レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督35 A pawn in the Devil

 男は焦っていた。愛車のランドクルーザーのアクセルをせわしなく踏んでは離す。前の車との車間距離は広げないし、広がったとしてもすぐに加速してさらに前へと車体を突き進める。タクシーがウィンカーもなく進路変更してきて、男は慌てて急ブレーキを踏んだ。

 

「パキ野郎がッ!」

 

 交通ルールもどこ吹く風の出稼ぎ労働者が運転するタクシーに悪態を吐き、対向車線から割り込んできたタクシーを追い抜いていく。

 片側四車線の道路を可能な限りアクセルを踏みながら、男は夜の街を走っていた。ナトリウム灯に照らされたヤシの並木が後ろに飛んでいく。帰宅ラッシュの時間をとうに過ぎているので、広々とした道路にはまばらに車が走るだけ。その間を縫うように男が操るランドクルーザーが走り抜けていった。

 

 

 男の名前は脇坂と言った。そして、男が今愛車を走らせているのは、彼の遥かなる母国「日本」ではなく、また彼が数年前まで滞在していたイギリス最前線のポーツマスでもなく、そこは中東の新興都市――ドバイである。

 

 オリエントの数千年の歴史の中で言えば、ドバイが交易の中心都市として建設され、それがさらに世界的な大都市へと発展したのは、つい最近のことだ。今では二百万を超える人口を擁するこの都市は、ほんの三十年ほど前までは砂漠と海に挟まれた小さな港町でしかなかった。驚異的な速度の発展は、人の一生にも満たない短い時間に成し遂げられたのである。それは、全世界を席捲した深海棲艦という猛威を加味すれば、文字通り偉業と言うべきであろう。深海棲艦の活動がほとんど見られないペルシャ湾という地勢を最大限に生かし、交易によって急成長を遂げた。それだけでなく、安全な地域に位置し、しかもイスラム教国家の中では外国人に対する制約が少ないドバイという街は、特に欧州の、キリスト教圏に暮らす人々にとっては理想的な移住先に見えるのだろう。観光客だけでなく、欧州を始めとした各国からの転入が絶えないドバイは、それ故に高い成長率を記録することが出来るようになったのである。

 今では世界最高クラスの「富裕国」であり、ヒト・モノ、そしてカネが集中する経済の中心地なのだ。かくいう脇坂もまた、この出来立ての街に送り出されたビジネスマンの一人である。深海棲艦の脅威をさほど心配せずに安心してビジネスを行えるドバイは、世界各地で貿易と海運を潰されて危機的状況に陥っていたグローバル企業たちの目には、極めて魅力的な投資先として映ったであろう。彼らは諸手を挙げてドバイにカネをつぎ込み、その結果砂漠の真ん中に針山のような高層ビルが林立する光景が見られるようになった。当然、それだけの「ハコモノ」が出来上がれば、そこで働く人間もおのずと集まって来る。脇坂はそうした内の一人であった。

 

 脇坂がドバイにやって来てもう二年を超えている。前の赴任地はポーツマスだった。日本生まれ、日本育ちの純粋な日本人である脇坂は、大学を卒業して今の会社に入り、唐突に海外への赴任を命じられるまで、国境を越えたことがなかった。彼がポーツマス、そしてドバイにやって来ることになったのも、全ては会社の「お得意先」に振り回された結果である。

 最近は業種を問わず海外勤務になる日本人も少なくないから、脇坂は自分が特別な環境に居るとは考えていないし、秀でた人間であるなんて思い上がったりもしていない。ただ一点、「お得意先」が日本海軍であることが、長く祖国を離れて仕事をすることになった唯一の理由だろう。そこに自分が宛がわれたのは、自己主張が強くなく、温厚で、何より従順な性格であるから、傲慢な軍人の機嫌を損ねないと判断されたからだ。脇坂を海外勤務させるという決定を下したのが、日本に居た時の最後の上司なのか、それとも人事部の誰かなのかは知らないが、その人物は人を見る確かな目の持ち主であったらしい。何故なら、脇坂は会社の期待通りに海軍の軍人の相手を出来ているからである。

 自分からリーダーシップを取るタイプではないし、自己顕示欲が強いわけでもないから、文化も価値観もルールも日本とは全く異なる外国に来ても、脇坂は極力目立たず、現地のルールを順守するように努めていた。赴任先でトラブルを起こせば会社に迷惑が掛かる。だから、控えめに過ごすようにしていたのだ。

 にもかかわらず、今こうして脇坂がなりふり構わず車を飛ばしているのは、のっぴきならない事情があったからだった。

 

 

 ほんの数時間前、出張先のシンガポールからドバイ国際空港に“帰って来た”脇坂は、空港から比較的近くにある、旧市街地デイラ地区のアル・バラハの自宅マンションに帰宅した。独身である彼は、家に帰っても一人である。名指しで送られて来る郵便物など、母国の親兄弟からの物を除けばほとんどない。ましてや、これ見よがしに玄関ドアとドア枠のわずかな隙間にメッセージカードが突っ込まれていたことなんてこれまで一度もなかった。そのメッセージカードを見た瞬間、脇坂の顔から血が音を立てて引いていった。着替えを詰め込んだキャリーバッグを玄関に放り込むと、出張から帰って来た時のスーツ姿のまま、大慌てで自家用車に乗り込んだのである。

 目的地はそれほど離れているわけではない。途中、渋滞に捕まったとしても小一時間もあればたどり着ける程度の近さである。それでも、焦る気持ちがアクセルペダルに直接伝わり、自分でも驚くくらい速度超過をし続けていた。最近、道路脇の至る所に設置され出した速度自動検知器に捕捉されれば、すぐに携帯電話に罰金請求のメールが飛んで来るようになっているが、そんなものに構いはしなかった。とにかくそれどころではなかったのだ。

 アル・バラハから港湾沿いの道を北東へ。それからカイロ通りに入って一旦南東に向かい、奇麗なクローバー型のインターチェンジを経由して、ドバイ市街地を縦断する高速道路――シェイク・ザイード・ロードを、隣のシャールジャ首長国方面へ走る。シャールジャとの境界の手前で高速道路を逸れて街中に入っていくと、その辺りがアル・ナフダの一帯だ。

 いち民間企業の、いち従業員、つまり単なるサラリーマンでしかない脇坂は、決して高給取りとは言えない。また、まだまだ発展途上で物価も安いドバイだが、特筆すべきは家賃の高さで、しかも一年契約の一括先払い式であるから、これがかなり貯蓄を削り取ってしまい、彼は裕福とは程遠い生活を送っていた。ドバイと言えば富豪の街というイメージがあるが、どこの国でもそうであるように金持ちはほんの一握りしか存在せず、大多数は金のない人々である。脇坂もどちらかと言えば後者に分類されるであろう。それでも、定職に就いていられるだけ、まだ恵まれているのかもしれない。

 とは言え、彼は常に金に困っていた。会社から振り込まれる給料だけでは到底返し切れない借金を抱えていたのである。その借金は紆余曲折があって背負ったものなのだが、これがかなりの額で、いつも脇坂の頭を悩ませていた。だから、彼は少々無理をしてでも家賃の安いアル・ナフダで古いマンションの一室を、自宅とは別に賃借したのだ。今彼はそこに向かっていた。

 

 

 

****

 

 

 

 速度超過の罰金メールがメールボックスに積み重なるのも厭わずに「別室」にやって来た脇坂は急いではいたものの、建物のマンションの駐車場に車を停めた。路上駐車すれば罰金をさらに増やすことになるからだ。

 三階まで上がり、消えかけの照明しかない暗い廊下を進んで、突き当りの部屋の前に立つ。そこが「別室」だ。ポケットから鍵を取り出し、震える手で開錠する。

 ドアはすんなりと開いた。部屋の中は真っ暗で、電灯のスイッチを入れると、廊下と変わらない暗い照明が灯る。

 人の気配はしない。玄関に見知らぬ靴が脱ぎ捨てられていることもない。

 誰かが居る様子もないなら、と安心して玄関に入り、ドアを閉めようとしたところで“引っ掛かった”。外開きのドアを引いても、何かがつっかえたようにうまく閉まらない。

 振り返った脇坂は、警戒を解いたまま、つまり油断してなんの身構えもないままだった。

 

 心臓が一瞬止まったかと思った。本当に何の気配もなかったのだ。背筋を不快なものが走り抜ける。

 

 

 

 

 頭一つ低い位置。真っ黒なアバヤに、顔だけが白く浮かんでいる。

 

 見知らぬ女がいつの間にか真後ろに立っていて、その女がドアを動かないようにしていたのだ。驚きのあまり声も出ない脇坂に向けて、女は小さく微笑んで軽い会釈をしてみせた。少なくとも、女は幽霊ではないようだった。

 

 

「小西洋行の脇坂さんだね。入っていいかな?」

 

 

 女は日本語を喋った。よく見れば、顔の堀は浅く、彼女がアラブ人ではなく東アジアの人種であることを示している。日本語が流暢なので、まず間違いなく脇坂と同じ日本人だ。それも、脇坂の会社の名前も知っているような人物だ。

 見覚えのある顔ではない。確認を取るような今の言葉からも、お互い初対面のようである。少しだけ冷静さを取り戻した脇坂はそんな分析をしつつ、取り敢えず女が促したように「別室」に入った。

 

 

 

 見知らぬ女と薄暗い部屋の中で二人。気味が悪い。

 向こうは脇坂の身分を知っていたが、脇坂には女の正体がまったく見当もつかない。相手はこちらが何者であるかを知っているのに、その逆が成り立たないというのは非常に気持ちの悪い状況だった。

 

「驚かせちゃってごめんね」

 

 女は多少律義な性格をしているのか、頭を下げた。脇坂にはそんなこと、どうでも良かったので、気の抜けた意味のない「ああ」と「ええ」との中間のような音が口から出ただけだった。

 部屋の真ん中には近くに住む現地人から譲ってもらったソファーが二つ、テーブルを挟んで向かい合うように置かれている。どうやら女は脇坂に話があるようなので、そこに座るように言ってから自分も女の対面に腰を下ろした。女は手に持っていた紙袋を丁寧にテーブルの上に置くと、すぐにアバヤを脱ぐ。

 夏真っ盛りのドバイは、夜中でも気温が30度を超える。部屋の中は尋常じゃないくらい熱気が籠っていたので、テーブルの上に無造作に放り出されていたエアコンのリモコンを手に取り、冷房を最大にする。古いエアコンが調子の悪そうな音を立てて、臭い風を吐き出し始めた。

 夜中でも空調なしで寝れないくらい熱い夏のドバイは、日中ともなると命に関わるくらいの気温になる。あまりにも暑すぎて危険なので、外を出歩く人がほとんど居ない。それがどれ程の灼熱地獄であるかは、一日もあれば誰だって骨の髄まで理解出来るだろう。だから、アバヤを纏うなら、その下にはスーツなんかではなく、もっと涼しい服装を選ぶはずである。そうでないのなら、目の前の女はまだドバイの暑さを理解していない、来たばっかりの外国人ということになる。

 つまり、この女はわざわざ脇坂を訪ねるために遥々ドバイまでやって来たのだろう。決して少なくない金と短くない時間、そして脇坂の“個人的な”事情まで調べ上げる労力に見合うだけの目的があるというわけだ。

 

 

 脇坂の勤める「株式会社小西洋行」は、軍事・防衛産業専門の商社である。脇坂はドバイ駐在員であり、会社がこの地にオフィスを構えているのは、ドバイの外港であるジュベル・アリ地区に、日本海軍が小規模な駐屯地を置いているからで、彼の仕事はこの駐屯地で扱われる武器類の調達、払い下げ品の仲介などであった。

 軍需専門の商社というのは国内において小西洋行、ただ一社であり、必然的に顧客は軍隊だけになる。したがって、海軍が国内外に置いている駐屯地の近くには必ず小西洋行のオフィスがあった。何故なら、そうした駐屯地(鎮守府や泊地と呼ばれることもある)には、現状海軍の主戦力である艦娘たちが所属しているからだ。

 

 艦娘は、それまで数百年の運用の歴史があった軍艦とは違い、ほんの二十年ほど前に現れた「謎の」兵器である。この「謎」というのは比喩でもなんでもなく、本当にそのままの意味で「謎」なのだ。艦娘と言えば、誰もが思い浮かべるであろうことは、彼女たちのみが可能な「海上立位」、すなわち「海の上に立てる」という特徴であろう。

 船が水に浮かぶのは、その船が喫水線以下の部分で自重と同じ重量の水を押し退けており、浮力がその反作用として働いているからだ。しかし、艤装と本人の体重込みで総重量80㎏の駆逐艦娘が、80㎏の海水を押し退けているかと言えばそうではない。しかし、ではどうしてこの駆逐艦娘が海上に立っていられるかという問いには誰も答えられないのだ。また、その駆逐艦娘が持つ「12.7㎝砲」と呼ばれる武器は、現代の同口径の艦砲の数十分の一の大きさでしかないにもかかわらず、それと同等の威力の砲弾を撃ち出すことが出来る。さりとて、発射の反動でたった80㎏しかない艦娘が吹き飛ばされることはない。

 これは現代科学ではまったく説明不可能な現象である。しかしそれはそれとして、賢い人類は分からないなりも艦娘とその艤装という「謎の塊」と付き合い、利用しようと努力した。軍艦と同等の破壊力を持ち、人間大であるために断面積が小さく、しかも艤装が壊れない限り沈まない上、軍艦よりもはるかに機敏で俊足である艦娘は、攻防走に優れた希有な兵器だ。ただし、弱点としては使用されている技術フォーマットが古めかしいので、射撃の照準精度や通信速度、索敵能力などは、現代艦の装備とは比較にならないほど劣っている。だからこそ、最近になって艦娘の扱いにこなれてきた軍は艦娘のこうした弱点を補強すべく、既存技術との融合を目指し始めていた。

 小西洋行の仕事の一つは、こうした軍の動きと歩調を合わせ、彼らが求める通信端末や小型レーダーを調達することだ。ただし、現場の艦娘たちが求める物は、彼女たちの所在地によって異なる。例えば、ポーツマスの艦娘は新型の小型曳航式ソーナーを欲した。何故なら、イギリス海峡では深海棲艦の潜水艦がうようよと湧いて出て来るからだ。一方、ドバイの艦娘は小型のドローンをねだった。“操縦訓練”と称して遊ぶためである。

 既に退職してしまった先輩が以前、「オレたちは艦娘が欲しいと言ったらアイスクリームも買って来てやらないといけない」と言ったことがある。もちろん、軍人たる艦娘が民間人の商社マンをお遣いさせられるわけがない。これは単なる揶揄。しかし、「アイスクリーム」を、「ソーナー」や「ドローン」に置き換えれば、それが脇坂の仕事を端的に表す言葉となる。

 

 最初に女は「“小西洋行”の」と、わざわざ会社名を含めて脇坂の名前を確認した。単に脇坂の本人確認をしたいのなら、フルネームを言えばそれで済むはず。しかし社名を含んだということは、目の前の女は“小西洋行”の脇坂に用事があるということだ。

 真っ当な話ではないのは確実。もし恥じ入る必要のない話なら、昼間にジュベル・アリのオフィスに電話を掛けてアポイントメントを取ればいい。そんな常識的な方法を使わず、自宅にメッセージカードを差し込んで、この「別室」にわざわざ呼び出したのだから、間違いなく後ろめたい、世間に大っぴらに出来ない類の用件なのだろう。

 しかも、相手は脇坂の弱みをちゃんと把握している。ここに呼び出したということは、脇坂に断らせないという強い意思表示に他ならない。事実、脛に大きな傷のある脇坂は、もう女が何を言ってこようと絶対に拒否出来ないだろうと諦めていた。

 だが、会話が相手のペースになるのは癪である。無駄な抵抗かも知れないが、せめて主導権だけでも取りに行かねば、このままでは女の言いなりになるしかない。

 

「色々と聞きたいことがあるが、まずはお前の正体を知りたい。一体、どこの誰なんだ?」

 

 女は視線を宙に這わせて考える仕草を見せた。この女がべらぼうに演技の上手い人間でなければ、考え込むようなこの仕草に不自然さは見受けられなかった。まるで、名前を聞かれることを想定していなかったかのようである。

 少なくとも、自分の名前をすぐに明かせないような立場らしい。スパイと言うにはあからさまに怪しいので、そうではないだろう。例えば、ヤクザや犯罪者集団の手先。それも、相当な資金力と情報収集能力を持った大規模な組織である。だが、女というのも珍しいし、直感がそうではないと告げていた。

 というより、女の顔に見覚えはないが、どうにも彼女が纏っている雰囲気には心当たりがあるのだ。それどころか、脇坂は徐々に女の正体に気付きつつあった。

 

「うーん、そうねえ。名前は出せないけど、名無しさんじゃ不便だから……。じゃあ、『佐助』って呼んでよ。猿飛佐助の『佐助』ね!」

「お前はふざけてんのか!?」

 

 低い声で威嚇する。緊張感のない言い方と馬鹿みたいな偽名に思わず怒鳴りそうになったのは事実だが、威嚇に出たのは計算の上だった。怒った振りをして相手の気勢を削ごうとしたのだ。同時に、そのふざけた偽名から、勘付いていた女の正体について、脇坂は確信を持つに至った。

 猿飛佐助は忍者だが、海軍には「忍者」と揶揄された部隊がかつて存在していた。公的に海軍がその部隊の存在を認めたことはなかったし、しばしば彼らはわざわざその存在を否定してみせた。だが、仕事柄海軍の内情にはある程度精通している脇坂は、その部隊の実在を知っていたのである。

 女は他にも偽名の候補はあったであろうに、わざわざ忍者の名前を選んだ。それで、脇坂には女の正体が分かったのだった。

 

「まあ、そう怒んないでよ」

 

 暖簾に腕押しと言わんばかりに艦娘は飄々と振る舞いを崩さなかった。

 

「これでも真面目な話をしに来たつもりなのよ? そろそろエアコンも効き始めたしさ、本題に入ってもいいかな?」

 

 虚勢は通じず、また話の腰を折る理由もないので、脇坂は黙って頷いた。この「別室」に引きずり出された時点で「佐助」の話にはある程度の見当は付いていた。それが脇坂にとって碌でもない内容であるのは間違いないということも。

 

「じゃあ、まずはこれを受け取ってほしいんだ。ほんの、お近付きの印に、ね」

 

 そう言いながら、「佐助」は大事そうに持って来てテーブルの上に置いた紙袋の中から縦長の桐箱を丁重な手付きで取り出した。古いエアコンが巻き散らす不快な臭いが充満しつつある中で、桐箱から漂う微かな香ばしさを鼻が鋭く嗅ぎ分ける。酷く懐かしい匂いだ。そもそも、海外生活が長かったからこんな上等な桐箱を見るなど何時ぶりか思い出せもしない。

 箱には銘が打たれていなかった。「佐助」は音を立てないようにそっと箱をテーブルに乗せると、両手で蓋を持ち上げ、それを脇に置いてから相手にも見えるように箱を起こす。箱の形状から中身が酒瓶だと予想したのは正しかったが、意外なことに酒は酒でも、清酒ではなく果実酒であった。

 黒に近い深紅のワインボトルが、山吹色の布に包まれて、箱の中に納まっている。脇坂は「佐助」に視線を寄こし、彼女が頷いたのを見てワインボトルに手を伸ばした。ゆっくりとボトルを取り出し、顔の前に掲げてエチケットを覗き込む。

 

“Scarlet FRANDILIA 2009”

 

 見たことのないワインだ。エチケットには鉛筆画風に洋館の絵が描かれており、その絵を下にして恐らくは生産者とワイン名を現すアルファベット、そしてヴィンテージ(生産年)が記載されているだけで、生産国やアルコール度数、酸化防止剤、何よりブドウ品種の表記はない。

 「佐助」が日本から来たとして、わざわざ持ち込んでくるくらいなのだから、これは恐らく日本産のワインであろう。日本産ワインと言えば山梨県産や長野県産が有名で、ブドウの品種には赤ワインなら欧州原産の「メルロー」種や、日本固有種の「マスカット・ベーリーA」種が考えられる。「メルロー」なら、長野で栽培していたはずである。

 ボトルを回して裏側を見ても、食品衛生法によって義務付けられている添加物や賞味期限、製造者の表示ラベルがない。普通はそのラベルに付随して印刷されるはずのJANコードもなく、ラベルを剥がしたような痕跡も見付けられなかった。

 

 脇坂はボトルをそっと桐箱に戻し、自分を熱心に観察している「佐助」に目を向ける。彼の動作を見て何を慮ったのか、脇坂が口を開く前に「佐助」の方が先んじて、

 

「メチルアルコールは入ってないから安心してよ」

 

 と、的外れなことを言った。

 冗談にしても酷いその一言に、脇坂は鼻で笑って返す。

 

「まともな頭のある奴ならそんな粗悪品は造らねえ。食中毒が表面化したら、そこから足が付くだろ?」

「……それもそうだね」

 

 棘のある脇坂の反論に、「佐助」は気分を害した様子もなく、笑って頷いた。案外、愛想は悪くないようだ。

 不完全なエチケットや法令で定められている表示がないのなら、このワインは密造酒ということになる。もしこのボトルに入っているのがワインではなく単なるブドウジュースであるなら、それを造ること自体は違法ではない。だが、意味深にこの場所に呼び出して、意味深に取り出して見せびらかしたのだからその可能性は低いであろう。わざわざ「メチルアルコールが入っていない」と注釈を付けたのも、間接的にボトルの中身が酒であることを示していた。

 

「なるほど。こいつを売れと言うわけか。それがお前の要求か」

「そーゆうこと」

 

 艦娘は朗らかに笑った。年頃の少女らしい、快活な笑顔だ。こんな場で、こんな話をしながら浮かべる笑顔の中では、恐らく最もふさわしくない類のものであった。愛想笑いには違いないが、その割に裏表を感じさせないのは好印象である。営業マンとしては見習うべきだろう。

 恐らく、「佐助」はそれさえも計算に入れている。脇坂は、彼女にとって「客」なのだ。彼女は商品を売りに来た。ここは、その商談の場である。

 ただし、拒否権が事実上否定された状況において持ち掛けられた商談を、果たして本当に“商談”と呼んでいいのかは甚だ疑問である。何しろ、この「別室」の中には、様々な酒の入った箱、あるいは酒瓶そのものが所狭しと積み上げられているのだ。その多くが、「佐助」が持って来たワインと同様、密造酒である。それを、どこからどう知り得たのか、「佐助」は分かっていてこの場所を指定し、脇坂を呼び出したのだ。

 

 彼の裏の顔は、酒の密売人である。

 ドバイでは30%もの高い酒税が掛けられている。しかも、酒を販売することはもちろん、購入するのにさえライセンスが必要なのだ。さすがにイスラム教国だけあって、いくら外国文化に寛容な観光大国と言っても、日本や欧米と比べれば厳しい規制がかけられており、公共の場所で飲酒することさえ禁止されている上、飲酒運転をしようものなら即座に投獄される。しかし、それでもこの国は他のイスラム国家に比べればずっとか酒に寛容だと言われるのだ。

 さて、そんなドバイで酒を密売すればどうなるか。まず、ドバイに酒を輸入した場合、実に50%もの関税が課せられるのだが、密輸すればこれは当然ゼロになる。その酒を、正規のリカーライセンスを持つ販売店へ売れば、酒税30%分が儲けになるのだ。

 この、正規の販売店へ酒を卸す流通ルートの確保が難しいのだが、その点で言えば脇坂には大きな強みがあった。それは彼が物資の集まるジュベル・アリ地区で働いていて、しかも軍需専門とは言え仕事柄多くの商人たちと顔を合わせる商社マンであり、付き合いで地元の富豪が主催するパーティに招かれることもしばしばであったから、それなりに人脈を築き上げることに成功した、と言う点である。

 

 この人脈こそが脇坂の武器だった。出会った人々の中から酒の密売に協力してくれそうな人物を探し出すのである。その中には富豪も何人か含まれていた。金を持っている彼らは強力な味方であり、上質な酒を密輸して安く売り渡すことを対価に、色々と取り計らいをしてくれるのだ。しかも、富豪同士の繋がりを通じて、より酒への規制が厳しい近隣諸国、サウジ・アラビアやカタールなんかにも酒を卸せるようになった。中継貿易の街、ドバイだからこそ、こうしたイスラム諸国への流通ルートも構築出来るのである。これがアブダビではこうも上手くはいかないだろう。

 とは言え、脇坂とて本音ではリスクの高い酒の密売をしたくなかった。それなのに彼がこんな悪どい商売をし始めたのは、膨大な額の借金を背負ってしまっているからだった。その借金と言うのは、決して彼の無謀の結果や、自己統制に失敗したから背負ったものではない。ただ、起業するという友人に出資し、借金の連帯保証人にサインまで書いたからだった。彼は大学まで脇坂と一緒だった幼馴染で、一度も彼を裏切ったことのない竹馬の友だった。その竹馬の友は事業に失敗して失踪、債権者は当然、連帯保証人に債務の履行を要求した。

 軽率だったと言えばそうに違いない。だが、十数年来の友人を信用するなと言う方が間違っているのではないか。

 未だに消えた友人の無事を祈っている脇坂はきっとお人好しなのだろう。そして、その起業した友人よりは多少商才にも恵まれていたらしい。少なくとも今日この日まで、脇坂は商社マンとしての表の顔と、酒の密売人としての裏の顔を上手に両立させてきたのだから。

 

 

 だが、今はかつてないほど危機的な状況下にあった。

 ふざけた名前を名乗ったが、「佐助」は絶対的に優位な位置に居る。その彼女は、付け加えるようにこう言った。

 

「あと、要求はもう一つあってさ。脇坂さんの『お友達』も紹介して欲しいんだ」

 

 脇坂は机を叩いて立ち上がった。桐箱が跳ねて音を立てる。

 女を罵倒する汚い言葉の数々は、もう少しで口を突いて出て来るところだった。それが出なかったのは、大の男が怒り凄んでも、眉一つ動かさず、涼しい表情を微細も変化させない現役の艦娘に、彼女の優位性を再認識させられたからである。感情に任せて「佐助」に怒鳴り散らすのはとても賢明な行為とは言えなかった。余裕な態度を崩さない彼女に、恫喝は効果がないのは目に見えている。怒るとは思えないが、仮に怒らせたとしても脇坂には何らメリットがない。

 だから、脇坂は何とか踏みとどまり、無言で腰を下ろす。その間も「佐助」は何も言わず、澄ました顔で目の前の男が自分を取り戻すのを待っていた。

 その態度が癪に障り、脇坂の感情をさらに逆撫でるが、少なくとも今は脇坂に反撃の手立てなど全くない。女が脇坂を屈服させるのは実に簡単で、それにはたった一本の電話を警察署に掛ければいいだけである。この「別室」の場所と借主の脇坂の名前を言えばいい。警察は大喜びでここに来るだろう。そして、部屋の中に山と積まれた密輸された酒の数々に目を輝かせるはずである。「これは大物が釣れたぞ」と。

 つまり、脇坂にとって「佐助」が今、この部屋の中に居るという状況それ自体が、抗いようのない恫喝になっているのだ。「佐助」はもちろんそれを分かっている。こうなっては脇坂には無条件降伏をして、相手の要求すべてを飲み込むしかないのだった。

 

 それでも、密売先を教えろと言うのは承服しかねる要求である。得体の知れないワインを売るのは構わない。単に商品のラインナップが一つ増えるだけだからだ。しかし、密売先は違った。商売相手は脇坂自身の営業努力によって築き上げられた人脈の産物であり、掛け替えのない財産なのだ。それを、どこの誰とも分からない女においそれと渡せるはずもない。

 だが、抗うことは許されていなかった。結局脇坂に出来ることと言えば、「佐助」に嫌味を言うことくらいだった。

 

「ニコニコ愛想を振りまくのは上手でも、中身はとんだヤクザなんだな、お前。言っておくけど、俺の客たちは俺の名前がないと話も聞いてくれんぞ」

「だから、脇坂さんとは末永くお付き合いしたいのさ」

 

 いけしゃあしゃあと女が言いのけたので、脇坂は怒りを通り越して呆れ返ってしまう。「忍者」と称された非公式部隊に所属していたであろうこの艦娘、さすがに肝の座りようは堂に入っているらしい。

 

「ホントだよ、嘘じゃないよ。本当に私たちは上手にお付き合いしたいと考えているんだ。脅されてるって思ってるかもしれないけど、そんなつもりじゃないってのは頭に入れていて欲しい。これでも一応取引するつもりなんだけど」

「取引? 実質、断る権利なんてないのに何が取引だ」

「そう言わないでよ。こちらのお願い事ばかりわけにもいかないしさ。二つお願いしたわけだから、逆にこっちから脇坂さんの為になることを言わないといけないよね。一つ目は、これだよ」

 

 いぶかしむ脇坂に対し、「佐助」は愛想を崩さず、ジャケットの内側から細長いケースを取り出した。筆ペン一本が入りそうな程度の小さなケース。彼女はそれを丁寧に開け、中身を開陳した。

 

 出て来たのは注射器だ。その中には透明な液体が封入されており、液体の薬品名を表しているであろう「ERM」という頭字語が印字されたシールが貼られてある。

 見るからに碌な物ではないので、脇坂はあからさまに顔を顰めた。当たり前の話だが、生れてこの方、麻薬の類に手を出したことはない。覚醒剤など、どんなに辛くても欲しいとも思わない。まさか、“取引”の対価に違法薬物が必要な人間だとでも思われていたのだろうか。言葉を失った脇坂が「佐助」を睨み付けると、その反応から脇坂が考えたことを悟ったのか、彼女ははっきりと首を振った。

 

「ヤバい物じゃないよ。これはバローで開発された高速修復材の改良品。私たちは『緊急修復材――Emergency Repair Material』って呼んでる。まあ、名は体を現すって言葉通り、応急的に使える修復材なんだ」

 

 それは“ヤバい”代物じゃないか、という反論を何とか飲み込んだ脇坂は、「佐助」が言った言葉を反芻して咀嚼する。彼女はこれがバロー、つまりイギリスのバロー=イン=ファーネスで開発されたと言った。ここでのこの街の名前は、艦娘の艤装や関連用品の開発元である造船所のことを指している。

 

 

 1980年代に開発が始まった兵器としての艦娘は、90年代初頭に史上初の艦娘であるウォースパイトが就役したことで完成したと言われている。ウォースパイトが、正確には彼女の艤装が、製造されたのが、バロー=イン=ファーネスにある、現BAEシステムズ社(当時で言えばヴィッカース・シップ・ビルダーズ社)の造船所で、今でもここは謎多き艦娘についての最先端の研究と開発を行っている場所だった。

 などと言えば聞こえは良いが、実態は得体の知れない技術を使って得体の知れない物体を生み出している謎の施設にすぎない。頭の大事なネジをなくしたマッドサイエンティストたちが勢ぞろいして、訳の分からないことだらけの艦娘の艤装をいじくり回している、というのが脇坂の勝手な想像だった。実際、バローの造船所でしか造り出せないとされている「開発資材」という物資が存在しているのだ。

 この「開発資材」は、艦娘の艤装を建造・開発する上で、絶対に欠くことの出来ない物であった。完全にブラックボックス化されていて、と言うよりいじり回しても誰も何も、正体どころかヒントさえ掴めないのである。そのくせ、「開発資材」を用いずに艤装を造っても、それは形だけを似せた単なる豆鉄砲でしかなく、艤装で水上立位や深海棲艦の撃破を実現するには「開発資材」を使用して造らなければならない。

 実際のところ、バローの造船所に居る研究者たちがどれ程艦娘の艤装のことを理解しているのかは分からないが、脇坂が思うに、少なくとも艤装や修復材(これらは俗に『妖精の技術』と呼ばれる)に手を加えて思い通りの品を造り出せるだけの能力を持っているわけではないだろう。もし彼らにそんなことが出来るなら、とっくにこうした「妖精の技術」と現代の戦闘ユニットとの結合が実現しているはずだ。しかし、現実にはそうはなっていないし、そうなりそうだという話も聞いたことがなかった。

 だから、艦娘から「高速修復材の改良品の開発に成功した」などと打ち明けられても、まったく信じられない。バローで如何にして「開発資材」が造られているかは当の技術者たち以外に誰にも分からない秘密なのである。そしてまた、艦娘の損傷を回復させる「修復材」もそれと同様だ。こちらに関しては通常の「修復材」と、その成分を濃縮して効能を高め、修復速度を向上させた「高速修復材」の二種類が確認されているが、「開発資材」や艤装の動作機構同様、その原理は不明である。一つ確実に知れ渡っているのは、「高速修復材」はより希少で高価であること、故に艦娘運用国すべての軍隊で、通常の「修復材」使用が優先されるということであった。

 もちろん、バローの造船所以外の機関が通常の「修復材」を濃縮させて「高速修復材」を造ろうとしたことはある。だが、遠心分離機にかけようが、加圧しようが、試みのすべてが上手くいかなかった。結局、「高速修復材」を手に入れるにはバローから調達する他なかったのである。

 しかし、バローで可能なことが、他の同等の設備がある機関で不可能だというのは道理に合わないのではないだろうか。彼らにそれが可能なのは、バローにだけ特別な妖精が存在しており、その妖精たちが「開発資材」と「修復材」の製造、「高速修復材」への濃縮作業を行っているからだと推察されている。

 だから、「開発資材」と「修復材」という艦娘の建造・運用に不可欠な二つの資源を供給する唯一の機関であるバローの造船所が、各国の注目を集めないわけがなかった。当地の技術者たちの一挙手一投足のすべてが監視されていると言っても過言ではなく、バローでの動きは公表前から速やかに各国に伝わるようになっていた。特に、最大の艦娘運用国である日本はその辺りのリアクションが驚く程速い。

 

 軍需専門商社の小西洋行は「修復材」の供給についてBAEシステムズ社と代理店契約を締結している。「開発資材」の代理店契約こそ他社に奪われてしまったものの、「修復材」関連はいわば小西洋行の専売権の範疇にあると言える。だからこそ、「修復材」関連の分野で会社が知らないことなどあるわけがないのだ。

 

「バローでそんな物が作られたなんて話、聞いたことないな」

 

 もちろん、BAEが、代理店とは言え、小西洋行に自社の機密情報を教えてくれるわけではないだろう。それでも、人の口に戸は立てられないと言うのだから、どこかで情報が漏れ出て来るものだ。ましてや、“高速修復材の改良品”なるものが開発されたのだとしたら、それが計画されている段階からまことしやかにそのような噂が囁かれ始めてもおかしくはない。「佐助」が持って来たのが「緊急修復材」とやらの完成品だとするなら、完成まで何も伝わってこなかったなどと言うのは実に腑に落ちない話である。

 それとも、極端にBAEの機密管理が厳重だったのだろうか。

 

「秘中の秘だったからね。何より革新的なのは、これが機械的に量産出来るようになったことさ」

「なんだと!?」

 

 声を張り上げた脇坂に、「佐助」が苦笑を漏らす。まるで、彼の反応を楽しんでいるかのようだった。

 当の脇坂はそんな相手の様子が目に入っていない。たった今彼女が言った言葉があまりにも受け入れがたかったのだ。

 「妖精の技術」は未だ解明されていない神秘そのものである。修復材を濃縮して高速修復材にする方法を人類は知らないはずだった。しかし、今の「佐助」の言を正直に解釈するなら、人間はその原理を解明し、さらに応用を効かせて量産化に成功したことになる。

 もしこれが真実なら、産業革命以来の、世界の仕組みそのものを激変させる巨大な技術革新の到来だ。艦娘のように海の上に立てるようになったのなら、まず海運が変わる。場合によっては海上にメガフロートのような巨大な建築物を、浮力の計算をせずに建設出来るかもしれない。また、修復材を艦娘以外の人間に使用出来るようになれば、間違いなく医療は激変する。「妖精の技術」を解明出来たのだとしたら、その影響は人類の生活の隅々まで及び、歴史の流れが大きく変わるだろう。

 

 あまりにも突飛な話だった。あまりにも現実離れしていた。だから、脇坂には実感が湧かなかったし、スケールが壮大すぎて、まったく信じる気が起きなかった。

 故に、最初の衝撃が大方抜けると、少し冷えた頭が「そんなわけがない」と冷静な指摘をする。ましてや、そんな話が寄りにもよって自分に持って来られるなど、あるわけがない。確かに珍しい専門商社に勤めていて、要人との人脈が多少なりとも築けているという点を考慮すると、平均的な日本のサラリーマンとは言い切れないかもしれないが、しかしそうは言っても脇坂自身は特別非凡な才覚を持っているわけでもなく、単にたまたま入った会社がこんな仕事をしている会社だったというだけだ。人脈にしたってアルコール関係を除けばほとんど仕事上の繋がりであるし、そのアルコール関係で築いた人脈とて、仕事で培った営業スキルの賜物である。つまるところ、脇坂は特別な天才ではないし、スターにもなり得ない、極めて平凡な人間であって、歴史の転換点に立ち会うような豪運の持ち主でもない。学生時代に一回だけ挑戦したパチンコではビギナーズラックなんか起こらず、ただ財布の金を吸い取られて生活費に困った思い出しかないし、何回か購入した宝くじは当然すべて外れた。

 

 自分にツキが回って来たと浮かれるほど足元がおぼついていないつもりはない。うまい話に裏があるのは世の常だ。そう考えると、途端に目の前の女がペテン師に思えてきた。否、実際ペテン師だろう。

 だが、どうせペテンに引っ掛けるなら、もう少し上手な話の組み方はなかったのだろうか。軍事専門商社の人間として、ある程度艦娘関連の事情については知識と理解がある脇坂だからこそ、「『妖精の技術』で造られた修復材を機械生産出来るようになった」などという話を信じるはずもないのは、少し頭を働かせれば分かるはずだろうに。

 ひょっとしたら「佐助」は艦娘ではないのかもしれない。第一、拒否権が認められない取引を強いられた上に、突拍子もない話と怪しい薬品を持ち出してくるような艦娘が存在するだろうか。少なくとも日本の艦娘は立派な軍人、立派な公人であり、犯罪まがいの行為を堂々と行うことは考え辛い。艦娘は特にその辺りについては厳しく教育されるようだから、未だかつて警察に逮捕された艦娘というのは存在しないし、品行方正に疑いが持たれたこともない。そもそも、「佐助」は自分のことを艦娘だと言ったことはない。

 いずれにしろ、脇坂の言うことは決まっていた。

 

「あまりにも話の内容が非現実的だ。俺を騙したいならもっとマシな話をしろよ。そいつがシャブじゃないって言うんなら、証明してみろ」

 

 脇坂が注射器を顎でしゃくると、「佐助」は困ったように少し眉間に皺を寄せた。しかし、食って掛かったような言い方をしたにもかかわらず彼女は腹を立てることもなく、先程桐箱を取り出した紙袋にもう一度手を突っ込んで、今度はポリウレタン製と思われる薄いポーチのような物を取り出した。ノートパソコンの保護ケースのような気がするが、それにしてはサイズが小さいし、女が片手で掴める薄さと軽さをしているのだろう。ただ、ケースの表に“齧りかけの林檎”のロゴが見えて、それが何かを察した。ドバイでは金持ちを中心に最近徐々に普及しだしているタブレット端末だろう。

 案の定、「佐助」がケースの中から取り出したのは、プラチナホワイトのタブレット端末だった。

 

「今すぐそれの中身を証明するのは難しいけどさ」言いながら、彼女は何やら端末を操作し始める。「仕方ないからちょっと助っ人に手を貸してもらうことにするよ」

 

 女は操作していた端末を半回転させ、画面を脇坂の方に向ける。

 

 

 そこにはクラシック調の揺り椅子に腰掛けた金髪の美女が映し出されていた。美女はまるでこちらが見えているかのように、脇坂と「目が合う」と、小さく微笑んで手を振った。

 

「Skypeだよ」

 

 補足説明をするように「佐助」がテレビ電話アプリの名前を口にした。つまり、画面の向こうの美女には、目を丸くする脇坂の顔が見えているというわけで、しかも脇坂は美女の顔をよく知っていたし、相手もそうだ。

 

 

 

「Hallow! こんばんわ。久しぶりね、Mr. Wakisaka! 元気かしら?」

 

 

 

 美女の艦名は「ウォースパイト」と言った。かつて脇坂が居たポーツマスの海軍基地にて、王立海軍“艦婦艦隊”の旗艦として部隊を率いていた傑物であり、彼の教え子だった人物。

 

「そんなに驚くことないじゃない。センダイはちゃんと説明をしていなかったの?」

「あー、する前に全否定されちゃって……。仕方なしに、ウォースパイトさんに協力を仰いだ次第です、はい」

 

 脇坂は腰掛けていたソファに体重を預け、天井を仰いで顔を両手で覆う。あまりにも事が進みすぎて、理解が追い付かない。

 

 取り敢えず分かったことが一つある。「佐助」と名乗った女の艦名は「川内」だ。川内型軽巡洋艦の一番艦。もちろん、正真正銘の艦娘である。

 

「Mr? Are you alright? 具合が悪いの?」

「……ああ、いや。ちょっと頭の中を整理していただけだ」

 

 何とか状況が飲み込めた脇坂は、タブレット画面の向こうの戦艦と向かい合う。彼女は心配するように身を乗り出していたが、脇坂が居住まいを正すとまた元のように揺り椅子に深く腰掛け、リラックスした様子に戻った。

 

「どうやら、センダイが丁寧な説明をしていなかったようね。ごめんなさい。こちらからは見えないけど、そこにERMがあるのでしょう? ERMは本物だわ。私がセンダイの代わりに説明しましょう」

 

 几帳面なウォースパイトは背筋を伸ばし、神妙な顔でそう申し出てくれたが、脇坂は片手を前に出して遠慮の意を示す。本物のウォースパイトが出て来た時点で、緊急修復材(ERM)を信用するには必要十分なのだ。何しろ、彼女こそ世界最初の艦娘であり、バローの造船所での「開発資材」や「修復材」の製造を取り仕切っていると言われている艦娘である。一般には、ウォースパイトの隷下にある妖精たちが、そうした資材を生産していると考えられていた。

 加えて言うなら、脇坂は本物のウォースパイトをよく知っていた。本来であれば、同じポーツマスの街に居たとは言え、あまり接点を持つ相手ではなかっただろう。当時の脇坂の相手は、在英武官の艦娘であり、一方で今も昔もウォースパイトは多忙を極める王立海軍の顔なのだ。それが、二人が接点を持つようになったのは、当時ウォースパイトが日本語を学習しており、それまで彼女に日本語を教えていた在英武官だった「榛名」が、脇坂の英国赴任と同時期に偶然入れ替わるようにして日本へ帰国することになり、ウォースパイトに必要な後任を探していた彼女に頼まれて、その後を引き継いだことが始まりだった。それから、脇坂はウォースパイトに言葉を教え、ウォースパイトは脇坂に英国の文化や振舞い方を伝授した。決して長い時間そのような関係だったわけではないが、彼女のことをよく知るには十分な密度のある時間を過ごしてきたのだった。

 「佐助」もとい艦娘「川内」は、何一つ事実と違うことなど言っていなかったし、騙そうとする意図もなかったわけである。

 

「いや、もういい。分かった。信じられないことだけど、信じよう」

「Thank you. 貴方の気持ち、分かるわ。それでも信じてくれてありがとう」

「ああ、どういたしまして」

 

 正直なところ、未だに信じられないところはある。緊急修復材が開発されたということは、「妖精の技術」に人間の手が加えられるようになったということであり、それは科学文明を超特急で前進させるほどのインパクトを持つ革新的な成果なのだ。驚くなと言う方が無理である。

 しかし、これはまだ話の序の口であり、川内が言うように取引をしたいのなら、向こうには何かしらの提示があるはずで、話の続きを促してそれを聞かなければならない。もっとも、すでに脇坂には何を言ってくるかは予想出来ていたのだが。

 

 

「では、続きは私から」

 

 ウォースパイトは椅子の上で背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねて喋り出した。高貴で気品のある美女に真剣な話をされると、自ずと小市民たる脇坂の身も引き締まるというものだ。少し身を乗り出し、タブレットの向こうの彼女を注視する。

 

「詳しいことまでは明かせないけれど、ERMの基本的な作用についてある程度説明しておかなければならないわ。少し難しい言葉が入るわ。日本語での意味を知らない単語はそのまま英語で言うから、解説が必要なら言って。補足するから」

「ああ、分かった」

「ありがとう。まず、ERMは通常の修復材と成分はほとんど同じ。いずれの修復材も、艦娘が元々持っている高度なSelf-healing, Self-replication ability,  Angiogenesisといった能力を発動させるための鍵よ。修復材は艦娘が持っているPluripotent stem cellsが損傷部位を再生させるために必要。この点において、艦娘は非常に機械的よ。何しろ、通常の状態では損傷したとしてもPluripotent stem cellsは働かない。これらのcellsは修復材が存在しなければdifferentiationを起こさない。修復材は、differentiationを開始するためのswitchのようなものとも言えるかしら」

 

 脇坂は眉を顰めた。ウォースパイトは、彼女が自分で言った通り、難解な単語は英語そのままで発せられたが、逆にそれらは脇坂の知らない単語であったからだ。言っていることは何となく分かる。医学の話だから、訳されていないのは医学用語だろう。"Self-healing"は「自己修復性」、"Self-replication ability"は「自己複製能」、"differentiation"は「分化」だ。後の二つの用語は分からない。一つは細胞のことを言っているのだろう。

 

「アンジオジェネシスとプルリポテント・ステム・セルズってのは何だ?」

 

 ウォースパイトは少し首を傾げ、脇坂の問いに対する答えを編み出す素振りを見せた。しかし、意外にもそれに答えたのは、英国艦隊旗艦を映すタブレット端末を抱えていた川内の方であった。

 川内はいつの間にやら取り出したスマートフォンで単語の意味を調べたらしい。インターネットでの検索画面を脇坂に向けた。

 

「Angiogenesisは『血管新生』。文字通り、血管が新しく作られたり、作り直される機能のことだよ」次に彼女は、まだ扱いに慣れぬぎこちない手付きでスマートフォンを操作し、もう一つの用語の意味を調べた。

 

「Pluripotent stem cellsは『多能性幹細胞』だね。色んな細胞に分化出来るっていう細胞。ES細胞もこれに含まれるらしいよ」

 

 それで、脇坂もピンときた。何年か前に、胚から作り出された、どんな細胞にも変われる(つまりどんな部位も形成出来る)万能細胞についての論文で捏造があったとして、世界的な大スキャンダルが巻き起こったことがあった。その時の万能細胞の名前が「ES細胞」だったはずだ。これは人のES細胞を作れたという嘘を吐いたことが原因だったが、それと同じ類の細胞を艦娘が持っているのだとしたら、世界中の医者がひっくり返るのではないだろうか。

 そんなおおそれた話は聞いたことがなかったので、恐らくこの情報は今初めてここで明かされたのだろう。

 現実味のない話だが、ウォースパイトの言っていることが本当なら、艦娘は夢の技術の結晶である。艦娘たちの異様な回復能力と不死性はよく知られていることだが、そのからくりがまたとんでもないものだったのだ。

 

「さて、今の説明は、あくまで通常の修復材、もしくは既存のFRM(高速修復材)の効能のことよ。ERMはそれらとは少し違う。この薬剤の特徴は、ワクチンのように予め対象の艦娘の体内に投与しておくと、その艦娘が重大な身体欠損を抱えた時、効能を発揮して応急的に修復を行うところにあるわ。厳密には仕組みが違うけれど、怪我をすると血が固まって傷口を塞ぐのと同じようなものと考えれば分かりやすいと思う。

でも、元々修復材の効果は、艦娘が持っているPluripotent stem cellsのdifferentiationを促すことだったはず。ERMにはもちろんそれは可能だけれど、それだけじゃないの。ERMの中には通常の修復材と同じ成分の他、幾種類かのstem cells(幹細胞)が混ぜられていて、艦娘の身体の異常を察知した時に、異常個所に集まって欠けた部位を補充する働きを持つわ。もちろん、この働きは艤装にも同様よ」

「ちょっと待ってくれ」

 

 難解な内容に手古摺りながら、何とかウォースパイトの話を聴いていた脇坂だが、彼女がついでのように付け加えた一言が理解の範疇を越えてしまっており、途中で話を遮った。

 彼女は今何と言ったのか。“緊急修復材は身体の欠損を補う働きを持っていて、しかもそれは艤装にも同様に働く”という意味に聞こえたのだが、本当だろうか。そもそも、話の趣旨は艦娘が薬剤によって凄まじい再生能力を得たというものであった。その大前提として、これは医学的な内容だったはずだ。にもかかわらず、どうしてその話の中で当たり前のように機械の修復が可能だという言葉が出て来るのか?

 

「肉体の再生の話をしているんじゃなかったか? 何で艤装が出て来るんだ?」

「ERMで艤装も修復出来るからよ。むしろ、こちらを直さなければ沈没してしまうわ」

「それは分かるが、人体を修復するための傷薬で、どうして鉄の塊まで直せるのかが理解出来ないんだ」

「艤装は、私たち艦娘の肉体と連動しているものだからよ。それぞれの損傷が互いに影響し合うことがあるの」

「それじゃあ、まるで艤装は君らの身体の一部みたいじゃないか。え? まさか、艦娘ってのは金属を身体の一部にしてしまえるって言うんじゃないだろうな」

 

 突拍子もない荒唐無稽な話ばかり続けられていよいよ理解力の限界が近付いてくると、脇坂の中でそれが感情を強く刺激するようになった。訳の分からないことばかり言われれば、自ずと苛立ちが募るものだ。いささか口調が荒っぽくなってしまうのを自覚しながらも、苛立ちをぶつける相手は画面の向こうの戦艦娘くらいしか居ないので、ついつい言い方が悪くなってしまう。

 しかし、感情をコントロールする能力の観点で見ると、ウォースパイトの精神はよほど成熟したものだった。彼女の中で平常心がわずかも揺らいだ気配はなかったし、表情筋を上手に使ってすまなそうな顔を作るのも、完ぺきにこなしてみせた。それを分かっていながらも、やはり見た目麗しい女にそんな顔をされると罪悪感が湧いてくるもので、苛立ちは沈静化されてしまう。

 

「いや、別に責めてるわけじゃないんだ」結果、こんな釈明のようなことを口走ることになった。「ただ、理解が追い付かなくて」

 

「いいの。私の方こそ説明のやり方が悪かったわ。けれど、貴方の言う通り、艤装と言うのは艦娘にとって身体の一部と言ってもいいかもしれないわね。そして、実際に金属の身体を持つ生物が存在するの」

 

 溜めを作るためか、ウォースパイトはそこで一旦言葉を切った。脇坂は小さく顎を沈めて傾聴の姿勢を示す。

 

「つい最近、数年前だけど、西インド洋の深海で調査中にScaly-footという巻貝が発見されたの。新種の生物よ」

 

 聞いたことのない話だったが、真っ先に脇坂の興味を引いたのは、インド洋で深海調査が行われていたという点だった。というのも、8年程前に日本軍が中心となった“国連軍合同統合任務部隊”が大規模な「西伐」を実行し、インド洋からあらかた深海棲艦を掃き出したことがあったのだが、その後もしばらくインド洋は危険地帯と認識されていて、ここでの深海棲艦の撲滅宣言が出されたのは、確か一昨年のことだったはずだ。ウォースパイトの言い方からすれば、貝が見付かったのはもっと以前のことのようにも聞こえるのだが。

 

「深海棲艦の生息地捜索の途中で、この貝が見付かったのよ」

 

 まるで脇坂の心を読んだように英国艦隊の旗艦が答えた。彼女のこの頭の回転の速さは希有なものだ。

 

「Scaly-footは、深海の熱水噴出口周辺に生息しているわ。驚くべきことに、この生物はそこで得られる硫化鉄を体内に取り込んで鎧として利用している。三層に分けられる貝殻の外側の層と、足の部分にね。Scale――つまり『鱗』とは、硫化鉄の鱗を持っていることに由来するの」

「そいつらはどうやって鉄を利用してるんだ?」

「まだ、詳しいことまでは分かっていないわ。何しろ新しく見付かったばかりの生き物だから。ただ、この貝の発見は深海棲艦の生態解明に近付く手掛かりとなりそうだわ。何故なら、深海棲艦も同様のことが可能だと考えられるから」

 

 そこまで言われれば、脇坂の回転の遅い頭でも理解が追い付き始めた。

 深海棲艦が金属の身体を持つ生命体ではないかと言われているのは事実だ。実際に、連中は艤装を自分の身体の一部のように扱っているのだと、現場の艦娘たちは口を揃える。

 そして、一部ではそうした深海棲艦の特徴は艦娘も持っていると指摘されており、ここが両者の共通点と認識されていた。「沈んだ艦娘が深海棲艦に変貌する」などというナンセンスな噂が囁かれたりするのも、火のないところに煙は立たないということなのだろう。

 

 ウォースパイトはそれまでモニターの向こうの脇坂から視線を外し、部屋のどこかに向ける。そこに何かを発見したのではなく、誰しもが考えを巡らす時、あるいは遠くの事物に思いを馳せる時にそうするような遠い目である。小さく揺り椅子を動かし、うわ言のように「私たちは深海棲艦と同じ」と呟いた。

 彼女はそれまでひじ掛けに緩やかに乗せていた両手をももの上で組むと、今度はそこに目を落とし、先程までの明瞭な口調とは打って変わって、濡れぼそったような声で続きを口にした。

 

「本質的に、私たちはあの化け物と似通っているのかもしれない」

 

 小さな声は、タブレット端末越しではとても聞き辛く、そのため脇坂の上体は自然と前へ出た。かすかに、彼女の湿っぽく艶めかしい吐息の音が聞こえる。

 ウォースパイトは徐に顔を上げ、端末の向こうの脇坂と目を合わせ、

 

「案外、真実なんてこんなものかもしれない。知れば知るほど、いい思いをしなくなることだってあるわ」

 

 そして彼女らしからぬ頼りなさげな笑みを浮かべるのだった。

 敵は、謎のエイリアンではない。いや、そうでは“なくなった”と言うべきか。

 艦娘の謎が徐々に紐解かれていった時、そこに宿敵との共通点を見付けてしまった。彼女たちがたった一度の大事な人生を捧げて戦っている未曽有の敵と、不思議の力を得た自分たちがどこかで繋がっていたと知った時、それがその艦娘にどれ程の衝撃を与え得るのだろうか。それは、栄光の王立海軍最高の艦娘をして落胆せしめる衝撃だったのだろうか。

 噂は所詮噂である。「証明されていない」と言える逃げ道があった。

 しかし、真実が暴かれてしまったのなら。その真実が噂と合致するものであったのなら。受け入れがたい事実が彼女たちの目の前に横たわることになるのだ。

 その意味では、科学を持って何でもかんでも暴き回るのは、果たして賢明な行為であるのかと思わなくもない。時には知らない方がいいこともある。不思議は不思議のままにしておいた方がいいこともある。

 

 

「そう、しみったれるなよ」

 

 気の利いた言葉なんて咄嗟に出て来たりするほど頭が回るタイプではない脇坂だが、目の前に落ち込んでいる人が居れば慰めの言葉を掛けるくらいの人情は持ち合わせている。

 

「あんたたちの作った物はとんでもない代物さ。それの対価に真実を得たのだとしても、十分お釣りが来るんじゃないか」

「そうね。その通りよ。『シミッタレル』なんてしていられないわ」

「……無理に、そういう品のない言葉を真似る必要なないんだぜ」

「仕方がないわ。私の古い友人はよく口汚く罵ることがあったから、その悪い癖が移ってしまったのかもしれない」

 

 麗しの大戦艦は小首を傾げながら淑やかな笑みを浮かべた。もう、すっかり「戦う姫君」に戻ったようだ。透き通るような容姿や、気品ある振る舞いについつい忘れがちになるが、彼女は最前線で幾度となく深海棲艦と殺し合いを演じてきた歴戦の兵士なのである。

 

 

 

「さて、話の続きをしましょう」

 

 わずかに尻を浮かせて椅子に座り直したウォースパイトは、リラックスしたように足を組んだ。

 

「ここからが本題。私たちの要求はセンダイから聞いたでしょう? その対価に私たちが差し出せる物がERM。つまり、もう分かると思うけれど、貴方たちの会社だけにERMの販売を委託するわ」

「思い切ったことをしてくれるんだな」

「そう不条理なことでもないわ。実際に『コニシヨーコー』には修復材の取り扱い実績がある。ERMの存在を嗅ぎ付けた他の日本の商社が水面下で動き始めているわ。でも、私は彼らにERMを任せるつもりはない。その役割には『コニシヨーコー』がふさわしいと考えている」

「聞くところが聞けば、大騒ぎになる問題発言だぜ」

「構わないわ。どうせ誰も聞いていないもの」

 

 ウォースパイトは不敵だった。これで、「ネルソン以来の英雄」だの「ブーティカの再来」だのと持ち上げられているのだから聞いて呆れる。

 ただ、呆れ返るにはまだ早い。彼女の話がこれで終わりではないことは、最初に川内が要求二つに対して対価も二つあると言ったことをしっかり覚えている脇坂には分かっていた。そもそも、川内(とウォースパイト)側の要求は、脇坂の会社や仕事とは関係のない、怪しい酒の密売と販売ルートの開示である。

 だから、提示されるべき対価も脇坂個人を利するものでなければおかしい。確かに、ERMの独占販売権を獲ってきたと会社に報告すれば出世や昇給などの利益を得られるだろうが、あくまで間接的なものであるし、確実にそうなるとも言い切れない。

 

「それから二つ目の対価。今の貴方の借金をこちらで肩代わりするわ」

 

 故に、提示されるのは直接的で、個人的な利益。

 よりにもよってウォースパイトにそう言われてしまえば、脇坂としては頷くしかないのだった。借金がなくなれば脇坂に酒を密売する理由もなくなってしまうのだが、途中で話を降りさせてもらえる様子はない。断れない、逃げられない状況に追い込んで要求を飲ませるなんて、いかにも強欲なアングロ・サクソンらしいやり方だった。確かに脛に瑕があるのは脇坂だが、容赦なくそこを突いてくるところが残酷極まりない。しかも、最も性質が悪いのは、向こうが提示する利益は脇坂を乗り気にさせるには十分なくらい魅力的だったことだ。

 太い釣り針に刺さった餌に喰いつくのを自覚しながらも、脇坂は頷くしかなかった。

 

「分かった。やろう」

 

 言い知れぬ敗北感と、やっと借金から解放されるという安堵が同居した奇妙な気持ちになる。正直なところ、酒の密売はリスクが高過ぎてさっさと終わらせたかったのだ。すべてが露呈して何もかもを失ってしまう悪夢を見た経験だって、一度や二度ではない。

 川内とウォースパイトは怪しいワインの卸しを依頼したが、彼女たちは同時に卸し先の紹介と、脇坂が密売をしている理由である借金の肩代わりを申し出た。これが意味するところは、ある程度時間が経ったら彼女たちが脇坂に代わって酒を売りさばいていくということだ。

 地位と身分がしっかりしている彼女たちがどうしてこんな裏稼業に手を染めるのだとか、そんなことはどうでも良かった。理由など聞いてもどうせ教えてもらえないし、知っているより知らない方が良いような碌でもないものだろう。法に反する商売をしている以上、余計なことに首を突っ込んで藪から蛇を出すような真似をしない程度の賢明さと慎重さは不可欠なものだ。

 

「Thank you very much indeed Mr. Wakisaka. 全てを内密に行うこと、貴方についての情報をすべて機密情報として扱い、然る後にその全てを破棄することを約束するわ」

 

 ウォースパイトは、大英帝国の力と余裕を現すような落ち着いた微笑みを浮かべた。

 

「それでは、お元気で。See you!」

 

 彼女は徐に画面に向かって手を伸ばし、自分の目の前にあった機器を操作して通話を切った。川内もタブレットを持ち上げ、アプリを閉じる。

 

 

 

 

「ウォースパイトと知り合いだったとはな。イギリスに行ったことがあるのか?」

 

 淑女との通話が終わり、少しだけ余裕を取り戻した脇坂は、川内に話し掛けてみた。特に意図があったわけではない、単なる雑談である。

 

「つい最近ね」

「そうか。今はどこの所属なんだ?」

「それは秘密」

「お前は川内型一番艦の川内で合ってるよな」

 

 脇坂がそう尋ねると、タブレットをケースに仕舞っていた手を止め、彼女は肩をすくめた。

 

「そうだよ。ウォー様がばらしちゃった」

「ウォー様?」

「ウォースパイトさんのこと。見た目、『様』付けした方がいいような感じじゃん? オーラがあるって言うかさ」

 

 なるほど、と脇坂は頷く。確かに彼女が纏う気品ある雰囲気には、彼女を丁重に扱わなければならないという義務感を呼び起こす作用がある。この飄々とした艦娘をして、そう言わしめるのだから、まったくウォースパイトという女は脇坂らとは生まれからして違うのだろう。実は彼女が王家筋の生まれだという噂を、イギリスに居たころに幾度か耳にしたことがある。

 会話している内にタブレットを元の通り紙袋に仕舞った川内は、それからソファにもたれ込んで一息吐き出した。仕事を終えてリラックスしたのか、ふと思い立ったように小さく身体を跳ねさせて身を乗り出すと、テーブルに置かれたままになっていたワインを手に取る。

 

「どう? 一杯やる? 美味しいよ」

 

 悪だくみを考えていそうな無邪気な笑みを浮かべながら問い掛ける艦娘に、脇坂は眉間に皺を寄せ頭を振ってみせた。

 

「俺は車で来たんだ。この国じゃ飲酒運転は即投獄だ」

「そうなの。日本より厳しいじゃん」

「忘れんなよ。ここはイスラム圏内だぜ」

「ああそっか。そうだったね」

「というか、お前は酒を飲んでいいのか?」

 

 特に深く考えずに口を突いて出た問い。それに対し、川内はこの部屋に入って来て初めて不機嫌そうな顔をした。

 少しだけムッとしたようにふくれて、低い声で抗議する。

 

「馬鹿にしないでよ。艦娘って見た目変わらないだけ。私はこれでも今年で28なの」

「へえ。意外と歳食ってるんだな」

「失礼な! あんまりそういうこと言ってるとモテないよ?」

「今更この歳で女にモテたいとは思わんよ」

「脇坂さん、いくつ?」

「この間四十になった」

「うわ、おじさんじゃん」

「あと十年もすればお前も『おばさん』呼ばわりされることになるからな」

「あと十年って、私まだ三十代だよ」

「四捨五入で四十だろうが。もう立派な『おばさん』だよ」

「うーん。歳は取りたくないなあ」

 

 艦娘は腕組みをして首を傾げる。

 彼女たちの見た目が変わらないのは有名な話だが、中身があまり成熟していないように見えるのは川内個人の問題だろうか。彼女のこの飄々とした、ややもすれば軽薄に見られるような振る舞いは、元々の性格に起因するのであろうが、しかしお道化た態度で本音を透かさないのはそれなりの場数を踏んできて身に着けたスキルなのかもしれない。

 

「お前は今一つ信用出来ないからな。その酒の中に何が入ってるかも分からんし。悪いが持って帰ってくれ」

「えー。せっかく持って来たのに? ホントにただのワインだよ。売り物にするんだしさ。ヤバい物は入れないって」

 

 しょうがないなあ、と文句を垂れながらも、川内は割合あっさりとワインも紙袋に戻した。下手をしたら得体の知れない酒を押し付けられるかもしれないと危惧したのだが、どうやら杞憂だったようだ。

 

「まあ、私が信用出来ないって言うのは当然かもしれないけど。ただ、もうドバイには来ないから。もし次に会うとしても、それは日本で、だよ」

「じゃあ、今後のことはどうするんだ?」

「ウォー様が派遣する代理人が来るんで、全部その人にやってもらいます」

 

 川内は立ち上がってアバヤを被り、紙袋を持ち上げて来た時と同じ格好に戻る。

 

「私はここに長居しちゃ駄目なんだ。会っていいのも脇坂さんだけ」

 

 その言い方に脇坂はふと違和感を覚えた。彼女は誰かの指示でここにやって来た。代理人を派遣したり、SNSアプリで通話して直接説得したりと、どうやら裏ではウォースパイトが仕切っているようだが、それならば何故ここに来たのが川内なのかが分からない。イギリスの艦娘の指示で日本の艦娘が動いているというのはとても腑に落ちない話である。共に、それぞれの国の税金で給与が支払われる公人なのであって、どちらかがどちらかの隷下に入るのは余程特殊な場合でしか考えられない。

 そもそも、ウォースパイトの交友関係もある程度知っている脇坂には、彼女の代理人になり得る人物を幾人か思い浮かべることが出来る。彼らはいずれもウォースパイトが厚い信頼を置く側近たちであり、ドバイでの酒の密売の話にこの女傑が主体的に関わっているのなら、あまり縁のなさそうな川内ではなく、その側近たちの内の誰かを寄越すはずだろう。わざわざ後から代理人として送り込むのは二度手間である。

 故に、川内はウォースパイトの代理人ではなく、彼女を派遣したのは別の誰か。それも、日本海軍の中の誰かであろう。

 

 

 

「ここは、イスラム教の国なんだよね」

 

 帰り支度を終えた川内だったが、部屋を出ようとしたところで足を止め、見送りに立ち上がった脇坂に背を向けたまま、不意にそんなことを言い出した。

 

「つまり、神様の見ている土地って言えるかもしれない」

「そうかもしれんな」

 

 話を合わせて相槌を打つ。彼女の言いたいことが見えてこない。

 

「だから、ここには長居出来ないんだよ。天罰が下るかもしれないから。何しろ、私は悪魔の手先だからね」

「何だそりゃ? どういう意味だよ」

「そのまんまの意味よ。ああ、それとさ」

 

 川内は少しだけ後ろを振り返った。といっても、顔は身体の真横より後ろに回っていない。アバヤのフードと、薄暗い電灯が作る陰影に紛れて、彼女の表情は窺い知れない。

 

 

 

「『八雲紫』って名前に気を付けて。その名前を耳にしたら、すぐに隠れてね。約束だよ」

 

 

 

 そう言うと、川内は止めていた足を前に出し、玄関へと進み出す。

 

「誰なんだ、そいつは」

 

 意味が分からず脇坂が呼び止めても、川内は止まらなかった。そのまま玄関扉を開けて、「じゃあね」と小さく手を振って外に出て行ってしまった。

 後に残されたのは、最後の言葉の意味が分からず立ち尽くす部屋の主だけであり、さっきまで川内がそこに居たという気配は驚くほど綺麗に消えてしまっていた。

 彼女が何故、去り際にあのような意味深なことを口にしたのかは分からない。何かの警告のようだが、少なくとも脇坂の記憶の中には「八雲紫」なる人物の名前は存在しなかった。

 競合他社の社員だろうか。ウォースパイトの話から、どうやらERMを大手商社も狙っているらしい。しかし、もしそうならば「すぐに隠れてね」とはならないだろう。

 ならば、警察や諜報機関の捜査員か。少なくとも公には出来ないことをしているのだから、それならば雲隠れしろと言うのも理解出来る。だが、本当にそうなのだろうか。

 

 結局、川内の残した言葉の意味が分からず、脇坂は家に帰るのも忘れて一晩その部屋で答えの出ない問答を繰り返すことになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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