レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督31 Into the Dusk Horizon 2

 曳行索に繋がれ、曳行艦の進むがままに立位で引っ張られるのは中々に間抜けな絵面だなと金剛は自嘲した。それもこれも、敵の戦艦から集中砲火を浴びたせいだが、味方が被弾しなかったのでまあ良しとする。

 実際のところ、金剛は航行艤装にそれほどダメージは受けていなかったので、今の川内の速度程度なら自力でも出すことは可能だった。ただ、仲間が曳行することを強制したし、そっちの方が傷んだ体には優しいという理由で引っ張られるままになることを選んだのだ。決してこちらの方が楽だから、などという情けない理由ではない。

 

 川内が味方と交信する無線を聞きながら、金剛は予想通り“最悪な”状況に置かれていることを認識する。

 敵の主力は未だ距離があるが、主体は航空戦力なのでこうして空襲を受けている以上、到達を許していると言うべき状況であった。鎮守府には既に相当の被害が出ており、死傷者続出、防御陣地の構築もままならず、それどころか市街地にまで爆撃は及びつつあるという。さらに悪いことに、鎮守府の司令部との連絡が途絶え指揮系統が混乱していた。退避中の「硫黄島」にも攻撃が始まっているとのことだ。

 

 

 以上が、川内と交信していたAWACSの管制官が早口で捲し立てた内容だった。もちろん、そんなことは言われなくとも見れば明らかである。金剛の眼前にある見慣れたはずの景色は変貌し、慣れ親しんだ鎮守府は至る所から巨大な黒煙を空に噴き上げ、その下には時折ちらちらと真っ赤な炎が揺れているのが見えた。大気は熱気で歪められて揺れ、絶え間なく続く爆発音による空震を肌で感じる。

 空は敵の航空機で埋め尽くされていた。それらは基地への爆撃に執心しているようで曳行される金剛には見向きもしないが、あそこに戻るということは爆弾の雨の中に飛び込むもことを意味していた。

 しかし、戻らねばならないのも事実だ。大破して轟沈寸前の金剛には喫緊で修復材が必要だった。

 

 

 危険は承知の上。元より命の保障がある仕事ではない。今日生きていることが明日も生きていられることの根拠には成り得ないのが艦娘という身分であった。まして、碌な対空砲も持たぬ金剛と川内では艦載機に狙われたらひとたまりもない。

 ただ、不幸中の幸いというべきか、金剛はどうしてか中々悪運が強い方だった。今日まで生き永らえてこれたのもそうだし、敵の第一波がちょうどのタイミングで引き揚げ始めたのもそうだ。どんな軍勢も補給を必要とするし、それは深海棲艦であっても変わらない。一通り爆撃を終えた敵機は次々と上昇していき、自らの母艦の元へ戻りだしていた。

 

「運がいいね」

 

 空を見上げながら川内は小さく笑った。自らに訪れたささやかな幸運を歓迎している様子だ。同時にそこには「こんな幸運ではどうにもならない」という諦めも含まれているようにも見える。

 

「神に、感謝するネー」

「これで生き残れたら一回くらいはお賽銭入れに行こうかな」

「神を一番信じてなさそうなのによく言うワ」

「まあね」

「でも、悪魔は信じてる」

 

 川内は振り返った。その顔には特にこれといった感情は浮かんでいなかったが、直感的に、まだ怒っているんだな、とは思った。それもそのはず、金剛も彼女とは和解した覚えがない。

 

「そういう契約だから」

 

 平然とした川内に金剛は思わず乾いた笑い声を上げた。契約。契約ときたか。

 

「このご時世、悪魔に魂を売ったなんて大マジメにぬかすヤツが居るなんて。対価に何を得たの?」

 

 これが生きて川内と顔を合わせる最後の機会かもしれないと思うと、言葉は自然に出て来た。

 彼女とこうして話すのは今までもそう何回もあったことではない。レミリアのことで対立する前から別段仲が悪かったわけではないが、さりとてよく喋る関係であったわけでもない。川内は軽巡だけあって行動を共にする駆逐艦たちと仲が良かったし、金剛は最先任・最古参という肩書もあって他の艦娘は一歩引いた態度で接するのが常だった。

 今更それについて思うこともないが、だからこそ川内と二人きりで話す機会など今まで滅多になかったので、この際だからという気持ちが生じたのだろう。そしてそれは川内とも少なからず共通した考えだったらしい。

 

「希望、かな」

「希望? そう。じゃあワタシは希望を追い出してしまったわけ」

「そうだね。やってくれたと思ったよ」

 

 そう言って川内は悪ガキのような無邪気な笑みを浮かべた。彼女にしては珍しい、というより金剛の見たことのない表情だった。こんな顔も出来たのかと思わぬ感慨を抱いてしまう。

 

 

 軽巡の経歴は金剛も聞き知っているところである。夜襲専門の遊撃部隊。それも、脱走した仲間を追う督戦任務も含まれている特殊な部隊だったはずだ。

 その難易度もさることながら、常に緊張に身を置き続けなければならないような立場にあっただろう。時には深海棲艦に向けるべき砲魚雷を同じ艦娘に向けなければならなかった。それは心を殺さなければ全う出来ない類の任務であろう。

 そうした環境が、川内の中から何か大切なものを奪い去っていったのは想像に難くない。実際、この鎮守府に彼女が異動して来た頃は酷いもので、まなこは「死んだ目」という表現がこれ以上ないくらいぴったり。何に対しても斜に構えていて、精神の荒み具合も尋常じゃなかった。ましてやトラウマを抱え込んで、かつての部隊を半ば追い出される形でやって来たのである。

 しかし、着任してからの五年という歳月は川内の傷付いた心を修復させるのにはある程度意味のあった時間だったのだろう。月日が経つに連れ彼女は落ち着き、因縁のある四駆の二人が来たこともあって人間らしさというものを取り戻していったように思う。

 

 

 

 金剛は最も古い艦娘だ。必然、今まで多くの艦娘を見てきた。

 信念をもって戦う者。戦果を誇りにして軍役を使命と捉える者。戦うことを仕事と捉え淡々と任務をこなす者。

 

 しかし、誰しもそのような強い心の持ち主ばかりではない。中には挫折したり、心を壊したり、逃げ出す者も居た。着任したばかりの川内は、金剛の目には“長くはもたない”ように見えた。彼女は心を壊しかけていて、それが完全に崩壊してしまうのは時間の問題のように思えたのだ。

 けれど川内は金剛が思ったより強い精神の持ち主で、周囲の助けもあったには違いないが、それでも最終的には自分の力で持ち直したのだろう。

 特に、レミリアが居なくなってから、正確にはマーナガルム作戦が成功裏に終わり、彼女が奇跡的な成果を上げて凱旋した時からだ。明らかに川内の顔付きは変わっていたように思う。金剛には敵意を見せたけれど、その目に明瞭な輝きを宿していたのもまた事実なのだ。

 

 

 

 なるほど、それが「希望」か。

 

 なるほど、だからあれほどまでに怒りを見せたのか。

 

 金剛は納得する。レミリアがどういう存在であれ、川内にとっては間違いなく見るべき存在であって、彼女の言葉を借りるなら「希望」であった。川内はレミリアの敬虔なる信徒なのだ。神を冒涜すればキリスト教徒が怒るように、彼女はレミリアを追放した金剛に激怒した。

 それでも金剛は自分が間違ったことをしたとは思わない。レミリアを追い出し、正しく提督であるべき加藤にその座を引き渡したのは正しい選択だったと今でも胸を張って言える。

 けれど、だからと言ってレミリアの成し遂げたことまで否定するつもりもなかった。

 

 

 

「彼女が居れば、こんな事態は避けられたと思う?」

 

 意味のない問いだ。分かっていたけれど、聞かずにはいられなかった。

 

「そうだね。こうはならなかった。加賀さんは沈まなかったし、鎮守府が爆撃を受けることもなかったんじゃないかな」

「つまり、こうなった遠因はワタシにあると?」

「……いや」

 

 川内はかぶりを振った。

 意外なことに、彼女は否定した。

 

「多分、金剛さんじゃなくても誰かが同じことをしていたよ。お嬢様が不当にうちの鎮守府に居座っていたのは事実だしね」

「それでもあの海戦まで彼女が居れば、少なくとも加賀が沈むことはなかった」

 

 その瞬間、少しだけ金剛を振り返った彼女の目に何が映っていたのかを言い当てられない。瞳にあったのは悲しみかもしれないし、憐みかもしれないし、あるいはもっと別の感情だったかもしれない。

 けれど、その次に川内の口から零れ出たのは、愚直なまでに純真な、血の通った温もりを感じさせる言葉だった。

 

「だから信じるのさ。沈んだ艦娘だって、もう二度と戻って来れないわけじゃないってことを、お嬢様は証明してみせたよ」

「……」

「金剛さん。私は見たよ。コロネハイカラ島の夜。あの力がどれ程のものか。この世に対抗し得る存在なんて想像すら出来ない天蓋の力。あり得ないことを実現してしまう幻想」

「彼女は、ワタシの祖国じゃあ伝承にも語り継がれる悪魔の中の悪魔ヨ」

「そりゃあ、そうさ! まさに、悪魔みたいな力だったからね。駆逐水鬼は控えめに言ってもかなり強い深海棲艦だったけど、お嬢様は歯牙にも掛けなかった。深海棲艦なんて恐れるに足りないね」

 

 でも彼女はもう居ない、と言い掛けて金剛は思い直した。

 川内はまだ愚直にレミリアのことを信じている。その力があれば今日の危機も跳ね返せると、そう言わんばかりだ。

 それはまるで、

 

「戻って来る。お嬢様は必ず来る」

「それも、彼女を信じているからそう言えるの?」

「そんな気がするじゃん?」

 

 川内はまた笑った。

 だから、金剛も少しだけ口元を緩めようという気になった。

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 話しているうちに鎮守府の埠頭にたどり着いた二人は、そのまま陸に揚がる。川内は曳行索を外し、ごく自然な動作で金剛の右脇に肩を滑り込ませると、まるでそうするのが当たり前のように歩き出した。

 金剛にとってそうやって支えてくれるのはとても助かることだった。何しろ、被弾のダメージ自体は全身に及んでいてい、明確な外傷のある左肩だけでなく、ありとあらゆる関節が軋み声をあげている有様であるから、多少なりとも楽をさせてくれるのはありがたい。川内は金剛の歩く速度に合わせてくれるので牛歩のような歩みだったが、それでも急いでいるつもりで工廠へ向かう。

 

 鎮守府は酷い被害を受けていて、埠頭から海沿いに工廠へ向かう間にもいくつか大穴や転がっているコンクリート片を迂回しなければならなかった。岸壁に沿って並んでいたガントリークレーンは軒並み崩れ落ち、鎮守府の象徴であった第一庁舎もすっかり瓦礫の山となってしまっている。あの様子では司令部が壊滅したというのは間違いなさそうだった。見える範囲で無事そうなのは第二庁舎とその向かいの整備工廠くらいで、後は遠くに見える艦娘寮が未だ健在な姿を残すだけ。目的地が無事なのは幸いだが、他は目を覆いたくなるくらい荒れ果てていた。

 川内がよく隠れて煙草を吸っていた海沿いの倉庫はすべて屋根を落としていくつかが火だるまになって燃えている。つい今朝方まで当たり前に存在していた日常の景色が、今やまったく変わり果てている光景に、金剛の内に何とも言えないものが芽生える。自分たちが今まで過ごしてきたこの場所が、この日常が、こんなにもあっけなく壊れてしまうのかと思うと、どうにもやるせないのだ。

 見知った建物が瓦礫に変わり、季節の移り変わりを教えてくれていた植物が燃え尽きて黒い炭になっている。そこに日常の儚さを感じずにはいられなかった。

 自然と二人の口は重くなる。レミリアのことを真っ直ぐに信じている川内でさえ、目の前の凄惨な現実には空虚な言葉も発せられないのだろう。

 その点、彼女より人生経験の豊富な金剛はまだ立ち直りが早かった。

 

 

「まだ、終わっちゃいないワ」

「……」

「レミリア・スカーレットは来るんでしょ? なら、まだ諦める段階じゃない」

「……別に、諦めたわけじゃないよ」

 

 意地を張ったような声に、金剛は頷いた。そうだ。それでいい。

 

「ただ、何て言うかさ。ちょっとショックなだけ。大抵のことは受け流せるようになったと思ったんだけど、これは強烈だよ」

「ダウト。川内は全然物事を受け流せてないネー。斜に構えてるダケー」

「何それ? お説教?」

「Yes! オ・セッキョウ! こういう時こそ、気を取り直して自分を見失わないコト。神でも悪魔でも、信じると言い切ったんだから、最後まで信じ切りなさい。自信のないヤツが信者だったら、信じられる方も不安になるんじゃない?」

「お嬢様を信じなくなったわけじゃないよ。ただ、心にクル光景だったってだけ」

「だったら尚のこと挫けちゃダメ。誰だってさ、目の前の現実に嘆いてばかりいるヤツより、困難に立ち向かおうとしているヤツに手を貸したくなるでしょ? それは神も悪魔も人間も、変わらないと思うワ」

 

 アナタには強く信じ続ける心があるでしょ? 金剛は川内に笑い掛けた。

 

 川内もまた、少しだけ自分より背の高い金剛を見上げ、笑う。そうだ。この強さが彼女の持ち味なのだ。

 

 

 

 

 その彼女の笑顔が凍りついた時、だから金剛の背筋には途方もなく冷たいものが流れ落ちた。

 

 

「避けて!!」

 

 

 彼女は叫び、金剛の腰に回していた手を全力で押す。突き飛ばされた格好になった金剛は負傷した左肩から落ちないように咄嗟に足を踏み出して前にニ、三歩進む。腹に響く爆音と背後から叩き付けられた衝撃波によろめいた。砕かれた土やコンクリートの破片が装甲に当たってバチリバチリと小さな火花が飛ぶ。

 砲撃があったということだけを認識し、金剛は突き飛ばされた勢いのまま駆け出す。視界の端、ちょうど第二庁舎の前に何か赤黒い大きな存在が居て、それが突然横合いから砲撃を放ったのだ。

 

 もう、上陸したのか。

 一瞬そんな言葉が頭に浮かぶが、すぐにそうではないと自分自身で否定する。ほんの少しだけ顔をそちらに向けてみれば分かることだ。ところどころ赤くひび割れた黒い異形の艤装。白濁したような不健康な肌。色素を失った長い髪。

 

 彼女はどちらかと言えば色白だったし、艶やかな黒髪がヤマトナデシコらしくて金剛は好きだった。温厚そうな顔付きで、美味しそうな食べ物にはすぐに輝く目がチャームポイントだと思っていた。

 

 

 面影は残っている。それが余計に胸を締め付ける。

 歪な艤装を携え、憎悪を顔に貼り付けていようとも、赤城だというのが分かるのだ。いや、赤城だったというのが。何しろ、もう十数年生死を共にしてきた仲間である。顔を忘れようにも忘れられないくらい長く深い付き合いだ。

 

 

「行って!! 金剛さんは工廠に! 私が引き付けるから!!」

 

 川内が工廠から離れるように、第一庁舎へ続く坂の方向に駆けて行く。航行艤装を履いたままなので派手な音が鳴り、それが赤城の気を引いたようだ。最早艦娘ですらなくなったかつての一航戦は、憎悪に駆られるままに狙いを川内へと定める。

 

「Shitt!! Shitt!!」

 

 今この光景を神が空から見下ろしているなら、金剛は大声で罵詈雑言を浴びせ掛けたい気分だった。こんな時にどうすればいいかなんて聖書のどこにも書いていなかったし、十字架に祈っても何かが変わるとは思えなかった。金剛の長きに渡る艦娘経験の中でも、今日ほど胸糞悪い気分にされたのは未だかつてなかった。

 

 

 鎮守府の中の敵性反応。あれはこういうことだったのだ。

 一体何の試練なのだろう。赤城が深海棲艦になるなんて、誰がそんな悪辣な運命を仕組んだのだろう。そもそも、深海棲艦化というのは轟沈しなければ起こり得ないはずじゃなかったのか? 赤城は沈んでもいなければ、今朝だって元気そうな顔で金剛を見送ってくれていたのに! 彼女は順調に回復していて、腕のギブスが取れ、戦線復帰にも長くはかからないと医官からも太鼓判を押されていた。

 

 

 胸の内で吹き荒れる怒りが言葉にならない。悪態を吐き回りながら、金剛は整備工廠の中に飛び込んだ。兎にも角にも回復し、川内を助け、赤城を止めなければならない。赤城の深海棲艦化は紛れもない事実であり、金剛には(気持ち的には到底受け入れられないけれど)事実として直視するしかない。そうであるならば、何はなくとも対応策を考えなければならない。

 鍵は川内が握っている。少なくとも彼女は、駆逐水鬼が萩風と嵐に戻るのを、レミリアがそれを実現させたのを見ているはずだ。そこに大きなヒントが隠されているはずだ。

 だから、金剛は川内がやられるのを何としてでも阻止しなければならない。ましてや、赤城に仲間を撃たせてはならない。もう、一人だって仲間を失うわけにはいかないのだから。

 幸いにして、気の利いた工員が入り口近くに高速修復剤を出しっ放しにしてくれていたようだ。それを拾おうとして、金剛の耳に赤城の砲音以外の音が入った。

 

 

 

 聞き慣れた、深海艦載機の飛翔音。ハッとして見上げる。

 

 もちろん天井があるだけだが、鳴り響いた轟音と共に屋根がそれを支える鉄骨ごと頭上から降って来た。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 赤城が撃つのは副砲だ。

 元々戦艦として計画されていたという天城型は、空母への改装となった際にもサブ兵装として20cm副砲を装備するようになっていた。まだ、各艦種ごとの運用方法が固まっていなかった昔の話であり、赤城が古い空母であることの証でもあった。当時空母は水上打撃部隊の上空援護をする存在として捉えられていて、必然砲戦に巻き込まれるために近接戦に備えて副砲を装備させたのだという。他でもない赤城本人の口から聞いたことがあった。

 そうは言っても20cm砲である。軽巡の装甲で受け止めるにはいささか重すぎる。重巡と同じ火力の艦砲なので、自衛用として見るには過剰火力としか言いようがない。空母の運用が固まってくると無用の長物として赤城やほぼ同期の加賀が副砲を戦場に持ち出すことはなくなった。彼女たちはそんな物を使わなくとも十分強力な火力を備えていたし、副砲を持っておくくらいなら一機でも多くの攻撃機を装備した方が合理的だったからだ。

 だから、川内もその存在自体を今の今まで忘れていた。そして赤城はその存在をちゃんと覚えていて、しかも扱い方も忘れてはいなかった。

 

 忘れていてくれたら良かったのにと思わずにはいられない。さすがに本職の砲艦ではないし、その上単装砲なので一発ずつ発射されるわけで、命中精度は正直高くない。川内が砲口の向きを見極め、地上を走って避けられる程度である。

 しかし何よりも、“敵”として立ちはだかるその存在自体が脅威だった。

 

 一体、誰が撃てるだろうか? 彼女は今朝まで元気な顔をしていた同じ仲間なのだ。

 

 彼女は黒い艤装を纏っている。

 腕を覆う籠手、膝上まであるサイハイブーツの装甲。いつも左肩に装着している飛行甲板も、見慣れた木目調のそれではなく、黒く長細い無機質な鉄板のよう。もう一つ空母赤城のトレードマークとも言えた弓は右手に握られているが、最初川内はそれを「弓」であるとは認識出来なかった。何しろそれは、かつて「弓」であったと思われる艤装は、まるでワニのように大口を開けている。実際に口としか言いようのない形状で、深海棲艦特有の、あの“歯の生えた口”の造形そのものなのだ。川内が「弓」だったと認識出来たのは、単にその大口を開けた艤装が何となく“弓なり”に反っているように見えたからで、それも離れた位置から見ただけなので錯覚かもしれない。

 艤装には割れかけた卵よろしくヒビが入っており、その中に溶岩のように赤く輝く光が覗いていた。その光は赤城が副砲を放つ度、彼女の憎悪に呼応してますます禍々しく輝きを増し、脈動するように明滅する。

 

 

 

「赤城さん! 川内だよ! 仲間だよッ!!」

 

 叫んでみるが効果はなしだ。完全に我を失い、まるで憎き仇敵を相手にしたように川内を邪視している。

 

 

 駆逐水鬼「嵐」には理性が残っていて、言葉を掛ければ彼女は揺らいだ。同じく「萩風」は「嵐」よりずっと深海棲艦化が進んでいたようで、言葉だけでは逆上するだけだったが、それでもまだ言葉に反応して怒りを見せるだけ人間味があったと言えたし、最終的には彼女も艦娘に戻れた。だが、今目の前で相対する赤城には言葉が一つも通じていない。さりとて川内に出来るのは呼び掛けて目を覚ましてもらうことしかないのだが、どうにもそれは難しそうだった。

 艦砲は20cm単装砲一門だけ。一発撃てば装填まで少し間があるし、赤城も砲撃以外の攻撃手段、例えば川内が最も恐れる艦載機の発艦を行わないので、逃げることは不可能ではなかった。

 

 遮蔽物のない工廠前の広場、そして工廠に向かった金剛から赤城を引き離すため、川内は第一庁舎へ続く坂へと駆ける。その坂は道の両側が並木になっている上に木の根元には生け垣もあって姿を隠すことが出来る。流石に20cm砲弾から身を守れる盾にはなりはしないが、木の陰に隠れながら赤城を誘導することは難しくなかった。それをしたところで、川内には赤城をどうすることも出来ないのだが。

 背後に着弾した二撃目。爆発によって生じた衝撃波が背中に直撃するが、その勢いに乗る形で前へ転がり、並木の陰に飛び込む。

 艤装が重いのか、赤城の動きはそれほど素早くはなかった。元より艦娘にしろ深海棲艦にしろ、海での活動を主としているので、陸での動きはさほど速くない。身軽な川内なら跳んで走っては難しくないが、重い空母の艤装を携える赤城の場合はそうはいかないようだった。

 ツツジの生け垣に身を隠し、しゃがんだまま素早く移動する。

 

 どうすればいい? 時間稼ぎをして、いつ来るか分からないレミリアを待つか?

 

 自分がこの状況でいつまでもつのか、と考えた時、間近で爆音がして意識が飛んだ。視界がぐるりと反転し、耳の奥から金属がなるような甲高い音が聞こえ、世界がゆっくりと回る。誰かに目一杯の力で全身を同時に殴られたような衝撃で川内の身体は吹っ飛び、地面に嫌というほど叩き付けられた。

 それでも、川内には豊富な経験からくる慣れというものがあった。今まで至近弾や時には命中弾によって、重力に逆らって身体が宙を舞い、流体のくせにコンクリートのような硬さを発揮する海面に叩き付けられて意識を飛ばしかけたことなど何度もあった。その分、心理的衝撃を含めて復帰するのはさほど時間を要しない程度に、川内はタフだった。

 

 ただし、今日ばかりはそのタフさも意味をなさない。川内が常人よりもずっと早く着弾の衝撃から意識を目覚めさせた時には目の前に赤城が立っていたのだ。重そうな金属音がして、彼女の構えている副砲の薬室に砲弾が装填される。川内を撃ち抜けるトドメの一発だ。

 ヤバイ、という感想しか出て来ない。咄嗟に尻を地面に擦り付けながら後ずさる。

 

「待って! 赤城さん!!」

 

 と、反射的に口走った。

 

 それは完全に無意識の内に脳が出力した言葉だったのだが、お陰で川内は救われた。運の良いことに、今にも川内を撃とうとしていた赤城が動きを止めたのである。

 

「待って! 待って!」

 

 慌てて付け足すと、赤城は呆けたような顔になって、ポツリと漏らした。

 

「……川内、さん?」

「そ、そうだよ。川内だよ!」

 

 声はいつもの赤城のそれだった。戸惑ったような、驚いたような、今の今まで自分が何をしていたのかまるで認識していないような声色。熱が冷めて、ふと我に返ったような。

 だから川内はここぞとばかりに自分を主張する。仲間であると、訴え掛ける。

 すると赤城は顔を引き締め、問い掛けた。

 

「どうしてここに? 深海棲艦はどうしたの?」

「待って! まずは落ち着こう。赤城さん、ゆっくり深呼吸して」

「川内さん、私は……」

 

 不意に赤城が俯く。自分の身体を見下ろす。

 異常に気付いたのだ。ああ、まずいな。これから起こることを悟ったが、時既に遅しであった。

 彼女は何か信じられない物を発見したように自分の腕や足を見つめ、絶句する。

 

「何……これ……」

 

 声ははっきり分かる程度に震えている。次に彼女がどういう反応を見せるかは考えるまでもない。

 前兆に、大きく息を吸い込む音がした。

 

 

「い、いやああああああああッ!!」

 

 

 絹を裂くような悲鳴を上げて、赤城は第一庁舎の方へ、坂を駆け上がっていく。

 

 川内は早鐘のように鳴る心臓が落ち着くまでその場を動けず、ただ錯乱して逃げて行く赤城の背中を見送るしかない。ようやく鼓動が落ち着いた時、自分がただ首の皮一枚で命が繋がったのだという感想だけが思い浮かぶ。

 ただ、落ち着いていられる時間は少なかった。すぐに、深海艦載機の飛翔音が上空に響いたからだ。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 戦場における“勝利”の定義は立場や肩書、そして作戦目的によって様々であろうが、木曾という一人の艦娘にとってのそれは何時いかなる場合でも常に「生還」、ただその一言に尽きた。

 戦術的勝利も、戦略的勝利も、それらを欲するのは指揮官であり参謀であり、時に政治家であり国民である。しかし、戦場に生きる個々の兵士にとってそれらは必ずしも自らの「勝ち」を意味するものではない。例え大規模な会戦に勝利しようとも、戦闘後に自分が生きていなければ何の意味もない、というのが木曾の考えであった。名誉の戦死などという眉唾で空虚な誉れには微塵も興味がない。だから、例えその戦闘で負けようとも生きている限り木曾は「勝利」し続けられるのだ。

 しばしば軍隊では帰還を想定しない片道切符の攻撃という行為が礼讃される。国家に命を捧げ、任務に殉ずることこそが最高の忠誠であり、勇気であり、栄誉であると謳い、英雄的行為の果てに死した者を祭り上げる。なるほど、それは確かに英雄であろう。勇敢で、自己犠牲的であったと言えるだろう。木曾も別にそうした英雄たちの勇気と行動を否定するつもりはない。

 ただ、自分はそういう考え方をしないだけだ。例え無様と嘲笑されようとも、臆病であると罵倒されようとも、生還こそが最大の忠誠の表現であり、それこそが真実の勇気ある選択の結果であると信じてやまない。木曾らしい言葉遣いをもって言えば、「ここで死んでもどうにもならねえ」である。

 だから撤退を命じた。今や木曾は旗艦であり、自分のみならず部下の命についても責任を負う立場にある。第七駆逐隊の三人を生かすも殺すも木曾の一言次第。突撃を命じれば彼女たちは躊躇なく敵に向かっていくだろう。その先に海の底が見えていたとしても、命令一つで彼女たちは命を投げ出す。

 それが分かっているからこそ、木曾は撤退を命じた。優秀な兵士である彼女たちは木曾の意図を汲み、一切の異議申し立てを行わなかった。伊達に同じ鎮守府で肩を並べて戦ってきた戦友同士ではない。生還こそが最大の勝利であるという木曾の価値観を彼女たちは完全に理解しており、その価値観の元に下される命令であるのも承知している。

 

 

 

 弾薬はほぼ底をついた。燃料も残り少ない。

 既に二個の強襲揚陸部隊を迎撃し、随伴の戦闘艦を含めて四人で十隻以上は沈めているはずだ。さすがにここまでの連戦を続ければ弾も油も尽きるというもの。これ以上戦ったところで主砲も魚雷も沈黙するだけだ。

 それに比して、敵は無尽蔵と言っても過言ではないほど湧いて出て来た。先鋒の部隊は食い止めたから、後続が来るまでは少しばかり時間的猶予がある。だがそれにしたって、敵の揚陸部隊は津波のように押し寄せて来るのはほぼ間違いなかった。

 

「とにかく補給だ。弾がなけりゃ戦えねえからな。だが、俺たちが補給している間に敵は上陸を果たすだろう。そうなれば、地上での水際戦闘しかなくなる。最悪、市街地への侵入を阻止出来ればいい。塹壕戦でも白兵戦でも何でもやって戦うぞ」

「艦娘に穴掘って戦えっていうの? 前代未聞の命令だね」

 

 半ばやけっぱちのような声で喚いたのは漣だった。

 木曾の目から見ても聡明と評していい彼女が、こうして真っ向から抗議の声を上げるのは珍しい。普段ならふざけ半分の言葉の中に鋭い指摘を混ぜ込むはずだ。それだけ、彼女にも余裕がないということなのだろう。

 

「ああ。俺も初めてだ。ワクワクするよな」

「魚雷は使えないけど」

「クレイモアの代わりにはなるさ」

 

 木曾は笑った。半分は強がりだったが、ワクワクしているというのは、表現はともかく、そう言っても差支えのない心境なのは確かだ。

 

 

 撤退の判断が迅速だったお陰で、敵機が第一波の攻撃を粗方終えて一旦鎮守府の上空から消えた空白の時間に鎮守府まで戻って来れた。手ひどく破壊され、至る所から煙を噴き上げる母港を見ると、味方など一人も生き残っていないように思えるが、必死で救援を求める陸戦隊員の無線は傍受出来ていた。彼らが生きているなら、彼らと共に戦線を維持して敵を食い止められる。味方は一人でも多いに越したことはない。

 だが、肝心の司令部からは一切の連絡がなかった。これの意味するところは明白であり、それについては艦隊の中で既に共有されている。

 

「金剛さんと川内さんも心配です。どこで合流しましょう?」

 

 と、潮が心配そうに言う。木曾は頭を回したが、二人と悠長に落ち合っている時間はないと判断した。

 

「無線で呼ぶしかない。聞こえてなくても、あの二人なら銃撃音を聞きつけて勝手に動けるから大丈夫だ」

「そう、ですよね。ベテランだもんね」

「でも、どうすんの? 弾薬庫に行くんでしょ? その時に攻撃を受けたらひとたまりもないわよ」

 

 今度は曙が指摘する。木曾は首を振った。

 

「そん時は諦めろ。運がなかったんだって」

「あっそ」

 

 曙はぶっきらぼうに呟いた。

 

 

 鎮守府は、鎮守府だった場所はもう目の前だ。いつも艦娘たちが使っていた桟橋が目の前にある。コンクリートの長い突堤が湾内に突き出し、そこからさらに浮桟橋が飛び出ている。その先端が階段状になっていて、いつもそこから海に出て、そこから陸に揚がっていた。

 桟橋から艤装の置き場の工廠への道のりはそこそこ長い。それがいつも面倒でよく愚痴を言い合っていたものだ。

 

「各艦上陸、いや待て!!」

 

 木曾は空を見上げて叫んだ。

 頭上を、敵機が通り過ぎていく。再び攻撃隊がやって来たのだ。工廠の方で大きな爆発音がして、黒々としたきのこ雲が立ち上がる。

 

「くっそ! 敵の第二波だ」

 

 桟橋はもう目の前だ。だが、陸に揚がれば格好の標的であることは間違いない。地上での動きは当然、海上で動くよりも遅くなる。

 

「迂回しよう! 第五ドックの傍から揚がろう」

 

 木曾は東を指さす。第五ドックは、艦娘の艤装の建造に使われるという意味でのドックではなく、鋼鉄の実艦を修理するための設備だった。鎮守府には「硫黄島」の入渠出来る第一ドックを筆頭に、五つの艦船用ドックが並び、第五ドックはその一番端、基地の中でも東端に位置していた。第五ドックの裏手には山が迫り、そこから山の裾伝いに弾薬庫へと向かえるはずだった。

 桟橋を目指していた木曾たちが回頭する。しかし、その時に信じられないものを目にした。

 破壊された鎮守府、上空に敵機が飛び交うそこから、飛び立つ無数の影があったのだ。無論、それは艦載機であるはずだ。そして、現状そのようなことが可能な人物は、負傷していた赤城以外に存在しないはずである。

 避難すると聞いていたがやはりまだ残っていたのだ。傷んだ体を引き摺って無理に艤装を引っ張り出して来たのか。

 赤城が発艦させたと思しき艦載機は、しかし上空を飛び交う敵機を攻撃する素振りを見せなかった。そしてまた深海の艦載機も彼らを攻撃しようとはしなかった。お互い護衛の戦闘機が随伴しているはずにもかかわらず、彼我の間に空戦が生じていない。

 明らかにおかしい光景。木曾たちが新たに現れた艦載機を見上げている内に、草原を見つけた蝗群のごとく黒々としたそれらは東へ退避する艦娘に向かって来る。それにつれ、深海艦載機の飛翔音が大きくなり、ようやく木曾は事態を理解した。

 

 

 鎮守府の中から発艦したのは、今向かって来ているのは、敵機だ!

 

 

 

「対空戦闘用意ッ!!」

 

 絶叫は、しかし間に合わない。

 いびつな形のあの死の鳥たち。見慣れた烈風でも流星でもなく、宇宙船のような形をした敵機。

 対空砲など、雷巡と駆逐艦の豆鉄砲など、あってないようなものだった。気付けば目の前に黒い塊がばらばらと降って来て、木曾は着弾の衝撃で自分の足が海面から離れるのを知覚した。

 敵機は執拗だった。最初の一撃で中破した木曾を飛び越えると、すぐに反転して再接近する。爆撃と雷撃の中に機銃掃射も織り込んで、瞬く間に木曾は大破へ追い込まれてしまった。海上をのた打ち回るように逃げ惑っている内に隊列は崩れ去り、各々が必死で海面に円弧を描いている。

 二度、三度、敵は爆撃を敢行し、その度に木曾たちは悲鳴を上げるしかない。

 もう駄目だと思った。逃げるすべなどない。艤装の加護さえ易々と打ち砕かれた。

 

 ――だが、敵機が突然引き上げていく。あれだけしつこく追い回して来たのに、あっさりと諦めたように次々と翼を翻して上昇していく。

 

 

 

「助かった、のか?」

 

 呆然と空を見上げる木曾を背に、興味をなくしたように鎮守府に戻って行く敵機。爆撃は相変わらず続いていたが、どうにもその動きはおかしい。

 とはいえ、理由を探るには情報が不足し過ぎていたし、そんな余裕もなかった。何しろ、たった数分で木曾たち四人は満身創痍になったのだ。

 幸いにして打撲で腕や腰が痛む程度の負傷だが、艤装は酷く破損していて大破と呼べる状態だった。すぐに集合して来た七駆も手酷くやられていて、曙はまだ元気そうだが、漣は頭から血を流し、左足を引き摺っている。潮はこの三人の中では運がいい方のなのか、中破状態であり、身体にはそこまでダメージが及んでいないようだった。

 

 自分も含め、これ以上海を走って遠く離れた第五ドックに行くのは不可能に思われた。無理に向かったところで体力を消耗するし、ひょっとしたら漣は沈んでしまうかもしれない。

 幸いにして敵の攻撃は何故か小康状態に入った。この機に無理にでも上陸してしまおう。

 長い桟橋を歩く気にはなれなかった。木曾は先頭を進み、倉庫が立ち並ぶ方へ向かう。そこはテトラポッドが置かれ、防波堤が立ちはだかる、到底上陸に適した場所ではないが、岸壁の中では最も鎮守府の中枢に近い場所だった。

 木曾は残っていた主砲を一発、岸壁に放った。防波堤が吹き飛び、白い煙が立ち上る。

 

「あそこから揚がる。潮は漣を支えてやってくれ」

 

 木曾は手短に指示を出すと、自分が真っ先にテトラポッドに取り付き、もう役に立たないであろう航行艤装を脱ぎ捨てた。それから足場の安定した所を確保すると後に続く曙を引っ張り上げ、次に潮に押された漣を引き上げた。

 漣は痛みに顔を顰めるが、弱音を吐いたりはしなかった。引き上げた彼女を曙に預けると、最後に潮を手伝う。四人全員がテトラポッドに揚がると、木曾は先に進みながら言った。

 

「装備は主砲と装着部以外全部捨てろ。弾薬を補給したら陸戦隊と合流する。漣は衛生兵に見させる。まあ、連中が生きていたらの話だがな」

「死んでたらどうすんのよ」

 

 言われた通り自分の背部艤装を外しながら、曙が尋ねた。

 

「そうだな。曙は漣を連れて市街地へ逃げろ」

「バカ! まだ戦えるわよ」

「後から俺たちも合流する。生き残ることが最優先だからな」

「あんたは旗艦でしかも替えの利かない雷巡でしょ! 残すならあんたよ」

「それを言うなら誰もがそうだ。曙だって漣だって潮だって、世界に一人しか居ねえんだからよ」

「だからって、敵を置いて仲間を残して逃げろって言うの!?」

 

 激昂して曙は地面を踏み鳴らした。

 小さな嚮導艦は成長しなくなった小さな体を目一杯に膨らませ、雷巡をねめつけた。

 

「舐めるんじゃないわよ! 私も、漣も潮も、この艦の名前を背負った時から覚悟してんのよ。『逃げずに戦う』って! 

その結果、死んでも構わないとさえ思ってたわ。怖くても、痛くても、絶対逃げないんだって。呪いみたいにそう思い込んで自分を縛ってたのよ。

それをあいつは真正面から砕きやがった。あのクソ提督は、『死なせない』って言いやがった。

だから、私も誓ったの。あいつに、私より小さいくせに餓鬼扱いしてきた本物のクソ提督に。

――あんたより絶対長生きしてやるんだって」

 

 

 

 曙は唯一残した艤装、10㎝連装高角砲を掲げる。

 

 

 

「私は死なない。仲間も死なせない。

戦って、戦って、戦い抜いて! 絶対に最後まで生き残って見せるわッ!!」

 

 

 

 二つ目の10㎝連装高角砲が持ち上げられ、曙のそれと並んだ。潮だ。

 

「私も!! 死にません! 生きて帰ることを誓います!」

 

 三つ目の10㎝連装高角砲が弱々しく掲げられ、しかし明瞭に持ち手の意思を示した。漣は顔面を赤く染め、痛みに苦悶を浮かべながらも、瞳には決意を浮かべている。

 

「加賀さんの仇を討ちたい。それまで、漣だって絶対に死んでやるもんか!!」

 

 最後に並んだのは15㎝三連装副砲だ。

 

 

 六門と三門。合計九門の砲口が天を睨む。

 

 

「お前ら、レミリアの奴に染まりすぎだよ。あの無茶苦茶な提督なら、最良の結果を追求して、しかもそれを勝ち取って来ちまうだろうがな。

だが、あいつはもうここには居ねえ。呼んだって声が届かねえ。

ならどうするか?

俺たち自身の手で勝利を捥ぎ取るしかねえ。深海の連中を海に蹴落として、この街を守るッ! それで、俺たちは全員生き残るッ!

そうだろッ!! お前ら!!!!」

 

 

 雄叫びが轟く。

 

 

 それは強がりでも何でもない。戦いに勝ち残ることが、本当に自分たちに出来ると、四人は心底そう確信しているからだ。

 怪我など関係なかった。痛みは己を奮い立たせる燃料。流れる血は排出された臆病な心。

 

 四人は移動を開始する。漣を一番元気な潮が背負い、四人は物陰から物陰へ、崩れた倉庫から、同じく建物の半分が吹き飛んだポンプ室。坂を上り兵舎の並びを過ぎると、低い丘をくり抜いて作られた弾薬庫に到達する。

 地下壕を横に掘った弾薬庫には、艦娘の砲弾や炸薬、魚雷、航空爆弾に加え、小火器の弾薬も保管されている。それを示すかのように巨大な鋼鉄製の扉が地下壕を塞いでいた。その扉の前に何人かの兵士たちが集まっている。

 深海棲艦の艦載機はほとんどが街へ向かっていった。鎮守府は粗方破壊しつくしたと考えているのだろう。重油タンクが巨大な薪になっているのがその証拠だった。

 

「生きていたのか」

 

 陸戦隊の隊長が呆然自失として呟いた。

 彼らは皆傷ついていた。漣より重篤な隊員も居る。ある者は肩から夥しい血を流し、ある者は太ももの付け根を布で縛っていて、ズボンはぐっしょりと濡れている。担架に寝かされている者、座り込んだままぼんやりと空を見上げたままの者。隊長自身も頬に切り傷を作っていて顔が血まみれだった。

 

「お互いな。俺たちも残弾が尽きたから補給しに来たんだ。弾薬庫がまだ無事で良かったよ」

「ああ。だが、悠長にしている暇はないぞ」

「そうだ。先鋒は何とか食い止めたが、次の揚陸部隊が迫っている。上陸されるのも時間の問題だ。防御線を構築して水際で侵入を阻止しなきゃならねえ」

「口で言うほど簡単じゃあないぞ」

 

 言葉とは裏腹に、隊長は機嫌良さそうに口を歪めた。

 

「来い。陸での戦い方を教えてやる」

 

 重い金属音がして、弾薬庫の扉が開かれた。

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

「メイデイ! メイデイ! メイデイ! こちらヴァイパー3!! 被弾した! 墜落する。至急救助を!!」

 

 

 パイロットの悲鳴はノイズに打ち切られた。ガンシップが一機、尾翼から煙を吹きながらコマのように回転し、海面に叩き付けられて白い飛沫を上げる。あの様子では乗っていた人間は衝撃に耐えられなかっただろう。これでヘリの残りは二機だけとなってしまった。

 

「ヴァイパー3、墜落! ヴァイパー3、墜落! 畜生ッ!」

 

 僚機のパイロットが喚く。悪態を吐く彼の気持ちは野分にも痛いほど分かった。

 

 

 

 野分と僚艦の舞風の第四駆逐隊と、艦娘母艦「硫黄島」は目下敵の空襲下にある。空を覆うのはせいぜいが五十機程度の敵艦載機であるが、それでもまともな航空戦力のない野分たちと「硫黄島」にとっては絶望的なまでの脅威だった。何しろ、手元にあるのは10㎝連装高角砲。威力のさほど高くない小口径の高角砲だ。これがまだ12㎝高角砲なら頼もしかったかもしれないが、生憎野分たちの鎮守府には元より用意されていた艤装ではなかった。

 だからといって敵は手を緩めてはくれない。

 

 野分は「硫黄島」右弦に、舞風は左舷に陣取り、それぞれ左右から襲い来る敵機を迎撃していた。数えているだけで野分は既に七機は撃墜しているし、舞風もきっと同じくらい撃墜しているだろう。敵の攻撃がいい加減緩んでもいい頃なのに、尚も戦闘は激しい。

 

 「硫黄島」とて無抵抗でいるつもりはなかったようだ。

 搭載しているガンシップ、AH-1攻撃ヘリコプター五機全機発艦させ、さらに無人機もすべて射出している。

 深海棲艦に艦娘の武器以外の“通常兵器”が無効なのは有名な話だが、艦載機に関しては例外的に効果があることが確認されていた。何しろ飛行機である。飛べなくなったら脅威ではないし、飛行機が飛ぶには複雑な機構が必要で、それは深海棲艦も変わらなかったのだ。ミサイルや速射砲弾の直撃が、艦載機のバランスを崩し、時にそれ自体を崩壊させ、撃墜に至ることはよく知られている。

 だから「硫黄島」も対空ミサイルを積んだガンシップや無人攻撃機を繰り出した。

 ヘリはミサイルが尽きると機銃で応戦し、無人機は自爆特攻を敢行した。

 それでもようやく半分程度に減らすのがやっと。そして、深海棲艦は戦力が半減したからと言って撤退してくれるような生易しい相手ではない。敵の攻撃もますます苛烈さを増し、攻撃隊を守るために前に出た護衛戦闘機がヘリを落としていく。

 

「攻撃機を狙え! あの、でかい爆弾をぶら下げたやつだ!!」

 

 無線でまた誰かが叫んだ。

 同時に、偵察用の無人機がガンシップを狙っていた敵機に突っ込み、空中で火だるまになる。そのまま両機は白い煙で放物線を描き、海面に落ちて小さな水柱を二つ立ち上げた。

 

「上だ!!」

 

 ヘリ部隊の隊長機の悲鳴。

 反射的に空を見上げた野分の目に、急降下する艦爆の姿が映る。その機体から黒い果実のような物が切り離されて、真っ直ぐ吸い込まれるように「硫黄島」に落ちた。

 爆音。紅蓮の炎がマストより高く上がり、巨艦は一瞬停止して海面を跳ね上がったように見えたのは気のせいではない。少し離れたところに居る野分の肌に、火傷しそうなくらい熱い爆風が叩き付けられた。

 

「被弾! 『硫黄島』被弾ッ!!」

 

 無線が一気に騒がしくなる。機関への影響は少ないのか、母艦は動いているが、開戦以来一度も被弾したことのない“幸運艦”が痛々しく黒い煙を上げるのは野分の心に少なくない衝撃を与えた。

 

 

「舞風! 舞風!」

 

 おそらく艦の反対側に居るであろう戦友に呼びかける。

 

「大丈夫だよ!」

 

 言葉とは裏腹に答える舞風の声もとても焦っているように聞こえた。

 彼女がまだ健在であることだけが野分のガタつく精神を鎮める。主砲を握り直すと、ヘッドセットのスピーカーからオペレーターの怒声が聞こえて来た。

 

「右舷に敵機接近中! 野分、迎撃しろ!!」

 

 言われるまでもなくモーター音のような気味の悪い音が響いている。野分は視野の中に低高度で接近する二機の雷撃機を捉え、主砲を向けた。手に持った砲塔と背部艤装から伸びるアームの先に据え付けられた砲塔。二基四門が一斉に火を噴く。

 敵機の進路上を狙う。空に時限信管によって炸裂した砲弾が綿飴のような黒い煙を作る。

 

 

 

 野分は雄叫びを上げた。

 

 突貫せんと眼前に飛び込んで来る敵機の鼻先に向け、無我夢中で砲弾を放った。その内の一発が、向かって左を飛んでいた敵機に当たり、深海に棲む黒い鳥は翼から血のように黒煙の尾を引いて海面に突っ込んだ。

 だがもう一機が止まらない。雷撃高度まで下がった敵はそのまま魚雷を投下、直後に誰かの撃った弾に弾かれてクルクルと回転しながら海に還った。

 

「右舷魚雷接近中!! 回避! 回避!」

 

 叫んだ時にはもう遅い。野分の背後を掠めていった黒い影が、その巨体故にやっと舵が効いて回頭し始めた「硫黄島」の腹に突き刺さる。

 爆圧波は足元からも感じられた。四万トンを超える鋼鉄の要塞は悲鳴のような軋みを上げて持ち上げられ、いくつかの破片が宙を舞った。魚雷は艦首に命中し、そこに巨大な破孔を穿つ。巨艦の速度が一気に鈍り、“彼女”は痛みに呻いているようだった。

 

「クソッ。クソッ!!」

 

 母艦を守れなかったことに野分は悪態を漏らす。もう少し撃墜が早ければ、雷撃を被弾することはなかったはずだ。

 甲板を打ち破って艦内に侵入し、炸裂する航空爆弾は甚大な火災を生じさせるので脅威だが、喫水線下に穴を開け、浸水を引き起こして浮力を奪う魚雷はもっと脅威だ。信じられないことに、適切な処置を施されなければ今の一撃で「硫黄島」がその巨体を海に沈めることだってあるのだから。

 

 

「野分!」

 

 悪態と悲鳴といくつかの冷静でまともな指示で埋め尽くされた無線音声の中に、姉妹艦の呼び声が混じる。

 

「野分見て! 敵が引き上げていくよ!」

 

 無線の向こうの舞風が空を指さしているように見えたので、野分もつられて空を見上げる。

 彼女の言う通り、深海艦載機が次々と上昇し始め、北の空へと向かって消えていく。

 

「見ろ! 敵が撤退していくぞ!」

「こちらヴァイパー1。燃料が残り少ない。着艦を求む」

「撃ち方止め! 撃ち方止め!」

 

 オペレーターやヘリのパイロットたちが安堵の声を漏らす。「硫黄島」は大破とも言える大損害を受け、左に傾いている有様だったが沈む気配はなかったし自力航行も可能なようだ。

 生き残ったという安心はあった。けれど、敵が去って行った北の空を見て、野分は言い知れぬ不安に襲われたのだ。

 

 

 

 空が赤い。夕焼けに雲が焼かれているような赤さではなく、そこだけが奇妙に赤いのだ。その証拠に、すでに日没を迎えつつある大空には紺色の暗幕が掛かっており、尚の事北の空の異様さを強調しているように思えた。

 

 あの空の下には鎮守府がある。果たしてあの空の赤さは基地を焼く炎の光が映ったものだろうか。あるいはまた別の理由があってのことだろうか。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 目が覚めると、瞼を開けたつもりなのに視界は暗闇一杯に包まれていた。右を見ても左を見ても、眼球の動きは感じられるが見える物の変化は分からない。

 それでも何度か目を瞬かせていると、その内に暗闇に慣れてようやく周囲の判別が付くようになった。それに合わせて、自分の身体がほとんど動かないことにも気付いた。

 

 どうやら金剛は崩れ落ちた工廠の天井の下敷きになっているらしい。試しに身体を軽くひねってみると、右手と右足に決して小さくない痛みが走り、苦しい喘ぎ声を漏らすはめになった。逆に左足は動かせるし、左腕にも右腕のような圧迫感はない。

 だが、左肩を負傷した影響で左手はほとんど動かせないし、左足だけではどうにもならない。さらに首を回して状況確認を進めると、身体のすぐ傍に艤装が転がっていて、それが崩れて来た天井を支えて床との間に生存空間を作り、金剛はその中に収まったので九死に一生を得たようだった。

 とは言え、手足を挟まれた状況ではどうしようもない。力を籠めても身体が動かないし、そもそも力がうまく入らない。本来ならこの程度の鉄材で出来ただけの天井など、すぐに弾き飛ばしてしまえるものだが、大破したことで出力はだいぶ弱まってしまっているようだった。

 動けなければどうしようもない。瓦礫の隙間からわずかに入り込んで来る光がなければ金剛は物を見ることさえ出来ない状況なのだ。このままいつ来るともしれない、そもそも来るかも分からない救出を待ち続ける他ないのだろうか。いや、もういっそのこと救出はないものと考えた方がいいのかもしれない。

 

 外、つまり崩れた工廠の周囲では、いくつもの水音と重い物を引き摺るような金属の擦れる不快な音が響き、犬のような息遣いも聞こえてきていた。金剛が埋まった瓦礫の上を何かが歩き、すっかり鉄くずの山となった工廠を乗り越えていく。外に居るのは思ったよりも多くの“奴ら”で、目を閉じれば海から這い上がって来た魔物たちの群がちょうどこの辺りを徘徊している光景が思い浮かぶ。

 

 やがてそれらに交じって耳をつんざく轟音が鳴り響いた。それも、いくつも重なって。

 また、着弾音と思しき破裂音も轟き、二次爆発を起こしているのか無秩序に爆音が続いた。

 

 

 破壊が進む。爆発。火災。崩壊。

 

 金剛の見知ったものが、見慣れたものが、十余年を過ごした日常のすべてが、無慈悲で冷酷でそのくせ苛烈で容赦のない暴力によって、ただひたすらの瓦礫に変えられていく。地面には大穴が空き、建っていた物すべては倒壊して面影さえ失う。四季の移ろいに合わせて葉の色を変えた並木は、いつもミツバチを侍らしていた可憐な花々は、何度も歩いた艦娘寮から裏門へ続く変哲のないアスファルトの道は、赤城と加賀が鍛錬を欠かさず汗を流していた弓道場は……。

 

 何もかもが撃ち抜かれ、吹き飛ばされ、崩れていく。

 けれども、金剛は何も出来ない。瓦礫に埋まり、手足を抑えられては動きようもなかった。

 

 日常が破壊されていくのを、音を聞いて光景を思い浮かべるだけで直接目の当たりに出来ないのは果たして良いのか悪いのか。

 

 

 

 

 結局、またこうだ。

 

 金剛はまた、自分の大切なモノ、守りたいモノが失われていくのを、ただの傍観者として横で見聞きする権利しか与えられない。歯噛みしながら取り返しのつかない事態の進行をただただ眺めているだけしか出来ない。戦艦と呼ばれる力を持ちながら、守りたいモノの一つたりとて守れやしないのだ!

 

 加賀だってそうだ。

 堅牢な装甲で傷付いた彼女を守ることが出来ず、冷たい海の底に沈めてしまった。

 

 赤城もそうだ。

 彼女は負傷の果てに深海棲艦へと身を落とし、仲間へ砲撃することすら躊躇う素振りを見せなくなってしまった。

 

 鎮守府だってそうだ。

 決して長くはないけれど、仲間たちと出会えたこの地に金剛は少なくない愛着を抱いていたのに、守る権利すら剥奪されて横たわりながら破壊される音を聞いているしかない。

 

 

 世界で最も硬い鉱物の名を背負っているのに、金剛は害意と殺意の込められた砲弾を弾き返せなかった。

 護法の天部に名を借りているのに、懲悪を為せず撃退することさえも叶わなかった。

 最古参の艦娘と称えられようとも、演習では大和型に負けぬ戦いぶりで畏怖を集めようとも、実際に戦いに出てみれば金剛は、誰も、何も守れぬ情けない女でしかなかった。無様に打ち倒され、血を流して瓦礫に埋まり、死にきれず、さりとて命を賭してなお戦い続けることも許されず、それどころか敵に存在さえ気付いてもらえず、噎び泣きながら悔しさに胸を押し潰されるしかない。

 まだ自分はこんなに泣けるのかと驚くくらい、涙は次から次へと止まる気配を見せずに流れ落ちた。両手を動かせぬ金剛は感情に振り回されるまま。嗚咽を漏らしても、騒がしい外の喧噪にまぎれて深海棲艦が気付くことはない。

 

 

 

 金剛は泣き続けた。涙をぬぐうことが出来ない。

 

 脳裏にはいろんな人たちのいろんな顔が浮かび上がって、心は締め付けられるようにきりきりと痛む。

 

 

 

 

 艦娘としての適性が現れず、重圧に潰れて自殺した妹のことをほとんど語らなかった加賀。その深い悲しみは決して表に出されず、彼女は心の奥底に仕舞い込んでいた。一航戦の一人として、初期から頭角を現していた偉大な姉に、加賀の妹は最大の敬意と憧憬を抱いていたのだろう。同じく艦娘を目指した彼女には、しかし艦娘としての適性は現れなかった。そして、姉があまりにも偉大過ぎたがため、妹は艦娘になれなかった絶望と重圧に圧し潰されて海に身を投げたのだった。

 

 赤城も同じく姉妹を喪っている。彼女の場合は姉。純粋な災害による殉死であり、赤城にはなんらの過失もないことだったのだが、彼女にとっては耐え難い喪失だったに違いない。引きこもった赤城を部屋から引っ張り出したのが加賀だった。それでも当初は二人はただ同じ部隊の同僚でしかなかったのだろう。関係性が明確に変化したのは、加賀の妹が自殺してから。ただ、二人の間の何が変わったのかを、金剛ははっきりと言葉には出来ない。

 

 川内は今の鎮守府に来たばかりの頃、相当荒んでいて、誰も近寄らせなかった。目の前で艦娘が沈むところを見たという彼女の心に大きな傷があったのは一目瞭然だった。そんな彼女が、倉庫を背に防波堤で一服していた金剛に目を付けて近寄って来たので、煙草の吸い方を教えたのは何時だっただろうか。彼女の異動があってからそれほど時間が経っていない頃だったように思う。その後、金剛は喫煙を辞めたが、川内は今日まできちんと制限を設けながらも吸い続けているはずだ。

 

 木曾は昔、北方海域で戦っていた頃、ある海戦で部下の艦娘を失い、自らも手酷い傷を負って逃げ帰ったことがあった。その時の記憶は、本人が酒でも飲まない限り決して話そうとしない、とても無様で情けない、思い出したくもないものなのだろう。不思議なことに、手足を吹っ飛ばされようが修復材を浴びれば元通りになる艦娘にもかかわらず、その海戦で負った右目の傷が消えることは決してなかった。何故なら、木曾自身が敗北した証としてその傷を残すことを望んでいるからだと、本人から聞いたことがある。

 

 曙のキャリアはこの鎮守府で始まったから、新兵の時代から金剛が世話を見ている一人だった。彼女は強がりで、意地っ張りで、面倒な性格をしていた。その上極端な負けず嫌いで、仲間思いで、とても優しい心の持ち主でもあった。理不尽なことを決して許さない、真っ直ぐな性格なのだ。だから、彼女が、彼女たち第七駆逐隊が、大切にしていた仲間の一人が戦場のストレスに耐え切れず、精神のバランスを崩したことを、曙はどこまでも悔いている。その艦娘が戦闘の恐怖に打ち勝てず、鎮守府の裏山に逃げ込んだ時、一晩中声が枯れるまで彼女の名前を呼び続けながら探していた曙の姿を、今でも克明に覚えている。

 

 漣はノリの軽い性格からか、金剛とは比較的ウマが合った。彼女は誰とでもすぐに仲良くなれたし、隣に居てくれると明るい気分になれる類の人柄の持ち主だ。だから“ウマが合う”のも別に金剛だけではなかったし、親しい間柄の相手は鎮守府の中にたくさん持っていただろう。その中でもとりわけ加賀は彼女と格別に“ウマが合って”お互いがお互いを特別視していた。あの二人は心が通じ合っていたんだと本気で思う。二人の間に何があったのかは分からないが、漣の姉妹艦が居なくなった時、彼女を支えたのはその痛みを誰よりも深く理解していた加賀だったのだ。そうでなければあの漣が人目も憚らず慟哭したりするものか。あの漣が。“フレンドリーでノリの軽い”という自分のキャラクターを大切にしていたあの漣が。

 

 潮はその点、一番厄介な子だったかもしれない。何故なら彼女は本音を絶対に外に出そうとはせず、常に一歩引いたところから静かに見守っているような娘だったのだ。曙や漣がどれ程嘆こうとも、潮は一滴も涙を流さず、ただただ悲しそうな顔をしているだけだった。だからこそ、金剛には彼女が他の二人よりもずっと脆いのだ思った。けれど、声を掛けても、酒を飲ませても、散歩に連れ出しても、潮はなかなか思っていることを口にせず、随分とやきもきさせてくれたものだ。ようやく彼女が本心を吐露したのは、ある戦いで金剛が彼女を庇って大破した時。潮は、普段なら絶対に出さないような大声でこう叫んだ。「私の前から居なくならないでください」

 

 明るさと朗らかさで言えば舞風は漣に劣らないムードメーカーである。南方での辛い経験を引き摺ってやって来た彼女は、それはそれはもう痛ましいくらいに空元気を発揮し、無理矢理に明るく振舞っていた。彼女はよく笑ったけれど、誰もがその笑顔が本心からのものでないことに気付いてた。誰も僚艦であり姉妹艦を喪った彼女に掛けるべき言葉など持っていなかった。だから金剛は言葉ではなく踊りを教えた。教養の範疇で、金剛自身がある人物から教わったものだ。元よりダンス好きな舞風が、ワルツやタンゴ、タップとレパートリーを増やしていくのに時間はそう掛からず、時が経つにつれ彼女は本当に弾けるような笑顔を見せるようになった。

 

 その点で言えば、野分の方が手こずったかもしれない。生まれついての性格から前向きな気質のあった舞風に比べ、野分はその逆だった。本当にこの二人は凹凸のよく噛み合ったコンビだと思う。彼女も舞風と同じく言葉を必要としておらず、だから金剛は戦い方を教えた。職務に対して真摯に取り組む野分には、実力をより伸ばす方向で成長を与えた方が良いだろうと判断したのだ。戦艦と駆逐艦では想定している敵も武器も戦い方も違ったけれど、自身の豊富な経験をもって金剛は野分を鍛えた。

 

 

 

 

 皆、金剛の教え子であり後輩であり、大切な仲間だった。皆、大切な誰かを喪った。決して癒えきることのない傷を負い、涙も枯れ果てるほど流し尽くして、けれどきっといつか本当に笑い合える日々が訪れることを信じていた。

 皆、誰かを喪ったからこそ、今となりに居る仲間を思い合うのだ。自分と同じ悲しみを背負っている。同じ重しをしょい込んでいる。だから赤城はこの面子を集めたのだろう。

 愛する人を唐突に、理不尽に、奪い去られる「別離」という名の毒。その毒がもたらす苦痛を誰よりも分かっていた赤城だからこそ、孤独になろうとしていた艦娘たちを自らの周りに集めた。曙、漣、潮の三人を異動させなかったのも、木曾と川内、舞風と野分を引っ張り込んだのも、すべてはそのためだったのだ。結果的に一航戦を中心としてコンパクトにまとまった質の高い部隊が出来上がったのも、皆どこかで悲しみを分かち合える仲間同士だったから。

 

 そんな彼女たちと戦えることが誇りだった。誰もが深く傷付き、そして誰もがそれを乗り越えて強くなった。ただ一緒に実戦に出ただけでは得られぬ尊いもの。深いところで繋がった仲間たちこそが、金剛の誇りそのものだったのだ。

 

 

 だが、その誇りは今や崩壊する鎮守府の中に埋もれた。

 

 

 

 金剛は左手を動かす。肩から突き刺すような激痛が走り、腕は針金が仕込まれたように動かし辛いが、無理にでも左手を頭の横に持っていき、そこに転がっていた副砲を手に取る。通常、金剛の副砲というのは防循と一体化した巨大な砲台に埋め込まれているのだが、実は取り外して手に持つことも出来た。

 傍らに転がった砲台から、副砲を取り外そうとするが、いかんせん力の入らない片手だけでは上手く出来なかった。おまけに動かせば動かすほど痛みが走るので、金剛はしばらく荒い息を吐いて休憩しなければならなかった。

 気を取り直してもう一度不自由な左手でいじると、ガコンと音がして副砲が外れる。外した状態でも砲弾は装填され、指で引き金を引くことで発射可能だ。

 金剛はもう痛みで麻痺しかけている左腕を震わせながら(そして震えで思うように動かないことに若干苛立ちながら)、意志の力で副砲を構える。その砲口を、自らの耳元に突き付けて。

 砲塔はヌルヌルとした液体に濡れていたし、耳に砲口が触れると思いの外冷たい感触に背筋を何かが走った。

 この位置からなら確実に頭を吹き飛ばせるだろう。「女神の守り」が効いていたとしても、既に大破状態だし、至近距離からの15㎝副砲の砲撃を弾けはしない。

 

 もうこれ以上居られなかった。戦えなくなるほど無様に打ちのめされ、瓦礫に埋もれて逃げるどころか動くことすら不可能。しかし、死ぬことが許されるわけでもなく、ただ時間が過ぎ、基地が破壊され、味方が撃たれるのを黙って聞いているしかない。これが生き地獄でないなら、何だというのだろう?

 金剛という艦娘が今まで築き上げてきたもの、積み上げてきたもの。その全てがふいになる。無様を通り越して、生き恥を通り越して、誰にも知覚されぬまま埋もれ続けるなど到底耐えられない。このまま死ぬことも戦うことも許されず横たわっていることしか出来ないなら、一体今までの人生というのは何だったのだろう。こんな末路しか用意されていないのだとしたら、自分は何のために自由を奪われ生きてきたのだろう。大切なものも守れぬ己に、一体如何ほどの価値があるというのだろう。

 

 考えれば考えるほど、意味を問えば問うほど、胸が引き裂かれそうになる。自分の内に開いた奈落に吸い込まれそうになる。

 

 

「ソウネ。これが、私の……」

 

 

 掠れた呟きは外を騒がす地響きと砲音に紛れて、自分の耳ですらほとんど聞き取れなかった。

 このままここで苦しんでいるくらいなら、いっそ死んだ方が楽になれるかもしれない。どうせ、意味のない人生だったんだ。

 投げやりな気持ちが胸を支配した。諦めると、心が楽になった。この引き金が、全てを終わらせてくれるのだと思うと、救いは手の届く場所にあるようにさえ思えた。

 嗚咽を上げても、助けてくれる人はいない。慰めてくれる人もいない。泣いても誰も気付かない。

 誰にも気付いてもらえないなら、それは生きているとは言えないのではないか。ならば、頭を撃ち抜いて死んでいるのと変わらない状態じゃないか。

 

 

 金剛はゆっくりと目を閉じる。

 薄暗闇が完全な暗闇に代わる。瞼の外に光がほとんどないから、瞳を閉じればそこは完全な漆黒が横たわっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 さあ、世界に別れを告げよう。

 

 さようならと言おう。叫んだところで、深海棲艦の耳にさえ届かない。

 

 

 

 

 

 引き金に指を掛ける。砲弾は装填済み。音速を超えた鉄塊が頭を叩き割るのは一瞬。

 

 自由を奪われ、祖国に売られ、異国の地ではいいように使われて、戦争に明け暮れていた。それでも腐らずに仲間を守り続けてきたし、長く暮らしたこの街と鎮守府が第二の故郷に思えて、それなりに愛着を持っていた。

 

 

 

 

 だけれども、全ては一瞬の暴力によって奪われた。加賀は沈み、赤城は絶望に堕ち、第二の故郷は戦火に焼かれた。

 

 焼け落ちる基地と共に、金剛の誇りも灰になった。

 

 守ってきたものなんて簡単に略奪され、破壊される。結局のところ、金剛の人生は奪われるばかりだったのかもしれない。

 

 でも、それももう終わり。ようやく、しがらみから解放される。最後にせめてこの命だけは自分の自由にしてやろうと、他の誰でもなく自分自身で決着をつけてやろうと思った。他人にも化け物にも、運命にさえも己の命だけは奪わせなかったのなら、少しだけ勝ち誇れるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 だから、歓喜の歌を歌おう。火のように酔いしれて、崇高な歓喜の聖所に飛び込もう。

 

 例えこの先に虚無があろうとも、今この虚しさに包まれるよりは余程ましではないか!

 

 

 

 

 さらば、世界よ。さらば……、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――貴女が私を受け入れてくれるまで。戦争が終わって帰って来た時に私にキスしてくれるまで。ずっと、ずっと待っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 咆哮。

 

 

 

 

 天を割り、地を震わせる怒号。

 

 

 

 

 

 伸し掛かっていた鉄の屋根は乗っていた深海棲艦諸共空高く舞い、弾き飛ばされた鋼材が四方に巻き散らされ、周辺の異形をただその勢いと質量をもって叩き潰す。

 全身を血が巡っていた。洪水のように果てしない勢いで血は血管を流れた。

 赤血球が細胞の一つひとつにまで力を充填していくのを感じながら、金剛は艤装を背負い立ち上がった。瓦礫の山があったそこは、まるでカルデラ火山のように窪みを作り、その中心に鬼神の如き表情の戦艦が立つ。

 

 周囲の全ては敵だった。工廠の周辺に上陸した深海棲艦の大部隊。瓦礫が吹き飛ばされた衝撃からまだ復帰出来ていない魑魅魍魎を闘志に燃える双眸が睥睨し、鬼神は主砲を鳴らした。

 

 

 

 

 炸裂するは怒りの砲撃。轟き渡るは激昂の雄叫び。

 

 

 次々と深海棲艦が撃ち抜かれていき、無数の肉片となって千切れ飛ぶ。狙いを付けなくとも撃てば敵に当たった。ほとんど奇襲と言ってもいい金剛の砲撃に深海棲艦の隊列は総崩れになり、一隻たりとも有効な反撃を撃てていない。元より、知能に劣る深海魚の延長線上にあるような連中だ。鬼・姫クラスでもなければ、金剛の敵ではない。

 

 

 

 

 ここに立つのは、艦娘の祖。

 

 名にし負うヴァジュラダラ。

 

 不沈の戦乙女。

 

 これ則ち、優麗にして勇壮なる金剛型一番艦。

 

 

 

 

 

 天蓋を割り、大地を激震させる36㎝砲の轟き。深海の亡霊どもを海の底に叩き返す金剛石の槌を振り回し、乙女は戦場に踊る。

 

 

 

 

 土壇場でどこからか流れ出していた修復材の液が満身創痍だった金剛の身体を治したのだ。それは瓦礫に埋まるだけだった彼女に力を取り戻させ、復活の礎となる。ただ、金剛は何もそこまで計算していたわけではない。

 

 一つの想いが頭を支配した。一人の女の顔が脳裏によぎった。

 

 

 まだ、返事をしていないじゃないか。

 

 

 彼女の愛の告白をないがしろにしたまま死ぬことなんて出来るはずがない! 金剛にはどう屁理屈を捏ねたって絶対に無理だったのだ!!

 

 

 

 

「こんなところで死ねるわけナイネーッ!!」

 

 絶叫しながら、工廠前の広場でうろたえていたル級の頭を弾き飛ばす。翻れば重巡リ級が工廠の瓦礫の上から狙っていたので、足元の鋼材を蹴飛ばしてやると、見事に顎に当たって視界から消え失せた。手近に居たヘ級を副砲で薙ぎ払うと、再装填された主砲を三隻の駆逐艦がまとまって陸へ這い上がろうとしていたところに撃ち込んで地獄まで吹き飛ばす。

 

 

 

 もう一度会うんだ。

 

 金剛は決意した。永遠の別離ではない。例え引き裂かれたとしても、彼女はまだ手の届くところに居るのだから! ペール・ギュントだって最後はソルヴェイグに再会して真実の愛を知ったではないか。

 今度こそちゃんと返事をする。もう二十年も先延ばしにしていたその言葉を、面と向かって告げる。それが真実の愛を告白してくれた掛け替えのない彼女への、唯一の心ある答えだ。

 何より、また彼女の愛おしい顔を見たかった。「ウォースパイト」なんていうこまっしゃくれた仮面を引っぺがして、不細工な嬉し泣きをこの目に収めてやるのだ。あの子はきっと百年の恋も冷めるようなくしゃくしゃな顔で泣くだろう。清楚で高貴な旗艦? 浮いた話の一つもない? そりゃそうだ。あの泣き顔を見たらどんなイタリア男だって白けてしまう。世界で唯一、彼女の泣き顔を愛せるのは金剛だけなのだから!

 

 会ったら何と言おう? この二十年の話を、頼もしく誇り高い仲間たちを自慢しようか。それとも自分が上げた戦果をひけらかそうか。

 

 いや、何よりも真っ先に言うべきことがある。何を置いても、まず口にしなければならない言葉がある。

 少し、練習しよう。その時になったら、案外上手く言えないことだってある。何しろ金剛だってこんな言葉、口にしたことがなかったのだから。

 どもったり噛んだりしたら、死ぬほど格好悪い。

 

 

 

「I love you!」

 

 

 恥ずかしいから練習の言葉は主砲が火を噴く時の轟音でかき消した。誰も聞いていない。だからノーカウント。

 

 

「I love you!! "Mary"!!」

 

 

 

 

 

 金剛は駆け出した。

 

 潜水艦のくせに陸地に揚がったカ級を蹴り飛ばし、海から砲撃して来たタ級に水平射撃をぶち込んで細切れにして、工廠から少し離れた岸壁に伸し掛かって気持ち悪い何かを吐き出している輸送艦の群に副砲をしこたま撃ち込んだ。

 

 そして立ち止まり、空を見上げる。腹の底から湧き上がって来た感情が抑えられず、口を開けて笑った。

 天はいつの間にか紅色の霧のようなものに覆われている。本来暗幕を飾る星々のきらめきは紅霧に隠され、月明かりさえ届かない。天気予報じゃ今晩は快晴だって言っていたのに、見たことも聞いたこともない天気になっている。

 

 

 ほら、見ろ! 

 

 

 戦乙女は叫んだ。

 神は居るかどうか分からないが、悪魔は確実に居る。紅い霧はあの小さな悪魔の仕業に違いない。

 

 金剛は笑う。獰猛な肉食獣の如き形相で天を仰ぎ、笑う。

 

 

 

 ヤツが戻って来たのだ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




Come back Flandre!


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