気が付くと光の中に居た。
白く、明るい包み込むような光。柔らかなそれは雪を溶かす冬の陽光のよう。たおやかで心地良い光だ。
続いて耳が音を知覚する。
規則正しく一定の拍子で連続する甲高い電子音。けれど、耳に障る不快さはなく、むしろ鼓動と一致するそれに安心感を覚えた。
いや、それもそうだろう。首をゆっくりと捻って音源を見れば、案の定心電計がある。音と鼓動が一致するのではなく、音は鼓動を表しているのだから。
一瞬病院かとも思った。かすかに鼻を刺す薬品の匂いと硬すぎず柔らかすぎないベッドが身体を程良く支えている。しかし何かで固定されているのか、自由は思うように効かず、仕方なく赤城は首と眼球だけを回して周囲の様子を観察した。
やはり、病院ではない。見覚えのある部屋だった。
長らく秘書艦として働いていたから、鎮守府のことはほぼ知り尽くしている。どこに何があって、どの部屋が何の用途に使われているのかは、ほとんどすべて頭に入っていた。ここは、今赤城が寝かされているこの部屋は、鎮守府第二庁舎の一階の南面にある医務室のはずだ。医官が一人勤務しているのだが、見る限りでは彼の姿はない。
席を外しているだけなのか。そもそも、艦娘である自分を医官が診るのだろうか。
辛うじて動く首を起こして固定されて動かない身体を観察する。
赤城は医務室のベッドの一つに丁寧に寝かされているようで、頭の側の直ぐ傍には心電計があり、液晶モニターに規則正しい波形が延々と表示され続けている。その反対側には点滴があり、吊り下げられたパックから透明な液が流れるチューブが掛け布団の中へと伸びていた。
試しに右腕を動かそうとしていみる。
「っあ!」
電流のように走り抜けた激痛に思わず悲鳴を上げてしまった。点滴の注射針が変な刺さり方をしたのだろうか。
いや、そうではなく痛みは腕の中心、すなわち骨から発せられたような感じがした。それに、妙に腕の感触が重い気もする。
もう一度試してみる気は起きなかった。代わりに左腕を動かそうとして、再び同じような激痛が走る。今度は情けない悲鳴こそ上げなかったものの、唇を噛んで悶絶する羽目になった。
どうやら腕は両方ともダメになっているらしい。では、脚はどうだろうかと疑問に思うのだが、また同じようなことがあると思うと、痛みを恐れて動かす勇気が湧いてこない。仕方がないのでベッドに体重を預けて天井を仰ぎ見る。
何があって、どうしてこんな状態になっているのか、起こったことを順番に思い出せる程度には記憶はしっかりしていた。どうやら、赤城は運良く生き残ることが出来たらしい。すっかり重傷患者の仲間入りをしてしまっているが、命は幸いにしてまだあるようだった。
そう、“赤城は”生き残れた。
目を閉じればすぐさま浮かんで来る光景。
人体が受ければ一溜まりもない巨大な爆発。宙を飛んで足元に落下した肉塊。波間に浮かぶ見慣れた人の、人形のような空っぽの顔。
「ぅ……」
込み上げて来たものを無我夢中で飲み込んだ。このまま仰向けの状態で嘔吐すれば、自分の吐瀉物で窒息する危険がある。そんな理性が働いて、胸の奥を焼き尽くすような胃酸を必死で飲み下した。
衝動が落ち着くまでとにかく身体を固くして耐える。もう大丈夫だと判断して息を吐き出すと、強烈な酸の臭いがした。
そう、加賀は死んだ。轟沈した。
あまりにもあっけない最期。信じたくないほど惨たらしい死に様。
あれが運命だとでも言うのだろうか。今まで国民国家の安全のために粉骨砕身してきた結末が、全身を引き裂かれて海面に叩き付けられる末路なのだろうか。
彼女は言葉を残すことすら出来なかった。きっと、何が起こったかも分からぬまま暴力によって命を刈り取られてしまったのだ。
それが何だか無性に悲しい。無性に悔しい。
彼女の人生は、こんなにも容易く破断させられていいものなのだろうか? そんなに安いものだったのだろうか?
仕方ないのよ、と誰かが頭の中で囁く。
戦争だもの。死ぬことは珍しいことじゃないわ。
囁きが聞こえた。
赤城の思考には何かが居る。その何かは無情な言葉で加賀の死を小さく畳もうとする。
侮辱だ、と思った。それは加賀に対する侮辱であり、死した彼女をさらに貶めるものだ。
仕方がないなんて、簡単な言葉で片付けていいことじゃないのだ。
確かに戦場では死は珍しいものではない。実際、赤城たち艦娘は皆遺書を書いてから出撃している。それは艦娘が艦娘として戦い続けるために必要な最低限の覚悟の証だから。
見たことはないけれど、きっと加賀も何か書き残しているだろう。白紙の紙に遺したい言葉を綴った時に、誰もがある日突然訪れる終幕を覚悟するのだ。それが出来ぬ者に海に立つ資格はない。戦うということはそういうことで、遺される者たちに永遠に消えない傷跡を刻みつけて黄泉路の果てに向かうことなのだ。例え、暁の水平線へ針路を定めようとも、旭に染まる水面に航路を刻もうとも、足元には常に死の影が潜んでいる。ふとした瞬間に影に足を引っ張られて飲み込まれてしまうなんて、割とよくあることだった。
そう。死ぬことは珍しくなく、死ぬことは仕方のないこと。
名もなき兵士が、名も知らぬ艦娘が、赤城の知らないところで沈んだとしても、仕方のないこと。ただ、今回ばかりは違う。沈んだのは数え切れないほど名前を呼んだ相手で、名前どころか性格さえ熟知している相手で、好物も、趣味も、考えていることさえも、何でも赤城の知っている相手。
相棒と呼ぶには足らず、いっそ姉妹と言ってしまってもいいくらい親しい。実の姉を喪い、実の妹を喪い、互いに欠いてしまった半身を埋め合わせるように時間を共にした血の繋がらない、艦級も違う姉妹艦。
加賀が死んで、永遠に失われて、それを「仕方がない」の一言で処理するなど出来ようはずもない。むしろ、そうして悲しみから自身を守ろうとする自分の浅ましさに唾棄する。軽蔑する。
悲しみに暮れることは義務ではないけれど、悲しまずに済まそうというのは許し難かった。
だから赤城は涙を流す。腕が動かなくて目元が拭えないので、ただ垂れ流すだけの涙だった。
****
再び白い天井。相変わらずベッドに寝かされて見上げているだけ。
どうやら今の今まで眠っていたらしい。悪い夢でも見ていたんじゃないかと思ったが、残念ながら石でも入ったかのように重い両手両足に、現実は現実であることを思い知らされる。
加賀の死を悼み、泣いたことまでは覚えているが、そこから先は記憶がない。泣き疲れて寝てしまったようだった。我ながら何と無様で情けないことかと恥じ入るが、そもそも手足さえ動かせない現状ではメンツもクソもなかった。
ふと、鼻をくすぐる甘い香りに気付く。どこかで嗅いだ覚えのある匂いだ。
誰かが付けていた香水。と言っても、この鎮守府で日常的に香水を付ける人物には一人しか心当たりがない。
「Good morning!」
彼女の名を呼ぶ前に、耳障りの良い軽快な英語が鼓膜を震わせる。日本に来てから相当な年月が経っているはずだが、ネイティブの流暢な英語は健在である。かろうじて動く首を回すと、ベッドの横に茶髪が座っていた。
「やっと目が覚めたみたいネ。気分はどう?」
「……おはよう、ございます」
誰が喋っているか分からないくらい酷いしわがれ声だった。まるで老婆だ。
一瞬びっくりして言葉が途切れたが、せめて聞かれたことにはちゃんと答えようと試みた。
「気分は良くないです」
「まあ、そうよネ……」
金剛は肩をすくめる。アングロ・サクソンの血が入っている彼女がそうした仕草をすると、洋画に出てくる女優のように様になった。
ただ、それ故に褐色の第三種軍装は恐ろしく似合わない。バービー人形にGIジョーの服を着せているようなものだ。
「これでもアナタはだいぶ回復したのヨ。明石のお陰ネー」
「明石さん、ですか?」
不意に出て来た名前に思わず問い返してしまった。普段は聞かぬ名前だ。
明石というのは戦闘で負傷した艦娘の治療を請け負う「工作艦」という特殊な艦種の艦娘である。「餅は餅屋」ではないが、艦娘のことは艦娘が一番良く分かっているのだから、深刻な戦傷の治療を艦娘に任せてしまおう、という考えの下に置かれている専門職だ。その辺りの考え方は秘書艦が設置されているのと共通していると言えよう。
ただし、基本的に艦娘の配置されている拠点なら、大抵最低一人は居る秘書艦と違い、「工作艦」という特殊な立場上、明石は海軍において唯一無二の存在である。
通常は、戦闘で大破した程度の艦娘は各拠点で艤装の修理や身体の治療が施されるので、明石の出番はない。というか、そんなことでいちいち拠点を回っていては彼女の身がもたない。だから、明石は拠点の設備だけでは治療しきれないような極端に酷い怪我をした艦娘だけを診る。あるいは、普通なら破棄せざるを得ないほど破損した艤装を、それが破棄出来ないような貴重な物であったり、補充が追い付かない場合にコスト度外視で修理するために呼ばれる。
金剛の口から明石の名前が出されたということは、赤城の傷はそれほどまでに深刻だったという証左だ。事実、手足がまともに動かせない現状を鑑みると、さもありなんと思える。
ただ、だからこそ気になったことがあった。
「六ケ所には移されるのですか?」
「ああ。そこまで酷くはないって言ってたワ」
「そう、ですか……」
明石でさえ手に負えないくらいの傷の場合、もはや拠点での治療は諦められて専門の施設に送られる。それが所謂“六ケ所”。青森県は六ケ所村にある海軍病院である。傷兵院の一つで、全国に複数ある海軍病院の中で、唯一艦娘の専門的治療が可能な施設がここだ。
負傷した艦娘も傷痍軍人であるから、こうした傷兵院に入れられる。人間と違って手足が飛ばされようが、身体に穴が開こうが艤装を付けている限り死なない艦娘は、明石という存在もあって滅多にこのような病院に行くことはない。しかし逆を言えば、六ケ所の病院に入院させられるということは、長期または永久の戦線離脱――すなわち艦娘としての「終わり」を意味する。
これが艦娘に与える心理的ショックというのは計り知れないものだという。そもそも、深海棲艦と戦うために人としての人生を投げ打った艦娘にとって、戦線離脱は存在意義を奪われるに等しいこと。だから、ただでさえ大怪我をしてショックを受けている艦娘が六ヶ所に移されると、当人は絶望し、精神疾患を発症したり、酷い時には廃人になったりすると聞いたことがある。
幸いにして、赤城はそこまではいかなかった。加賀を失った上、六ケ所に放り込まれたとしたら自分の精神がもたなかっただろう。
「安心して。アナタは治る」
「……はい」
「一番辛いのはアナタ。でも、一人じゃない。ワタシも居る。テートクも居る。曙たちや舞風たちも、木曾も、川内も居る。みんな、アナタの味方よ」
優しく、真っ直ぐな金剛の言葉。それに、少しだけ赤城は心がほぐれた。
「ありがとう、ございます」
「いいのよ。ムリしないで。泣きたい時は泣きなさい。辛い時はそう言いなさい。何時でもワタシたちはアナタに寄り添うからネ」
目の奥がふいに疼く。人前で泣くのは恥ずかしいので、赤城は必死で衝動を堪えなければならなかった。そうでないと、きっと恥も外聞もなく、金剛の目の前で幼子のように大声で喚いていただろう。「泣きたい時は」と彼女は言うけれど、泣けない時はあるのだから。
「そろそろ戻るワ」
それを察してくれたのだろう。おもむろに金剛は立ち上がる。
「すみません」と赤城は謝罪する。気を遣わせてしまったことに対してだが、よく考えれば今更である。これだけの怪我をしているのだから、もう既に周囲には多大な迷惑を掛けているに違いなかった。
「気にしないで。メイワクだなんて思ってないヨ」
じゃあね、と彼女は手を振って医務室を出て行った。
ふっと、体の力が抜ける。
金剛は本当に素敵な女性だと思う。最も親愛の情を向けていたのは加賀で、最も尊敬しているのが金剛だ。
ただし、そんな彼女の前だから体に力が入ってしまう。特に、今のような状態であれば尚更だった。
****
それからの一週間ばかりは寝たきりで過ごした。手も足も動かせない状態では何も出来ないので、ただ日がな一日中ベッドに横たわって天井を見上げ続けるばかり。もはや退屈を通り越して石にでもなった気分だった。
多忙で全国各地を飛び回っている明石は、赤城が目覚めた時には既にこの鎮守府を離れていたらしい。治療と言うか、点滴の交換や採血などは元から所属している医官が専らやってくれた。ただ、男である彼に赤城の様々な「世話」をさせるわけにはいかないので、そこは同じ艦娘が交代でやってくれている。
戦死した加賀と療養中の赤城が抜けた穴は、彼女たちがうまく仕事を持ち回してやりくりしているようだった。特に秘書艦としての仕事は、過去に秘書艦経験がある金剛や、まとめ役に向いている曙が肩代わりしてくれていた。そのことについて二人に礼を言うと、金剛はただ魅惑的な笑みを浮かべ、曙は「早く治して戻って来なさいよ」とツンケンしながらも慰めてくれた。
ただ、事実上鎮守府の主力だった一航戦が壊滅したため、出撃の機会は当分なくなってしまったらしい。加賀の轟沈という大事件は鎮守府のみならず海軍全体にも衝撃を与え、上層部は急遽対応策を検討しているとのことだった。見舞いに訪れた加藤は幾分憔悴した顔をして見せながら、あの海戦の後の騒動を大まかに語り、最後に大きな溜息を吐いた。
彼にとっても、隷下の主力空母を喪うというのは辛いことだったに違いない。直接言葉にしては言わなかったが、口ぶりからして彼がかなり厳しくその責任を追求されているのは察せられた。
後に曙から聞いた話では、敗戦の将となった彼を更迭するという案も出ているそうで、今は彼にとっても正念場なのだという。何か出来ることはないかと申し出ると、「それはこっちで何とかするわよ」と一蹴されてしまった。小さな体で実に頼もしいのが曙という艦娘だった。
話は変わって、このように赤城には見舞いに訪れる誰かが絶えなかった。それは寝たきりで何もすることがない身としてはこの上なくありがたいことで、見舞い人との雑談は暇を潰し、気を紛らわせるのにこれ以上ない時間だった。一人になった時はずっと加賀のことを考え、彼女との思い出を呼び起こしては回顧に耽り、あるいはあの海戦でどうすれば彼女を救えたかという意味のない妄想を繰り返すだけなのだから。
この一週間、ダントツで見舞いに来てくれたのは金剛だった。最低一日に二度、朝起きた時と夜寝る前。自分の寝顔が見られているのだと思うと気恥ずかしかったが、数日経てばそれにも慣れた。夜寝付く前に居てくれるのはありがたく、加賀のことを考えて耐え難い寂しさや後悔の念に苛まれるのを防いでくれているのだろう。彼女とはもうかなり長い間仕事をしているけれど、正直ここまで世話見が良くて思い遣りのある人であるというのは初めて知ったことだった。
彼女に次いで見舞いに来てくれるのは漣と舞風の二人だった。共に人懐っこい性格で、漣とは前から仲が良かったし、舞風も赤城を慕ってくれている。二人とも明るい性格で冗談をよく言うので、彼女たちと居ると気が紛れた。堅苦しいことは何も言わないので、赤城も思ったことを素直に口に出来てとても気楽だった。
ただ、赤城と同じくらいに加賀と親しかった漣は時折、会話が途切れた間隙のような瞬間に、寂しそうな色を見せることがある。気持ちは痛いほど分かるし、だから赤城は気付いても何も言わなかった。何より、漣自身が気を遣って加賀のことは決して口にしないようにしているのだから。
一方で、舞風の方はやたらと明るかった。以前から元気のある子だと思っていたけれど、鎮守府自体が静かになっている現状で、それでも尚舞風は朗らかに振る舞っている。彼女の場合、無理して明るくいようという傾向があるけれど、それを差し引いても妙に元気なのだ。そして、漣同様加賀に関わることは一切言わないけれど、頻繁に希望を持つようにという趣旨の励ましの言葉はくれた。まるで、舞風自身がその言葉を信じ込んでいるように。
彼女と、彼女の“元”姉妹艦たちの話は赤城もよく聞いている。だから、舞風は遠回しに「そういう可能性もあるんだ」と伝えたいのだろう。要は、彼女なりの気遣いなのだ。
ただ、今ばかりは加賀のことを考えるのは何よりも辛かった。舞風と話していると、少しばかりそんなところが引っ掛かる。
と、まあ。この三人がよく見舞いに来てくれるのだが、逆にこの一週間まったく顔を見なかった相手も居た。
それが、川内だった。
彼女は別に負傷してるわけではない。あの海戦で悲劇を目の当たりにしたわけでもない。当時は四駆の二人と共に「硫黄島」を出撃して現場に急行していたはずだ。
加賀の轟沈は彼女にもショッキングだっただろうが、それが赤城に会いに来ない理由にどう繋がるのかは分からなかった。舞風にそれとなく訪ねたところ、適当な言葉で話を濁らされたので、何かあるなと思った。
果たして、このまま見舞いに訪れないのかと思われた川内だが、一週間経ってようやく彼女は医務室に姿を現した。
「こんにちは」
「こんにちは」
ぎこちなく挨拶する彼女を、赤城は快く迎えた。何であれ、見舞いに来てくれた後輩を無碍に扱うわけにはいかない。
「ご気分、どうですか?」
「まあまあね」
どことなく距離感を測りかねているような川内。社交辞令も恐る恐るといった感じで、ベテラン艦娘の貫禄がある普段の彼女にしては不可思議な態度だった。
なかなか見舞いに来なかったことが後ろめたいのだろうか。もしそんなことで彼女が悩んでいるのだとしたら、何ともいじらしい。赤城は極力柔らかく微笑んで見せた。
どうやらそれは奏功したらしく、川内はホッとしたようにベッドの傍に置かれている椅子にストンと腰を下ろした。
「あの……」
目線を掛け布団に這わせたまま、川内は口を開いた。
「怪我、治りそうですか?」
「ひと月もしたら立てるようになるみたい」
「ひと月、ですか。手足は動かせるんですか?」
「今は無理ね。ギプスで固定されているし、動かすと痛いのよ」
「骨折なんですか?」
「そうね。修復材も効かないくらい酷いみたい。何にも出来なくなっちゃった」
赤城は苦笑した。言葉の通りだからだ。
対して、川内はニコリともしない。先程からずっと仏頂面で、眉間に皺が寄ったまま。機嫌が悪いのか緊張しているのか、とにかくこんな川内は初めて見た。
一体、どうしたというのだろう。赤城は到底他人を心配出来る身ではないのだが、自分のことを棚上げして川内が心配になった。彼女の場合、何かあるとしたらレミリアに関わることだとは思うのだが。
気を揉む赤城の目の前で、川内はおもむろに立ち上がる。「ちょっと、見てもいいですか?」と尋ねながら掛け布団に手を伸ばした。
「……いいけど、どうしたの?」
「気になることがあって」
そう言って、彼女は掛け布団をめくった。
露わになる赤城の体。病院着のような薄緑の服を着ている以外には下着も纏っていないので、こうして空気中にさらされると恥ずかしさが先行する。全身の至る所からコードやチューブが伸びていて、それらは赤城の周りにある機械に繋がり、手足は白いギプスに覆われていた。
そんな痛ましい赤城の身体を、川内は無感情な目で見下ろす。彼女が何を考えているのかまったく分からない。今の赤城は何をされても一切抵抗出来ないので、万に一つもないとは思うが、思考の読めない川内が少しだけ恐ろしくなった。
彼女はふと、赤城の左手のギプスに手を伸ばす。指三本だけでギプスの表面に触れると、今度は右手の方に伸ばした。
妙な行動だ。ギプスの硬さを確かめているような触り方で、しかし意図がまったく見えない。
「あの……」
と訪ねようとした時、「足もいいですか?」と被せられた。
頷く前にはすでに足のギプスにまで川内の手が伸びていた。左足、右足の順に触れると、川内は仏頂面を更に強張らせて目を閉じる。
何かに逡巡しているような顔に見えた。
それから彼女はまた元の通りに布団を掛け直し、椅子に座る。何かを決心したように目を開くと、今度は真っ直ぐ赤城を見据えた。
「本当は、こんなこと言いたくないんですけど、言わなきゃいけないことですから、覚悟して聞いて下さい」
「ええ」
「今、赤城さんの手足のギプスに触らせてもらいました。気付いたことがあります」
「……何?」
「温度です」
「温度?」
「はい。両手のギプスには熱が移っていて暖かかったんですけど、足のギプスは冷たかったんです。びっくりするくらいに」
意味が分からなかった。
赤城は足まで布団を被せられて、外気に触れているのは首から上だけだし、手足で温度が変わるはずがない。足が冷たいという感覚もない。そもそも、何故川内はギプスの温度を確かめるという奇妙な行動を取ったのか。
訳も分からず混乱していると、川内は解説しようとしてくれた。それが果たして解説になるかは別として。
「これは私の所感ですけど、結論から言うと、赤城さんは深海棲艦化し始めています」
「……は?」
「足だけ冷たいのがその証拠です。私は、私だけは艦娘が深海棲艦になるのを目の前で見て、その時彼女の身体にも触れていましたから分かるんです。
生物とは思えないほど冷たくなる。それが深海棲艦化の兆候です。足のギプスが冷たいのは熱が奪われているからでしょう」
彼女は何を言っているのだ?
経過観察のために今朝も医官がギプスを外して手足を見たし、その時には赤城も自分の体の様子を確認したけれど、まったくおかしなところは見受けられなかった。バイタルは安定しており、医官も特に異常を感知した様子はなかった。
「多分、まだ表面に出て来てないだけです。足の奥では確実に進行していて、それが『冷たさ』として現れているんですよ」
「馬鹿なことを言わないで! そんなわけないでしょ!」
「本当です。近いうちに必ず現れます!」
「私は沈んでないッ!!」
金切り声は裏返っていた。叫んだ拍子に両腕に走った痛みに顔をしかめる。
川内の言っていることはまったくの妄言だ。あり得ない話だ。
第一、深海棲艦になるのは轟沈した艦娘ではないか。彼女が目の当たりにした駆逐水鬼はそうではなかったのか。
だから、沈んでいない赤城が深海棲艦になるわけがない。この負傷も一過性のもので特に後遺症の恐れはなく、六ケ所に送られるほど長期の戦線離脱を余儀なくされるほどの重傷ではない。治療すれば治る程度の怪我。ならば、深海棲艦化など起こるはずがないだろう。
「……違うんです。そうじゃないんです」
「出て行って!!」
「赤城さん、落ち着いて……」
「出て行きなさいッ!!」
再び腕に衝撃が走った。
興奮して叫ぶのは良くないと理性が諌める。けれど、感情の昂ぶりはすぐには収まらない。
これで手足が動かせたなら、枕の一つでも投げつけているところだ。しかしそれは出来ないので、精一杯睨み付けて部屋を出て行くように威圧するしかなかった。
果たして川内は、泣きそうな顔になってそそくさと立ち上がり、「すみません」と小さく謝ってから医務室を後にした。
はあっと大きく息を吐き出して、後頭部を枕に打ち付ける。
バツの悪さが胸の内に湧き出す。怒りはまだ残っているけれど、取って代わるように後悔が心を占め始める。
少し、川内を邪険に扱いすぎた。彼女の言ったことは荒唐無稽極まりなかったし、だから赤城も怒鳴ったのだけど、川内に害意があったわけじゃないのは確かだ。むしろ、彼女なりに赤城を心配してくれていたのかもしれない。
そこに考えが及ぶと、今の川内への仕打ちは酷いものだったという後悔が生まれた。
赤城はもう一度頭を枕に打ち付けた。
瞬間、腕が鋭く疼いた。どうやら首を起こした時に意図せず腕まで動いてしまったらしい。このように、微動させただけでも痛みが走るのは難儀なことだった。
怒鳴った時もそうだ。自分の声が骨を伝わり腕まで到達すると、過剰反応のような痛みが走る。だから、この一週間赤城は極力体を動かさないようにしていた。それでも、何度か不注意で腕を動かしてしまって呻くことにはなった。
けれど、足はいくら動かしても痛みが走ったことは一度もなかった。
腕より足のほうが軽傷なのかと思ったけれど、むしろ逆だと医官は言っていたからおかしいとは感じていたのだ。あるいは、足の方は痛みを感じることさえ出来なくなるほどの重傷なのか。
だとしたら、川内の言うことはあながち妄言とも言い切れなくなる。
海戦で被弾した時、頭上から降って来た爆弾は足元で爆発した。一番影響を受けたのが両足なのは間違いなく、それ故に足の方が重傷だと言われても腑に落ちる。
もっと、川内の言うことをよく聞くべきだった。あんな風に追い出すべきではなかった。
恐ろしい可能性に気付いたのだ。
軽巡の言葉が真実なら、赤城は本当に最悪と言うべき事態に陥るに違いない。
「失礼します」
夕方。窓の外が朱色に染まっているのがカーテン越しにも分かる時間帯になって、新たな見舞い人がやって来た。
「今、よろしいですか?」
畏まって入って来た少女の、結い上げた銀髪と着崩した陽炎型制服。いつも一緒の舞風の姿はなく、彼女は一人だった。
憔悴している赤城はちらりと目線を流すだけ。ただ、拒否する理由もないので野分を受け入れた。
野分もそれを肯定の意と捉えたのだろう。ゆっくりとベッドまで寄って来て、椅子に腰を下ろす。物音を立てぬように気を払っているような緩慢な動作だった。いつもきびきびと動く彼女にしては珍しい。やはり、気を遣っているのだろう。
そこでふと彼女が表情を変える。何かに気付いたように声は出さずに口が開かれ、次いでバツの悪そうな顔になる。
「すみません、何も持って来ませんでした」
「ああ、そんなこと。別に、良いのよ」
「すみません」
野分はもう一度謝罪した。何とも堅苦しいが、これが彼女の良さだと赤城は思っている。
真面目に過ぎるのは考えものだが、野分の場合はそんなところが可愛らしい。現に、今だって見舞いの品を持たずに手ぶらで来たなんて小さなことで大真面目に頭を下げるのだから。
もっとも、日常の見舞いの度に一々品を持って来てもらっては、この狭い医務室はすぐに物で一杯になってしまうだろう。実際、野分が目を向けた窓際には金剛や漣たちが来る度に持ち込んだ見舞いの品で溢れ返っている。
「それで、どうしたの?」
元々それほど表情豊かなタイプではないし、どちらかと言えば無表情な時が多い野分だが、今日はいつにも増して表情が硬い。用件は、おそらく予想の範疇だろう。
「川内さんと、お話されましたよね」
「そうね。やっぱり、そのことなのね」
「はい……」
事情は分かった。川内が赤城に追い出されたのを聞いて、野分はフォローのために飛び込んで来たのだ。
その機転の良さに感謝する。赤城もまた、聞きたいことがあったのだから。
「川内には謝っていると伝えてくれないかしら。怒鳴ってごめんなさいって」
「あ、はい。でも、赤城さんが気を揉むことじゃないですよ。多分、あの人の言い方が悪かっただけだと思うので」
「彼女なりに心配してくれていたのよね。それを、私、カッとなって追い出しちゃった」
「川内さんはそれくらいじゃ凹んだりしませんよ」
と言う野分に、赤城は安堵の笑みをこぼす。不器用な彼女の気遣いが、荒んでいた心を少しばかり癒やしてくれた。
片や、赤城が微笑んだにも関わらず野分の表情はまるで緩め方を忘れたかのように引き攣ったままだ。
彼女が言わんとしていることは分かる。川内は決して冗談や憶測であんなことを口にしたわけではない。もちろん、赤城とて頭では分かっているのだし、だからこそ取り乱したりもしたのだ。
そうして一旦精神が消耗して気力が失せれば、次には耐え難い絶望が襲ってくる。
続きを言い辛そうにしている野分に代わり、赤城は重々しく口を開いた。
「本当に、深海棲艦化しているのね……」
「……はい」
掠れた野分の声は辛うじて聞こえる程度の大きさだった。
少し前の赤城ならばきっと強く否定していただろう。現実がどうであるにせよ、少なくとも否定しきってみせる気丈さは保てたはずだ。
だが、今はそうではない。深海棲艦化という信じがたい事実を突き付けられても否定することは出来なかった。
何故なら、実例を知ってしまっているから。駆逐水鬼という深海棲艦になった萩風と嵐という生きた証人の存在があるから。
しかも、川内も野分もその実例のことをよく知っている。深海棲艦化が進むと身体が冷たくなるというのは、実体験に基いている故に極めて説得力があった。実際、川内の言う通りなのだろう。それが理解出来たからこそ赤城は取り乱したのだ。
「……そっか」
赤城は観念したように呟く。もはや、否定をしようという気が起きない。思い直してみれば、事実を受け入れるしかなくなる。
より悪いことに、現実に抗う気力は同時に現実を変えようという気力でもあったことだ。深海棲艦化という事実を受け入れた赤城は、そのまま自身が変化することへの抵抗を放棄してしまった。
「でも、希望を捨てないで下さい」
打って変わって、野分の声に力が戻っていた。
舞風のようなことを言うのだなと思う。あの朗らかな駆逐艦娘がしきりに励ましてくれたのは、きっと彼女も深海棲艦化の事実を知っていたからだ。
野分の場合は言葉が不器用なので幾分ストレートな物言いだが、言いたいことは二人して一緒。
「自分が深海棲艦になると思ったらそうなります。だけど、赤城さんはまだれっきとした艦娘です。希望を捨てなかったら、悪い方にはいきません。だから、絶対に諦めないで下さい」
「諦めないでって……」
赤城は自嘲した。
加賀を喪い、自らも叩きのめされた自分に、今更どんな希望を抱けと言うのだろう?
「簡単に言わないでよ。もう、取り戻せないのよ。諦める以外にどうしろって言うの?」
「司令はおっしゃってました! 艦娘は、自分が深海棲艦になると思ったらそうなっちゃうんだって。そう解釈しちゃったらその通りになるんだって」
「思い込みで深海棲艦になるって? そんな……」
馬鹿な話があるわけないじゃない。
という否定の言葉は出せなかった。自分の身に起きたこと、起きつつあること。それらを含めて考えた時、果たして本当に赤城は深海棲艦へ向かっていないと断言出来るだろうか。
答えは否、だ。
川内に深海棲艦化を告げられた時は咄嗟に否定したものの、感情の昂ぶりが落ち着いて頭が冷えると、確かに軽巡の言う通りなのかもしれないと思い直した。
「駄目です……」
野分の声は可哀そうなくらい震えている。
「そう思っちゃ、駄目なんです。自分を強く持って、見失っちゃ駄目なんですから」
彼女にだって赤城が何を思ったか、思ってしまったか、ちゃんと理解出来ている。存外、野分は聡い娘なのだ。
だからこそ、彼女は自分が無力であることを噛み締めなければならない。空虚なものに縋りつくより他ない。
「奇跡は存在するんです。信じなきゃ、諦めちゃ、絶対に……駄目なんです」
「そう何度も起きないから、奇跡は奇跡と言うのよ。所詮は、幻想でしかないんだから」
赤城がそう口にしたのを最後に、医務室を沈黙が占領した。
野分からの反駁はない。しばらくして彼女が立ち去るまで、二人とも口を開くことはなかった。
****
正直に言って、彼のことは嫌いだ。
まず、性格が合わない。
精悍な見た目に反してねちっこくて細かいことを気にするタイプなので、どちらかと言えば良い意味での「適当さ」を好む川内とは真逆なのだ。
価値観の差異と言えばそれまでなのだろうが、それ故合わない時はとことん合わない。
しかし、性格的に苦手だからと言って、仕事は別。まして相手は上官なのだ。少なくとも加藤は、上官として一定の信頼を置いてもいいと思える程度の手腕がある軍人だった。何より、「妥当なことを妥当な手段で主張すれば聞いてくれる」くらいには合理的である。
だから、川内はこうしてわざわざ司令室にまで足を運び、彼の眼前で必要だと思うことを直訴していた。
「市民の避難を優先させて下さい。現在の戦力では、先の海戦の時と同規模の敵の来襲を食い止められません」
「奴らは来る、と言うことか」
話を聞いてくれるだけでもありがたい。川内とて、自分が無茶を言っているのは重々承知の上だ。
荒唐無稽な話。普通なら鼻で笑われるのが関の山。
「根拠は?」
案の定、加藤からはそう返って来る。
予想の範疇なので、司令室に入る前に色々と理屈は考えた。
まず何より、加賀の轟沈と赤城の戦線離脱による戦力的空白の発生。損傷させたとは言えまだまだ健在な、執拗で狡猾な空母水鬼。先の海戦で戦場に出ていた全ての艦娘が耳にした空母水鬼の「迎エニ行クゾ」という言葉。
ただ、それらはわざわざ川内が言わなくとも加藤は理解しているし、上層部も把握済み。それが果たして「避難準備」という警告を出すに値するだけの理由かと言われれば、現状で加藤を含んだ軍の見解では「否」となるだろう。これらの事実に対する軍上層部の反応は、一航戦に代わる戦力の早急な補充と早期警戒網の拡充、哨戒活動の強化である。一組織人として見た場合、ぐうの音も出ないほど妥当な対応策と言えた。
航空戦力を欠いた現在の鎮守府では空母水鬼にはまったく無力であるし、敵の早期発見は戦闘員・非戦闘員を問わず人命の生存率向上には不可欠だ。実際に、加藤はこうした現状に危機感を抱いていることだろう。
しかし、それでは足りないのだ。川内にはもっと差し迫った危険があると思えたのだ。
その理由は偏に、
「直感です」
「なら、尚更難しいな」
これも、予想通りだ。
避難準備は法律に基いて市町村長が行うもので、軍にその権限はない。何か危険が迫っているのを察知したら地元の自治体に警告を発するぐらいしか出来ない。多くの場合、軍が避難勧告や避難指示の要請を行い、自治体がそれを受諾する形で発するのだが、当然それ相応の根拠が求められる。少なくとも、現場の艦娘一人の直感では不十分だ。
「個人的には艦娘の意見というのは尊重したい。例えそれが直感であっても、君たちが発する警告というのは一定の重さがあるものだと思っている」
分かっている。加藤だって、川内がわざわざ直談判しに来たことの意味を、よく分かっているのだ。
だが、彼は司令官である。
「しかしな。知っての通り銃後には生活がある。住民をどこかに避難させるというのは、彼らの生活を破断させてしまうことに他ならない。それが許されるのは、彼らの命を何にもまして守らなければならない時だけだ。
今がその時か? よく考えろ。
人はそう簡単に家や仕事を捨てられないんだ」
まったくもって正論である。反論の言葉は思い浮かばない。
故に、沈黙するしかない川内。
ただ、加藤はさらに続けた。
「とは言え心構えがあるかないかだけでも違う。市長にはそれとなく申し入れてみよう」
川内は軍人だ。
軍人という自覚があるし、客観的に見て艦娘とは軍人の一種だ。
そして、加藤もまた正しく軍人である。
軍人の背負う職責というのは、所属や階級によって変わりはするものの、究極的には国益の保護に尽きる。では、その国益は何かというと、これもまた時と場合と定義の仕方によって意味合いが千変万化するだろう。例えば、本土に向けて進撃する深海棲艦という脅威がある場合、国土の蹂躙を防ぐことや近海の安全を保障すること、そしてもちろん人命保護も国益に含まれる。
だから、川内が深海棲艦の脅威について住民の避難を進言するのは至極真っ当なことだ。だからこそ、その根拠が直感であっても加藤は川内の意を汲んでくれた。
いきなり司令室に飛び込んで得られた結果としては上出来だろう。
「ありがとうございます」
川内は頭を下げた。こうしてこちらの言うことを聞いてくれたのだから、ここは礼を言わずに済ませられはしない。
けれど、話はこれで終わったわけではない。
こうして川内が直訴しに来たのは、あまりにも深刻な赤城の状態を知ってからだった。
彼女は確実に深海棲艦になる。それも、さほど長い時間を掛けずに。
当然、空母水鬼もそのタイミングで現れるだろう。あれだけの戦力を率いて来られては抵抗どころか厳重な早期警戒網さえ無意味になる。
「それと、もう一つ報告があります」
「何だ?」
まだあるのかと、若干加藤は鬱陶しそうな顔になった。
これを言えば赤城は六ケ所送りになるかもしれない。けれど、川内としてはどうしても彼に報告しなければならなかった。
「赤城さんは今、深海棲艦化しています!」
加藤は目を見開いた。そこに込められているのは信じがたい驚き。
もちろん、彼だって萩風と嵐の一件は知っている。二人が五年前に「轟沈」し、深海棲艦として姿を現したことを。
恐らく、ある一定以上の権限があって、あの陽炎型の二人に起きたことを知る軍人や艦娘のほぼすべてが「轟沈」と深海棲艦化を結び付けて考えていることだろう。加藤もその内の一人だし、赤城も多分そうだ。彼女へのフォローは野分に任せたから、認識を改められたかもしれないが。
ただし、本来「轟沈」と深海棲艦化が結び付けられるものではないことは、川内と舞風、野分の三人だけが知っている。レミリアの口から直接そう聞いたのだから。
艦娘を深海棲艦へと変貌させてしまう本当の要因、必要な触媒。それはその艦娘本人の自分への解釈の仕方であるということを。
基本的に、艦娘の「轟沈」はその艦娘の死を意味するから、軍も言葉の扱いには慎重だ。艦娘の出自を考えればそれも致し方のないところがあるだろう。
とは言え狭義には「轟沈」とはそのまま、急速に沈没することを意味するだけだ。それが艦娘の死と結び付くのは、艤装のない艦娘は決して泳げないからである。この理由については諸説あるが、多くの艦娘の間では、海に立てる艦娘は海を踏みつけることになるから海に嫌われ泳げなくなる、と考えられている。
それはどんなに訓練しても絶対に克服不可能で、海軍の所属にも関わらず、艦娘は誰ひとりとして泳げないし水泳の訓練もない。だから、艤装の機能を海上で失えば溺死は免れない。
しかし、「轟沈」して海に引きずり込まれた艦娘が、必ずしも直ちに溺死すると言い切れるわけでもないのもまた事実。「轟沈」は死に直結するが、その間にはわずかながらのタイムラグがある。そしてそのタイムラグの間に深海棲艦化が起こった時、艦娘は深海棲艦になるのだ。そう、萩風と嵐のように。
つまりはそういうこと。
陸で殉死した艦娘が深海棲艦化しなかったのは溺れずに、絶望する間もなく、死んだからだ。一方で、川内の手によって粛清された艦娘は、明確に「殺された」から深海棲艦にならなかった。督戦任務においては、ただ艤装を破壊して溺死させるような回りくどい方法は採られず、誰が見てもその艦娘が死んだと分かるような状態にすることが求められた。だから、川内たちは脳や心臓、すなわち人としての急所を破壊したのだ。
艦娘の兵装の威力では、当然粉微塵になるのだから、粛清された艦娘の死体というのは直視に耐えないものばかりであった。あるいは、それ故に彼女たちは深海棲艦にならなかったのだろう。
艦娘本人が死んでおらず、且つ本人が深海棲艦化を受け入れるかあるいは自分がそうなると解釈すること。それが深海棲艦化の具体条件だ。
だから、その条件に赤城と加賀を当てはめればどちらがどうなるのかが分かる。戦闘中に敵の攻撃で無残にも身体を破壊された加賀は、そのままの意味で戦死し、生き残ったものの酷い精神的損傷を受けた赤城は今まさに深海棲艦になろうとしている。実際、赤城は艤装を失い、溺死しかけたところを金剛によって助け起こされて難を逃れた。条件を満たしてしまったのだ。
表情が強張ったままの加藤に、川内はこのような仮説を披露した。話が進むに連れて彼の顔はますます険しくなり、川内が言い終わってもしばらく黙り込んで彫刻のように固まってしまう。
加藤がどのようにこのことを消化しようとするのかは未知数だ。川内の仮説には証拠がないのだから、彼には「妄言に過ぎない」と否定することも出来よう。
だが、それはないと川内は踏んでいた。聡明な加藤のことだ。可能性を捨て切るだけの材料がなければ必ず検証しようと試みるはず。
「……少し、考えさせてくれ」
結局、加藤の答えはそれだった。即断即決出来ない類のことであるのは川内も理解している。
「分かりました」
もうこれ以上川内には言うこともない。言えることもない。最後に赤城の処遇を決めるのは加藤であり、それ以外には居ないのだから。
ただ、彼がどういう決断をするにしろ、時間がそれを許してくれるかというのはまた別の問題だろう。
もちろん、言葉にせずとも彼にだって分かっていることだし、だから必要のなくなった川内もそのまま司令室を辞したのだった。