レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督34 Save my Daughters!

 

 

 鮮血のような夜だった。

 

 

 

 地上は紅蓮に燃え盛る炎が瓦礫も死体も一緒くたにして燃やし、その明かりが夜空を照らして星の光を隠してしまっている。

 けれども、ピジョンブラッドの如き紅く、深く、そして暗い満月は、彼女だけが煌々と輝きながら冷酷な王のように静かに地上を見下ろし、頭上から降り注ぐ赤黒い深海機の残骸に追われる者たちを嘲笑っていた。建物はことごとく打ち崩されて無残な残骸に成り果て、港を囲んでいたガントリークレーンはまるで飴細工のようにねじ切られてドックに沈んでいる。周囲の埠頭は墜落した機体が機械的な部品ではなく生物のような肉片をまき散らしてさながら絨毯のように地上を覆っているのだ。

 特別に宗教を信じていなくとも、この光景を見て地獄を思わない者はおるまい。血の臭いと重油の臭い、焦げるような臭いに潮の臭いも交じって、鼻がひん曲がりそうな悪臭が漂っている。口の中は鉄臭くなったくせに水分が蒸発して干からび、気持ちの悪い生暖かい風が肌を撫でて身が震えた。その上おぞましいのはこれだけでなく、潰された虫の大群が中身をぶちまけて辺りを埋め尽くしているような景色の中に、赤い槍の針葉樹林が乱立している。

 いや、槍が立っているというだけでも相当な不条理だが、さらに不条理なのはその槍の一つ一つに先程港に上陸して侵攻して来たはずの深海棲艦の躯が串刺しになっていることだ。

 

 このような光景は聞いたことがあった。

 そう、決して見たのではない。だが確かに過去、十五世紀の半ばごろにルーマニアで見られた光景である。その時代に生きていたわけではないから実際に目の当たりにしたのではないが、きっとそれを目にした当時の人々はあまりの異様さに言葉を失ったに違いない。

 

 

 

 今の「赤城」と同じように。

 何もかもが現実感を喪失していた。けれど、網膜に映る映像は鮮明過ぎるほどのリアリティと圧倒的な説得力を持って脳に認識を強迫する。だから、否が応でも目の前で起こっていることが、夢でも幻でも何でもなく、真実であること、事実であることを気が狂いそうなくらい思い知らされる。この悪夢が始まって、「赤城」は何度も抗えない暴力を振るわれていたが、現在なお進行し続ける異常な事態それ自体さえもが、一つの暴力となってさらに「赤城」を蹂躙し、意思を座屈させていた。

 守るべき場所が地獄の底のように変化し、自分が全くそれを止められなかった。というよりたった今、一切合切の力を奪われて完全に無力であることを思い知らされるという絶望を味わい、「赤城」は秘所を不躾な手で侵されたかのような恥辱と屈辱にまみれていた。

 だが、泣こうにも眼孔からは何もこぼれず、喉からは干上がった声が漏れ出るばかりで、まるで意志を持たぬ人形のようにその場にへたり込んで見上げるしかない。

 

 

 

 山のように――まさに山のように積み上がった深海機の残骸の上で、悠然と足を組んで見下ろす彼女を。

 

 

 

 「串刺し公」の末裔を。

 

 

 

 次は自分だという確信に近い予感がある。つい数分前まで鎮守府の空を覆っていた深海機の軍勢の内の何割かは「赤城」の子供たちだった。しかしそれが今はすべて彼女の尻の下にあり、かくて空母としての能力のすべてを奪われた「赤城」は、本当に赤子同然に無力な存在に成り下がっている。彼女にとって今の「赤城」は――否、万全の状態であってもそうだっただろう――きっと容易い存在に違いなかった。

 

 では何をする?

 命乞いか? この期に及んでの悪あがきか?

 

 答えは出ない。

 思考は動くが、答えをはじき出せるような状況では既になかった。もう「赤城」にはどうしようもないのだ。

 命乞いをしても聞き入れられる確率は皆無に等しい。抵抗をしてみても虚しく捻り潰されるのは目に見えている。

 ならばいっそ、ここは武人らしく潔く死ぬべきなのかもしれない。

 もっと言えば、本当は「赤城」という女は当の昔に死んでいるのだ。今ここにいるのは、かつて「赤城」と名乗っていただけの亡霊であり、あるいは海軍の付けた仮称を借りて言えば「空母棲姫」とも呼ぶべき存在で、それは「赤城」とは違う生き物のはずだ。

 どうしたことか、今の「空母棲姫」には「赤城」としての自我と意識があるけれど、きっとこれは身体に残っていた彼女の残滓に過ぎない。

 

 だから、やはり“私”はここで死ぬべきなのだ。

 彼女の愛した「赤城」ではない。「赤城」の身体を借りただけの”私”は。

 

 

 

 

 

 

 

「いい夜ね」

 

 満月の化身は酷く上機嫌だった。

 まるで上質なワインに舌鼓を打っている時のように、彼女は穏やかな微笑みを浮かべて、さらにそれを”私”に向けている。

 

「今夜は血が滾るわ。だけどあんまり時間がないのが残念」

 

 彼女はゆるりと首を振り、話を続ける。

 “私”はと言えば、ただ黙って震えているだけでしかなかった。死んでなお、こんなにも恐ろしい思いをするなんて想像だにしなかった。死はすべての終わりだと思っていた。あるいは、靖国に導かれるのだろうと甘い見通しを立てていた。

 

 

 

 ――現実は、何もかもが違っていた。

 

 幻想が侵入し、介入し、介在し、世界の解釈を変えていく。運命が歯車の軋む音を立てて動いていく。

 目の前にいる彼女がそうだ。

 

「手短に終わらせましょう」

 

 そう言って彼女はそれまで腰掛けていた死骸の山から立ち上がる。同時に、不規則で幾何学的な形をした影のように暗い翼が背中からまっすぐ伸ばされた。

 ふわりと、彼女の小さな体躯は空中に浮き上がる。

 

 

 

 それが序章の終わり。

 

 それが終幕の始まり。

 

 

 

「こんなにも月が紅いから!」

 

 

 

 彼女は叫んだ。

 悪魔の背後の空間が、その身から放出される禍々しい魔力によって歪み、月はいよいよあり得ないほど煌々と紅く、悍ましく輝き出す。

 

 

 世界が震えた。

 

 幻想の侵食への拒絶反応。最後の抵抗として、あるいは逆にその力の支配が確立した印として、激震が走ったのかもしれない。

 何人たりとも彼女に逆らうことは許されない。彼女が作り出す幻惑の世界の中で、”私”は支配者の名を思い浮かべる。

 

 

 

 

 

 

 

「楽しい夜になりそうねッ‼」

 

 

 

 

 

 

 

 忘れもしない。

 彼女の名前は……。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 レミリア・スカーレット――齢五百を超える吸血鬼は、積み重なった深海機の残骸の山から小躍りするように飛び降りると、軽く地面を踏んで赤城の懐にまで肉薄した。半ば深海棲艦化しながらも、長年培ってきた戦闘の経験が無意識にそうさせたのか、認識速度を上回るスピードで接近するレミリアに対し、半ば呆然としていた赤城はようやく我に返ったのか、反射的に副砲を前に出して攻撃を受け止めようとする。

 正真正銘の艦娘だった頃とは違い、彼女の艤装は中口径の副砲や大きな口のような形になった弓であったりと、元が分からないような変貌を遂げている。深海棲艦自体がこのように歪で禍々しい艤装を携えているものだが、彼女もその例外とはならなかったようだ。

 では、その艤装の強度はどれほどのものだろうか。少なくとも一部の深海棲艦は頑丈で堅固な装甲により生半可な攻撃を跳ね返すことが出来る。姫クラスの上位の深海棲艦になると、徹甲弾の直撃をまともに食らっても装甲がへこむ程度の損害しか与えられないような、信じられないほど硬い敵も居るという。赤城は、いや最早ほとんど深海棲艦へと変化した今なら「空母棲姫」と呼ぶべき彼女は、やはり並み以上の堅牢さを持ち合わせているだろう。だが、その程度だ。

 レミリアは特に考えずに右手を伸ばしただけだった。拳を握ってすらいない。殴打ではなく、指を鉤型に開いて「空母棲姫」が身を護るために突き出した副砲を掴み取る。しかし力加減を間違えてしまったのか、指が易々と副砲の砲循を貫いてバラバラに破壊していく。砕けた副砲が無数の破片となって飛び散る中、突き出したレミリアの手が「空母棲姫」の首を掴んだ。

 彼女に逃れる術はなかった。そのまま力任せに叩き付けると地響きが深海機の残骸を揺らした。

 レミリアは「空母棲姫」の首を離さずにその上に馬乗りになると、苦痛に顔を歪めているので少しだけ力を緩めた。深海棲艦は激しく咳き込みながら、少しでも多く酸素を取り込もうと音を立てて息を吸い込んだ。跨ったレミリアの下で彼女の肺が激しく膨らみ、全身が脈動していた。

 そこにあったのは無感情な生きようとする本能だ。「空母棲姫」は敵意や憎悪を抱くこともなく、というよりそんな余裕すらなく、ひたすらにただ激しく呼吸をするだけ。生物としての本能が自然とそのような行動をさせているのだ。けれど今、レミリアはもう一度彼女の首を絞めることが出来るし、そうすれば彼女は呼吸困難で死んでしまうだろう。あるいはもっと別の方法で命を奪うことも出来る。何しろ跨っているのだ。彼女に抗うことなど出来はしない。

 つまり、「空母棲姫」の生殺与奪は全てがレミリアの手の中にある。それも、ほんの少しだけの力でレミリアは「空母棲姫」を自分の好きなように出来る圧倒的に優位な立場に居た。

 

 

 

 

 

 

 

 戦場を支配すること。それがレミリアの戦いの作法だった。

 かつてルーマニア公が自国に侵攻して来たオスマン兵の死体を串刺しにして街道沿いに並べた時、彼はその光景それ自体と見た者が悟ったであろう狂気で敵の足をすくませた。ノルマンディーに上陸した連合軍は、戦艦を並べ、無数の戦闘機をばら撒き、大量の兵員を一度に上陸させることで、圧倒的な物量によって陸海空の全てを掌握して、橋頭保を思うがままに築き上げた。

 ヴラド・ツェペシュもドワイト・アイゼンハワーも、多数の兵士を効果的に動かすことによって敵を打ち倒すことが出来た。彼らは軍勢の指揮官であり、群体としての戦闘単位である多数の部隊の頭脳であったわけだ。それは彼らが人間であり、組織化された集団によって高度な目的を達成することを得意とする知的生命体だからである。

 

 個々の人間の力は弱い。しかし、彼らは常に仲間と結託することによってより大きな脅威との戦いに打ち勝つことが出来た。対象は自然であったり、別の人間の組織であったり、あるいは幻想の存在、すなわち怪異であったりしただろう。時にはうまくいかなかったかもしれないが、歴史は、常に最後には人間が困難を克服出来ることを証明している。

 一方で、レミリアのような怪異、あるいは妖怪は、単体で圧倒的な力を持つ存在だ。群体を凌駕する個体であり、群体が個体を内包し制圧するという常識を打ち破れるからこそ、レミリアは幻想として存在することが出来た。そのために、多くの人間が集団とならなければ成し得ないことのほとんどすべてを、レミリアは自分一人の力で実現することが可能だ。

 

 串刺しの死体を並べることは既に実行し、今現在この鎮守府の中で誰でも目にすることの出来る光景となっている。この光景を目の当たりにした、鎮守府内に残っている数少ない艦娘を含む人間たちには甚大なる心理的影響が及ぼされているであろう。意図的に伝承をなぞるような行動を取ったことで、本来であれば幻想郷の外の世界では弱体化するはずのレミリアは、力を取り戻せていた。幻想郷に逃れた者たちにとって、人間から向けられる畏怖と恐怖こそがその力の源泉である。一晩で少数とは言え外の世界の人間に本物の恐怖を見せつけたレミリアは、往時の力を再び振るえるようになっていたのだ。

 オーバーロード作戦のように、人間の軍隊を叩き潰しながら大陸を席巻することだってその気になれば難しくない。それだけの力を持った悪魔なのだ。レミリア・スカーレットと言うのは。妖怪たちが信奉する月を二つ名に抱くのは決して伊達や酔狂ではない。

 例えその相手が自らと同じ異形であったとしても、それら異形の中で取り分けの力を持つレミリアにとって、自分より下位の相手に(それがどんなに数を集めたところで)後れを取ることなど考えられなかった。むしろ、レミリアの個人的な嗜好を含めれば、人間ではない存在にこそ悪魔はより辛辣であるかもしれない。

 

 今まで多くの人間と戦った。聖職者、傭兵、時に正規軍。またはただの農民。神の名に誓いを立て、あるいは単に金のため、王の命令、はたまた生活を守るべく。人間たちは実に様々な理由でレミリアに挑み、いつも敗北した。レミリアが悪魔と呼ばれることそれ自体を理由にして立ち向かって来た狂信者も居た。いずれにしろ、誰もレミリアの命を奪うに至らず、幼き吸血鬼に挑戦することは挑戦者の死を意味するようになっていった。

 初めは自らを(レミリアからすれば)勝手な理由で襲って来る人間たちに唾棄し、敵意を募らせていたレミリアだが、時を経るうちに憎さ余ってと言うのか、むしろ無力な彼らに愛おしさすら抱くようになった。館の扉を蹴破って突入して来るような無礼者がやって来ても、レミリアは礼儀正しく応対し、正々堂々と正面から圧倒し、殺した後は丁重に埋葬して墓まで立てた。

 弱い人間を哀れに思ったこともあったけれど、今はそんな感情は抱かない。それは弱いながらも懸命な人間に対する侮辱であるとさえ考えている。彼らに対しては一定の敬意を払って接するべきというのが、現在のレミリアの方針である。

 

 

 

 そんな風に考えるようになったからか、ついにある時一人で挑んで来た人間を殺すことなく捕らえたのだろう。興味深いことにその人間は年端もいかない少女で、そんな子供が悪魔に挑むという事実だけでも驚きなのに、この少女はその上さらに時間を操るという稀有な特殊能力を持ち合わせていたのだ。その時点で五百歳も間近になっていたレミリアでさえも初めて見る能力であり、興味を引くには十分な魅力あるものだった。だから、如何にしてそのような特殊能力を持つ人間の少女が自分に挑むことになったのか、背後事情を知りたいと思ったのも不思議ではない。

 だが、理由はこれ以上ないくらい拍子抜けしたものだった。と言うのも、少女の目的はレミリアの首……によって得られる賞金だったらしい。どうやらレミリアの首には本人も知らない内に破格の賞金が賭けられていたようで、自分の能力に自信のあった少女は単身吸血鬼に挑むことにしたようだった。それまで時間を操るという大層な能力を、盗みの手段以上に利用していなかった彼女は、一方で自分の能力の可能性についてはしっかり認識していたらしい。加えて、毎日の食事を他人から盗んだもので賄わざるを得ないほど困窮していた彼女にとって、伝説の悪魔の賞金首は何物にも代えがたい魅力があったのだろう。ましてや他者の持ち得ない特殊能力があるとなれば、苦労してでも銀刃のナイフを集めて挑戦するだけの価値があったはずだ。

 はたして結果は半分程度巧くいったようだった。確かに未体験の能力を持つ相手にレミリアは戸惑ったが、それも初めの内だけで、肝心の武器が苦手な銀で出来てはいたものの大して脅威ではないと分かると持久戦に持ち込んで、結果少女は体力切れのため、あっさりと降参した。元より失う物のなかった彼女はレミリアの質問には正直に答えたし、疲労しているところにそれなりの料理を出されたためか全く抵抗の意思を持たなかったようだ。

 拍子抜けと言えば拍子抜けだが、金という現実的な理由が、人間離れした少女の人間らしさを表しているようで、話を聞いたレミリアは大いに笑ったものだ。それから上機嫌の悪魔は少女を気に入り、自分の家で養うことに決めた。一定の家事労働さえすれば後は何をしようと自由で、衣食が保障されている紅魔館の使用人職である。生活に困窮していた少女が断る理由はなかった。

 

 初めはそうして生きるために働いていた少女だが、その理由は何時しかレミリアも知らないところで変貌を遂げていたらしい。彼女はレミリアへの忠誠心を見せるようになり、主人をよく慕い、主人の良き話し相手となった。だから、今や彼女はレミリアの一番のお気に入りだ。幻想の郷に引っ越して周りが妖怪だらけの環境になろうとも、彼女が妖怪になろうとしなかったところも高評価だ。永夜の異変で吸血鬼になることを誘った時も、彼女は主人の望みを把握してか、あるいは本心からそう思っているのか、人間であることを止めようとはしなかった。それでいて、妖怪よりはるかに短い生の全ての時間を捧げることを誓った。

 それはレミリアにとって満額回答だった。悪魔は人間が好きで、人間が人間であることを止めて自分より弱小の怪異になることを何よりも忌み嫌っていた。

 

 人間は愛おしいが、弱いだけの怪異、人間に力で勝てることに思い上がっているような下らない妖怪は心底嫌いなのだ。それはかつて力に溺れていた自分を見ているようにも思えたし、なまじ個として確立している妖怪だけに人間のような集合の力を発揮出来ない弱小妖怪には興味もなかった。数多の人間たちのように集まって戦える者、巫女のように人間のくせに強い者、魔法使いのように妖怪らしく生きながらどこまでも普通の人間である者、メイドのように悪魔に仕えながら人間であろうとする者。

 彼らこそがレミリアの愛するべき存在なのだ。

 

 

 

 故に、今まさに怪異へ成り下がろうとしている女にレミリアは問い掛けを発する。

 

「お前もそうなるのか、赤城」

 

 もう彼女の首は絞めていない。その代わり、顔の両横に手を着いて覆い被さり、レミリアは真下から見上げる彼女の瞳に視線を注いでいた。

 

「お前の望みは何だ? 深海棲艦になってまで得たいものは何だ?」

 

 悲しかった。巫女や魔法使いたちと同じくらい気に入っていた彼女が、こうして別な存在に成り変わろうとしている事実が、ただひたすら悲しく、空しかった。

 

 

 職務を優先してきた赤城。責任感のみで動いてきた人生。欲しい物と言えば、ちょっと贅沢な食べ物くらい。

 姉を失い、戦いに明け暮れる日々。 そんな中で彼女は大層な活躍ぶりに比してあまりに小さなものを守ろうとしていた。

 

 問い掛けた瞬間、今や妖艶な赤色に染まった瞳の中に幾つもの感情が錯綜したのを見逃さなかった。今までささやかな望みばかりを抱いてきたであろう彼女が、何か大きなものを心の底から望んでいるのだということを悟る。

 

「赤城。何を望んでいるの? お前の求めるものは!」

「カガ!!」

 

 不意に彼女はレミリアを遮って叫んだ。赤色の瞳に寂寥を映す海面を見る。

 

「カガ、さんが! 加賀さんが、沈んだの! 沈んじゃって、死んじゃった。でも、ワタシ、もう一度会いたい……」

 

 言葉尻はほとんど呼気に紛れて聞こえなかった。「会いたい」というのは、多分そう言ったのだろうという推定だ。

 

 

 

 なるほど、そうだったのか。レミリアは得心する。

 

 加賀は赤城の唯一の理解者であった。天城亡き後、心の隙間を埋めてくれたかけがえのない親友。

 沈んでしまった彼女にもう一度会うため、赤城は深海棲艦になることを、敵の手に下ることを望んだのだ。

 

 

 

 

「ダカラ迎エニ来タンダヨ」

 

 

 

 遠くから、空母水鬼が口を挟む。どこでどう話を聞いていたのか、深海棲艦の首領は自慢の艦載機部隊を全滅させられたというのに余裕たっぷりな口ぶりだった。

 レミリアはおもむろに体を起こして「赤城」の上から離れる。すたすたと歩いて埠頭の先端まで来ると、鎮守府の前に広がる海を見渡した。声の聞こえて来た湾の外に視線を投げると、遠くまで空が赤く染まっている。あんな距離まで紅霧を振り撒いてはいないので、空を染めているのは深海棲艦の力だろう。提督として潜入していた時、一部の深海棲艦によって海域とその上空が赤く染まるという謎の現象が発生することがあると耳にしたことがあった。レミリアからすればそれは謎でも何でもなかったのだが。

 

 

 悪魔は目を細め、遠くを見通す。

 

 湾内には幾つもの深海棲艦の影があった。先に上陸していたのは先遣部隊であり、この大艦隊のほんの一角を構成するに過ぎなかったようだ。大多数はまだ海上にあって、幾重にも構築された艦隊による防御線の一番奥に、空母水鬼率いる本隊が控えているようだった。なるほど、確かにこれだけの手下に囲まれていれば余裕も持てるというものだろう。加えて、空母水鬼は艦載機を全て撃ち落とされたからといって動揺して浮足立つような脆弱な精神性の持ち主でもなかったらしい。

 そこは評価しよう。徒党を組むという点では深海棲艦は人間に近いから、自分よりずっと弱小な存在とはいえ、今までそれなりに良い印象を持っていたのだ。人間の組織という“強い相手”との戦い方を心得ている、と。

 

 加えて言うなら、戦いにおいて負けた方が勝った方に蹂躙され、略奪されるのは当然の結末であるというのも理解していたし、実際自分が今までそうしてきたことだから、鎮守府や街がどれだけ破壊されようともさして気には留めなかった。それはそういうものだ。幻想を排除する世界に抗えなくなった己が、幻想郷へ避難せざるを得なくなったのだって、加藤や金剛の策によって鎮守府を追われて逃げ出したのだって、レミリアが負けたからそんな無様な結果になっただけのこと。それは他でもない自分が悪いからで、誰にも責任転嫁出来ないことだ。

 だから、敗者の結末についてレミリアはとやかく言ったりはしない。運命なのだと、受け入れるだけの心はある。

 

「加賀ニ会ワセテヤル」

 

 尚も「赤城」に呼び掛ける空母水鬼。だが、「赤城」は返事をせずに嗚咽を漏らすだけだった。

 

「そうか、お前が加賀を沈めたのか」

 

 レミリアは呟いた。近くに居て耳をそばだてなければ聞こえないような音量だったが、やはり空母水鬼には聞こえたらしい。「ソウダ」と答えが返って来た。

 

「魚雷デ、真ッ二ツニシタ」

「縦に? 横に?」

「横ニ、ダ」

「それなら、上半身はちゃんとあるってわけね」

「モウ、海ノ底ダケドナ!」

「だからお前には取りに行けないって? その通り。水は日光と同じくらい苦手だもの。ちょっと手っ取り早く釣って来てよ」

 

 

 悪魔は嗤う。嗜虐的な笑みを口元に浮かべる。

 

 敗者は蹂躙されるべき。加賀が戦いの中で沈んだのなら、それは加賀の責任であって、つまり彼女が深海棲艦に打ち勝つだけの強さを持っていなかっただけのことであって、他の誰にも責任を問えない事実である。人間はそうではないかもしれないが、少なくともレミリアはそう考える。

 

 赤城が敗北したのは、赤城の弱さに原因があるわけで、今現在彼女が無様を晒しているのは自業自得と言えた。負けるのは、負ける方が悪いのであって、勝つ方は例えそれが偶然や幸運によってであろうと勝つべくして勝つという運命だったというだけのこと。

 

 

 

 二人がもしただの人間であったならば、そう考えていただろう。レミリアもいちいち個人の生き死にを気にしたりはしない。

 けれど、決定的に違う事実があった。彼女たちは艦娘であり、しかもレミリアからすれば決して悪くない関係を築けた相手でもあった。

 

 加賀はレミリアの逃亡に手を貸してくれた恩人だった。

 

 赤城はレミリアが惹かれたお気に入りだった。

 

 二人の窮状を断片的であれ妖精から知らされた時、レミリアは二人に対して同情と憐憫と、ほんのわずかな仲間意識を己の中に見出した。また、この場所に来て、片方が死に、片方が死に瀕しているのを目の当たりにした時、胸中の小さな仲間意識は爆発したように巨大な怒りへと膨れ上がった。空母水鬼の、赤城を深海棲艦に堕落させようという意図が気に食わない。誇り高き者を、卑しい存在に引きずり込もうとするその意思が、しかもその対象が赤城であるなら、レミリアが己を滾らせて力を振るうだけの理由になり得るのだ。

 

 

「話ハ終ワリダ。例エ艦載機ガナクテモ、ドウトデモナルノサッ!」

 

 

 空母水鬼は叫ぶ。その言葉を合図に、海上にチカチカと閃光が走った。

 控えていた護衛艦隊の一斉攻撃。この小さな鎮守府など、敷地丸ごと潰してしまう圧倒的な飽和攻撃だ。空に不気味な飛翔音が鳴り響き、紅霧を切り裂き砲弾が放物線を描いて埠頭に立つレミリアに向かって落ちて来る。

 それが一発や二発ではなく、数百という数で。

 

「出来るもんならやってみなさいな。たった今、お前の運命は確定したよ。コンティニューは出来ないのさ!!」

 

 吸血鬼の全身が紅く光り、身体を中心に無数の弾幕が展開される。技名も何もない通常弾幕だが、“弾幕ごっこ”で使用するそれとは威力が隔絶している本気の弾幕だ。そして、無秩序に放たれているように見えてその実きちんと計算されて撒かれている弾幕でもあった。

 空中で、降って来た砲弾と撒き散らされたクナイ弾がぶつかり合う。砲弾と魔弾は衝突するとその場で弾けて小さな花火を作る。鼓膜を削るような爆音が何度も、それこそ降って来る砲弾の数だけ響くと、レミリアの頭上に無数の花火が現れた。

 

 一発もない。深海棲艦の一斉射撃によって放たれた砲弾の雨で、鎮守府に着弾した物はただ一発もなかった。その全てが悪魔による迎撃弾幕によって撃ち落とされたのだ。

 レミリアは数百に及ぶ砲弾を視界の中に捉えると、それぞれの落下コースにクナイ弾を丁度のタイミングで放った。いつだったか、人間の軍隊が紅魔館を襲った時、一斉に射掛けられた矢の雨を迎撃した時も同じようなことをしたので、別に難しいことではなかった。

 

 

 そして、渾身の斉射を防ぎ切ったことでレミリアには少しだけの時間的猶予が生まれる。最も装填速度の速い小口径砲であっても、再装填には数秒を要する故に、その間レミリアは自由に動くことが出来た。

 

 

 

 悪魔は艦隊の奥を見通す。

 

 

 水平線の上。巨大な艤装を持つ姫クラスの戦艦を従えた深海棲艦の首領の姿を視界に捕らえる。

 

 

 ヤツは、艦載機を全て撃ち落とされ、一斉攻撃も阻まれて尚、悠然と艤装の上に腰掛けてゆったりとした笑みを浮かべていた。類稀なる吸血鬼の視力でもって、レミリアはその口が「加賀ハ私ノ手ノ中ダヨ」と挑発するのを認識する。

 

 

 怒髪が天を衝く。後ろに引いた一歩が埠頭のコンクリートを踏み砕く。

 

 

 レミリアの体を中心に、同心円状に小さな衝撃波が放たれると、まるで均される様にして海は凪いで静まり返った。空から紅霧が消え失せ、深紅の満月が全身を露わになる。戦場の真っただ中にあって、しかし戦場となった鎮守府には一切の動きが消え失せていた。

 

 

 悪魔はその力を右手に込める。何か大きな物を掴むように軽く曲げられた指の間で、まばゆい光を放ちながら妖力が蓄積されていった。抑えきれない憤怒の力は禍々しいまでに煌々と輝き、月にも劣らぬ緋色に染め上げられている。

 

 

 レミリアは右手を大きく後ろに引くと、反対の左手を前に伸ばして人差し指で空母水鬼を指す。

 

 

 大きく振りかぶって妖力とは別に全身に溜め込まれたエネルギーを、筋肉と関節のバネによって一気に開放。腰を回し、背筋を伸ばし、腕を大きく振って遠心力を得物に乗せると同時に、身体の中心から最後の一押しに爆発的な魔力を右手に送る。迸る力の奔流が右手の中で長細い形を中空に刻んだ。

 

 

 

 

 

 

 それは心槍ではない。弾幕ではない。ただひたすら、己の持つ妖力を注ぎ込んだ必中確殺の槍。巨大な穂が狙い通りに刺し貫く、神代の武器。

 

 レミリアの宣言と共にそれは投げられた。

 

 

 

 

 

 

 

――神槍

 

――スピア・ザ・グングニル!!

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 まず粉砕されたのは、コンクリートを固めて造られた埠頭だった。音速の数十倍の速度で投擲された神槍が生み出した衝撃波がコンクリートの表面を砕き、次いで海面を割る。膨大な水飛沫が巻き上げられ、その進路上に居た深海棲艦は槍が到達すると原子レベルに分解されて消滅した。それでも槍を止めるには至らず、というより瞬きする間もなく槍は空母水鬼の本隊まで飛んだ。

 旗艦の危機を察知した護衛の戦艦棲姫が身を盾にして槍の前に飛び出したが、堅牢さで有名なその自慢の装甲ですら神の槍を止めるには至らない。穂先がその体を刺し貫いた時、実際には溢れんばかりの閃光で視界が奪われた中、空母水鬼は己の敗北を悟る。自分からはあまりに隔絶したその天蓋の力に、為す術もなく消し飛ばされる運命を受け入れながら、爆発の中に姿を消したのだった。

 

 

 着弾の瞬間、海の上に太陽が現れたのではないかと思うほどの光が迸り、巨大な火球が膨れ上がった。火球は表面に衝撃波を伴いながら成長すると、数秒の間まばゆく輝きながら空気より軽いために上空へと浮き上がる。

 

 火球によって生み出された衝撃波は、周辺の空気を吹き飛ばして新たに円環の雲を作り、急速に拡散した。海の上であったために障害物に阻まれることのない強烈な衝撃波は、本隊の周辺を固めていた護衛艦隊の深海棲艦たちを一瞬にして細切れにすると、妖力の紅い霧を伴いながら全方位を破壊し尽くす。埠頭に立つレミリアの元にも届き、殴られたような衝撃が身体を貫いて内陸へと過ぎていった。

 土煙が立ち込め、巻き上げられた海水が霧のように降って来た。次いで埠頭に到達したのは、火球によって弾き飛ばされた海水で、それは津波という形で陸地に襲い掛かる。だが、水が苦手なレミリアが軽く手を振って妖力をぶつけると、壁に反射されたように津波は水際で止まり、後には激しく海面を荒立たせるだけだった。それでも水は完全に防げず、レミリアはいくらか水飛沫を浴びることになってしまったけれど、何ら問題はなかった。

 

 眼前には巨大で紅蓮に燃えるきのこ雲が空母水鬼の墓標のようにそそり立っている。墓標は尚も溢れるエネルギーを光として放出しながらゆっくりと上昇していき、その周囲からはリング状となった雲が輪を徐々に広げて、この世のものとは思えない光景を作り出していた。

 

 

 

 レミリアはゆっくりと振り返る。

 

 背後にあった鎮守府は衝撃波によっていよいよ破壊しつくされた様相を呈しており、最早元々ここにあった物で原形を留めている物など何もないかのように思われた。右を見ても左を見ても瓦礫と破片の山。墜落した深海機の残骸は衝撃波で一掃されてどこかへ飛んで行ってしまったのだろうか。絨毯のように敷き詰められていたそれらは見る限りでは消えていた。

 

 レミリアは埠頭から陸へ戻る。歩いている内に空から雨が降ってきた。

 

 

 吸血鬼が“嫌がることのない”雨だ。それは水ではなく、血が降ってきているのだ。視界は間もなく赤い雨に染まり、大地にはねっとりとした液体が溜まった。

 だからレミリアは血の雨の中を平然と歩いた。強く漂う鉄の臭い。濡れるがままに任せ、悪魔はゆっくりと進む。その視線の先には、地面に手足を投げ打って仰向けに雨を浴びている「赤城」の姿があった。

 レミリアがその傍にまでやって来て見下ろすと、彼女は呆然とした様子で何事かを呟いていた。何を言っているのか聞こうとしゃがみ込んだところで、自分の耳が音を聞けなくなっていることに気付く。右耳を触ってみると何かの液体が指に付着したので、目の前に持って来てそれが血であることを確認する。

 血の雨は今も空から降ってレミリアの全身を濡らしているけれど、さすがに吸血鬼だけあって指に付いた血を嗅ぐだけでその種類を判別することが出来た。

 自分の血だった。どうやら爆音によって鼓膜が破れて出血したらしい。急いで修復すると、すぐに血の雨が地面を叩く音が喧しく聞こえてきた。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 

 激しい雨音の中で、掠れた呟きはとても聞き取りづらかった。レミリアがそれを認識出来たのは、しゃがみ込んで口元に耳を近付けていたからに過ぎない。

「ごめんなさい」と彼女は繰り返す。

 

 堕落したこと、無辜の人々を害したことへの謝罪。彼女が自分自身を裏切ってしまったことへの慟哭。

 

 レミリアは、それが赤城の心を潰すことを悟る。いつだったか、現人神が言ったように、信仰を持たないであろう彼女はこの重圧に耐えられない。傷付いた艦娘たちを彼女は救おうとした。その行いこそが宗教の目指すところ。故に、正確には赤城は宗教を必要としなかったのだ。

 救済者。図らずも彼女は自らそう成ろうとしてしまい、図らずも持って生まれた大きな器によってその目的を半ばまで達成し、図らずも偉大な空母として憧憬と尊敬を集めるに至った。強く、高潔だからこそ、彼女は真に救いを求めることはなかった。救う側であろうとしたから、自分自身の救済など考えていなかった。

 

 

 では、今まさに傷付いた赤城を一体誰が救うのだろう。彼女が誰よりも深く愛していた加賀は最早水底に沈んでしまっている。二度も理不尽な死別を強いられた赤城を、今救けられるのは、レミリアと、仲間たち以外にない。

 赤城がどういう目的でこの鎮守府の艦娘たちを集めたのか。秘書艦として艦娘の人事権に介入出来た赤城は、自分と同じような苦痛を味わった艦娘を引っ張ってきた。そうした経緯を、レミリアは提督として潜入してから比較的早くに把握したのである。記録に書かれている言葉は、艦娘たちがいかに壮絶な体験をしてきたか、生々しい表現ではなかったものの、それでも十分想像可能な程度には伝えてくれた。

 

 

 心を動かしたのは、赤城のそういうところだった。仲間のために運命と戦おうとする彼女の姿を、艦娘を救おうという想いを、途方もなく尊いものだと感じたのだ。

 だからこそ、赤城に心を許したのかもしれない。

 

 赤城はレミリアを信じた。レミリアは赤城を慈しんだ。そこに縁が、結び付きが生まれた。

 生まれてしまったそれを、もう取り消すことは出来ないし、そうするつもりもない。レミリアはこのまま赤城をここに寝かせて立ち去るという選択肢を採り得ない。もしここで彼女を見殺しにすれば、レミリアはもう一生自分を許すことが出来なくなる。胸に刻んだ我が名と誇りを再確認し、永代の悪魔は己に誓いを立てた。

 

 あるいは、因果は逆で、己が道と彼女の道は交差する運命だったのかもしれない。レミリアは自分自身に対して能力を行使し、運命を視ることは滅多にしない。誰もが人生と言う名のそれぞれ物語の主人公であるなら、レミリアもまたレミリアの物語の主人公である。だが、運命を視た瞬間レミリアは物語の中の登場人物ではなく、全てを知るメタフィクションの存在に昇華してしまう。物語の先を、途中をすっ飛ばして垣間見てしまうのだ。これ以上ないくらい無粋で興ざめ。だからこそ、レミリアは自分を“視ない”。先の見えぬ道を歩き、そこで出会うものすべてを受け入れる。

 

 赤城が居たからこの鎮守府に来たのではない。艦娘を救おうとあがく者を知ってここに来たのではない。それは本当にただの偶然で、そのような偶然に恵まれたことはレミリアにとって望外の喜びであった。

 

 

 

「忘れないで」

 

 囁きは聞こえただろうか。赤城の様子に変化はない。

 それでも構いはしない。言葉は重要ではない。

 レミリアは幻想だ。世界に一度忘れ去られた存在だ。世界の裏側に蓄積された記憶の中から幻想の情報が抹消されたことが幻想を幻想たらしめたのであるなら、それに対抗するのは個々の人々が幻想を覚えていることである。忘れ去られ、この世界から退去を迫られたことが運命であるならば、それは受け入れるしかないけれど、レミリアだってタダで負けてやるつもりなどなかった。

 レミリアを幻想として記憶しているのなら、幻想と知ってなお否定しないのなら、そんな人物に自分のことを覚えていてほしいと願うのは一体どれだけの悪なのだろうか。レミリアの言葉を、触れた時の体温を覚えていてほしかった。そのために、赤城は人の側に立っていなければならない。断じて、自分と同じ忘れられる側に来てはならないのだ。

 たとえ一時的に忘却したとしても、最後に思い出してくれればいい。赤城が居るなら、レミリアの小さく、されど大いなる反逆は成功する。

 

「忘れないでほしい。だから、私は……」

 

 優しく彼女の後頭部と背中に手を回す。赤城は抵抗しなかった。一切動こうとしなかった。ただ瞬きを繰り返し、うわ言のように謝罪の言葉を繰り返すだけ。その心が今まさに死に掛けて、最後の断末魔を上げているのだろう。

 

 心が死ねば赤城はどうなるのだろうか? 完全に深海棲艦に堕ちるだろうか? 

 

 あるいは、心の死が赤城という生命の終わりとなるだろうか。

 

 その可能性は高そうだった。だから、レミリアは赤城の上体をそっと抱き起すと、胸元に抱え込み、空いた手で前髪をそっと払って露わになった額に軽い口付けをする。母親が我が子に愛を示すような口付けだった。

 それから紅魔は周りに近付いて来た足音を耳にして顔を上げる。気付けば血の雨は止んで、辺りには不気味なほどの静寂が漂っていた。だから、彼女たちが現れたのもすぐに分かった。

 

 

 

 

「我が祖国に古より伝わる悪魔」

 

 厳かな声で、それが一番似合わない艦娘がそう言った。金剛は全身に傷を負い、艤装もほぼ原形を留めておらず、身に着けていた制服もぼろ布と化して肢体を露わにしていたが、爛々と光る瞳だけは尽きぬことのない闘志を湛えている。

 彼女だけではない。川内、木曾、曙、漣、潮。

 この鎮守府に所属している艦娘たちが集っていた。皆、負傷していない箇所を探すことが難しいくらい傷だらけで、血の雨を浴びたからではなく、自身の出血によって血まみれだった。けれども全員、意思のはっきりした目をしている。

 

「これは人間には勝ち目がないネー。アナタを倒せると思ってたワタシが間違ってたワ」

「そりゃあな。とんでもない悪魔だからな」

 

 半ば冗談めかした金剛の言葉に、木曾が反応して二人は小さな笑みを零した。

 

 

 

「あの程度には負けないさ」

 

 レミリアは赤城を抱きしめたまま器用に肩をすくめてみせると、「ところで」と続けた。

 

「喫緊の課題がある。この子、このままだと死んでしまうわ」

 

 艦娘の何人かは黙って頷いた。見れば分かる、と言いたげな顔をしているのは木曾だ。

 

「私は、この子を助けたい。このまま死なせるわけにはいかないから」

 

 

 

 ここは、キズモノたちの鎮守府。赤城が集め、抱き留めた艦娘たち。赤城の手で、光ある運命に導かれた子羊の群れ。

 

 羊たちはどうする? 

 

 悪魔が誰ともなしに投げた言葉を拾ったのは、ある駆逐艦娘であった。

 

 

 

「らしくないわね」

 

 口を挟んだのは曙。どこかが痛むのか、顔を顰めながらも彼女はいつものように勝気な顔で、真っ直ぐな瞳で、艦娘を代表して悪魔に答える。

 

「あんた、悪魔なんでしょ? 悪魔らしく、『こいつの魂を食べてやる』とか言ったら?」

 

 非常に、非常に遠回しな同意の表明と、意外と子供っぽい発想にレミリアは少しだけ口元を緩めることが出来た。

 

「ええ、そうね。悪魔らしく、悪い方法でやろうと思う。そこで提案なんだけど、私に手を貸してみる気はない?」

「手を貸すって? ワタシたちに悪魔の下っ端になれって言うの?」

 

 提案に抗議の声を上げたのは金剛。ごく自然に肩をすくめて呆れたように首をゆっくり振る。

 

「ええ。そうよ」

「報酬は?」

 

 と尋ねる木曾はなかなかに乗り気な様子。レミリアは目を閉じて少しだけ思考を巡らせ、それからまた目を開いてこう言った。

 

「一人頭、二千万円でどう?」

「金かよ」

 

 雷巡は明らかに馬鹿にしたように笑って、それから隣に立っている曙を見た。曙はさらに隣の漣を見て、この中では一番重傷で潮に支えられて立つのがやっと漣は、一番元気そうな潮を見る。潮は求めるような視線を川内に向けると、川内は金剛を見たので、戦艦は目を丸くして自分を指し「ワタシ?」と頓狂な声を上げた。

 

「最先任ですし」

「代表権が、あると思います」

 

 川内と潮に外堀を埋められて金剛は溜息を吐いた。彼女は額に指をあててしばし逡巡の様子を見せると、もう一度重そうな息を吐いた。

 

 

 

 

 

「で、何をすればいいの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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