レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督37 Investigation

 

 

 青森駅に隣接して建てられた商業施設「ラビナ」の二階フロアの一角、外資系の大手コーヒーチェーン店の中で、黒いパンツスーツと淡い青色のブラウスを着こなした若い女がスマートフォンをいじりながら手持ち無沙汰にしていた。

 ブラウスの色より少しだけ緑の混じった長い髪を後頭部で結い上げて白いうなじを露わにし、瞼に掛かる前髪を右から左に流して左耳に引っ掛けている。その左耳の耳たぶからは小さなイアリングが下げられていて、同じ物が右耳にも付いていた。女は自分の手の平より画面の面積が広いと思われるスマートフォンを両手に持って、胸元で抱え込むように操作している。彼女の前のテーブルにはストローが挿しっぱなしのプラカップが一つ置かれ、中には今月新発売だという長ったらしい名前のカラフルな色のジュースが三分の一ほど残されていた。

 女の座る椅子の足元には彼女の物と思われるベージュのショルダーバッグが置かれていて、一見すれば就職活動中の女子大生か今年入社したばかりの新人OLのように見える。だが女の正体がそのどちらでもないことを、息を切らしながらコーヒー店に踏み込んだ海軍中佐、村井大輝は知っていた。

 

 初めて訪れた青森駅。その構内にある別のコーヒーチェーン店で待っていても一向に待ち人の姿が現れないので確認の連絡を入れたところ、駅の真横にある商業施設に入居する方のコーヒー店だったというのを知って、慌てて走って来たのだ。彼女はその返答をしたと思われるスマートフォンを何やら熱心にいじったまま、入店した村井に気付く様子はない。

 

「すまん。遅れた」

 

 息を整えた村井は注文もせずにすたすたと女の元にやって来ると、顔を上げる気配のない彼女に声を掛けた。

 それでようやく気付いたのか、女が億劫そうに村井を見上げる。少女らしい、まだあどけなさを残す小顔に、ぱっちりとした大きな目と気の強さを表すように尖った鼻、艶やかなリップの塗られた唇がはめ込まれている。彼女と道ですれ違う男なら誰もが一度はその顔を確認するであろう美女だ。

 その顔立ちといい、恰好といい、どこからどう見ても女は大学生か新社会人だが、村井の姿を認めた彼女は次にそうした“一般人”には縁のない動作をしてみせた。

 

「あ、お疲れ様です」

 

 どこか弛緩したような声で挨拶しながら、彼女は立ち上がってお辞儀をする。今の彼女は帽子を被っていないので、礼儀作法としてはこれで良い。挙手注目の礼は着帽時にするものと定められているからだ。

 

「ここじゃ何ですから、外に出ましょうか」

 

 女はそう言って飲みかけのジュースを飲み干し、てきぱきとした動作で返却口に氷だけになったプラカップを置くと、先に外に出た村井の元に早足で戻って来た。それから二人は連れ立って商業施設の中を歩き出す。

 

「青森駅に来るのは初めてで迷ってしまったんだ。駅の方の店にしてくれれば良かったのに」

「いやあ、最初そのつもりだったんですけどねぇ。あっちは席が空いてなくて、仕方なしにこっちに来たんですよ」

 

 村井が軽く非難混じりに言うと、女も軽い調子で釈明した。互いに相手のことをよく程度知っている間柄であるから、余計な雑談もなく会話への入り方もスムーズだ。

 そのまま二人は他愛もない雑談をしながら商業施設を出て、村井が乗って来た車を停めたというコインパーキングにやって来る。

 

「何で大湊に行かなかったんだ?」

「予定が合わなくって。始発の新幹線で青森まで来たんですよ」

 

 小銭分だけの駐車料金を支払った村井は運転席に、女は助手席に乗り込んだ。車はネイビーブルーのハッチバックタイプの乗用車である。スーツ姿の女と、同じくグレーのスーツをまとった村井が乗ると、どこかの会社の営業車に見えないこともない。

 

「じゃあ、早速向かうけど、いいか?」

「はーい!」

 

 女が元気よく返事をすると、村井は車を発進させる。

 

「速報の資料は今朝メールで来ていただろ? 見たか?」

「見ましたよ。来る途中、新幹線の中で」

「あれからまだ新しい情報などは入って来ていない。ま、目で見て確かめるしかないってことだ」

「あ、そっすか」

 

 女は気のない返事をすると、コンソールボックスと助手席の間に挟まれている角型2号の茶封筒に目を付けた。彼女は村井の許可無くそれに手を伸ばすと、気付いた村井は「資料にあった写真だよ」と言った。

 

「見ていいですか?」

「ああ」

 

 村井が生返事をした時には、形ばかりの伺いを立てた女はすでに茶封筒を開いている。中には村井の言葉通り、クリアファイルに挟まれた数枚の現場写真があり、女にはもう見覚えのある物であるらしかった。

 写真に写っているのは酷く破壊された建物の内部で、崩れ落ちた天井や黒焦げになった内壁、外れて床に倒れた扉など散々な有様である。とりわけ、エントランスの受付カウンターにのめり込んでいる車両の一部を写した写真は、この事件を象徴するようなショッキングなものだ。最初、新幹線の中で添付ファイルの画像を開いてこの写真を見た時、女がまず抱いた感想が「爆弾テロの後みたい」というものだったそうだが、それも当然と言えよう。

 

「犠牲者は出なかったんですよね」

「奇跡的にな。重傷者でも、精々手足の骨折程度らしい」

「殺す必要もないほど、圧倒的な実力差があったってことですねぇ」

 

 女のその言葉に、村井は何も返さなかった。ちょうど、脇道から原付バイクが飛び出して来て、慌ててブレーキを踏んだからだ。「おぉう」と女は声を漏らし、ブレーキを踏んだせいで目の前の信号がタイミング悪く赤に変わったことに村井は顔をしかめる。原付バイクは何事もなかったかのようにそのまま走り去って行った。

 村井はハンドルを軽く指で叩きながら、返事の代わりに問い掛けた。

 

「どう思う? 何者の仕業だ?」

「こーいうのはお門違いなんですけどぉ」

「そうとも言い切れないだろ。君の追っている艦娘も容疑者には挙がっているんだ」

「うーん。それは現場を見てからじゃないとねぇ。警察、まだ居たら嫌だなあ」

「鑑識くらいは居るんじゃないか? まあ、その辺りの調整は大湊と県警の間で済んでるだろう」

「そーですねー」

 

 間延びした声。女はどこか上の空だ。封筒から出した写真をまた封筒に仕舞い、ダッシュボードの上に放り投げる。

 車は信号だらけで混雑する市街地を抜け、郊外を走る幹線道路まで出た。スピードに乗り、快適に走れるようになって少しばかり機嫌を直した村井は、つまらなそうに窓の外を見ている浅葱色の後頭部に再び話し掛けた。

 

「ところで、何で制服じゃないんだ?」

 

 と、尋ねると、女は振り向いて清楚な髪型に似合わない怪しい笑みを浮かべる。

 

「制服だったら、どー見ても援交でしたよ?」

「……そうか」

 

 村井は頷かざるを得なかった。

 確かに彼女の言う通りだ。スーツ姿のこの女の正体は艦娘であり、彼女の艦型の制服は一見すると女子高校生のそれにも見える。見た目も年齢も彼女より二回りは上に見える村井が並んで歩いていると、“そういう風”に思われても仕方がないかもしれない。彼女がスーツならばまだ新入社員と上司という見方も出来るから、なるほど彼女なりの気遣いだったというわけだ。

 

「っていうのは建前で、ホントは制服着てたら艦娘だって分かって目立つから嫌だったんです」

 

 一人納得しかけた村井は思わず鼻で笑った。相変わらずの人を小馬鹿にしたような態度といい、言い草といい、村井には笑うことしか出来ない。

 彼女はこれで上意下達が徹底される組織の中で上手いこと生き抜いてきているのだ。要領がいいのか、こういうキャラクター性が受け入れられている。何より、その戦闘センスはずば抜けており、それ故に実戦経験も豊富、伴って練度も艦娘の中では確実にトップ10に食い込むくらい高い。何だかんだ言って今の海軍は実力主義の色が強い組織であり、“強い奴”ならばある程度の横柄さや不躾が許されてしまう空気がある。それが艦娘なら尚の事。

 

 彼女はほぼ艦種が一緒の重巡洋艦娘の他の艦娘たちと比べても、戦果は頭一つ以上は余裕で飛び出している。常に戦闘態勢を強いられている現在の軍は、否応なしに実力主義的側面を年々濃くしているが、彼女はそうした組織の変化に巧く乗じて今の地位と役職を獲得した者だ。その実力をもってすれば、今の職責は十分果たせるであろうし、異論を唱えるような者もいない。

 言ってしまえば、彼女はその戦果と実力故、ある程度奔放に振る舞ったところで咎められはしないのだ。見てくれはともかくとして、実年齢で言えば女は村井より二回り離れているくらいだろうから、彼女の奔放さを「若さ故」と言うことも出来るだろう。

 

 しかし、何度も仕事で顔を合わせる内にそう単純なことでもないと気付いた。元より艦娘というのは誰もがややこしい事情を抱えていたりするものだが、彼女の場合殊更厄介なバックグラウンドを抱えており、深入りすればドブにはまって抜け出せなくなりそうな気配がする。だから、村井は軽薄な彼女の態度にはあえて口を挟まないようにしていた。

 それが彼女――最上型三番艦「鈴谷」との付き合い方である。

 

 

 

****

 

 

 

 

 事件が起こったのは昨日の朝。ちょうど九時を過ぎた頃合いだった。

 事件現場となった青森県六ケ所村の海軍病院。朝一の慌ただしさがひと段落した時間帯。南北に別れた二棟の建物の内、南棟の玄関先に唐突に赤いスポーツカーが停車した。南棟の入り口には民間警備員に扮した海軍陸戦隊所属の兵士が立っていたのだが、車は彼の目の前に堂々と乗り付けたらしい。

 もっともその警備兵は初め、車は入院患者の見舞いに来た客の物だと思ったようだ。北棟は傷痍軍人の入院している本当の意味での病院であるから、しばしば見舞客が間違えて南棟の方にやって来てしまうことがある。南棟は許可証がなければ入れないので、警備兵の役割には勘違いした見舞客を北棟に向かわせることも含まれていた。

 だから、その時も彼はスポーツカーの主が北棟と間違えてやって来たのだと思った。しかも、その認識はすぐには改められなかった。というのも、車には二人が乗っていたのだが、その内運転席に座っていた女が降りてきて愛想良く尋ねてきたのだ。「すみません、車はどこに停めればよろしいですか?」と。

 その様子に怪しいところはなかった。あえて言うなら、助手席に座っていた外国人と思われる別の女の雰囲気は妙なものだったようだ。けれど、警備兵は特に気にすることなくいつも通りに出て来た女に笑顔で応対した。丁寧に北棟のことを教えると女は大業に礼を述べた。非常に腰の低いその振る舞いに気を良くした警備兵は自然と警戒を解いてしまい、女がさり気なく距離を詰めてきたことに気付いた時にはすでにそのリーチの中に捉えられてしまっていた。以後この警備兵の記憶は途絶え、後に破壊された施設の玄関先で寝転がっているところを救助され、次に目が覚めたのは収容先の病院でのことだった。

 

 ところで、異変が起こったことを別の兵士が目撃していた。南棟の玄関先にある監視カメラは、建物の中にある警備隊の詰め所で管理されていて、当直だった兵士が一部始終を目の当たりにしたのである。彼は直ちに敷地に隣接する演習場内の自隊に応援要請を行い、同時に建物内のサイレンを鳴らした。

 けたたましく鳴ったベルの音は端的に異常事態の発生を告げる。病院に勤めている職員たちは慌てて避難を開始し、代わって警備兵たちが玄関に向かう。そこで、大きな音が鳴り響いた。エントランスの庇が豪快に破壊された音だった。

 そこからは一方的な暴虐と蹂躙の開始である。訓練が厳しいことで有名な陸戦隊の兵士たちが隣接する演習場から軽装甲機動車に乗ってやって来た後、たった五分もしない時間であった。海外で言えば海兵隊に該当する精鋭たちの一個小隊が、信じられないことにたった二人の女によってそれ程の短時間で無力化されてしまったのである。

 カメラは早々に破壊されてしまったので映像記録はほとんど残っておらず、目撃者からの証言を取りまとめることでしか当時の状況を知る術はないが、一聞しただけでは耳を疑って終わるような荒唐無稽な話であるのは間違いない。何かのコメディのように人間が宙を舞い、鋼鉄の塊であるはずの軽装甲機動車が小枝のように真っ二つにへし折られる。「戦車を持って来てもあの二人は止められなかっただろう」とは、気絶させられた兵士が思わずといった様子で零した言葉である。

 

 物的被害は甚大だった。前述の軽装甲機動車を含め、警備隊の装備はことごとくスクラップにされたし、戦闘の余波を受けて施設の建物も著しく破壊された。当分の間は立ち入りさえ禁じられる程度に、である。

 ただし、不思議なことに人的被害は物的被害に対して過小で、まず死者が居ない。負傷者の数は両手の指で数え切れないくらいなのだが、それですら命に関わる程の大怪我を負った者は居ないのである。それだけ襲撃者が手加減をしていたのだろう。裏を返せば、陸戦隊を相手にしてそれほどの余裕を持てるということだ。

 

 では、二人の女の目的は何だったのだろうか?

 

 答えはその病院、改め艦政本部先進研究所に保管されていたある“モノ”だった。「海軍検体405号」というのが、その名前である。

 

 

 

 

 

 昼前には車は目的地に到着した。田舎だから車も少なく、渋滞も青森市内を抜ける時に多少引っ掛かったくらいでほぼ快調・快適な道のりだった。それでも、長時間座席に固定されたままだとどうにも身体が固まってしまう。運転席を降りた村井は肩の凝りをほぐすように軽く首を回し、ジャケットの乱れを直した。

 

 目の前には手酷く破壊された研究所の建物。玄関には刑事ドラマでお馴染みの黄色いテープが貼られ、そこかしこを「青森県警」の作業着を着た鑑識が動き回っている。誰も彼もが妙に殺気立っているのは気のせいではないだろう。単純に忙しくて余裕が無いから、という理由だけではなさそうな、嫌な雰囲気が漂っている。

 死人の出た現場じゃあるまいし、と思いつつも、村井もその理由を何とはなしに察する。チラチラと、鬱陶しげにこちらを伺う鑑識たちの鋭い視線を浴びれば否が応でも分かるというものだ。

 とすれば、ここが元来我らが海軍の施設であると言えど、あまりでかい顔をして歩き回っては警察との間に余計な角が立ちそうである。分相応に大人しくしていた方がいいなと村井が決めたところで、ようやく助手席から這い出て来た鈴谷が地に足をつけるなり大きく背中を反らして伸びをした。それだけで彼女の人並み以上に実った胸はその形状をこれでもかと言うほど強調してくるが、目の保養などと悠長なことを言っている場合ではない。明らかにこちらを見る鑑識の視線が険しくなって、村井の方針は早速くじかれたも同然だった。

 自由奔放を絵に描いたようなこの艦娘に何を言っても無駄な気はするが、それでも一応窘めておこうと村井は呆れ混じりに小声で忠告を発した。

 

「警察も居るから大人しくしてくれよ」

「はーい」

 

 案の定と言うか、気のない返事である。

 彼女は優秀な戦闘員であるが、だからと言って決して上官受けの良い優等生ではない。職務上の要請から村井は鈴谷の経歴をすべて洗い出したことがある。その結果は、このような苦労を当然のように予想させるものだった。

 

 鈴谷のセールスポイントを一つ挙げるとするなら、それは卓越した戦闘センスと活用の結果としての戦果である。だが、逆を言えば彼女にはそれ以外に見るべき点はなく、遅刻が多く勤務態度は人並み以下で、おまけに「言葉遣いがなっていない」という軍人として以前の欠点まで指摘される始末。艦娘になる前から幾度かの補導歴があり、素行不良は元々のようだ。社会不適合者というのは言い過ぎかもしれないが、一歩踏み誤っていればいつそうなっていてもおかしくはない人生を歩んできているようだった。あるいは、踏み誤らなかったからこそ、今ここに居られると言えるのかもしれないが。

 

 そんな彼女に、警察と海軍の微妙な関係に配慮して振る舞えというのは無理難題に違いない。そもそも、過去の経験から警察を嫌っている可能性は高そうだ。

 

 

 

「すみません、情報保全隊の村井中佐ですか?」

 

 鈴谷に気を取られて村井は、背後から近付いてきた人物に声を掛けられるまで気付かなかった。振り返ると自分より目線一つ下の位置から愛想笑いを浮かべた丸顔が見上げていた。大尉の階級章を引っ下げ、右腕に「MP」と印字された黒い腕章を付けている。また、彼が左手で持っている角2の茶封筒が妙な存在感を示していた。

 

「ご苦労。いかにも、情報保全隊第二情報保全室の村井だ。君は、憲兵か?」

「はい。失礼致しました。憲兵隊大湊分遣隊長の杉浦です。本件の現場を任されております」

 

 なるほど、と村井は得心する。先程からの鑑識たちの妙な視線はやはり思った通りだったらしい。軍と警察の複雑な利害や力学が絡み合った結果、この場を掌握したのは“主人”である海軍だったというわけで、犯罪捜査の「協力」に駆り出された警察は下手に出ざるを得なくなったということだ。ただし、それは個々の警察官の感情まで抑えられるものではなかったので、エラそうな軍人が来たから彼らなりの歓迎をもって迎えてくれたわけである。現場の責任者がこの目の前の憲兵大尉なら、この場で最も階級が高いのは中佐である村井だ。

 

「メールにてお送り致しておりました資料はご覧いただけましたでしょうか?」

 

 さて、その杉浦大尉だが、朝方にメールで資料を送ってくれた張本人である。時間が時間だから徹夜で作ってくれたのだろう。事件の流れが適度な分量で書き上げられた良い資料で、読んで理解するのにさしたる時間を要しなかった。大尉は優秀な人間なようだ。

 朝は誰でも忙しい。村井も昨晩遅くに青森に入ったため、大湊まで行く時間もなく、やむを得ず市内にホテルを取ってそこで一晩を過ごした。起きて部屋に持ち込んだ仕事用のパソコンを開くと、杉浦からのメールが入っていたのである。鈴谷が新幹線の中で見たというのも同じ物のはずだ。

 

「見たよ。よく纏められていたね」

「ありがとうございます。しかし、あれは今朝までの情報をまとめた速報のつもりでした。お二人が来られるまでに色々と判明したこともございますし、資料には書き切れなかったものもございますので、それはまた後程ご説明させていただきましょう」

「分かった。取り敢えず現場だな。専門家が居るから見てもらおう」

 

 村井が手で鈴谷を示すと、当の本人はぼんやりと研究所の建物に視線を投げたままこちらに気付いていないようだった。「鈴谷」と呼ぶとそこでようやく自分が紹介される番だと認識したらしい。それらしくお辞儀して「情報保全隊付特務艦の鈴谷です。よろしくどうぞー」と相変わらずの軽薄さをもって名乗った。

 

 この張り詰めた空気の中、徹夜明けの若手将校に対して「よろしくどうぞー」と言える鈴谷の度胸を、村井は買っている。杉浦も村井の手前、感情を荒らげるようなことはしないものの、村井に対しては人懐っこそうな愛想笑いを浮かべていた丸顔があからさまに引き攣っていた。彼はちらりと村井に視線を投げ掛けてくるが、そんな意味深な視線をもらったところで鈴谷はどうにも出来ないし、だから諦めろと首を振るしかない。艦娘には色んな者が居る。これはその実例の一つだ。

 その辺りはさすがに若くして憲兵分隊を任されるだけあって、杉浦も事を荒立てるような愚かなことはしない。警察の目の前で軍人同士が諍いを起こしても笑いものになるだけなので、とっとと仕事に入ることにした。何はなくとも、まずは現場検証から始めねばならない。

 

「防犯カメラに映っていたのはポルシェです。4ドアなのでパナメーラかと思われますが、まだはっきりしたことは分かっておりません」

「高級車で軍の施設に乗り付けて強襲するとはな。まるで007の世界だ」

「まったくです。これでアストンマーチンに乗ったブリオーニの男が犯人だったら、我々はイギリス政府に抗議しなければならないところでしたよ」

 

 玄関は、元はガラス張りだったのだろうと推測されるが、今では見るも無残な有様だった。二本の支柱に支えられ(てい)た庇が入り口の前に日陰を作っているが、そこには無数のガラス片と剥がれ落ちた庇の天井板が散乱し、支柱も片方が消滅している上、残った方には無数の弾痕が開いており、この場で起こった戦闘の激しさを物語っている。

 

「カメラは? 銃で撃ち抜かれたと書いてあったが」

 

 村井が尋ねると、杉浦は庇の一角を指した。そこには天井板を支えていたと思しきアルミの枠が残っているだけで、その枠の間から恐らくカメラの残骸だろうと思われるコード類が垂れ下がっている。

 

「銃で撃たれた後、何らかの衝撃でさらに破壊されてほとんど残っていません」

「他にカメラは?」

「エントランスに二基、死角をカバーし合うように設置されていましたが、映像は途切れています」

「何でだ?」

「はい。今朝方、意識を取り戻した警備兵たちの証言から分かったのですが、施設の電源が襲撃早々に落とされたらしいのです」

「電源?」

「別行動してたのが居たってことなんでしょ?」

 

 首を傾げた村井に答えたのは鈴谷だった。それまで暇そうに話し合う二人を尻目に破壊された玄関口を観察したりしていた彼女だが、話は聞いていたらしい。指摘は的確だったようで、杉浦も少々の驚きを顔に表しつつも頷いた。

 

「はい、その通りです。襲撃が始まり、警備兵が自隊に連絡を入れて受話器を置いたその瞬間、建物の全ての電気が消えたそうです。照明もパソコンも、もちろん監視カメラも、全部止まりました。ただし、非常用電源が作動して最低限の機器は稼働し続けたようですが、その中にカメラは含まれていなかったようですね」

「外部との連絡を遮断するためか」

「加えて、混乱を拡大させる目的もあったのかもしれません。いずれにせよ、それによって犯人の情報は目撃証言に頼らざるを得なくなったのは事実です」

「似顔絵は描かせているのか?」

「そちらは警察で。ただ、どうにも妙なことが……」

 

 それまでスラスラと滞りなく説明していた杉浦が初めて言葉尻を濁した。

 

「妙な?」

「はい。と言いますのも、目撃者は全て、警備兵も施設の職員も含めて全員が、犯人の顔を覚えていないのです」

 

 何だそれは、と思わず村井の眉が寄る。

 だが、言った杉浦自身も自分の言葉に納得出来ていない様子で、戸惑いが表に出てしまっているような話し方で続けた。

 

「二人組であったこと。両方女であったこと。激しい戦闘になったこと。建物や車両が破壊されたことなどは覚えているのですが、肝心の容姿に関しては不思議なことにさっぱりなのです。誰に聞いても要領の得ない返事ばかりで、『よく見てなかった』や『よく見えなかった』という答えしか返って来ません」

 

 まるで交通事故加害者の弁明みたいだな、と思った。施設の職員が逃げるのに必死で犯人の容姿までよく観察出来ていなかったのは百歩譲って致し方ないとしよう。仮にも警備を任されている選りすぐりの兵士がそんなお粗末なことしか言えないのは怒りを通り越して呆れ果てるしかない。我が海軍の兵士の質はそんなに落ちてしまっているのかと嘆かずにはいられない。

 ただ、そう言ってばかりでもいられないので、犯人の手掛かりは数少ない物証を頼りにするしかないようだ。その中でも最も有力な手掛かりと思われるのは車だろう。ポルシェ、それも4ドアとなれば青森県がいくら広くても走っている台数は数えられるくらいしかないに違いない。

 

「車を探せ。色は何色だ?」

「赤です。真っ赤な色です。今、県警が各地で検問をしているようです」

 

 そう言いながら、杉浦は持っていた封筒を開け、中からクリアファイルに挟まれた紙を取り出す。村井も気になっていたもので、今の話の流れからすると恐らくは監視カメラの静止画像を印刷した物だろうと思われた。

 

「これが、その時の映像です」と、杉浦がクリアファイルの中身を差し出してくる。それは案の定カメラの画像で、フルカラーで印刷されていた。

 何枚かある内の一枚目は、エントランスからガラス壁を通して入り口前までを映す角度で据え付けられていたカメラの画像で、ちょうど犯人の乗った車が乗り付けた瞬間を映していた。車は確かに4ドアで真っ赤。その特徴的な形がポルシェであることを明瞭に示している。二枚目は、それに気付いて車に近寄る警備兵と、運転席から降りてきた女が向き合っているところ。そして、三枚目はその警備兵が地面に倒れて伸びている場面だった。

 四枚目は助手席からもう一人が降りてきた場面である。二人の服装は、運転手がダークスーツと思われる黒い服装で、助手席の女は真っ赤なドレスのように見えた。状況や、この直後に彼女たちが起こした事件と比べると、あまりにも異質で不自然な格好である。しかも、助手席の方は日傘を差してサングラスを掛けているので、まるでセレブの貴婦人のようだ。真っ先にそれが気になった村井は時系列順に重ねられていた画像の紙、四枚目を捲る。

 五枚目はもう一つのカメラ、エントランスの自動ドアのすぐ傍の天井から見下ろす位置で、入って来た人物の顔をはっきりと映すためのものである。そこには、先に建物内に入って来たであろうと思われるドレス姿の女の顔がしっかりと映っていた。何しろ、彼女はカメラを見上げているのだから。

 

 日本人ではない、堀の深い顔立ち。目は大きく、鼻梁は高く、程よく丸みを帯びた輪郭に、緩やかなウェーブのかかった青紫の長髪。彼女はわざわざサングラスを外し、堂々とカメラを見上げ、まるで己の存在を誇示するように不敵な笑みを浮かべているのである。

 だから、目が合った。

 手に持っているのはインクが乗っただけのただの印刷物で、刷られているのも過去に起こった出来事の画像でしかない。だというのに、その女と“目が合った”村井の背筋を冷たいものが流れ落ちていった。

 決定的な瞬間だ。それ以降、つまり六枚目はない。それは、カメラが機能していたのはここまでだったことを示していた。

 

「あ、この顔……」

 

 気付けば、いつの間にか隣にやってきてカメラ画像を覗き込んでいた鈴谷が小さく呟いた。彼女はよく手入れされている眉間の肌を波立たせて、普段とは裏腹に真剣な眼差しで女を見下ろしている。

 

「心当たりがあるのか?」

 

 村井の知る限り、鈴谷には海外遠征以外での出国歴はなかったはずだし、キャリアの中で海外艦娘との共闘を行った経験もなかったはずだ。外国人の知り合いなど居そうにないのだが、どうやら何か引っ掛かりがあるらしい。

 

「どっかで、見た覚えがあるんだよねぇ」

「鈴谷さんも、そうですか……」

 

 今度は杉浦が意味深に呟く。

 

「鈴谷“も”? どういうことだ?」

「ええ。今の鈴谷さんのような反応を示した者が何人かおりまして。その全員がここの研究員で、同じようにその女の写真を見せたところ、『見覚えがある』と」

「研究員が? この女の正体は突き止められるのか?」

「いいえ、中佐。我々はもうこの女の正体を突き止めました」

「何だと?」

 

 想定外の答えに、村井は素直に驚きを見せてしまった。そんなにすぐに人相の照合が出来るものなのだろうか。

 

「ああ、分かった。確かにそうだよね。有名人だもんね」

 

 今度は隣りの鈴谷までそう言い出した。

 

「おい、一体誰なんだ?」

「中佐、知らないんですか? 有名ですよ。クリスティーナ・リーって」

「クリスティーナ……」

 

 思い当たる名前だった。彼女は確か、

 

「緊急修復材の、発明者か」

 

 なるほど、それなら研究員たちや鈴谷に見覚えがあったのもうなずける。世界各国の、艦娘を運用する海軍にとって、その名前は非常に有名で、そして人気があるものだ。

 

 

 クリスティーナ・リーというこの英国生まれの稀代の天才は、元々イギリスの軍需企業BAEシステムズ社に所属していた研究員であった。彼女はそこから独立した後に会社を立ち上げ、艦娘の損傷を修復する修復材を改良した「緊急修復材」を開発したのである。

 これは世紀の大発明ともてはやされた偉業だった。

 

 艦娘は艤装を付けている限り不死である。常人なら死んでいなければおかしいくらい身体を損壊しても(致死量の失血や致命的な臓器の破壊があっても)、絶対に死なない。だが、酷く負傷したまま帰還した艦娘からすぐに艤装を取ると、そのまま彼女は死んでしまう。だから、艤装を取る前に艤装ごと艦娘を回復させる手段が必要だった。

 それが液体修復剤で満たした「入渠ドック」であり、見た目は大容量の湯船なので多くの艦娘は「風呂」と呼んでいる。負傷した艦娘はその程度にもよるが、艤装を付けたまま入渠ドックに入ると、数時間後には元通りに回復するのだ。今のところ修復剤が効能を発揮するのは艦娘に対してだけであり、その原理は一切が不明である。

 しかし入渠ドックは大掛かりな設備なので、陸上拠点か若しくは大規模な艦船である大型艦娘母艦にしか設置出来ない。しかも、損傷の程度に応じて必要な入渠時間は比例して増加するので、場合によっては艦娘を長時間戦場から離脱させなければならない。

 そこで修復剤を濃縮させ、短時間で効果が出るような薬品が開発された。それが「高速修復剤」である。

 これは文字通り、数日単位での入渠が必要な損傷を負った戦艦を、たったの数十秒で元通りに回復させてしまう代物。その需要は常に高く、前線で戦う艦娘にはすっかり必需品となったようだ。特に、短期間に戦力の集中投入を求められるような戦況である場合は不可欠と言って過言ではなく、限られた艦娘で再出撃を繰り返すのであるから、「風呂」に入った負傷者には片っ端から高速修復材をぶっかけなければならない。

 もちろん、「ぶっかける」という表現自体は比喩だ。実際には一度艦娘を「風呂」の湯船に漬け、その上で濃縮された修復材である高速修復材を使用する。高速修復材は上部が開放された円筒状の容器に封じられていて、使用に際しては蓋を取り、中身の液体を湯船の中に流し込むようになっていた。余程緊急を要する場合であれば艦娘に直接浴びせ掛けることもあるようだが、それはあまりにも費用対効果の悪い方法で、滅多に採られることはないという。

 さて、高速修復材の効果だが、その名に違わず瞬く間に艦娘の損傷を元通りに直し、筋肉に溜まった乳酸なども全部分解してしまう。このような高速修復材は、容器の形状から俗に「バケツ」と呼称されるが、その呼び名には似合わぬほど高価であるのが難点であった。当たり前の話だが、濃縮という過程を経ている分、価格はどうしても上乗せされてしまう。

 ただし、高速修復材にはこれ以外にも欠点があり、通常の修復剤と同様に「風呂」に入れなければならないため、使用場所は拠点や母艦の中だけとなる。つまり、戦闘中によくあるような、即座の修復が必要なくらい程度の著しい損傷を受けた場合や致命傷を受けた場合では戦闘区域から該当の艦娘が拠点や母艦に帰還する前に轟沈してしまう可能性が高いのだ。艤装の浮力を失えば、金属の塊である艤装それ自体が重しとなるし、そもそも艦娘は何故か泳ぐことが出来ない。よって、即座に浮力を喪失する程の損傷を受けた瞬間、その艦娘の死は確定してしまう。

 

 今まではこれを防ぐ手段はなかった。戦場において、不確定要素によって兵士の命の保証がないのと同じで、どれだけ分厚い装甲に守られ、「女神の護り」というオカルト領域の力が艦娘をあらゆる脅威から遠ざけたとしても、たったの一撃でそれら全てを無力化されてしまえば艦娘本人が無傷であっても(それほどの一撃ならば本人が無傷であることはまずあり得ないが)、問答無用で海に引きずり込まれて溺死するのは避けられない。故に、このような最悪の事態を避けられるかどうかは、艦娘が本質的に危険な戦場に出ざるを得ない以上、運としか言いようがなかった。

 

 だが、一方で艦娘は“運が悪かった”で喪うにはあまりにも高価で、希少な兵器である。

 まず、艦娘になれる女性自体が高い適性が必要なために数が少ない。また、適性者が見つかったからと言ってすぐに艦娘として戦えるわけではなく、当然訓練しなければならないし、海軍軍人として必要な知識も叩き込まなければならない。そして、本人の適性に見合った艤装を開発し、建造し、それをテストして、と諸々の過程を経ていくと、必然的に一人の艦娘を就役させるのに莫大なコストがかかってしまう。

 そのコストが如何に大きいかは、おおよそ駆逐艦娘十人を就役させるのに必要な費用と汎用駆逐艦一隻の建造費はほぼ同じと言われていることから推して図るべしだろう。すなわち、たった一人の駆逐艦娘に対して、数十億円の導入コストが必要になるわけである。これが巡洋艦になれば当然費用も上がるし、空母や戦艦ともなれば目を剥くような金額になるのだ。内訳のほとんどを占めるのが艤装の開発と建造の費用で、未知の技術を使用している故に信じがたい金がかかっているのだという。その金が何に使われているかまでは、さすがに村井と言えど知らないが、艦娘が意外と高いというのは有名な話である。

 それほどまでに高価で、しかも艦娘の大半は年端もいかぬ少女の成りをしているのだから、戦闘で多数の戦死者を出せば世論から袋叩きにされてしまう。政府はただでさえ艦娘を運用するのに倫理や道徳面でギリギリのバランスを取っているのだから、この均衡を崩すほど艦娘を消耗するわけにはいかないのだ。

 だからこそ、艦娘はそれぞれがあくまで一人の兵士であるにも関わらず、重層的なセーフティで守られている。あるいは、守られようとしている。修復剤や「女神の護り」はその内の一部であるし、それ以外にも多数の無人機や電子戦機を使用した複合的な索敵網、前線の一歩手前まで進出する一通りの設備を有した母艦など、サポート体制も非常に充実している。それ故、艦娘の戦死率は1%に満たないと言われている。

 だが、それでも轟沈という悲劇は起きてしまうものだ。これに対しての根本的な解決策は、場が戦場である以上なかなかに難しいが、今年になって有力な選択肢が生まれたのである。

 

 

 それが「緊急修復剤」。

 これは高速修復材をベースに開発されたもので、艦娘が大破したなどして「女神の護り」から外れそうになった時、応急処置的に損傷を回復させる薬剤だ。その使用方法は、従来までの修復剤のように身体の外部から浴びせるのではなく、予め対象の艦娘に薬液を注射しておく。この薬剤はある種の抗体のように効果を持続するので、艦娘が一定以上の損傷を受けた時に自動的に効能を発揮、本人と艤装を同時に修復してしまうという優れものである。

 その辺りの原理というのは、元々の艦娘関連の技術が不可思議やらオカルトの領域で、少なくとも現代人類の科学では解明不可能なので「それはそうなるもの」としか扱われていない。

 何より彼女の成し遂げたことが偉業と称えられたのは、彼女が妖精の技術、すなわちオカルトの領域で作られた高速修復材を“改良して”、緊急修復材を開発出来たことである。つまり、今まで人類には不可侵であった妖精の技術を、初めて応用した人物だったのだ。

 

 故に、この事実は村井に少なくない衝撃を与えた。現実は常軌を逸脱していた。

 同盟国の、それも民間企業の代表者が我が国海軍の研究所を直接襲撃する。それも、尋常ではない破壊力をもって。

 

 

 

****

 

 

 

 動揺を何とか抑え込んだ村井は、現場検証を再開するため写真を杉浦に返した。彼も彼で戸惑いを隠せない様子で、この場でただ一人、普段と変わらないのは鈴谷だけであった。

 今はいつも通りの鈴谷の存在がありがたい。彼女が動揺していないから、村井も落ち着けたのだ。

 それに時間もあまりない。村井は玄関からエントランスホールに足を踏み入れた。

 

 中は無残の一言に尽きる。まず、原型を留めている物が何もない。ここが一番激しい戦場になったというのは見れば分かるが、それにしたって破壊の程度が酷すぎる。TNTでも爆発したかのような光景が広がっていた。

 タイル張りの床にはガラスや天井やあるいはそれ以外の何かの破片、薬莢などが散乱したままで、元々のタイルがほとんど見えない。見えているところも、タイルが割れて大きなヒビが入っていたり欠けていたりしていた。最も象徴的で戦慄した光景を作り上げていた、エントランスに突っ込まれた軽装甲機動車のノーズとエンジンルームはさすがに撤去されていたが、痕跡は生々しく残っている。エントランス奥の壁には巨大な穴が空いており、巻き込まれた受付カウンターは無数の破片と化していた。何故それがカウンターと分かったかと言えば、杉浦が説明してくれたからである。そうでなければきっと気付かなかったに違いない。

 他にも待合椅子や観葉植物が辛うじて残骸からそうと分かる程度に残されている。ただ、天井の被害も大きく、天井板はほぼ全てなくなっており、その上を這っている無数のパイプが露わになっていた。しかも、それらパイプのうちの幾つかは何をどうしたのか、天井裏からもぎ取られて床に転がっている。

 

「人間がやったこととは思えんな」

「まったくです。しかも、部隊からの銃弾の雨を掻い潜っていたのですからね」

 

 杉浦が指し示す先にはエントランスの壁があり、そこには無数の穴が開いていた。言うまでもなく銃痕である。

 兵士たちは機関銃でも持ち出したのだろうか? いずれにしろ、生々しく残された銃痕を見るに、相当な量の銃弾が放たれたに違いなく、しかし犯人であるらしきクリスティーナ・リーとお付きの女はそれらを回避して警備隊を無力化した。

 ジェームズ・ボンドでさえ不可能と思われる冗談のような話だ。だが現実であり、そうである以上調査のために破壊された研究所までわざわざやって来た村井は、MI6のトップスパイにも成し得ないことを成し得る方法を探らなければならない。

 とは言え、それは困難を極める課題だった。状況があまりにも現実離れしているので、頑張って想像力を働かせたところで思い付く方法は一つしかない。村井は海軍軍人であるから、自身の職業経験から形成された海軍軍人の常識というものに照らし合わせて考えてみると、思い浮かぶ唯一の可能性が艦娘である。つまり、リーはともかくとして、お付きの女は艦娘である可能性が高い。それも、海外の艦娘だ。

 先程から杉浦は気を遣ってその可能性には言及していないが、彼も同じ考えだろう。ただ、目の前にその艦娘の一人である鈴谷が居るから口にしていないのだ。

 

 現在までのところ、艦娘が犯罪を犯したという実例はない。いや、正確には一つだけあるにはあるのだが、それは公表されずに闇に葬られたので誰も知らないことになっている。だから、国民国家防衛のため日夜奮闘している彼女らは、世間一般では基本的に英雄扱いを受け、反社会的行為からは最も遠いところに居るものというのが社会の認識となっていた。そして海軍もまた、そうした世間が艦娘に対して抱いている勝手なイメージを利用して大々的なプロパカンダを展開し、自分たちへの支持を集めようとしている。それはどこの国でも似たような事情だった。

 もし艦娘が犯罪に関与していると世間に公表されれば、それはその国だけの問題ではなくなるだろう。艦娘と彼女たちを運用する各国海軍が、国連軍として国際協調の美名の下に実行している深海棲艦の駆除活動の大きな停滞を強いられることは明白。それが諸国間の関係悪化を招き、外交上大きな問題となる。つまり、事はローカルな、各国海軍の中で済むような話ではなくなってしまう。

 艦娘というのは、斯くも脆く繊細なガラス細工の上に立っている存在なのだ。少女たちに武器を持たせ異形と戦わせるというそのやり方は、政治家や軍人たちが途方もない労力を注ぎ込んで、ようやく民主主義社会に認可を受けたものなのだから。もしそこに不祥事が存在したなら、艦娘を運用する軍やそれを支持する政権は一気に立場を失うだろう。その意味で、世界中の艦娘艦隊は一蓮托生と言えた。

 

 現場の破壊の程度から、当初より艦娘の関与が疑われている。だからこそ村井が派遣されてきたわけだ。キャリアのスタートこそ憲兵だったものの、潜入していたスパイを捕まえるという大手柄を挙げた後は情報保全隊に配属となり、以後そこで十年以上防諜任務に従事してきた。その経験が買われて今回の騒動の沈静化を命じられたのである。そして、村井と同じく、異色の経歴を持つ艦娘、鈴谷もまたその立場の特殊性を鑑みて、村井の助手に充てがわれた。

 

 だから、杉浦は気を遣う必要などない。鈴谷は対艦娘戦力。艦娘を抑えられる艦娘なのだから。

 実力の高い彼女だからこそ、未知の脅威にも対抗出来る。

 ただし、それを踏まえた上で鈴谷の次の発言を二人は聞かなければならなかった。彼女は、言外に艦娘の犯罪関与の可能性を仄めかした二人に対して「安心していいですよ」と言いのけたのだ。

 

「これは艦娘の仕業じゃない。いくら艦娘って言ったって、ここまで上手に破壊することは出来ませんよ」

 

 鈴谷は飛び散った受付カウンターの破片を拾い上げ、しげしげと眺めながら続けた。

 

「どういうことだ? 君らは艤装を着けていれば凄まじい馬力を出せるだろう?」

「ん、いやまあ、その通りですけど。でもさすがにこれは無理かなぁ。艦娘の力って言うのは極端に破壊力が強いから、暴れるとこんな建物、すぐに倒壊しちゃいかねませんからねえ。犯人は派手にやってますけど、構造に致命的なダメージが入らないようにあえて手加減しているようにも見える。その証拠に、壁や柱を直接攻撃していないですし、そもそも破壊が目的じゃなかったですからね」

 

 それはその通りだと思った。実際鈴谷の指摘通り、建物の強度に関わる柱や外壁の破損はせいぜいが弾痕程度で、天井や床面あるいは受付カウンターのように原型が分からなくなるほどの衝撃を受けている様子はなかった。

 鈴谷自身、最前線での戦闘経験が豊富な艦娘であるし、艤装を装着した上での陸上戦闘も他の艦娘に比べて得意である。実力は折り紙付きというわけで、それを知っている村井はだからこそ閉口せざるを得ない。“艦娘に対抗する艦娘”と位置付けられている彼女は、殊の外艦娘については造詣が深い専門家と言えよう。

 しかし困ったことが一つ。艦娘は今回の事件を引き起こした最も可能性のある存在と見なされていたから、筋書きが狂ってしまったのである。当然、次の疑問は出て来るだろう。二人の内、代表して村井が思ったことをそのまま口にした。

 

「では、何者だったのだ? リーは人間だろうが、もう一人は……」

「それは鈴谷には分かんないですよぉ。っていうか、それを調べるんでしょ?」

 

 鈴谷は弄んでいた破片を投げ捨て、今度はエントランスホールの脇に設置されているエレベーターに足を向けた。

 

「犯人はエレベーターを使った。ここのエレベーターは停電してても非常電源で稼働するから普通に使えた。何でですかぁ?」

「もしもの時に運び出さなければならない物があるからです」

 

 と、杉浦。その「運び出さなければならない物」というのが、

 

「『海軍検体405号』」

 

 鈴谷がエレベーターのボタンを押すと、ベルが鳴ってドアが開いた。

 箱の中にも銃痕が見受けられる。杉浦の資料によれば、この中に一人兵士が倒れていたそうだ。

 

「犯人は三階の病室、もとい『海軍検体405号』の保管室まで行っています」

 

 鈴谷に続いて村井と杉浦はエレベーターに乗り込んだ。憲兵分隊長は鈴谷の言葉を引き継ぐように、資料では省かれていた状況を補足説明する。

 

「明らかに襲撃犯の狙いは『海軍検体405号』でした。エントランスでひと通り警備兵を返り討ちにした後、二人はこのエレベーターに乗って三階に来ます」

 

 エレベーターが静かにドアを開く。

 そこは、エントランスに負けず劣らず手酷く破壊されていた。エントランスに続き、第二の戦場となったのがこの三階の廊下である。先回りして襲撃犯を待ち伏せしていた数名が攻撃を仕掛けたのだが、あえなく返り討ちにあい、床に転がることになった。

 ここはエントランスとは違って襲撃犯がエレベーターで昇って来た時にはまだ職員たちが残っており、彼らも戦闘に巻き込まれてしまったようだ。逃げるに逃げられなくなった彼らは、物陰に隠れてやり過ごすしかなかった。幸いにして襲撃犯は妨害する兵以外に危害を加えることはなく、巻き込まれた職員は全員無傷で済んだ。

 村井たち三人は廊下を進みながら、「海軍検体405号」の保管室、もとい病室までやって来る。

 

「見てください、これを。人間の力ではこんなことは不可能です」

 

 目の前の光景に村井は溜息を吐くしかない。

 病室やら保管室というのはこの部屋をあまり適切に表現する言葉ではないようだ。どちらかと言えば“独房”が近い。

 確かに部屋の内装だけを見れば、白い壁天井に、医療機器とそのモニターに囲まれたベッドと、病室そのもののようにも思える。だが、入り口にある鉄格子と分厚い鋼鉄製の扉があまりにも内装と不釣り合いな物々しさを醸し出していた。ただし、入り口と反対側の壁は吹き飛ばされて姿を消し、直接外が眺められるようになっていたし、鉄格子はOの字型に捻じ曲げられていてより一層異様な光景となっている。

 鋼鉄の扉は傷こそないものの、その重量は半端ではなく、大の男が四人がかりで押してようやく動くか動かないかという代物らしい。通常は電動で開閉するのだが、もちろん襲撃当時には電源が落ちていたので当然開閉しないはずである。よしんば電気が通っていたとしても、開閉スイッチは特定の暗証番号を入口横の据え付け端末に入力しなければならない仕組みになっていたので、理論上に女二人に「海軍検体405号」の保管室に入室することは不可能だったはずだ。

 だが、襲撃犯はそれを“物理的”に成し遂げてしまったのである。ここで言う“物理的”というのは、つまり「素手で」ということだ。

 にわかには信じがたい。だが、確かに襲撃犯はロックが掛かった重い扉を手で開け、さらに中の鉄格子を捻じ曲げて強引に侵入した。極めつけは、コンクリート製の分厚い壁をぶち抜いていることである。相当量の爆薬がなければ不可能なはずだが、室内には爆発の痕跡がない。障子を殴って穴を空けるのとはわけが違う。やはり、これを可能にする「馬力」を発揮出来るのは艦娘しか考えられないのだが。

 

「完全に力技だね。どうやって開けようか考える前に手を使ったって感じ」

 

 鈴谷は部屋の中央まで進み、主が居なくなったベッドの脇に立つ。壁を粉砕した時に噴出したであろう砂塵が降り積もったの掛け布団を捲ると、灰色の砂塵が舞うものの、それ以外はシミひとつない清潔なシーツしかない。彼女は数秒の間ベッドの上に何かの痕跡を探っているように視線を注いでいたが、やがてくるりと後ろを向いて、ベッドを囲む医療機器を見る。

 

「さっきから言ってる『海軍検体405号』って、艦娘のことですよね」

 

 その一言で、水溜りに石を投げ込んだ時のように村井と杉浦の間に波紋が広がる。彼女の指摘は核心に触れるものだった。村井もまた「海軍検体405号」の正体を正確に分かっているわけではないが、鈴谷とは同じ考えである。

 それでもあえて理由を訊いた。仮にも諜報の専門家である村井に、隠し事は通用しないという意味を込めて。

 

「何故、そう思う?」

「んー? 深海棲艦なら鎖で縛り付けておくだろうし、心電図を取ったりしないんじゃないですか? あいつらには心臓がないっていう話だし」

「器官としての心臓はあるだろう。それがさほど重要ではないから急所ではないだけのことだ」

「そうかもねぇ。それと、あいつらはヌメヌメした粘液まみれだけど、ベッドはそれで汚れたようには見えないんですけどぉ」

 

 鈴谷は振り返ってベッド越しに村井と向かい合い、白いシーツを軽く撫でる。「ほら、粉しかないし」と、コンクリートの塵が付着した指の先を見せた。それ以外に何かが付いている様子はない。

 

「ねえ? 何かご存知なーい? 杉浦、ダ・イ・イ」

 

 杉浦の階級だけを一音ずつ区切るように発音し、鈴谷は首を傾げて笑う。とても笑顔なんて言えない、トラが威嚇しているような表情。細まった両目の奥から、底知れぬ深みを湛えた若草色の瞳が覗く。

 真っ直ぐに見詰められていない村井でさえ思わず身震いをしそうになった暗い笑みだった。まともに視線を向けられた杉浦が傍らで硬直する気配がする。見ずとも彼が人懐っこそうな丸顔を強張らせているのは分かった。

 

 村井も杉浦も内地や後方での仕事ばかりで、前線に出た経験は軍人にも関わらずほとんどない。そもそも、憲兵や情報保全隊という部署・部隊自体が「内なる敵」にしか目を向けていない存在であり、組織内の調和と規律を担保するためにあるのだから当然だ。それはそれで軍隊という組織が統制を確保するために必要不可欠な存在なのだが、逆を言えば軍隊の本来的な任務である、「外敵との戦闘」に参加していないことを意味する。

 一方で、鈴谷はまさにその「外敵との戦闘」で鍛え上げられてきた純粋な兵士である。見た目は高校生くらいの少女であっても、その本質は殺し殺される実力装置の歯車の一つ。あどけなさの残る顔でも、その身に宿る凶暴性を露出されると想像以上の凄みがある。

 頭の切れる鈴谷は、そうした凄みすら計算した上で“笑って”見せたのだろう。それでも村井は彼女と以前から知り合いであったから、そうした底知れなさや凶暴性というものはある程度分かっていてまだ落ち着いていられた。だが、今日初めて鈴谷と対面したばかりの杉浦はそうではなかったようだ。普段は兵卒に恐れられる憲兵が、完全に鈴谷に気圧されてしまっていた。

 

「いや、そ、それは……」

「んー?」

 

 どもる杉浦に、鈴谷はさらに頭を傾け、ニンマリと笑う。相変わらず、眼孔の向こうには何もない。何も見受けられない。

 分かってやっているのだから、鈴谷という娘は相当ひねくれた性格をしている。自分がどういう顔をすれば相手がそれをどう受け止め、どう反応するのかをちゃんと計算していて、最も自分が望む反応を引き出そうと凄みすら駆使出来るのだ。見た目は完全に少女のそれだし、実年齢で言っても杉浦よりいくらか年下なだけのはずだが、老獪さで言えば杉浦は完全に鈴谷に負けてしまっている。

 

「鈴谷」

 

 と、村井が窘めなければ、きっと杉浦は鈴谷にとって食われていただろう。艦娘は誤魔化すように愛想笑いを浮かべると、「ゴメンナサーイ」と白々しく謝罪の言葉を口にする。

 

「いえ、まあ、確かにお二人には話すべきかもしれません」

 

 蛇に睨まれた蛙そのものだった杉浦は、ようやく金縛りから解放されてホッとした様子だ。彼も彼で、腐っても憲兵だから立ち直りは早い。

 

「『海軍検体405号』の正体。それについてですが」

 

 杉浦はそこで一旦言葉を切って唇を舐める。

 

「昨年の海戦で轟沈した、空母娘『加賀』です」

 

 彼がそう言うと、鈴谷はまたあの凄みのある笑みを浮かべた。今度は特別誰かに向けたものではなく、ただただ彼女の内なる感情の高揚を表現するかのような笑みだ。

 

 

 

****

 

 

 

 海軍検体405号――航空母艦「加賀」は、かつて勇名を馳せた第一航空戦隊の片割れであった。その実力は空母娘としては海軍随一とまで讃えられていた。

 現在、加賀たち“旧”一航戦に代わり第一航空戦隊を構成しているのは翔鶴型の二人だが、同じ一航戦の名を背負っていても内実には雲泥の差があるという。カタログスペックで言えば艤装が旧式の加賀より翔鶴型の方が能力は高いことになるが、経験年数の差を鑑みても戦果には大きな開きがある。加賀と、その相棒赤城の残した戦果というのは、一部隊の功績としては未だに破られていない。

 二人はまさに海軍航空戦力の基幹であった。東日本のある地方都市に、一航戦のためだけの運用拠点として鎮守府が用意されたくらいである。その基地が、規模で言えば大湊警備府より小さいにも関わらず、格上の「鎮守府」扱いだったのも、すべては一航戦が本拠地であったためだった。そこに集められた艦娘は、一航戦以外でも各艦種ごとに抜きん出た成績を収めた実力者揃いであり、貴重な大型艦娘輸送艦さえ配備されていたのだ。如何に二人の能力が軍にとって貴重だったかが窺い知れる。

 ただし、それも昨年の春までの話。ある海戦の最中、強敵「空母水鬼」の奇襲攻撃によって加賀は轟沈し、赤城も大破して一航戦は壊滅した。それが海軍全体に及ぼした衝撃は相当なものだったが、一航戦の不運はそれに留まらず、加賀の轟沈から幾ばくもしない内に空母水鬼が彼女たちの鎮守府を襲撃したのである。

 この時は残った艦娘や各部隊の奮戦によって辛くも敵を撃退したようだが、一航戦の本拠だった鎮守府は見るも無残に破壊し尽くされてしまい、結局放棄されることになった。一年以上経った今も復旧の目処は立っておらず、現場には瓦礫が放置されたままだ。

 

 と、以上までのことなら全国紙でも大々的に報じられて、今や国民なら誰でも知っている。重要なのはその後のことで、実はしばらくしてから加賀が轟沈した付近の海域で、ある「物体」が引き上げられたのだ。

 それこそが「海軍検体405号」。かつての航空母艦「加賀」である。

 

 

 

「駆逐水鬼の例はご存知でしょう。轟沈した艦娘が何らかの要因で深海棲艦に突然変異する事例が確認されています。駆逐水鬼はその最初の実例であり、『加賀』は二例目でした。引き上げられた彼女の肉体はほとんどが深海棲艦化していたのです」

 

 「加賀」は五体満足ではなかったし、胴体のほとんどは深海棲艦特有の黒い物質に変化していた。そして、驚くべきことに彼女はまだ生きていた。ただし、「加賀」にとって幸運だったのはそこまでであった。

 深海棲艦の構成物質については未だにほとんど解明されていないが、「加賀」が人間の技術では再起不能なまで侵されていたのは自明であった。だから、引き上げられて早々に「加賀」の治療は諦められ、深海棲艦化という現象を調べるためにこの研究所に“保管”されることとなったのである。それが「海軍検体405号」という名称の由来。

 「加賀」は不思議なことに中途半端に深海棲艦化したままの状態で、引き上げられてからもその状態が前進することも後退することもなかった。ほとんどの薬は効果がなく、だから研究者たちもデータ取りのために「加賀」に色々な機器を取り付けて、日々の状況を逐一観測していた。心電図はその内の一つだったというわけだ。

 しかしながら、何事にも例外というものは存在する。「加賀」に投与した薬の中で、唯一彼女に状態変化を引き起こした物があったのである。

 

「高速修復剤は駄目でしたが、それをベースに開発された緊急修復薬を投与すると、『加賀』の深海棲艦化していた部分が溶融し出したそうです。同時にそれまで安定していたバイタルも急激に悪化したため、研究員たちは『加賀』への投与を即座に打ち切りました」

「それは何故なんだ?」

「いえ、そこまでは……。当の研究員たちにさえこの現象の理由は分からなかったようで、結局『加賀』は現状維持のまま経過観察するということになりました」

「そうか」

 

 杉浦の説明に、村井は頷くしかなかった。

 艦娘と深海棲艦の関係性。修復材が文字通り修復を可能とする原理。これらは艦娘に関する事柄で、もっとも謎めいている領域だ。

 クリスティーナ・リーにおいては、特に後者の原理を解き明かし、それによって緊急修復材を開発し得たと推測されているが、では彼女がいかなる原理でこのような薬剤を作り得たのかはほとんど明らかにされていない。

 もちろん、緊急修復材の普及と共にこの点は注目された。だから、艦娘の運用主体である各国の海軍はその種を暴こうと躍起になり、今世界中で盛んに緊急修復材の分析が行われている。ただ、当然開発会社の企業機密に触れることであろうから、もし緊急修復剤の研究が公になった場合は大きな訴訟リスクが表面化する。だからこそ、この六ヶ所の研究施設のような場所が必要とされるのだ。

 

「ところでさー」

 

 相も変わらず間の抜けたような鈴谷の声はよく通る。いい加減慣れたのか、杉浦ももう感情を害したような顔を見せることはなくなった。

 

「さっき、別行動してたのが居たって言ってましたよね。そいつら、電源を落とした後は何をしてたんですかぁ?」

「……それは、まだ分かっていません」

「何か無くなってる物とか」

「……」

 

 鈴谷の返しに杉浦は黙り込む。首元を人差し指で掻きながら考えるのは彼の癖だろうか。その様子から何か心当たりがありそうだ。それ以前に、村井にも心当たりがあるし、鈴谷も同じように考えてわざわざ意地の悪い問い掛けを杉浦に投げたのだろう。

 

「主任研究員から、そのような申告がありました」

 

 杉浦は言い辛そうに答えた。

 

「やはり、緊急修復剤に関する研究データの幾つかが紛失している、と」

 

 

 

****

 

 

 

 最近はどこもかしこも禁煙・分煙の世の中になってしまって喫煙者は皆肩身の狭い思いをしている。公共の場では大概喫煙所が設けられていて、そこでしか一服出来ないか、あるいはそもそも全面禁煙でニコチン不足に苛立たなければならないかのどちらかになりつつある。それを世知辛いとは感じつつも、時流に逆らえない喫煙者である村井は、煙草の害を鑑みれば致し方のないことだとも思うのだ。

 逆に、そうやって喫煙場所が限定されてきたために、今度は喫煙者同士で交流することが増え、思わぬ友人を喫煙所で得ることもあろう。軍事基地も非喫煙者に配慮してどこも喫煙所が設けられるようになったから、一服している時に意外な顔と相見えることもある。それが力のある有能な上官であったりしたら、我が身の僥倖と思わなければならない。煙を立てている間の世間話から、どう転じて出世に繋がるか分からないものだから。

 とは言え世の中そんなに都合良くはいかない。喫煙所に来たところで、タイミングが悪ければ一人で寂しくふかせるしかないし、あるいは嫌な相手と一緒になって気まずい一時になるかもしれない。今現在はどちらかと言えば後者であった。

 

 六ケ所から大湊警備府に移動し、今日の調査結果をひと通りレポートに書き終えた村井は、一服のために兵舎の一階にある喫煙所に足を運んだ。喫煙所は一階の端にあって、そこから海でも見えればいいのだが、生憎目の前には広葉樹の中途半端な茂みしかない。建物角に当たる場所なので、茂みはベランダの目隠しとしても役に立っているわけではなく、敷地の中のたまたま出来たスペースを埋めるように木が植えられているような、本当に中途半端なものだ。そんなところで煙草を咥えたところで風情も何もあったものではないから、ただただ休憩のための場所でしかないのだろう。

 村井が喫煙所にやって来た時、既にそこでは一筋の煙が天に伸びていて、浅葱色の髪を下ろした先客が居た。

 

「暇そうだな」

 

 ぼんやりと茂みの向こうに視線を投げているであろう背中に声を掛ける。気付いた彼女は振り返り、のっそりと立ち上がって頭を下げた。動作に機敏さがない。

 

「キューケイですよぉ」

 

 相も変わらず間延びした気怠げな口調で鈴谷は言った。

 

「鈴谷、色々調べたりして疲れたんです」

「それを言うなら俺も一緒だろ」

 

 喫煙所と言っても、建物の一角の壁を取り払い、アクリルの板で軒を作った半屋外のスペースだ。目の前は小さな茂みがあって、コンクリートの打たれた床には黒ずんだ落ち葉が散らばっている。そのスペースの真ん中に一つだけ長椅子が置かれていて、鈴谷は端っ子に背中を丸めながら小さく座っていた。

 普通、歴戦の艦娘というのはそれなりの貫禄を持ち、オーラや雰囲気を纏っているものだ。だが、こうして掃除も行き届いていない喫煙所の片隅で煙草を吸っている鈴谷は、背負った老いに耐えきれず背中が曲がってしまった老婆のようであった。彼女は本来非常に優れた能力を持つ艦娘であるはずなのだが、そのような気配が一切見受けられないのはある意味凄いと言えなくもない。

 

 出会った時からそうだった。気怠げな声に面倒臭そうな表情で、目に映る全てがつまらないとでも言いたげな瞳をしている。彼女が心の底から笑うことはなく、精気のないその眼に何かが宿る気配すら感じられなかった。

 艦娘というのは誰も彼も厄介な事情を抱えていたりするものだが、今まで鈴谷のように気力のない者とは出会ったことがなかった。それぞれ事情を抱えながらも、どの艦娘も皆使命感に燃え、その瞳に、その顔つきに、精悍さが垣間見えた。だが、鈴谷に限ってはそうしたものから対極に位置しているのではないかと思う。それは単純に村井の主観と言い切れるものでもないだろう。

 

「メンドクサイですねー」

 

 鈴谷は再び腰を下ろし、足を組んだ。上になった膝に肘を立て、顎に手をついて顔を支える。口の端で咥えた煙草をゆっくりと上下に揺らしながらまたぼんやりと茂みを眺め始めていた。

 

「しょうがないさ。で、そっちは何か分かったのか?」

「口頭でいいですか?」

 

 彼女は支えにしていた手から顎を上げ、咥えていた煙草を離して言った。若干いたずらっぽい笑みを浮かべているので、鈴谷も完全に表情を失ったわけではない。

 

「ああ」

「えーっと、じゃあ何から言おうかなぁ」

 

 そう呟きつつ鈴谷はまた煙草を咥えて煙を肺に入れ、スーッと吐き出してから続けた。

 

「“注射”を作ってるのはご存知イギリスの会社です。栄えあるロイヤルネイビーとの繋がりが深いからこそ、開発出来たんですよねー」

 

 村井は頷いた。それはとうに知っていることだからだ。

 鈴谷の言う“注射”とは、緊急修復剤の俗称であり、由来はその使用方法にある。この薬剤を開発し、特許権を取得し、製造を独占しているのは、クリスティーナ・リーが代表を務める英国のベンチャー企業「サルマン社」である。この会社はイギリスでの艦娘研究のメッカ、史上初の艦娘「ウォースパイト」を生み出したかつてのヴィッカース・シップビルダーズ社――現在のBAEシステムズ社で長年に渡って蓄積されたノウハウと最先端の知識、それらに民間のアイディアと技術を化合させて新たな装備を開発するというコンセプトで設立された会社……だそうだ。

 緊急修復剤が世に公表されても、最初は誰もがそれを眉唾物として一顧だにしなかった。それが手の平を返したように受注が殺到するようになるのは、サルマン社の後ろ盾となったウォースパイトがその効力を身をもって証明して見せたからである。

 世界的に有名で、事実上艦娘の代表役であるウォースパイトが推していたというのが大きな理由となったのか、現場の艦娘を中心に緊急修復剤を求める声が強くなり、海軍上層部はそれに発破を掛けられた形で大量注文、一気に普及させていった。修復材関係をBAEから卸していた商社の熱心な売り込みがあったというのもある。無論これは艦娘たちには好評だったのだが、海軍の中にはあまりにも性急な注文に、安全性の面での疑問を抱く一派が出て来た。そうした一部の軍人たちは、果たして本当に緊急修復剤が安全であるのか、効力を持つのか研究しようとした。それが、六ケ所で行われていたのである。

 

 公然とこの薬剤を分析しその研究を行うことは、それ自体がサルマン社の特許権を侵害するものではないが、権利の侵害を恐れた同社が売り控え等を実行する可能性があるため、研究の事実は機密事項に指定されていた。とは言え、緊急修復剤の研究を行っているのは何も日本海軍だけではないし、それは公然の秘密と化していたから、六ケ所でそれが行われているのはある程度海軍の内部事情に詳しい者なら容易に想像ついただろう。

 特許出願に関しては発明の技術的範囲やその明細を提示しなければならない。これは出願された特許請求によって明らかであるが、殊、艦娘関連の技術に関しては科学的に未解明である領域は非常に多く、従ってそれらを用いた発明品の技術的解説にはどうしても曖昧さを含めなければならない。むしろ、サルマン社がこうして緊急修復剤を開発出来たことこそ神業に等しいのである。当然、海軍としてはその正体や原理を暴かずにはいられないだろう。

 結果、研究がどこまで進んでいたのかはさすがに部外者たる村井や鈴谷にも分からなかった。そこは最重要機密に指定されている。ただ、研究結果を記述した幾つかのレポートや解析方法の説明書が紛失、もとい“盗難”していた。

 ちなみに、コンピューター上に保存されていた電子データの方は全くの手付かずであり、無くなっていたのは書類だけだった。もっとも、犯人たちは自分たちで施設の電源を落としているのだからこれは当然かもしれない。

 つまるところ、リー一味の目的は二つあり、一つは「海軍検体405号」、もう一つが緊急修復剤の解析結果だった。前者を強奪するために陽動を兼ねて派手に暴れまわった正面突破チームと、研究員が避難した隙を狙って秘密裏に書類を盗み出す別チームに別れていたようである。研究所の電源を落としたのはこの別チームだったと考えられる。

 厄介なことに、監視カメラにはっきりと顔を映していた正面突破チームに対し、別チームの方は全く目撃者も居なければ物証も残っていない状態で、その存在は正面突破チームには確実に不可能と思われる電源の喪失で示唆されているに過ぎない。恐らく実在はしたのだろうが、こちらは相当に窃盗慣れしていた人物なのか、ただ「盗まれた」という事実だけを残し、目的を完遂している。

 捜査担当者のベテラン刑事は長年の勘からこれを窃盗と言い切ったが、警察組織としては現状はっきりした物証が挙がっていないので窃盗事件として処理することさえ難しいと嘆いていた。書類を盗み出したのは相当な手練であろうとも。

 あのカメラに写っていた人物が本当にクリスティーナ・リーであるなら、彼女が緊急修復材の研究データを盗み出したのは恐らくその成果を確認するため。艦娘関連の研究において英国に匹敵する水準を持っているのが日本の海軍だった。ここでの充実した研究体制から、彼女は自分の商品がどこまで解析されているのかを調べようとしたのかもしれない。調べてどうするつもりなのかまでは、さすがに本人に聞かなければ分からないだろうが。

 

 ここで問題となるのがもう一つの目的。「海軍検体405号」を力づくで奪い取ったのには、それ相応の何か大きな理由があるはずだ。主任研究員は、「海軍検体405号」、すなわち「加賀」の深海艤装を溶融させたことから、緊急修復剤は深海棲艦にとって毒物となるのではないかと考察していた。一部の毒物が人体を構成するたんぱく質を破壊するように。

 だが、それは当然ながら研究所の外には出されていない機密情報であったし、また盗み出されたであろう解析結果の書類にも記述されてもいない。この事実は「加賀」の観察レポートの方にしか書かれておらず、そちらは無事であったのだ。犯人が見た可能性もあるが、しかしそれも観察レポートが鍵付きの棚に仕舞われていて、且つその棚に開けられた形跡がないことから、まずあり得ないと断じられた。

 

 

 

「クリスティーナ・リーは、緊急修復材の『副作用』について調べたかったのかもしれません」

「副作用?」

「ほら、薬に新たな副作用が発見されることって、たまにあるでしょ? それと同じですよ。緊急修復材が深海艤装を溶かす効果を持っているのを、リーは知らなかった可能性があります。ただ、最高機密の『加賀』の存在を把握していたんだから、溶かしたという観測結果自体もどこかで知ったのかも。で、『加賀』を奪い取るついでにそのデータもいただきに来た。ただし、こちらは目的を達せられずに時間が来たから諦めるしかなかった……のかもしれませんねぇ」

「なるほど。問題はその情報源とリーが何をどこまで知っているか、だな」

 

 世の中には艦娘という存在自体に異を唱える者もいる。彼らは海軍とは全く関係のない人物ばかりが集まったいわゆる“市民団体”の類である。野党の後援団体となってしばしば国会に艦娘の話題を持ち込むなどロビイングも盛んに行っているし、もちろん“市民団体”らしく街中デモも実行して紙面を賑わせたりしている。だがいずれにしろ、今回のような大規模かつ暴力的な犯罪を可能なほど高度に組織化されてもいないし、そのようなことが可能な過激な人物が参加した形跡もない。それは防諜活動の一環でこうした“市民団体”の監視も行っている村井自身が一番分かっていることだ。

 そもそも、彼らに六ケ所の秘密研究所を嗅ぎ付けることが可能だとは考え辛いし、よしんばどこからか嗅ぎ付けたとしても、そこで何が行われているのかを突き止めるのは不可能だ。ここまで大胆な犯行を強行するには、「加賀」や観測結果の存在について確信を抱いていなければならない。

 

「ところで」と一本吸い終えた鈴谷は煙草を灰皿に突っ込み、「そのサルマン社なんですけどね」

「ん?」

「来週、シンガポールでパーティを開くそうですよ。もちろん、代表者も来る予定です」

「シンガポール?」

「ソースは明かせませんけど、ほぼ確実みたい。鈴谷としては、この機会にクリスティーナ・リーについてもっと詳しく調べられたら、どうかなって思いましてぇ」

「罠かも知れんぞ。奴はあれだけ堂々とカメラに自分の顔を晒しているんだ。まるで、捕まえてみろと言わんばかりにな。当然こちらが調べてシンガポールに来ることも想定済みだろう。だというのに、ホイホイとパーティに出席すると思うか?」

 

 それこそあり得ないことだろうと村井は断じた。

 あそこにはシンガポール海軍の敷地を間借りして日本海軍が小さな基地を設置していた。規模が小さいとは言え、シンガポール自体の戦略的、地政学的重要性により、海軍の中では重視されている基地だったはずだ。

 同基地の司令官は柳本中将という、海軍では名の知れた往年の軍人であり、村井も会って話したことこそないものの、対深海棲艦戦争が始まった頃からずっと戦ってきた人物であると聞いている。

 拠点があるなら、そこに人員を配置して包囲網を形成することは難しいことではない。現地警察にも協力を要請し、リーを捕縛するのは十分可能だ。

 

「そのパーティには、各国の要人も参加します。シンガポール政府の閣僚やうちの海軍のお偉いさん、そして“あの”ウォースパイトも」

「なんだと?」

「鈴谷がリーなら、もうとっくに根回し工作は終わらせてますね。それに日程は来週です。あと一週間くらい。リーはちゃんとこっちの足元を見ているんですよ。『海軍検体405号』も、緊急修復材の解析結果も、どっちも公には出来ない情報ですし、そもそも六ケ所自体が機密事項に該当します。だから、警察に捜査の主導権を渡さなかったんでしょ? リーは日本が自分を指名手配出来ないことを読んでいるし、よしんばそれを可能にするにしても時間が掛かることも分かってます。少なくとも、あと一週間じゃ無理。警察がリーの顔写真付き手配書を公表するころには、本人はとっくに雲隠れしていることでしょう。

仰る通り、リーがカメラにわざと映ったのは、こっちを挑発するためですよ」

「くそっ。そういうことか……」

「だから、シンガポールであんまり派手に動いちゃうとこっちの分が悪くなります。確実な追跡手段を構築しておくことの方が先決かと。それに、リーにはシンガポールで何かしなきゃならない用事があるんじゃないですか? だから、わざわざあそこに行くんです」

 

 自分が苦虫を噛み潰したような顔をしているのを自覚しながら、村井は頷いた。鈴谷の指摘は鋭く、的確だ。軽薄そうな見た目と態度だが、彼女は情報保全隊付き艦娘という役職を十二分に全うしている優秀な人材なのである。

 ただ、悠長にしている時間はなかった。鈴谷の言う通り、パーティが開催されるのは来週である。もしシンガポールに向かうなら今すぐにでも準備を初めておかなければ間に合わないだろう。村井は吸っていた煙草を途中で灰皿に押し付けて潰す。少しもったいない気もしないこともないが、急ぐことがあるので早足に喫煙所を後にした。鈴谷はもう何も言わず、新しい煙草を咥え、来た時と同じように背中を丸めて外を眺めながら煙をふかすだけの彫像に戻っていた。

 

 

 

 

****

 

 

 

 埃っぽい部屋の中から、シミだらけのくたびれたカーテンが掛けられた窓を見ると、隙間から外が見えた。

 大湊で一泊するにあたって与えられた、空いている寮室。喫煙所もそうだが、人手不足の著しいこの基地ではまともに掃除が行き届いている場所が珍しいようだ。鈴谷の居る寮室も、どうにも埃っぽくて一泊だけならまだしも、二泊以上はお断りさせていただきたいような汚い部屋だった。

 窓があり、ベッドがあり、小さな作業机とテレビが有る以外は、壁に絵も架けられていなければ飾りの植物もないような殺風景な空間である。暇潰しにテレビでも見ようと思って電源ボタンを押したら、何と映らなかった。コンセントはちゃんと差してあったので、どこか故障しているのかもしれない。修理部品すらあるか怪しい古いブラウン管のテレビだから、もうお役御免なのだろう。管理室に報告するのも面倒なのでそのままにしてある。

 手持ちの煙草も先程喫煙所で吸い切ってしまった。そこまでニコチン中毒というわけではないので、吸わなければ落ち着かないということもないが、暇潰しが全くなくなったので退屈極まりない。することもないので、鈴谷はベッドに寝っ転がり、ただただぼんやりとしていた。

 

 意識のスイッチを切ったような感覚だ。パソコンで言えばスリープモードとでも言うのだろうか。別に寝ているわけではないが。

 何となく、ベッドから見上げる窓に視線を這わせていた。そろそろ暑くなってきたこの季節にそぐわない厚手のカーテンだ。普段使われることのないであろうこの部屋だから、きっとこのカーテンも年中付け替えられることはないのかもしれない。人手不足なのではなく、この大湊警備府の人間が横着なのだろう。

 そのカーテンは完全に閉められているわけではなく、少しばかり隙間が空いていてそこから窓の外が見えた。

 

 ――外は、雪だった。

 

 今日の天気予報は晴れ。降水確率、東北北部から北海道南部にかけては5%。最低気温は18度。もちろん、外を歩く人間は誰もコートを着込んでいない。

 でも、窓の外では雪が降っている。音もなく、積もることもなく、ただ空から降り注ぐ白い結晶が一切れの影となって上から下へ横切っていく。

 

 白い結晶か、と鈴谷は自嘲した。到底そんな詩的に表現するに値するようなものではない。要は、ただの幻覚だ。

 ある時から、鈴谷の眼には存在しない幻の雪が映るようになった。幻覚だから当然冷たくないし、積もったりもしない。ただ網膜に有りもしない白い影が映るだけである。

 幻の雪が室内で「降る」ことはなく、外に出るか外を見た時にしか「降らない」。幻だから実際に寒いわけではないし、特に害もないので鈴谷はずっと放っておいた。ただ少しばかり困ることがあって、本当に雪が降った時に区別がつかないことが何度かあった。

 何故こんな幻を見るのかは分からない。医者にかかったわけでもないので詳しく原因を精査したりはしていないし、仮にそうしたところで原因を特定出来るとも思えない。心当たりが一つだけある他は思い付く原因というのはなかった。

 

 あの日からずっと幻の雪が降り続いている。決して鳴らぬ、決して晴れぬ、幻の雪。

 

 外に出て見上げれば、空はずっと鉛色だ。誰かが泣き腫らした目元のように膨らんだ暗い雲が天一面を覆い尽くし、そこから止むことのない浮池のようなものが地上へ降り注いでいる。ウェザーニュースによれば、今日は一日快晴だったそうだが、鈴谷の眼には朝からずっと雪が降って見えたし、青空なんて片鱗も見られなかった。今朝起きた横須賀の寮室から見える景色は曇り空で、東北新幹線に乗り換えた東京では暗い雲が低く垂れ込めて高層ビルに支えられながら雪を降らせ、青森に来てからも止むことは当然なかった。ニュース番組の天気予報士は、今日一日日本全国で好天気となると宣言していた。

 

 解釈、というほど大層なものではないが、鈴谷は漠然とこの幻の雪について、これは「呪い」だと思っている。

 あの日から鈴谷に掛けられた呪い。青空を見れぬという呪い。

 

 熊野が居なくなった、あの日からずっと続き、これからも死ぬまで続く呪い。

 

 あるいは、そのことを忘れぬために打ち付けられた釘なのかもしれない。鈴谷をずっとあの日に留め置いておくための。

 

 

 

 

 

 

 

 


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