レミリア提督   作:さいふぁ

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お嬢様VS???


レミリア提督29 Dream Battle!!

 

 

 

 艦娘と妖精との関係はどういうものだろうか?

 分身というと語弊があるし、さりとて「一部」と呼ぶのも少し引っ掛かる。妖精の意識は主人である艦娘本人と繋がっていて、視覚を共有し、その意思に従う。主従で言えば、艦娘が主で、妖精が従。妖精を通して艦娘本人と意思疎通を図ることはどうやら難しいが、妖精本人は艦娘の異常を察知出来るようだ。一方で、妖精本人にも自我が存在しているのか、自らの意思で行動出来たりする。

 これが艦娘と妖精の関係性について一般的に言えることかは分からない。というのも、今レミリアが居る幻想郷という場所は極めて特殊であるから、ひょっとしたら幻想郷を覆う二つの結界が何らかの干渉をしている可能性があるからだ。

 

 艦娘と妖精の関係性について、レミリアはずっと考えてきた。その結果、ある仮定にたどり着いた。

 例えば、吸血鬼は自分の全身あるいは一部を蝙蝠に変化させることが出来る。仮に、今人差し指を一匹の蝙蝠に変えたとして、その蝙蝠はレミリアの「何」と言えるだろうか?

 

 一部? 使い魔? あるいはそのもの?

 

 眷属ではないだろうか、というのがレミリアの答えである。

 まずそもそも、レミリアにとって人差し指一本がない程度は大して困るようなことではない。復元してしまえばそれでいい。あるいは、蝙蝠を指に戻すことも可能だ。

 当然、この蝙蝠も元はレミリアの一部なので、蝙蝠を通した視界を得られるし、音も臭いも分かる。蝙蝠が攻撃されれば痛みを感じるし、自分の手足のように自由自在に操れる。そういう意味では、蝙蝠はレミリアそのものと言ってしまってもいいが、仮に殺されたとしても痛いだけでレミリア自身の生命が脅かされることはない。

 妖怪は精神に依存する存在であり、肉体をいくら分割したとしても、精神的同一性が保証出来るなら自身の存在に影響がもたらされることはない。

 

 他の例を出してみる。

 レミリアの妹は等身大の分身を作り出せるが、この分身は妹本人とまったく同じように振る舞い、まったく同じように自我を持ち、それでいて妹本人の意志に支配されている。さすがに本人と同じように力が振るえるわけではないが、弾幕を出すことは造作も無いらしく、彼女は分身を使ったスペルカードを一つ作っていた。

 とはいえ、妹が高度な魔法で作り出した分身と蝙蝠は違うものだ。分身というのは蝙蝠よりも出来ることの幅はもっと広いものである。扱いに習熟すれば自分と同じように振舞わせることも可能だが、これはさすがに特殊な事例と言えよう。

 艦娘の妖精というはそこまで自由度が高い存在ではないだろう。眷属の一種かあるいはそれに近いものと考えるのが妥当だ。ただし、前述の通り妖精を通した意思疎通は出来ない(少なくともこの幻想郷では)ようなので、レミリアと蝙蝠の関係性とはまた異なる。その気になれば、レミリアは蝙蝠を「喋らす」ことも出来るのだから。

 

 

 

「……というのはいかがかしら?」

 

 レミリアは目の前で本に目を落としたままこちらを見ようともしない友人の魔女に自説を披露した。彼女は話を聞いているのかいないのか、レミリアが喋っている間、片時も本から目を話すことなかった。レミリアが魔女の前で椅子に腰を下ろし、たった今話し終えるまでほんの一瞬も、である。

 巨大な図書館の真ん中で、お気に入りの安楽椅子の周りに本を積み上げ、埋もれるようにして彼女は読書に没頭していた。いつも通り手にしているのは小難しい魔導書で、レミリアにしてみれば題名を見ただけでも辟易する代物だ。ページをめくれば一分以内に爆睡出来る自信がある。

 ところがこの魔女はそんな活字の洪水など何のその、ページをめくる白魚のような細い指は十秒に一回のペースでページをめくる。その早さだと粗読以外に考えられないが、彼女の域になれば斜め読みで難解な魔導書の内容を網羅出来るようになるらしかった。構造が複雑な文も、論旨不明瞭な段落も、凝った言い回しも、紙を撫でるように視線を這わせ、視認し、咀嚼し、吟味し、消化して頭の中にある知識の貯蔵庫に次から次へと放り込んでいく。その作業が、見開きに綴られている数百字につき十秒である。

 

「相変わらず、気持ち悪いぐらいの速読ね」

「言うに事欠いて、気持ち悪いとはね」

 

 魔女は即座に反撃してきた。自分への悪口には非常に反応が早い。

 

 以前本人に聞いたことがあるのだが、どうも彼女は脳の思考領域を「読書に使う部分」と「その他の作業に使う部分」に、意識して分けることが出来るらしい。いわば「ながら作業」の極地とも言えるもので、本を読みつつ会話したり、あるいはもっと高度で頭を使う作業――例えば他人との議論やあまつさえ弾幕ごっこも出来てしまうらしい。つまり、今の話だって聞いていないようでしっかり聞いているはずである。本人にその気があれば、だが。

 

「覚えておきなさいね。口は災いの元よ」

「何だい。何だい。そんなに本読みに忙しいの? その本の何ページに『友達との良い関係の築き方』は書いてあるのさ?」

「そんなものあったかしらね? 第一章に『鬱陶しい蝙蝠を大人しくさせる十の素敵な魔法』は書いてあったけれど」

「……相変わらず、口が減らないね」

「お互い様よ」

 

 そこでようやく魔女はちらりと視線を上げてレミリアを見た。口元が嫌味ったらしく歪んでいる。機嫌は、おそらく平均より良い方だろう。

 

「私の前にわざわざやって来て、艦娘と妖精の関係性について自慢げに高説を垂れる。暇なの?」

「暇じゃないわよ。だから来たのよ」

「……ったく。咲夜にでも構ってもらいなさいよ」

 

 呆れ混じりに魔女は本を閉じた。どうやら腰を据えて相手をしてくれるらしい。レミリアはニコニコと笑顔を浮かべてみせた。

 

「何だかんだ言って優しいのね、パチェ。咲夜は邪魔をするとすごく不機嫌になるのよ」

「人間の召使に威圧されるのが怖い吸血鬼って」

「怖がってはないわ。失礼ね。忙しいのに邪魔しちゃ悪いじゃない」

「私も忙しいのだけど?」

「妖怪のくせして生き急がない。ま、今は私の話に付き合ってよ」

「それは命令よね」

 

 魔女は肩をすくめた。

 抵抗は無意味であるのは分からぬ彼女ではない。魔女は観念したように会話に乗った。

 

「それで? さっきの鼻高に語って下さった仮説がどうしたの?」

「いーえ? パチェはどう思うのかしらと聞いてみたかっただけ」

 

 吸血鬼はニコニコしたままだ。外っ面だけは愛嬌があって可愛らしいのだが、醸し出される威圧感のような雰囲気が笑顔に不気味さを付け足している。もちろん、吸血鬼はそんなところもちゃんと計算してやっている。

 

「どうもこうも。貴女がそう思うんならそうなんじゃないの? 私はどちらかと言えば門外漢なんだけど」

「よく言うよ。真剣に考えてみて」

 

 そう言ってレミリアは手の平に載せた妖精を持ち上げてみせる。

 彼は何だか機嫌悪そうに頬を膨らませていた。レミリアの小さな手の上で胡座をかき、腕を組んでプイッと顔を背けている。

 

 赤城の身に何かあったらしいということはすぐに分かった。

 というのも、ここ数日、急に妖精があたふたとし始めたのだ。それまでレミリアと一緒に自堕落な生活を送っていた彼が、視界に入る度に小さな両腕を振り回し、必死で外を指差すのだ。言葉を喋れない彼にとっては、ボディランゲージや表情筋が意思表示をする手段である。ただし、言葉よりも遥かに不自由なそれらのコミュニケーション手段は、伝えたいことを正確に伝えるのには向いていない。レミリアも事実、赤城に何かあったのだろうということまでしか察せられなかった。

 彼は赤城と繋がっている。彼女に何があったのかはすぐに分かったのだろうし、すぐにそれをレミリアに伝えて助けを求めだした。

 ところが、レミリアがなかなか腰を上げないので業を煮やした彼はついにへそを曲げたようにふくれっ面をしたままになってしまったのだ。いくら目を合わせようとしても絶対に顔を背けてしまう。

 

「怒ってるわ」

「そう。私が動かないからね」

「なるほどね。レミィがやりたいことは分かったけれど。……ふむ」

 

 魔女は手を顎に当ててそれらしく唸った。

 この動作は「癖」というより「ふり」である。そうやっていかにも考えているようなふりをして、相手に気を遣わせ、余計なことを言わせないようにする、ある種の牽制といったところだ。顎に手を当てる前に魔女の優秀な頭脳は問い掛けに対する答えを弾き出し、答えを考えているふりをしている間に、実は別なことを考えているのだ。

 

「妖精を通じて艦娘本人とは意思疎通出来るかもしれないが、幻想郷の結界がそれを妨げている可能性がある。面白い考えね」

「でしょう?」

「そうね。だから?」

「だから? って……」

「実証したければ外に出ればいいじゃない。仮説を立てたら実験によってその確認を行うのは学術の基本よ」

「いやまあ、そうなんだけどさ」

 

 魔女はもう一度大きな大きな溜息を吐いた。もう、お前の相手をするのは疲れた、と言わんばかりだ。

 気だるげな日陰者は随分と億劫そうにゆったりとした衣装の懐をまさぐり、すぐに何かを取り出した。蝋のように白いその手には、透明な液体が入った試験管がある。

 いかにも怪しげな物を、怪しげな魔女が思わせぶりに取り出したから、一瞬レミリアはそれがまた良くない薬の類だと疑ってしまったが、すぐにその正体に察しが付いて、吸血鬼はにんまりと丸っこい笑顔を作った。

 

「頼まれていた物は出来たわよ。まだ試作品だから量産化するにはもう少し改良が必要だけど」

「さすがはパチェね。仕事が早いわ」

 

 だから早く行ってちょうだい、という無言の圧力。気を反らそうという意図は明白で、だからレミリアは笑って友人を褒め称えはしたものの、見せたのは作り笑いだけに留めた。

 実のところ、表面的な態度に見せているほど機嫌がいいわけではなく、少しばかり魔女の仕事の早さに安堵したというのが正直なところである。

 ここ最近は考え事が山積みとなってずっと頭を巡らしていたからか、肉体的には碌に動いてもいないのに、疲労感ばかりが積み重なっていった。妖怪の中ではまだまだ若い方のレミリアは、それ相応に気力も溢れているはずだが、「考える」という行為は思いの外エネルギーを消費するものであるようだった。その上、少しばかり悩み事が出来ているのも少なからぬ割合を占める要因の一つだろう。

 

 単純なことである。妖精が訴え掛ける赤城の危機。その下へ駆け付けるべきか否か。

 ただ一人の艦娘に、そこまで肩入れするべきなのか。レミリアはずっと決めあぐねていた。

 

 

 

****

 

 

 

 

「幻想郷を出てお前の主人の下に行くのは難しくないよ」

 

 まだ日が沈む前の黄昏時。親友に図書館から追い出された紅魔館の主人は、日傘を差しながらゆっくりと幻想郷の空を飛んでいた。

 ゆっくりと言っても、並の妖怪が飛ぶ速度よりはずっと速い。本気ならばもっと速く飛べるが、あまり広くない幻想郷で無闇矢鱈に飛ばしたところですぐに結界にぶつかるだけである。それほど急ぐわけでもないので、のんびりと飛行を楽しんでいた。

 いつもなら大抵お供をするメイドの咲夜は連れ立っていない。彼女はこの時間帯は忙しく、今頃はディナーの準備に追われている頃だろう。食事を必要としない魔女や妖精メイドを除けば、紅魔館は毎日そこそこの食料を消費する場所で、料理のほとんどすべてを咲夜一人が作っている。主人を始めとしてわがままな住人が居るので、各人の好みに合わせた味付けをしなければいけないらしく、よって料理中の咲夜は容易には話し掛けてはならない人物となる。

 もっとも、今日の場合はひと言断って出て来た。夕食は要らないと。しかし、真夜中になる前には帰って来ると。

 一方で赤城の妖精は連れ出している。妖精は基本的にレミリアの私室に居るが、レミリアは例え館の中であろうと自室から動く場合はほとんど妖精を連れ回っていた。何となく、彼と距離を置く気にならない。だから、今晩もこうして妖精を懐に仕舞い込んで、昼と夜との境目の色をした空を飛んでいるのだった。

 

 目的地は、間もなく見えてきた小高い山の上の神社。周りを囲む鎮守の森は、一足先に夜が訪れたのか、黒々として木々は影の中に溶け込んでいる。

 東向きの神社。朝は日当たりが良いが、裏手にある森の中でも殊更に樹齢の古い大木が何本も生えているためか、夕方はあっという間に夜闇に包まれてしまう。人里遠く離れた幻想郷の東端に位置するこの神社は、かねてより「妖怪神社」と揶揄されるくらいに人ならざる者たちが集う場所となっているが、その理由の一つは間違いなく郷の中でもとりわけ早く夜になる“暗さ”であろう。そう、魑魅魍魎たちが跋扈する夜の暗闇だ。

 とはいえ、腐ってもここは聖域だ。レミリアはきちんと神社の正面になる鳥居の東側に着地し、厳かな鳥居をくぐって境内に入った。

 博麗神社はその名の通り神の領域であるが、同時にここには一人の住人が居て、彼女の住居でもある。正門たる鳥居をくぐらず、自分の家の庭先に勝手に入り込まれたとしたら、それが例え親しい間柄の友人だったとしても、住人からすればあまり快いものではない。特に、彼女はがさつに見えて(実際がさつだが)、意外とそういうところに神経質になったりする。ただ、基本的に来るもの拒まずのスタンスを取る博麗の巫女なので、招かれなければ他人の家に上がれないという謂れのある吸血鬼も、いつでも好きな時に来れる場所だった。

 

 彼女の家である社務所兼住宅は、拝殿をぐるりと回り込んだ裏手にあった。そこは、神社の西に聳える大木と、大きな社殿の陰に隠れた日当たりの悪い場所である。唯一、お昼時のみ南から太陽の光が差し込むので、ここの主人はしばしば南向きの縁側で日向ぼっこをしていた。黄昏時の今は、住居にも明かりが点いていて、屋根から飛び出している小さな煙突から白っぽい湯気が立ち昇っている。巫女は食事の準備中なのだろう。

 

 冬が終わり、もう春と呼べる時期になった今日は、とてもそうとは思えないくらい寒い一日となっていた。先週まではぽかぽかと暖かい陽気に包まれていたから、その反動で寒さがぶり返したのかもしれない。いくら頑強な妖怪の身体と言えど季節外れの寒さは身に染みて、空を飛ぶのもあってなおさら着込んで来なければならなかった。最近はレミリアに対して素っ気ない赤城の妖精も、それとは別の理由でコートの中に潜り込んだっきりピクリとも動かなくなっている。

 特に日陰となる社務所の辺りはひと際冷え込んでいるようで、普段巫女が腰掛けている縁側もぴったりと雨戸まで閉められて寒さを遮断しているようであった。中ではきっと巫女が温かい料理を作っていることだろう。それに期待してレミリアは玄関を黙って開けた。

 中は少しだけ温かい気がしたが、それでも寒々としている。東洋の家に上がる時にはそうするように、レミリアはきちんとブーツを脱ぎ、土間に並べて置くとひんやりとした空気の廊下を進んだ。足裏から厚手の靴下を通して床板の冷たさが伝わって来た。

 横長の社務所兼住宅は、建物のほぼ中央にある玄関を境に、向かって右側が社務所、左側が住居スペースに分けられている。もちろん巫女が居るのは住居スペースの方で、レミリアはそちらに足を向け、奥から二番目の部屋の襖を開けた。

 

 そこが茶の間である。台所で調理中であろう住人の姿は当然そこにはなく、物寂しくちゃぶ台が一つ、座布団が一つ置かれているだけだった。ちゃぶ台の上には一人分の食器と、何故か見慣れた八卦炉が土製の焜炉にすっぽりと収められて置かれている。この八卦炉は「ミニ八卦炉」と呼ばれる特別な物で、その名の通り、手の小さな少女でも扱いやすいように小振りな大きさをしている。

 しかし、小さいと言っても「ミニ八卦炉」は立派なマジックアイテム。本来の持ち主である魔法使いの少女の愛用の道具であり、彼女を表すトレードマークの一つでもあった。だから、それがこの部屋の中にある――それも焜炉に収められた状態で存在するというのは酷く不可思議な状況であった。件の魔法使いはこの神社の巫女と仲が良いから夕食を共にしていてもおかしくはないのだが、それにしては食器も座布団も一人分しか用意されていないのでますます不思議である。

 そうやってレミリアが首を捻っていると、入って来た入り口とは別の、台所に通じる障子戸が開いて巫女がひょっこり顔を出した。

 

「なんだ、あんたか」

 

 挨拶もなく上がったレミリアが言えることではないが、人を迎えるにはいささか失礼な反応である。いつもの可憐な巫女装束ではなく、どてらを着込んだ野暮ったい恰好の少女こそ、この神社の住人、博麗霊夢だ。

 

「何の用?」

「霊夢の手料理が食べたくなっちゃった」

「はあ?」

 

 レミリアとしては精一杯の愛嬌をもって可愛らしく言ったつもりだが、霊夢は露骨に顔を顰めただけである。鋭い眼光がますます鋭くなり、眉間に縦皺が浮き立つと、年端もいかない少女のくせして妙な凄みが出た。さすがに幼少の頃から魑魅魍魎に囲まれて生きてきた人間は違う。齢五百を超える吸血鬼を前にしてもまったく怯まないどころか、逆に威圧してくるのだ。

 

「あんたの分なんて用意してないけど。来るって連絡ももらってなかったし」

「『行く』と言っておけば準備してくれてたってことね?」

「ええそうよ。退魔結界を張ってたわ」

「だから言わなかったのよ」

 

 レミリアはにこにこと笑いながらコートを脱いで、ポケットに潜り込んでいた妖精を引っ張り出して自身の肩の上に移すと、丁寧に折りたたんで部屋の隅に置いた。

 その様子を見ていた霊夢はひと言、

 

「誰もあんたに飯を出すって言ってないけど」

「けち臭い。貴女だって、うちに来て散々咲夜にたかっているんでしょう? 私が同じことしちゃだめなの?」

「同じことを返すんなら、その権利は咲夜にあるでしょ」

「咲夜のものは全て私のものよ」

 

 口答えして引かないレミリアに、霊夢はしばらく睨むようなきつい視線を向けていたが、やがて根負けしたのか「分かったわよ」とぶっきらぼうに言い捨てて台所に戻って行った。

 

「その代わり、あんたもちょっとは手伝いなさいよ。ただ飯食わせるつもりはないから」

「ええ。それはもちろん。ところで、鍋料理みたいだけど、何の鍋なの?」

「牡丹鍋よ」

「……え゛っ!?」

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 イノシシの肉は思ったよりも柔らかく、しっかり血抜きされていたのか臭みもなく、おいしくいただけた。つい先日、メイドに下らないちょっかいを出して手痛いしっぺ返しを食らったため、イノシシという名称を忌避していたのだが、心配は無用だった。咲夜ほどではないが、霊夢はこれでなかなか料理が上手なのである。

 彼女が珍しく牡丹鍋を作っていた理由は、どうやら昼間に隙間の妖怪が突然大量のイノシシ肉を差し入れしてきたかららしい。相手が相手なので霊夢が訝しんでいると、隙間妖怪は「今晩は寒くなるから牡丹鍋にでもした方がいいわよ。誰か来るかもしれないし」と助言して、自分はさっさと消えてしまったという。どう考えても謀られたような気がする。

 それで大量の肉の処分に困った霊夢は、助言通りに牡丹鍋にすることにした。一人で食べ切れない量だったが、隙間妖怪の言葉通り誰かが来ることを期待していたそうだ。彼女としては、魔法使いや小鬼、仙人辺りを予想していたらしく、レミリアが来たのは想定外だったとのこと。口ではぐちぐち言いながらも、とっくに二人分の飯は用意していてそのつもりだったわけである。

 

 ちなみに、焜炉に収められていたミニ八卦炉は、レミリアの予想通り鍋を煮込む火力源として用いられた。それは良いのだが(以前に本来の持ち主が八卦炉で料理しているところを見たことがある)、不思議なのはどうして霊夢が当たり前にそれを扱っているのかである。尋ねてみるとあっさり教えてくれた。

 それによると、どうもこの冬の始まりの時期に、霊夢は持ち主の魔理沙に弾幕勝負を吹っ掛け、そして勝ったらしい。弾幕勝負では負けた方は勝った方の言うことを聞かなければならない。霊夢は春までの間ミニ八卦炉を一つ融通するように言って、無事魔法使いから借り上げたのだ。理由は、まさに今日そうしたように鍋料理をするのに最適だったから、という非常に身勝手なものだった。

 おまけに、性質の悪いことにこの巫女は飯のことが絡むと滅法強く、魔理沙はその後八卦炉を取り返そうと何度か再戦を挑んだそうだが、可哀そうなことに尽く負けて結局諦めることになったらしい。

 

「それにしても」

 

 食後、くつろぎながらぐい呑みでちびちびと清酒を呷りつつ、霊夢は同じように酒を舐めているレミリアに向かって尋ねた。

 

「あんたが一人でこんな時間に来るなんて珍しいじゃない。しかも、そんな思い詰めたような顔して」

 

 レミリアは空になったぐい呑みを座卓の上に置き、牡丹鍋の残った味噌出汁を匙ですくって、食器の横に座らせている妖精に与えた。彼は匙の首を掴んで口元に引き寄せると、音を立てずに汁を啜る。

 食事の間中、レミリアはずっと妖精を自分の手元に座らせていたし、時折小さな野菜や肉の切れ端を食べさせていたが、霊夢は妖精についてはひと言も言及しなかった。認識はしているだろうから、ただ単に興味がないだけかもしれない。

 

「そう見える?」

 

 妖精が匙から口を離すのを見てレミリアは答えた。

 

「見えるも何も、相談事があって来たんでしょうが」

「うん」

「何なのよ。あんたんとこの居候でも咲夜でもなく、私にする相談事って」

「もう一度出してくれない?」

 

 単刀直入に言う。回りくどい話は、巫女が好むものではない。

 霊夢はすぐには答えず、手元に目を向けてぐい呑みに酒を継ぎ足すと、それを口に運んで一気に呷った。普段は白い彼女の顔が、温かい鍋を食べたためか、アルコールが入ったためか、あるいはその両方によるものか、いい具合に朱に染まっている。血色良く上気した様は、先程の牡丹肉のようだと思った。

 

「駄目」

 

 もったいぶった割に、霊夢は取り付く島もなく、短くひと言で切って捨てた。容赦のなさはさすがであるが、この答えはレミリアが予想した通りだった。むしろ、望んでいた言葉とさえ言ってもいい。どの道霊夢にはそれしか言いようがないし、レミリアはそれも理解していた。

 

「第一、私に決定権はないわよ。頼むんなら紫の奴にでも頼んだら?」

「そうね……」

 

 霊夢は幻想郷を囲む二つの大結界の内の一つ、博麗大結界の要にして、郷と外の境目を封じる博麗神社の主でもある。その存在は幻想郷の存続には不可欠で、それ故に彼女はあらゆる面で特別扱いを受けたし、当人の能力も抜きん出て特異なものだった。

 しかし例え霊夢本人がどれ程特別な存在で、どれ程特別な立場にあろうとも、特別な権限を持っているわけではない。博麗神社の巫女であるが、それ以上でもそれ以下でもない。幻想郷と外との出入りは基本的に「賢者たち」と呼ばれる一部の大妖怪だけが許可出来るものなのだ。能力的に巫女にそれが可能だったとしても、実行すれば怒られるのは霊夢である。

 

「あんた、失敗したんでしょ。外で失敗して、逃げ帰って来たんでしょ。だからあんたは“あいつら”に見限られた。惨めなもんよね。もう見向きもされなくなって、仕方なく私のところに泣きついて来たんでしょ。ほんと、惨めなもんよね」

「二回も言わなくていいじゃない」

 

 失敗とか、惨めとか、レミリアがこの世で最も好まない部類にカテゴリーしている言葉を、意識してか無意識的にか、霊夢は容赦なく浴びせ掛けて来た。温まったはずの彼女の身体から、こんなにも身の凍て付くような言葉が発せられるのが驚きだったが、霊夢はどんな相手にもとことん非情になれる精神性の持ち主であるのだ。

 レミリアは不意に身体を後ろに倒し、畳の上に寝転んだ。火照った体にひんやりとしたい草が心地良い。

 

「ああっ! もうッ! その通りよ!」

 

 呻き声とも雄叫びともつかぬ声を腹の底から絞り出す。こんな姿、紅魔館で晒せるものではない。

 

 レミリアは、スカーレット家の主だ。紅魔館という組織の首領だ。

 それは“家”という形態をしているが、その実、紅魔館というのは集団ではなく組織である。主、レミリア・スカーレットのために生き、レミリア・スカーレットと目的を共有する、正真正銘の組織なのだ。もし仮に主が戦いを望めば、その瞬間に紅魔館の全ては戦闘態勢へと移行する。最たる例が、紅霧異変であった。

 ただ、組織の長として求心力を維持するために、レミリアは“強い主人”として振舞わなければならない。そうした姿は、レミリアが最も好ましいと考える自分の像に合致しているものだが、裏を返せば紅魔館の中で“強い主人”以外の振る舞いをすることは許されないということでもある。本来はくつろぎの空間である家の中で、肩肘張った振舞いをしなければならないというのは、気の休まる暇もなく、中々に気疲れすることだった。

 だから、こうしてレミリアは時折外出して、とにかく紅魔館の誰も見ていない、誰も知り得ないところで息抜きをすることがある。相手が霊夢なら、いくら仲が良いといっても、レミリアのこんな姿を咲夜に漏らしたりはしないから、博麗神社は重要な息抜き場となっていた。

 どれ程惨めで情けなく、弱気なところを見せても、基本的に他人に興味のない霊夢はそれをネタに噂したりしないし、そんなことはしてはならないと分かる程度にはちゃんと分別がつく人間である。あるいは、だからこそ相談相手として最適なのかもしれない。他人に興味がないから誰にも肩入れせず、常に離れたところから、第三者としての視点から、言葉を与えてくれるものだ。人間らしくはないが、聖職者らしくはある。

 

「スカーレット家の家訓の一つに」

 

 天井を仰いだままレミリアは喋り続けた。

 

「失敗は自分で取り戻せっていうのがある」

 

 相槌の代わりに、徳利を置く音がした。どうやらまだまだ飲むつもりらしい。

 

「スカーレット家の家訓っていうのは、つまり私が自分に課したルールみたいなものよ」

「へえ」

 

 今度はぐい呑みが置かれる小さな音がした。酒臭い巫女からは酒臭い言葉が吐き出される。

 

「あんた、結構息苦しい生き方してんのね」

「まあね。これでも色々背負ってる身よ」

「はぁん。意外だわ。そういうところ」

「そう?」

「うん。だってさ、ここの妖怪連中って言ったらさ、どいつもこいつも好き勝手しながら生きている奴らばっかじゃない? 特に力を持ってるのはそうよね。自分の感情とか欲求とかが最優先。他人の迷惑なんて知ったこっちゃない。あんたもその口だと思っていたわ」

「貴女に言われると腹が立つのは何故かしら? それはその通りなんだけど」

 

 レミリアは両手を天井に向かって伸ばし、反動をつけて前へ振って上体を起こす。目の前ではまた巫女がぐい呑みに酒を注いでいたので、それに倣って自分の徳利に手を伸ばした。盃に注がれた透明な清き液体を一息に呷ると、一瞬にして顔に血液が殺到し、喉の奥が火傷したように熱くなる。舌触りは滑らかなのに、身体を芯から刺激する度数の強い酒だ。吸血鬼も鬼の一種であるから酒には強いが、レミリア以上に飲んでいる霊夢の方はどうだろうか。明日は確実に二日酔いで屍になるだろう。

 

「まあ、組織の上に立つっていうのも、縛られることが多いのよ」

「文の奴も似たようなこと言ってたわね」

「あれこそ、雁字搦めだろう」

 

 霊夢の言う「文」とは、烏天狗のブン屋のことである。かの天狗は幻想郷の中でも最も古く、最も大きな階層性組織の一員で、組織の中では中くらいか平均より少し上の地位に居るらしかった。

 彼女は同族の天狗たちからは「変わり者」と見られていて、割と自由気ままに振舞っているふうではあるが、そんな彼女をしても組織の一員であるということは「自由に動けない」ということであるらしい。ましてや天狗社会の真ん中では、雁字搦めになるのも致し方のないことだろう。あくまでピラミッドの頂点に立つレミリアとは制限の度合いが違うようだ。ただし、それは程度の差であって、どちらも組織の一員としての制限からは逃れられないのは同じである。

 

「自分の都合じゃ動けなくなる。我儘言っても、度が過ぎた悪戯をしても、それは強者であるが故に許される余裕ある振舞いと解釈される。弱音を吐いたりとか、泣いたりとか、そういうところを見せられなくなるの。そりゃあ、自分を信じて付いて来てくれる奴らに弱い姿を見せたいとは思わないけどさ。家の中でも気を張ってなきゃいけないって、結構しんどいものよ」

「難しいこと考えてんのね」

 

 対面する霊夢はちゃぶ台に肘を立てて支えにした手の平に顎を乗せていた。酔いが回ったのか、眠そうに瞼が落ち掛けている。

 

「難しいのよ。そういうところを見せたら、求心力を失うもの」

「求心力、ねえ」

 

 ふぁぁ、と霊夢は大きな欠伸をした。人の話を聞いているのかいないのか。今はとにかく眠たいのだろう。半開きだった瞼はいよいよ落ち切ってしまった。

 これ以上話しても意味がないか、とレミリアが腰を上げようとした時、見計らったように目を閉じたまま巫女が口を開いた。

 

「あんたの悩みって、その小さい奴に関係することでしょ」

 

 眠たげな表情とは裏腹に、言葉には鋭さがあった。「その小さい奴」というのは、茶碗に背を預けて舟を漕いでいる赤城の妖精を指しているのだろう。

 

「そう。貴女、前に赤城と会ったでしょ?」

「あったわねえ。咲夜がすぐに帰したみたいだけど」

「この妖精は、あの子の眷属のようなものよ」

「眷属ねぇ……。んで?」

「彼女たちは外の世界で戦争をしている。深海棲艦という海を荒らす敵を退治するために戦っている。

それは戦争だから、怪我もするし、運が悪ければ死んでしまうことだってある。もしそうした災難が降りかかったなら、それも彼女の運命」

「じゃあ、あんたは何に悩んでいるの?」

「あの子は、紅魔館の一員じゃない。私の“ファミリー”じゃない。私は私の“ファミリー”のために在って、彼女たちの主人でなければいけない。求心力を維持するとはそういうことよ。

紅魔館の者ではない者を、主人が幻想郷のルールを破ってまで助けに突っ走って行ったら、置いて行かれた紅魔館の面々はどう思う? 私は彼女たちの主であって、赤城の主ではないの」

 

 一度は失敗した。

 目的は外の世界にはびこる深海棲艦を駆逐すること。その手段としてレミリアには外の軍に潜入し、自ら指揮官として采配を振る傍ら、深海棲艦の弱点を炙り出し、効果的な戦略を構築することが求められていた。

 しかし失敗してしまう。目的を果たせぬまま、十全な情報収集も出来ぬまま、レミリアは失脚し、無様に幻想郷に逃げ帰って来るはめになってしまった。それが、レミリアを支援していた「賢者たち」を失望させるには十分な理由となった。再挑戦の権利は与えられず、この問題は既にレミリアの手を離れている。

 

 だが、レミリアはやり直したい。今度こそ失敗しない。

 そう決意する理由や背景事情は複雑で込み入ったものだが、何よりも先に立つのは、己のプライドと求心力を保つためという理由だ。

 だから、今度はもっと入念な計画を立てた。周到に準備も進めている。これらは「賢者たち」を説得するのに大きく寄与するだろう。それに、この問題の解決におけるレミリアの優位性というのは別に失われたわけではない。

 

 

 問題は厄介な物だった。外の世界で繁殖し、海上交通と漁業を大きく制限する深海棲艦の存在は、間接的に幻想郷の存続にも危機を与えている。最も深刻なのは、外の世界で生産量不足になった食塩の問題で、海も岩塩もない幻想郷では外からの塩の輸入が頼りだった。

 何故なら、いつだったか山の風祝が言ったように、塩は人間が生きる上で不可欠な栄養素の一つであり、それは幻想郷の人間といえど変わらない。塩がなければ人は死んでしまう。そして、幻想郷を作る多くの神や妖怪といった存在は、人間の存在を前提としており、人間が居なければ消滅する運命にある。だから、塩のあるなしはそのまま幻想郷の存続に直結しているのだ。

 ところが、最近は深海棲艦の跳梁跋扈が著しく、外の世界では塩の生産量が不足するようになっていた。当然、その影響は幻想郷にも表れてくる。

 外の世界から幻想郷に塩を輸入しているのは「賢者たち」の一人、隙間妖怪こと八雲紫である。幸いにして彼女は相当量の塩を備蓄していたから、深海棲艦が現れてもしばらくの間は塩不足が表面化することはなかった。「賢者たち」もその間に深海棲艦が駆逐されるだろうとタカを括っていた。

 ところが、「賢者たち」の予想に反して、深海棲艦は減るどころか増える一方であり、当初は「外の問題は外で解決するもの」と不干渉を貫いていた彼らも、いよいよ対処に動かなければならなくなった。そこで白羽の矢がレミリアに立ったのだ。

 かくして、レミリアは提督として鎮守府に着任することとなる。

 

 しかし与えられた役目を完遂することなくレミリアは幻想郷に戻って来た。「賢者たち」はレミリアに失望し、大いに非難の言葉を浴びせ掛けたが、プライドの高い紅魔はそれらすべてを甘んじて受け入れた。他の誰よりも失望していたのは、他ならぬレミリア自身だったのである。

 故に、レミリアは家訓に従い、勝手に失敗を取り戻すための計画の立案とその準備を行い始めた。もちろん、「賢者たち」はどこかでそうしたレミリアの動きを感知していることだろう。分かっていないなら、直談判しに行けばいいだけの話。深海棲艦に手をこまねいているのは彼らも同じであり、レミリアが最も有効な対抗手段であるという認識は変わっていないはずだから。

 

 だから、再度の挑戦はレミリアの意志でもあり、紅魔館の総意でもあった。魔女も、門番も、メイドだって、皆レミリアのために力を発揮しようとしてくれている。後少しばかり準備が整うまで時間が掛かるが、それさえ出来ればレミリアは迷うことなくもう一度外に出ていただろう。実際、ついこの間まで迷いなんてなかったし、これ程悩むなんて露ほどにも想像していなかった。

 

 赤城の危機を妖精が感じ取ったのは数日前。彼は今すぐに助けに行けと、無言で訴えた。

 

 だがそれは出来ない相談だった。準備はまだ整っていないし、正式に再挑戦の権利をもらったわけでもない。今外に行こうとすれば、確実にルールを破ることになり、レミリアにはきついペナルティが課せられることだろう。それは、計画のすべてを破綻させるに十分な代物だというのは容易に想像出来た。何よりもそれは紅魔館の総意に反する。一時の情にほだされてルールを破るなど、強い主人のあるべき姿ではない。

 

 だというのに、赤城を助けるべきだという気持ちは日に日に大きくなっているのだ。そうしなければ一生後悔するぞ、と脅す声が頭の中で響く始末。

 赤城は、確かにレミリアが気に入っていた艦娘だ。少しばかりそこに妹の姿を重ねたというのが正直なところ。情がないと言えば嘘になるし、素直に白状すると「助けに行きたい」という想いだってある。

 ただ、特定の艦娘にそこまで入れ込む必要はないと思っていた。彼女がしているのは戦争なのだから、そういうこともあるだろう。その点は、人間より余程長生きしているレミリアの方がよく理解している。

 つまりはそう思う程度のことで、もちろんレミリア以外の紅魔館の住人たち、例えば美鈴なども分かっていることだろう。レミリアが愚行を犯すなんて門番は想像すらしていないだろうし、実際それで問題ない。これはあくまでレミリア本人の感情の問題である。

 

 優先すべき問題ではない。レミリアは“ファミリー”のことを第一に考えなければならない。何故なら自分がその主人だから。

 

 

「あんたの好きにすりゃあいいけどさあ。私を、巻き込まない範囲で」

 

 再び若干唐突とも思えるタイミングで霊夢が口を開く。ただ、瞼は相変わらず閉じられたまま。

 

「まあ、そう言うよね。霊夢ならね」

「うん。でも、一個気になることが、あるんだけどぉ」

「何よ」

「さっきそいつのことを『眷属』って言ったじゃない」

「言ったわね」

 

 妖精のことを指して言う霊夢に、レミリアは頷く。もう八割方眠気に負けている巫女は、声もだいぶ眠そうで間延びをしていた。

 

「私には、そうは、見えないんだけど……」

 

 その言葉を最後に、いよいよ目の前の霊夢は動かなくなってしまう。かすかに寝息も聞こえ始めた。どうやら彼女は夢の中に誘われたようだ。

 言われたことの意味を考える前に、やれやれと思いながらもレミリアは立ち上がるしかなかった。すると、ふっと頭の中から血液が抜け出す感覚がして、視界がぶれた。慌てて手元のちゃぶ台に手を着いて身体を支える。どうやら自分も少しばかり酔いが回っているようだ。

 どうにか立ち上がり、中々重くなってしまった足を引きずるようにして霊夢の元まで来ると、肩を掴んで揺すってみる。巫女の身体は力なくぐらぐらと揺れ、そのうちバランスを失って後ろにバタンと倒れた。その拍子に霊夢は後頭部を畳に打ち付けて、「んあっ」と間の抜けた声を漏らした。

 衝撃で少しだけ意識が覚醒したらしい霊夢だが、未だ瞼は半開き。とろんとした目が当てもなくさ迷っている。

 

「霊夢。こんなところで寝たら風邪ひくわよ」

「んんんんっ」

 

 霊夢は何の意味があるのか呻き声を上げて、身体を反転させ、肩と腰を同時に持ち上げる。四つん這いの姿勢になると立ち上がるかと思いきや、そのままドタドタと歩き方の下手糞な四足歩行動物のように部屋の中を進み、隣の床の間に通じる障子戸を開ける。床の間にはすでに布団が敷いてあったので、どうやら霊夢は初めから飲んですぐ寝るつもりだったようだ。彼女はそのまま寝間着にも着替えず、布団の中に潜り込んでしまう。

 着替えたらどうなの、という言葉は喉元まで出て来たが、言っても無駄なようなのでレミリアは黙って障子戸を閉めた。

 

 レミリアは再びちゃぶ台の下に戻ると、徳利を持ち上げてそのまま残っていた酒を呷った。カッと体が熱くなる。

 酔いもいい感じで回っているし、巫女はさっさと寝入ってしまった。レミリアはコートを拾って帰り支度を始める。寝こけている妖精をコートのポケットに突っ込むと、何となくまだ酒が足りていない気がした。霊夢は潰れてしまったが、鬼であるレミリアにはまだまだ飲み足りないのだ。

 酒はどこに仕舞ってあるだろうか。台所への障子戸を開けると、冷たい空気が流れ込んで来て酔いが少し醒めてしまう。暖かかった茶の間とは打って変わって、台所はそこに在る全ての物が冷気を発しているかのように寒い。さっさと酒を、と思って首を回すと、思いの外すぐにそれは見つかった。入り口左手、棚の上にでっかい酒瓶が置かれている。銘柄は宴会でもよく見るやつで、そんなに高い物じゃなさそうだ。おまけに少し開けられているようで中身が減っている。

 これでいいか、と酒瓶を抱えると、レミリアは何も言わずに玄関まで戻り、ブーツを履いて外に出た。夜も更けて外はますます寒く、広げた羽も凍て付きそうだった。

 火照った体からどんどんと熱が奪われていく。上空に飛び立つと、酔っているにもかかわらず首元を抜けていく風の冷たさに震えが止まらなくなってしまった。早く早くと気が逸り、帰りの道中は出来るだけとばす。頭上は見事な星空だったが、ゆっくりと天体観測と洒落込むにはいささか気温が低すぎた。

 

 ほんの数分の飛行だったが、見慣れた家の門が見えて来るまでは思いの外時間が掛かったような気がする。絶え間なく薪の弾ける音がする暖炉とふかふかの毛布がもう目の前にあると思うと、体の震えはいよいよ収まらなくなった。とにかくレミリアは家路を急ぎ、急ぎ過ぎた故に門を勢い余って破壊するところだった。

 門前には門番が立っている。彼女にぶつかりそうになって、慌てて急制動を掛けたのだ。

 普段、門番は日の出から日の入りまでの紅魔館の門を守っている。それは、館の主であるレミリアが夜行性であるため、無防備に寝ている昼の間、外敵を排除する必要があるからだ。夜間はレミリアの力が十分に強いので守る必要がない。

 だがもちろん、外敵など久しく持っていない紅魔館にそのような厳重な防御は不要であるから、今の門番の専らの仕事と言えば、訪問者の応対や庭の管理くらいなものである。特に最近はレミリアが昼間に起きていることが多いので、そのような仕事の方が重要になって、いわゆる“門番”という役職名も半ば形骸化しているのが実情だった。

 そんな門番が、日がどっぷりと沈んだ寒い夜にこうして門を見張っているのはとても珍しい。夜中に吸血鬼を訪ねて来るような物好きは、幻想郷と言えどまず滅多に現れないからだ。

 

「ただいま、美鈴。こんな時間までご苦労サマ」

 

 若干ふわふわとした足取りで美鈴の前に着地したレミリアは、苦労の多い部下を労った。酒の力もあって、機嫌は悪くない。

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

 美鈴は白い息を吐きながら慇懃にお辞儀する。

 

「待っててくれたの?」

「ええ。もちろんですよ。さ、寒いので早く中に入りましょう」

 

 と言う美鈴の言葉は少し震えていた。二人は門から玄関までの道を並んで歩きながら喋った。

 

「そうね。お酒を頂戴して来たのよ。一緒に飲まない?」

「お嬢様、だいぶ酔っておられますね。飲み過ぎてはいけませんよ」

「大丈夫よ! 私はお酒に強いんだからぁ」

「はいはい。そうですね」

「ところで咲夜は?」

「寝てますよ。“眠気”に誘われて。疲れていたんでしょう」

「そう。気が利くじゃない」

 

 機転の利く美鈴に感謝だ。

 レミリアを崇拝していると言っても過言ではないメイドには、こんな風に酔っ払った姿は見せられるものではない。彼女が崇めているのは、強く気高い吸血鬼であって、決して酒臭い鬼の子ではないのだから。

 その点で言えば、妹を除き紅魔館では一番付き合いの長い美鈴は、あまり肩を張らずに話せる貴重な相手でもある。彼女の前なら多少の醜態を見せても安心出来る程度には、レミリアは門番を信頼していた。こうして酔いに任せた他愛もない与太話に付き合ってくれるのも、美鈴を除いて他に居ない。

 

「そのお酒はどうしたんです?」

「霊夢のところから持って来たのよ。飲み足そうと思って」

「霊夢には言ってあるのですか?」

「次に会った時に言うわ」

「なるほど。明日は大変になりそうです」

 

 門番は快活に笑った。

 

 

 

****

 

 

 

 話しながら紅魔館の玄関にたどり着くと、レミリアはすぐさま扉を開けて中に入る。がらんどうのエントランスホールも寒々としているので、ふわりと宙に浮いた吸血鬼は、自慢の大きな羽で一生懸命パタパタと羽ばたいて自室へと向かう。部屋はきっと咲夜か美鈴のどちらかが温めてくれているだろう。

 美鈴も宙にふよふよと浮いて後をついて来る。自室に帰って来ると、想像した通り暖炉では薪が燃え、中は天国のように温かかった。

 レミリアは足高テーブルに、ドンと酒瓶を置くと、ポケットから妖精を引っ張り出し、コートを脱いで椅子の背もたれに掛ける。自室には小さな食器棚があり、そこには主に装飾用の皿などが飾られているのだが、実は中にこっそりグラスが仕舞われていた。

 時たまレミリアは、咲夜にばれないようにこっそりカクテルを作って飲むことがある。幼い見た目から下戸と間違われやすいレミリアだが、見た目に反してそこそこ酒飲みなのだ。わざわざ親友の魔女に頼み込んで、メイドが開けて見ても“単なる飾りの皿しか並べられていないようにしか見えない”特別製の食器棚を作ってもらったくらいには、である。皿を陳列する趣味はないので、これは完全にカモフラージュ。メイド(というより人間)の認識を阻害する魔法で隠された食器棚の奥には、愛用のグラスが仕舞い込まれている。

 

「さあさあ、飲みましょう!」

 

 レミリアは上機嫌でグラスを二つ取り出すと、美鈴は酒瓶を開ける。

 

「割らないんですか?」

「ライムジュースでもあればいいけど、なにもないからそのまま飲むわ」

 

 門番は主人がテーブルに置いたグラスにそれぞれ三分の二ほど酒を注ぐ。二人は乾杯をして、それから喉にアルコールを流し込んだ。

 外の寒さで冷えた身体がまた熱を帯びる。食道から染み込んでいくようなアルコールに、レミリアはぶるぶると身を震わせる。さすがは霊夢だ。安いばかりで大して美味くもない酒を持っている。やはり、何かで割った方が美味しく飲めたと思ったが、今更寒い廊下に出るのは大変億劫だったので、そのまま呷ることにした。

 二人が飲んでいる間、テーブルに無造作に乗せられていた妖精はふらふらと彷徨い、やがてその場に倒れて動かなくなってしまった。レミリアがあちらこちらに連れ回した上、寒い中神社まで行ったので疲れ切ってしまったのだろう。「寝かさなきゃ」と呟いてから、レミリアは妖精を摘まみ上げて書斎机にあった、彼専用の小さな布団の中に寝かせた。

 

「甲斐甲斐しくお世話しているんですね」

 

 その様子を眺めていた美鈴がふと口を開いた。

 レミリアは椅子に戻り、グラスに残っていた清酒を飲み干す。

 

「ええ。あの子の、『眷属』だもの」

「赤城さん、でしたっけ」

 

 美鈴は酒瓶を手に取ったが、レミリアは微笑みながら軽く手の平を見せる。

 

「そうよ。艦載機が飛ぶところは見た?」

「生では見てませんね。一般にはあまり艦娘は披露されていないんでしょう。テレビ番組では特集が組まれて、そこで艦娘が飛行機を飛ばしているのは見ましたけどね」

「あんな小さなものでもちゃんと飛べるのよ。大したものだわ」

「その、あんな小さなもので、彼女たちは戦争をしているんですよね」

「そう。あれは、戦争。殺し合い」

 

 美鈴はゆっくりとグラスの中の液体を回す。

 彼女だって間近で艦娘のことを見ていた。飲料会社の従業員として鎮守府に出入りしていたのは、レミリアの支援要員だったからだ。レミリアとしては門番を連れて行く必要性をあまり感じていなかったのだが、咲夜が自分も付いて行くと煩かったので、メイドの代わりに美鈴を選んだのである。結果的にはそれが窮地に陥ったレミリアを助けることになった。彼女が加賀と結託していたというのは心底驚いたのだが。

 それはどうやら加賀が美鈴に頭を下げてまで、協力を仰いだから実現したことらしい。

 

「最初、彼女に頼まれた時、驚きましたし不審にも思いました。お嬢様の正体を知って尚、お嬢様に味方しようとするんですからね。普通、彼女のような者からすれば、吸血鬼というのは忌避するべき存在です。間違っても、感情移入する相手じゃない。お嬢様はどうやってあの艦娘を篭絡したのですか」

「失礼ね。人聞きの悪いことを言うんじゃないわ。ただ、ちょっとした不注意で正体がバレてしまっただけなのよ」

「それはまた珍しい」

「日傘を飛ばしたの。それを加賀に見られてね。でも、彼女は私が吸血鬼であることを知っても、態度を変えなかったわ。彼女にとって大事なのは、自分たち同じ覚悟を持って戦ってくれるか、ということだったから」

「なるほど。それで……」

 

 門番は一人、何かに得心したように呟いて、グラスに残っていた酒を飲み干した。

 それを眺めながら、レミリアは霊夢が言った言葉の意味を考える。

 

 艤装の妖精は艦娘の分身か眷属に値するものだというのがレミリアの仮説だった。自分が蝙蝠に分裂し、それら蝙蝠を自分の身体の一部として操れるように、個々の妖精と意識が繋がっている艦娘も妖精を同じように扱えるのだと考えていた。

 その仮説を霊夢に言ったわけではないが、「眷属」と表現したのはこの考えに基づいたものだ。霊夢も、レミリアのような者がどういう意味合いで「眷属」という言葉を使うかは分かっているだろう。分かった上で、彼女はそれを真正面から否定した。

 では、何だと言うのだろうか。妖精が艦娘本人の「眷属」ではないのなら、何だと言うのだろうか。答えを聞くべき相手は今頃はどっぷりと夢の中だった。だから、ふと目の前の従者に問い掛けたくなった。

 

「ねえ、美鈴」

「はい。お嬢様」

 

 酔っていても、美鈴の返事はしっかりしていた。忠誠心の強さなら咲夜さえも上回るのではないかと思しき彼女なら、誠実に答えてくれるだろうか。

 

「貴女にはあの妖精が赤城の何に見えるかしら?」

「先程『眷属』と仰られませんでしたっけ?」

「違う違う。美鈴の忌憚ない意見を聞きたいの」

「うーん。それは、お嬢様の仰る通りだと思いますよ。さすがに艦娘のことをよく分かってらっしゃいます」

「ほんとにそう思う?」

「と言いますと?」

「ちょっと、引っ掛かりを覚えたりはしない?」

「……本当にそう思いますよ。霊夢に何を言われたのかは分かりませんけど、はっきりと言葉に出されていないのなら、霊夢自身にも分かってないでしょうし、気にすることはありません。自由に動き回って、飲み食いもして、ちゃんと喜怒哀楽もある。それが、霊夢には『ただの眷属』には見えなかっただけでしょう」

 

 そんなことは妖怪の眷属にはさして珍しいことでもないのに、と従者は付け加えた。機嫌良さそうに彼女はにこやかにしていて、実際レミリアと久しぶりにこうして二人になれたことが嬉しいのだろう。

 美鈴からすれば何気なく口にした言葉に違いない。確たる意図があったわけではなく、何となくそういう表現をしたのだ。しかし、レミリアは大きな光明を得た気分だった。そこを辿っていけば、霊夢が意味深に呟いたことの意味も分かる気がした。

 ――ただの眷属。なんて。

 

 あと少しで何か分かりそうだった。ただ、それを考えるには酔いが回り過ぎていささか眠かった。

 今考えなければ、霊夢の言葉の意味にたどり着けないと感じたけれど、アルコールは吸血鬼にも容赦なく作用して、意識がどんどんと白んでいく。起こしなさいよ美鈴。という言葉さえも眠気に呑まれてしまった。案外役に立たない門番は、目の前で寝落ちし掛けている主人を微笑ましそうに見つめているだけだったからだ。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 翌日、レミリアが目を覚ましたのはベッドの上だった。どうやらあの後美鈴が寝かせてくれていたらしい。窓から外を見ると太陽が傾き始めた時間帯であった。

 吸血鬼といっても、自室に窓を作らなければいくら何でも息苦しくて居心地が悪いので、北向きの壁に窓がある。そこから見える景色が少し赤っぽく染まっていたので、もう夕方なのだと分かった。

 少なくとも半日以上は飲まず食わずだったわけだが、空腹も喉の渇きも感じない。そもそも肉体に依存しない妖怪は、あまり飲食に対する欲求を持たないのが常である。一部お菓子や酒を好む者も居るが、大抵の場合それを求めるのは娯楽や嗜好としてであり、人間で言えば遊びに近い。従って、過剰な飲酒を行っても人間のようにアルコールの分解に時間が掛かって体調に影響が出るようなことはなく、頭痛も吐き気もない爽やかな寝起きが可能だった。

 

 自室の中の足高テーブルには昨晩そのままにグラスが二つと一升瓶が置かれていた。ということは、レミリアの身の回りの世話を焼くことに情熱を燃やしている人間のメイドも、今日はまだこの部屋に入って来ていないのだろう。もし彼女が出しっ放しの酒とグラスを見付けたら、きっと顔色を変えてそれらを“処分”したに違いないから。

 どうやら人間の方の従者は、レミリアが飲酒するべきではないと考えているらしい。もちろん表立って主人の意に反するようなことはしないが、神社の宴会でレミリアが酒を飲む度に何とも言えない複雑な色を湛えた目をするのである。お互いがそれぞれ別の相手と話していても、彼女はちらちらと主人の様子を伺う。ややこしいことに、彼女の感情のどこかが刺激を受けるらしかった。

 なので、レミリアはさっさと「秘密の」食器棚にグラスと酒瓶を仕舞い込む。ここはレミリアが確保している数少ない“プライベート空間”であった。

 

 次にレミリアは自分の装いを変える。妙におせっかいな門番がご丁寧に寝間着に着替えさせてくれていたようだ。それを普段着に着替えるのだが、メイドが居ないということは誰も着替えさせてくれる者が居ないということなので、服を変えるのは自分でしなければならない。

 寝間着から普段着の白いドレスへ。ドレスと言っても飾り立てた立派な物ではなく、あくまで普段着のシンプルなデザインの物だ。寝間着を脱いで、クローゼットから普段着を取り出して着るのだが、困ったことにしばらく手を止めて思い出さなければならないほど着方を忘れてしまっていた。幸いにしてすぐに思い出せたのだが、自分でやらないことは覚えていてもいつの間にか忘れてしまうものらしい。あまりメイドに任せっきりにするのも考え物だった。

 

 そうしていつも通りのレミリア・スカーレットに戻ると、気分転換に図書館にでも行こうと何食わぬ顔で自室を出る。丁度出たところにメイドが立っていて、驚いた吸血鬼は「うわぁお!」と声を出してしまった。

 

「お嬢様」

 

 待ち構えていたメイドは、何とも粘り気のある視線で主人を見下ろしながら、硬い声で言った。

 

「昨晩は遅くまで飲んでいらしたそうですね」

「ええ。まあね」

 

 メイドの声には明らかに非難の色が含まれていたが、別段隠すようなことでもないので首肯する。

 

「結構な量を飲まれたと。おまけに、酒を一本持ち帰りましたね?」

「言うほど飲んでないし、酒も持って帰ってないわ」

 

 正直に話すとややこしいので、レミリアは何気ない風を装って嘘を吐いた。手元に酒を隠し持っていることが咲夜にバレたら面倒なことになりそうだったし、食器棚に隠している限り彼女には決して見付けられないので、隠し通せる自信があった。

 

「先程霊夢が怒鳴り込んで来たのです。酒が一本なくなってるって」

「気のせいじゃない?」

 

 吸血鬼は小さく肩をすくめた。霊夢には後で口止めを渡しておかなければならない。

 咲夜は尚も不審の目をしていたが、やがて追及を諦めたのか、「寝具を洗います」と告げて主人の部屋の中に入った。心配性なのか、レミリアが長いこと霊夢の元で飲んでいたことが気に入らないのか、どうにも腹の虫の居所が悪いらしい。そんな程度のことで機嫌を悪くする従者の未熟さと、子供っぽさにレミリアは少しばかり頬を緩めた。

 

 こんなことを言うと、周りには驚かれたり否定されたりするのだが、実は咲夜は独占欲が強いところがある。往々にしてその独占欲はレミリアに対してのみ示されるので、彼女を知る周囲の者たちは、この瀟洒さが売りのメイドはクールでドライな性格をしていると思いがちだ。もちろんそれは多くの場合正鵠を得ている評価となるのだが、レミリアに関することに限り、時に咲夜は異様な執着を見せたり、貪欲な振る舞いをすることがある。

 例えば、レミリアの身の回りの世話を焼きたがる。レミリアが食べる物を自分で作りたがる。特に後者は酷いもので、多くの人妖が集う神社の宴会でも、進んで料理を作るのだ。レミリアの口に合いそうな物を、レミリア好みの味付けで。

 故に、昨晩は完全にレミリアの食事に関与出来なかったので、咲夜の機嫌はすこぶる悪いようだった。

 

 メイドは主人の部屋に入ると、無造作に広げられて皺だらけになったシーツや、脱ぎ散らかされている寝間着を見て顔を顰める。次の瞬間には、彼女は得意の能力を使ってそうした「見苦しい物」を片付け、新品で皺ひとつない真っ新なシーツに交換し終えていた。完全で瀟洒な従者は、まずベッドメイキングの質と速度からして他者の追随を許さない。

 次いで彼女は、少し前の主人と同じく書斎机の上で惰眠を貪っている妖精に目を向ける。彼はレミリアがそのように扱っているからか、紅魔館においてはゲストとして迎え入れられているのだが、不機嫌な少女はそんなことに頓着せず容赦なく妖精から布団を奪い去った。

 文字通り叩き起こされた妖精は、たった今まで自分を覆っていた布団が消えたことに仰天する。きょろきょろと周りを見回しても、掃除のためにカーテンの交換を始めたメイドと、それを苦笑しながら眺めている吸血鬼しか居ない。

 時間停止を活用することで超効率的に家事をこなせる優秀な使用人は、それこそあっという間に散らかっていた主人の部屋を整え終わった。部屋の中の掃き掃除はつい一昨日に終わらせているので、三日おきのそれが行われるのは明日である。寝具の交換などは毎日主人が起き次第すぐに行っているものなので、これでメイドはルーチンを一つ終わらせたことになる。

 

 だから、主人の部屋での用事が済んだ咲夜はそのまま出て行こうとしたし、レミリアも彼女がそうするだろうと思って黙って見ているつもりだった。彼女が出て行くまで待って図書館へ向かおうと思った。しかし、奇妙なことにメイドは、ゼンマイが停まったからくり人形のように部屋の真ん中で立ち止まってしまう。

 何かあったのだろうか。その身体が向いているのは書斎机。出しっ放しの本が何冊も積み上げられている、お世辞にも整理されているとは言い難い場所だ。今日は機嫌が悪いから、目に付いたそこが気に入らないのだろうか。使用人だけあって、彼女は片付けなければ気が済まない性分なのだ。

 

「お嬢様」

 

 立ち止まって一、二秒の空白を置き、思い出したようにメイドは主人を呼んだ。

 

「どうしたの?」

「その子……」

 

 咲夜は、彼女にしては珍しく、ぼんやりとした調子で続けた。見ているのは散らかった書斎机ではない。積み上げられた本の間で、不貞腐れたように座り込んでいる妖精だ。見詰められていることに気付いた彼も、メイドを見上げる。

 

「喋れないんですよね」

 

 少しばかり後ろに立つレミリアを振り返った咲夜。その目からはあまり感情が読み取れなかった。

 話の意図も分からないので、取り合えず首肯する。

 

「ええ。そうよ。それが?」

「では、筆談ならどうでしょうか」

 

 そう言いつつ咲夜はどこからともなく紙と小さな鉛筆を取り出し、瞬きの合間に書斎机の側に寄って、机の上で緊張した面持ちでメイドの様子を伺っている妖精の前に、そっと置いた。

 

「喋れないのに字が書けるわけないわ」

「そうでしょうか。この妖精は、艦娘と繋がっているのでしょう?」

 

 メイドにしては珍しくレミリアの言葉を否定する。その目が、「それは違う」と言っていた。

 妖精は艦娘の眷属。そうでないならば、何なのか。

 霊夢には違って見えた。「ただの眷属」には見えなかった。

 メイドの後ろに魔女の姿を見る。あの魔女は、披露した仮説について何も言っていない。

 

「分身や眷属というだけではありません」

 

 何を指して言っているのかは明白だった。仮説のことは咲夜には話していない。とすれば、彼女はパチュリーから聞いたのだろう。仮説のことと、筆談なら意思疎通が図れるかもしれないという案も。

 直接言わず、メイドを通して伝えるのがあの魔女らしいやり方だった。

 本当に重要な言葉を伝えるのに、迂遠な方法を採るのが如何にも……。

 

「ただ主人のいいなりとなる木偶の坊じゃない。幻想郷の妖精が自然現象の具現であるように、きっと艦娘の妖精は、その艦娘の心の具現なのでしょう。

お嬢様は彼女の心をないがしろにするのですか? その叫びに耳を塞ぐのですか?」

 

 咲夜の言った「心」という言葉は、とても自然に受け入れることが出来た。喉の奥に引っ掛かっていたものがストンと落ちていくように。

 霊夢が感じたもの。レミリアもまた感じていた。飛んで来た彼は、飛ばした彼女は、小さな紙切れに何を記していたのだろうか。レミリアはそれを受け取ったはずだ。ただの紙切れではなく、そこに乗せられていた想いを。

 

 

 果たして妖精は紙の上に立ち、鉛筆を拾い上げる。

 ほとんど使い終わりの削れきった鉛筆だったが、体の小さい妖精にとっては大きな物らしく、彼は両腕で抱え上げた。そのまま、足を動かし紙の上をよたよたと危なっかしげに歩く。鉛筆の芯が紙に後を引いていく。

 レミリアと咲夜は妖精が全身を使って書き記すのをじっと見詰めていた。

 

 咲夜が、あるいは咲夜を通してパチュリーが言った通り、彼は字を書けたのだ。それは読みやすさや丁寧さからは程遠い、それこそ「ミミズが這ったような」という比喩がぴったりな汚い字ではあったけれど、ちゃんと判読出来る字だった。文とは言えぬつたない単語の連続だったけれど、意味は読み取れた。

 

 

 

「カガ シズム

アカギ ムカエ モウスグ」

 

 鉛筆を抱えながら文字を書くというのは、身体の小さい彼にとっては大変な重労働であろう。しばし鉛筆を支えにして息を整えていたが、またおもむろに動き出してもう一度文字を綴る。

 

「タスケテ」

 

 そこまで書き終えた時、妖精はいよいよ精魂尽きたのか鉛筆を取り落とした。カランと軽い音がして鉛筆が机に転がる。

 彼はレミリアを見上げていた。それは、今までのように怒っている様子でもなく、また慌てている様子でもない。

 

 ただひたすらの懇願。

 

 

「ああ……」

 

 ようやく。ようやく。

 レミリアはようやく、己が恐ろしくなるくらい時間を浪費してしまっていたことを自覚した。光陰矢の如し。たったの一秒さえもが無為に出来ないはずなのに。

 

 幻想郷は平和だ。いつも通りの日常が、のんびりとした時間に乗って流れている。乱されることのない平穏にかまけて、レミリアはついついゆっくりとしてしまっていた。

 外の世界では戦争やっているのに。今こうしている間にも、世界の海のどこかで誰かが傷付き、苦しみ、呪詛を吐いて戦っているのに。

 戦争とは濁流のようなものだ。巻き込まれたらひとたまりもない。あっという間に泥水に飲み込まれ、押し潰され、引き裂かれ、何かに衝突して回転し、浮き沈み、為す術もなく暴力に流されるしかない。そこに人間や妖怪の差異はなく、誰も彼もが血と暴力で彩られた恐ろしい殺し合いの中に引き寄せられて出られなくなってしまうのだ。

 

 赤城が居るのはそういう世界。そういう戦争。

 敵が攻撃してくるのだから、ある日突然仲間が死ぬことだってある。レミリアの知り合いが死ぬことだってある。窮地を救ってくれた、あの恩人とも言うべき艦娘が、もう二度と浮き上がれない水底に沈没することだってあるのだ!

 

 そして魔の手は赤城にも伸び掛かっている。妖精が訴える危機は真実だろう。

 加賀は沈んだ。次は赤城の番だ。

 

 もう沈んだ者は、死んだ者は、蘇らせることは出来ない。世の理がそうだから、いくら力を持った吸血鬼と言えども不可能だ。

 だが、まだ生きている者は救うことが可能なはず。まだ、レミリアに出来ることは残されているはずだ。

 

 

「お嬢様」

 

 そんなレミリアの内心を見透かしたように、また従者が呼んだ。今度はもう少し柔らかな声音で。

 

 

「ルールだとか、しがらみだとか、そうした物に縛られていませんか。いつも自由奔放に、我儘放題に振舞うのに、今回ばかりはどうしてそんなに抑制的なのですか。

……お嬢様。

烏滸がましいことを言いますけれど、やっぱりあなたは好き勝手振舞ってこそです。それこそが、レミリア・スカーレットの在り方ではないでしょうか。

私は、そんなあなたをお慕いしております。お嬢様が好き勝手振舞うなら、私も好き勝手に付いて行きます。

だからどうか、後悔のなさらないようにだけしてください」

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

「距離はそこそこあるけど、私が全力で飛べばそれこそ一刻程度で行けるわ」

 

 紅魔館から飛び立ったレミリアは懐の妖精に語り掛けた

 幻想郷から結界を抜けて「外の世界」に出た場合、どこに出るかというのは結界の抜け方による。隙間妖怪の境界を操る力を利用した場合は任意の場所に出られるが、その他の方法だと決まった場所にしか行けないらしい。その内、もっともオーソドックスな方法というのが、幻想郷と外の世界との間に建つ神社を通るもので、当然外に出た場合は外にある神社の境内に行くことになる。

 

「ただし」

 

 とレミリアはポケットから顔を覗かせる妖精に語り掛けた。

 

「最初に最大の障壁を乗り越えなければならない。それが難しいのよ」

 

 まさに、問題はその神社なのだ。

 そこに居る巫女は、昨日レミリアを通さないとはっきりと言っていた。彼女のことだから、それはブラフでも牽制でも何でもなく、本心からの言葉だろう。酒の席だからと言って、そういう類の冗談を飛ばす人間ではないことは、よく承知している。だからこそ、あの神社は最初にして最大の障壁となるのだ。戦わなければならないのは、幻想郷きっての実力者であり、あらゆる妖怪を調伏する博麗の巫女であり、数多くの異変を解決してきたトラブルシュータ―。 

 

 神社へは最速で飛んだ。そうすれば、紅魔館からではものの五分と掛からず到着する。 

 鳥居はくぐらない。境内の中に地響きと砂埃を立てて吸血鬼は着地した。自分の来訪を告げるためのノック代わりの挨拶のつもりだったが、どうやらそれは不要だったようだ。すぐにどこからともなく霊力の混じった風が吹いて、もうもうと立ち込めた砂煙を持ち運んでいった。

 博麗神社の主人は既に待ち構えている。

 目の前に、拝殿を背にして立つ紅白の巫女。だらんとお祓い棒を持った腕を垂らし、一見すれば突っ立っているだけのように見える。けれど、よくよく観察すれば身体のどこにも無駄な力が入っておらず、さりとて脱力しきっているのでもない、いつでも攻撃態勢に移れる姿勢だというのが分かった。構えらしい格好はしていないけれど、真実構えというのはこういうものであると言える姿勢。一部の武術を極めた者にしか許されないはずのそれを、巫女は天性の勘で体得しているのだろう。

 

 ただし、そこに居たのは巫女一人だけではなかった。隣には白黒魔法使いの姿もある。箒を持った彼女も巫女と同じくレミリアを待ち構えていた様子だ。

 彼女は巫女と比べて傑出した人間というわけではないが、それでも異変の際には大妖怪にまったく怯まず渡り合える実力を持つ、自称「普通の魔法使い」だ。魔法が扱えるだけの人間だからと言って、甘く見ては痛い目に遭うだろう。

 

 異変解決屋が二人も揃っている。身体が少しだけ震え始めた。

 

「これはこれは。貴女たち二人で歓迎してもらえるなんて嬉しいわね」

「私の八卦炉で鍋しやがったって聞いたからな。美味しかったか?」

 

 いつものふてぶてしい勝気な顔で魔法使いが笑う。言葉の通り、口元は笑っていても目が笑っていなかったので、八卦炉が勝手に使われたのが気に食わないようだと思われる。鍋をしたのは霊夢であって、レミリアは相伴しただけなのに、何だか少し理不尽なような気がする。

 

「美味しかったわよ。でも、鍋をしたのは霊夢じゃない」

「一緒に食ったお前は同罪だぜ!」

 

 どうもつまらないところでつまらない恨みを買ってしまったらしい。魔法使いが隣の巫女を責めないのは非常に納得がいかないのだが……。何しろ、魔法使いから八卦炉を略奪して燃料代わりにしていた張本人なのだ。

 次に、今まで黙っていた巫女が自分のことは棚に上げてこう言った。

 

「あんたさ。私の酒、持って行ったでしょ」

「拝借したのよ。等価交換するわ」

「嫌よ。あんたをぶちのめして、あんたの酒を奪う」

 

 どうやら巫女の機嫌もすこぶる悪いようだ。咲夜と言い、魔理沙と言い、霊夢と言い、思春期の少女というのはすぐに不機嫌になって扱いづらいものである。お利口な早苗が如何に扱いやすいかがよく分かった。

 

「朝から二日酔いでさあ。腹の虫の居所が悪いのよね」

「だからって私に八つ当たり? そんなんだからこの神社は人も来ないんじゃない?」

「何ですってぇッ!!?」

「……って早苗が言ってたわ」

 

 レミリアは肩をすくめた。決して巫女の凄みが恐ろしかったのではない。たまに毒を吐く守矢の風祝が本当にそんなことを言っていたのだ。

 あいつ、しばく。と低く呟く霊夢の傍らで、魔理沙が立てていた箒を水平にして構えた。

 合図だ。

 

「まあ、そんなことはいいんだよ。取り合えず、お前を倒せばスカッとしそうだからな。遠慮なくやられてくれていいんだぜ」

「笑止! 人間風情が吸血鬼に吹いてんじゃないわよ」

「吸血鬼風情が巫女に吹いてんじゃないわッ!!」

 

 三人は同時に空に飛び立つ。魔理沙は箒に跨って、レミリアは羽を広げて、霊夢は身一つで。

 宵闇の空。夕日を遮る黒い雲。薄暗い神社。

 光が炸裂する。各々の弾幕が各々に光を放ち、辺りを明るく照らし出した。

 三人から撒き散らされる弾幕。スペル宣言のない通常弾幕で、ジャブのようなものだ。が、今まで何度も二人と戦ってきたレミリアも知らないパターンである。恐らくはまた新たにパターンを開発したのだろう。大雑把な性格の霊夢は気ままにパターンを作っているのかもしれないし、研究熱心な魔理沙はより洗練されたパワフルなパターンを開発したのかもしれない。二人の弾幕に対する姿勢は真逆だった。

 ただひと口に「弾幕」と言っても撒かれるのは言葉通りの「弾」ではない。それは膨大な数の御札と星。御札はその一つ一つに霊夢の霊力が込められた、妖怪には大変ありがたくない御札である。もちろん、一発でも被弾すればうんざりするほど激痛を味わされることになるだろう。その点で言えば魔力の塊でしかない星の弾幕は幾分か相手をするのが楽な対象だった。

 実際弾幕ごっこでばらまかれるのは「弾」以外にもこうした御札や魔力の星の他、針・ナイフといった武器・凶器の類から、米粒や花弁、果ては天井やらオンバシラといったどう見ても弾とは呼べないような代物まで何でもありである。ついでに言えば、弾は誘導弾も可能で、現に霊夢の御札にはホーミング性能が付与されていた。

 吸血鬼の膂力に任せて自機狙いで追尾して来る弾幕を速度で振り切る。同時に自分も魔弾を周囲に撒き散らし、襲い来る弾幕を迎撃しなければならなかった。そうでないとあっという間に被弾して地面とキスをさせられる羽目になる。

 ましてや相手は二人でこちらは一人。弾幕ごっこには人数を定めたルールはないとは言え、数で劣っているのなら不利になるのはどんな勝負事でも一緒である。特に、幼少の頃から仲の良かった二人のコンビネーションは抜群だ。結界を張るように御札が広く撒き散らされ、その間隙を星の弾幕が飛び交ってレミリアを狙う。個別に戦った時よりも圧倒的に戦いづらい。

 二人分なだけに、弾幕の密度が桁違いだ。通常弾幕でこれなのだから、スペルを発動されたらどうなることやら。

 だからレミリアは数的不利な状況で戦う際の定石を実行した。すなわち、各個撃破である。

 巫女と魔法使いの差を利用して二人を引き離し、まず魔理沙から狙う。二人の差というのが、飛行速度の違いだ。単純な速度なら霊夢よりも圧倒的に魔理沙が速い。それこそ、吸血鬼に比肩する速さで飛べるのだ。

 宵口の空を駆け巡るレミリアに追い付けるのは魔理沙。とにかく霊夢と引き離す。

 だが、そんなレミリアの思惑を打ち砕くように無情にもスペルが宣誓された。それも、二人同時に。

 

「霊符『夢想封印 集』!!」

「魔符『ノンディレクショナルレーザー』!!」

 

 辺りに無造作に撒かれていた御札が霊夢の周囲に収束していく。まるで鎧のように彼女を囲い、巫女の姿は御札に隠れて見えなくなってしまう。だが、これは防御のための技ではない。次の瞬間には、霊夢の周りの御札は次々とうねりを作りながらレミリアに向けて射出され始めた。

 一方、魔理沙の周囲には小型の魔法陣が複数展開され、その中心から色とりどりのレーザーが放たれた。友人の魔女が扱っている技を、魔理沙が模倣したスペルなので、この手のものの対処法はレミリアとてよく心得ているものだが、問題はそれが霊夢のスペルと同時に始められたということに尽きる。

 

 強烈なホーミング性能を持って迫り来る御札の津波と、文字通り「光の速度」で飛んで来るレーザー。第一撃は力任せに羽ばたいて急下降しながらかろうじて回避出来た。

 その代償としてレミリアは高度を失う。加速をつけ、鎮守の森の枝先を掠めながら飛び、背後から旋回して追跡して来る御札の弾幕を魔弾で迎撃する。迎撃不能なレーザーは機動で避けるしかない。

 可能な限り速度を出し、食らい付く御札から離れる。レーザーの射程外に出られると思ったのか、魔理沙が魔法陣を広げたまま追って来た。一方の霊夢は次々と御札を撒き散らしている。

 

 これで当初の狙い通り二人を引き離すことに成功しつつあるが、問題のスペルはまだ解除されていない。魔理沙のレーザーはともかく、霊夢が際限なく御札を追加するので、何重もの御札が波状攻撃を仕掛けてくる有様になっていた。到底自分の弾幕だけでは迎撃しきれるものではない。

 神社の周囲を大きく旋回しながら、前後左右上下からうねりながら襲い来る御札を注視する。ぎりぎりまで引き付けて急旋回で回避。だが、そうは問屋が卸さない。狙い澄ましたようなタイミングでレミリアの周囲を赤や緑のレーザーが囲み、視界と移動スペースを制限する。

 まるで檻のようなものだった。羽を捩じり、急激に身体の向きを変えてほとんど直角ともいえる角度で旋回しなければならなくなった。お陰でレーザーは回避出来たが、ホーミングする御札を避ける暇がなくなってしまった。

 まずいと思った時には反射的に身体が反応している。

 大きな爆発音が辺りに響き渡った。

 その正体は、瞬時にかつ大量に放出されたレミリアの妖力が霊力のある御札とぶつかり合い、拮抗した力が弾けた時の音。間一髪それで被弾は免れたが、代償は大きかった。速度も高度も失ったのである。空中戦においてそれは致命的な状態に陥ったということであり、追って来ている魔理沙からすれば、半ば止まったも同然なレミリアはこの上なく美味しいカモに見えることだろう。だから、慌てて森の中に避難しなければならなかった。

 

「うわッ!」

 

 案の定、チャンスを見付けた魔理沙のレーザーが目の前を掠め、思わず悲鳴を上げてしまう。枝や幹を蹴り、身体にぶつかる葉を弾きながら、木から木へ飛び移るように森の中を駆け抜ける。その間も上空を飛ぶ魔理沙は次々とレーザーを撃ち込んで来た。

 しかし、逃げ回っているだけではいつかやられてしまう。

 木々を蹴りながら再び速度を得たレミリアは、全力で羽ばたきながら空へと、暗幕に覆われたコロシアムへと飛び上がる。

 正面角度から二条のレーザー。

 羽を反らし、気流を操作して大きく円柱を描くようにロールする。直後に体を捻ってさらに角度をつけて上昇へ。急激な軌道変更に意識を持っていかれそうになる。肩や羽をレーザーが掠めて、チリリと痛みが走った。

 

「グレイズ稼げるわねぇ!!」

 

 痛みに負けぬように、強がって叫ぶ。

 弾幕は大きく幅を取って回避するより、ぎりぎりで避けた方が見栄えがいいとされており、そうした避け方を「グレイズ」と呼んでいた。上級者になれば弾幕に飛び込み、グレイズを稼いで“魅せる”ことが重視されている。

 

 目の前には箒に跨る魔法使いの姿。

 ほとんどぶつかるようにして突っ込んで来た吸血鬼を、人間の魔法使いは冷静に回避した。そのまま上空へと飛び抜けていくレミリアを、魔理沙は旋回して追跡する。

 

 

「来い。空戦の仕方を教えてやるわ!」

 

 夜空に紅魔が叫んだ。呼応するように魔法使いは加速するのが見えた。

 

 普段は明るく元気一杯で、強気なことばかり言っている魔理沙だが、その実とてつもない負けず嫌いでかつ大変な努力家であり、人には決して見えないところで努力を重ねる人間だということを、レミリアはよく知っていた。もちろん、彼女のそういう姿を直接に目の当たりしたわけではないが、研究を続ける魔理沙を見た者の証言や、あるいはレミリア自身が直接魔理沙と接して、彼女の技量がより高まって洗練されていくのを実感し、影で自己研磨に励む姿を垣間見たのである。

 そうであるが故に、魔理沙は努力を諦めない。強い者の背中を追い掛け、確実に自分の技術の向上に役立てようとする。その結果が彼女の魔法であり、弾幕であった。

 

 だがどうだろうか。今まで彼女に“空の飛び方”を教えた者は居ただろうか。努力家の魔理沙はきっと、我流で箒で飛ぶ方法を体得したに違いない。ならば、数多くの敵と空や地上で戦ってきたレミリアには敵わないだろう。

 どうすれば敵の攻撃を避けられるのか。どう動けば敵が惑わされて自分の前に来るのか。それらは実戦の中でしか鍛えられない類の技術なのだから。

 

 羽ばたきながら上昇して、大きくループ。だが、ループの頂点で体を翻して水平飛行に移る。

 逃げるレミリアを追う魔理沙。左に旋回すれば、同じように左に回り、右に動けば右に追う。その間もレーザーを撃ちながら、レミリアに肉薄する。二人は絡み合い、縺れ合い、夜空に複雑な軌跡を残した。風が耳を切り、唸りを上げて髪を搔き乱す。

 客観的に見ても、魔理沙はレミリアによく食い付いていた。箒というマジックアイテムに乗りながらも、速度と機動力で優る吸血鬼相手に一歩も引いていない飛び方を見せている。

 だが、空戦の仕方で言えばレミリアの方が何枚も上手なのだ。大きく左旋回する最中、意図的に身体を滑らせる。いわゆる「横滑り」という動きで、魔理沙が思い描いているものとは違う軌道の描き方をする。

 レミリアが不自然に高度を下げ始めたことに気付いた魔理沙が、自分も箒の柄の先を少し下に向けて追随しようとした瞬間、吸血鬼は不意に高度を上げた。

 加速のまま勢い余って魔理沙はレミリアの足元を飛び抜けてしまう。それこそが狙いだった。

 

 綺麗にはまったわね。

 レミリアはほくそ笑んだ。まんまと魔理沙の背後を取った形だ。後は後ろから撃ち放題。

 しかし、

 

「ああ、もう!」

 

 そのタイミングで襲って来たホーミング弾幕に、苛立ちの声が飛び出した。レミリアが魔理沙との空戦に夢中になっている間に霊夢が追い付いたのだ。

 即座に手元で三本の小さな矢を妖力で形作り、追い掛けて来た御札の弾幕に投げ付ける。霊夢自身の移動速度も、放たれる弾幕の速度も、どちらも吸血鬼のレミリアから見れば止まっているように遅い。だから、速度で逃げてしまえばいくら精度の高いホーミング弾幕とて恐れる必要はなかった。

 とはいえ、霊夢に意識を割かれたことが良くなかった。

 その隙に体勢を立て直した魔理沙が、今度はレミリアに向かって突っ込んで来たのだ。

 

 さっきのお返しというわけか。

 売られた喧嘩を買う。加速して魔理沙を迎え撃つ。

 魔法使いは虹色の星の弾幕を、レミリアは赤いクナイ弾を。それぞれ全周に撒きながら、正面へ突撃する。

 魔理沙は避けない。レミリアも避けない。

 二人が交錯する瞬間、不意に吸血鬼の方が軌道を変えた。

 

 直後、二人の間を飛び抜けていく陰陽玉。

 

「無粋だぜ! 霊夢!!」

 

 魔理沙が初めて友人に抗議の声を上げた。

 

「うるさい! あんたばっかり」

 

 どうやら霊夢は置いてけぼりにされたことが気に入らないようだった。さらに二つ、三つと陰陽玉を飛ばし、さらに御札もばら撒いていく。

 これで再び二対一。またレミリアは逃げるようにどんどんと高度を上げていく。二人がすぐに後を追って来るが、今度はスペルがない。ホーミングする御札も、色とりどりのレーザーも、スペルが時間切れしたからなくなったのだ。お陰で随分と楽になった。

 

 レミリアはある程度高度を稼ぐと、身体を翻して下降に転じる。それも、ほとんど垂直と言えるような急降下だ。

 そのまま真っ直ぐ落ちていくのではなく、羽を捻って空力操作を行い、円筒の内側をなぞる様に大きく回る。正面から飛んで来た陰陽玉を躱し、レミリアが向かう先は魔法使い。妖力の矢を構えると、魔理沙は慌てたように身を翻した。

 だがそれはブラフ。レミリアとすれ違った霊夢と、旋回した魔理沙は離れてしまう。急降下の惰性で急上昇に転じると、レミリアを見失ったであろう魔法使いを下から狙う。

 

「魔理沙!!」

 

 霊夢が叫んだ時にはもう遅い。手に持ったままの矢を投げ付けると、それは魔法使いに直撃して彼女は悲鳴を上げた。

 もちろん手加減した一撃だ。その証拠に魔理沙はバランスを崩し掛けたものの、吹き飛んだりはしなかった。箒に乗ったままふらふらと高度を下げてやがて森の中に突っ込んで姿を消してしまう。本気の一撃なら、今頃彼女は血の華になっていただろう。

 

「あーあ。やられちゃった」

 

 霊夢が少しだけ残念そうに呟いた。レミリアは空中で巫女と向かい合う。

 

「これでやっと本命と戦えるわ」

「お遊びは終わりってわけ!? いいわよ、ぶっ飛ばしてあげる!」

 

 やたらと好戦的な言葉の端々に、自分が負けるわけがないという自信が垣間見える。

 彼女はレミリアを舐めているのではない。彼女の種族は人間で、レミリアは吸血鬼。吸血鬼は人間よりずっと力は強いが、霊夢は「博麗の巫女」という唯一無二の力を持つ。それは妖怪を屈服させ、調伏し、時に葬る力。彼女が今手に持っているお祓い棒も、ただの細い小枝の棒と侮ってはならない。軽く叩かれただけでも妖怪であるレミリアにとっては強烈な一撃となり、しばらく痛みに呻くことになるだろう。

 霊夢は強い。まともに戦えばレミリアと言えども負ける。

 今まで五百年生きてきた中で、何度も戦争を経験し、幾多の強敵と渡り合ってきたが、真剣勝負で霊夢に勝てる気がしない。どんな攻撃も“勘”で避けられ、どんなに避けても“勘”で当てられる。ガードしたところで、霊力の込められた一撃を喰らえば、それだけで場合によっては致命傷となりかねない。

 だからレミリアに限らず妖怪たちは皆、心の何処かで巫女「博麗霊夢」を恐れている。分け隔てない人間「博麗霊夢」を慕っているのは、実はその恐れの裏返しなのだ。恐ろしいから仲良くして身を守ろうというのではなく、恐ろしいからこそ興味がそそられ、心が惹かれるのである。少なくとも、彼女と酒を呑むことを厭う妖怪は居ない。

 

「お子様は帰る時間よ。こちとら飯の前なんだからさっさと撃墜してやるわ!」

「お前よりずっと長生きしてるんだよっ!」

 

 

 再び衝突。

 両者ともに堰を切ったように弾幕を展開する。

 紅魔からは真紅の魔弾が、紅白巫女からは無数の御札が。空間を埋め尽くし、交差し、衝突し、弾けて閃光を放って霞へと消える。互いが射出する弾幕は、相手の弾幕とぶつかり合って相殺され、二人の中心で色とりどりの光の壁を作り上げていた。

 もしこれが異変なら、霊夢は最初のステージのボスに当てはめられるだろうか。理不尽なくらい強い一面ボスだ。

 少し前の異変の時には、異変解決者たちを最初に迎え撃ったのが西行寺の亡霊だったという。彼女自身は異変に関わっていなかったので完全に暇潰しの余興だったらしい。それも大概だと思うが、結構本気の巫女とは比べるべくもないだろう。こんな大盤振る舞いな一面ボスなんて今までになかったに違いない。まず、弾幕の密度からして初戦の相手ではない。

 

 彼女は今、異変解決モードすなわち「博麗の巫女」として戦っている。

 もちろん、「博麗の巫女」という特殊な立場であったとしても、霊夢は所詮一介の人間でしかない。ただ、あくまで人間の少女として弾幕ごっこをする霊夢と、「博麗の巫女」として弾幕勝負をする霊夢は別物と考えるべきだろう。何よりも霊夢自身の意識が違うのだ。その差は如実に現れ、例えば弾幕の密度であったり、例えば一撃の威力であったり、例えばホーミングの精度であったり、例えば“勘”の鋭さであったり……といったところが違ってくる。

 今までレミリアが異変解決モードの霊夢と対峙したことは何度かある。初めて顔を合わせたのが、忘れもしない紅霧異変。霊夢は異変解決者としてレミリアの本拠である紅魔館に乗り込んで来て、それなりに本気で戦った紅魔を容赦なく叩き潰してくれた。その後も永夜異変や、神社が倒壊した時の騒動など、「巫女としての」霊夢とは何度か手合わせをしてるが、いずれの場合も彼女の強さは別格だったと記憶している。そしてどうやら今回も同じらしかった。

 

 

 

「ちゃっちゃと終わらせるわよ。

神霊『夢想封印 瞬』!!」

 

 

 巫女が叫ぶ。通常弾幕の御札が消え、紅白の衣装が暗幕の下を駆け出した。

 ぶれる霊夢の姿。残像を引きながら、彼女は高速で飛び回り始めた。

 いくら速く飛べても、霊夢も所詮は人間である。数里の距離を一瞬にして飛び抜ける吸血鬼の動体視力に捉えられぬわけがない。実際、霊夢より余程移動速度の速い白黒魔法使いの姿は、彼女がどんなに速度を出してもはっきりとレミリアの目には映った。

 ところが、今の霊夢はどうだろう。レミリアの目にさえ姿が幾重にも重なり、残像を引いて飛んでいる。

 ただ単純に速いのではない。小刻みに、高頻度で近距離の瞬間移動を繰り返しているのだ。それが結果的に軌跡上に連なる無数の残像という形で視認されている。

 

 もちろん、逃げ回るだけのスペルではない。時折霊夢は動きを一瞬だけ止め、膨大な数の御札と光弾を全周に撒き散らしていく。

 御札は無誘導で空間を埋め尽くして飛んで行くものと、「夢想封印 集」のようにレミリアを狙って収束するものがある。霊力を固めて作った光弾はとんでもない速度でレミリアを追跡して来た。

 まず、光弾を赤いクナイ弾で迎撃する。クナイ弾はレミリアの妖力で自分自身の血液を固形化させたもので、弾幕としてばら撒く弾の中では一番威力が高いものだ。逆にそうでなければ霊夢の光弾を相殺することが出来ない。生半可な攻撃ではこのスペルを凌ぐことは叶わない。

 そもそも、「夢想封印」という技は霊夢が持つ博麗の力を弾幕に応用しているものだ。基本的には妖怪の苦手な霊力を元にして弾を作り出しており、被弾でもしようものなら瞬く間に伸されてしまう。

 その博麗の力を基礎にして、霊夢はいくつかのバリエーションを編み出していた。それが「集」であったり「散」であったりするわけだが、この「瞬」はそれらの内で最も強力な弾幕技だと言えた。

 特殊な移動方法によって逃げ回る霊夢にこちらの弾を当てるのは至難の業。上手くタイミングを合わせないといけない。その上で、機動を制限する無誘導の御札と、確実にこちらを仕留めようとする誘導性の御札や死角を突いてくる高速の光弾を躱さなければならないのだ。上級者でさえ簡単に被弾する凶悪極まりない弾幕である。

 

 逃げる霊夢と追い掛けるレミリア。しかし吸血鬼は自身も鋭い機動でホーミングする御札や光弾から逃げなければならなかった。

 二人は交差し、絡み合いながら神社の周辺を飛び回る。

 遮二無二ばら撒かれる弾幕は、鬱蒼と生い茂った鎮守の森に降り注ぎ、小枝や葉っぱを散らし、腐葉土の地面に小さなクレーターをいくつも作り出していた。激しい弾幕争いに驚いた鳥や小動物たちが慌てて逃げ出す間にも、二人は空を駆け巡った。

 レミリアは全速力だ。天狗に勝るとも劣らない速度が既に出ている。だというのに、瞬間移動を繰り返す霊夢との距離は一向に縮まる気配を見せなかった。

 唯一のチャンスは彼女が弾幕を放つために動きを止める一秒にも満たない時間。

 吸血鬼の反応速度ならそれでも十分だが、しつこく追撃する御札と光弾のコンボがそれを許さない。

 実によく出来た技だ。

 移動中の本人には当てられず、チャンスと思しき一瞬をホーミング弾が潰し、先回りを阻止する文字通りの弾幕まで展開される。正攻法ではまず勝ち目は見出だせそうにない。

 

 だからこそ、反則的な一手が効果を発揮する。

 

 

「紅符『不夜城レッド』!!」

 

 両手を広げ、たがを外すように一気に妖力を開放。風船を膨らませるかのように急激に膨張させていく。が、風船と言うほど空虚なものではなく、どちらかと言えば爆発で生じる火球に近い。高密度のエネルギーの塊であり、有り余った妖力の一部が光に変換され、レミリアの全身を真紅の閃光が包む。

 そこに飛び込むホーミング弾幕。霊力で作られた妖怪には不得手なそれを、ただ力任せに放った妖力で強引にねじ伏せる。周辺に散布されていた無誘導の御札まで、妖力で弾き飛ばした。

 弾幕を剥ぎ取られた霊夢が再び展開させようと動きを止める。

 訪れた千載一遇のチャンス。右手に魔力を充填し、指向性を持たせて一つの形を作り上げていく。

 

「必殺『ハートブレイク』!」

 

 それは槍の形をしていた。本来は作った途端に射出する魔弾をその場に留めて錬成したのがこの必殺の心槍。

 しかし、作ると言ってもそれは吸血鬼の持つ速度で成されるわけで、普通の人間の目では到底捉え切れるものではない。レミリアは大きく振りかぶり、今まさに新たなホーミング弾幕を展開しようとしていた霊夢に投げつける。

 空間を引き裂き、紅い光線を残して霊夢に向かう槍。

 派手な爆音がして大量の御札が辺りに飛び散った。レミリアは煙の残る爆発点を迂回して突進する。

 案の定、そこに巫女の姿はない。やはり“勘”付いて御札弾幕を犠牲に槍の攻撃を防ぎきって逃げたようだ。

 相も変わらぬ楽園の不思議な巫女に、紅魔から苦笑が漏れた。

 簡単にはやられてくれない。背後から気配を感じ、再度手の中で槍を作りながら振り返った。

 

 

 宵口の空に舞う紅白の蝶。

 

 ひらひらと巫女装束が風に流され、宙を揺蕩う。分離した袖や、広がりのあるスカート、髪を結ぶ大きなリボンやもみあげの飾りなどが気流を受けて動くものだから、霊夢の姿はどこに居ても目に入る。彼女は今、両手を左右に広げ、目を閉じて歌うように口を開け、霊力を開放している。

 どこに隠しているのだろうか。袖口から雪崩れるように御札が飛び出し、輪郭がぼんやりと発光する身体から光弾が生み出される。

 

 

 再び「夢想封印 瞬」。

 厄介なホーミング弾幕に捕まる前に、レミリアもまた槍を投擲した。

 槍と御札がぶつかり、中空に大きな花火が出現する。

 その直前、弾幕の背後で霊夢の姿が消えたのを視認した。

 

「うざったいわねぇ!!」

 

 どこからともなく悪態を吐く巫女の怒声が聞こえてきた。

 振り返るレミリア。背後の上空には紺色の暗幕が広がっているだけ。

 しまった、ブラフか! と気付いた時には気配が迫っているのを感知した。

 かろうじて首だけを回して連続瞬間移動で肉薄する霊夢の姿を捉える。その手には大きな御札が何枚も握られていて、気付いた時には彼女はそれを投げ放っていた。

 全力を込めて羽で空気を叩き、姿勢を変える。

 顎の先を御札が掠めて飛び抜けていった。グレイズしただけでも走る鋭い痛みに顔が歪んだ。

 

「チッ! 避けんな!」

「無茶言わないでよね!!」

 

 口の悪い巫女に叫び返して、レミリアは一旦彼女との距離を置く。そうしなければ、ただ力任せに振るわれた暴力的な蹴りの一撃の餌食となっていただろう。

 吸血鬼相手に人間が肉弾攻撃を仕掛けるなど普段なら一笑に付すところだが、生憎霊夢の攻撃はすべて霊力充満なので喰らえば笑い事では済まなくなる。彼女が妖怪退治を生業とし、強者・猛者ぞろいの大妖怪たちから軒並み一目置いかれている理由はこれだ。

 近接格闘戦で挑んでも簡単には負ける気はしないが、逆を言えばその程度の自信しかないわけで、肉弾戦には滅法強い吸血鬼でもこの巫女のリーチの範囲内で戦うのは少々危険が過ぎる。だから、レミリアはあくまで射撃による撃ち合いを優先した。

 またぞろ霊夢の姿が消える。が、レミリアは焦らない。動きは読めている。振り返るといくらか離れた空中に紅白が舞っていた。

 心槍のスペルはまだ続いている。口の中だけで呪文を高速詠唱。

 レミリアの周囲に現れる五つの紅い魔法陣。

 

「Enemy shrine maiden is in sight! Open fire!」

 

 手を伸ばし、前方で両手を広げる巫女を指差す。

 魔法陣からぬっと姿を現す五本の心槍。

 

「Fire!!」

 

 合図と共に五本の槍が射出される。

 同時に巫女の身体から淡い青色に光る立方体の結界が展開された。その内側で、袖口から無尽蔵に御札が流れ出し、弧を描いて飛来する。

 空間を切り取るように拡大する結界と五本の心槍が衝突。だが、博麗の力そのものとも言える強力な結界に、心槍は粉砕されてしまう。結界の表面だけで爆発四散した槍は霊夢の御札攻撃を防ぐことが出来なかった。

 

「Fire! Fire!! Fire!!!」

 

 迫り来る結界と御札を避けるため、レミリアは上空へと飛び上がる。展開した魔法陣も背負われるように一緒に動き、再びそこから槍が放たれた。

 レミリアが動いた時には、霊夢ももうその場には居ない。彼女は少し先を飛んでいる。

 拡大していた結界が消滅し、濁流のような勢いで御札がうねりながら襲い掛かって来た。それをもう一度槍で迎撃しながら再び追撃戦に移行する。

 霊夢は動きを止める度に結界と御札を展開し、打ち破る術のないレミリアは槍で御札を撃破するしかなかった。

 このままではジリ貧だ。いっそのこと耐久勝負に出て霊夢の疲労を待ってもいいが、生憎レミリアには時間があまり与えられていない。妖精の伝えた危機、つまり深海棲艦の手が赤城に伸びているというのが本当なら、一刻も早くここは突破しなければならないステージだ。

 それに、耐久勝負というならそれこそ霊夢の十八番である。何しろ、彼女にはあの隙間の大妖怪でさえ手の出しようがなくなる無敵の技があるのだ。時間制限付きでもそれを使われたら本当にレミリアには打つ手がなくなってしまう。ならば、このまま彼女が「夢想封印 瞬」を続けている間に勝負を着けるべきだ。

 

 狙いは結界が消え、新しい結界を展開するまでのわずかな合間。御札による攻撃を防ぎつつ、霊夢へ一撃当てる必要がある。

 離れれば攻撃が当たらない。さりとて近付き過ぎれば御札の餌食となる。

 

 いや、あるいは……。

 

 

「Spell break!」

 

 レミリアは一度叫んで心槍のスペルを消す。

 同時に展開出来るのは一度に一つのスペルのみだ。新しい技を使いたいなら、今ある技を一旦消さなければならない。それは明確なスキを生み出すことを意味していた。

 霊夢がまた新たに結界を展開する。御札の弾幕も、だ。

 槍による迎撃がなくなったなら、御札の弾幕は別の手段で防がなければならない。

 足元に妖力を集中。「不夜城レッド」の応用で、溜め込んだ力を指向性を持たせた爆発力に転換する。

 盛大な爆音が轟いた。衝撃でロケットのように打ち出されるレミリアの身体。

 飛び出す先は霊夢の頭上だ。

 普通に追い掛けても瞬間移動する巫女には追い付けない。ならば、もっと強力な加速で一気に距離を詰めてしまえばいい。後は、自慢のスピードで巫女の頭上を維持し、頭を抑えられよう。

 当然のごとく御札の弾幕が追い掛けて来る。ただ、今は弾幕パターンを少し変えたためか、高速でホーミングする光弾がない。その代わりに結界が展開されているので、霊夢としては防御と攻撃を兼ね備えた弾幕を張っているつもりなのだろう。実際、先程のパターンより厄介だとは感じている。

 だからこそ、もうひと工夫が必要になっていた。

 

 レミリアは吸血鬼である。故に、自分の体を無数の蝙蝠に変化させられる。

 霊夢の頭上を傘を広げるように真っ黒な蝙蝠の群れが覆う。その一匹一匹がレミリア自身であり、当然弾幕を放てる。

 数による面的制圧。スペルでも何でもない、ただの通常弾幕である上、威力はお世辞にも高いとは言えないが、御札を迎撃しつつ霊夢を押さえ込むには十分事足りた。

 彼女の頭上を覆い、雨あられと弾幕を降らせる。

 巫女は癇癪を立てて何事かを喚いた。彼女は結界を消し、再度弾幕のパターンを変更する。

 御札をばら撒きつつ、霊夢の周辺に色とりどりの光弾が浮かんだ。その一つひとつがおそらく霊力の塊だろう。元々、「夢想封印」といえばこの霊力の光弾をホーミングさせる弾幕のことだった。

 

 あの短気でがさつな性格の霊夢なら、鬱陶しい攻撃は手っ取り早く消し去りたいと思うだろう。気長に持久戦なんて、自分の能力に合致する技があっても彼女の性分にはそぐわないものだ。

 だが、だからこそ計算された攻撃には弱い。“勘”に頼ってばかりで頭を使わないから、ひねりの効いた不意打ちには対処出来ないのだ。

 

 

 ここらで一つ、彼女の知らない新しいスペルを使ってみようと思う。

 

 

 

「発艦『艦上偵察機彩雲』!!」

 

 

 

 蝙蝠になったまま、レミリアはスペル宣言を行う。

 今まさに光弾を放とうとしていた霊夢の懐に、一つの影が飛び込んだ。

 それは、この幻想郷には元より存在しない機械。濃緑色の機体に、赤い日の丸が描かれている。もちろん、操縦しているのは赤城の妖精である。

 これこそがレミリアが蝙蝠弾幕を展開した理由だった。最初から妖精とその乗機をいかにして使うかを考えていたのである。蝙蝠弾幕に紛らせれば、そして攻撃で霊夢の意識を反らせれば、それこそメイドが使う技ではないが、ミスディレクションを誘って彩雲を射出出来る。

 本来は艦上偵察機として運用されるその飛行機は、深海棲艦の迎撃を振り切るくらい俊足で、攻撃に意識を割いて動きを止めている霊夢の不意を突くには足りるくらい俊敏であった。無論、光弾を躱して目の前に現れた飛行機に霊夢は驚き、目を丸くする。

 ただし、彩雲には元々攻撃能力がない。あくまで偵察用の機体なので、非武装が基本である。足は速いが、逆を言えばそれだけしかない。

 

 ところで、彩雲には一匹の蝙蝠が引っ付いていた。弾幕に紛れて発艦する中で、さり気なく機体の後部に飛び付いて霊夢の前まで「乗って」来たのだ。

 

 驚く霊夢の目前で、蝙蝠は彩雲から離れる。

 

 

「このっ!」

 

 気付いた霊夢が防御のために持っていたお祓い棒を咄嗟に振るう。だが、人間の反応速度など、吸血鬼には止まっているようなものだ。

 そして、レミリアは蝙蝠一匹あればそこから復活出来る。

 白い、小さな子供の指が巫女服の襟を掴んだ。まずは蝙蝠を右手に戻し、そこに上空で展開させていた他の蝙蝠を引き寄せる。手首、肘、二の腕、肩、首元の順に徐々に身体を再生、押し寄せる蝙蝠の圧力で霊夢を押し込んだ。足場のない空中で、物理的な圧力に対して霊夢は抗う術を持たない。

 だから、目の前で抱きつくように現れたレミリアを霊夢は思わず受け止めてしまう。吸血鬼は体重をかけて密着したまま神社の境内へと突っ込んだ。

 

 

 着地の衝撃でもうもうと砂埃が立ち込める。

 

 レミリアとしては、霊夢の体に衝撃が伝わらないように上手く着地したつもりだ。しかし、巫女は痛そうに顔をしかめて小さく呻く。

 ひどい怪我をしたようには見えないので、どこかを打ち付けて痛いだけなのだろう。痛みに耐えつつも、馬乗りになった格好のレミリアをしっかりと睨んでいる。

 弾幕は消滅した。後から彩雲が小さなプロペラ音を響かせて心配そうに頭上を旋回し出した。

 

 

「こすい手を使うじゃない!」

「ちゃんとスペル宣言はしたわよ」

「……チッ」

 

 巫女は盛大に舌打ちする。その目が「早くどけ」と言っているので、レミリアは素直に彼女の上から離れた。

 立ち上がろうとする霊夢に手を伸ばすと、「ありがと」と礼を言いつつ彼女は手を借りた。

 

 弾幕ごっこは終わり。夜空を彩っていた無数の光はすべてなかったかのように溶けて消えた。

 霊夢は両手で服に付いた土埃を払う。「はあ。もう、ご飯の前だっていうのに。先にお風呂入ろっかな」というボヤキが、彼女が異変解決者ではなく年相応の少女に戻ったことを表していた。

 それから彼女は顔を上げてレミリアをぴたりと見据える。

 レミリアもまた霊夢を見詰めた。

 すっかり辺りは暗くなってしまっているので、夜目が効く吸血鬼はともかく、人間である霊夢には目の前に居るレミリアの顔さえはっきりとは分からないだろう。だというのに、霊夢は少しだけ笑ってこんなことを言った。

 

「やっと、いい面構えになったじゃない」

「いつもそうでしょ」

「アホか! 昨日のあんたの顔といったら、酷いもんだったわよ。一瞬どこの誰だか分かんなかったわ」

「そんなに?」

「そうよ! 色々あったのは知ってるけどさ、外から戻って来てもずっと家に籠ったまんまだし、出て来たと思ったら一人でふらっとやって来て、しかも思い詰めた顔してんの。何事かと思ったわよ」

「それは悪かったわ」

「……うん。でも、もう覚悟決まったみたいね」

「ええ。ありがとう。世話を掛けたわ。後は、外に出ることを考えなくちゃいけないんだけどね。八雲の奴を説得して」

「必要ないわ」

 

 霊夢はにんまりと笑った。レミリアは首を傾げた。

 はて、昨日彼女は自分に決定権はないと言っていたはずだ。レミリアがもう一度外に出るには、結界の管理者である大妖怪に直談判しなければならないはずである。

 しかし、霊夢は言い切った。

 

「弾幕ごっこよ! あんた、私たちに勝ったのよ!

こうやれば正解でしょ。博麗の巫女をぶっ飛ばして行くんだから。紫の奴だって、あんたんとこの手下だって、あるいは他の連中だって、みんなあんたが本気だってことを理解するわ。これだけで、あんたの覚悟は周りに十分伝わる。うじうじ悩んで、回りくどいことをするよりよっぽど分かりやすいわ!」

 

 ああ、そうだ。

 レミリアは得心する。霊夢の言っていることの意味が分かったのだ。

 弾幕ごっこ――正式名称「命名決闘法」。

 

 この決闘法によって負けた者は勝った者の言うことを聞かなければならない。幻想郷で最も一般的に用いられている紛争解決手段である。それ故に、レミリアが己の都合を優先させるのに最も優れた手段でもあった。命名決闘法において勝負に勝ったという事実は、この郷では大きな権威を持つのだから。

 

「そうだね。こいつは名案だ。本気で戦ってくれたことにも感謝してる」

「当り前じゃない! 博麗の巫女、舐めんじゃないわよ」

 

 その時、不意に神社の境内を囲む茂みがガサガサと揺れ、魔法使いが姿を現した。森の中に不時着した彼女は、全身に小枝や葉っぱを引っ付けた状態だ。「ひどい目に遭ったぜ」とボヤく割りに、口ぶりはどこか嬉しそうに弾んでいる。

 

「あら、おかえり」

 

 霊夢が迎えると、魔理沙は山高帽子に付いた葉っぱを払いながら「ただいまだぜ」と答えた。

 

「勝負あったみたいだな」

「ええ。魔理沙も、ありがとう」

「気味が悪いくらい殊勝な言葉だな」

 

 憎まれ口を叩く魔理沙に、レミリアは苦笑する。彼女のことだから、きっと霊夢の案に二つ返事で乗ったのだろう。

 

「まあ、私は八卦炉を取り返すついでだからな」

 

 上着に引っ掛かっている小枝を摘まみながら、魔理沙は笑う。持つべきは良き友人だ。

 

「それよりさ。先にお風呂入っちゃわない?」

「お。そうだな。すっかり泥だらけになっちまったからな。久しぶりに一緒に入ろうぜ」

 

 二人は仲良さそうに頷き合うと、そのまま社務所の方へ向かって行こうとする。だから、レミリアは慌てて呼び止めた。肝心なことを忘れてもらっては困る。

 

「待ってよ!」

「あ、そうだった。もう行けるわよ」

「あら? そう……。さすが、仕事の早い巫女だけあるわね。その調子で、結界の維持管理、頑張って」

「うっさい。早く行け」

 

 そんな捨て台詞を残して霊夢は魔理沙と共に拝殿の影に消えていった。つい先ほどまで吸血鬼と互角に渡り合っていたとは思えない、少女らしい姿だった。

 

 レミリアはまだ頭上を飛び回っていた彩雲に手を伸ばし、引き寄せる。

 赤城のように艤装の飛行甲板に着艦させることは出来ない。なので、飛んでいる飛行機を直接手で掴み取った。

 

「ご苦労さん。貴方のお陰で勝てたわ」

 

 礼を言うと、コクピットから這い出してきた妖精が得意げに胸を張った。「それじゃあ行きましょう」と声を掛けて、レミリアは一歩踏み出す。

 ところが、すぐに足を止めることになる。

 

「あー! レミリア! まだ居るぅ?」

 

 行ったはずの霊夢の声が聞こえた。見えないだけで、どうやらまだすぐ近くに居るらしい。あるいは、戻って来たのか。

「居るわよ!」と叫び返すと、すぐに返事が来た。

 

 要件はつまり、

 

「お賽銭よろしくねッ!」

 

 レミリアは妖精と顔を合わせ、煩悩まみれの巫女に苦笑を浮かべる。話をよく理解していない妖精はキョトンとした表情だった。

 仕方ないわね、とため息を吐き、ぱちんと軽く指を弾いた。

 賽銭箱の上から数枚のコインが降って、軽やかな音を立てながら箱の中に落ちる。音を聞く限り、木と金属がぶつかりあったような感じしかしなかったので、相も変わらず賽銭箱の中はすっからかんだったようだ。

 もちろん、入れたコインは本物。物質創造なんて大層なものではなく、ただ単に家にあったコインを魔法で転送させただけである。財布を持って来ていなかったからだ。

 帰ったら台帳に「お賽銭」という名目と金額を書いておかないといけない。そうでないと咲夜に怒られてしまうのだから。

 そう考えながら、レミリアは止めていた足を踏み出した。

 

 

 




サブタイトルは原曲ではなく、某アレンジからです。

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