シンガポールに近年出来た新しいランドマークと言えば、三棟並んだ高層ビルの上に巨大な「船」を乗せたような形の建物だ。このマリーナ・ベイ・サンズという奇抜なホテルから夜間に放たれる緑色のレーザーが向かう先、マリーナ湾を挟んで対岸にあるのがザ・フラトン・ホテル・シンガポールである。二十一世紀の夜明けとともに開業したため、ホテルとしての歴史は浅いが、建物自体はこのマレー半島の先端の島が植民地だった頃から存在している由緒正しいものだ。
フラトン・ホテルの立地するシンガポール川河口の一帯は元より都市国家の古くからの中心街であり、ホテルになる以前の建物の主な使い道は郵便局であった。その名残に、ホテルとして蘇った現在でも内部にはかつて使われていたポストやセピア色の写真が展示されていて、訪れる全ての人が往時を偲べるようになっている。
一時は植民地政府も入居していた関係か、建物はパラディアン様式の非常に豪奢なもので、重厚さと美しさの計算され尽くした調和が見る者すべてを圧倒する。夜間には柱廊の内側からライトアップされ、影になる屋根とのコントラストを際立たせる。
そんなシンガポールでも有数の最高級ホテルだが、今夜ばかりはエントランス前に並ぶ高級車の車列でその豪華さに輪が掛かっていた。世界中から富裕層の集まるシンガポールにおいても、これほどまでに高級車を一度に目にする機会はそう多くはないだろう。ロールスロイス、ベントレー、フェラーリ、マイバッハ、ポルシェと、見ているだけできらめくボディの輝きに網膜を焼き切られてしまいそうな車が揃っている。
だが、もちろん車の展示会が行われているわけではない。ただ単に、今日このホテルで行われるパーティーの参加者が、各々自慢のマシンでホテルに乗り付けただけなのだ。参加者たちはすでに車を降りてホテルの中に吸い込まれていった後だった。
自分は今、かなり場違いなところにいるんだと黒檜は居並ぶ高級車を前にして臆している最中だった。そもそもここに集まっているのは、若く鋭気ある実業家や老練で成熟した投資家、自信に満ち溢れたひと目で高給取りと分かるビジネスマンといった民間人や、シンガポールとその周辺国の政治家、普段大きな階級章を引っ提げているような高位の軍人たちであり、所詮は大尉でしかない黒檜には来る資格さえ与えられていない気がしてならない。最初にそう思ったからこそパーティーの主催者から“何をまかり間違ったのか”招待状が届いた時、きっぱりと断るつもりだった。だが、上から命じられては行くしかなかった。組織人の悲しい宿命である。
宿命と言えば、もう一つ。黒檜はれっきとした日本国軍人であるから、特別な場合やプライベートを除いて、常時制服を着用していなければならない。それは、このような奢侈な場でも例外ではない。「軍人服装規定」により、第二種夏服を着用している。海軍軍人の代名詞ともなっている、真っ白い軍服だ。輝かしいホテルの中にあっても目立つ純白は衆目を集めてしまうので、集まる視線にますます場違いなところに来ている気がして、緊張と羞恥ばかりが全身を支配していく。
あまりにも住む世界が違いすぎる。正直に言ってなどと前置きしなくとも、黒檜は今すぐにでも帰りたかった。綺羅びやかさとは程遠い、無骨で無機的な軍事基地がひどく懐かしく思えてくる。むしろそうした場所に居て、質素で機能的な作業服を身にまとう方が余程自分にはふさわしいだろう。どうしてもこのホテルに入らなければならないのかという、今日幾度目かの疑問は、しかし半歩前を歩く老年の将軍には口が裂けてもぶつけられないもので、先程から不満を漏らすことはおろかそれを顔に出すことさえはばかられることに、黒檜はとても抑圧された気分だった。
彼こそがシンガポール租借基地を治める「提督」、柳本海軍中将だ。
恐らく、この、小さいながらも重要な基地での指揮がその長い経歴の最後に添えられる花であろうと思われる彼は、退役間近な年齢ながら壮健で筋肉質の堂々とした体躯の持ち主で、高身長であることも相まって白い軍服が非常に似合っている。だからこそ余計に(緊張で凝り固まっていることが表に出てしまっているであろう)自分のことが対比的に悪目立ちするようで嫌なのだ。彼と黒檜とでは年齢が父と娘と言えるほど離れているので、若い黒檜が護衛を兼ねた付添として連れて来られたのだが、これではどう見ても柳本の方が頼り甲斐があって“強そう”に見えるではないか。しかも、太平洋と時代の荒波に揉まれ続けてきた彼は、内心動揺しっぱなしの黒檜とは違って、こんな華やかな社交の場においても威風堂々と振る舞っている。年の功と言ってしまえば、それはその通りなのだが……。
彼は臆することなく、まるでそこに来るのが当然のように淀みない足取りでホテルのエントランスをくぐり抜ける。丁度入口になっている回転ドアの前にボーイがおり、彼は恭しく頭を垂れて客人を迎えた。軍隊というのはどこでも格式張ったことが大好きなので、黒檜もこの手の歓迎というのはするのもされるのも十分経験済みだが、とは言え民間ホテルの出迎え方というのはまた一味違っているようだ。その違いの故、そして元より緊張が極まりつつあった心理状態だったこともあって、いよいよ掌が妙な汗に濡れ始めていた。自分でも動揺して視線が泳いでいる認識がある。
だがしかし、目の前の将軍は部下の異変などちっとも気に留める様子もなくどんどんと進んでエントランスからロビーに入って行った。足取りこそゆったりとしているものの、歩幅の違いか黒檜はやや早足で付いて行かなければならない。そして、ロビーに入って思わず足を止めることになった。
こここそがこのホテルの最大の特徴であり、顔でもある巨大な吹き抜けの空間だ。頭上は大きな採光窓となって昼間は陽光がロビーに降り注ぐようになっているのだが、地上階から最上階までが一気に開いているので非常に広々としている。この吹き抜けを囲う内壁には窓やベランダが取り付けられており、客室でもあるのかと黒檜は思ったのだが、チラホラと人の顔が見えるのでそれは思った通りのようだ。世にも珍しい「ホテルの内側を向いた」客室であるが、それこそがこのホテルが絶対的な自信を自分に抱いている証拠と言えよう。
ホテルが“中の景色”として売りにするだけあって、ロビーと吹き抜けはとても豪奢で優雅だ。吹き抜けの地上階には「コートヤード」という有名なカフェがあって、黒檜もホテルの名前と一緒に耳にしたことがあった。もうすぐ夕食の時間だが、カフェでは優雅にくつろぎながら紅茶を飲んでいる人が何人か見えた。こんなところで紅茶を飲めたら、それは最高の時間になるだろう。
だがいつまでも圧倒されているわけにもいかない。気を取り直して先に行ってしまった柳本の背中を探すと、意外にもその姿がすぐには見付けられなかった。部下を黙って置いていくような人物ではないので、きっと近くに居るのだろうが、ロビー内にはパーティ参加者やその付き人、あるいは関係のない宿泊客などで案外混み合っており、全体を見渡せない。正面にはグランドステア――地下一階に繋がる大階段があり、上から見下ろしても地下階に彼の姿は見当たらない。左右を見回していると、ロビー内にたむろする人の合間から見慣れた上官の後頭部を発見した。
黒檜は早足で柳本の下に近付いた。彼は入り口から入って左手、カフェの向こう側に居て、誰かと挨拶を交わしているようだった。そこはホテルの歴史を説明するギャラリーで、小さなブロックソファが並べられており、将軍と向かい合っている二人の人物はそこで彼を待っていた様子だ。
一人は壮年の男性で、もう一人が若い女性。二人ともスーツ姿で一見してビジネスパーソンに見えるが、柳本に対して十度の敬礼をして、柳本も規定に則って答礼しているので、彼らは軍人なのだろう。けれども、黒檜はこのホテルで“身内”と待ち合わせをしていたなど一言も聞いていなかった。慌てて柳本の隣に並び、黒檜は二人に名乗った。
「シンガポール基地の黒檜です。お初お目に掛かります」
「情報保全隊、中佐の村井だ」
「同じく、情報保全隊付、最上型巡洋艦三番艦の鈴谷です」
名乗りを受けた瞬間、黒檜は二つの違和感を抱いた。一つは、“情報保全隊”がこの場にいること。彼らの本来の役割はその名が示す通り「防諜」であり、どちらかと言えば反戦団体の集会にこっそりと潜入しているような泥臭い仕事のイメージで、このようなパーティーの場に出て来ることは職務の範疇に入りそうにない。地味なスーツなので、華やかなパーティーのドレスコードを満たすような格好ではない。
二人がこの場に居る理由で、すぐに思い付くのは、「海軍軍人倫理規定」に関わることだ。今夜のパーティはクリスティーナ・リーというイギリスの実業家の主催するものだが、彼女は海軍が調達している「緊急修復材」の供給メーカーの代表者である。すなわち、彼女は海軍の利害関係者。その利害関係者の主催するパーティに、軍人はおいそれと参加してはならない。下手をすれば(しなくても!)、癒着を疑われてしまう。ただし、多人数が参加する場合においてはその限りではない。
もっとも、それは倫理規定がそうなっているのであって、海軍という組織がどう考えるかはまた別の話だ。
つまるところ、彼らの目的はパーティの監視、もっと言えば新進気鋭のイギリス人実業家が、誇り高い海軍軍人に小賢しく賄賂を贈ったりするような人物ではないか見極めに来た、といったところだろうか。
もちろん、これは憶測だし、そうでない可能性も十分ある。だから、黒檜は素直に村井に目的を尋ねてみた。「あの、お二人はどうしてここに?」
「一言で言えば『調査』だ。サルマン社と彼らが開発した製品については、海軍自体がかなり注目していることなのでな」
「じゃあ、本省がパーティ会場周辺の警備をしろと命じたのは何故だい?」
煙に巻こうとする村井へ、柳本は鋭い問いを投げた。村井は少し困ったような顔になる。ここで、柳本にそのことを追及されるとは考えていなかったのだろう。上司に助け舟を出したのは、隣の艦娘であった。
「失礼ですが、中将はご存知でしょう。この場では言えませんが、先週起こったことです」
「あれか……」
「そうです。その絡みです」
予想は外れた。というより、黒檜には全く意味不明のやり取りだったが、柳本は納得したようだった。その様子から、言及されたのは恐らく機密事項に該当する事柄なのだろうと察する。それなら、必要なければ黒檜には情報が開示されないので、何のことかを予想するのは無意味だ。
故に、黒檜にとって気になるのは鈴谷の存在。これが違和感の二つ目。まず、「情報保全隊付」などという役職の艦娘が存在することが初耳だし、“最上型”の艦娘が所属しているというのもおかしい。
最上型というのはかつて重巡の艦型の一つだった。「だった」というのは、今は重巡ではないからだ。彼女たちの現在の艦種は「航空巡洋艦」。重巡に準ずる艦種であるが、重巡並みの打撃力を維持しつつ、重巡には扱えない水上爆撃機を多数運用可能なように特殊な改装を施された艦娘たちである。その意義は水上打撃部隊に限定的であっても航空戦力を自力で賄うことを可能にさせ、作戦行動の基本となる偵察能力の大幅な強化にある。だからこそ使い勝手のいい航巡は人気だし、実際鈴谷の“姉”たる最上型の一番艦と二番艦は最前線で引っ張りだこになっているという。
すなわち、航巡というのは非常に戦術的価値の高い、貴重な艦種なのだ。それが最前線ではなく後方でしか活躍の場がなさそうな情報保全隊の艦娘をしているというのだから、これをおかしいと思わない方がおかしい。
持ち物を見ても、小さなハンドバッグしか持っていない。艤装は持って来ていないようだ。それも当然。艦娘の兵装はその大きさからすれば明らかに過大な破壊力を持っている。文字通り、鋼鉄の軍艦に匹敵する火力があるのだ。そんな危険物を、言うなれば軍艦の主砲を、街中のホテルに持って来るような酔狂は居ないし、居てもらっては大いに困る。
「何にせよ、ここにはシンガポールや日本のみならず、世界中から重要な人物たちが集まって来る。くれぐれも、よろしく頼むよ」
柳本は、彼からすれば吹けば飛ぶような遥かに階級が下の二人に向かって重々しく釘を差し、釘を差された方の二人も恭しくお辞儀をした。
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"Welcome、ladies and gentlemen! Good evening. I cannot help being grateful to you for attending our party today."
(ようこそ、紳士淑女の皆さん。こんばんは。今日は私たちのパーティにお集まりいただいたことに感謝の念を禁じえません)
ゆったりとして軽やかな英語が耳に心地良く響いた。
この、フラトン・ホテルでも最大の面積を誇るバールルームにはパーティーに招待された参加者たちが一同に集まっている。彼らの視線の先には床より一段高く設けられたお立ち台があり、その背後の壁には三つの大きなモニター画面が据え付けられていて、画面にはこのパーティーを主催する企業のロゴマークが表示されていた。真ん中と向かって左のモニター画面の間、お立ちの端に置かれた細い演台の向こうでスピーチを始めた人物が居た。主催者、サルマン社代表のクリスティーナ・リーである。
"I believe that the new products we have developed causes a huge change in the war between the humans-fleetgirls union and the abyssal fleet. However, if our products were the things only for that, you would not have come here like this today."
(私たちが開発した新しい製品は、人類・艦娘の連合と深海棲艦との戦争に一つの大きな変化をもたらすものと信じております。しかし、私たちの製品がただそれだけのための物であるとしたならば、皆さんが今日ここにこうしてお集まりされることはなかったでしょう)
リーは会場を見渡しながら淀みなくスピーチを続けた。彼女はネイティブだが、ネイティブらしい単語と単語が繋がった早口の英語ではなく、英語が得意な人も不得意な人も聞き取りやすいように、しっかりと単語同士を区切った発音と平易な表現に腐心しているようだった。
"Even though it was partial, we have succeeded elucidating 'Fairy's technologies' which had been black boxed until then and could not be clarified by even the most advanced science. It led to the development of Emergency Repair Material this time. I'm convinced that this success will contribute greatly to progress of the scientific civilization of humanity."
(部分的ではありましたが、私たちは、それまでブラックボックス化されていて、最先端科学でも解明出来ていなかった『妖精の技術』の解明に、成功を収めました。それにより、この度の緊急修復剤の開発に至ったのです。この成功が人類の科学文明の前進に大きく寄与すると、私は確信しています)
まだ三十歳に達していないだろうと思われる、この若く背の高いアングロサクソンの女は、生まれついての天才的な頭脳を持って飛び級で大学を卒業した後、バロー=イン=ファーネスにあるBAEの先端技術研究所に勤め始めた。そこは軍の依頼で艦娘と深海棲艦に関わる技術の研究・開発を行っている施設で、そこが持つ役割の特性上、機密情報に触れる機会も多々あったであろう彼女の、BAE時代の功績は明らかになっていないが、どうやら艦娘の艤装の研究に携わっていたようである。彼女はBAEに勤め出してから数年後、そこを自ら退職した。
けれど、それによって彼女とBAE、そして英国海軍の繋がりが切れたわけではない。むしろ、より以上に密接になっていたと考えるべきだろう。退職から一年、彼女はスピーチで述べたように今まで人類が手出し出来ていなかった妖精の技術を応用し、緊急修復剤を作り上げたのである。
妖精の技術は、艦娘の艤装を動かし、建造し、修復する「妖精」と呼ばれる小さな人形生物の持つ技術で、「女神の護り」を与えられた艤装や名称の元になった実際の砲と同じ威力を持つ艦娘の砲、妖精が操縦するミニチュアサイズの艦載機など、現代科学では到底実現不可能な兵器を作り出す源泉である。この技術を物に出来れば、人類のテクノロジーは軽く一世紀分進歩するだろうと言われていたが、今までそのような快挙を成し遂げられた人間は居なかった。だからこそ、リーとその仲間たちが成し遂げたことがこれほどまでに注目されるのだ。
彼女たちは妖精の技術を応用して緊急修復剤を作り出した。「応用」するには原理が分からなければならない。それはイコール、彼女たちが妖精の技術を解明出来たというのと同じこと。これがどれほどの大成功であるか、表現の仕方は筆の得意なマスコミにでも任せるとして、黒檜としては控えめに言って「ノーベル賞は当然。それですら彼女の快挙を称えるには物足らない」程度だろうと考えている。
リーは最初に挨拶を述べた後、後ろのモニターを示し、「それでは簡単に緊急修復剤の原理をご説明しましょう」と言った。
それから彼女は五分程度の短い間であったが、よくまとめられた緊急修復剤についてのプレゼンテーションをモニターの映像を交えて行い、ひと言挨拶してからお立ちから下りた。参加者たちはようやく思い思いに出された料理にありつける時間を迎えられた。いや、正確には参加者の一人である黒檜は、だ。
黒檜には緊急修復剤のことなどあまりよく分からない。リーの説明は上手だったが、どうにもそのプレゼンテーションには重要な部分がぼかされているようで、釈然としないところがある。ただ、それを本人に直接聞こうにも人気者の彼女はあっという間に他の参加者に囲まれてしまったし、そもそもあまり緊急修復剤の原理に興味を持っていなかった。重要なのはそれが有用かどうかであって、今のところ艦娘担当者としてはその有用性を認めつつ、しかし逼迫した必要性は感じていない、というのが正直なところである。
その点は直属の上官である柳本も同じ見解だ。緊急修復剤を求めるのは主に最前線の部隊であり、シンガポールのような後方に位置する基地ではあまり必要にならない。現場の艦娘たちもどちらかと言えば休暇を要求するだろう。そんな程度のことである。
「見ろ、ウォースパイトも居るぞ」
特に何かが起こりそうな気配もないので、あくまで呼ばれたから来ただけの黒檜は早速美味しい料理に舌鼓を打っていたのだが、不意に傍らの柳本がそう声を掛けてきた。彼が目を向ける方を見ると、確かに見たことのある有名人が居た。ガラス繊維のような透き通ったプラチナブロンドの美女が、爽やかな微笑みを浮かべてシンガポールの外務大臣と談笑している。どこかの女優のような美しい容姿の彼女だが、これでも立派な艦娘である。制服も着ていないし、とてもそうは見えないが。
彼女こそ、“世界最初”の艦娘にして、栄光ある大英帝国海軍の“艦婦”艦隊(Women's Fleet Service)の旗艦であり、希少な「代将」の階級を与えられた艦娘でもある。その威光はブリテン島のみならず世界中に届いており、国連軍においても全世界の艦娘の事実上の代表としての地位を認められている存在だ。
噂には聞いていたが、シンガポールにやって来たのは本当らしかった。サルマン社は彼女にとっても肝いりの企業、ということなのだろう。
黒檜が物珍しげに眺めていたせいか、ふと彼女は気配を感じ取ってこちらを向いた。そして、淑やかな笑みを浮かべながら軽く会釈してくれる。黒檜も思わず食事の手を止めてしまった。
その間に、今度は柳本がどこかの企業経営者のような恰幅のいい男に捕まったので、黒檜は一人黙々と皿に料理を盛り付けるしかなかった。本当を言えば、こうした立食会でただ食べるだけというのは失礼に値するのだろう。ここは社交の場であるから、見知らぬ人との交流を深めることを目指して動かなければならないはずだ。
けれども、ただの軍人である以外は特にこれと言って特徴がない(と自覚している)黒檜には、こういう場で誰かに振れる話題の持ち合わせというものがない。だから、黒檜は手近に居る誰かと話すより、一人で食べることを選んだ。料理が美味いことも大きな比重を占める理由だったけれど。
しかし、黒檜がそうだからと言って周りの人間まで同じではない。彼らはむしろ、人とコミュニケーションを取るためにここに来ているのだから。
「ここの料理は美味しいわね」
不意に流暢な日本語で話し掛けられて黒檜は飛び上がった。あんまりにも驚いたので咀嚼中だった七面鳥のもも肉の塊を喉に詰まらせるところだった。
「驚かせてしまった? ごめんなさいね」
彼女は艶やかに微笑んだ。二度目の衝撃を受けていた黒檜に返す言葉はない。
というのも、目の前に立つ美しい女は、先程まで演台でプレゼントをしていた主催者なのだ。何もしなくとも人だかりに囲まれてあっという間に姿が見えなくなってしまうような人気者なのに、今は一人で黒檜の傍に寄って来ていた。柳本に助けを呼ぼうとして目だけで彼を探すと、いつの間にやら二つほど離れたテーブルで若い男と楽しげに談笑中である。つまり、黒檜は何故か主催者と一対一で話さなければならない状況になってしまっていた。
出来るだけ目立たず、この時間をやり過ごそうとしていたのに、一体全体どういう運命のいたずらで時の人から話し掛けられる事態になったのだろう。確かに黒檜の所属する組織は彼女の会社の主要な顧客の一つであることには間違いないが、別に黒檜には調達に関しての決定権などないし、実質的なユーザーである艦娘でもないのだから、まったくもってリーが話し掛けてきた意図が見えてこなかった。
「では、改めて。私はクリスティーナ・リーよ」
「日本海軍シンガポール基地所属の黒檜……です」
「基地所属! そう、貴女は艦娘ではないのね?」
やっぱりそうか、と黒檜は一人納得する。艦娘は皆若い女性であるし、黒檜も艦娘と言えなくもない容姿をしているから、たまに間違えられることがある。リーも同じなのだろう。
「でも、それで失望したりなんかしないわ。普段は何をしているの?」
「艦娘の管理担当をしています」
リーはどういうわけか少し興奮気味だった。まるで十代の少女のように透き通った赤い瞳を輝かせ、コロコロと表情を変える度に少しずつ頭が動くので、緩やかに結い上げたウェーブの掛かった髪がふさふさと揺れる。大人びた真紅のドレスに対して、その子供っぽい振る舞いが、彼女をどうしようもなく魅惑的に見せていた。
「あら。ということは、私の招待を受けてくれたということなのね。嬉しいわ」
「ま、まあ。色々ありますし……」
「こういう場は初めて? でも、今の貴女はとても輝いているわ。白い制服が綺麗ね。大理石のよう」
海軍軍人が白い制服を着ているなど珍しくもないし、彼女の国でだってそれは同じだ。それに、まさか同性からそのような言葉を掛けられるとは思ってもいなかった。
答えに窮しているうちに、リーはまだペラペラと機嫌良さそうに喋り続ける。
「私としては現場で私たちの製品を使うユーザーの意見を聞きたいの。それを今後のさらなる開発に取り入れていきたい。貴女はどう思うかしら?」
「ええっと……」
「それとも、『マラッカの海賊を追い払うのに私たちの製品は必要ない』かしら?」
「……」
「当たりね。意地悪を言ったわけじゃないから気を悪くしないで。軍隊というのは合理性の組織だから、必要のない物をいたずらに発注したりしないのは知っているよ。でも、私にはいつかあれが必要になる日が来ると分かるわ」
「そうでしょう、ね」
「そうよ。いずれは皆、それも遠くない将来に。もちろん、貴女もね」
「……え?」
意味深なリーに反射的に問い返す。だが彼女は口の端を釣り上げるだけだった。
リーは美女だ。顔のパーツの配置は完璧で、しかも頭蓋骨の大きさに対しての目鼻口の大きさの比率もちょうど良い。まるで誰かが「美しくなるように」整えたような美貌だ。自然の造形美とは思えないほどの美しい顔で、彼女は柔らかく微笑む。天使のような、それでいてどこか不安にさせるような微笑みだった。彼女の声に心臓が反応し、激しく鐘を打つように四回も動悸する。血の色が映っているような紅い瞳が黒檜を見据える。透き通るような眼に、己の全てを見透かされたような気がして、黒檜は眩暈を覚えた。
――いや! この感覚、どこかで……。
デジャブが訪れる。どうしてか、自分が“覚えている”ことに黒檜は気付いた。
おかしい。リーとは初対面なのだ。彼女の顔を今まで写真で見たこともない。声を聞くのも、顔を見るのも、すべて今日が初めて。知っていたことと言えば彼女が「クリスティーナ・リー」という名前で、バローのBAEシステムズ社先端技術研究所の元所員で、現在はサルマン社という企業の代表を務めているという、書類を読んで覚えただけの知識のみ。だから、黒檜が彼女についてエピソード記憶を想起し得るはずがない。
きっと何か、よく似たものの記憶が引っ掛かっているのだ。それがあまりにも脳の奥の深い部分に仕舞い込まれていて思い出せないだけだ。
「上々ね」
彼女は一言呟いた。それは、時折黒檜が口に出す癖だった。
偶然? まさか意図的ではないだろう。たまたま、彼女がそういう言葉を選んだだけだ。数万語もある日本語の単語の中から、黒檜の口癖となっている「上々」という言葉を彼女が偶発的に選択する確立というのは、ゼロではないのだから……。
だが、何が良かったのだ? 何が「上々」なのか?
その答えを問い質す前に、リーは呼ばれて黒檜の前を離れていってしまう。彼女を呼んだのは、先程まで外務大臣と話していたはずのウォースパイトだった。
栄えある英国艦隊の旗艦は、ちらりと黒檜に視線を投げると、今度はさっきのように愛想を見せてはくれなかった。彼女はどうやら不機嫌のようで、視線にも表情にも冷たさが垣間見えた。
一方で、黒檜に背を向けるリーの足取りは楽しげで、手に持ったワイングラスの中身が盛大に揺れて零れそうになっているのも気付いていない様子だ。二人は間もなく合流し、すぐに要人たちに囲まれてまた姿が見えなくなってしまった。
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どうにも黒檜にはこうした華やかな社交の場というのは合わないらしい。料理は美味しいが食べ続けているわけにもいかないようで、あの後リー以外にも何人かから話を振られ、その度に適当に受け答えしてやり過ごすことになった。自分とはまったく違う世界に生きる人々に話を合わせるのは思いの外、労力の要求されることで、宴もたけなわになる頃にはすっかり疲れ切ってしまっていた。
致し方なく柳本には一言断って会場を辞すことにした。これ以上パーティーに居てもただただ疲弊していくだけだろうと思ったからだ。
パーティー会場から出て、吹き抜けのロビーに戻る。驚いたことに、カフェ「コートヤード」はまだ営業していて、時間が遅いために人数こそ数えるほどしかいないものの、それでもチラホラと利用客の姿があった。だから、黒檜もすぐに彼女の姿を見つけることが出来た。
「ずっと、待ってるの?」
鈴谷は空になったカップを置いたままスマートフォンを抱え込むように見ていたが、黒檜が前の席に腰掛けると気配に気付いて眠そうな目を向けた。姿勢が悪くて目が悪くなりそうだ。
「えっと、まあ」
「村井中佐は?」
「一服に」
「そっか。私は疲れたから出て来ちゃった」
鈴谷の顔にははっきりと不信感が表れていたので、黒檜は正直に言った。すると彼女は黒檜にはもう興味を失ったようで、背もたれに体をあずけると、「ああいうのは肩が凝りますよねぇ」と呟いた。
どうやら、彼女は勝手にパーティーから逃げ出したことを咎めるほど真面目な性分ではないらしい。見た目からして「遊んでる学生」のような鈴谷だが、良くも悪くも寛容なのはありがたい。これで小言の多い相棒のようだったら、せっかく逃げ出して来た意味がなかった。
「……ぃ。……い。黒檜大尉!」
気付くと、鈴谷がひどく不審げな顔でいる。「どうしたんですかぁ?」と間延びした声が訊いてくるので、黒檜は少しだけ頭を振って答えた。
「何でもない。思ったより疲れてるみたいだわ。少し、外に出てくるわね」
と言って立ち上がり、黒檜はそそくさとカフェを後にする。鈴谷は興味がなさそうに「はーい」と上辺だけの返事をした。
まただ。また、記憶に齟齬を感じた。
今度は先程のデジャブよりもはっきりしている。思い出したこともない誰かの存在が、明瞭に脳裏をよぎった。でも、今はもうそれが誰だったのか思い出せない。それが妙な苛立たしさとなって黒檜の胸の内に少しの荒廃をもたらす。景色でも眺めて気を落ち着かせようと、メインエントランスを出てホテルの目の前に掛かっている吊橋のたもとに足を運んだ。
この橋はカベナ橋と言って、シンガポール川に架かる最古の橋らしい。有名な観光名所で、もうだいぶ夜が更けた時間にも関わらず、結構な人通りがあった。中心街に近いし、そもそもシンガポール自体が不夜城のごとく明るい街だから、四六時中人の動きはある。フラトンホテルの目の前をシンガポール川が流れており、岸壁の上からはビルの夜光を反射する水面を見下ろせた。ちなみに、カベナ橋のたもとには面白い物があって、川に飛び込んで遊んでいる五人の子供の銅像が設置されているのだが、岸壁から飛んだ子、飛ぼうとしている子、それを岸壁に腰掛けて眺めている子など、今にも動き出しそうなリアルな像で、ここではちょっとした名所となっている。
それは、きっとかつてこの川辺で見られた光景なのだろう。真っ先に飛び降りた少年など、両手を広げてまるで宙に浮いているようだ。「落ちそう」と思って“五人”を眺めていると、不思議と心が落ち着いた。
黒檜はゆっくりとした足取りで川沿いを下り始める。すぐ右手にはホテルのカフェテラスがあったけれど、営業時間を過ぎているのか人気はなかった。名所となっているカベナ橋から離れていっているせいか、人通りもめっきり少ない。ほとんどの人は橋を渡り対岸に行くか、渡って来てホテルの前を行き過ぎていく。子供たちの像のすぐ傍には岸壁から水面近くまで降りていく階段があって、リバークルーズ船の乗り場になっている。今はそこに一隻のボートが接岸されており、波に揺られるたびに軋んで音を立てていた。
落ち着いてくると、頭の中を整理する余裕が生まれた。記憶の齟齬について、黒檜は考えをまとめ始める。
そもそも、自身の記憶に不明瞭なところがあるのは知っていた。はっきり言えば、およそ一年より前から、軍に入隊する前までの記憶が思い出せないのだ。医者によるとその期間のエピソード記憶がごっそりの抜け落ちているような状態らしい。逆にそれ以外の記憶は異常なく、黒檜は海軍の細かな規則をちゃんと覚えているし、入隊後に徹底的に身に叩き込まれたであろう敬礼の仕方やロープの結び方は、思い出そうとしなくとも体が覚えている。戦傷によって頭部にダメージが有り、致命的にこそならなかったものの海馬に傷が生じたため、と説明を受けた。海馬が司るのがエピソード記憶なので、一部欠落している箇所があるそうだ。
ただ、海軍軍人として必要な知識は消えていなかったことが幸いして、黒檜は再就職先を探さなくて済んだ。どこかのお人好しが記憶を失った黒檜の後ろ盾となってくれたらしく、その人物のお陰で療養の意味合いも含み、後方で安定したシンガポール基地に配属してもらったのだ。それが、十ヶ月程前の話。
実を言うと、黒檜は後ろ盾となってくれたその人物のことを何も知らない。海軍の関係者であることは間違いないのだが、階級や立場はおろか、性別すら分からない。ただ、シンガポール基地に配属された時に柳本にどうしてシンガポールに飛ばされたのかを率直に尋ねたら、彼が言ったのだ。「君の後ろ盾になったお人好しからの頼みごとでね。あれには借りがあるから受け入れたんだよ」と。
どうやらその人物は柳本とは知古の者らしいが、正体をそれとなく探っても彼は教えてはくれなかった。余程秘密にしておきたい何かがあるのか、黒檜の意図は分かっているだろうに彼は少しも答えてくれない。ただ、その人物がどれだけお人好しであろうと、少なくとも一度も会ったことのない相手にこのように情けをかけるとは考えづらいので、恐らくは記憶がなくなる以前に知り合っているのだろう。問題は、黒檜がそれを覚えていないことなのだ。
知らないと言えば、実は記憶が失われている期間に何があって、どういう経歴を持っていたのかということを、黒檜はまったく教えてもらえていない。そもそも記憶喪失になった経緯すら不明で、何らかの戦傷によるものということまでは予想がつくのだが、どうしてかそれは明らかにされていないのだ。このシンガポールに配属されて十ヶ月。時折、滞りなく艦娘担当者として彼女たちの世話や管理を卒なくこなせていける自分自身に対して、何者であったのかという不信感を覚えることがある。
自分のことを調べようという意志もあった。けれど、忙しさを言い訳にして行動に移していない。本音を言えば、怖いのだ。自分が何者で、何をしてきて、どうしてこうなったのか。自分にとって最も身近である「自分」という人間が、自分にとってまったく未知な人物であることの矛盾と、その矛盾を解消した時に目の前に晒されるであろう真実に向き合う覚悟がない。
それを臆病となじる理性があるのも事実だ。しかし、「知らぬが仏」という言葉もあるように、必ずしも真実を明らかにしておくことが最善であるとは限らない。という見解が今のところ黒檜の心中の大部分を占める。葛藤するほど悩んでもいないし、そこまでせめぎ合う気持ちもない、まあ、要するに、逃げているのだ。真実を知ることから。
このような“自分のことを覚えていない自分”に対して不信感や不快感を覚えたとしても、今まで黒檜はそのことに真面目に向き合わなかった。そんなことをしなくとも、気のいい駆逐艦たちや、鷹揚な上官に恵まれ、心地良い職場があって心地良い日々を送れていた。そうやって日々の忙しさにかまけていれば恐ろしい真実に目を向けないことへの言い訳が立てられていたのである。
ところが、このパーティーに参加して二度、黒檜は自分の記憶に疑惑を抱かざるを得なかった。一度目はデジャブ、二度目は違和感。どちらもはっきりしたものではないが、何かを思い出しかけたということは自覚している。
柳本が過去のことを教えてくれなかったのは、黒檜がそれを知ることを望んでいないと見抜かれていたからだろう。実際、今でも恐ろしいのだ。パンドラの箱を空けてしまうのではないかと思って。
黒檜の身近には重い過去を背負っている者たちが居る。かつて深海棲艦「駆逐水鬼」として海軍や人類に牙を向いた百十七駆逐隊の萩風と嵐がそうだ。数奇な運命を辿り、多くの壁や困難に阻まれながらもそれらを超克し、周囲の理解者に助けられながら、過去に潰されず前へ進んでいる二人の姿勢には素直に敬意を表そう。だが、黒檜には彼女たちほどの強さはなかった。もし彼女たちのような受け入れがたい過去が自分にあったのだとしたら、黒檜自身がそれに耐えきれないだろうし、想像するのも恐ろしいことだ。
――Excuse me.
思考に没していた中で突然に声を掛けられて黒檜は心臓を縮み上がらせた。あまりにも没入しすぎていたから、背後から近付いて来たその人物の気配にも一切気付かなかった。
振り向くと、そこにはホテルの制服を身にまとった女が一人。言わずともフラトンの従業員だろう。長い赤髪を後頭部で高く結い上げて一房にした女で、シンガポールでは最も多い中国系の住人だと思われた。彼女は瑞々しい唇で円弧を描き、続いてシンガポール人には珍しい“綺麗な”英語を喋った。
「驚かせてすみません。当ホテルのお客様でしょうか? こんなところで夜風に当たっていると風邪をひいてしまいますよ」
「……ああ。ええ、そうですね。でも、少し外の空気を吸いたかったんです」
「夜の散歩は悪くありませんね」
ホテルの女性従業員は軽やかに会話に乗り、一歩距離を詰めてきた。
彼女の用件はホテルへ戻るように促すことだけなのだろうか。
「そうね。たまには……」
「たまには、いいでしょう」女性従業員は黒檜の言葉を遮り、そして引き継いだ。「私の個人的なオススメは遊覧船で夜景を楽しむことです」
「夜景もいいですね」
「でしょう? ただ、それはまたの機会になります。少なくとも、今夜は出来ません」
「……あの、それは?」
発言の真意を問い質そうとした黒檜だったが、不意に全身から力が抜けてそれ以上言葉を続けられなくなった。崩れ行く視界の中で、先程から固定されたように変わらない女の愛想笑いだけが中心に据えられたままだった。自重を支えるほど足の筋肉を使うことす叶わなくなり、黒檜はその場にしゃがみ込むように倒れる。それを、女が黒檜の胴体を抱える形で支えた。
「少し、眠っていてくださいね」
目の前が真っ白になる。日本語で語られた女のその言葉だけが、直接頭の中に響いた。