レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督32 Into the Dusk Horizon 3

 

 

 工廠が爆撃を受けて崩壊するのを目の当たりにした時、川内の心中はどうしようもない虚無に覆われてしまった。深手を負った金剛があの崩壊の中で生き延びられたとは思えない。新たに襲って来た敵の第二波の最初の一発が、ものの見事に整備工廠に直撃し、一瞬にして鉄の屋根で作られた天井を地上に落としてしまったのだ。

 金剛を助けに行くことは叶わなかった。地上に居る川内を発見した敵機がこちらに向かって来て、川内は逃げなければならなかったからだ。

 地面を蹴ったところで艦娘は速く走れないけれど、対空砲を遮二無二撃ちながら逃げ惑えば案外避けられるもので、近くに着弾した衝撃で二度三度転がされながらも、川内は何とか爆撃をしのいでいた。その内に敵機が何故か街の方向へ向かって行くので何とか首の皮一枚繋がった状況だった。

 けれども、襲っていた深海艦載機の中には、明らかに鎮守府の中から発艦したと思われる機体が混ざっていたことは、川内に決して浅くない傷を残している。ショックがあまりに強すぎて、敵機が襲って来ないことが分かっても、川内は折れた木の幹に身を預けてしばらく息を整えなければならなかった。

 

 

 

 あれは、川内の予想が正しいなら、赤城が発艦させたのではないか?

 

 深海棲艦の上陸はまだのはず。ならば、基地の中に居る“深海棲艦”は赤城一人だけ。

 それが意味するところを分からぬ川内ではない。けれど、だからと言って出来ることはなく、視界の中に現れた黒い影を見付けると猶更そうだった。

 ばったり、という言葉がぴったりな状況だ。休憩もそこそこに、爆撃をやり過ごして工廠へ向かおうとしていた川内は、ちょうどその周辺から上陸して来た深海棲艦の群れと遭遇してしまったのだ。気付いた時にはもう遅く、背中を見せて咄嗟に駆け出した川内に砲弾が放たれていた。

 

 工廠から東へ、通信所の傍を走る。元々そこには基地の中で一番高い通信塔が建っていたのだが、第一波の爆撃で足元を崩されたのか、見事に横倒しになってしまっていて、塔の先端が建造ドッグに突っ込んでいた。鉄骨の歪んだ塔が通信所と建造ドッグの間の道を塞いでしまっているので、川内は鉄骨をくぐらなければならなかったのだが、当然足は遅くなる。そこに敵の砲弾が着弾し、背後から爆圧を受けた川内は前へと飛ばされ、鉄塔に激突した。

 周囲にどかどかと砲弾が降り注ぎ、爆発の嵐に為すがままになって軽巡は地面を転がる。何が起こったか分からない内に、絶え間なく叩き付けられ、気付いた時には全身の感覚がなくなっていた。敵の攻撃が一旦止むと、ようやく自分が地面に手足を投げ打って、動けないことを認識する。

 

 激痛は最早感じないし、手足はちっとも言うことを聞かなかった。「女神の護り」が緩和しない衝撃が全身を叩き、川内の身体からスタミナを奪い去っていたのだ。かろうじて動く頭を転がして駆けて来た方を見ると、ル級がゆっくりと歩み寄って来ていた。

 

 

 両手に持った主砲と一体化した巨大な防循が川内を狙う。

 ツイてないなと川内は自嘲する。衝撃の抜けきらない身体ではどうやったって次の一撃を避けることは不可能だし、軽巡の川内が戦艦の砲撃に耐え得る装甲を持っているわけもない。

 ル級は獲物に動く気配がないと分かっているのか、すぐには撃たずに一歩一歩近づいて来る。路上を塞いでいた通信塔の残骸は先程の砲撃で中程が吹き飛んで、地面には折れ、千切られた鉄骨や転がった川内から外れた艤装の一部が散乱していた。その上を、ル級は悠々と歩く。

 

 

 

 

 そうだよ。もっと来い。

 

 いつ撃たれるかは分からない。が、どうやら嗜虐的な性格らしいこのル級は、無抵抗の川内に死を覚悟させる十分な時間を与えるつもりらしかった。深海の戦艦は鉄塔の残骸を乗り越え、川内の艤装を足で蹴散らして、もう手の届きそうな場所までやって来る。そしておもむろに立ち止まると、重そうに防循を地面に立て、主砲の俯角を大きく取って目の前の川内に砲口を向けた。

 口には実に邪な笑みが浮かんでおり、深海棲艦にしてはいたく悪辣な人間味がある奴だ。人類にとって悪役である彼らは、悪役らしく歪んだ性格をしている。ただし、足元が疎かになるのも、悪役にふさわしい振舞いだ。すっかり目の前の弱り切った獲物への警戒を解き、嗜虐に酔っているル級は、砲撃で飛ばされた川内から脱落した魚雷発射管が足元に落ちているのに気付いていない。その魚雷発射管を、川内の副砲が狙っていることにも、だ。

 もちろん魚雷発射管には魚雷が装填済みであり、だから川内はそれを躊躇なく撃ち抜いた。

 土壇場でル級が気付いたが、ほぼ何も出来ないまま敵は足元の爆発に宙高く打ち上げられる。爆音と閃光によって視覚と聴覚を奪われ、再度爆発によって吹き飛んだ川内は、何度も地面に身体を打ち付け、ブレの酷いカメラ映像のような視界を認識しつつ、気付けば木立の中に居た。

 

 辺りには濛々と土煙が舞い上がり、その向こうから散発的な砲撃音が轟いては少し離れた地面を抉っていく。

 頭を打ち付けたのか、しばらく「木立の中で転がっていること」以上の状況を理解出来なかった。ようやく認識と記憶が結びついて、なぜ今こんなことになっているのかを思い出した頃には、とても悠長な考え事をするわけにはいかなくなっていた。身体の感覚が少しずつ戻って来ると、強烈な吐き気がしてその場に横たわりながら込み上げて来たものを吐き出したけれど、口の端から垂れたのは赤色の混じった苦くて粘っこい液体だけだった。

 

 吐き気が収まるまで吐くと、川内は焼けるような喉の痛みに軽く呻いた。身体を起こそうとして、背筋に痛みが走ってさらにもう一度苦しい呻きを上げる。

 肘を立てて上体を支え上げようとすると肘が震える。膝を立てようとすると足が震える。立ち上がるのに失敗して転がると、左脇腹から右肩まで鋭い痛みが突き抜けた。鼻に鼻水か何かが付着していて呼吸の邪魔になったので乱雑に手の甲で拭うと、真っ赤だったので鼻血だ。口を開けて息をすると、ぐふゅう、ぐふゅう、と間の抜けた音がした。

 

 それでも立たなければならない。土煙の向こう側を警戒しているのか、ル級に続く深海棲艦は居ないが、それが川内を探しに来るのも時間の問題だろう。激痛に歯を食いしばりながら力の入らない手足で体を持ち上げ、川内はよろよろと生まれたての小鹿のように震えながら立ち上がった。

 まともに足が上がらない。歩こうにも航行ユニットの底で地表を擦るような一歩になる。それでもその場に寝転がっているよりは余程ましだったから、最早どこに異常があるのかを感知する機能すら破綻した身体を引き摺って進む。海沿いの道から坂には上がったところに艦娘寮がある。そこに身を隠そうと思った。

 

 

 

 坂、と言っても道があるわけではない。緑地化と言うより人目から隠すために植えられた広葉樹の木立がある斜面を登るのだ。木の幹を掴んで身体を引っ張り上げながら、まさしく牛歩の遅さで寮へと向かう。

 爆発の衝撃で一時的に機能不全になっていた聴覚が少しだけ戻って来る。顔を上げて周りを見回す気力もないので、わずかばかり意識を音に集中させると、鎮守府の中を荒らす深海棲艦の砲撃音が鳴り響いていた。追って来ている気配はないようなので、土煙に見えなくなった川内のことは諦めたか、死んだと断じたのだろう。

 その判断は間違いではないな、と川内は自嘲する。誰だって、それこそ深海棲艦だって、今の自分を見たら最早動く屍同然になったと思うだろうし、無力化されているのは事実だ。ここが陸地であるだけで、もし海の上だったなら艤装が浮力を失ってとうに沈んでいたかもしれない。兵装は副砲だけになり、装甲は既に機能しなくなっている。ここまで手酷くやられたのは覚えている限りでは一度もなかった。

 

 身体は鉄で出来ているかのように重く、坂を登るのにひどく時間が掛かった。それでもようやく斜面を登りきると、まだ無傷な艦娘寮がそびえている。三階建ての、特に変哲のない建物だから深海棲艦もあまり重視していないのかもしれない。幸いにして身を隠すには悪くない場所だ。

 

 

 

 

 ああ、そう言えばと川内は思い出す。

 

 何でこんな時にこんなことを、という自問も同時に生まれたが、それはさて置き、ふと脳裏に浮かんだことがあるのだ。レミリアは頻繁に鎮守府の中を歩き回り、色んな人々との交流を図っていたので基地の至る所でその姿を目撃したが、終ぞ艦娘寮で見掛けることはなかった。その理由を聞いたわけではないし、そもそも今初めてその事実を認識したのだから、あんまり気にならなかったのだろう。

 

 しかし、何故? という疑問が浮かんだ。艦娘寮にはその名の通り艦娘しか住んでいないので、日中は人気がないから来る理由もないのかもしれないが、とは言えいつも完全に無人になるわけではないから、来ていてもおかしくはなかった。

 

 

 

 川内は艦娘寮の建物を回り込み、裏庭に出る。そこは寮と弓道場の間隙に申し訳程度に芝生を植えた、さほど飾り気があるものでもない庭で、日当たりだけは良かったので非番に日向ぼっこをする艦娘がちらほら見られた場所だ。逆を言えばその程度のものでしかなかったのだし、吸血鬼だというレミリアにはおよそ関係のない場所だっただろう。

 

 

 

 

 

 彼女はここに来なかった。何時でも何処でも居ると思われたレミリアでさえ、来なかった。

 理由は分からない。けれど、それはとても重要なことのように思えた。何か、忘れてはならないことを示唆しているような気がした。

 

 

 

 

 

 そう。例えばの話。

 彼女は本当に助けに来てくれるのか?

 彼女だって来ない場所がある。来れない時と場合もあるだろう。

 それが今日だったら……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 川内は足を止めた。自分がとても恐ろしい可能性に気付いてしまったからだ。

 

 

 

「まさか……」

 

 

 

 乾いた笑いが口から漏れるけれど、どうしてもそれを否定しきれない。

 

 レミリアは消えたのだ。彼女が死んだとは思わないが、「幻想」であるレミリアはその本来の棲み処であるはずの「幻想郷」に帰ったのではないか。この世界から追い出された怪異たちが最後に求める安寧の地に。紙の裏表のようにそれはそこにあって、けれど永遠に交わることのない場所に。

 

 

 レミリアは――、

 

 

 

 

 

「うっ……」

 

 足から急に力が抜けて膝を着いた。身体の芯から何かが込み上げて来る。

 気持ちの悪い、言いようのない感覚。それは津波が陸地を浸食するように急速に川内の全身に拡大する。血管を冷たい液体が流れ、身体中を巡っているような気もした。

 自分が何か別なモノに変わっていく。血は温度を失い、骨が熱を発し、筋肉の細胞が裏返って内臓が溶けるような悍ましい感触。両腕で自分を抱いてみたけれど、何故か体温が感じられず、そのことに愕然として川内は凍り付いた。

 

 あり得ないと言い切れないその可能性を。目の前で実際に目撃したその現象を。

 

「待って……」

 

 それが起こることと轟沈は必ずしも同義ではない。嵐は沈む前に変化したし、彼女はその後も死にはしなかった。「赤城」が艦娘にあらざる異形へと変化していくのもこの目でたった今焼き付けてきたばかりじゃないか。しかも理性を失った彼女からの攻撃を受けていた。

 

 同じことが我が身に起きないなんて、誰が保障してくれていたのだ?

 

 レミリアを信じたから大丈夫だった? じゃあ信じなくなったらどうなる?

 

 

 

 自分への解釈の変化がそれを引き起こす触媒となる。では、自我の喪失とでも言うべきその解釈は、いつ、どのように、何をきっかけに、起こるのだろうか。艦娘は、何を失った時に自分さえも見失ってしまうのだろうか。

 川内には加賀のような相棒と呼べる存在は居ない。強いて言うなら第四駆逐隊がそうだが、彼女たちは「硫黄島」と共に避難したし、おそらくは健在なはず。

 

 であるならば、艦娘が深海棲艦化を受け入れてしまうのは……、

 

 

 

 

「萩風と嵐は姉妹との離別。赤城さんは加賀さんの喪失」

 

 艦娘が何かを失った時、それは起こる。何かとは、在り来たりな言葉では言い表せない、その艦娘の精神的支柱、あるいは根幹を為すもの。

 駆逐艦たちの場合は同じ部隊の仲間だった。

 一航戦の場合は彼女の支えでもあった掛け替えのない相棒。

 

 

 では川内は何か。川内は、何を失ったのか?

 

 

 

 

 

 ――レミリア以外の何があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、お嬢様」

 

 彼女は川内の前から消えた。彼女を追放した金剛に対して激怒して見せたのはそのためだ。

 

「ごめんなさい、お嬢様……」

 

 川内は今、何を思った? 誰を疑った?

 レミリアが助けに来ないなんて思ってしまったんだ?

 

「許してよ、お嬢様……」

 

 契約の対価を支払わなかった時、当然ペナルティが発生するだろう。

 川内は四駆の二人を救うために、悪魔に魂を売った。レミリアを信じると誓った。

 なのに、それを反故にしてしまったら。信じると誓った相手を疑ったら。

 

「ごめん。ごめんなさい」

 

 

 

 

 抱き寄せていた両手を見る。指先が、どうしてこんなに白くなっているのだろう? まるで、水に長いこと浸けていたようにふやけて真っ青だ。

 身体を流れる血は水銀のように硬く冷たい。それに反して、骨はそれ自体が熱源であるように熱い。

 自分は今、深海棲艦へと少しずつ変化していっているのだと、そう認識した。

 もう、人と同じものを見れなくなる。人と同じ音を聞けなくなる。人と同じ心を持てなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――化け物は、この世に存在することすら認められないのですわ。

 

 ――ならば私の顛末は、これが定めというもの。

 

 ――貴女も普通とは違う力をお持ちですから、こうはならないように気を付けて下さい。

 

 

 

 記憶の中から引っ張り上げられたのは、もう何年も前の出来事で。その時相対した彼女は、そんな言葉を残して自らを没せしめた。総てを諦めたような、それでいて寂しそうな、悲しい微笑みを浮かべて。

 

 予言だった。彼女の忠告は見事的中した。

 思えば、あの艦娘は何か悟っていたのだろう。だからこそ悲劇の結末を自ら選択し、ああ言えたのだ。今まさに化け物に成り下がろうとして、ようやく川内は言葉の意味を身に染みて理解する。

 

 

 

 

 

 遠くで砲音が鳴り響いて空気を震わせた。それにプロペラ音も紛れていた。

 いよいよ、深海棲艦が基地の中を荒らし始めたようだ。いずれ、近い内にこの場所にもやって来るだろう。残っていた艦娘寮も破壊されてしまうのも時間の問題だ。川内は、その前にもう理性を失い、心を失っているかもしれない。何より、ここにはレミリアが居ないのだから。

 

 ずっと、低いプロペラ音が頭上から降って来る。同じところを旋回しているようだ。

 胡乱な目で川内は空を見上げる。耳元に寄り付く鬱陶しい蚊を睨むように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あり得ないはずの光景。

 

 この空には、異形の深海艦載機しか飛んでいないはずだった。その飛翔音は飛行機とは思えぬような、さながらSF映画でUFOが飛んでいるような音がする。一方で、艦娘が飛ばすのはプロペラの艦載機で、この鎮守府にはそれが出来る人物は一人しか居なかったはずだ。川内も金剛も、水上機は持ち出していなかったから、艦載機扱いが可能なのは赤城だけだった。

 

 けれどその赤城も深海棲艦に身を堕とした。だから、弓を使ってプロペラ機を発艦させられないはずなのに。

 だったら、空を飛んでいるあれはどこの艦載機なのだろう? 味方を表す濃緑色と日の丸。左右に真っ直ぐ広げられた主翼と、尾翼までほっそりとスマートに伸びる機体。尾部の赤い帯は、一本。

 

 

 

 

 

 

 あれはそう。彩雲だったはずだ。

 艦隊で彩雲を運用していたのは旗艦を務めることの多かった赤城。もちろん、加賀も扱えたがメインはやはり赤城だった。旗艦である彼女が情報を集めるのに重宝していた偵察機である。何より、あの識別帯は赤城の艦載機であることの証左だ。

 

 しかし、今の赤城には彩雲の扱いは出来ないはず。ならば、飛んでいるあれはどこの所属か?

 

 そんな川内の疑問に答えようともせず、何かを伝えんと彩雲は大きな弧を描きながら旋回し続ける。その中心には、真円の満月。

 今朝のブリーフィングで、確か今晩は満月だと言っていた。

 だが、こんなに大きかっただろうか? 試しに手を伸ばして広げてみると、五本の指の先まですっぽりと満月に収まる。スーパームーンなんてものじゃない。こんなに大きい満月があっただろうか。まるで目の前にあるようじゃないか。

 しかも、満月の周囲は紅い霧のような雲が広がっている。また、月も血を塗りたくったように紅い。

 

 そう、コロネハイカラ島で見た時のように。

 

 

 

 

 自分が如何に愚か者であるかを思い知る。

 

 

 

 疑う? 誰を?

 

 失う? 何を?

 

 

 

 

 川内は笑った。

 

 声を大にして笑った。

 

 信じる信じないなんてばからしい。信じようとも信じずにいようとも、彼女は来るのだ。本人がそう宣言したのだし、プライドの高い彼女が実行出来ないことをそう軽々しく口にするわけがないのだから、言った以上はやるということなのだ。

 

 

 

 

 

 

「来たな! デーモンロード!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 身体が熱かった。心は憎しみで溢れていた。

 上半身だけになった加賀の姿がずっと頭から離れない。すべてが憎かった。

 深海棲艦も、敵の罠に気付かなかった間抜けな海軍も、彼女を護りきれなかった役立たずの味方も、そして自分自身も。

 

 弓を射る必要なんてなかった。手を伸ばして目標を指示すれば、愛おしい我が子のような艦載機たちは自在に操ることが出来た。あの、妖精の乗っていたミニチュアなんかよりよっぽど思い通りになる。

 空には自分の艦載機と“彼女”の艦載機が鳥の大群のように飛び回っていて、子供たちの目を通して見る地上の全てを支配していた。“彼女”の力は絶大だった。あらゆるものがことごとく打ち砕かれたし、逃げ惑う人間たちには何一つ出来ないでいた。時折銃を向けて反撃する人間も、空から見ればやっぱり小粒のようなので、怒声すら届かない高みから嘲笑う。“彼女”の子供たちが爆弾を巻き散らす。すると、人工物と名の付く物は全て砕かれ、崩れ、転がり、折れ、飛び上がって叩き付けられる。それを眺めていると胸がすくような気分になった。自分にも“彼女”にも敵う人間なんて居ないし、誰からの反撃も受け付けないのだから。

 

 

 

 空を支配する者が地上も海も支配する。圧倒的な物量を誇る艦載機隊に、いくら愚かな人間や艦娘が豆鉄砲を撃ち上げようと、それは大火に如雨露で水を掛けるようなものでしかない。それはそういうものなのだ。押し寄せるのは死の嵐。何者であろうとも、これに逆らい、抗うことなど出来ようはずもない。

 手始めに海に浮かぶ艦娘を叩く。すると、“彼女”が語り掛けてきて、死に体の艦娘より人間の街を焼き払えと嘯いた。

 

 艦娘たちは打ちのめされた挙句、もはや抵抗する意思すら奪われたように基地を捨てて逃げようとした。東へ。そちらには“彼女”の率いる本体が居るというのに。

 

 

 

 まったく、嘆かわしいことだ。

 

 自分たちの大切な鎮守府を、守るべき土地を見捨てて保身に走るとは、軍人の風上にも置けない。そのような臆病者が軍の中にはうんざりするくらい紛れ込んでいて、だからくだらない机上の空論だけの作戦が立案され、そのツケを現場が支払うことになる。そうでなければ加賀が沈むなどあり得なかったはずだ。栄光の一航戦が、最強の名を欲しいままにしてすべての艦娘の理想を体現していた一航戦が、崩壊するなど起こり得てはならないことだったのだ。

 

 

 

 だから、分からせる。調教する。

 

 力とはどういうものか。恐怖の根源がどこにあるのか。

 慢心の代償には何が支払われるのか。

 

 「赤城」は愚かで学ばない人間たちに、自らの血を以って理解させてやると決心した。全ては愚か者のせいなのだから。

 

 

 

「焼キ尽セ。人間ガ憎イダロウ。海軍ガ憎イダロウ。

ナラバ、オ前ノ思ウママニ鎌ヲ振ルエ! 命ヲ奪イ去レ。ソレハ我ラノ糧ト成リ、コノ胸ノ内ニ燃エ盛ル憎悪ノ炎ノ燃料ト成リ、我ラヲ突キ動カス。純然タル暴力コソガ我ラニ安寧ヲモタラスノダ!」

 

 

 遠くで、近くで、“彼女”の声がする。

 その通りだと思った。憎しみこそが「赤城」の重油。憎悪を募らせることでスクリューが回転する。

 

 全身の手足が熱い。それも骨自体が熱を発しているか、身体の内側が燃えているようだ。「赤城」の中で憎しみが沸き上がれば上がるほど熱量も比例して増大していく。

 

 

 

 

 

 

 ――燃えろ! 堕ちろ!

 

 鎮守府を焼く。街を焼く。

 見慣れた建物に爆弾が落ちてコンクリートの破片が飛び散り、駅に停車したままの電車に直撃してひっくり返し、電波塔を根元から崩して倒壊させる。暴虐と暴力の嵐に哀れな人間たちは悲鳴を上げながら逃げ惑うしかなく、空は「赤城」の支配地となった。

 

 

 

 

 ――加賀は! 加賀は、お前たちのせいで!

 

 日々戦いに身をやつす艦娘が居るのをどれだけの人間が意識しているだろう。殺し合いの果てに沈む艦娘の悲哀を、誰が弔おうというのだろう。

 

 

 

 

 ――お前たちがのうのうと暮らしている間に加賀は!

 

 優しく、我慢強かった彼女はどんなに辛い時でも泣き言の一つも言わなかったし、有能でもあったからどんな要求でも応えてしまった。長きに渡る行軍の果てに敵地最深部で旗艦を打ち取れと言われれば満身創痍になりながらも沈めて帰って来たし、膨大な搭載機数をあてにされてしまい身を守る砲もないのに戦艦部隊に随伴して殴り合いに巻き込まれて何度も巨砲に撃たれたこともあった。

 

 

 

 栄光の一航戦と称えられるまでに、空母がそれほど重要視されていなかった時代。艦載機が多いという理由だけであちらこちらの戦場に引っ張り出され、戦いの度に大破しては生死の淵を彷徨っていた。「強力無比な万能空母」などと謳えば聞こえはいいが、その実海軍は加賀本人の疲労も顧みずに都合のいいようにこき扱っていただけだ。“民意”とやらに縋る政治家たちが「国民の安全」と「国益」を名目に海軍へ無茶な作戦を要求し、海軍もまた権力を握っている幹部たちが自分の出世のために政治家に取り入って無理を押し通した。その負荷は現場にかかり、加賀はもろにその呷りを受けた犠牲者だった。

 その挙句があの末路。確かに「一航戦、一航戦」と称えられはしたが、それにしたってほとんど対外的なプロパガンダであったし、有名になってからも結局使い走りで戦わせられたのは何ら変わりがない。だと言うのに、国家のために人生を捧げ、不自由に耐え、女としてのささやかな幸福を追求する権利すら自ら投げ捨てて戦い続けた加賀は文句の一つも言わなかった。思えば彼女が苦言を呈した相手は同僚の他になく、数多の矛盾と理不尽を内包した国家や軍、あるいは社会そのものへの批判を聞いたことは一度たりともない。

 

 加賀は、理想的な守護者だった。どんな悲劇にも耐え、守るべきものを否定せず、誰よりも強く誇り高かった。

 彼女の目的は出会った頃から変わらず、この戦争そのものの終結。自らの手で終止符を打つことを望んでいた。そのために彼女は己が捧げられるありとあらゆる犠牲を支払い、自らを封殺してでも使命に殉じた。どんなに組織にとって都合よく扱われようとも、「重宝」という言葉遊びで酷使されようとも、家族を喪おうとも、決して泣き言も愚痴も零さなかった。信念こそが彼女を支えていた。結果、己が肉体を無残にも二つに引き裂かれ、別れの言葉を告げる間もなく海中に没したのだ。

 

 

 

 

 無念だっただろう。どれほどの想いを胸に抱き沈んだのか。志半ばにして死ななければならない無常に、悲哀と悔恨を述べる権利すらなかったことが、どれほどの未練を残すことになったのか。最早それらの想いは軽々しく口にすることすら憚られる。

 

 なればこそ、加賀に代わって信念を主張するのは、志を引き継ぐのは、誇りを継承するのは。「赤城」の他に誰が居ようか。彼女の無念、悲哀、悔恨、理想、大志。それらを受け継ぎ、世に示し明らかにするのは、まさに遺された「赤城」の使命ではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 加賀は国を憎んだだろうか。憎んだに違いない。

 

 軍に憤っただろうか。憤ったに違いない。

 

 国民を恨んだだろうか。恨んだに違いない。

 

 

 

 

 

 晴らされなかったそれを、一体誰が晴らすというのか。何も語ることすら出来ずに沈んでしまった彼女の言葉に魂を吹き込んで蘇らせるのは、一体誰の役目か。

 

 故に、「赤城」は“翼”を開いた。復讐という名の“翼”を。

 都合よく扱った国家に。犠牲を強いた軍に。勝手な理想を押し付けた国民に。

 加賀に代わって「赤城」が復讐する。燃え盛る力と憎悪の果てに、全てを灰燼に帰したとしても、構いはしない。加賀の死を一時の報道だけで済まして、その想いも苦しみも志も歴史に刻もうとしない愚かなこの国に、渾身の力を込めて鉄槌を叩き付ける。

 人々は理解するだろう。自分たちがないがしろにしてきた艦娘の命の重さを、身を以って思い知るだろう。

 

 

 今宵、人類の歴史に「赤城」が刻み付ける名を、「加賀」と記憶することになる。

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆弾の直撃を受けた結果か、見知った建物は無数の瓦礫と化していた。明治の時代からそこに建っていたという石造りの荘厳な軍権力の象徴は、失墜を表すかのように無残に崩れ去り、大理石だったと思しき破片が山となっているだけだった。仰々しいばかりの玄関口も、埃一つ落ちていなかった艶のある絨毯も、明かりを消すと窓から月光が差し込んだ廊下も、机が取り払われて伽藍洞のようになった司令室も、ファイルが積み重なってせせこましかった己の牙城たる秘書室も、激務の合間に艦娘たちがくつろいでいた休憩所も。何もかもが瓦礫に埋もれ、何もかもが霞のような思い出の中にしか残っていなかった。

 あれほど頑丈だと思われた鎮守府第一庁舎は、一航戦ある限りその力と栄光を訪れる者に示し続けるであろうと思われた建物は、もうこの世に存在しない。一航戦が脆くも崩れ去ったのと同様に。

 

 そしてまた、「赤城」は崩れた第一庁舎を前にしても何の感慨も抱かなかった。ただ目の前に瓦礫があることを「瓦礫がある」と見たままに認識し、受け止めただけである。既に「赤城」は「赤城」ではなく、頭のどこかで誰かが、変わっていくことを警告しているような気もしたけれど、概ね「赤城」としては変化を受け入れていた。

 

 

 

 手足を見れば黒い装甲が張り付いていて、装甲は所々身の内から湧き上がる怒りでひび割れ、割れ目から煌々と紅蓮の光を放っている。一方で装甲に覆われていない身体は青白く、水に濡れたように艶めかしい光沢を持っていた。艤装は歪に膨れ上がり、長弓は憤怒の咢(アギト)となって噛み付く獲物を待っているかのように大きく口を開けていた。

 体中に力が漲っている。奥底から無限に湧き出して来るエネルギーの奔流が血となって全身を巡り、膨大な熱量となって空気中に放出されている。脳は無数の艦載機と繋がれており、何も言わずとも「赤城」の意思に従って子供たちは空を舞い、大地に死を降り注ぐ。人間が悲鳴を上げる度、轟音を立ててビルが崩れる度、ガスタンクが盛大に吹き飛ぶ度、艦載機を通じて言い知れぬ快感が「赤城」の脳髄を貫いた。一機一機の艦載機と「赤城」は深いところで繋がっていて、彼らの見るもの聞くもの、翼で切る風、燃え盛る煙の臭い。それらすべてを「赤城」はまるでその場に居るかのように感じることが出来る。「赤城」は“母なる艦”であり、母艦に対しての子供たちが艦載機だった。

 

 

 

 

 破壊は爽快だった。

 

 破戒は心地良かった。

 

 

 抵抗の出来ない人間たちが逃げ惑い、無力な軍人たちが物陰に身を隠すしかないのを、「赤城」は子供たちの目を通して大空から眺めることが出来た。まさに高みの見物。そして、ただ眺めているだけでなく気に食わないものは言葉を発するまでもなく、意思を持つだけで子供たちが勝手に潰してくれるのだから、これ以上気持ちのいいことなどこの世に存在しないとさえ思えた。

 この街は栄光の一航戦と強固な鎮守府という要塞に守られた楽園だった。深海棲艦の脅威が全世界の海岸線を侵食する中にあって、防御に適した湾の奥という立地と堅牢な軍事基地が障壁となって、街は人間たちの住み良い場所であっただろう。彼らは戦争の恐怖も悲劇も知らず、平和を謳歌していた。

 

 しかしそれも今は昔。今朝まで楽園だった街には爆弾が投げられ、無残に破壊されつつある。この楽園に爆薬と憎しみの詰まった“血の雨”を降らしているのは、かつて街を守っていた防人であることを、人々は想像出来るだろうか。ましてやそれが、自分たちの愚と無知が原因となって引き起こされたと知ったら、なんと嘆くだろうか。

 

 

 

 これはあくまで代行だ。復讐の代行だ。

 艦娘から人間と国家へのささやかなる仕返しだ。

 

 街を守っていた基地は今や瓦礫の続く荒れ地である。その最たる象徴が、崩れ去った第一庁舎。本物の怒りと力の前には、例え権力と言えど、こんなにも脆い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「役立たず……」

 

 

 噛み締める様に呟いた。低く、唸り声のように。

 

 

「役立たず……」

 

 

 呪詛のように。

 恐らくは瓦礫に埋もれて死んだであろう鎮守府司令官に向かって。責務を負いながら、それを果たす間もなくあっけなく死んだ彼を、「赤城」は罵る。加賀を守れなかった彼を罵倒する。

 

 

「役、立たず……」

 

 

 目元が熱い。手足の熱とは違う。

 

 

「役……立たず……」

 

 

 目頭から流れ出た熱い物は鼻の脇を流れ落ち、唇を伝って顎に雫となって垂れる。それが一つ、二つと同じところを通って雫が膨らむと、重力に逆らえなくなり、いよいよ顎から落ちた。

 膝から力が抜けて、その場に跪く。何か大事なモノを喪った気がして、それがなくなったばかりにもう自分の身体を両足で支えることも出来なくなった。

 

 

 

 

 

 

「どうして……」

 

 立っていられないの?

 

 

 

「どうして……」

 

 守れなかったの?

 

 

 

「どうして……」

 

 加賀は沈んだの?

 

 

 

 

 

 

 

 何も守れなかった。ただ一人。隣に居てくれた掛け替えのない人でさえ守れなかった。

 誇りなんて、栄光なんて、どうでも良かったのだ。ただ、彼女が隣に居てくれさえすれば、他は何でも良かったのだ。彼女が居ない日常なんて想像することもなく、想像しただけでも恐ろしかったのだ。

 

 

 初めは負けん気だった。姉が教えてくれた弓で彼女に負けるのが悔しかったからだ。一本でも多く、的に当てたかったから。指の豆が潰れるくらい打ち込んで、打ち込んで、打ち込み続けた。

 けれど時は経ち、いつしか相棒は隣に居るのが当たり前な存在へと変わっていた。弓のことは彼女に訊けば何でも的確な助言が返って来たし、初めて旗艦を任されて不安だった時も、拙い言葉だったけれどえらく励ましてもらった。自分の立てた作戦に不安があればすぐに相談したし、捌き切れない仕事を頼む相手も彼女以外に居なかった。

 そんな彼女が肉親を喪った時、薄れかけていた恐怖がぶり返してきた。愛する人の死という、どうしようもなく恐ろしいそれを、思い出したのだ。

 深く傷付いた彼女が、悲しみのあまり狂って遠くに行くのではないかと思うと夜も眠れなかった。だから必死で繋ぎ止めた。目に見えない風に流されそうになる加賀を、引っ張って、手繰り寄せて、必死で抱き締めて、結局泣いたのは自分ばかり。彼女は困ったような顔をしながらも優しく包んでくれていた。呆れ果てて離れられてしまっても文句は言えないのに、泣きたいのは加賀の方なのに、彼女はずっと泣きじゃくる自分を慰めてくれるのだ。

 

 

 

 冷たい人だなんて思っていてごめんなさい。そうやって謝っても、返ってくるのは静かな微笑みだけ。

 

 ただ、もう一生分情けないところを見せただろうに、どうも自分は見栄っ張りで、負けず嫌いで、しかも我儘だったのだと思う。彼女には戦果で負けたくなくて必死に鍛錬に打ち込んだし、“デキる”秘書艦という像を維持したくて激務もこなし続けた。けれど、結局一人でやり切れずに彼女の力を借りるところも度々あったし、楽な方につい流されて厚意に甘えることも少なくなかった。

 

 

 

 誰よりも彼女のことを信頼していた。

 どうでもいい相手に見栄を張ったりしない。悔しさを感じたりしない。ましてや、泣きじゃくってしがみついたりしない。他の誰でもなく、自分の隣には加賀にしか居てほしくなかったし、彼女が離れていくなんて想像もしたくなかった。

 彼女は艦娘としては一流だった。弓の腕もずば抜けていた。口下手だけれど、意思表示は分かりづらいことが多いけれど、本当は誰よりも優しい人だった。「何を考えているか分からない」なんて謗られることもあったけれど、それは単に不器用なだけ。不器用で、不器用なりに優しさと誠意を見せる彼女が大好きだった。

 だから彼女のことを誰よりも信じていた。実力も、優しさも。あるいはそれだけではなく、ただ隣に居てくれることさえも、それが当然なんだと思っていた。傍に居てくれること自体を信頼していたのかもしれない。

 

 故に、彼女が居なくなるなんて信じられなかった。信じたくなかった。

 その時旗艦は「赤城」で、「赤城」の目の前で彼女は魚雷を被弾し、真っ二つになって沈んだ。「赤城」はただ見ているだけで、事前に警告も送れず、何も出来なかった。

 

 

 

 

 

 

「加賀……」

 

 名前を呼ばれた時、彼女は少しだけ嬉しそうにする。

 傍目には無表情に見えたけれど、何というか雰囲気のようなものが少しだけ柔らかくなるのだ。そして、呼べば呼ぶほど彼女がまとう硬い空気は解れていって、柔らかい本当の加賀が姿を覗かせる。その瞬間が、たまらなく好きだった。

 

 

 

 

「加賀……」

 

 けれども。

 もう、その名を呼んで嬉しそうにする艦娘は居ない。彼女の名前は瓦礫の山に反響することなく空気に溶けて消えていく。

 

 鎮守府は静かだった。

 生きとし生けるモノの大半が死ぬか逃げるかして、空を覆っていた艦載機も今は街を攻撃するのに執心している。時折、遠くで散発的に銃声が響くくらいだ。抵抗勢力もなくなって、上陸した深海棲艦の主砲も中々砲火を噴かない。

 

 

 

 

「加賀……」

 

 だから誰もその呟きを耳にしていないだろう。この場には自分以外居ないのだから。

 その代わり、騒がしかったら決して聞こえなかったであろう小さな音も耳に入った。

 

 

 ――低い、プロペラ音。

 

 聞き慣れたそれに意識が覚醒する。己の内に閉じ籠りかけていた意識を叩き起こし、空を見上げる。

 

 

 聞き間違うはずがない。他ならぬそれは……。

 

 

 

 

 

 

 

「あ……」

 

 声が口から漏れた。

 空を飛んでいる飛行機。濃緑色の、スマートな機影。赤い一本帯。

 見紛うはずがない。ある時から一機欠番だった艦上偵察機。土壇場で彼女へと放った使者。

 紙切れに殴り書きしたあの手紙とも言えぬメッセージは、確かに届いていたのだ。そして今、放った艦載機は戻って来た。

 

 けれど、偵察機との繋がりを感じられない。それもそのはず、母艦が艦載機と繋がるためには「発艦」という過程が不可欠となってくるからだ。

 

 

 

 では誰が「発艦」させたのだろうか。

 

 加賀は居ない。「赤城」の手元にあの偵察機はなかった。艦娘の増援だろうか? 一航戦に次ぐベテランの二航戦や、経験は浅いが実力は確かな五航戦が来たのだろうか。彼女たちならばあの足の速い大型偵察機を運用することに苦労はないはずだ。ひょっとしたら、どこかで、かつて「赤城」所属だったあの機体を引き継いだ誰かが飛ばしているのかもしれない。

 しかし、それよりもずっと高い可能性がある。信じがたいことだけれど、今目の前の現実はそれを示唆している。

 

 

 

 あの偵察機を送り込んだ相手。託した手紙の宛先。

 何より、旋回する偵察機の背後に浮かぶ巨大で、血のように紅い月。彩雲は月の周りを回るように大きく旋回し続けている。まるで、彼女が現れることを空の下の全員に知らしめているようではないだろうか。

 

 

 胸の奥が騒めいた。精神は抑えきれないくらい高揚し始めている。

 

 心臓は早鐘のように鳴り打ち、目眩がする。この感覚にはデジャブがあった。それはいつだったか。

 

 思い出そうとして、一つ気付いたことがある。

 

 

 

 

 

 月は、「赤城」の位置から見てちょうど崩れた庁舎の背後に浮かんでいるのだが、そこに一つのシルエットが現れたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 動かせない身体。震える精神。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瓦礫の上に小さな人影が立っている。

 

 白いドレスを身にまとい、頭にはナイトキャップを被っている小柄な少女。その背中からは、胴体ほども大きい黒々とした翼が左右に飛び出していて、小さな体躯を思いの外大きく見せる効果に寄与しているようだ。

 

 

 

 

 

 

「楽しそうね。私も混ぜてもらえる?」

 

 

 

 

 

 少女は鈴の音を鳴らしたような甲高い声で、楽し気な口調で語り掛けた。

 返事が出来ない。喉が干からびて、舌が口の中で張り付いたまま剥がれない。

 沈黙したままでいると、悪魔は尚も楽し気な様子で一方的にこう言った。

 

 

「始めましょうよ。ここはエリュシオン。血の雨に濡れる楽園」

 

 

 彼女が大きく両手を広げると、指の先から紅い何かが噴き出す。それは尋常ならざる速度で急速に拡散し、空気より軽いのかどんどんと上昇していっているようだった。霧のようなものだという認識をするのに、「赤城」は少しばかり時間を必要とした。

 

 

 

「今宵に開かれるのは魑魅魍魎も踊り狂う楽しい夜宴」

 

 

 

 反応したのは本能の仕業か。

 

 

 身体が構える。力を振るわんとして。大いなる脅威に対抗せんとして。

 

 

 

 

 

 

 


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