レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督40 Like chasing the White Rabbit

 ずっと考えていた。クリスティーナ・リーは何故シンガポールに来たのか。

 パーティには色んな人間が集まっていた。エントランスでパーティにやって来る面々を待ち受けていた鈴谷は、その全員の顔が分かるように超小型レンズがはめ込まれたペン型カメラで彼らを盗撮していたのである。地元の富豪やシンガポールの政治家、日本や欧米の企業経営者など、錚々たる面子が集合している。そんな中で、白いカンドゥーラをまとったアラブ人たちはとても浮いて見えた。が、金持ちたちは誰も気にしていないのか、彼らはごく当たり前のようにパーティ会場に入っていった。

 日本とアラブを結び付けるほとんど唯一のものは、石油である。ここシンガポールは、カレー洋沿岸沖をアラブから航行して来たタンカーが錨を下ろす中継地でもあるので、アラブ人が居ること自体は不自然ではない。ただ、彼らがリーのパーティに来ていることが今一つ腑に落ちないのだ。

 厄介なのは、考えても分からない謎が増えるばかりである。リーとシンガポール、リーとアラブ人たち。結び付ける物は何であろうか。

 リーがここに来ているなら、奪い取った「海軍検体405号」、すなわち「加賀」も連れて来ているかもしれない。彼女がどこのホテルに宿をとっているかはまだ分からないが、少なくとも人目に付く場所に「加賀」を寝かせていたりはしないだろう。そもそも、「加賀」を拉致した理由も判然としない。

 

 スマートフォンをで暇を潰しつつ誰かを待っているふりをしながら考え込んでいた鈴谷だが、不意に気配を感じて顔を上げるとパーティ会場を抜け出してきたらしい黒檜が向かいに腰を下ろしたところだった。彼女は「疲れた」などと嘯いて、ばつの悪そうな笑みを浮かべる。別に咎めるつもりもないので適当に相槌を打って再び考えに没頭しようとするが、ふと違和感を覚えてまた黒檜に視線をやる。

 相槌に対する反応がなかったし、急に静かになったのが変だ。案の定、黒檜の目は泳ぎ、どこか遠くを見ていた。試しに手を伸ばして目の前で振って見せても反応がない。心ここにあらずと言うか、見えていないようだ。

 

「大尉?」と呼び掛けてみるが、ぼんやりとした黒檜の様子は変わらない。

 

「大尉、大尉、黒檜大尉!」

 

 今度は少し強く呼ぶ。すると、ようやく現世に戻って来たのか、目の焦点が合って黒目がちの瞳が鈴谷を見据えた。

 

「どうしたんですかぁ?」

「何でもない。思ったより疲れてるみたいだわ。少し、外に出てくるわね」

 

 黒檜は頭を振り、取り繕うようにそう答えた。ぼんやりしすぎだろうと思ったが、変に追及しても何も出て来なさそうなので、適当に返事をしておいた。黒檜はそそくさとエントランスを後にし、外に出て行ってしまう。それを見送り、鈴谷は思索に戻る。

 

 どうしてリーはシンガポールでパーティなど開いたのだろう。今回のパーティ、主旨は「緊急修復材の更なる普及に向けた交流」となっているが、既にそんなことをしなくともサルマン社には世界各国から緊急修復材の大量の受注が集まっているはずである。こんなことをするのは今更な気もするし、これだけ派手にするということは何かを隠すのが目的ではないだろうか。手品師がよくそうするように、“あるところに目を集めておいて”誰も見ていないところでタネを仕込む。ミスディレクションだ。

 だが、そうするとなると何を隠そうとしているかが問題になる。派手にパーティを開いてまで隠したいものは何だろうか? 何かをしようとしている?

 リーには仲間が居る。リー本人はパーティに参加しているのだから、終わるまで身動きが取れない。ならば、パーティ中に何かをしようとするなら仲間に頼るはずだ。鈴谷の知る限り、リーには仲間が数人。一人は六ケ所の施設を襲撃した時にリーにお供していたダークスーツの長髪の女で、その時別動隊として動いていたであろう人物も存在する。

 リーにはシンガポールでしなければならないことがある。パーティを開いたのはそのためだとしたら、仲間たちはもう動き始めているだろう。今のところ面が割れているのは長髪の女だけだが、闇雲に探してもその女を見付けられる可能性は低い。女が単に加賀の世話をしているのでなければ、だが。

 いや、そこだ。加賀を連れて来ているとしたら、それも理由が分からない。どうやって日本から、という手段について考えるのは後にして、リーが加賀を必要とした理由だ。加賀とシンガポールを結び付けるものは……。

 

 

「おい、寝てるのか?」

 

 頭上から低い男の声が降ってきて思考を止められた鈴谷は、若干の苛立ちを覚えながら村井を見上げる。至福の時を過ごして戻って来た彼は、大業そうに前のソファ――先程まで黒檜が座っていたところ――に腰を下ろした。

 

「考え中だったか?」

「まあ、そうです。何で、リーの奴はこんなパーティを開いたのかって、その理由を」

「気になるよな。おまけに直接関係なさそうなアラブ人も居たし。奴は熱心にERMの宣伝をしているが、それだけ売りさばきたい理由が金以外にもありそうだよな。だが、奴が何を考えているのか見当もつかん」

「何かを隠したいんだと思います。こちらの目を欺きたい。だけど、じゃあ何を隠そうっていうのかが分からなくて」

「今頃、何かをしようとしているって言うのか?」

「そうです。これだけ人を集めたんだし、何か狙いがあるはず」

「全員に招待状を送っているらしい。そこまで労力を掛けるんだから、余程のことだろう」

 

 村井は腕組みをしてソファに沈み込む。少し、彼の顔に焦燥のようなものが浮かんでいる。リーとその仲間は今晩動くかもしれない。だが、それを突き止められないのはとてももどかしいことだった。

 彼の言う通り、招待状を参加者全員分ばら撒いたわけだから、リーは余程このパーティを開きたかったと見える。

 

 

「あれ?」

「どうした?」

 

 今、何かが引っ掛かった。

 

「何か気付いたのか?」

「あ、いや……」

 

 すぐに思い出せない。喉元まで出かかっているのに、すっきりと吐き出せない。言葉にしようとして、言うべきことをド忘れしてしまったような気持ち悪さが胸の内に渦巻く。

 

「えっと、その」頭を抱えて鈴谷は唸る。そして、ようやく思い出した。気になった単語を。

 

「招待状だ!」

「招待状? それがどうかしたのか?」

「招待状って、名指しで来たんですよね。中将には中将宛で。黒檜大尉には大尉宛で」

「そうらしいが、それが?」

 

 村井はまだ気付いていないようだ。だが、言ったのは彼だ。全員に招待状が送られている、と。

 それは、金持ちのパーティでは不自然なことではないのかもしれない。こんなパーティに飛び入り参加する無粋者はなかなか居ないだろう。普通は、主催者から招待を受けて参加するものだ。

 実際に、この場に集まったのはそういったパーティに慣れた人物たちばかり。彼らが今日、このホテルに集ったのは、全てリーの招待があったから。そして、人種の違いはあれど、皆社会的ステータスが相当高い人間ばかりだ。企業経営者、大企業の幹部、政治家、官僚、そして高級将校。ただし、明らかに一人異質な人物が混ざっていた。

 それは他でもない、シンガポール基地所属の艦娘管理担当の大尉、黒檜だ。

 

 シンガポール基地司令の柳本中将が招待されているのはおかしくない。彼はシンガポールでは一定の影響力を持つ軍人であるし、階級も十分高い。一般に高級将校と言えば大佐以上を指すが、シンガポール基地には柳本の部下で、大佐階級の軍人は居たはずだ。招待状を送るなら、と言うよりこのパーティに相応しいステータスを持つ人間をシンガポール基地から柳本の他にもう一人選ぶなら、やはり中将の副官が適している。そもそも、それほど階級の高くない黒檜を名指しして呼ぶ理由は何だ?

 

 それこそがパーティの目的だとしたら? 彼女を呼び出すことが狙いだとしたら?

 

 艦娘担当など、普段は基地の外に出たりしない。基地は警備が厳重で、手を出し辛い。ならば、自ら外に出て来てもらった方が、その後の融通を効かせやすい。

 今まで詰まっていた物がするすると出て来る。バラバラだったピースが組み上がり始め、少しずつ全体像の輪郭がはっきり見え出した。

 リーが「加賀」をシンガポールに連れて来たのだとしたら、なおさら筋書きが見えてくる。黒檜の経歴を考えれば、何となくリーのしたいことが分かる。

 

 

「大尉だ!」

 

 鈴谷は座っていたソファから跳ね上がり、ホールの中を猛然と駆け出した。先程黒檜が出て行った正面玄関をガラス扉を破る勢いで通り抜け、ホテルから飛び出す。

 

 

 外は“雪”だった。もちろん、常夏の国であるから、行き交う人々の中でテレビやインターネット以外で「雪」という存在を目にした者は少ないだろう。単に、それが鈴谷には見えているだけだ。

 煌々と輝くホテルと街灯で外はそれなりに明るかったが、遅い時間帯にもかかわらず人通りは絶えない。だが、探す範囲は限られているはずだ。本当に雪が降っているわけではないから寒くはない。黒檜は少し夜風にあたりに行っただけで、中に柳本が居る以上、ホテルから離れたりはしないだろう。目の前にある吊り橋を渡ったりはしないはずだ。

 視線を橋からその下を流れる川へ移す。川べりまで駆け寄って下を覗き、左右に素早く目をやってそこに誰も居ないことを確認する。繋がれているボートも無人だし、橋の下にも誰も居ない。

 ホテルの入り口を振り返り、それから反対側にも顔を向ける。黒檜はどちらに行ったのだろう? 出て来た時に出会わなかったのだから、入り口とは反対側に行ったのだろう。そちらは人通りがほとんどなく、街灯も数が少ないので薄暗い。

 鈴谷は再び駆け出した。艤装を持って来ていないので俊敏に動ける。ホテルと川の間の歩道を走り抜け、目の前に見えるもう一つ下流の橋のたもとへ向かう。そちらは電飾で輝く太い鉄骨の橋だ。

 鉄骨の橋とホテルの建物との間には生垣があって視界を遮られている。その向こうに何があるのかを知りたくて、鈴谷は全力で走った。

 

 生垣を抜けた先は鉄骨の橋を渡る道路の歩道になっており、歩道と車道との間には街路樹と背の低い植物の植え込みが境界線となっていた。ただし、車道側は一車線分空いており、実際に車の通る車線とそのスペースは連結されたブロックによって区切られている。ホテル脇から道路に飛び出してきた鈴谷の視界に映ったのは、そのブロックを今まさに乗り越えた人影であった。その人影は“一人”にしては異様に大きいシルエットで。

 ――もっと言うなら、恐らくその人影は「誰か」を抱えていたように見えた。

 人影はブロックのすぐ傍に停めた車に抱えている「誰か」を乗せる。シンガポールは日本と同じく左側通行であり、そして走っている車は大抵右ハンドルである。左ハンドル車でなければ、ブロック側は助手席。人影はそこに動かない「誰か」を乗せると、すぐに自分も運転席側に回った。

 

「待て!」

 

 怒鳴り声で相手も気付いたらしい。人影は鈴谷を見て動きを止め、事もあろうに右手をこめかみに添えてから、気障ったくその手を跳ねるように上げた。「残念だったね」なんて声が聞こえてきそうな仕草だった。

 そして人影は車に乗り込むと、爆音を響かせて走り出し、ブロックの手前まで飛び出した鈴谷とすれ違った。その一瞬、運転席に座った長髪の女と、助手席で眠る黒檜の顔を確認する。女は間違いなく六ケ所が襲撃された時、監視カメラに映っていた人物だった。事が相手の思惑通りに進んでいると認識して、無意識に舌打ちをしている。

 このままリー一味の好き勝手にさせるつもりは毛頭なかった。鈴谷には車がなかったが、ないならば奪い取ればいいだけのこと。懐から持って来ていた拳銃を取り出し、ちょうどホテルの角を曲がってやって来た車の前に飛び出す。その車はタイヤが鳴るほど急ブレーキをかけて止まった。

 銃を構え、銃口を運転席に向けながらあらん限りの声で「Get off!! Get off!!」と怒鳴り、車に近付く。ヘッドライトが逆光になっていて正面に立った時は分からなかったが、どうやら止めたのはタクシーらしい。屋根の上のランプは「TAXI」。この表示によると、タクシーは空車で走っている最中だったようだ。

 

「Don't shoot! Don't shoot!!」

 

 無理やり車を止めさせられた上、理不尽にも銃口を向けられている哀れなタクシー運転手は、両手を上げながらこちらも必死で叫んだ。すぐに降りようとしなかったので、ドアを開けてもう一度怒鳴る。

 

「Get off! OK?」

「OK! OK! Please don't shoot!」

 

 年配の運転手はそう言いながらもなかなか手が遅く、降りるのにもたついた。苛立ちが頂点に達したところで、彼がシートベルトを外すのと同時に襟首を掴んで無理矢理引きずり出す。気が弱いのか、パニックになっているのか、「No! No!」と意味のない懇願を繰り返す運転手を道路に投げ捨てると、鈴谷はそのまま運転席に収まり、銃を助手席に放り出して車を発進させた。あんまりにも慌てていたので、アクセルを踏んだ時にはまだドアが閉まり切っていなかったくらいだった。

 

 

 鉄骨の橋を渡りながらシートベルトを締め、リーの手下を追う。橋を渡り切った先は小さな環状交差点になっていて、右方向へはぐるりと回るだけなので、左へ曲がる。アクセル踏みっぱなしなので、右のフロントフェンダーがタイヤと擦るんじゃないかと思うくらい車体が前に沈み込んだ。それでもリアタイヤが滑り出さなかったのはグリップ力を目一杯に使ったからだろう。

 加速は緩めない。ガソリンエンジンとは異なる特徴的な唸り声で、乗っている車がディーゼル車であることに気付く。日本のタクシーは大抵LPG(液化石油ガス)エンジンを積んでいるが、シンガポールではディーゼルらしい。

 道なりにブロックが並び、右に曲がっていく。ブロックが途切れたところで左からの合流があった。合流してくる車を躱すと道幅が広くなり、荘厳な博物館の建物を左に見ながら先行車の間を縫うように突き進む。歩行者も自転車も存在している一般道では狂気の沙汰とも言える速度だ。

 目の前に信号があったが、黒と白と灰色以外の色を識別出来ない鈴谷には、明度の差を見分けて三つ並んだランプの内、どれが点灯しているのかで信号の色を判断しなければならない。幸いにしてシンガポールの交通規則では左側通行であり、信号機のランプは日本のそれと同じ並びになる。交差点を減速せずに通過する先行車の存在からも、それが青色であると判断する。そして、その先に左右に不規則に振れるテールランプを見付けた。目障りな幻の「雪」が降り続いているので判別し辛いが、間違いなく先程逃げたリーの手下の車であろう。

 

 追うべき車のテールランプは左へ消えていく。この先はどうやら直行する通りに合流するらしい。

 鈴谷はそれなりに運転経験があったし、現役艦娘だけあって度胸も人並み以上に持っている。ただ、そうは言っても技術的に無謀なことに挑戦するほど浅はかでもなかったので、オートマ車でドリフトするようなことはしない。そもそも、交差点内はブロックによって通路が作られていて車を滑らせられるほど広くなっていなかった。十分減速して、グリップで遠心力を殺しながら大通りへ合流。対して、ターゲットは夜中でも減らない交通量に苦戦しているのか、先程より速度を落としたので「PORSCHE」のロゴが見える程度まで車間距離が縮まった。前の信号が赤色を示しているのか、五本ある車線の全てに先行車が停まっている。進路を塞がれた形のターゲットだが、急に右にスライドするように進むと、右手のショッピングモール前の車寄せに突っ込み、クラクションを鳴らしながらそこから広い歩道に乗り上げて先行車を躱そうとした。蜘蛛の子を散らすように歩行者たちが慌てて飛びのき、暴走するポルシェと後を追うタクシーを唖然としながら見送る。

 信号はまだ変わらないので交差する通りを車が行き交っているが、ターゲットの方も必死なのか溢れるほど度胸があるのか、歩道から減速しながらも交差点に突っ込んで、流れに逆らう形で右折して逃げていく。通りは一方通行で、ターゲットは事もあろうにそれを逆走しだしたのだ。無論、鈴谷もついていく。

 

 一方通行と言っても日本とは違いそれなりに広い道路であったのと、夜間で比較的交通量が少なかったのがせめてもの幸いで、ターゲットも鈴谷も向かって来る車を避けて走るスペースを見付けることが出来た。

 逆走しながらも鈴谷はアクセルを緩めない。と言うより、無我夢中でなりふり構わず逃げる相手を追い掛けるのに、悠長にブレーキを踏んだりしている暇がない。あちらはポルシェ、こちらはタクシー用のクラウン・コンフォートで、マシンの性能差は言わずもがな。それでも鈴谷が後を追えているのは相手が前を行って思ったように飛ばせないからだろう。

 加えて言うなら、対向車との相対速度が時速100㎞以上になっても、すなわち猛スピードで対向車が突っ込んでくるように見える状況になっても、鈴谷は少しも冷静さを失わなかった。前から来る対向車の一台一台を落ち着いて回避していく。

 これは何も鈴谷の肝っ玉が据わっているからという理由だけではない。免許を取得してからは五年ほどしか経っていないが、運転歴で言えばもう「十年以上」になる。言うまでもなく、これは鈴谷がかつて無免許運転を繰り返していたからだ。

 

 初めて車を運転したのは十五歳の時。高校に入って一週間後に付き合いだした四番目の彼氏が車好きだったのだ。彼は五つ上の大学生で、資産家の息子だったから金があったらしく、毎日スポーツカーをこれ見よがしに乗り回していた。しかも、困ったことに順法精神と言うのものがとにかく希薄で、道路交通法や道路運送車両法といった交通関連法規に対しては特にそうだった。およそ運転免許を与えられるに値しない人間であったが(原付免許さえ取れない年齢の少女に自動車を運転させるくらいだ!)、運転技術に関してはそこそこあったように思う。

 彼曰く、鈴谷には「センスがある」そうだ。だから、彼は鈴谷に運転をさせたがったし、驚くほど愚かで怖いもの知らずだった十五歳の鈴谷も喜んでハンドルを握った。結局、彼とは半年程付き合った頃にドリフトの練習をしていた鈴谷が彼のお気に入りを横転させて破損させてしまい、それが理由で大喧嘩して別れてしまった。ただ、その半年の間に、鈴谷はまともに運転免許を取るだけでは絶対に体験出来ないような様々な操作方法を教えてもらったのである。

 だから、情報保全隊付き艦娘になり、海に出るより陸の上で仕事することが増え、その都合で教習所に行って“初めて”車を運転することになった時、鈴谷があまりにも操作に慣れているのを見た教習官が引き攣った笑いを浮かべたのも無理からぬことだった。その教習官は色々と察したのだろう。何しろ、普通免許を取りに来る女性の大半がAT限定にする中でわざわざMT車の教習を選び、しかも半クラでの発進の際に一回もエンストさせなかったのだから。

 

 

 ついに逆走に耐えかねたのか、それまで川の流れに逆らうように一方通行を掻き分けていたポルシェが、急ブレーキを踏んで脇道に逸れる。この状況ではそう長いこと逆走出来ないからそろそろ曲がるだろうと予想していたが、その通りだった。ファーストフード店の入ったオフィスビルと雑居ビルの間の細い路地に入る。鈴谷もパッシングとクラクションで向かって来る車に威嚇しながら同じところで角を曲がった。その時、視界の端に進行方向と同じ方向を向いた矢印と「ONE WAY」の文字の看板を捉えた。

 どうやら相手の狙いは狭い道で鈴谷を巻こうというものらしい。だが、(ポルシェに比べれば)非力な分、車体も小さなタクシーと、がたいの大きな欧州車ではどちらが狭小路が得意であるかは考えるまでもないだろう。逃げるなら、そのエンジンのパワーを活かせる、線形が良く車の少ない道路、例えば高速道路などに逃げ込むべきで、跳ね馬で路地を走るのは、日本車相手では少々分が悪い。

 ただ、リーの手下にとって幸運だったのは、その路地がほぼ一本道で二車線の幅員があり、歩行者も先行車も存在せず、ほとんど真っ直ぐだったことだろう。品性の欠片もないようなアクセルのベタ踏みで加速し、建物が飛び出す形でクランクになっている部分にも減速せずに駆け抜ける。その先は先程の一方通行とは1ブロック隣の大通りとの合流で、こちらは対面通行。中央分離帯が存在するので合流の手前の路面には左に曲がった大きな矢印が描かれているのだが、ポルシェはそれを当然のように無視した。大通りの半分を突っ切り、中央分離帯にもなっている花壇を強引に乗り越えると反対車線に飛び出した。

 繰り返すが、シンガポールは左側通行である。脇道から飛び出した場合、右から突っ込まれる危険性があるが、イチかバチかで鈴谷はポルシェの後を追う。途端にけたたましいクラクションが響き渡り、それから逃げるようにアクセルを踏むと、今度は花壇の縁石に乗り上げた衝撃で車体が大きく跳ねた。後頭部をヘッドレストに打ち付けるのと、車の底が縁石に擦れる不気味な音を聞くのは同時だった。

 視界がぶれるが、両手と右足の操作は正確さを失わない。要するに、体が覚えているのだ。前輪が反対車線の路面を踏むのを感じた瞬間、両手は無意識にステアを右に切っている。同時に右足がアクセルペダルを踏み足し、車が花壇から押し出される。

 相手の運転は荒っぽい上に危険極まりないが、さほど技術があるようには見えない。ポルシェは激しくクラクションを鳴らしながら、車と車の間を掻き分けるように逃げる。多少車体が擦れようがサイドミラーが飛ぼうがお構いなしだ。一千万前後するであろう高級車が順調にスクラップに近付いていく。

 一方の鈴谷は広い道でしかも順行しているから少し余裕が出来たので、そこで初めて胸ポケットにスマートフォンが低いバイブ音を出しながら震えているのに気が付いた。視線は前に固定したまま一回ポケットからスマートフォンを取り出し、視界に入るように顔の前に掲げて発信者名を確認する。「村井中佐」とあったので、躊躇わず通話を受ける。

 

「やっと出やがったな! お前、どこに居るんだ!」

 

 電話の向こうからは明らかに激怒している男の声が聞こえて来た。さっと目を周囲に走らせ、道端に立っている「Victoria St」の標識を視認する。だが、村井にはそれを伝えない。

 

 今でこそ鈴谷に対して色々と「諦め」て何も言わなくなった村井だが、出会ったばかりの頃は礼儀作法や言葉遣いを中心によく鈴谷に対して怒っていた。鈴谷が勝手な行動をする度に彼の罵声が飛んだものである。しかし、いくら怒鳴られようが鈴谷が一向に態度を改める様子を見せなかったので、遂に根負けしたのか呆れ返ったのか、今では余程のことがない限り窘められることさえなくなった。ところが、そんな村井が今は昔のように感情を爆発させて怒鳴っている。これは余程のことだなと、どこか他人事のように鈴谷は考えた。

 とはいえ、今回ばかりは鈴谷が悪いわけではない。車を強奪したことには弁明の余地はないが、そもそもリーの手下が黒檜を攫わなければ起こらなかったことなので、やっぱりそれは仕方がないことだ。そう言い聞かせつつ、鈴谷は平坦な声で報告を行った。

 

「黒檜大尉がリーの手下に拉致されました。車で逃走中です。大尉も乗せられています」

「何だと? クソッ。今どこなんだ?」

「分かりませんけど、街の中を爆走中!」

「お前も車なのか!? 車はどうしたんだ!?」

 

 村井の声が大きいので分かり辛いが、電話口の向こうは何やらざわめいているようだ。彼のどうでもいい問いには、適当な答えを言ってはぐらかしつつ、気になったことを尋ねる。

 

「車は借りました。それより、パーティは終わったんですか?」

「ああ、たった今な。中将もご一緒だ」

 

 ポルシェが交差点でまた進路を変える。目の前の信号のランプの内、最も右が消え、最も左が点灯した。つまり、赤から青に変わったところで、交差点に突入して左折。おまけに、同じように左折しようとしていた別の車を押し退けるように追突する慌てっぷりだ。衝撃で交差点内に停止したその車を避け、鈴谷も片手でステアを切って左折する。

 

「リーは?」ターゲットから目を離さず、鈴谷は電話を続けた。

「あいつが大尉に用事があるなら、手下とどこかで合流するはずです。なら、今すぐそこから動かないと間に合わない」

「それが、いつの間にか消えやがった。ウォースパイトも居ねえ。こっちも俺と中将だけだから探すのも無理だ。中将が部隊を待機させると仰っているから、お前は無茶をせずにこっちと合流しろ。どの道、リーの手下は警察が対処することになるだろう。幸いにして、ここには警察のトップも来ているらしいからな!」

 

 村井がそう言ったタイミングで、まるで見計らったかのようにサイレンの音が聞こえて来た。誰かからの通報があったのか、それとも異常な走行をする二台を自ら見付けたのか、ようやくパトカーのお出ましである。

 村井と中将がシンガポール警察と話を着けてくれるなら鈴谷の追跡は必要ない。あんな傷だらけのポルシェなんて他に走っていないだろうから今見失ったとしてもすぐにまた見付けられるだろう。冷静に考えれば村井の言っていることは正しい。

 だが、そこで素直に言うことを聞かないのが、鈴谷と言う艦娘である。村井もそれは身に染みて理解しているだろう。故に、懇願するように「頼むから一般人を巻き込むような事故を起こさないでくれ」と言ったのだ。

 

「リョーカイッ! 安全に注意して追跡を続けますっ!」

「俺は止まれと言っているんだッ!!」

 

 村井の喚きを皆まで聞かず、鈴谷は通話を切断し、特に慌てることなく元のポケットに戻した。

 

 

 次の交差点は信号が赤のようだが、ポルシェはクラクションを鳴らし減速しながら突入、横から走って来たバスと衝突しそうになるがギリギリで躱した。かわいそうなこのバスはポルシェを避けようとして別の乗用車と衝突し、そこにさらに後続が追突した。交差点の真ん中で玉突き事故を起こした三台を大きく避けて、鈴谷は追跡を続行する。大破した車はなかったから、重傷者は出ていないだろう。だが、暴走するポルシェによって徐々に被害が拡大しつつある。

 今走っている通りも四車線ある一方通行だ。車も少ないので、ポルシェはどんどん加速していく。鈴谷もアクセルを全開にするが、根本的にエンジンの馬力が違い過ぎている上に、事故車を避けるのに減速したせいでさらに離されてしまった。距離を離されるのは逃げられる恐れがあるという以前に、見失う可能性が強いので鈴谷は内心焦った。視界の中にしか存在しない「雪」だが、“見えて”しまう以上、それが視界を妨げるのだ。実在しないから道が凍ることもないけれど、白い雪は遠くを見通した時にカーテンのようになって見たい物を隠してしまう。だから、逃げる相手を見失わないように最大限加速するしかなかったし、ポルシェが変に脇道に入ったりしないように祈るばかりだ。今出来ることと言えば、執念深く追い続けることしかない。そして、その執念深さはリーの手下にも伝わったことだろう。

 

 車を運転する際に心掛けるようにとよく言われることは、「かもしれない運転」だ。右折待ちの車が急に曲がってくるかもしれない、脇道から自転車が飛び出してくるかもしれない、目の前のトラックが急ブレーキを踏むかもしれない。要するに、危険予測を行い、想定される脅威に対し対応出来る運転をせよ、ということである。「かもしれない運転」は交通法規を順守し、安全に車を操作するための方法論だ。そうした意味において、既にシンガポールの標準的なタクシー運転手が一生の間に犯す交通違反の数以上に違反を繰り返している鈴谷にとって、「かもしれない運転」を要求するのは今更というものだろう。しかし、鈴谷は「かもしれない運転」をするべきであった。急にポルシェが減速し交差点を右折する。鈴谷もそのまま追い駆けようとして、彼我の間にウィンカーを点滅させながら車線変更してきた車に気付くのが遅れた。相手を追うことに夢中になりすぎて見えていなかったのだ。そして、気付いた時には遅きに失していた。

 「他の車の車線変更もあるかもしれない」と予測するべきであった鈴谷はそれをせず、咄嗟にハンドルを切るという対応しか出来なかった。そして、それは高速域でするべき動作ではなかったのである。

 

 悲鳴を上げた時にはもう遅い。車はスピンに陥っており、既に運転者の操作を受け付ける状態にはなかった。

 景色が吹き飛んでいく。実際には車体が激しく回転してそう見えただけだ。理屈ではそうだと分かっているのに、1トンもある鉄の塊が、自分を乗せたそれが、制御を失って暴走するエネルギーに任せたままになるというのは、思った以上に恐怖を与えるものだ。運転中に制御に失敗してクラッシュした経験はあるものの、この恐怖感というのは慣れるものではない。

 衝撃があってようやく車体が止まった後も、鈴谷は恐怖から心を解放するのに少し手間取った。ただ、身体へのダメージはほとんどない。鈴谷を吹き飛ばそうとした慣性力はシートベルトが受け止めたし、激しくスピンして速度が殺されたおかげで衝撃自体が少なかった。その証拠にエアバッグが作動していない。車は交差点の角、歩道の縁に立てられた車止めにノーズを突っ込む形で止まっていた。元々減速し始めていた上、全力でブレーキを踏んだので、衝突のエネルギーは少なかったのだろう。ボンネットの変形も小さく、ダメージは小さそうだ。

 クラッシュの衝撃から鈴谷を復帰させたのは近付いて来るサイレンの音だった。それも一つや二つではない。何重奏ものサイレンが鳴り響き、通り沿いの建物の壁面に光が踊る。パトランプの色は識別出来ないが、コントラストが違うので二色のようだ。

 舌打ちしながらキーを回してエンジンを再始動させる。運がいいことに一発で動き出した。ギアをリバースに入れ、そのままアクセルを踏む。ポルシェが逃げたのは真後ろの方向だ。そして、左からは数えるのも億劫な数のパトカーが接近していたから悠長に方向転換をしている暇などなかった。

 そこに、進路を塞ぐように突っ込んでくる一台のパトカー。無論、止まるつもりも避けるつもりもない鈴谷はわざとリアをぶつけてパトカーを弾き飛ばす。大きな金属が凹む音と衝撃が運転席の艦娘を揺さぶるが、構いはしない。どうせリアだ。バンパーが外れかけて路面と接触しているのか、耳障りな音が鳴り響いている。

 邪魔者を排除し、十分に加速したところでステアを切り込み、シフトレバーはニュートラルに、軽くブレーキを踏んでノーズを左に“飛ばす”。車体はスピンするが、今度はきちんと鈴谷の頭の中で思い描いた通りの動きだ。反転したところでドライブギアを入れてアクセルを一気に踏み込んだ。エンジンが吠える。

 

 逃がさない。逃がすつもりはない。

 

 誰もが認める「短気」な性格。時に抑えの効かなくなる感情、そして暴力衝動。一度スイッチが入ってしまうと、行くところまで行ってしまうという危険性。それらはすべて鈴谷のパーソナリティの中に存在する負の側面であり、またその自覚を持っている。昔から喧嘩っ早かったし、強かった。喧嘩を売られれば必ず買い、相手にその代償の大きさを思い知らせた。男相手でも怯まなかったし、男相手でも負けなかった。学生時代、起こした暴力沙汰は数知れず、幾度となく教師に叱られたし、時には警察に補導されることもあって、否が応でも鈴谷は自分の凶暴性を認識せざるを得なかったのだ。暴力装置を扱う艦娘になった後も性格診断の結果からそうした性分は問題視され、セルフコントロールのカウンセリングを受けたことも一度や二度ではない。

 それでも、生まれ持った性格というのはなかなか矯正出来るものではない。昔ほどなりふり構わず喧嘩することこそなくなったものの、一度「キレ」たら歯止めが効かなくなるのは変わっていない。そして今、鈴谷には「スイッチ」が入ってしまった。舐め腐ったあのリーの手下に相応の報いを与え、リー本人の鼻を明かしてやらねば気が済まない。

 背後からはパトカーが肉薄して来ている。一台が鈴谷を追い越し、前に出た。塞がるように車線変更をしてくるので、ステアを短く切って右に出てそれを躱す。そこにもう一台が追い付いてきた。どうやら警察の車両はタクシーのそれより馬力がある……というわけではなく、単に鈴谷の車がフルスピードを出せないだけだ。やはり先程のクラッシュの影響が残ってしまっているらしい。

 道はまた一方通行の四車線だった。両側には二階建ての似たような建物が並び、歩道を行き交う人の数が多い。下町のような風情の街並みだ。どうやらインド人街にやってきたらしい。暴走する鈴谷は衆目の的になっていた。

 

 クソッ、と口の中で悪態を吐く。周りにこれだけ人が多い環境では安易に“仕掛けられない”。

 二台のパトカーがクラウンに取り付いて走行を妨害してくるので、早いところ排除したいのだが、何も考えずにそれをすると歩行者を巻き込んで大惨事を引き起こしかねない。いくら艦娘と言えど、テロまがいの大事故を起こした者を警察がおいそれと見逃すことはないだろう。さすがにそうなっては面倒極まりないし、日本の外交力をもってしても投獄は避けられない。ここは耐えるしかないところだった。警察も同じ条件なのだ。強引なことをしてクラッシュするようなことがあれば、後は想像に難くない。

 とは言え、鈴谷は少しばかり運が良かった。逃げていたポルシェが前方で信号に捕まっていたのだ。行く手の左側にヒンドゥー教の寺院があって、寺院の前の横断歩道を整理する信号機が停止信号になっていた。左右を車両に挟まれ、行く手を無数の歩行者が横断していたため、進むに進めなくなってしまったらしい。ポルシェはクラクションを激しく鳴らしながら強引に人の波をかき分け、信号が変わる前に横断歩道を突破した。それでも、生じた大きな時間的ロスは鈴谷が追い付くのに十分なものであった。

 精緻な無数の像で飾り付けられた塔門が明るくライトアップされている寺院の前を、猛スピードで通過する。信号で止まっていた先行車がダマになっていたが、運よく開いた車線から追い越すことが出来た。邪魔をしていたパトカーの運転手は要領が悪いのか、鈴谷のようにうまく車と車の間を抜けられず、減速を強いられる。

 一時的にパトカーから解放された鈴谷は、まだ加速途中だったポルシェに躊躇なく追突する。激しい衝突音がして、ポルシェが前に飛び出た。罵詈雑言が聞こえて来そうな荒っぽい運転でポルシェは左に逃げる。鈴谷はその後を追わなかった。少し先で中型トラックが脇道から入ってきたからだ。

 ポルシェが慌ててブレーキを踏み、トラックは左から二番目の車線に入る。リーの手下は左端の車線からトラックを追い抜こうとした。その間に追い付いた鈴谷はトラックを右から追い抜き、普通はそのままトラックの前に余裕を持って滑り込むであろうが、あえてリアバンパーをトラックのフロントと接触させる。

 驚いたのはトラックの運転手だろう。後ろから煽られていたと思ったら、今度は横から体当たりを食らったのである。避けようとした運転手はハンドルを左に切った。当然、その左側から追い越そうとしていたポルシェを巻き込む。

 激しい衝突音と共に火花が飛び散った。けれど、致命的なクラッシュには至らない。それは偏にトラック運転手の腕が良かったからだろう。この運転手は自分が左を走る乗用車と接触したことを感知すると、すぐにハンドルを戻して元の車線を維持するように努めたのだ。その素晴らしい対応は、ポルシェに日本車に対する報復を行う機会を与えた。

 車体をさらに破損させながらもトラックの横から抜け出したポルシェが、前を走るクラウンに追突する。背中からタックルを食らったような衝撃が鈴谷を襲い、前に飛び出し掛けた身体をシートベルトが受け止めた。加速して逃げようとするが、さらに二撃目を受ける。ルームミラーで後ろを確認すると、リアウィンドウに大きなクモの巣が出来ていて、背後の車両の運転席までは見えなかった。わずかに、彼我の車間が開いたことが視認出来るのみ。ポルシェは三撃目に備えて少し距離を置いた。

 サイドミラーでも後ろの様子を確認すると、タイミングを見計らってハンドルを左に切って、車線を開ける。同時にブレーキを少しだけ踏んで、追突しようと前に飛び出したポルシェと並び、直ちに報復行動に移った。

 助手席側から側面をぶつける。その際のリーの手下の咄嗟の反応は良かった。彼女は自分も鈴谷の側にハンドルを切って、衝撃を相殺することを目論んだのだ。果たしてその目論見は狙い通りにいき、車重と馬力で劣るクラウンが歩道側に飛ばされてしまう。

 

 並走しながらポルシェの車内を睨むと、リーの手下と目が合った。六ケ所を襲った二人の内の一人で間違いない。アジア系の顔立ちだが、直感的に日本人ではないと思った。ややエキゾチックな造形から、恐らくは大陸系であろう。彼女とクラウンとの間、助手席にはこれだけの激しいカーチェイスの中でも昏々と眠り続ける黒檜の姿があった。どうやら単に気絶しているのではなく、何らかの薬品などで昏睡させられているらしい。

 それは悪い情報だった。さすがにエアバッグは装備されているであろうが、それでも意識がないということは耐衝撃姿勢が取れず、車内に身体を打ち付けて負傷してしまう可能性が高い。故に、わざとクラッシュに持ち込んで強引に車を停めるという手段は避けなければならなかった。

 喧嘩っ早く、頭に血が上ると感情を爆発させるという性分は学生時代とは変わらないものの、かつてと違うのは鈴谷が大人になったという点である。それはつまり、「してはならない」ことの分別を持ち合わせているという意味だ。この場合においての「してはならない」ことというのは、黒檜を不必要に傷付けてしまうことである。

 ならば、出来ることは少ない。既にポルシェはボロボロだから、各部に相当の負荷が溜まっているはずである。その中でも特にタイヤは走行には欠かせない物。故に、狙うべきはタイヤをパンクさせることだ。

 

 だが、ポルシェはそれ以上鈴谷の挑発には乗らず、あくまで逃げることを優先した。優位な加速性能を最大限に活かし、スピードで振り切ろうとする。一方で、後れを取っていたパトカーたちも追い付いてきた。先程の二台以外にもまだたくさん追い駆けてきている。村井と中将は警察のトップと一緒に居て、彼らにも協力してもらおうと交渉したのではなかったのか。

 そんな疑問が胸に浮かんでいる内に、少し先を走るポルシェが交差点の中で派手に吹き飛び、何かにぶつかって止まった。どうやら横からパトカーに突っ込まれたらしい。追い掛けて来る他に先回りして待ち伏せしているのも居るらしい。

 鈴谷のやることは変わらない。こちら向きに、進行方向とは真反対を向いたポルシェが再び動き出す。衝突の衝撃で右のヘッドライトが消えているが、車自体はまだ走れるらしく、突っ込んで来たパトカーから飛び出した警官を轢きかけながら、パトカーが飛び出してきた通りを走り出す。鈴谷も目一杯にハンドルを切りながら、同じ交差点を右折しようとしたが、スピードに乗りすぎていて止まっていたパトカーにわざと側面からぶつかりに行って遠心力を打ち消さなければならなかった。

 出遅れた形の鈴谷だが、相手も先程の衝突の影響でそう飛ばせる状態ではないらしい。ポルシェにしては加速が鈍いので、車間はぐんぐんと近付いている。今度の道は片側二車線の対面通行の道路で、今まで走って来た道よりは幅員が狭い。それが走りにくさに繋がっているのか、ポルシェはけたたましくクラクションを鳴らし、先行車をどかしながら走らなければならないようだった。

 

 もう少しで追い付ける。そう思った時、左に目障りなパトランプが現れる。

 

「鬱陶しいなあ!! もうッ!!」

 

 苛立ちが頂点に達した鈴谷は、ハンドルを切って車体をパトカーにぶつける。それも、それなりに勢いがついた状態で。

 不意打ちを食らった形のパトカーは、態勢を立て直すのに失敗した。コントロールを失い、そのまま道路端の植え込みに乗り上げて太い幹の街路樹に激突、無数の部品と破片を巻き散らしながら横転、火花を散らして路面を滑っていく。上手い具合にクラッシュして追っ手の邪魔になってくれたので溜飲の下がった鈴谷は気を良くして、改めて自分の本来の敵との追い駆けっこに集中する。

 

 どうあってもポルシェは止まらなさそうなので、やはりパンクさせて無理矢理に止めるしか方法はなさそうだった。 

 そうと決まれば行動は早い。ターゲットに追い付くと並走状態からもたれ掛かるように、左のフロントタイヤにバンパーの角を打ち込むようにして車体をぶつけに行く。ポルシェはあえて相殺しようとせずに同じ方にハンドルを切って衝撃を受け止めると、急ブレーキを踏んだ。

 意味の分からないブレーキングに頭が付いて行かず、反応が遅れる。体当たりの前振りかと思ったが突っ込んで来る様子はない。

 

 前に目を向けた時、ようやくその理由が分かった。前方は交差点になっており、そこに数台のパトカーが並んで即席のバリケードを張っていたのだ。慌ててハンドルを切って、パトカーとパトカーの間に突入する。だが、それで終わりではなかった。

 反射的にブレーキを踏んだことがより事態を悪化させてしまったのだろう。バリケードを突き破った直後、特大の力を受けて車体は吹き飛ばされ、街路樹に突っ込んで停止する。その横をポルシェが走り抜けていった。要するに、バリケードを突破するための露払いにされたのだ。

 

 度重なる衝突と、二度のクラッシュで、既にクラウンのノーズは原型を失っているし、ボンネットは大きく波打っている。ウィンドウもひび割れだらけで、フロントガラスを除けば、外がまともに見えない。

 再度のクラッシュでまた停止してしまったエンジンの始動を試みるが、キーを捻ってもセルモーターが咳き込むような音を上げるだけだ。二度、三度繰り返してみるが反応がない。いよいよお陀仏かと思って顔を上げると、いつの間にやら銃を構えた警官たちがクラウンを取り囲んでいた。

 このままやられっ放しで警察のお世話になるのは凄まじく癪だ。それに警官たちが鈴谷をどう扱うかも分からないし、今ここで投降しても何一つ良いことなどないだろう。だからダメ元で四度目の始動を試した時、ついにエンジンに火が入ったのには思わず笑みが零れてしまった。

 クラクションを鳴らし、車をバックさせる。急に動き出したクラウンに警官たちが発砲をし始め、弾丸がボディの鋼板を貫く甲高い音が響いた。これで鈴谷に弾が当たったら、この警官たちは始末書では済まないだろうに、彼らはそこまで考えが及んでいないようだ。というより、ボロボロのクラウンに乗っている女が深海棲艦への唯一の対抗戦力の一人であることに気付いていないらしい。さりとて、彼らに対し懇切丁寧に自己紹介をしている余裕もない。そして何より、既に鈴谷の理性のたがは吹き飛んでしまっていたのだ。「一人や二人、轢いちゃってもいいや」と思って、目の前で一人の警官が両手を広げて止めようとしているところに突進する。

 間一髪、警官はその場を飛びのいて人身事故の被害者になることを回避した。ただし、そのお陰で鈴谷を逃がすことになってしまったのだが。

 

 最早、限界寸前のエンジンに鞭を打つようにアクセルを踏み込みながら逃げるポルシェを追う。警察の追跡対象には当然跳ね馬も含まれていて、一台のパトカーが鈴谷に先行して追跡している。先程まで対面通行だった通りは、バリケードの設置されていた交差点を境に逆向きの一方通行になっているらしく、鈴谷もポルシェも、そしてパトカーも、全部逆走状態だった。そして、二車線から一車線へ、道はさらに狭まっていた。

 逃げるリーの手下にとって幸運だったのは、左右の歩道が街路樹が植えられているものの、車一台が通れる程度の幅を持っていたことだった。対向車を歩道に乗り上げて避けるような強引な運転で、追っ手を引き離そうとする。

 後を追うパトカーも同じように歩道に乗り上げた。シンガポールの警察は日本の警察と違って、かなりアグレッシブに動けるらしい。追っ手のパトカーに狙いを絞り、歩道の段差を越える瞬間、不安定になるところを見計らって斜め後ろから小突くように当たると、すぐにパトカーはバランスを崩し、立て直そうと慌ててハンドルを切ったためにスピン状態に陥った。路面を滑走しながら道を斜めに横切っていくパトカーの脇を通り抜ける。同時にそのパトカーは道端のバス停、その手前にある車止めに激突してスクラップになった。

 

「あはははッ!!」

 

 邪魔者が居なくなり、鈴谷は嬌声を上げる。クラッシュしたパトカーがいい具合に道を塞いでくれたから、これでしばらく警察の追跡から逃れられるだろう。欲しいのはポルシェと戦う時間的猶予なのだ。

 問題のポルシェは突き当りの丁字路を右折し、ビルの陰に姿を隠す。鈴谷も後を追う。

 その先はまた交差点になっており、今度はそちらを左に曲がっていくのが見えた。ただ、左手の角の敷地は、造成中なのか更地になっていて、柵も何も設置されていなかった。だから、鈴谷は躊躇せずそこを斜めに横断する。地面の凹凸に車体が激しく揺さぶられ、ハンドルを取られそうになるが、構わずにアクセルを踏み続けた。

 強引に造成地を踏破して歩道から飛び出しポルシェの横っ面に車体を叩き付ける。二台の持つ運動エネルギーは衝突の際に相殺されることなく、ほぼその勢いを保ったままベクトルが合わさり、ポルシェとクラウンは引っ付いたまま小さな橋を渡って脇道へ突っ込んでいった。それでも、鈴谷もリーの手下もコントロールを失っていたわけではない。川沿いの道に入っても、激しく衝突を繰り返す。

 

 いよいよリーの手下は逃げに徹するより、しつこい鈴谷を排除した方がいいと判断したらしい。今までよりずっと積極的に車体をぶつけてきた。

 鈴谷の車はもう何時止まってもおかしくない。このまま体当たりを食らい続けていると洒落にならないことになりそうだった。

 ブレーキを踏み、並走状態から、ポルシェの後ろに付くように位置を調整する。ポルシェはポルシェで、車体を左に持って行った。意図が読まれたのかと若干焦りが生まれるが、落ち着いて右後ろに移動し、先程パトカーにやったように小突いて車体に働いている力の均衡を崩そうとする。だが、そこで運転席のパワーウィンドウが開いていることに気付いた。

 長髪の女がそこから右腕を出し、トランプ大のカードのような物を指で挟んでいるのが見えた。同時に女は邪な笑みを浮かべ、何事かを叫ぶ。

 

 何を言ったのかは唸るエンジン音に紛れて聞こえなかった。ただただ、それが碌でもないことが起こる予兆の気がして、反射的に離れようとした。車道と川の間は広い歩道になっていて、一段高い。クラウンが縁石に乗り上げるのと同時に、女の手元のカードから、「カラフルな」ゴルフボール大の玉がたくさん飛び出してきた。そして、それらは鈴谷の車の下に潜り込んでいったように思う。

 「思う」というのは、そこから先はあまりよく覚えていないからだ。断片的な情報のみが不連続に記憶に残っている。車が持ち上げられるような気味の悪い感覚も覚えている。頭を抱えて逃げる歩行者。後輪が川べりの柵を越えきれずに引っ掛かった時の衝撃。眼前に迫る真っ黒い川面。

 

 

 車はフロントから水面に叩き付けられた。エアバッグが作動し、膨らんだ白い袋が顔面を叩く。

 それは、鈴谷から貴重な数秒の時間を奪い取った。脳を揺さぶられた衝撃から意識が少しだけ復帰するのに、数秒という時間を要したのだ。言い換えれば、鈴谷の脳が、車もろとも水没する危機を察知するのに数秒必要だったということである。

 

「ヤバッ!」

 

 最悪の状況だった。車は完全に棺桶と化していたのだ。重いエンジンがある前部から沈み出している。すぐに沈み切ることはないが、それは逆に車内外で水位に差が出来ることの証拠でもあった。車外の水位が車内に侵入した水より高いのなら、水圧の差によってドアは開かない。

 脱出に使える物は一つしかなかった。車内に水が入ってくる前に、シートベルトを外して助手席のフットマットの上に落ちていた拳銃を拾う。シートを倒して運転席から抜け出すと、後部座席に素早く移動して、銃口をリアウィンドウに向けた。

 特殊な用途の車両でなければ、通常車のリアウィンドウは単なる強化ガラスだ。幾度とない追突を受けて既にヒビだらけになっている部分に一発撃ち込むと、ガラスが粉々に砕け散った。

 割れ残ったガラスを拳銃で払いながら出口を確保すると、銃を捨ててトランクルームの上に這い出す。車は既に半分以上沈んでいて、完全に水没するのがもうすぐなのは明らかだ。

 車が転落したのは、川と言っても用水路に近い、両岸が完全にコンクリートで護岸されている水路であった。野次馬たちが集まり始め、川べりから沈みゆく車と鈴谷を見下ろしている。彼らの足元の柵の付け根に飛び移れるか距離を測るが、どう頑張ってもそれは無理そうだった。

 艤装を持って来なかったのが裏目に出た。艦娘は、艤装がなければ水とはとことん相性が悪い。これはほとんど一般に知られていない事実だが、すべての艦娘にとって極めて重要な事実でもあるのだ。不思議なことに、どんなに泳ぎが得意だった人物でも、一度艦娘になれば二度と泳げなくなる。艤装も着けていないのに水に入れば、身体が鉄に変わったように水中に引きずり込まれるのである。この川の水深がさほど深くなくとも、車と一緒に水没すれば待っているのは溺死する運命だ。しかも、この衆目のある中で。

 今更、生に執着するつもりはないが、さすがにそんな末路は願い下げである。だが、今のところ鈴谷に打つ手は何一つ残されていなかった。今この状況においては、艤装を持たない鈴谷は、泳げない単なる女でしかない。

 万事休すかと思われた時、野次馬の一人が思い切った行動に出た。その野次馬は柵を乗り越えると、躊躇うことなく川に飛び込んだのだ。

 

「早く! 掴まってください!」

 

 驚いたことに、飛び込んだ野次馬は年端もいかない少女で、しかも流暢な日本語を喋った。どうやら日本人らしい。危機に瀕した同胞を見かねて助けに入ってくれたのか、彼女は泳いで鈴谷の足元までやって来る。

 車はもう、鈴谷の立つリアデッキを残して沈んでしまっている。選択肢は他になかった。けれど、艦娘には皆、水への恐怖心が植え付けられていて、それは鈴谷も例外ではなかった。艦娘になるまでは何も怖くなかったただの水が、今は途方もなく恐ろしい。

 

 風呂に入る時、鈴谷を含め大多数の艦娘はシャワーを浴びるだけで済ます。何故なら、「湯船の中に沈んでしまうかもしれない」と考えるからだ。もちろん、冷静になって気を付けていればそんなことは起こらないのだが、特に意識を失ったりしなくとも、湯船に入った艦娘が沈んでしまうのは実際に起こることだった。誰しも艦娘になったばかりの頃に、人間だった頃の習慣で皆湯船に入ると、あまりにも勝手が違うことに戸惑い、簡単に沈んで溺れかけるという経験をする。その時に、今まで慣れ親しんでいた水が、自分とは恐ろしく遠い存在になってしまったのだと、そして艤装がない状態では恐怖の対象にしかならないということを身をもって学習するのだ。それはある意味での通過儀礼でもあった。

 だからこそ、鈴谷の足は動かない。刷り込まれた恐怖が身体を硬直させる。

 

「泳げないんですよね!? 早く!!」

 

 飛び込んだ少女が怒鳴る。その間にもう一人川に飛び込んだ。

 覚悟を決める。目をつぶり、一歩を踏み出して川に身を投げた。

 しっかりとした両腕に受け止められる。だが全身が水に浸かった瞬間、少女が苦し気に息を吐いたのが聞こえた。支える相手の全体重が掛かったら、華奢な少女にはかなり苦しいだろう。自分でも全身から脱力して身体が沈むのが分かった。

 藁にもすがる思いで少女の腕にしがみ付く。そこに後から飛び込んだもう一人もやって来て鈴谷の脇の下に腕を入れ、こちらは力強く岸まで引っ張り出した。

 

 川の両側の護岸は垂直で、その上の歩道が少しせり出している箇所があった。水面から歩道まではそれほど高さがあるわけでもなく、上で見ていた野次馬たちが、柵の間から手を伸ばしてきて鈴谷を引っ張り上げようとする。川に飛び込んだ二人も、脱力して動けない鈴谷を苦労しながら持ち上げ、鈴谷が手を伸ばすと野次馬たちの手がそれを掴み、引っ張り上げた。複数人で、男ばかりらしく、水の中では信じられないくらい重かった鈴谷の身体は軽々と持ち上げられる。鈴谷自身、柵を掴めるようになると、コンクリート護岸に足を引っ掛け、要領良く登っていく。水から出てさえしまえば、そこは体力トレーニングを積んだ軍人であるから、柵を乗り越えるのに苦労はしなかった。

 地面に足が着いた瞬間、今度は膝から力が抜けてその場に崩れ落ちる。何人かが声を掛けてくれるので、「Thank you. Thank you.」と繰り返して応じる。その間に飛び込んだ二人も川から引っ張り上げられた。見れば、どちらも同じような年ごろの少女である。野次馬の男たちが意を決する前に、この若い二人が誰よりも積極的に助けに動いたのは意外であった。

 この状況で二人に礼を言わないほど非常識なつもりはない。ただ、サイレンの音が木霊しながら聞こえてきた時、鈴谷はこの場から今すぐ立ち去らなければならないということを理解した。だから、助けてくれた少女たちに「ごめん、ありがとう」と短くしかお礼を言えなかったし、集まっていた人々の間を掻き分けて逃げ出すことしか出来なかった。

 

 

「ちょっと待ちなさいよ、アンタ!」

 

 すぐに二人の内一人が追い掛けて来る。先程とは別の声に聞こえたから、後から飛び込んだ方だろう。しかし、そんな彼女とは逆に先に飛び込んだ方も追いすがって来て、こちらは鈴谷の腕を取ると引っ張るように早足で歩き出した。

 

「警察に捕まったらまずいんですよね? こっちに来て下さい」

 

 どうやら、彼女は色々と事情を察してくれたらしい。真っ先に川に飛び込んだことと言い、決断が早く機転も利く頭の持ち主なのだろう。鈴谷は逆らわず、彼女の指示に従う。川から助け出された上、逃走にも手を貸してもらえることに驚き禁じ得なかった。もう一人も反対側の腕を掴んだので、鈴谷は二人の少女に挟まれてしまった。

 両手に花、と言えば聞こえはいいが、あまりにも事が上手く進みすぎていくことに捻くれた性分の鈴谷の中で警戒心が湧き出す。少女たちは川の両岸を結ぶ歩行者用の小さな橋を渡り、川沿いに並ぶ小汚いマンションの間に向かっていた。ここは繁華街ではなく、低所得者向けの住宅地のようだった。そんなところにたまたま勇敢な日本人の少女が二人居て、そこに鈴谷の車が突っ込み、救助してもらい、さらに警察からの逃走まで手助けしてもらえる。あまりにも都合良く事が進みすぎだ。それらすべてが偶然の一致だとは考えられなかった。

 

「ねえ」

 

 故に、鈴谷は聞かずにいられない。

 

「助けてくれたことには感謝するけど、ただの善意でそうしたわけじゃないんでしょ? 何者なの?」

 

 右腕を掴んでいた、後から飛び込んだ方の少女が鈴谷に剣呑な目線を向ける。こちらの方が少し背が低い。小首を傾げるように少し顎を沈めながら、相手を下から睨み上げる目付きがやたらと堂に入っているので、恐らくそんな可愛らしい性分をしている子ではないんだろうな、と思った。彼女は鈴谷を睨みつけこそしたが、何も言わず、その内に左腕を掴んでいる、先に飛び込んだ方の少女が答えを口にした。

 

「あなたが追っているのと同じ方を追っている者です」

「さっきの、ポルシェの奴を?」

「そうです。それと、その主人の方も」

 

 左の少女は前を向いたままそう言った。ポルシェの女の主人――言うまでもなく、クリスティーナ・リーのことだ。

 

「後で詳しいことはお話しします。こちらとしても、日本海軍の方に協力をお願いしたいですし」

 

 その少女は少し顔を鈴谷に向けて、自らの友好さを示す様に柔らかく微笑んだ。彼女の濡れた髪が街灯の光を反射している。

 

 

 鈴谷は、少女が二つの髪飾りのような物を着けていることに気付いた。左のこめかみ付近に蛙をあしらった髪飾りと、その下に垂らした一房をまとめる蛇をあしらった髪留め。可愛らしいファッションだが、特徴的で、最近の流行からは外れるだろうか。

 

 少しだけ、神秘的な雰囲気のする少女であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




白うさぎを追い駆けて

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