レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督3 The First Order

 

 

 

 新しい提督を案内して歩くという大役は赤城が担うことになった。加藤が忙しいと言って姿を消してしまったからだ。余程少女姿の提督が気に入らなかったらしい。

 

 金剛と加賀も戻ってしまい、二人きりになる赤城とレミリア・スカーレット。その状況をレミリアの方は全く気に留めていないようだった。澄ました顔で赤城の後に続く。

 

 一方の赤城と言えば、緊張のあまり声が震えるのを押さえるので必死だった。レミリアの纏う雰囲気に、赤城はすぐにでも膝を折ってしまいそうだったのだ。とにかく、頭の中でどこか彼女を忌避しようとする自分がいる。そのせいで、赤城はレミリアから離れたくて仕方がなかったが、役目を放棄するわけにもいかず、無論内心を顔に出してもならない。

 

「最後に」

 

 一通り鎮守府庁舎を案内して回り、赤城はようやくレミリアを司令室に連れて来ることが出来た。この後彼女を庁舎に隣接する長官邸に放り込めばこの苦行から解放される。明日からのことは考えないようにした。

 

「こちらが司令室。提督が執務をされる部屋になります」

 

 二人は部屋に入る。司令室は赤城の牙城である秘書室とは違い、大きく広々としている。

 

 入ってまず目に入るのは、鎮守府の軍港を見下ろせる大きな赤枠の窓。庁舎の三階にある司令室からは、ライトで煌々と照らされていた港湾施設を見渡せる。立ち並ぶガントリークレーンに古びた趣ある赤煉瓦の倉庫。海軍有数の拠点である当鎮守府の堂々たる景色である。前任の提督は、考え事をする際、よくこの窓から軍港を見下ろしていたのを覚えている。

 

 その窓から視線を横にずらせば、びっしりと本やファイルの詰まった大きな本棚がある。その本棚の手前に向き合いに置かれたソファが一組とガラステーブルがあり、これらが部屋の中央を占拠していた。そして、入口から入って左手、部屋の奥には大きな樫の机と背もたれの高い椅子が鎮座している。

 

 我が鎮守府司令室伝統の机と椅子であり、歴代の司令長官が皆ここに座り、職務を執り行ってきた。権威そのものであり、この部屋に入った者は誰しも一度はその存在感に畏まるものだ。赤城も、激務の間を縫ってこの机と椅子だけは毎日埃を払い、汚れを拭き取り、常に清潔に保っていた。誰も座っていなくとも、これは鎮守府そのものなのである。

 

 さて、海外から来た新任提督の反応はいかがだろうか。赤城はちらりとレミリアの様子を窺う。

 

 別段、変化はない。

 

 先程から案内をしている最中、ずっとレミリアは大人しくしていた。事務的な質問を二、三するだけで、後は赤城の説明を聞くだけであり、あくまで仕事は仕事と割り切っているような態度である。だから、彼女の案内をするというのは仕事の内容としては大変楽なものだったのだ。レミリアの存在感を除けば、であるが。

 

 そして、それは司令室に入っても変わらなかった。鎮守府の権威を表現する提督の机と椅子を見ても、だ。

 

「そこの本棚に入っているのは?」

 

 しかも、まず尋ねてきたのは本棚に関することである。余程肝が据わっているのか、単に関心がないのか、立派な司令室の中でもレミリアの様子は変わらない。歴代の権威も、彼女にとってはまるで取るに足らないものと言わんばかりだ。

 

「はい。我が鎮守府の歴史を記した資料や、過去の交戦記録、資源の備蓄量に関する過去のデータなどです。概ねそういった資料類ですね。一部、歴代の司令長官の方々が残したものもありますが」

 

 鎮守府のトップの部屋にある本棚とあって、さすがにその中身はお堅い資料ばかりだが、最下段の隅の一角は歴代長官たちが残した彼らの私物(ほぼ戦術や用兵の指南書)に占められている。後任のためにそうした書物を残していくことがこの鎮守府の歴代長官の間で受け継がれてきた伝統であり、それは明治の時代にこの鎮守府が開設されて以来、連綿と続けられているものだ。過去には何と成人男性向け雑誌を残していった破天荒な長官も居たといい(さすがに艦娘の登場を機に撤去されている)、そこは海軍流の“ユーモア”と言えないこともない。

 

「ふーん」

 

 もっとも、レミリアの関心はそこまでらしい。あまり興味なさそうに部屋を見回した後、ようやく彼女は部屋の奥に足を向けた。そのまますたすたと歩いて机の向こう側に回り、自分の背丈より大きい椅子を引いてそこにちょこんと座る。

 

 部屋の真ん中に立つ赤城から見ると、丁度レミリアの頭だけが机越しに見えた。駄目だ。これではどう見ても小さい子供が遊んでいるようにしか見えない。

 

 当のレミリアにも絵面の悪さが分かったのか、少し眉を顰めて気に食わなそうな顔を作って見せる。

 

「ダメね、これ。私じゃあ威厳が出ないわ。はい、撤去」

 

 即断即決でとんでもないことを言い出したレミリアに赤城は目を剥いた。

 

「で、ですが提督。その机は歴代の司令長官方が使われた我が鎮守府伝統の物であり……」

 

「伝統? それが? 今、私が、どう見えるかが大事なの。しかも大き過ぎて私には使い辛いし。邪魔だからどこかにしまっておいてよ。捨てろとは言わないからさ」

 

 赤城の反論を切り伏せ、レミリアは強引に決めてしまう。

 

 赤城とて机にそれほど愛着があるわけではない。ただ、一方的に物事を決めてしまうレミリアのやり方に反感を覚えた。それに、これほど大きな物を運び出す手間を考えてほしいものだとも思った。

 

 しかし決定は決定だ。恐らく、レミリアは一度決めたことをそうそう変える人物ではないだろう。自分の判断力に絶対的な自信を持っていて、強力な(あるいは強引な)リーダーシップで周囲を引っ張って行くタイプ。トップに立つ者の資質としては十分だが、付いていく方は大変である。しかも、柔軟性の塊のような人間だった前任者とは真逆のタイプとあって、これは苦労しそうだと、赤城は溜息を吐きたくなった。無論、心中を顔には出さないが。

 

「ん? これは?」

 

 レミリアが机の上に置いてある物を手に取る。一冊の薄い冊子。赤城が新任提督のために作った、この鎮守府の概要を書いたガイダンスである。

 

「この鎮守府のご案内です。今日お見せ出来たのは庁舎の中だけですが、他にも工廠や入渠ドック、演習場、艦娘寮、補給倉庫等様々な施設がございますから、それらを簡潔にご紹介する物です」

 

 本当なら、そのガイダンスを持たせて鎮守府内を案内するところだったが、スカーレット提督の着任が遅い時間となったため、それは明日に持ち越されることになった。

 

 というか、明日も案内をしなきゃならないのか。

 

「ふーん」

 

 レミリアはパラパラと冊子を捲り、一通り見終わると机の上に置いた。

 

「ま、後で目を通しておくわ。ところで……」

 

 レミリアは提督の仕事机の後ろ、部屋の一番奥の壁にある扉を指した。

 

「あっちは?」

 

「秘書室に繋がっております。私の、仕事部屋です」

 

「へえ」

 

「あ、提督! 中は……」

 

 赤城の制止も聞かず、レミリアは秘書室への扉に近付き、開けて中を覗く。

 

「うわ。散らかってるわね」

 

「お恥ずかしい……」

 

「もうちょっと片付けなさいよ」

 

「申し訳ございません。忙しさに手が回らずにいたんです」

 

「まあいいけど」

 

 レミリアを扉を閉めた。それで一通り興味は尽きたらしい。赤城の元に戻って来た。

 

「ま、こんな感じかしら?」

 

「はい。本日はこの辺で」

 

「そうね。消灯は何時かしら」

 

 赤城は部屋の壁に掛けられた時計をちらりと見た。

 

「二十二時です。丁度今ですね」

 

 言葉の通り、時計の針は「10」の数字を指そうとしていた。

 

「じゃあ貴女も戻って寝なければならないわね」

 

「はい。先に長官邸にご案内致します」

 

「長官邸……」

 

 レミリアはそこで何かを確認するように呟いた。わずかな間彼女は顎に手をあて考え込んだ様子を見せたが、直ぐに頷いた。

 

「いいわ。行きましょう」

 

 赤城はレミリアを連れ立って司令室を出る。途中とんでもない発言もあったが、概ねレミリアの案内はつつがなく終了するようだ。取り敢えず、一日目は乗り切った……のかもしれない。

 

 レミリアの隣はどうにも居心地が悪い。少女らしからぬ威厳も、人を強制的に跪かせるような独特の威圧感にも、赤城は慣れない。明日からのことは考えないようにした。

 

 

「貴女、仕事が多くて大変そうね。さっきの部屋の様子を見て思ったけど」

 

 庁舎に隣接する長官邸に向かう道すがら、レミリアが気さくに話し掛けて来た。

 

「ええ。書類仕事なんかが多くて一日中デスクに張り付いていないといけないんです。今は提督代理の役目もありますから」

 

 赤城は愛想良く答える。自分がレミリアに対して苦手意識を持っていることなどおくびにも出さない。それが出来るから赤城は秘書艦なのであり、感情が素直に出てしまう加賀や金剛には務まらない。自分を取り繕えるからこそ艦娘の顔役というものが任せられるのだ。

 

「へえ……。ということは、私の仕事も大変なのかしら?」

 

「申し上げにくいのですが、正直激務だと思います。前任の提督は過労でお体を悪くされてしまって……」

 

「どんなことするのよ」

 

「艦隊の指揮が主ですが、他にも装備の開発、入渠の管理、訓練・演習の計画と実行、鎮守府職員と艦娘の労務管理、その他設備の維持・修繕、出撃計画の作成、各種任務の遂行、上層部との折衝等々、多岐に渡ります。またこれらの職務に関する書類の作成も伴ってきますので」

 

 レミリアは言葉を失ったようだ。その眉間には深い谷間が出来ている。まあ、聞いて嬉しくなるようなことではない。

 

 だが、今赤城が言った仕事の大半は、今まで赤城がやってきたものだ。加藤も一部を引き受けたが、艦娘に関する仕事はすべて赤城の管轄となった。故に、赤城はその職務の大変さを身をもって知っており、レミリアの着任によってようやく激務から解放されることの喜びを噛みしめているのだ。例え、新任者が年端もいかぬ少女の姿をしていて、それに一抹以上の不安を抱いたとしても。彼女の纏う雰囲気に苦手意識を持ってこの先上手くやっていける自信がなくても。赤城は大いにレミリアの着任は歓迎していた。

 

 だからこそ、この小さく、そして後にとんでもない我儘であると赤城が骨の髄まで思い知らされることになるレミリア・スカーレットという名の提督の言葉に、優秀な秘書艦は心底仰天したのだった。

 

 

「面倒臭そうね。引き続き貴女がやってよ。私は艦隊の指揮とかだけでいいわ。トップが雑務に忙殺されるわけにはいかないのよ」

 

 

 

 

****

 

 

 

 こんなにしょげ返った赤城は見たことがない。

 

 加賀は一向に箸を進めていない同僚を見てそう思った。常日頃から「腹が減っては戦が出来ぬ」と言って憚らない彼女が、目の前の朝食にほとんど箸を付けないというのは前代未聞の椿事である。せいぜいがおかずの空豆をちまちまと口に運ぶ動作を機械的に繰り返すだけという異様な光景に、無意識に加賀の手も止まってしまっていた。

 

 一体全体、赤城のどこの歯車が壊れてしまったのか。理由は起床した直後に一方的に彼女の方から教えてくれた。

 

 多分に愚痴と悲嘆が混ざった彼女の話を要約するに、赤城を忙殺していた提督の仕事のほとんどをレミリアから再度押し付けられた、ということらしい。つまり、赤城の忙しさが今までと大して変わらないということなのである。

 

 愕然とし、絶望した彼女がそれをぶちまけられる相手は気心の知れた加賀だけなのだが、昨夜は赤城が部屋に戻って来た時には加賀は既に夢の中であった。かくて一晩熟成された愚痴やら悲嘆やら文句やらは寝起きの加賀を奇襲することになった。

 

 赤城が新任提督をどれだけ待ち侘びていたかを加賀はよく知っている。「仕事に殺されそう」と本気の顔で呟くくらいなのだから、赤城にとって激務は相当深刻な問題であったのだろう。ようやくそれから解放されると浮かれた途端、再び激務を押し付けられたとなっては、その落胆ぶりは筆舌に尽くしがたい。

 

「どうしたの?」

 

 加賀の向かいに座り朝食を摂る金剛が尋ねてきた。かくかくしかじかで、と加賀が説明すると金剛は露骨に顔を顰めて吐き捨てた。

 

「やっぱり、見た目通りお子様みたいネ」

 

 その一言に、加賀は眉を上げた。

 

 普段はとにかく陽気で騒がしい金剛が、こんな風にぼそりと陰口を叩くという陰湿な面を見せるのもまた珍しいことである。文句があるなら直接言いに行く裏表のないタイプだと思っていたのだが。今日はみんなどうしたのだろうか? 赤城にしろ金剛にしろ、加賀のあまり見たことがない一面を見せる。

 

 

 それにしても、一体レミリアというのはどういう人物なのだろうか。よくよく周囲の会話に耳を傾けると、他の艦娘たちもレミリアのことを話題にしているようだ。それにもかかわらず赤城に彼女のことを訊きに来ないのは、最早言わずもがなであろう。

 

 意気消沈する赤城やその赤城に同情して反感を覚えた金剛とは違い、加賀はそれほどレミリアを悪くは思っていなかった。確かに赤城に同情する気持ちはあるし、あんまりだと思わないこともないが、仕事に関してはレミリアに過剰に期待していた同僚にも問題があるように思える。

 

 第一、一目見た時分かるではないか。あの小さく我儘そうな彼女がつまらない書類仕事なんかするものか。加賀にはそんな光景すら想像出来なかった。

 

 だから、まあそこはいいのだ。せいぜい赤城の愚痴を聞いて、彼女が過労死しないように加賀も手伝えるところは手伝えばいい。では、加賀が気になるところというのは、やはり提督の本業に関してである。つまりは、艦隊の運用、作戦の指揮。

 

 いざ戦場に向かった時、彼女は果たして自分たちを勝利に導いてくれるのか。それとも屈辱的な敗北を誘引してしまうのか。

 

 鎮守府のことなど優秀な赤城や加藤がいるからどうとでもなる。最悪、レミリアは何もしなくても管理は周囲が代替出来る。だが、戦場ではそうはいかない。戦場に、レミリアの代わりはいないのだ。

 

 加賀が懸念するのは、この鎮守府が他とは大いに違うところがあることだった。それは、ここが最も精強な空母――第一航空戦隊「赤城」及び「加賀」の母港であること。

 

 全正規空母中、最高の練度で最も質の高い航空部隊を持つ赤城と加賀。名高き「最強」の誉れ。海軍の中でもその艦名を聞いて活躍を想起しない者はいない。確認撃沈数だけでも三桁に迫り、賜った勲章の数も二人合わせて二十に届く。文字通り最強の航空艦隊だ。

 

 それ故に随伴も選び抜かれた精鋭で固められている。艦娘最古参の一人に数えられる金剛。高い雷撃能力を中心に、火力・対空・対潜と隙のない木曾。殊、水雷戦能力が高く部隊を率いていた経験もあるベテランの川内。その川内に随行し、平均的に高い能力を持つ野分と舞風。そして一航戦の直衛として長らく戦ってきた歴戦の曙、漣、潮。この鎮守府のメンバーは誰も彼もが優秀で高い練度を持つ。

 

 これほどの者たちが集結したのは、単純にここが前線に最も近い鎮守府の一つであるから。以前、まだ一航戦以外の空母艦隊の戦力が充実していなかった頃は、赤城と加賀はほとんど毎日のように出撃を繰り返していたし、そうした需要の面でも前線に近いこの場所が選ばれた。必然、敵の勢力圏にも相対的に近接するためにその脅威を受けることもある。鎮守府どころか、海軍の主力の一角を成す一航戦と、敵の脅威から背後の都市を守るために、当然のことながら能力・練度が共に高い者が集められた。志願して来た者もいるし、引き抜かれた者もいる。

 

 そうであるからこそ、加賀にはレミリアの指揮能力が気になるのである。激しい深海棲艦との戦いにおいては艦娘の能力だけでは勝利を掴めない。この鎮守府が長らく戦線を維持してこれたのは、前任提督の卓越した指揮があったからこそである。

 

 それ故に、この鎮守府に着任してくるということは、やはりレミリアの指揮能力は高いのだろう。赤城は彼女の情報がまったく出て来ないと言っていたからどんなものかという疑問は残るものの、少しは期待していいかもしれない。

 

 レミリアは、その身体こそ少女そのものではあるものの、彼女が纏う雰囲気やさりげなく見せる大人びた仕草は、見た目通りの人物ではないことを明らかに示していた。彼女は幼い少女のようでもあるし、同時に老人のような貫禄も感じ取れた。

 

 最近の戦況は比較的落ち着いているから、すぐには大規模戦闘が起こることはないだろう。さりとて、小競り合いもそうそう起きるとは限らない。となると、手っ取り早くレミリアの指揮能力を測る機会というのは“作られた”状況で、ということになる。つまりは、「演習」である。

 

 レミリアや赤城にその気はあるのだろうか? もしすぐにやらないなら、加賀は自ら進言しようと考えた。指揮官の能力を把握しておくことは喫緊の課題である。それが、戦場で加賀たちの生死を分け得るのだから。

 

 

 食事を終えた加賀は箸を置いて「ごちそうさま」と小さく呟く。隣ではまだ赤城がちまちまと食べていた。今は米粒を一つ一つ口に運んでいる。その様子に苛立ちを覚えた加賀は、赤城の手から箸を強奪し、彼女の分のご飯を掬って、空いている方の手で赤城の顎をこじ開け無理矢理それを突っ込んだ。

 

「何するんですか!?」

 

 驚いて抗議の声を上げる赤城を「早く食べなさい!」と叱りつけた。

 

 怒られた赤城が朝食を食べ終わったのはその五分後であった。

 

 

 

****

 

 

 朝食の席で珍しく加賀に怒られ、気落ちしたまま赤城は司令室の扉を叩いた。今日からのことを考えると尚更気が晴れない。

 

 せめて、もう醜態を晒さないように。と、赤城はいつもの“秘書艦”の顔をして司令室からの返事を待った。

 

「どうぞ」

 

 と、舌足らずな声が答える。

 

「失礼します」中に入ると、幼い提督は部屋の真ん中のソファに座っていた。その手にはソーサーと中身の入った白いコーヒーカップ。部屋には香ばしい香りが充満している。朝から優雅にコーヒーブレイクとは大した貴族趣味だこと、と心の中で吐き捨てた。

 

 それから赤城はふと違和感を感じ取り、部屋の奥の机の方に視線を寄こした。否、正確には机があった方に。

 

「え?」

 

 妙に部屋が広い。それもそのはず。昨日までそこにあった大きな提督の机と椅子が丸ごと消えているのだから。

 

 あれほど存在感を放っていた物体が抜けて、司令室はまるでがらんどうにでもなったかのように物寂しい。今やその名残を示すのは、木の床の濃淡と引き抜かれて壁際に寄せられたLANケーブルや延長コードだけである。

 

「あの、提督……。机はどちらに?」

 

「おはよう」

 

 レミリアはそれには答えず、優雅に挨拶をする。

 

 動揺して挨拶を忘れていた赤城は慌てて「おはようございます」と返した。

 

「机は邪魔だったから仕舞ったわ」

 

「どちらに、ですか?」

 

「さあ? 人にやらせたから。どこかの物置にでも入れたんじゃない?」

 

 まさか、と赤城は焦った。いつの間に、誰に机を仕舞わせたのか。すぐにでもその置き場所を特定しなければならない。何故なら、

 

「あの机には機密文書も仕舞われていました。どなたが机を仕舞われたのでしょうか?」

 

「ああ。今あの机は空っぽ。中身は取り出しておいたわ。ほら、そこにあるわよ」

 

 レミリアが指さす先、そこには床に置かれたデスクトップパソコンとその上に乗せられた何冊かのファイル。パソコンも机の上にあった物で、提督の執務用である。

 

 赤城はとりあえずのところ胸を撫で下ろした。機密文書はどうやらこの部屋から出てはいないようだ。

 

 だが安心するのはまだ早い。

 

「パソコンも片付けられたのですか。それがないと仕事になりませんが」

 

 赤城の声に困惑がさらに上乗せされる。何となくこの後の展開が予想出来た。

 

 上層部や他の鎮守府、さらには工廠やドックなどからもメールでデータのやり取りをしたり、重要な情報が飛んで来たりするのだから、パソコンがなければ仕事にならないというのは言葉の通りの意味である。

 

 当然、赤城もそれをレミリアに指摘したが、

 

「使い方がよく分からないわ。だったら置いておいても邪魔なだけじゃない」

 

 はあ? と言い出しそうになるのを赤城はかろうじて飲み込んだ。

 

 このご時世、パソコンの使い方がよく分からないとは一体全体何事であろうか。レミリアが年寄りならばまだ話は分かる。老人に複雑なパソコンの使い方が分からなくても仕方がない。

 

 だが、彼女は見た目が少女であるものの、中身までそうとは限らないのではないだろうか。昨日から彼女と接し続けている赤城には、レミリアという人物の精神は幼稚な我儘や横暴さは散見されるものの、総じて成熟したものであるように思える。小難しい軍隊の話に付いていけるし、それなりに鋭い洞察力も持っているようだ。幼い外見に惑わされてはいけない。

 

 だからこそ、彼女がパソコンの使い方が分からないというのは不思議なことであった。老人か子供か、そのどちらか以外の世代の者なら、ほぼ確実にある程度はパソコンを使えるのだ。それが、例えメールを見るだけであっても。

 

「機械に疎いのよ」

 

 そんな赤城の内心を知ってか知らずか、レミリアは取ってつけたように言った。

 

 戸惑う赤城に対し、悠然とコーヒーを嗜むレミリア。なるほどその様は世間知らずの箱入り娘のように思えなくもない。ひょっとしたら彼女はとても厳しい家庭に育ち、パソコンの使用などを制限されてきたのかもしれない(それにしたって、先進国なら義務教育の段階で基本的なパソコンの使い方を授業で教えるだろうに)。

 

「そうですか」

 

 取り敢えず事が進まないので赤城はレミリアの言ったことに納得したように見せた。正直まったく信じられないが、強引にでもそう解釈しておかないと今日の仕事に取り組めそうになかった。

 

 予想通りの展開に、胃がもたれるような感じを覚える。結局、これでまた赤城の仕事が増えたのだ。提督のメールボックスをチェックし、重要な情報を彼女に伝えるという、余計な仕事が。

 

 内心うんざりしながら赤城は床に直接置かれたパソコンと機密文書のファイルを抱え上げる。

 

「どこに持っていくの?」

 

 

 

 その様子を見たレミリアが尋ねる。咎めるような口調ではなく、単に気になったから訊いただけという感じだ。赤城の中で戸惑いが苛立ちに変わる。

 

「私が預かっておきます。ところで、パソコンのログインIDとパスワードはお分かりですか?」

 

「ログイン? パスワード?」

 

「提督のパソコンを開けるための個人識別番号と本人確認用の合言葉です。ご着任前にお知らせされているはずですが」

 

 いささか口調が冷たかったかもしれない。パソコンに極端に疎いらしいレミリアには何のことか分からないかもしれないが、赤城には親切に教える気はなく、ぴしゃりと言った。

 

 しかし、そのような赤城の態度にもレミリアは気を悪くした様子を見せず、静かにコーヒーカップを置いてしばし考え込む。

 

「……ああ、あれか。確か『Remilia Scarlet』。『UNN1503』かな? どっちがどっちか忘れたけど、そんな記号を聞いた覚えがある」

 

「分かりました。提督のパソコンは私の机に置いておくので、使う時は声を掛けてください」

 

「ええ。その機会があればそうするわ」

 

 赤城は抱えた提督用のパソコンとファイルを秘書室に持って入り、自分の机の上に乗せると大きく胸を膨らませて生ぬるい空気の塊を吐き出す。

 

 提督不在の時と仕事量が変わらない。到底一人でやる量ではない仕事を無理にでもこなさなければならないのだ。加えて、この提督は何をしでかすか分からないときた。部屋から机を勝手に撤去し、忙しい朝から優雅にコーヒーブレイクと洒落込んでいるとはマイペースにもほどがある。自分が彼女に振り回される未来が見えていた。

 

 はあ、と赤城はもう一度重苦しい溜息を吐いた。

 

 

 


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