レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督36 “One good turn deserves another”

 

 

「この国の言葉で言えば、『情は人のためにならず』。親切は親切をもたらす」

 

 

 広がる雄大な景色を眺めながら彼女は語り掛ける。

 外は薄雲が掛かるだけの晴れ渡った青空で、緑色の丘陵の至る所に白い風車が立ち並び、海から吹きつける風に羽根をゆったりと回していた。この国ならどこにでもあるはずの、空を不規則に縁取る山岳は見えず、なだらかな地平線とも水平線とも言える景色が視界の果てまで続いているだけ。少し埃が多いのか、空は霞み、陽光を乱反射して白ずんでいるのが珠に瑕だが、それを差し引いても十分に爽やかな光景だ。外には平和で雄大な世界が広がっていて、少し強い風が室内に吹き込んで来ては彼女の髪に悪戯をして逃げていく。その度に彼女は乱れた髪をかき上げた。

 

 そう。“外から直接”風が吹き込んで来る。遮るものは何もない。外に面した部屋の壁は一部を残して消え去り、そこには巨大な穴が空いているだけだ。風はそこから室内に入り込んでいた。

 

 盛んに風力発電が行われるくらいだからこの土地にはよく強風が吹き付けるのであろうし、事実風車を回す風が木々を揺さぶる音がよく聞こえている。だがそれ以上に、その病室の中はやかましい機械音で埋め尽くされていた。

 一本また一本とコードやチューブが抜き取られる度に機械がけたたましく警報を鳴り響かせる。だが、彼女は不愉快なアラームにはまったく構う素振りを見せず、後ろ手を組みながら自然と人工の織り交ざった景色へ話し続けていた。

 

「良い言葉よね。私たちは誰もが孤独に生きているわけではない。助け合い、支え合い、互いを慮って犠牲を払い、見返りを得て良好な関係を維持しながら集団の一員として生きている。自分一人が強くとも、自分だけが受益しても、それでは人の輪に入れはしない。宴会に酒を持ち寄らない無粋者が爪弾きにされるように」

 

 返答は待たずに彼女はゆっくりと振り返り、外を眺めていた深紅の瞳を背後に横たわる人物へと向ける。

 

 

 

 清潔さを証明するような真っ白なシーツに覆われたベッドも、今はコンクリートの塵で汚れている。しかし、明らかにそうした物とは異なる黒い塊が静かに寝息を立てていた。外に広がる長閑な風景と白いベッドはこの部屋が療養所の一室であるかのように穏やかな空間を作り上げているが、その中心にて横たわるベッドの主の姿は水彩画に飛び散った油汚れのように浮き立っていた。あるいは、牧歌的なこの農村の中に点在する原子力施設のように、もっと有り体に言えば異物のように彼女はそこに眠る。

 

 元は人の姿をしていた。毎日海に出て日に焼けているはずなのに、紫外線からも守られて、彼女の肌は美肌というに相応しく白くきめ細やかだった。

 だがそれも今は見る影もない。全身の大凡八割ほどをグロテスクな黒い塊が覆い、下半身から上半身の左半分にかけて、もはや人の原形すら留めていない。そこに生体らしいパーツがあったことなど微塵も伺えないような、本来の彼女からはかけ離れた無機質な物体が張り付いている。ヘドロのような若干の光沢をもつ歪な黒い物質は、彼女の両脚の代わりにサメの顔面のようなフォルムを形作り、腹部には亀の甲羅のような固い装甲となって張り付いている。人の体に何かが貼り付いているいうより、不気味な物体に人の上半身が乗せられていると言うべき有様である。

 実際それらは彼女の肉体と一体化していて分離不可能だった。故に彼女は人の姿に戻されるのではなく、また戻す試みもなされず、そのまま無数のコードやチューブで機械に繋がれて「半深海棲艦」の生態サンプルとしてこの病室のような、あるいは実験室のような、狭い部屋の中に閉じ込められていた。

 

 娯楽も何もなく、ただ実験動物のように扱われ、身動きも取れず、薬で眠らされたまま覚醒する権利すら剥奪されている。もはや人としての尊厳など一切失ってしまったベッドの主へ憐みの表情を向け、女は一歩、二歩とベッドに歩み寄った。

 あるいは、本来もうすでに“故人”として公的記録にその名を刻まれてしまっているベッドの主を、まるで生者のごとく扱う方がおかしいのかもしれない。とはいえ女は異常を通常とし、通常を異常とする人智を超えた存在であったから、むしろこのような細かなことは意識の俎上にも上らないのかもしれなかった。

 

「けれど、自分を第一に据えてしまうのもまた人間であり、そこが人間の悲しい性よ。事態が逼迫していればいるほど、危急であればあるほど、人は保身を真っ先に考えてしまう。それでも他人のために立ち上がり、我が身を投げ打って行動する勇気を、私はとても尊敬している」

 

 鳴り響く機械音と、唸る風音の中にあっても、女の言葉は明瞭であった。

 

 語りのような、独白のような言葉を紡ぐ彼女は、人ではない。

 一見すれば、彼女は若く背の高いアングロ・サクソンの女に見えるだろう。腰まで届くウェーブのかかった青紫のロングヘア。小さく整った顔は冷汗がするほど美しく、胸から上が大きく開いたオフショルダーの深紅のドレスを膨らませる二つの果実は豊満に実り、人々を淫靡な香りで魅了してやまない。そして、まるでパーティでダンスを楽しむような服装だからこそ、唯一人ならざる者であることを示す一対の黒い翼も、大胆に露出した白磁のような背中から、今は優雅にその存在を主張している。

 背中からまっすぐ横に突き出た三角形の蝙蝠のような翼。彼女は人ではなく、悪魔であった。

 

 名を、レミリア・スカーレットという。

 

 

 

「あの時、貴女は私を助けた。

私は大きなしくじりを犯し、追い詰められていたの。司令室から脱出しても行く当てなど考えていなかったし、朝日が昇り行動範囲も大幅に狭められるようになって、逃げ場などありはしなかったわ。あの時貴女があそこにいて、美鈴の迎えを手配してくれていなければ本当に危なかった。

まだ、お礼も言っていなかったわね。

――助けてくれてありがとう。

深く感謝しているし、恩義も感じている。貴女のこの恩を必ず返さなければならないと決心している。

だから、今日ここに来たのよ」

 

 不意に高いアラーム音が鳴り響き、間もなくスイッチが切られてすべての機械の電源が落とされ、ふと部屋は静寂に包まれた。一瞬後、風が吹いて砂塵が舞い上がる。

 

「加賀」

 

 レミリアは名前を呼ぶ。

 

 それは、ベッドの主が本来持っていた名前。けれど、彼女がある戦場の海で敵の攻撃を受けて轟沈し、そのまま死亡判定となって過去のものとなった。以来、彼女は死んだ者として扱われ、同じ海から今のようなグロテスクな姿となって一応“救出”された後も、本来の名前ではなく「海軍検体405号」という無機質な記号で呼ばれている。

 記号に、彼女が持っていた人間性を現す意味はない。寡黙というより口下手で、控えめな性格をしていて決して自らの努力を他人に見せようとせず、そして何より深い慈愛の情を持っていた「加賀」という人格は否定され、ただ海軍が研究のために保管しているサンプル以上の意味を持たない記号でしかない。

 しかしそれは、彼女の素晴らしい人格を知っている者からすれば、いかに有益性のある研究のためと言えど彼女を物として扱われていることに怒りを覚えることであった。あの心優しい艦娘の、尊厳のすべてを踏みにじり、永遠に出られない牢獄の中で治療をするのでもなくただ機械に繋げてデータを取るだけなど、一体誰が許すのだろうか。

 

 故に、レミリアはこの場所にやって来た。

 

 

 青森県六ケ所村。

 核燃料再処理施設、石油備蓄施設、風力発電所。エネルギー産業の施設が立ち並ぶこの片田舎の農村に、海軍の秘密研究所はひっそりと建てられていた。

 風光明媚な平坦と瀟洒と言っていいほど無機質な施設の中に混ぜられたこの研究所は、外観だけ見れば病院のようであるし、実際病院としての機能も有している。表向きは、長らく続く深海棲艦との戦いで負傷し、長期的な治療を要する艦娘や軍人を療養するための病院であり、医師免許や看護師資格を持った人間が多く勤めている。だが、この病院の主要設備がコンパクトにまとまった北棟とは別に、そこから渡り廊下で繋がれている南棟こそ、秘密研究所の中枢部であった。

 南棟には艦娘や深海棲艦の専門家がデスクを構え、北棟とはまったく異なる間取りで小分けされ、ご丁寧に隙間なくブラインドされた部屋の中では捕獲された深海棲艦のサンプルが、様々な分類で仕分けられて保管されているのである。それらの中において加賀は特殊な位置にあり、すなわち「深海棲艦と艦娘の中間の存在」として、両者の関係性を解き明かすため――このような大儀な目的の下――三階の一室、病室のようにこしらえられた部屋に閉じ込められていた。

 彼女はあらゆる種類の計測機器や人工臓器の類の機械に繋がれ、強制的に生命活動を保たれながら、脈拍からアルファ波の微細な変化まで、一切合切をデータ化させられている。それこそが研究の手法であり、ここで採られたデータは必ず今後の人類に役立つであろう。

 だがしかし。そんなことは人でなしの悪魔にはまったく関係もなければ、微塵の興味も起こさない事柄である。それならまだ聖書の中の退屈なイエス・キリストの説法の方が面白げあるというもの。

 

 そう。目的は――、

 

 

 

「助けてあげるわ」

 

 

 

 ところで、悪魔は一人ではなかった。レミリアの部下であり、長い赤髪を一纏めにしたダークスーツの女が加賀を縛っていた機械のスイッチを切り、ベッドに横たわったまま昏睡する彼女を抱え上げる。

 

 レミリアはベッドの脇から部屋の出口へ向かう。後には加賀を背負った部下の女が続いた。

 シーツと同じく白い病室のような監獄の扉を開ける。扉は二重構造で内側は鉄格子になっていたが、今は巨大な力で無理矢理開けられたかのように鉄格子はO字型にひしゃげ、開きっ放しになっていた。装甲の張られた重い外側の扉は取っ手こそ付いているが機械認証式の自動ドアで、素手で開けるには大の男が四人で全体重をかけて押さなければびくともしない代物である。ドアは壊れて既に電気など通じていなかったが、レミリアが取っ手を掴んでスライドさせると何の抵抗もなくするりと動いた。

 本来は危険な敵である深海棲艦を、場合によってはそのまま保管することもある施設の性格上、外側はもちろんのこと、内側からの脅威にも対処出来るように極めて厳重な警備態勢が敷かれていた。警備兵は選りすぐりであり、世界トップクラスの訓練で鍛え上げられた精鋭たちが蟻の一匹すら通さんとばかりに施設を守っている。この秘密研究所の敷地のすぐ裏手には海軍陸戦隊の演習場もある上、施設自体も北棟とは違って要塞化されており、多重のセキュリティシステムに加えて特に危険な個体を保管する部屋には二重扉が必ず設置されていた。

 しかし、並大抵の厳重さではないこの施設も、人外相手には無力だったようだ。

 

 部屋の外、研究所の内部はまるで爆弾テロの後のように荒れ果てている。病院のように真っ白だった廊下は燻る炎によって黒く焦げ、天井のLED照明は無残に割れて破片が床に落ちて広がっていた。加賀の病室の斜向かいにあった部屋のドアは吹き飛んで姿を消し、代わりに出入口に迷彩服を身に着けた両脚が力なく投げ出されている。

 見る影もなくなった施設の中を、レミリアは加賀を背負った部下を引き連れて悠然と歩く。もはや元が何だったかも分からない破片が飛び散る廊下の隅、申し訳程度に置かれた観葉植物の影に隠れている白衣の研究員が小さく悲鳴を上げるが、優雅で妖艶な悪魔はまったく無視した。せいぜい、黒縁メガネが神経質そうな細い輪郭に似合っていないなと思ったくらいだ。

 散乱する瓦礫やガラス片を踏み砕き彼女はエレベーターホールまでやって来ると、何事もないようにボタンを押す。待っていたとばかりにエレベーターが開き、生死も不明な兵士の転がる箱の中に乗り込んだ。

 レミリアは超然としていた。施設が破壊され、抵抗した海軍陸戦隊の兵士がそこかしこに無様に倒れているのは、すべて彼女の仕業だ。

 

 

 つい二十分ほど前に施設の玄関先に車で乗り付けた悪魔は、まずエントランス一帯を破壊し尽くし、隣りの演習場から装甲車に乗って駆け付けて来た陸戦隊の兵士たちを瞬く間に制圧すると、装甲車を受付カウンターに投げつけてその威力を見せつけた。そして、それから次から次へと襲い掛かって来た兵士を、一人の例外もなく粉砕した。完全武装の兵士が強固な防御態勢を敷いていた研究施設は、それが人間のテロリストなら、どんな襲撃者に対しても容易には陥落しなかっただろう。だが、相手は生きた伝承であり、人智を超える本物の化け物。鍛え抜かれた屈強な人間たちはわずか数分の内にすべて無力化され手足を床に投げ出す羽目になった。

 戦闘というのもおこがましい。一方的な蹂躙の果て、レミリアは海軍の最深部に捕らわれていた哀れなお姫様を救い出すことに成功したが、彼女にとっては寝て起きるよりも簡単なことだった。

 

 優雅な悪魔がゆっくりとした動作で懐からサングラスを取り出し、それを掛けたところでエレベーターが一階に到着してドアが開く。そこはエントランスホールだ。まだ残っている硝煙の臭いが鼻を刺す。エントランスではもぎ取られた装甲車のノーズ部分が受付カウンターにのめり込むようしてに転がっていた。

 

 この建物は意外にも来訪者に親切な設計だったのか、一階のエレベーターはエントランスのすぐ傍にあった。さらにエレベーターの隣には待合用のベンチが転がっており、そこに一人の兵士が体を預けていた。もっとも、そのベンチは元々エレベーターとは反対側の壁際に設置されていた物で、やって来た時の一騒動の際にレミリアが兵士諸共移動させたはずだった。

 彼にはまだ意識があった。そして根性もあった。レミリアがエレベーターから降りたのを見ると、彼はなけなしの気力を振り絞って離さずにいたサブマシンガンをもたげる。

 さすがに鍛え抜かれた精鋭兵だ。この期に及んで闘志尽きないその精神力に純粋な賞賛の意味を込めて口笛を鳴らす。だが、だからと言って銃撃を許すような懐の甘さは持ち合わせていないレミリアは、人間の認識出来ない速度で兵士に詰め寄るとその手からサブマシンガンを奪い取った。そして彼、ではなく彼が体を預けているベンチの背もたれに銃口を向けると引き金を引いた。

 やかましい銃撃音が鳴り響き、背もたれに無数の穴が開いて小さな火花が飛び散る。弾を撃ち尽くすと悪魔は銃を脇に投げ捨てて震える兵士ににっこりと魅惑的な笑みを残し、踵を返した。彼はそのまま情けない呻き声をあげ、ついに気力が尽きたのか意識を失う。悪魔の笑みはただの感情表現ではなく、人間を心底恐怖させるもの。屈強でタフな兵士と言えど、弱った状態でまともに向けられては意識を保つのも難しいだろう。

 

 レミリアは無言のままエントランスを出る。

 目の前にはさっき乗って来たばかりのポルシェがよく躾けられたコリー犬のように大人しく待っていた。部下の美鈴がどこからか引っ張って来たレミリア好みの赤色。このせせこましい道路事情の国で、アクセルを踏み込むのは狂気の沙汰にしか思えないようなパワーを持った車。それもまたレミリアの好みに合っていた。自殺寸前まで加速するなんて、実に刺激的だ。

 けれど、残念なことに彼我の間には直射日光が降り注ぎ、吸血鬼という種族のレミリアにとってこの世とあの世を隔てるステュクスの川のごとく、光の境界線として横たわっていた。悪魔は一旦玄関の庇が作る影の際で立ち止まり、天からの光に目を細める。反射光と言えど、そしてサングラス越しと言えど、日光は悪魔にとってとても有害なもの。しかし、紅魔は普通の悪魔よりも遥かに力の強い存在であったから、きちんと遮光すれば何も恐れることはない。ふと自身の左側、庇の柱に立て掛けられていた小洒落たレース付きの花柄の日傘を手に取ると、慣れた手付きで傘を差して日向に足を進めた。

 

 入口の周りも酷い有様で、隣接する訓練所から応援の兵士が乗って来た装甲車は後部座席より後ろの半分だけになって燃え盛り、運転席部分は視界の中にすらない。悪魔相手には何の役にも立たなかった銃と薬莢と人間が散乱する中、二人は買い物帰りのように自らの車に戻って来た。

 遠くから、甲高いサイレンの音が近付いて来る。通報を受けた地元の警察が大急ぎで駆け付けて来たのだろう。だがそれまでにはマシンを発進させられそうだった。

 

「あの子たちは脱出したかしら?」

 

 日傘を差し、降り注ぐ日光の中を悠然と歩きながらサングラスの悪魔は後に続く手下に問う。

 

「“時間の心配はない”ですからね。もうとっくに目的を果たして今頃はランデブーポイントに向かっていることでしょう」

 

 その返答に悪魔は満足げに頷くと、両手の塞がっている美鈴のため、愛車の後部ドアを開けた。美鈴は軽く頭を垂れると、未だ目を覚まさない加賀を丁重に座席に座らせる。その間にレミリアは助手席に身を潜り込ませ、間もなく運転席に座った部下に厳かに顎を沈めて合図を送った。すべては滞りなく、悪魔とその手下はまんまとお姫様を救い出した。あるいは攫ったとも言えるのか。

 

「ご安全に! まだ夢の中よ」

 

 レミリアはルームミラーに映る加賀の寝顔を見ながら言った。幸いにして、彼女の端正な顔には醜い侵食は至っていないようで、首から上だけを見れば眠り姫だ。

 

「保障は出来ませんね」

 

 ハンドルを握った美鈴は悪戯っぽい笑みを浮かべて答える。車は軽いスキール音を響かせて青空の下を走り出した。

 

 

 

 

 

 


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