レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督 裏 Marine Snow2

 

 

 

 

 榛名から改装の告知を受けた後のひと月というのは、鈴谷の人生史上でも初めて艦娘として着任した頃に匹敵するくらい多忙を極めた。

 通常のルーチン、すなわち演習やら哨戒やらといった活動こそなくなったものの、艦種変更されたということで数えるのも億劫になるくらいの各種試験と報告書――その結果報告を事細かに記さねばならない――の作成が主な戦犯だ。言葉にしてしまえばただそれだけだが、書類作成についてはその手の事務仕事がからっきしダメな鈴谷にとって無理難題を押し付けられているに等しい。

 改装自体は従来の重巡の艤装に飛行甲板を接続するだけの簡単なものだっただけに、最初は気を抜いていたのがいけなかったのだろう。想像を絶する仕事の量に鈴谷は試験開始初日で音を上げそうになった。試験を行うこと自体はまだいいが、とにかく文書を作るのが不得手なのだ。自分が行ったこととはいえ、それを論理的にかつ明確かつ簡潔に要点をまとめて書き上げるという作業が、これほどまでの苦行であるとは思いも寄らなかった。

 もちろん、今までの艦娘生活の中で何がしかの報告書作成を指示されたことは何度もある。それらの仕事は各艦娘が当然実行し、提出しなければならないものだったのだが、小学校の読書感想文すらまともに書けなかったくらい「物を書く」という行為が苦手な鈴谷にとっては苦行以外の何物でもなかった。だから、そういう場合はだいたい熊野に任せてしまっていたものである。学生時代はお手本のような優等生だった熊野は頭も良く、その手の文書作成も手慣れていた。それに、二人はいつも大概一緒の部隊で行動したから、別に鈴谷の分の報告書を熊野が作ったところで不都合が生じたりすることもなかったのである。

 かくしてサボっていたツケが一気にこのひと月に回って来てしまったのだった。これまで少しでも文書作成のスキルを身に着けておいたらこれほどまで苦労する羽目には陥らなかっただろうが、後悔は先に立たないものである。

 しかも、今回ばかりは熊野に投げられなかった。というのも、熊野も鈴谷と同じか、あるいはそれ以上に多忙だったからだ。

 秘書艦研修というのは鈴谷が思っていた以上に長く続き、特に今月に入ってからというもの、熊野はずっと榛名や他の秘書艦の傍に付いて実地研修という名目で仕事に追われていた。「彼女が居ないと横鎮が回らない」と言われる榛名の横である。かの筆頭秘書艦が滅多に海に出ないのは、ただ単純にその時間がないからだ。

 加えて、熊野はこの研修をこなしつつルーチンとして海にも出ていた。話に聞くだけでも鬼畜じみたスケジュールだし、さすがに熊野も余裕のない顔で毎日を必死に過ごしていた。だから、当然鈴谷は頼み事など出来なかったのである。

 しかし、仕方がないとは言え熊野の助けがないという状況は鈴谷にとって絶望そのものだった。今時、文書作成といえばすべてパソコンで行うものである。ただ、ガラパゴス携帯のボタンを押すスピードなら自信のある鈴谷も、パソコンの扱い方はそれほど詳しいわけではない。ブラインドタッチなんて夢のまた夢だし、最初はワードとエクセルの違いすら分からなかった。熊野曰くは「そんなもの、学校の授業で当然教わるものですわよ」とのことだが、出席不足で留年ぎりぎりだった鈴谷の記憶にそんな授業を受けた覚えはないし、仮に出ていたとしても居眠りしていただろうから内容など聞いてすらいない。

 このひと月で鈴谷はさんざん過去の自分の行いを悔い改めさせられた。今までもう少し真面目にやっていればここまで苦労することもなかっただろう、と。

 ただそうは言ってもだ。やっとこさワードで物が書ける程度のパソコン初心者に、だ。二百ページ近い報告書を、エクセルの表を挿入したり参照させたりしながら作れというのはどう考えても無理じゃないだろうか。パソコンの本体を頭上に持ち上げたところで、気力を振り絞って思い留まったことは勲章ものの成果ではないだろうか。

 徹夜でパソコンに張り付いたのも一度や二度ではなく、肌荒れさえ気にする余裕もなく、いつ自分が寝たのかさえ思い出せない状態で、朝から海に出て散々意味の分からない試験をさせられ、夜はそれらのデータを報告する。しかも、慣れない水上爆撃機の取扱にも習熟しなければならなかった。このひと月の鈴谷のモットーが「殺されるなら仕事ではなく敵に」というものになったのも無理からぬ話である。

 だからと言って熊野に助けを乞うわけにもいかず、見かねた彼女が無理して声を掛けてくれるのも固辞し、初め鈴谷は一人で頑張っていた。だが、どうやっても限界を超えているわけだからすぐに破綻を来す。「重巡に戻してくれ」という願望を抱き始めたころに手を差し伸べてくれた人物が現れた。

 榛名である。

 どうやら彼女は鈴谷の惨状を熊野から聞かされていたらしかった。何とか熊野の世話にはなるまいと悪戦苦闘していたのだが、間接的には彼女にも助けられたことになり、若干惨めな気分にもなったが、そうは言っても背に腹は代えられない。しかも大先輩からの厚意であるから断るわけにもいかない。

 当たり前のことだが、榛名もこの手のデスクワークは得意だ。加えて彼女の場合は教え方が丁寧で分かりやすいので、パソコンが苦手な鈴谷もすぐにある程度形になった文書を作れるようになった。彼女が言うには、鈴谷はまだ慣れていないだけとのことだった。

 忙しい合間を縫ってわざわざ手助けしてくれる榛名のお陰で、鈴谷の仕事は随分と捗った。改めて気に入ってもらえているというのを実感しながら、鈴谷はもうこの人には頭が上がらないなと苦笑するしかない。忙しいのには変わりはないが、それでも初めのころに比べたら格段に楽になったのである。

 時が経つにつれて文書作成のスキルはメキメキと上達し、死にそうになっていたのが嘘のようだった。榛名も「覚えが早い」と褒めてくれていたし、鈴谷自身、なんだか自分が「デキる女」になった気がして調子も良かった。

 昨日、ようやく最後の試験が終わり、試験と習熟のための期間が終了した鈴谷は、さんざん苦労をした分今までにないくらいの充足感に包まれていた。熊野の秘書艦研修ももうすぐ完了とのことなので、これでようやく二人は元の生活に戻れるだろう。榛名が呉に異動するのもそろそろなので、いよいよ鈴谷は航巡として海に出ることになり、熊野は新しい秘書艦としての責任を負うようになる。

 ここ数日の鈴谷は機嫌が良かったし、もっとはっきり言えば浮かれていた。せっかく仲良くなった榛名が居なくなってしまうのは寂しいし残念だったが、それを差し引いても有り余るくらい上機嫌だったのだ。何しろ今まで自分には出来ないと思っていた書類仕事が人並にこなせるようにまでなったのであるし、艦娘としても航空巡洋艦として一歩高みに登ったのだ。鈴谷は自分が“進化”したと思った。言葉通りの意味で、だ。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 その日、入浴まで済ませた鈴谷は一人寮室で熊野の帰りを待っていた。

 どうも彼女は予定外の残業があって長引いてしまっているらしい。正式な就任はまだとは言え、すでに秘書艦の仕事を一部任されている親友はなかなか休まらないようだ。ここ最近はずっと機嫌のいい鈴谷は、熊野が忙しく共に過ごせる時間が減ってしまっていることについて、以前とは打って変わって「それも熊野が一歩高みに昇ったってことだよね」と肯定的に捉えるようになっていた。本音を言えばやはり一緒に居たいというのが正直なところだが、わがままを言って相手を困らせるほど子供でもない。今晩の内にどうしても熊野に話しておきたいことがあったので、帰室の遅い熊野のPHSに電話を掛けていつ帰って来れそうか聞こうとも考えたが、余計な気を遣わせそうなのでその案は却下した。

 

「ただいま。遅くなりました」

 

 暇潰しに女性ファッション誌をベッドに寝転びながら捲っていると、ガチャガチャと鍵を回す音がして熊野が帰って来た。何となく、声に張りがない。余程疲れているのだろう。

 

「おかえり~。お疲れ~ぃ!」

 

 鈴谷はベッドの上で身体の向きを変えて元気よく片手を上げる。片や、仕事帰りでくたびれている熊野は小さく笑い返すだけだった。

 

「待っていてくれたの? 先に寝ていればよろしかったのに」

「まあね。ちょっと相談事があってさ」

「相談? 何ですの?」

「うん。それより先に着替えちゃいなよ。お風呂も行ってさ」

「ええ。そうしますわ」

 

 そう言うと熊野はそそくさと着替えを持って風呂に行ってしまう。入居ドックのことを俗に「風呂」と呼ぶが、この場合はそうではなくて本当に浴場である。

 消灯時間まではまだ一時間以上余裕がある。熊野が帰って来るまで再び手持ち無沙汰になった鈴谷は先程まで眺めていたファッション誌に目を戻し、それからすぐに思い直してベッドを立った。

 

 鈴谷と熊野の寮室は二人部屋で、部屋の一番奥、窓際にベッドが二つ並んでいる。ちょうどツインのホテルルームのような感じだ。その内、熊野が使う方のベッドの横に本棚が置いてあって、そこにたくさん雑誌が詰まっている。読んでいたファッション誌もそこに仕舞われていた物だが、鈴谷はそれを戻さず、本棚を漁って別の物を引っ張り出した。

 別のファッション誌やカタログばかりを三、四冊だ。それらを自分のベッドの上で開き、見比べているとまた鍵が回されて熊野が戻って来た。

 春先という季節柄、昼間は暖かくなっても夜中はまだ寒い。湯冷めして冷えないように熊野は寝間着の上に黒いカーディガンを羽織っていた。いつも房にしている長い亜麻色の髪は浅葱色のシュシュでまとめて肩より前に垂らされている。一方、同じく髪の長い鈴谷も亜麻色のシュシュを着けていた。このシュシュは昨年の冬入りのころに、ちょうど熊野が遠征して手柄を立てて帰って来たので、その記念にお互いに贈り合った物だ。それぞれの髪色に合わせている。

 

「お待たせしましたわ。それで、相談事とは一体?」

 

 熊野は自分のベッドに腰を掛けると、訝しげに鈴谷が広げている雑誌類を見下ろしながら切り出した。

 

「うん。榛名さんのことでさ」

 

 と鈴谷が答えると、その瞬間熊野は相談事の内容を察したようだ。得心したように軽くうなずき、

 

「そうですわね。その必要がありますわ」

「そうそう。で、何にしようかなって思って」

 

 間もなく呉に異動する榛名に対しては、鎮守府を挙げて送別会を行う。当然、鈴谷も熊野もそれには参加するつもりだが、他に二人だけで榛名に贈り物をしようと考えたのだ。二人とも最近は特に彼女に対して非常にお世話になっている。熊野は秘書艦研修で教わったし、鈴谷も個人的に仕事を助けてもらった。このまま彼女を手を振って見送るだけというのも無礼な話である。

 だが、生憎榛名と最近になってようやく喋るようになった鈴谷には彼女の好みが分からない。それなら以前から榛名とはそこそこ仲の良かった熊野に聞くべきだろうということで、相談を持ち掛けたのだ。

 

「なら、簡単ですわ。食べ物がいいでしょう」

 

 と、早速熊野から答えが返って来た。

 

「そうなの? 何か、思い出に残る物とかでも」

「榛名さん、あまりそういう物はお好きではないみたい。人に貰うなら食べ物がいい、と以前仰っていましたわ」

「へえ。間宮とか?」

「鉄板ですわね。でも、それで正解かも」

 

 鈴谷が間宮の名前を出すと、熊野はあっさり同意した。

 間宮とは海峡ではなく企業の名前だ。正しくは間宮製菓と言い、全国的にも有名な菓子業者である。特に何故か艦娘の間では人気が高く、値の張る商品ばかりなものの、艦娘にはよく売れていると聞く。創業者が元海軍関係者だったとのことで、その辺りの事情からか間宮製菓自体が海軍とは仲が良いらしい。

 

「間宮でいいんだ。いや、物にもよるだろうけどさ」

「間宮は大変お好きですわ。新商品が出ると毎回チェックされているのだとか。他の鎮守府にも同じように間宮がお好きな方がいらっしゃって、よく二人で相談されていると、こっそり教えてもらったことがあります」

「そりゃ、よっぽどの好き者だね。ってか、秘書艦ってそんなことやってるんだ」

「あくまで“仕事のついでのコミュニケーション”だそうですけど。その辺り、融通が利くところが秘書艦の楽しいところなのですわ」

 

 鈴谷が本棚から取り出した中には間宮製菓の最新版カタログも含まれている。鈴谷自身、先程自分で間宮を候補に上げたから持ち出したわけだが、どうやら当たりだったらしい。カタログを手にとって表紙を捲る。

 その最初の見開き、目玉商品が今月発売の新作で、何やら長ったらしい噛みそうなカタカナの名前が書かれていた。どうやら詰め合わせのものらしいが、お値段が何と七千円を超えている。

 なにこれ高っけえ。ボッタクリじゃないの? と思いつつ鈴谷がさらにカタログのページを捲ると、「あ、ちょっと」と熊野が声を上げる。

 

「今のでいいですわ」

「ええ!?」

 

 抗議半分驚き半分で喚いた鈴谷は決して悪くない。新作はとんでもない値段である。艦娘はそれほど安月給ではないとはいえ、選択肢から外すには十分説得力ある理由となり得る金額だ。

 

「もちろん、私も半分は出しますわよ」

 

 そう言うや否や、熊野は立ち上がってクローゼットに向かっていく。何をするのかと眺めていると、クローゼットを開けて制服の中を漁り、財布を取り出してお札を何枚か引っ張り出した。戻ってきた彼女はそれを鈴谷に差し出す。

 

「これでよろしい?」

 

 新作の値段は偶数だったが、単純に2で割ると中途半端な端数が出てしまう。熊野が差し出した金額は、端数の百円単位を切り上げたきりの良い数字だった。

 

「あ、ありがと……」

「ご不満かしら?」

「いや、そうじゃないけど」

「ならいいじゃありませんの。お金ではないとはいえ、それなりの物は用意すべきですわ。特に、榛名さんは間宮には一家言お持ちのようですので」

「……意外と、ミーハーなんだね。あの人」

 

 結局、熊野に押し切られて高額なお菓子を買うことになった。

 幸いにして間宮製菓の直営店が横須賀中央駅の駅前にあるので、そこで直接買えるだろう。その役目は、明日鈴谷がすることになった。

 本当は二人で行ければ良かったのだが、生憎非番が一日ずれているのだ。明日は鈴谷が非番で熊野は訓練。明後日がその逆。来週の末までに榛名は呉に行ってしまうので、贈り物を買うタイミングはこの非番しかないわけである。

 

「あ、でも。明日って夕方から雨降るって天気予報で言ってたよね」

「……ええ。鈴谷も、早く帰って来た方がいいでしょう」

「うん。まあ、午前中には済ませられると思うけどね」

 

 そんな他愛のない話をしつつ、鈴谷はベッドに広げていた雑誌やカタログを丁寧に本棚に仕舞っていく。この本棚は置き場所からも分かる通り、元々熊野の私物であり、そこに鈴谷がいくらか場所を借りて自分の本や雑誌を入れさせてもらっていた。当然きちんと戻しておかなければすぐに一言二言飛んで来る。

 

「じゃ、そろそろ寝ますかねえ」

 

 消灯時間まではまだ間があるが、夜更かしは肌の天敵である。雑誌を仕舞い終えた鈴谷は電気を消そうと立ち上がり掛けた。

 

 

 そこに、

 

 

 

「鈴谷」

 

 

 

 と、熊野が名を呼ぶ。

 

「ん? どしたん?」

 

 気付くと、熊野は何故か鈴谷のベッドに腰掛けていた。そうして彼女は立った鈴谷を真っ直ぐ見上げている。

 見下ろす格好となった鈴谷は、そこで初めて気付いた事実に驚いた。

 

 熊野の顔色がとても悪い。

 

 風呂上がりで化粧を落としていることもあって、目の下のくまがくっきりと浮かび上がっている。今の今まで気付かなかったのは、ずっと鈴谷が雑誌やカタログに目を落としていて、ほとんど彼女の顔を見ていなかったからだ。当然、くまだけでなく肌も彼女にしては考えられないくらいガサガサに荒れている。

 忙しいのは分かっていた。まともに鏡を見る時間さえ惜しまれるほど多忙を極めていた。

 だから肌の手入れや十分な休息が叶わなかったのも無理な話ではない。

 しかし、本当に疲労だけでここまで顔色が悪くなるだろうか? 心なしか顔の線も細くなっている気がする。元々小顔気味の熊野だが、頬骨の形が見て取れるのだから、やつれたと言った方がいい。

 同じように鈴谷も少し前まで仕事に忙殺されていて、自分の容姿を省みる余裕をなくしていた。今は調子も良くなってだいぶ回復したけれど、ほんの二週間ほど前は、“ネバタ砂漠”のように凄惨に肌荒れしていたのだ。目付きもいつにも増して悪くなっていたし、鏡を見ることにさえ嫌気が差す有様だった。

 それでも今の熊野ほどではない。

 疲れているどころか、精気が吸い取られてしまったような顔。深淵を覗き込んだがゆえに深淵に魅入られてしまった顔。

 

「熊野、どうしたの……」

 

 明らかに異常といえるレベルだ。逆に、どうして今まで気付かなかったのかというくらい。

 

「鈴谷」

 

 と、彼女はもう一度呼ぶ。

 いっそ、死相が出てしまっていると言ってもいいくらいやつれた顔の中で、両の眼だけが異様にギラついている。しかしその眼は、いつものような“瞳の代わりにエメラルドがはまっている”ような綺麗なものではなく、まるで濁った池の水だ。それなのに、一度視線が合うと逸らせなくなるような力が籠もっている。

 いつから、というのが分からない。熊野の異常には今初めて気付いたが、これは一日や二日で起こるようなことではない。

 彼女はずっと前からこんなふうになってしまっていたのだ。それを、浮かれていた鈴谷はまったく気付かなかった。毎日絶対に顔を合わせているのに、それこそ熊野のスッピン顔なんて飽きるほど見てきたのに。

 

「お、おかしいよ……」

 

 彼女は何かに蝕まれている。

 心なしか、眼孔も落ち窪んでいるように見えた。

 

「どうしちゃったの? 何があったの? ねえ……」

「鈴谷」

 

 熊野は鈴谷の言葉を遮って三度名前を呼ぶ。

 

「お願い。今は何も聞かないで。

ただ、胸を貸して……」

「……うん」

 

 懇願するような切ない熊野の声に、頷くしかなかった。

 ベッドに腰掛けると、彼女はやたらと緩慢な動作で鈴谷の背中に手を回し、胸に顔を埋める。程なくして、かすかに押さえ込んだように低く、くぐもった、しかしはっきりそうと分かる嗚咽が耳に届いた。

 それがもう一度鈴谷を驚かせる。

 今の熊野は信じられないほど弱々しい姿を曝け出している。正直、あまりにも予想外過ぎて、立て続けに衝撃を受けて、どう受け止めていいのかという戸惑いが胸を覆い尽くしていた。

 

 何か言うべきなのだろうか。何を言うべきなのだろうか。

 

 脳裏に浮かぶのは疑問ばかりで解答はない。掛けるべき言葉を失った結果鈴谷は沈黙する。

 ただ、何もしないというわけにはいかなかった。正しい言葉も正しい行動も思い付かなかった。気付けば押し殺したように泣く熊野の頭を優しく抱え込み、撫でている。柔らかな亜麻色の絹が指に絡んでは、撫で下ろすにつれて引っ掛かることなくするりと指の間を抜けていく。

 幼子を慰めるようなこの行為が果たして正しいのかは分からない。分からないことだらけだ。けれど、だからと言って他にするべきことなど考え付かない。

 

 

 二人の間を時間だけが過ぎていく。

 ベッドの間には小さな台があり、読書灯と共用の目覚まし時計が置かれていた。鈴谷は熊野の頭を撫でながらずっとその時計の針を見続ける。長針が「11」から「12」を指してもまだ熊野はそのままだ。

 彼女は静かに泣いている。時折嗚咽が溢れる程度で、ややもするとこのままの体勢で寝てしまっているんじゃないかと思うくらい動かなかった。

 けれど、それはまごうことなき号泣であり、春の嵐のごとく激しい慟哭だった。

 そのことだけは鈴谷も理解出来た。理由は一切不明だけれども、彼女の中で何がしかの感情が抑えきれなくなってしまっているのだった。

 

 

 

 時計の針が「2」を指そうというころ、熊野はようやく落ち着いたようで、おもむろに身を捩って鈴谷の背に回していた両手を解こうとする。鈴谷がそれとなく身を離すと、熊野は顔を見せたくないのかうつむいたまま小さく「ごめんなさい。服を汚してしまいましたわ」と呟いた。

 

「いいよ。気にしないで」

「……ごめんなさい」

 

 もう一度、それこそ蚊の鳴くような声で謝罪の言葉が紡がれる。そのまま熊野は立ち上がり、そそくさと自分のベッドに戻ってしまう。「寝ますわ」と素っ気なく言い残してさっさと布団を被るので、鈴谷も立ち上がって豆電球だけを残し、部屋を暗くする。

 けれど、このままいつも通り床に就く気にはなれなかった。だから、自分のベッドではなく熊野の横に潜り込む。

 

「鈴谷?」

 

 という戸惑いと若干の抗議を含んだ声がしたので、

 

「いいじゃん。一緒に寝ようよ」

 

 と言う。すると、

 

「暑いですわ」

 

 と返って来るので、熊野は少しだけいつもの自分を取り戻せたようだった。

 もちろん鈴谷は離れる気はないので、了承を得ないまま布団の中で熊野の手を握る。妙に冷たかった。いつだって冷え性気味な熊野の手は冷たいけれど、今日は殊更だった。

 

 

「大丈夫だから。鈴谷が一緒に居るからね」

 

「……」

 

「この手は、絶対に離さないから」

 

「……ごめんなさい」

 

 

 何に対する謝罪か。それを問う声が出ない。

 

 

 

「鈴谷、ごめんなさい……」

 

 

 

 答える代わりに、指と指を絡ませてしっかりと手を握る。

 そうしなければ、熊野がどこか遠くに行ってしまいそうな気がしてならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝目が覚めると、すでに熊野は起き出して仕度を済ませていた。彼女は朝に強くていつも鈴谷より先に起きる。鈴谷は逆で、夜型だから朝に弱かった。

 だから、彼女が窓際に立って、まだ閉められたままのカーテンのわずかな隙間から朝日が差し込んでいるのをただ眺めているのを見た時も、寝ぼけ半分の鈴谷は特に感慨を抱いたりしなかった。しかし、すぐに飛び起きることになる。

 

「あら? お早う」

 

 物音に気付いた熊野は平然と挨拶を投げ掛けて来た。いつもと変わらぬ、澄ましたお嬢様だ。

 

 目元のくまは消えていないものの、昨晩よりは随分と顔色が戻っている。

 

「……あ、おはよ」

 

 反射的に口から漏れたのは酷く気の抜けた声だった。言ってから、他にもっと言うべきことがあるんじゃないかと思ってしまうくらいに間抜けな言葉だった。

 

「寝癖、付いていますわよ」

「え? あ、ホントだ」

「そろそろ朝食の時間ですわ。ほら、早く起きて」

 

 熊野に急かされるまま、鈴谷はゆっくりとベッドから這い出る。そう言えば寝ていたのは自分の寝床ではなく、熊野のそれだった。こうして彼女と同じ布団に潜り込んでいたのは随分と久しぶりのような気がした。

 鈴谷がのそのそと仕度をする間、熊野は何か分厚い本を広げて読んでいた。寮室に、一人一台据付けのテーブルと椅子。姿勢正しく熊野は椅子に腰掛け、朝から何やら難しいお勉強に勤しんでいるようだった。ピンと伸ばした背筋はいつ見ても美しい。意識しなければすぐに猫背になってしまう鈴谷とは大違いだ。

 

「今日は、どこ行くの?」

 

 そんな熊野の背中に、鈴谷は着替えながら尋ねた。

 

「第五演習海域ですわ」

 

 背中越しに、すぐに答えが返って来る。お嬢様はどうやら目の前の本にご執心のようで、振り向きやしない。

 鈴谷は頭の中で地図を開きながら彼女の行き先の位置を確認する。「第五演習海域」とは伊豆大島の東側のエリアだ。貨物船や大島と本土を結ぶフェリー船の航路を阻害しないように設定された長方形のエリアである。

 

「誰と行くの?」

「二航戦の方々と。空母機動部隊における護衛と水上戦闘についての訓練です」

「重巡が? ってことは、いよいよ大規模作戦が始まるってことか」

「そうですわね。聞くところによれば、あの一航戦のお二方も参加されるようで」

 

 一航戦と聞いて、鈴谷は一度だけ姿を見たことがある二人を思い出す。

 直接話したことはないが、気品ある雰囲気の艦娘だった。その分、取っ付き辛そうで用事もないから鈴谷は話し掛けなかったし、向こうも知らないだろう。関わることのない別次元の人たちだ。

 そもそも、水上打撃部隊や水雷戦隊の一部として行動することがほとんどの重巡洋艦は、機動戦の主力を担う空母と同じ部隊に編成されること自体がまれである。中口径主砲の中で最も大きい「20cm砲」をメインの武器として扱う重巡は、それ自体が打撃力の源泉として数えられる。だから、航空戦の主体である空母とその護衛からなる機動艦隊には基本的に組み入れられることがない。

 それが、重巡まで機動艦隊に入れられるということになると、いよいよ空母メインの大規模作戦が発動されるということなのだろう。重巡の打撃力を持ってして空母を守らなければならないような危険な前線に出るということなのだから。

 実際、最近になってにわかに慌ただしくなっていく横鎮の様子や、そこここから聞こえて来る大規模作戦が近付いているという噂。いよいよ発令される時が迫っているのだろう。

 

 それから鈴谷が着替え終わると熊野も読んでいた本を閉じ、二人揃って食堂に向かった。非番だろうがそうでなかろうが、食堂の開いている時間は限られているし、食事の時間も決まっている。食住が基地の中で完結する以上、それは仕方のないことだ。

 食事中は噂の大規模作戦のことについて他愛もなく喋り、食べ終われば熊野は工廠に向かい、鈴谷は一旦部屋に戻った。

 朝から買い物に行かなければならない。昨日熊野と話した榛名への贈り物を調達するのは鈴谷の役目だからだ。

 それに、午後からは天気が下り坂になるという予報が出ているので、出来れば昼までには戻って来たかった。だから、少し早いとは思いつつ、鈴谷は急ぎ足で裏門に向かい、警衛所で外出届を出してから横須賀の街に繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予定を少し過ぎたが、鈴谷は昼過ぎには帰って来た。

 天気予報の通り、空には鉛色の雲が一面に広がっている。朝よりも雲の色は徐々に黒ずんでいっている気がしたので、そろそろ雨が降り出しそうだった。低気圧が近付いているからか、風も強まり、宙を這う電線や若葉を携えた街路樹が激しく揺さぶられては騒がしく音を立てている。

 鬱陶しい風に髪が乱されるのに顔をしかめながら、いそいそと裏門を通り、鎮守府の敷地に入る。出来るだけ建物の影に隠れながら場所を選んで歩いた。そうでないと、乱暴な風に好き放題髪をかき乱されてヒドい見てくれになってしまうからだ。

 これだけ天気が荒れ始めたとなると、これは海もそれなりの有様になっていそうだ。気圧が下がれば、強風が吹けば、当然海は時化る。波は高く、不規則になる。高波を食らって破損もしなければ転覆しても沈没しないのは、船とは違う艦娘の強みだが、質量の軽さは如何ともしがたい。簡単に波に流されてしまうので、荒天下での艦隊行動は困難であり、しばしば艦娘が編隊から落伍するという事故が発生している。

 とは言え、難しいということが絶対的な否定条件にはならないし、荒れた海での航行も機械に頼るなり何なりでいくらかやりようはあるもので、慣れた艦娘ならばさほど心配はいらない。経験は浅けれど、熊野は「走る」のが上手な艦娘であるから、そうそう簡単に波に流されはしないだろう。

 ただし、やはり天気が荒れた時というのは何かしら不測の事態が起こるものだ。大抵は軍の作戦行動や活動に関係のない海難事故の類で、普通はその手のトラブルには海上保安庁が出動するのだが、たまに海保から軍に応援要請が入る場合があり、そういう時はだいたい艦娘が遣わされる。小回りが利く上に電探を装備すればそれなりの索敵能力を持つので、慢性的に人手不足な海保の助けとなるのだ。

 しかも非番だと尚更声が掛かりやすい。出撃や訓練で出ている艦娘を呼び戻すのは色々と都合が悪いし時間も掛かるが、基地の中に居るか外に出ていてもPHSですぐに呼び戻せる非番の艦娘は割りと早く海に出せるからである。

 鎮守府の中に居ても特にすることはないが、雨も降るし、前述の理由で不測の事態がないとも限らないので、鈴谷は寄り道せずに目的の物だけを買って戻って来たのだった。

 

 

 荷物を置きに一旦寮室に帰り、それからちょうどいい時間だったので食堂に行ってランチを食べる。

 基本的に熊野以外喋る相手の居ない鈴谷は、彼女が居なければ独りだ。食堂には他にも何人か非番と思しき艦娘の姿がチラホラあって、彼女たちは仲良さそうに駄弁っていたが、鈴谷は一人黙々と箸を動かすだけである。

 これでも学生時代は友人が多い方だった。初対面の相手でもそれなりに打ち解けられる程度のコミュニケーション能力はあったので、話す相手には困らなかった覚えがある。高校の担任教師からは「どこに出しても恥ずかしい」と言われるくらいの不良生徒だったし、付き合う人間もそれ相応のレベルだったけれど、基本的に人と話すことに苦痛はないし、どんな相手でもコミュニケーションを取れる自信がある。

 それは今も変わっていないが、そもそも鈴谷は元よりさほど他人に興味を持つ性格をしていない。だから、一緒に悪さしたり遊んだりする“連れ”は持てども、深い付き合いをする“親友”というのは持ったことがなかった。熊野が現れるまでは。

 

 それがどうしてこんなに深く付き合うようになったのか。

 彼女との馴れ初めを聞かれれば、それこそ色んなことがあって今のようになったとしか言いようがない。たくさん思い出はあるし、中には思い出したくないこともある。紆余曲折を経て、二人は互いに心を開き合った。

 経済的に苦しい家庭に生まれ、小中は地元の公立校を卒業、何とか入学した高校もいわゆる「底辺校」だった鈴谷。対して、熊野はその筋では有名な家系の生まれで、当然実家は金持ち、幼稚園から高校までエレベーター式の私立校だったらしい。名前を聞いたら鈴谷でも知っているような有名なところだった。もちろん偏差値も高いし、実際、熊野は教養もあって聡明である。

 月とスッポンという言葉がこれほど当てはまるコンビもそうは居ないだろう。鈴谷が唯一熊野に勝っているところだと思うのは、精々がバストの大きさであるが、それにしたって人の好みによるから、自慢するようなものでもない。後は、強いて言うなら艦娘としてのセンスだろうか。少なくとも、撃沈スコアは鈴谷の方が上である。しかしながら、人間性を含めた他の部分においては熊野に優る要素が何一つない。

 だが、熊野は決して鈴谷を見下したりしないし、ぞんざいに扱ったりもしない。少なからず彼女は鈴谷に対して敬意を払っていて、小言は多いし口調もきつい時があるが、それもすべては鈴谷を思ってのことだから、不愉快にはならないのである。

 

 

 

 だからだろうか。熊野と深い付き合いになったのは。

 

 今までそうやって鈴谷のことを見てくれた相手は誰も居なかったのだ。親も教師も鈴谷のことは出来の悪い子供だと思っていたし、近付いて来る男は発育のいい体目当てだし、女友達は単に一緒に遊ぶだけの存在だった。それ以外の人間は当然鈴谷を避けるか、嫌っていた。

 

 けれど、熊野は違った。彼女は鈴谷のことを等身大で見てくれた初めての存在。初めて、心を許そうと思った相手なのだ。

 その熊野が居なければ鈴谷は独りになる。親しみやすさを前面に押し出したキャラクターを演じなかったのもあるし、「不良」だったという事実が、育ちの良い娘が多い艦娘の間では敬遠されているらしい。仕事の用事でもなければ声を掛けてくる艦娘は居ないし、それもそもそもの頻度が少ないから、熊野が居ないなら鈴谷はずっと孤立しているような状態になっている。

 当たり前だ。2引く1は1である。引かれた1はどこかの数字にまた足し合わせることも出来ようが、残った1はずっと1のままそこにある。誰に対しても興味を示さないから、誰からも興味を示されない。

 

 孤独には慣れていた。一人で居ることを苦痛には感じない。寂しいという感覚は薄い。

 ただし、それは集団の中での話。このような、食堂の中で一人ボソボソとランチを食べている状況でのこと。

 寮室に戻れば、否が応でもその広さを感じる。

 二人分の生活スペースに一人しか居ないという欠損を認識せずにはいられない。

 だから、熊野と非番が重ならない日は外に出るようにしている。大勢の中の一人なら寂しいとは思わない。けれど、二人の内の一人だけなら、いくら鈴谷とて寂しさを感じてしまうから。それは特別だからこそそうなのだ。

 

 

 

 ――いや、やめよう。

 

 とりとめもなく湧き上がる不吉な思考を押さえ込む。考えても詮のないことだ。

 別に何かが起こるわけじゃない。ただ単に非番のが重ならなかった一日というだけ。今晩にもまた顔を合わせるだろうし、明後日は逆に熊野が非番だが、次回はまた二人一緒だ。この週末を過ぎればいよいよ本当に秘書艦に就任する熊野が多忙なのは変わりないが、このひと月よりは肩を並べられる時間は戻って来ているだろう。

 こんなふうに独りで飯を食べているから詰まらないことを考え始めるのだ。さっさと食べ終わって部屋に帰えろう。昼寝でもするか、雑誌でも読むか、することもないんだし暇を気ままに潰しておけばいい。

 そう思い、鈴谷は残っていたランチを片付ける。周りにはまだ何人もの艦娘や軍人たちがいる。彼ら彼女らは皆食べるのは早いので、今残っているのは遅くに食堂に入って来た者たちだろう。もうそろそろ昼休みの時間も終わるので、それまでにはここを出なければならない。

 鈴谷も、考え事などしなければ食べるのは同年代の女性よりは早い自信がある。何しろ、いつ招集が掛かるか分からない、作戦中はいつ飯を食べる時間が確保出来るか分からない軍隊である。食べられる時に可能な限り早く食べるという癖がついていた。

 

 米粒一つ残さず食器を空にすると、トレーごと持って行って返却口に入れる。「ごちそうさまでした」と一声掛けてからさっさと食堂を出た。

 そのタイミングで、ジーンズのポケットに無造作に突っ込んでいたPHSが甲高い着信音を鳴り響く。

 食堂の外の廊下。人通りの少なくなった昼一。PHSの時計はちょうど13:00を表示している。それを確認してから鈴谷は通話ボタンを押した。

 

 

「榛名です」

 

 

 鈴谷が名乗る前に相手が名乗る。

 

 

「鈴谷さん、今どこですか?」

「えっと、食堂前ですけど。ちょうど出たところで」

「なら、今すぐ司令室に来て下さい」

「あ、はい……」

 

 鈴谷の返事をまともに聞いていたかすら分からないうちに榛名は電話を切ってしまった。いつも落ち着いている彼女にしては妙に慌ただしい様子だ。

 ただならぬ気配を感じて、鈴谷は身震いする。榛名があれほど慌てるのは鈴谷が知る限りでは初めてだ。彼女がそんなふうにならざるを得ないほど、何か良くないことが起こっている。

 乱暴にPHSをポケットに突っ込み、私服であることも忘れて鈴谷は走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 司令室に入ると、中では二人が鈴谷を待ち構えていた。榛名と、横鎮司令官。二人は部屋の真ん中に置かれたソファに腰掛けていた。

 外はもう酷い土砂降りで、天気予報は見事的中したようだ。不幸にも食堂のある建物から、司令室のある司令部庁舎までの間は屋外を通らなければならない。傘を借りて慌てて走って来たけれど、傘が役に立たないほどの土砂降りだったのでずぶ濡れになってしまった。どうやらランチを食べている間に降り始めたらしい。

 そんな濡れ鼠の鈴谷を二人が見上げている。「あ、これはダメなヤツだ」と直感が告げる。学生時代に散々悪さをしてきたお陰か、相手が事態や状況をどの程度深刻に捉えているかが判別出来るようになっていた。特に、相手が怒りを見せるより、途方に暮れていたり、諦観しているような気配を出していると、事態が悪い方向に後戻り出来ないところまで進んでしまっていると考えて良い。そう、ちょうど今、強張った表情で振り返った榛名や、鈴谷に視線だけしか寄越さなかった司令官のように。

 今すぐに踵を返したくなった鈴谷に、まずは榛名が口を開く。

 

「大変なことになりました」

 

 案の定、榛名の声が異様に低く、固い。この後にロクでもないことが告げられるのだ。しかも、それは身構えた鈴谷の想像を遥かに超える衝撃の一言だった。

 

 

 

「今朝、警察から連絡があったんです。鈴谷さんが目撃された暴行傷害事件、その重要参考人として、熊野さんの名前が挙がっていると」

 

 

 

「……は?」

 

 

 想定外の名前が出て来たことに、鈴谷は絶句した。

 

 

 熊野が? 何で?

 

 

 一斉に疑問が噴出し、あっという間に頭の中を埋め尽くす。

 呆然として硬直する鈴谷に、尚も榛名が続きを語る。

 

「鈴谷さん、貴女が目撃された事件で被害者の身体には犯人の物と思われる唾液が付着していました。その唾液の中には被害者の物とは違う血液型の血液が含まれていて、警察がそれをDNA鑑定したところ、熊野さんのそれと一致したのです」

 

 彼女は何を言っているのだ?

 あの事件の被害者は艦娘や軍とは関係のない一般人で、熊野と接触するはずがない。だと言うのに、何故彼の身体に熊野の血が付いているというのだろう?

 

 言っていることがおかしい。被害者に触ったのは、目撃した鈴谷と……犯人だけだ。

 

「う、うそだ……」

 

 そう言えば、あの日は熊野も非番だった。街に出ていたはずだ。そして、帰って来た時に見たら、唇の端が切れていて小さなかさぶたが出来ていた。

 

「あり得ないでしょ……」

 

 鈴谷が見た犯人は、女だった。それは間違いなくそう言える。シルエットだけとはいえ、あの線の細さ、肩の華奢さは女以外にあり得ないと思う。ちょうど、見慣れた彼女が似たようなスレンダーな体型をしているから。

 

「それだけじゃありません。警察はもう一つ証拠を持っているそうです。彼らは熊野さんがいつも使う通用門付近の監視カメラの映像を調べ上げ、今まで犯行が行われた日はすべて熊野さんが非番で、かつ貴女を含め誰とも行動を共にしていない日だということを突き止めたのです。いつも、熊野さんはベージュのコートを着ていましたよね。一方、前回の事件の犯行現場付近のカメラにはダークグリーンのコートを着た人物が映っており、警察はこのコートの種類を調べました。それで分かったのは、そのコートはリバーシブルになっていて、裏はベージュ色だということ。コートの形は通用門を通っていた熊野さんが着ていた物と一致したとのことでした」

 

 それには心当たりがある。熊野が高校時代から使っているお気に入りで、冬には外出の折、必ず着て出て行く物だった。

 

「鈴谷さんが事件を目撃された日も、熊野さんはそのコートを着て、出掛けられていたのです……」

 

 ああ、そうだ。あの日も春になってもう温かいのに熊野はコートを着て出ていったのだ。何でも、少し肌寒い気がするから、と。

 そして帰って来た時には唇の端を切っていた。真新しい傷だろう。気付いたその場では何も言わずに二日後に指摘をすると、手入れが出来ていなかったという答えが返って来た。

 

 だけど、それがどうしたのだ? 

 

 たまたま同じコートを持っている人物が居たのかもしれない。唇もたまたま切ったのかもしれない。

 

 すべては偶然で……。

 

 

 ああ、だから「重要参考人」なんだ。

 

 

「鈴谷さん!」

 

 気付けば鈴谷はその場に崩れ落ちていた。榛名が慌てて支えてくれたけれど、気を遣う余裕はなかった。

 信じられない事実を突きつけられて、動くことが出来ない。立っていることすらままならない。頭を抱え込んで震えるしかない。

 

 一体どうして?

 

 ただ一つの疑問だけが鈴谷を満たした。他のことを考える余裕などないし、思い浮かぶのは今までの熊野の姿ばかり。

 亜麻色のポニーテール。戦士にしては細すぎるくらい細い身体のライン。白磁と言うにふさわしい日焼け知らずの肌。「鈴谷」と愛おしそうに呼ぶ声。

 

 熊野が人を、罪もない無辜の人を傷付けた? 

 

 冗談にしては質が悪い。あんなに立派な彼女が、秘書艦に選ばれるくらい模範的な艦娘が、どうして誰かを傷付けるというのだろう。

 おせっかいで口うるさいところもあるけれど、それは彼女の優しさの裏返しであり、気遣いがよく出来て、何よりも上品だ。自分のパートナーにはもったいないくらいいい子で、それ故に鈴谷は熊野のことが好きなのだ。

 熊野が悪いことをするわけがない。ルールにはうるさい性格なんだから尚の事。

 きっとすべては偶然で、よく似た人物像の誰かが真犯人なのだ。

 そうだ。そう言おう。いや、言わなければならない。

 今、熊野を弁護出来るのは自分だけだ。

 

 決心して鈴谷が顔を上げた時、司令官が口を開いた。

 

「MPまで話が行っている。さっそく申し入れてきたよ。お前たちの部屋のクローゼットを調べさせて欲しい、とな。まあ、それには少し待ったを掛けているが」

 

 MP、つまり海軍憲兵は、海軍の中で警察に代わり警察権を執行する機関だ。鎮守府の中に居る熊野を捕まえるには、警察も彼らに任せるしかない。

 だが、一方で海軍憲兵もまた軍隊の一部である。特に、エリートの軍人たちには同じ「制服組」の警察を見下す傾向があり、それはMPでも恐らく変わりはないだろう。そんな彼らが“格下”の警察の言うことを聞いて身内を、それも現在海軍の主力たる艦娘を、捕まえようとするのは余程のことである。逆を言えば、プライドの高いMPでさえぐうの音も出ないほどの確固たる物証を、警察は握っているということなのだ。榛名の言った証拠の他にも、警察は何かを掴んでいるのかもしれない。そうでなければ、彼らもこんな話をして来なかっただろう。

 

 何が起こっているのかを全部は飲み込めていないが、それがどれ程の重さを持っているのかは骨の髄まで理解した。むしろ、鈴谷だからこそ事の重大性を実感している。数々の補導歴から、少なからず警察というのがどういう組織なのかは分かっているつもりである。例えば、彼らが弱い者には強権的であったり、軍に対して鬱屈した何かを抱いていたり、などだ。

 そんな彼らが、艦娘を容疑者に挙げた。榛名曰くは「重要参考人」だが、そんな表現は何の気休めにもならない。司令官は深くソファに身を沈め、頭を背もたれに預けると盛大に息を吐き出した。

 榛名は「座りましょう」と鈴谷に囁き、抱え上げようとする。既に自分で立てるくらいには回復した鈴谷は引き起こされる前に立ち上がった。それから二人でよたよたとソファまで歩いて行き、司令官の前に腰を下ろす。その時初めて、榛名が左手の手の平に大きな絆創膏を貼り付けているのに気付いた。とは言え、怪我の理由を秘書艦に尋ねられる状況でもなかったし、鈴谷自身がそれについて考察している余裕がなかった。

 二人が座るのを待って、司令官は背もたれから頭をわずかに起こし、下目で榛名を見ながら問い掛けた。

 

「熊野は、“黒”か?」

 

 榛名は逡巡する素振りを見せた。その問いに含まれている総ての意図を読み取ろうとするように。

 しばし、雨音が室内を満たす。先程よりさらに雨脚は強まっているようだ。

 たっぷり三拍は置いてから、意図が読めたのか、あるいは言葉を選び終わったのか、榛名はゆっくりと答えた。

 

「限りなく黒に近いグレーかと。物証が出てしまっています」

「そうだな。それと、鈴谷。コートに心当たりはあるか?」

「それは……」

 

 正直に答えるべきだろうか。いや、隠してもどうせ分かることだ。鈴谷には肯定するしかない。

 

「あります」

「……そうか」

 

 司令官はもう一度ソファの背もたれに後頭部を預けて天井を仰ぎ見る。重い息が吐き出された。

 

 部屋の空気は鉛のように重く、窓ガラスを激しく叩く雨がそれに拍車をかけている。

 

 

 

「現役の」

 

 司令官は天井を仰いだまま喋り出した。

 

「艦娘が逮捕されるなどあってはならん。艦娘艦隊創設以来最悪の不祥事になる」

「ですが、警察は捕まえる気満々ですよ」

 

 合いの手を榛名が挟む。

 

「そこだ」と司令官は顔を起こし、榛名を見据えた。

 

「握り潰すことは出来ん。連中は軍事機密のはずの艦娘のDNAデータまで入手したのだ。『重要参考人』というのはこちらに配慮してのことだろう。本当はすぐにでも逮捕状を取れるんじゃないか? だが、相手は艦娘だから物証を固めていても、自白するまでそうしないつもりだ。だから、『重要参考人』なんだよ」

「同感です」

「とにかく熊野に話を聞かねばならん。場合によっては県警本部長とも会う必要がある」

「ええ。ですが、MPの方は」

「当然だ。ところで、熊野は今どこに居る?」

「第五演習海域に」

「すぐに呼び戻せ。兎にも角にも聞くべきことが山のようにあるんだからな!」

「了解致しました」

 

 鈴谷が言葉を失い見ているだけの間に話は進んでいく。きっと二人は頭の中で今回の騒動の落とし所を探し始めているのだろう。

 間違いなく事態は最悪へと陥るだろう。恐らく、警察は正しい。鈴谷には最早否定出来ぬことだった。証拠と言えるものはないけれど、確信は誰よりも強く抱くことが出来た。

 

 それは他ならぬ鈴谷だからこそ。

 

 昨晩のあの熊野の様子。妙にやつれた顔。意味不明だった謝罪。

 今なら分かる。頭の中で、バラバラに散らばっていたパズルのピースが次々とはまり込み、一つの絵を作り上げていく。

 いっそ、爽快と表現してもいいほど真実が急速に浮かび上がってくる。何もかもが、鈴谷の知る熊野に関するあらゆることが真相を、最悪の真相を指し示していた。

 

 

 ああ、間違いない。

 

 

 ここ数ヶ月横須賀で発生していた連続暴行傷害事件。その犯人は熊野に他ならない。

 今この場で、鈴谷は誰よりも強くそう言える。自分のすべてを賭けてもいい。熊野が犯人であると告発出来るのだ。「限りなく黒に近いグレー」どころか、「真っ黒」以外の何色でもない。

 けれど、思っていることとそれを実際に口に出すことは違う。ここで熊野が犯人であると叫んだところで、一体何がどうなるというのだろう。

 

 結局のところ、待ち構えているのは引き裂かれる運命でしかない。早ければ明日にでも熊野は逮捕されるだろう。そうなれば、良くても追放だ。最悪、処刑されるかもしれない。軍として、護るべき人々を傷付ける艦娘など、存在自体を許容し得ないのだから。

 

 

 

 だが、事態は鈴谷の想像を超え、さらに悪い方向へと転がっていく。

 突然、司令室に着信音が鳴り響いた。慌てて懐を確認したのは鈴谷と榛名で、鳴っていたのは榛名のPHSだった。

 

「はい。榛名です」

 

 彼女は急いで電話に出る。相手は分からないが、「緊急事態です」という声が電話口から漏れて聞こえて来た。

 ただし、続けて相手が言った言葉までは聞こえなかった。それよりも、鈴谷は見る見るうちに顔が青ざめていく榛名に目を奪われていたのだ。

 

「す、すぐに折り返します……」

 

 震える声でやっとのようにそう答えて、榛名はPHSを切る。その顔は色をなくしていた。

 もともと色白だが、そんなレベルの話ではない。彼女の体を巡っているはずの血がすべて消えてしまったんじゃないかと思うくらい真っ青である。

 

 

 

「提督……」

 

 

 

 ほとんど泣きそうな声で榛名は司令官を呼んだ。

 

 

 

「大変です……。出撃中の艦隊から連絡で……。熊野さんが、落伍して、行方不明になった、と――」

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜になると大雨は止み、静けさが戻って来た。

 雨が降ったのと、日が沈んだのとで外は思いの外寒く、鎮守府の中を歩く人々は皆足早に通り過ぎるだけ。それも夕食の時間が終わるころには動く影もなくなり、すっかり宵の静寂が基地を包み込んだ。

 艦娘の寮は窓が街の方を向いているので、部屋の電気を点けていなくともカーテンさえ開けていればそこそこ明るい。逆に、宿直や徹夜の突貫工事をする工廠の人間くらいしか動く者が居なくなる鎮守府は、あっという間に闇に飲まれるので暗い。

 それでも今晩は騒がしい方だろう。まだ夜間装備を携えた捜索部隊が帰って来ていないし、急遽市ヶ谷の海軍庁から幹部も派遣されたようである。

 

 しかし、鈴谷は呼ばれなかった。昼間、司令室を半ば追い出されるように辞してから、ずっと自室待機を命じられている。

 以後、ずっと部屋にこもりっきりで外に出ていない。夕食も、食欲がまったく湧かなくて行かなかった。

 

 

 

 考えているのは熊野のこと。

 彼女が犯人なのは間違いないし、最早そのことは鈴谷だけでなく司令官や榛名、それどころか海軍の上層部まで確信を抱いているだろう。少なくとも二人は気付いたはずだ。熊野が落伍したと聞いた時、彼女が遭難したのではなく、本当は“逃亡”したのだということに。

 何より、鈴谷はそう解釈した。熊野は逃げたのだ。

 

 彼女の航行技術をもってすれば今日の嵐と言えど航路を逸れることはない。熊野のことを誰よりも近くで見続けていた鈴谷だからこそ断言出来る。だから、熊野は落伍したのではなく、嵐の中で落伍したように見せかけて逃げたのだ。本来なら遭難信号が発信されるところだが、その反応はなかったと言うから、これはもう確実である。

 

 何故逃げたか。もちろん、やましいことがあるから。捕まりたくないから逃げたのだ。

 その理由こそが、今日刑事が訪ねて来た理由であり、鈴谷のすべてを突き崩した原因である。考えればあまりにもタイミングが良すぎるが、変なところで勘の鋭い熊野のことだから、“虫の知らせ”でも受けたのかもしれない。

 

 とにかく、彼女はもう居ない。鈴谷の前から消えてしまった。

 裏切られた、とは思わない。きっと、何か事情があったはず。使命感と責任感が誰よりも強い熊野が、それでも人を傷付けなければならなかった止むに止まれぬ事情というものが。

 

 

 思えば、被害者には必要最小限の傷だけを付け、後は丁重に扱うなど実に熊野らしいではないか。彼女は何らかの理由で人を襲わずにはいられなかったものの、それ以上の危害を加えるつもりはまったく持っていなかった。当たり前だ。熊野はそんな残虐な性格ではない。

 だから、鈴谷に事件を目撃されたのは完全なる計算外だったのだろう。慌てて彼女は逃走した。

 きっと、熊野は最初から目撃者が鈴谷であることに気付いていたに違いない。それでも、何でもないふうに装って警察署から帰って来た鈴谷を出迎えた。

 その時の鈴谷自身が疲労し、熊野をあまり細かく観察している余裕がなかったとは言え、振る舞いにまったく不自然さを感じさせない演技力は見事と言うに他ない。一体全体、どんなメンタルの強さをしていればそんなことが可能なのだろうか。

 さらに驚くべきことに彼女は犯行の目撃者とひと月あまり寝食を共にし、露呈する恐怖と戦いながら日常を過ごしてきた。鋼、どころかダイヤモンドのようなメンタルを持っていなければ不可能だろう。

 元々芯の強い子だとは思っていたけれど、まさかこれほどとは想像だにしなかった。一体、熊野はこのひと月の間、何を思い、何を考え、何を感じながら過ごしてきたのだろうか。目撃者鈴谷が熊野のことを認識していなかったのには早々に気付いただろうが、それであっても“後処理”もせずに現場を立ち去ったのだから、いつ警察が来るか怯えなかったはずがない。その恐怖は、確実に熊野の心を削っていった。

 

 いくらメンタルが強くとも限度がある。熊野は人一倍精神がタフだったからひと月保ったけれど、いよいよ限界が訪れたのだ。

 それが、昨日泣いた理由だ。

 つまり、そこまで彼女は追い詰められていた。理由が分からなかったけれど、分かるはずもない。熊野は口が裂けても告白出来なかっただろう。

 彼女にとって目撃者鈴谷というのは、つまるところ巻き込んでしまったという負い目の対象である。これ以上負担を掛けないようにと口をつぐみ、「最もましであると熊野が思う」方法を、すなわち鈴谷に一番負担が掛からないと考えた方法を、彼女は選択した。それが“逃亡”だ。

 

 警察に捕まって自白すれば、最もその煽りを受けるのは鈴谷である。何しろ直接犯行を眼にしている上に寮も同室の姉妹艦。仲の良さも評判だから、警察でなくとも関与を疑うし、ややもすれば「熊野を庇っていた」と言われかねない。真実がどうであれ、ただでさえ「不良」と名の知れている鈴谷が、周囲から犯人扱いを受けるのは間違いないだろう。

 だから、“逃げた”のだ。そうすれば自分から犯行を自白したのと同然だし、周囲の心証も悪化する。あるいは、それこそが熊野の目的。ヘイトを自分に集めることで、逆説的に鈴谷を疑惑から外す目論見。

 いかにも彼女の考えそうなことじゃないか。そうやって自分だけを悪者にすれば他が助かると考えている高慢なところなんて、熊野を熊野たらしめる本質だ。

 まったく要らないことを考えつくものだ。今更鈴谷は自分が何を言われようが気にしないし、だから余計なお世話にしかならない。

 犯人扱いされて居辛くなったところで何にも思わない。だってそこにはもう、熊野は居ないのだから。

 

 どうしてそこまでするのだろう。

 いや、そもそもどうして熊野はあんな事件を引き起こしたのだろう。

 動機はまったく分からなかった。心当たりも、いろいろなことを思い出して少しでも記憶の中から手掛かりを探り出そうとしたけれど、全部徒労に終わった。

 結局、熊野が何をしていたかも不明だ。

 最近はめっきり聞かなくなったが、以前は「吸血鬼の仕業だ」などという噂も飛び交っていた。だが、まさか熊野は人間の生き血が欲しくて事件を起こしたわけではないだろう。それこそ本当に吸血鬼になってしまう。

 では、何が動機だったのだろうか? それがいくら考えても分からない。本人に訊かない限りは、きっと真相は永遠に闇の中だ。

 

 だから、泣けてくる。

 

 鈴谷は自分が熊野の一番の理解者だと思っていたけれど、それは単なる思い上がりに過ぎなかった。熊野のことをさんざん鈍い鈍いとからかっていたけれど、本当に鈍かったのは鈴谷の方だった。人知れず彼女が犯罪に手を染め、苦悩していたのに一切気付かなかったのだから。

 熊野の性格なら、犯行の告白は絶対にない。だから、鈴谷の方から気付いてあげるしかない。

 ではもし、気付けていたらどうなっていただろう? 少しは熊野の心を救えただろうか。彼女が抱え込んでしまっていた何か大きな悩みを解決に導いてあげられただろうか。

 もしそう出来たのなら、熊野がやつれることも、泣くこともなかった。

 気高くプライドも高い彼女が、あんなふうに弱さをさらけ出すことなんてなかった。こんなふうに無様に逃げるまで追い詰められることもなかったのだ!

 

 鈴谷は基本的にどんな熊野でも好きだし、自分だけに弱いところを見せて欲しいとも思っている。例え犯罪者になったとしても、それが熊野に幻滅する理由にはならない。

 ただ、一番好きなのはやっぱり気高い彼女であって、脳裏に浮かぶのは背筋をピンと伸ばし、誇りと使命感に満ちた表情で水平線の向こうを見通す姿だった。

 

 熊野はいつだって鈴谷の前に立っている。華奢だけれど頼りになるその背中を眺めるのが好きで、鈴谷はずっと熊野の後を付いてきた。今更彼女なしで居られるわけがない。

 

 だから、尚の事泣けてくる。

 

 熊野は逃げた。だが、逃げるだけでは何も終わらない。どこかで決着を付けなければならない。

 

 

 そこまで思い至って、鈴谷はようやく身を投げ出していたベッドから起き上がった。部屋に据え付けられている読書机には、一冊の本が置かれている。

 熊野が今朝読んでいた本だ。彼女は出掛ける時にきちんとその本を棚にしまったけれど、一目でどの本か分かった。何しろ、まるで気付いてくれと言わんばかりに背表紙が少しだけ飛び出していたのである。普段、鈴谷が同じことをすれば目くじらを立てるような几帳面な性格の熊野がそんないい加減なことをするわけがない。だから、これは意図的なもの。問題はその内容である。

 タイトルは「艦娘の艤装が持つ諸特性について」という物で、つまりこれは海軍大学校で発表された論文なのだろう。本一冊に仕上げられるくらい長ったらしい論文だ。

 なんだって朝の忙しい時に熊野はこんなものを広げていたのだろうか。そこに大事なメッセージが込められている気がして、鈴谷は読書机の前に腰を下ろし、本を開いた。

 まず冒頭にあった概要だけをさらうと、中身は題名の通り艦娘の艤装が持つ不可思議な特性や機能について書かれているものらしい。

 しばらく前からこのタイトルの本が置かれていたのは知っていたけれど、興味もないので特に熊野に内容を尋ねたことなどはなかった。勉強熱心な彼女はこんな難解な論文でも読んでしまえるのである。

 ただ、熊野がどんなに頭が良くて、どんなに本を読むのが速くても、今朝の短い時間に内容の全てを見るのは不可能だ。彼女が今朝読んでいたのはほんの一部分だけ。確認が必要な文章だけ。そこに書かれている内容こそ、鈴谷の知りたいものだった。

 目次を見てそれらしい内容が書かれている章がないか探ってみるが、目次の章題すら難しすぎて何について書いてあるのか分からなかった。鈴谷はあまり活字が得意ではないし、頭がいいわけでもない。今まで、仕事上で必要とされた頭脳労働については、大抵信頼のおける同僚に丸投げしてきたのだった。

 苛立ちが積もっていく。適当にページを開いてみても、白い紙の上を漢字や数字が踊るばかり。意味を見出せないそれらは、最早文字ではなく単なる記号としてしか認識出来なかった。

 

 そしてついに鈴谷は投げ出した。

 どうやっても、熊野が今朝見ていたページにたどり着きそうになかった。わざとらしく背表紙を浮かせていた割に、読んでいたページが分かるようなヒントは残されていなかった。ひょっとしたら、本の仕舞い方が甘かったのも、朝が忙しくて慌てていたからかもしれない。そんな素振りは全く見受けられず、むしろ悠々とした様子だったけれど。

 

 

 鈴谷はもう一度ベッドに、熊野のベッドに身を投げ出した。シーツには熊野の匂いというものが染み込んでいて、横になっているとその匂いに包まれてすぐ身近に彼女の存在を感じられる。

 ほんのりと甘い、普段使っているシャンプーや香水のそれも混じった匂い。世界で一番鈴谷が好きな匂い。

 温もりがほしい。ほんのちょっとでも力を込めれば折れてしまいそうな細い体躯を抱き締めたい。

 「鈴谷」って耳元で囁いて欲しい。乱れた髪を優しく撫でて整えて欲しい。身を預け、彼女の胸元から翡翠のような瞳を見上げたい。

 

 そんな願いさえもう叶わないのだろうか。

 もうあの愛おしい顔を見ることも出来なくなるのだろうか。

 

 ベッドに横たわる鈴谷はシーツを鷲掴みにして顔に引き寄せる。そうして、少しでも多く熊野の痕跡を掻き集めようとするように。

 けれど、いずれ彼女の気配はこの部屋から消えてしまうだろう。後には主の居なくなった寝床や持ち物が化石のように残されるだけであり、そこに亜麻色のポニーテールを見出すのは鈴谷の脳裏に浮かぶ幻影のみになる。

 

 熊野はどこに行ったのだろう。鈴谷を置いて、どこに行こうというのだろう。

 

 

 

 

 不意に、電子音が暗い部屋の中で鳴り響いた。鈴谷の身体と一緒に熊野のベッドの上に放り出されているPHSだ。

 あまりにも唐突に鳴ったので驚いた鈴谷は咄嗟に身を起こす。心臓が跳ね、激しい動悸が胸を打ち付けた。それが収まるまでの間、着信音を鳴らしながら震えるPHSを見ていた。

 こんな時にわざわざ鈴谷に連絡を入れてくる人物は一人しか思い浮かばない。用件は熊野に関することであるとは分かっても、具体的に何かまでは想像がつかず、期待と恐れが鈴谷の中でせめぎ合ってしばらくPHSを放置していた。

 それでも、掛かって来た電話は取らねばならない。恐る恐る手を伸ばし、通話ボタンを押す。

 

「鈴谷さん!」

 

 案の定、榛名だ。

 

「今すぐ、制服に着替えて司令部庁舎まで来て下さい。会議が始まります!」

 

 そう言うなり、榛名は忙しいのか一方的に電話を切ってしまった。

 彼女は会議と言った。何の会議だろうか? 消灯時間も迫る今頃から始める会議とはロクなものではないのは確かだ。余程急いで話し合う用件……は、一つしかない。

 とにもかくにも呼び出された以上はすぐに赴かなければならない。億劫そうに鈴谷はベッドから立ち上がり、私服を脱ぎ捨て、畳みもせずに自分のベッドの上に放り投げると、下着姿のままクローゼットを開けて「最上型三番艦」の制服を引っ張り出す。

 プリーツスカートを履き、ブラウンのブレザーを羽織るとまるで本物の女子高生のように見える。到底戦場に赴く格好ではないが、艦娘というのはどいつもこいつも兵士らしからぬ服装をしているものだ。曲がりなりにもそれが制服だというのだから仕方がない。

生のように見える。到底戦場に赴く格好ではないが、艦娘というのはどいつもこいつも兵士らしからぬ服装をしているものだ。曲がりなりにもそれが制服だというのだから仕方がない。

 そうして鈴谷は「鈴谷」になると、さすがに着替えるだけにゆっくりとし過ぎたので急いで寮室を飛び出した。

 昼間の雨が止んでいたのは幸いだった。艦娘寮から司令部庁舎まではこれまたなかなかの距離があり、急ぎ足では間に合いそうにないので走らなければならないからだ。横鎮程の規模になると何から何まで巨大で、敷地の広大さも半端ではない。あまりに広すぎるのも考えもので、実質横鎮の中心部となる司令部庁舎は工廠や入渠ドッグ、補給処や桟橋といった主要な施設のどこからも遠いので非常に不便である。

 

 五分ほど走り続け、ようやく息を切らしながら庁舎に飛び込むと、一階の玄関で榛名が待ち構えていた。

 庁舎は宵も深まっているというのにそこだけ煌々と明かり灯っていて、今が如何に異常な状況下であるかを如実に示している。普段は、消灯時刻になると真っ先に明かりが消える建物だからだ。

 

「もう始まっています」

 

 榛名は開口一発そう告げた。

 

「海軍の幹部の方々、今集まれる面々がすべて集まっています。熊野さんの件で、明日以降の対応について協議するための緊急会議です。鈴谷さんも呼ばれましたので」

「は、はい」

 

 反論も質問も許されない雰囲気だ。榛名の物言いも何時になく冷たい響きを含んでいて、表情も強張っている。

 鈴谷が気圧されている間に彼女は踵を返し、庁舎一階、鈴谷も知っている大会議室に向かって廊下を早足で進んでいく。

 取り残されないように急いで後をついていく。榛名は大会議室の前、格式張った木の扉の前に立つと、ひと呼吸置いてから勢い良くノックする。

 

「失礼します」と張りのある声。すぐに返事が来て、榛名は会議室の扉を躊躇なく開ける。

 

 敬礼して入室する彼女に鈴谷も続いた。その瞬間、避けられなかったこととは言え、会議室に入ったことを後悔した。

 

 

 一斉に鈴谷を見詰める大勢の目。誰も彼もがいい年した年配の男たちだが、歴戦の軍人らしく皆その視線には尋常ではない鋭さを含んでいる。

 会議室の中には口の字型にテーブルが置かれ、会議の出席者がそれを囲んで座っている。各々の前には中途半端に減ったペットボトルの水やお茶が置いてあり、それなりの時間この会議が行われていたことを示していた。

 知っている顔も多いが知らない顔もある。知っている顔といっても、写真で見たりして知っているだけで直接話したことなどない。「知り合っている」という意味で知っている顔といえば、この中では唯一横鎮司令官だけだろう。

 

 

「座り給え」

 

 会議室の一番奥、上座下座で言えば上座にあたる席に座っている口ひげを生やした軍人が厳かに言う。肩に燦然と輝く大将の階級章。海軍幕僚長の顔と名前くらいはさすがに艦娘なら誰でも知っている。海軍の制服組ではトップの肩書で、言ってしまえば事実上海軍の実権を握っている人物だ。その左右には軍令部長や軍令部次長、連合艦隊(GF)司令長官、軍務局長などなど錚々たる面子ばかりが顔を揃えている。

 これでは海軍将官会議に招集されたようなもの。鈴谷は胃袋がぎゅっと縮まるような痛みを覚えた。

 鈴谷と榛名が座るように指し示されたのは下座だ。口の字型のテーブルの内、入り口に最も近い手前のテーブルに三つ席があって、その後ろから見て、つまり上座に座る幹部たちを前にして一番右に横鎮司令官が座っている。そして何故か、榛名に三つの席の内、真ん中に座るように促された。断るわけにも行かず、渋々そこに尻を下ろすが、まったく落ち着けない。

 何しろ左右を上官に挟まれている上、真正面はお歴々の皆様方だ。これで落ち着ける者が居るなら、そいつは図太いを通り越して無神経と言える。少なくとも鈴谷は緊張のあまり体が震えて仕方がなかった。

 

 

「時間も遅いから要点だけを話してほしい」

 

 尋問を取り仕切るのは、お偉方の中でも一番階級が低いと思われる軍令部次長のようだ。顔は見たことあるし、役職も知っているが名前が思い出せない。

 

「君は、熊野が非番中に何をしていたか把握しているか?」

「……い、いいえ」

 

 舌が喉に張り付いてうまく声が出せず、何とかそれだけしか答えられなかった。こんなところでまともに話せる度胸はない。

 

「君と熊野は仲が良いと聞いたが、非番が重なっても別行動の日があった。それはどうして?」

「そ、それぞれ自分の用事があって……」

「その用事について、熊野は何か言っていたか?」

「……分かりま、せん」

「別の聞き方をしよう。以前と比べ、熊野の様子が特段変わった覚えはあるか?」

「それは……」

 

 緊張しながらも辛うじて答えてた鈴谷が言い淀む。それ自体が最早質問に対する答えのようなものであったが、当の鈴谷にはそこまで気を回せる余裕がない。

 思い出されるのは、熊野の異変。そう、まさしく異変だった。

 今まで見たことともないほどか弱く、あまりにも幼かった昨夜の熊野。気高く、気丈である普段の姿をまるごと投げ捨てて、殻の中に仕舞込まれていた柔らかい部分を露出させたような熊野。

 それが生来の強い責任感と愚行に対する罪悪感に苛まれた結果、限界が訪れた証なのだろう。

 察しろと言う方が無理なのかもしれない。何しろ熊野ときたら、自分のことを一切喋らないのだ。精神が強い彼女は、限界まで苦痛に耐えられてしまう。

けれど、サインは確実に出ていた。それは身体的なものであったし、普段の振る舞いにも紛れ込んでいた。意識的にか無意識的にか、彼女は助けを求めていたのだ。

 ただ、鈴谷がそれに気付かなかっただけの話。

 

「鈴谷さん」

 

 不意に、耳元で囁かれたような小声で名前を呼ばれる。あからさまに振り向くわけにもいかないので視線だけ動かして左を見ると、太ももに乗せた自分の左手に榛名の手が伸びているのが見えた。その指が優しく握りしめた鈴谷の拳に触れる。

 鈴谷は榛名を受け入れた。手を開くと、彼女は握りしめてくれる。まるで、励ますように。

 

「あったんだな?」

 

 軍令部次長の冷たい響きを含んだ言葉に顔をあげて前を見れば、険しい視線が自分に集中していた。

 今は思考に埋没出来る時間ではない。何とかこの尋問をやり過ごさなければならない。挫けそうになる心を、確かな左手の感触を支えにして奮い立たせる。

 

「ありました。でも、激務で疲れているだけだと思っていました」

 

 幹部の内の一人が音が聞こえるくらい盛大に息を吐いて椅子に沈み込んだ。軍令部次長は手元の紙に何かを書き込んでいる。鈴谷の発言でもメモしているのかもしれない。

 しばらく彼が字を刻む音だけが部屋に響いていたが、それが止まると待っていたように今度は連合艦隊(GF)司令長官が口を開いた。

 

「犯行を目撃した時、相手が熊野だとは気付かなかったのか?」

「はい。女性だとは思いましたけれど」

「暗がりの中で、分からなかったのだな」

「はい」

 

 GF長官は横を見る。その視線の先には、腕組みをして聞きに徹していた海軍幕僚長。

 

「保科幕僚長」

「……秋元長官。熊野の身柄を拘束することが先だ」

 

 幕僚長はGF長官にそう答えて目を横鎮司令官に向けた。

 

「捜索状況は?」

「まだ、不明です。熊野は大島東沖合五キロのところで落伍したことが確認されており、現在捜索部隊をその近辺に派遣しております。しかし、雨は止んだものの未だ波が荒く難航している状況です。哨戒機も、風が強い上に雲底も低く、飛ばすのが困難です」

「逃走と見て間違いなさそうだな」

「はい」

「なら、督戦隊は待機しているか?」

「それについては私から申し上げます」

 

 司令官に代わって答えたのは榛名だ。鈴谷には聞き慣れない「督戦隊」なる部隊について彼女はスラスラと滞りなく答えた。

 

「軽巡川内以下の督戦隊六隻をすでに大島近海に派遣しています。やむを得ない場合の実弾使用による威嚇射撃の許可は与えておりますが、司令官の名で『熊野』の捕縛を命じています。必ず捕まえろと、そう厳命しております」

「捜索部隊は他に居るのか?」

「有志の艦娘で結成した臨時部隊を一部隊派遣していますが、こちらには交戦許可は与えておりません。そもそも、彼女たちは事情を知りませんから『熊野』と戦闘になる可能性すら想定していないでしょう」

 

 有志の艦娘と聞いて思い浮かぶ名前がいくつかある。熊野は人望があったから、鈴谷と違って動いてくれる人が何人も居るのだろう。

 ただ、督戦隊とそれに与えられた交戦許可は気になった。まるで、敵を相手にしているかのような言葉ばかりではないかと。いや、それを言うなら「督戦隊」という存在自体が熊野を敵と見なしているように思えてならない。

 

 

 

「威嚇射撃、か」

 

 

 

 ふと、それまで黙っていた軍務局長が呟く。

 

 

 

「最初から、交戦させることは出来ないのかね?」

 

 

 

 鈴谷ははっとして榛名を見た。

 彼女も目を見開いている。艶やかなその唇が震えている。

 

「……それは、どういう?」

「皆まで言わせるなよ。督戦隊は“撃て”ないのか?」

「まさか、そのようなことを……」

 

 榛名のこめかみから玉のような雫が頬を伝い落ちていった。

 左手が痛い。いつの間にか、榛名の手には力が込められていて、鈴谷の左手を握り締めている。

 

「荒天下での強行軍による遭難。それはそれで批判は浴びるが、このまま熊野の犯罪が世間に公表されるよりは遥かにましだろ」

「どうせ、督戦のことは表に上がらないんだ。このまま“不慮の事故”になってしまえば、警察も追求出来まい」

 

 軍務局長に賛同するのは、知らない顔の一つだ。階級章から少将だと分かる。さらに、この少将以外に幾人かが同意するように頷いた。

 

 

 一方、鈴谷はそれどころではない。

 確かに熊野の処遇について恐ろしい意見が前を飛び交っていて、どうなるのかという恐怖が胸の内に広がりつつあるのだが、それ以上に握り締められる左手の痛みに意識を割かれていた。榛名に視線で訴えかけようにも、彼女は愕然とした表情で幹部たちを見詰めていて鈴谷には見向きもしない。というか、目の前の彼ら以外眼中にないような様子だ。鈴谷の手を握り締めていることにさえ気付いているかも怪しい。

 

「待って下さい! それは、あまりにも……」

「あまりにも、何だ? 榛名、よく考えてみたまえ。もしこのまま熊野の犯罪が露呈した場合、批判の矢面に立たされるのは君たち艦娘なんだぞ」

「世間は無情だ。君らの今までの活躍によって生活が守られていることなど忘れて、盛大に叩くだろう。そうなれば、今後苦しむのは罪もない、一生懸命使命を果たそうとしているだけの他の艦娘たちなのだ」

「本来なら軍規に則って処罰するべきだろうが、今回ばかりは例外中の例外だろうな」

 

 次から次へと、軍務局長を擁護する意見が飛び出してくる。それにつれて榛名が込める力も強まっていった。もう、鈴谷の左手の感覚は薄くなりつつある。

 彼らの言葉の一つひとつが榛名の逆鱗を刺しているのだろう。秘書艦の顔面は白粉を塗りたくったように蒼白で、つい先程まで驚愕のあまり半開きになっていた口は固く閉じられ、目の前のテーブルを睨む視線はそこに深海棲艦の姿を見出したかのように鋭い。

 彼女の怒りは握った手を通じて有り余るくらい伝わって来る。それどころか、その怒りに鈴谷はすっかり飲み込まれ、圧倒されてしまっていた。目の前の幹部たちより、隣で憤激に身を震わせている榛名の方が恐ろしい。

 

 

 

「まあ、待て」

 

 

 

 場の雰囲気が危険な香りを醸し出したころにそれを慮ったのか、幕僚長が重々しく口を開いた。

 

「それを言うなら、今までの熊野の貢献も忘れるべきではない。それに、もし我々がこのまま熊野を“処分”したことが後になって発覚した場合、ここにいる全員の首がすげ替わるだろうし、国連からの信用も失うだろう。艦娘の中から逮捕者が出るのは甚大な不祥事だが、それよりは遥かにダメージが少ない。

現役の艦娘の死亡には轟沈と不慮の事故以外の理由は存在しない。筋を通しておかねばならんのだ。逆にそれをしておけば、批判はあろうが組織としての体裁は維持される。我が国は法治国家なのだぞ。当然、当人には弁明の機会が与えられて然るべきだ。そしてその上で……。熊野は責任感の強い性格だと聞いている。犯行が事実なら、何をするべきかは自分で判断出来るだろう。それが、今の状況では一番だ」

 

 まさに鶴の一声だった。それまで声高に熊野の抹殺を主張していた軍務局長とその賛同者たちも軒並み閉口する。

 

「それで、いいな?」

 

 と幕僚長は確認を取るが、もちろん反論はどこからも上がらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい。手、痛かったでしょう」

 

 司令庁舎の一階の端には自販機が数台並べられた小部屋がある。そこは休憩所で、昼間は手隙な艦娘やら軍人やらがよくたむろしている場所だ。当然、深夜のこの時間帯では人気もまったくない。

 鈴谷は自販機の前に据え付けられたベンチに榛名と並んで座り、彼女に奢ってもらった缶コーヒーを開けずに弄んでいた。すっかり痺れてしまった左手の感覚を取り戻すためだ。

 

「あ、お気になさらないで下さい」

 

 社交辞令でも何でもなく、本当に鈴谷は怒っていなかったし、むしろ榛名には感謝しなければならないくらいだと思っていた。会議の時、手の痛みがなければ、きっと鈴谷は幹部たちの前でキレて取り返しの付かないことになっていたはずだから。

 

「ううん。ホントにごめんなさい。榛名ったら、カッとなって鈴谷さんのことが頭から飛んでしまったんです。ダメですよね」

 

 ベンチに深く沈み込む榛名。まるで、敗残兵のような顔だった。

 いつもの自信に溢れた歴戦の艦娘という姿はどこかに行ってしまったようだ。鈴谷にしても、どんな言葉を掛けていいか見当もつかないから、ただ黙って隣で座っているしかない。

 榛名は燃え尽きたようだった。先程までの、燃え盛っていた怒りの炎は鎮火して、後に残されたのは白い灰である。

 

 

 

「でも、悔しくないですか?」

 

 その状態で、榛名は自販機を見たまま問い掛ける。

 

「あんなに頑張っていた熊野さんを、秘書艦になれるくらい真面目で、優秀で、戦果も上げていた彼女を、あんなふうに貶めるなんて。大罪人のように扱って。あまつさえ殺してしまえなんて、よく言えたものです」

 

 口調は静かだけれど、未だくすぶる火種は消える気配を見せていない。積もった灰の中はまだ相当量の熱量を含んでいて、抑えきれないそれが彼女の口から漏れ出している。

 熊野が“大”罪人かは別として、罪人であることはほぼ疑いようがない。「疑わしきは罰せず」の原則があるから懲戒処分には出来なかったし、それ故の暗殺案も出て来たりしたのだが、結果的には幕僚長の大岡裁き、もとい温情判決によって退職勧奨に落ち着いた。組織としては、それでいいのだろう。

 

「榛名は悔しかった。とても、とても! 悔しかった! 

熊野さんはいい子です。無闇に人を傷つけるなんて絶対にしません。きっと何か事情があったんです。ううん。事情なんてものじゃない。もっと差し迫った何かが彼女を突き動かしたんです。

でも、熊野さんのことだから絶対に自責の念に駆られたはず。そうやって苦しんで、苦しんで、苦しみ果てた挙句にこの仕打ちですか!」

 

 なんて不条理なんでしょう! と榛名は嘆く。

 

 

 怒りがまた再燃したようだった。けれど、今度はその矛先を向けるべき相手は居ない。結果、怒りをぶつけられるのは彼女の手に握られた缶コーヒーで、固いスチール缶であるはずなのにすでに無残にもひしゃげていた。このまま榛名が握りしめ続ければ、未開封のそれはその内プルタブを吹き飛ばして中身を噴出させるだろう。鈴谷は何も言わずに見ていた。

 

 

「別に、組織の判断に異を唱えているわけではありません」

 

 一人、榛名は弁明するように続けた。缶を握り締めたまま、両腕で身体を抱いて背を丸める。ちょうど、腹痛に苦しむ人がするような格好だ。

 

「保科幕僚長の処断は正しいと思います。例え榛名が同じ立場であったとしても、同じことを言ったでしょう。ただ、その他の人たちの言い分が許せないんです……」

 

 再燃した炎が再び鎮火したのか、それっきり榛名は黙り込んでしまう。吐き出さずにはいられなかった怒りを吐き出して、気が済んだのか気まずくなったのか。

 片や、鈴谷と言えばただ聞いているだけだった。

 榛名の怒りは最もで、実際鈴谷も同じことを思わないこともない。少なからず、胸の内に榛名に同調する気持ちがあるのは確かだ。

 けれど鈴谷の内心の大部分は憤る榛名を冷めた目で見ている。ただ怒りをぶちまけることが今するべきことなのだろうか、と。

 つまり、こうして待っているだけの時間というのは無駄に思えてならないのだ。海軍の幹部たちはまだ今後の対応を協議するということで、あの息の詰まるような会議室に籠もっている。鈴谷も榛名ももう必要なかったから追い出されたというわけで、正直なところ、鈴谷としてもあれ以上会議室に居ては窒息死するところだったからありがたい。

 ならば、他にするべきことがある。何よりまず、熊野はまだ見付かっていない。

 有志による捜索部隊と榛名が手配したという督戦隊なる部隊、そして天候回復を待っている有人・無人両方の哨戒機。

 恐らく、熊野一人を探すために相当なマンパワーが投入されている。彼ら・彼女らは、仲間を助けるためにと、寝る間も惜しんで探してくれているのだろう。その助力には鈴谷も頭を垂れるしかないが、果たして彼ら・彼女らは熊野が犯罪を犯していたと知ったらどう反応するだろうか。そのために逃げ出していたなどと知ったら、何と言うだろうか。

 誹謗中傷を受けるかもしれない。必要以上に侮辱されるかもしれない。そうした言葉は確実に熊野の精神をえぐり、自尊心に泥を塗りつけるだろう。想像もつかないほど熊野を傷付けるに違いない。

 けれど、それ以上に熊野は自分を許せない。あの気高い熊野が、犯罪者に身を落とした自分自身を許容するはずがない。

 だから逃げたのだ。許されざる自分に相応の処罰を与えるため。その制限をする軍隊という組織から離脱したのだ。

 

 

「榛名さん」

 

 一つの可能性に思い当たった。すると、もうそれ以外、あり得ないような気がした。

 その可能性が確かなのか確認したくて、鈴谷は榛名に尋ねてみた。

 熊野の残したメッセージの意味。それを確認するために。

 

「今朝、熊野は本を読んでたんです。難しそうな論文でした。確か、『艦娘の艤装が持つ諸特性について』っていうタイトルで、書いた人は……」

 

 

「待ってください」榛名は鈴谷を遮った。「その論文は知っています。と言うか、熊野さんが持っていた本は、榛名があげた物です」

 

「内容、分かりますか? 読んでみたんですけど難しすぎて分かんなくって。でも、今朝熊野が見ていたくらいだから大事なものの気がして」

「あれは艤装の特性についての分析と観察の結果を並べたものです。正直学術研究向けで、現場の艦娘たちなら誰もが知って、い、る……」

 

 榛名の言葉尻が不自然に途切れた。彼女はまた顔色を失い、目を見開いていた。

 

「まさか……」

 

 その様子と漏れ出たひと言を聞いて、榛名が自分と同じ可能性に思い当たったと確信する。

 

「あ、あの論文の中には、艤装の機能を強制的に喪失させる方法も書いてあるんです。簡単なことなんです。燃料タンクに海水を流し込めばいい。そうすれば、艤装の機能が停止し、艦娘は沈没します」

「それって、自殺の方法ですよね」

 

 鈴谷の一言に、榛名が勢い良く立ち上がる。

 

 

「そういうことなのっ!? 逃げたのは時間稼ぎをするため? いや、それならもう……」

 

 ひとり呟いていた榛名は、慌てたように左腕の腕時計を見下ろすと、振り返って鈴谷と目を合わせた。

 鈴谷は立ち上がり、榛名と向き合う。そして、深々と頭を下げる。

 

「行かせて下さい。鈴谷も、捜索に、行かせて下さい」

「……あと十五分で捜索部隊を運んだ輸送ヘリが戻って来ます。付いて来て下さい」

 

 鈴谷が頷く前に榛名は踵を返した。ひしゃげた缶コーヒーを無造作に懐に仕舞うと、急ぎ足で休憩所を出て行くので、慌てて後に続いた。

 

 

「本当は」

 

 彼女は小走りで庁舎の廊下を進みながら、告げる。

 

「提督から命令されていたんです。鈴谷さんを出撃させないようにって」

「何で、ですか?」

「ある意味重要参考人ですからね。今更ですから言いますけど、提督は貴女のことも疑っていましたよ」

 

 それはそうだろう。鈴谷は頷いた。特に驚きはない。

 何しろ容疑者とは同室で、仲の良さは評判だったのだ。その上現場を目撃したのだから、これで疑うなという方が無理である。それでも、鈴谷に疑いの目を向けず、擁護してくれていたであろう榛名はよっぽどのお人好しなのかもしれない。

 二人は司令部庁舎を飛び出し、工廠に向かう。通常、兵装や航行艤装はそちらに保管されており、海に出るなら必ず寄らなければならないようになっている。この上実弾を持ち出すには、許可証を持って弾薬庫に行かなければならないが、今回は戦闘を見込んでいないのでそちらに用事はない。

 榛名は走りながらPHSで工廠に電話を掛けていた。大至急、二人の艤装に燃料を注入するようにと言っていた。

 司令部庁舎から工廠までは走っても数分掛かる。

 大急ぎで建物に飛び込んだころにはすでに燃料注入が始まっていて、鈴谷が腕時計型の携帯端末やら通信用のインカムを装着している間に準備が終わった。基本的に二十四時間体制でスクランブル発進に対応出来るようになっている工廠には交代制で常に人が居る。深夜だから工廠長のような責任者は不在だったが、それが却って運が良かったようで、もし工廠長が居たら鈴谷は止められていたかもしれない。段取りのいい司令官のことだから、工廠長にも榛名にしたのと同じ命令を下していただろう。

 だが、それは末端の作業員たちにまでは伝わっていなかった。彼らは夜中に慌ただしく出撃する二人へ不審の目を向けることすらなかったのだから。

 お陰で、十分もしない内に鈴谷と榛名はヘリポートまでやって来た。そこでは既に地上誘導員が待機していた。

 

「榛名さん」 

 

 ヘリの到着を待ちながら、鈴谷は榛名に問い掛けた。

 

「なんで、熊野の奴は死のうとしてるんですか……」

 

 口にしてから、無意味な問いだと思った。鈴谷にさえ見当もつかないのに、榛名に分かるわけがない。熊野が何を考えていたのか、何を思っていたのか、何を感じていたのか。あれだけ熊野と密度の濃い時間を過ごし、彼女のことは何でも分かっているつもりだったのに、今や大親友の姿は霧の向こうにあって見通せない。

 

「自分を許せなかったのかもしれません。責任感の強い子ですから」

 

 榛名は自分の手の平を見下ろしている。不格好に貼り付けられた大きな絆創膏を、もう片方の手の指でなぞりながら、鈴谷の無意味な問い掛けにも律義に答える。その横顔に見出せたのは、後悔に苛まれる苦悶だった。

 

 榛名の言っていることは正しい。彼女はやはり熊野のことをよく分かっている。性格も、価値観も。

 ルールに煩い熊野が自分から法を犯すとは考え辛かった。民間人を襲っていたのはそうせざるを得ない理由があったからに違いないが、だからと言ってそれを言い訳にして罪悪感から逃れようとする性格ではない。彼女ならむしろ、真正面から自分自身を強烈に批判するだろう。榛名の言う通り、自分を許せなかったはずだ。

 けれど、そこから自殺を選択するというのは少し飛躍しすぎている気がする。いくら熊野が自分を許せなくても、安易に死を選ぶことはない。それどころか、死ぬことを「逃げ」と考えそうなくらいである。もし本当に熊野が自分を止めたいと願ったなら、彼女は警察に自首したかもしれないし、誰かに相談したかもしれない。いずれにせよ、自殺を選ぶことはあり得ないはずだ。

 

 ところが、現実熊野は死のうとしている。鈴谷を置いてまで、死のうとしている。それはつまり、熊野が「自分は死ななければならない」と決断したということなのだ。

 

 なんでそうなるの? なんで死のうとするの? 死んだらすべて終わりじゃん……。

 

 悔しかった。

 熊野が罪を犯していることに気付けなかったこと。死を思い留まらせるくらい彼女の中で大きな存在になれなかったこと。熊野のことを何一つ理解してあげられなかったこと。

 理由が分からなければどうしようもない。どんなに一緒に居ても、熊野は本当に大切なことを打ち明けてはくれなかった。

 鈴谷にとって熊野はかけがえのない大切な人。世界で一番、なんていう陳腐な表現でしか言い表せないくらい大事な人。

 でも、熊野にとっての鈴谷は同じだったのだろうか?

 それとも、鈴谷もまた熊野に隠し事をしていたから、罰が当たったのだろうか?

 

「熊野さんは、必ず見付かります」

 

 秘書艦はそう言った。自分に言い聞かせるように、頑なな表情で。

 

「たくさんの人たちが探しているのです。見付けられないわけがありませんから」

「沈んじゃったら、もう……」

「悪い方に考えるのはやめましょう。電車に飛び込んだり、首を吊ったりするのとはわけが違います。私たち艦娘は衝動的に死のうと思っても死ねるものではありません。だから、きっと思い直したり、躊躇したりするはずです。誰だって、死ぬのは怖いのです」

 

 前向きな、否、前向きになろうとしている榛名の言葉は、ひどく空虚に響いた。それこそ、遠くから近付いて来るヘリのローター音にさえかき消されてしまいそうな、痛々しいくらい弱い言葉だった。

 歴戦の秘書艦だって誤ることくらいある。

 たとえ死に向かい合ったとしても、一度決断すればそこに躊躇を挟まない強さが、熊野にはあるのだ。きっと、今の彼女を止めるには、物理的に手足を縛って拘束してしまう他にない。

 だから、間に合わない可能性を恐れているのだという反論は、到底口に出せるものではなかった。

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事態は急転直下を迎える。

 鈴谷が榛名と共に横須賀港を出発した時には、件の督戦隊は熊野を発見していたのだ。

 そのことを報告する無電はなかった。わけあって督戦隊は熊野発見の報を出さなかった。出せなかった。

 だが、重要なのはそこではない。仮にその報告を受けたところで、両者は房総半島の南東の沖合、東京湾にある横須賀軍港から遥かに離れた場所に居て、鈴谷には手も足も出せなかったのだから。

 だから、大事なのはその後に起こったことで、発見された熊野は見付かったことに気付くと、何ら警告を発することもなくいきなり襲い掛かって来たのだという。

 とは言え、熊野が持っていたのはあくまで演習弾。一方、督戦隊は実弾装備である。相手が重巡と言えど、弾丸が実弾と演習弾では雲泥の差がある。実質、熊野に戦闘能力はなく、督戦隊は威嚇射撃で熊野を止めようとした。

 

 しかし、督戦隊所属の駆逐艦娘が榛名に語るところによれば、熊野は“激しく”抵抗し、実弾を打ち込まれても一切怯みはしなかった。しかも、事もあろうに夜戦編成の督戦隊に対して接近戦を挑み、部隊を撹乱、混戦に持ち込んだのだ。

 戦闘は熾烈を極めた。波が荒いことが督戦隊の艦隊運動に対して不利に働き、部隊は散り散りになる。まともな武器のない熊野は、徒手空拳で戦った。真っ先に長距離無線機を破壊されたお陰で督戦隊は後に哨戒機に発見してもらうまで、一時所在不明となる。その上、無線機の破壊後も接近戦で暴れ回る熊野を相手と荒れる海を相手にしなければならなかった。

 冗談のような話だが、後から追い付いた有志の捜索部隊の艦娘から無線を借りなければならなかった督戦隊の駆逐艦娘の言うことは事実だろう。全ての艦娘は陸上における格闘戦も想定した訓練を受けているから、それを応用して海上での格闘を行うことは不条理ではない。理論上はあり得るかもしれない。だが、それを実際にやるかどうかとなると、最早それは正気の沙汰ではないと言える。

 

 ただし、熊野だ。鈴谷にとって、艤装を付けたまま荒波に乗って駆逐艦に体当たりせんと突撃する彼女の姿をありありと思い浮かべることはさほど難しくない。普段の仕事は真面目にきっちりこなすタイプの熊野だが、戦闘になるとどうしてか型破りなことをしでかしてしまうことがある。夜戦で敵に接近して、砲弾も魚雷も打ち込まず、主砲で殴りつけて倒したことが何回かあったから、同じことを艦娘にしていてもおかしくはない。

 

 とにかく、熊野は通信連絡を妨害したかったのだろう。結果的に督戦隊はバラバラになり、駆逐艦たちは熊野を見失ってしまった。唯一、旗艦だった軽巡だけが熊野を追い、二人は暗い海の向こうへと消えた。

 その軽巡も無線機を破壊されたのか、近距離無線の範囲外に出てしまったのか音信不通になり、捜索部隊と合流出来た督戦隊のメンバーだけが現状を知らせてきて今に至る。だから、熊野がまだ生きているかは結局分からないままだ。

 督戦隊も、捜索部隊も、あるいは海軍の幹部たちさえも想像していなかった事態が起きていた。ある捜索部隊の艦娘は、熊野が「脱走した」のだと言った。彼女は不慮の遭難事故に遭ってしまったのではなく、自らの意志で軍を裏切ったのだと。

 それを皮切りに、捜索部隊の艦娘たちは次々と熊野を非難する言葉を口にする。仲間を助けるためにと奮起して危険な夜の海に出てみれば、真実が「裏切り」だったのであれば一つや二つ言いたいことが出て来るものだろう。それについて、鈴谷はどうこう思うことはない。実際に熊野はそれだけのことをしでかしているのだ。非難されるのは当然だし、処罰されても文句を言える立場ではない。

 ただ、鈴谷の前を走る榛名はそうではないだろう。彼女は何も言わなかったけれど、その身を怒りに震わせているのは想像するまでもなかった。

 それでも、少しばかり鈴谷が安心したのは、一人だけ一方的に非難される熊野を擁護した者が居たことだった。それは榛名でもなければもちろん鈴谷でもない。矢矧という、鈴谷たちの二期下の後輩で、軽巡クラスの艦娘では最も年次の若い、まだ新人の域を抜け切れていない艦娘だった。

 同じ巡洋艦ながら、主に打撃部隊の一員として戦う重巡と水雷戦隊を率いることがほとんどの軽巡では、なかなか行動を共にすることはないのだが、不思議と矢矧は熊野をよく慕っていた。何かにつけては熊野について回っていたし、鈴谷と熊野が仲良さそうに喋っているのを、羨ましそうな目で見ていることだって一度や二度ではなかったから、鈴谷もよく知っている。そんな矢矧を熊野も可愛がっていたし、だから矢矧が熊野を庇うのはおかしなことではない。

 

 ただ、誰もが非難すると思われていた熊野を、鈴谷や榛名以外に守ろうとする人がいる。それが、少しだけ鈴谷の心を安らがせた。

 

 

 一方で、熊野と戦闘になった督戦隊のメンバーは熊野についてあまり多くを語ろうとはしなかった。彼女たちは熊野のことを批判もしなければ擁護もせず、ただ一人がこんなことを零しただけだった。

 

 

 

「あいつは、本当に艦娘なンか?」

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こちら川内。捜索中の部隊、全員に無事を報告します」

 

 熊野と共に音信不通になったという督戦隊の旗艦が、探しに出ていた自分の艦隊に発見され、通信が入れてきたのは夜が明けてからだった。鈴谷と榛名はヘリから飛び降りて、連絡待ちのため、房総半島の南東の沖合を回遊しているところだった。

 無線の声は酷く掠れており、ザラザラとしたノイズが含まれていることを考慮しても尚、川内という艦娘が疲労の極みにあることを明瞭に教えてくれた。任務終わりで疲れ切った艦娘というのは、確かにこんなような気だるい声を出す。

 

「川内さん!? 状況報告を!」

 

 待ち構えていたかのように榛名が叫んだ。キーンという不快な音割れが鼓膜を貫く。

 

「榛名、さん?」

「熊野さんは? 熊野さんはどうなったんですか?」

「……残念ですが」

 

 相も変わらず乾ききった声で、川内は淡々と報告する。

 

 

 

 

「抵抗激しく捕縛が叶わなかったため、やむを得ず撃沈しました」

 

 

 

 瞬間、誰もが息を呑んだ。スッと、空気を吸い込む音がした。

 

 

 

 

 ゲキチン。ゲキチン。ゲキチン。

 

 意味のない音の羅列が、単語の並びが頭の中をめぐる。

 

 言葉の意味が分からない。「ゲキチン」とは、敵を撃って沈めることじゃなかったのか?

 

 

 

 

「そんなこと、言ってませんよ……」

「すみません、本当なら許可を取るべきでしたが、艦隊から離脱したためどうしようもありませんでした」

 

 川内は淡白だ。榛名のほうが露骨に感情を見せているから、尚の事その淡白さが強調されている。

 釈明と言うほどのものではなく、ただただ事実を述べているに過ぎない。「これこれこういう状況で敵と遭遇し、このように撃沈しました」と戦果報告を行っているような口ぶりだった。

 

 彼女は言った。「どうしようもなかった」と。

 熊野は激しく抵抗し、孤立した川内は連絡手段を持ち得なかった。

 彼女たちとはすぐに会合する。位置情報を聞くに、距離が思ったより近い。もうすぐ水平線に浮かぶ、幾つかの影を認めることだろう。

 

 

 川内には言いたいことがある。

 

 

 

 

 ――熊野は、「どうしようもなかった」で沈めていい存在だったのかと。

 

 

 

 

 

 

「とにかく詳細を! もうそちらに合流出来ますから!」

 

 高速戦艦の名は伊達ではなく、その背を追い越すには航行艤装に最大の負荷を掛けなければならなかった。

 スクリューが唸りを上げ、ギアが弾け飛びそうな勢いで回り、それでも尚鈴谷は増速を掛けた。機関出力はすでに限界に達している。荒さが抜けない波を引き裂き、顔まで飛んで来る水飛沫を浴びながら、前傾姿勢で川内に向かう。

 電探で相手の位置を確認しながら行くと、間もなく水平線の上に幾つかの点を見付けた。宵の帳が消えるころ、海が山吹色に染まる暁の水平線上に、その姿は立っている。

 

 

「鈴谷さん! 待って!」

 

 榛名の静止を後ろに置き去り、鈴谷はあらん限りの速度で目の前の艦隊に突入する。

 複縦陣の隊列に飛び込み、左列の先頭を走っていた橙色の衣装にぶつかっていく。

 

「危ない!」

 

 誰かが叫んだ。その時には、鈴谷は軽巡の服を掴み、引きずり倒しているところだった。砲塔と砲塔がぶつかり合って激しい衝突音を響かせる。鈴谷は下半身を捻って足を横に揃え、海面を切り裂きながら水の抵抗で速度を殺していく。

 その間、軽巡は引きずられるままだった。まるでこうなることを予見していたかのように彼女は大人しい。熊野が抵抗したというのは真実なのか、首周りに演習砲弾に仕込まれている青い顔料がべったりと付着していた。

 盛大に水を弾き飛ばしながらようやく身体が静止すると、鈴谷は改めて軽巡の胸倉を掴み直した。

 

 

 

「『どうしようもなかった』だって?」

 

 

 

 見たことあるようなないような、黒髪の少女顔は散々振り回されたにも関わらず落ち着いていた。それだけで、この艦娘が今まで相当の修羅場を切り抜けてきたのだと思えた。鈴谷より艦歴が長いのは間違いないだろう。

 

 しかし、それは関係ない。

 関係ないから、ありったけの言葉をぶつける。

 

 

「『どうしようもない』だけで、熊野を沈めたの!?」

「ああ、沈めたよ」

 

 

 軽巡は冷然と言い放った。

 突き放したように、凍てついた氷のように、ただの音声という現象として言葉を発した。

 

「彼女は激しく抵抗した。演習弾しか持っていないっていう事前情報の通りだったけど、海上で躊躇なく白兵戦を仕掛けてきて、こっちも四人を戦闘不能に追い込まれた」

「……あの子は、死ぬつもりだったんだ。そんなことするわけないじゃん」

 

 鈴谷は即座に否定した。演習砲弾の顔料は、軽巡の首周りだけでなく、髪にも付いていたし、顔にも少し残っていた。それは紛れもなく熊野が抵抗した証だ。

 

「逆だよ。彼女は死のうとしていたからこそ、それを邪魔する私たちを攻撃したんだ。だから、当然反撃する。それでも艦隊が崩されたから、私は一人で追ったよ。

だけどね……。熊野は最後の最後で怖くなったのさ。死ぬのが怖くなったんだ……。

もちろん、人としてそれは当たり前のことなのかもしれない。誰だって、そんな簡単に自分で死ぬ覚悟を持てるわけないしね。

ただ、私にとってはどっちかって言うと躊躇される方が良くなかった。何をやらかしたかはこっちも耳にしていたから、彼女の存在は軍には都合が悪いと考えた」

 

 軽巡は嗤った。嘲りに歪んだ口元から犬歯が覗き、静かな敵意を潜ませた瞳がガラスのように鈴谷のシルエットを反射する。

 

 

 ――だから、私は撃ったのよ。そうすれば、全てが丸く収まるから。

 

 

 

 瞬間、世界が真っ赤に染まった。

 

 掴み掛かっていた軽巡の身体を突き飛ばし、距離を取る。持ち出して来た20cm主砲を構え、砲口を目の前の軽巡の頭に。狙いを付けるまでもない間隔。

 揚弾機構が作動し、砲弾を薬室に送り込む。次いで、引き金を引けば撃鉄が薬莢を叩き、爆発力が報復の鉄槌を撃ち出す。

 この距離ならどんな防御も意味を成さない。中口径砲では最高威力の20cm砲弾だ。軽巡ごとき、一撃で粉微塵にしてくれるだろう。

 

 

 

「やめなさい!」

 

 怒声。衝撃。軽い引き金。

 聞き慣れたはずの炸裂音は鳴り響かず、視界がぶれて軽巡の姿が隠れる。

 

 その時になってようやく鈴谷は思い出した。ああそうだ。兵装はあれども弾薬は持って来なかったのだと。

 

 ならば、直接砲塔で殴りつけようと思ったけれど、誰かが鈴谷を押さえ込んでぐいぐいと押し込むように軽巡から離そうとしているので出来なかった。抗おうにも、艤装重量は相手の方が上で、巡洋艦の鈴谷ではびくともしない。旧式とは言え、戦艦はやっぱり戦艦だ。

 

「もう、やめて下さい……」

 

 榛名の言葉はどうしようもなく震えていた。

 

 

 抱きすくめるようにして軽巡から鈴谷を引き剥がした榛名は、そのまま鈴谷の背中に手を回して、本当に抱きしめた。

 身動きの取れない鈴谷は、駆逐艦にエスコートされながらこの場を去っていく軽巡の後ろ姿を見送るしかない。軽巡はあれだけ怒鳴られても何とも思っていないのか、素っ気なく背を見せるだけだった。機械のように無感情で無機質な振る舞い。むしろ、お付きの駆逐艦たちの方が刺々しい視線を残していくだけ、まだ人間味があると言えよう。

 

 彼女たちが去りゆく間、榛名はずっと鈴谷を抱き締めたままだった。

 彼女は泣いているようで、身体の震えは直接鈴谷に伝わってきたし、押し殺したような低い嗚咽はずっと耳元で響いていた。

 

 感情の昂ぶりを抑えられない榛名とは対称的に、鈴谷は妙に冷めた気持ちになって、先程まで軽巡にぶつけていた激情が嘘のように静まってしまった。

 

 

 

「ごめん、なさい……」

 

 何故か榛名は謝る。鈴谷にはその意味が分からない。

 

「本当に、ごめんなさい。こんなことになって、こんな結末になって、全部榛名が無力だから、誰も救えなかったんです」

 

 

 それはどうなのだろう?

 

 榛名のせいなのだろうか?

 

 

 

「もう、いいよ」

 

 鈴谷は抱き付いていた榛名をそっと離す。彼女は抵抗しなかった。

 酷い顔だ。美人であっても、大泣きしたら泣き顔というのはやっぱりあんまり見れるようなものじゃなくなるらしい。さすがに榛名も見られるのは恥ずかしいのか、すぐに両手で顔を覆ってしまった。

 

「もう、熊野は戻って来ないんだよ」

 

 あの亜麻色の髪を、澄ました声を、聞くことはない。彼女は永遠に深い海の底に沈んだ。この辺りは巨大な日本海溝へ海底が落ち込んでいく場所だから、遺体は深海何千メートルというところに沈んでしまっただろう。回収することすら不可能だ。深淵を覗き込んだ彼女は、それ故に深淵の底へといざなわれてしまった。

 わざとこういう場所を選んだのだ。罪を犯した自分を永遠に海底に封じ込めるため。遺体を、引き揚げられることを避けたかったのだろう。

 

 どこまでも深い群青の海が、熊野の墓標になる。彼女はこの碧い世界の中心で、誰にも妨げられることなく永久に眠る。

 

 

 

 さようなら、熊野。

 

 

 

 心の中だけで別れを告げる。それともう一つ、この宣言だけはしておかなければならない。

 

 

 仇は、必ず討つよ。

 

 

 怒りが消えたわけではない。激情は確かに、心の奥底でその炎を灯したまま、再び燃え上がる時を待っている。

 復讐で熊野が還って来るわけではないし、あの軽巡を殺したところで気が晴れるとも限らない。

 ただ、もう世界は鈴谷にとって無価値になってしまった。熊野の居ない世界になど、鈴谷は意味を見出さないのだから。

 

 けれど、鈴谷は生きている。傷一つなく、熊野が沈んだ海に立っている。

 このままここで一緒に沈んでしまうのもいいかもしれないが、どうしてか死ぬ気にはなれない。ただ生きているから、呼吸をして心臓が動いているから、鈴谷はまだ生きているだけだ。

 ならば、何か一つでもやることを見つけよう。それが意味のない復讐であっても構いはしない。

 熊野が天国に昇ったのか地獄に落ちたのかは分からないけれど、もし仮に地獄に落ちたなら、鈴谷も一緒に落ちればどこかで再会出来るかもしれない。もし天国に昇れたなら、まあそれも含めて地獄ということだろう。

 

 これで、鈴谷と熊野の物語は終わった。後は、エピローグのような鈴谷だけしか登場しない蛇足の話が続くだけ。鈴谷が鈴谷のために仕返しをするだけの物語だ。

 

 

 

 空っぽになった世界の真ん中。大海原に立つ鈴谷の頭上から、季節外れの雪が降り出した。空を見上げると、明るい朝だと言うのに雲もその向こうに広がるはずの青空も、すべて色があるようで色のない、灰色一色だった。空と雲の境界を形作るのは、微妙なコントラストの差異だけ。

 その雲から、もうすぐ夏になると言うのに雪が降ってきた。

 白い雪。手を伸ばしても、手の平に乗らない雪。

 音もなく、風に吹かれることも、陽光を反射することもなく、ただ真っ白で、白濁した、冷たいようで冷たくない雪が深々と降り出した。

 すすり泣く榛名を抱かかえ、彼女の艶やかな黒髪も清潔な白い上着も、全てが最早灰色としか認識出来なくなった視界の中で、鈴谷は独り空を見上げ、降り止まぬ雪を眺める。

 触れることの出来ない幻の……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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