撃機も上がっている。黒いモヤがそのまま村田隊の進路に覆い被さってくる。
虎の子の熟練搭乗員たちは、しかし一寸の躊躇もなく敵へと突撃して止まる気配を見せない。
圧倒的に火力も兵力も優位な敵への目前での突撃。旅順要塞に銃一丁で死に行く兵士のように。あるいは、長篠で鉄砲隊に突撃した騎馬隊のように。
死を臆することなく、残弾尽きて尚己を弾丸にして、敵の弾幕へと切り込んで行く。
ただ、歩兵や騎兵と違って航空機は速いし、弾幕は濃密であってもすべてを薙ぎ払うような圧倒的な機関銃は存在しない。死を厭わぬ突撃を繰り返していれば、一機くらいは突破出来るものだ。
その機体は運が良かった。運良く不規則な弾幕の間の“道”を見つけ、運良く襲い来る迎撃機を躱せた。
護衛を突破すれば、目の前には空母水鬼が居る。
巨大な黒い艤装の上に、彼女は安楽椅子に腰掛けるように足を組んで悠然と座っていた。
衣装は闇の漆黒。されど、その肌と髪は花嫁の純白。
容姿はどこか、後輩の空母の一人を思い起こさせる。彼女も同じように色白で線が細い。
もちろん、その子はちゃんと生きているし、ちゃんと艦娘だ。こんな化物ではない。
艦攻は魚雷を投下した。
その瞬間、主翼に衝撃。被弾。
パッと赤い炎が瞬くが、パイロット妖精は端から帰還など考えておらず、飛び続けられる限り飛び続け、一直線に空母水鬼に向かう。
水鬼が手を伸ばした。
機体は吸い込まれるようにその手に。化物は艦攻を掴み取る。
衝撃で機体がひしゃげる。操縦席の中で押し潰されたパイロットの目を通して、空母水鬼の顔が赤城の脳裏に映し出された。
テレビカメラ越しに見ているような映像。それが、一瞬ブレる。
魚雷が命中したのだ。そう、ただそれだけだった。衝撃だけで、火を噴くこともなければ喫水線下に穴が空いたことに慌てる素振りも見せない。
尋常ではない堅牢さ。一撃食らって大破する艦娘とは比較にならない装甲。
空母水鬼はニンマリと気味の悪い笑みを浮かべた。
「残念ダッタナ」
それは勝利宣言。
魚雷を被弾したのも、おそらくはわざとだろう。圧倒的な差を示すため、絶望によって赤城の意思を粉砕するため。
けれど、尋常ではないのは赤城も同じだった。
今なら、きっと空母水鬼にはよく聞こえることだろう。
赤城もまた顔を引き裂いたような笑みを浮かべる。
「火の……塊となって……沈んでしまえッ!!」
赤城の手持ちは随分と減ってしまっていた。
艦戦も、艦攻も、もうほとんどすべて撃ち落とされてしまっている。故に、展開出来る艦載機数には余裕が出来ていた。
加えて、空母水鬼は赤城の主力が村田隊であることは分かっていても、こういうことが可能であるとは知らなかったはずだ。
赤城はまだ、加賀の矢筒を持っている。先程渡されたそれには、彼女の牙であった艦爆の矢がたっぷり入っていた。
何のために虎の子の艦攻を消耗させてでも低空からの突撃を繰り返したのか。
戦術なき突撃ではない。火力に圧倒されるばかりの歩兵でも騎兵でもない。
無謀な戦力の浪費ではない。
激痛によって覚醒した赤城の頭脳は、目覚めるやいなや脳内麻薬を遮二無二吐き出し、少しばかり思考する猶予を作り出した。そして、ほんのわずかであっても考えることが出来たなら、赤城は己の目的を達成するために合理的な手段を捻り出す。例えその目的が生存を前提としたものではなくとも、その手段が損害の一切を度外視した捨て身の攻撃であったとしても。
あまりにも多くの犠牲を払いすぎた。壊滅した村田隊の復興は望めないかもしれない。
でもそれでも良かった。
すべてはこの一撃のためにある。そうでなければ、彼らの存在意義はない。
すべてをこの一撃に賭ける。そうでなければ、空に散った彼らは浮かばれない。
死に物狂いの艦攻の雷撃は敵の注意を上手く低空へと引き付けた。大破して本来なら戦闘不能になったはずの赤城が、往生際悪く、憎しみに駆られて無闇矢鱈に仕掛けて来ただけだと、空母水鬼はそう断じたに違いない。彼女は他の深海棲艦とは一線を画した知能を持つが故にそう考え、最も合理的に赤城を“潰す”方法で迎え撃って、実際に行動した。
だが、誰かを罠に嵌められるだけの知能を持つことは、逆に自分がそうならないことへの保証にはなり得ない。策士は策に溺れ、自らの頭上に作られた空白の存在を忘れてしまう。それこそが、赤城の狙い。村田隊の壊滅と引き換えに得た起死回生の一手。
「敵直上……急降下!!」
空母水鬼の真上。天頂から翼を翻して彗星が落ちる。
一直線に、機体を引き上げることなど考えていない。そのまま、ロケットのように空母水鬼に突入する。脳裏の映像は消え失せ、代わりに視界の奥、敵艦隊の中心に閃光が瞬いて黒いきのこ雲が立ち上るのを捉える。
敵の艦載機の制御が一気に悪化した。
周囲を飛び交っていた黒い塊は突然錐揉み状態に陥ったり、ふらふらとバンクしたり、明らかに挙動がおかしくなっている。満身創痍の赤城たちに未練もないのか、一斉に身を翻して空へと戻って行く。
中破した。空母水鬼は確実に中破した。
沈められなかったのが惜しい。
今の赤城ではこれが精一杯だった。万全の状態なら、ひょっとしたら撃沈出来ていたかもしれない。あくまで、仮定の話である。
それで気が抜けてしまう。
脳内麻薬の効力が切れ、今更のように激痛が、先程とは比べ物にならないほどの激痛が全身を襲う。
そこからはあっという間だった。今まで麻痺させていた痛みがぶり返してきて、脳がそれに耐えられなくなったのだ。正確には、耐えきれず破綻を来す前に、脳が自ら機能を停止した。
電源を落とすように、赤城の意識が途切れる。
視界が真っ暗闇に堕ちてゆく。
その間際、確かに声を聞いた。
再び、空母水鬼の声。
「迎エニ行クゾ」
前イベE6でも14秋でも、こいつには苦労した(´・ω・`)