レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督41 Welcome to Wonderland!

 

 嵐は初めて艦娘として艤装を背負ってから、あと二月ほどで八年になる。普通、八年の経験を持つ艦娘と言えば、もう十分中堅であるし、ひと通りの経験を積んで兵士として「使い物になる」レベルに達したとみなされる。何しろ艦娘というのはそこら辺に居る一般人の少女をあの手この手で籠絡し、基地に連れて来て適性を測り、その適性に見合った艤装を背負わせたら、「ハイ、出来上がり」なのだ。もちろん、軍人として必要な最小限の知識や技能は身に着けさせるが、だからと言って艤装を背負ったばかりの小娘に戦場で生きる覚悟も決意もなければ、そこまで精神が成熟しているわけでもない。

 言ってしまえば銃を持たせただけの少年兵に毛が生えたようなものだし、実際艦娘の存在自体を否定する一部の民間団体からは明確に艦娘を指して「少年兵だ!」という批判を浴びることも少なくない。小娘を戦場に送ればどうなるかは誰だって想像出来るだろうが、それは陸の上だけの話だ。生憎と言うのか幸いと言うのか、艦娘というのは多少の損傷には打たれ強く、普通の人間なら即死するような衝撃を受けても軽症で済むような、人知を超えた存在でもある。「女神の護り」として一般にも知られたこの原因不明の効果により、艦娘は危険な戦場であっても非常に守られているのだ。よって、街中の少女をいきなり戦場に送っても棺で家族の下に帰る者はほとんどいない(だが、決してゼロではない)。

 ただ、誰しも人というのは環境に適応し、慣れてくるものだ。初めは敵の砲撃に足をすくませて棒立ちになるかその場にしゃがみ込むしかなかった哀れな少女は、いつしか目の前で水柱が立ってもそれに突っ込んでいくようなクソ度胸を身に付けるようになる。少女が艦娘として使い物になるのに、八年という時間は十分なものなのだ。

 

 嵐と、いつも隣りにいる萩風の八年の内、最初の一年間は座学の勉強や艦娘としての艤装への習熟訓練に費やされ、ほとんどの時間を内地の育成学校で過ごした。そこでの日々は楽しくも穏やかな時間だったが、その間に兵士としての自覚が育まれるわけでもなく、正直に言えば学生時代の延長線上の生活でしかなかった。だが、この一年間が艦娘としての嵐のすべてにおいて礎となった時間であることは間違いない。血の繋がらない三人の“姉妹”を手に入れたのは艦娘の育成学校でのことであり、その三人と嵐というのが後の第四駆逐隊を編成する四人の駆逐艦娘だった。この出会いがなければ、深海棲艦と艦娘との間に新しい関係性が見出されることもなく、“奇跡”も起きなかっただろう。

 そうして最初の一年を過ぎると嵐は海に出て、以来ずっと海(の底)で過ごしている。ただし、来歴が特殊すぎるほど特殊なので、実質的に艦娘として活動したのは三年程度になる。艦娘で三年といえば、まだ新人の域を出ない。

 とはいえ、八年は八年だ。その間に経験したことは並の艦娘にはあり得ないことの連続だっただろう。特に、自分の足で溺死することなく海底を彷徨い歩くなど、経験したくても出来るようなものではない。ある意味では嵐と萩風は「経験豊富な」艦娘でもあった。

 だがしかし。そんな「経験豊富な」艦娘であったとしても、こうした体験というのはなかなか得難いものではないだろうか。大都市の夜間遊覧飛行を含む任務というのは、普段海面上での二次元的な活動がほとんどの艦娘にはまず訪れない機会だろうと思う。あらゆるものが人工的であるこの島国において、夜空を照らす高層ビルはその象徴である。

 

 

 現在、嵐の所属する第百十七駆逐隊は出撃中だった。シンガポール周辺での任務は多くの場合、現場へ急行する足としてヘリコプターを使う。今も嵐たち三人は小型ヘリ――MH6に乗ってシンガポール港上空を飛行中だ。眼前は都市のダウンタウンであり、深夜にも関わらず不夜城のごとく煌々ときらめき輝いていた。

 街の上空では潮の香りより排ガスの臭いの方が強い。急に鼻がむず痒くなって嵐は一つくしゃみをした。

 

「基地司令部よりマーライオン2へ。警察からの連絡あり。市街地で大規模なカーチェイスが発生した模様。現在状況確認中につき、上空にて待機せよ」

「マーライオン2、了解。滞空待機する」

 

 ヘッドセットから基地とパイロットのやり取りが聞こえて来て、嵐は隣りに座る萩風に声を張り上げて尋ねた。

 

「『大規模なカーチェイス』って何だ?」

「えっ!? 何っ!?」

 

 小さなヘリコプターの機外に半ば身を乗り出す様に座っているから、風切り音と頭上を回るローターの爆音が凄まじく、余程声を張り上げないと何を言っているか聞こえない。案の定、萩風は聞き返した。耳を近付ける姉妹艦に、もう一度嵐は怒鳴った。

 

「『大規模なカーチェイス』って何だッ!?」

 

 今度は言葉が聞こえたのか、萩風は市街地の方を指さし、

 

「あれのことじゃない!!?」

 

 と叫んだ。その指の方向を見ると、確かにビルとビルとの間に赤い光が明滅しているように見える。あれは恐らくパトカーの赤色灯だろう。

 シンガポールは典型的な都市国家で、シンガポール島全域が都市と呼べるが、その中心地は何と言っても島南部のマリーナ湾を取り囲むエリアだろう。有名な、海に向かって水を吐くマーライオンの像もここに位置しており、三棟の高層ビルが屋上で繋がったマリーナベイ・サンズや、針山のビル群、今夜パーティが開かれたフラトン・ホテルもこのエリアに含まれている。

 萩風が指さしたのはそんなダウンタウンより少し北よりの場所であった。日本海軍のヘリが市街地上空を飛行することはシンガポール政府との協定で禁止されているので、カーチェイスを上から眺めることは出来ない。

 当初の指示通り、江風以下の第117駆逐隊はパーティの開始に合わせて基地より出撃し、シンガポール島沖合で哨戒を始めた。本省からの命令での任務だったわけであるが、特別何かがあるわけでもない。不測の事態に備えて高角砲に対空電探を装備、予備弾薬まで持ち出し、海空の敵に対応出来るよう兵装を選んだのだが、はっきり言ってこのような駆逐艦としてはほぼ完全な武装をする必要もなかった。深海棲艦が出て来そうな気配もなかったし、海賊出没の情報もない。

 江風は不吉なことを言っていたが、嵐自身は何事もなく今夜という夜は終わるだろうと油断していたから、緊急入電があり、ヘリに拾われることになったのには驚いた。パーティ中に不測の事態が発生したと言う連絡だったが、その内容はまだ分からなかった。基地に訊いても「詳細確認中」との返答しかなく、かれこれ三十分はヘリに乗せられて空を飛んでいる。

 

 だんだんと事態が悪い方に移ろいつつあるということを、嵐は理性ではなく本能的に察していた。夜景は信じられないほど綺麗だが、ところどころで見られる赤いサイレンが、この街で少しずつ異常が起き始めていることを示している。ふと隣を見ると、似たような心境なのか、萩風もまたいつになく真剣な面持ちで街を眺めていた。大雑把な嵐と違って常に丁寧に整えられている細い眉が眉間に落ち込むように真っ直ぐに立てられている。

 見詰められていることに気付いた彼女が嵐に目を移した。嵐も、萩風も、そのまま互いに無言で視線を交錯させる。頭上を回るローターやエンジンの音がまともな会話を不可能にするくらい騒がしいからという理由ではなく、ただ二人の間に言葉が必要なかっただけだ。

 嵐が感じていることを、萩風もまた感じていた。二人とも同じ気持ちだった。萩風が、膝の上に乗せた主砲を抱えていた手を徐に伸ばして、同じように自分の主砲を抱えている嵐の手に添えるのを見て、それが間違いないことを確認する。嵐が添えられた手を握り返すと、色とりどりのネオンに照らされている白い頬の陰影が少し変化して、小さなえくぼが作られた。

 

 

 

 

「至急! 至急! 基地司令部よりマーライオン2へ」

 

 僚艦との絆を確かめるための二人の短い時間は、ヘッドセットから聞こえてきた音質の悪い通信によって遮られてしまう。ただならぬ気配を感じて、萩風は手を放し、二人とも主砲を抱え直した。

 

「こちらマーライオン2。聞こえている。どうぞ」

「柳本中将から連絡があった。黒檜大尉が拉致された。犯人は現在市街地を逃走中。カーチェイスはそれによるものだ」

「なんだってっ!!?」

 

 真っ先に反応したのは、自分でも驚いたことに自分自身だった。狭い機上で嵐は小さく身体を跳ね上げ、眼下のシンガポールに視線を投げる。

 

「誰だ、今の声は? 嵐か? 落ち着け。まだ続きがある」

 

 基地のオペレーターは少し苛立ったように嵐を窘めると、残りの情報を伝えた。

 

「犯人は車両を使用して逃走した模様。警察が追跡中だ。また、警察とは別に、独自に逃走車両を追跡した一般車両が存在した模様。これの詳細は確認中だが、恐らくパーティに同行していた情報保全隊付特務艦の艦娘と思われる。彼女の所在も現在不明となっている」

「マーライオン2、了解。当機は市街地上空を飛行出来ない。追跡の支援も行えないが、どうするか指示されたし」

「マーライオン2及び百十七駆は帰投せよ。これ以上の滞空待機は不要」

「待ってくれ!」

 

 冷然と告げられたオペレーターの一言に、嵐とは反対側に座る江風が抗議の声を上げた。

 

「大尉は何で連れ去られたンだ?」

「それは分からない」

「だろ? 分かンねーことだらけだぜ。そンな状況下で、江風たちを引っ込めるのは得策じゃない。もう少し落ち着くまで待機しておいた方がいいぜ」

「追跡は市街地で行われている。君たちの手出し出来ない場所だ。警察のヘリも出動しているから、上空からの追跡はこちらに任せろ。逃亡犯が海に出る蓋然性は低い。これ以上はヘリの燃料も無駄になる。それに、これは命令だ」

「くそ……」

 

 容赦のないオペレーターに、江風が悪態を漏らす。彼女の気持ちは痛いほど分かった。嵐だって、否、嵐こそより強くそう思うのだ。

 どうやら、江風が懸念したことは彼女にとって想像を絶する形で現実となってしまったようだ。

 誘拐犯が何者なのか、それは捕まえてみないことには分からないし、狙いが黒檜だったのかたまたま狙われたのが黒檜だったのかも定かではない。ただ、誰にとっても驚くような出来事が起こったわけだ。

 黒檜はれっきとした軍人であり、海軍兵学校で規定通りの戦闘訓練も受けているはずだが、普段の彼女の業務といえばまさに「お役所仕事」なのである。それは仕事が杓子定規で遅いということではなく、役所でやっているような事務仕事がほとんどを占めているという意味で、要するに彼女は戦闘要員ではないということだ。

 

「OLと大して変わらないか」と、黒檜に対して若干失礼なことを考えつつ、しかし嵐としては看過出来ぬ状況であるのに、無情にも帰還を命じられたことにふがいなさを感じるしかない。

 彼女は、嵐と萩風の貴重な理解者だ。二人の過去を知って尚受け入れ、他の艦娘と変わらぬ態度で接してくれる。過去を指した非難を浴びることも少なくない嵐たちだが、今のところ二人がシンガポールで快適に過ごせているのは黒檜のお陰なのだ。

 シンガポールに配属されたばかりの頃は酷い言葉を投げられることも多かった。自分たちのしたことを考えればどんな誹謗中傷も受け入れるしかないし、反論する資格すらないと考えていた。だけど、言葉の刃に心が傷付かないはずがない。萩風なんかは酷いもので、中傷される度に一人枕を濡らしていた。

 昔から喧嘩っ早いところのある嵐も我慢していたが、ある時ついに堪忍袋の緒が切れたことがあって、その時も萩風と二人諸共かなり酷いことを言われたのだ。最初は黙って聞いていたものの、その内萩風が耐えきれずに泣き出してしまい、それでも何も言わずに岩になろうとしていた。だが、結局気の長い方ではない嵐は我慢しきれなかった。厳罰を覚悟で相手の顔面に拳を叩き込もうと踏み出した時、間に入ったのが黒檜だった。その時彼女はまだシンガポールに配属されて二日目で、あまり事情もよく分かっていなかっただろう。しかし、いやあるいはだからこそ、激怒“出来た”。

 殴りかかろうとした嵐を背中で受け止め、恐らくは震え上がるような恐ろしい顔で猛然と相手を批判し始めたのである。そのあまりの剣幕に相手も驚いて逃げるようにその場を立ち去るしかなかった。以来、彼女があれほど本気で怒ったことを見たことはないが、相当に衝撃的な出会いだったのは確かだ。

 その後は黒檜は嵐と萩風の置かれた境遇に同情し、周囲に対して理解を促すように行動し始めた。二人を誹謗するような言葉を言う相手に対しては顔を突き合わせて対話を図り、説得していったのである。お陰で、半年もしない内にシンガポールで嵐たちを悪く言う者は居なくなった。それは、黒檜が怒った相手もそうだった。

 時折、基地の外部から来た人間や艦娘から色々と言われたりもするが、その程度なら嵐たちもあまり気にしなくなった。何にしても黒檜が行動を起こしてくれたお陰だし、嵐も萩風も彼女には深く感謝している。黒檜は、いわば二人にとっての恩人だ。

 

 その恩人が理不尽な犯罪の被害者となり、今も悪党の手の中に囚われている状況で、のこのこと基地に帰るしかないのは悔しさを通り越して情けなささえ感じる。同盟国でもない国の軍のヘリが市街地上空を飛び回るのを良しとしないシンガポール政府の言い分も、自分たち艦娘がどれ程の暴力装置であるかも理解している。犯罪者を捕まえるのは警察の仕事であって、例えその被害者が大切な仲間であったとしても、軍のしゃしゃり出る幕はないのだということも、毎日マラッカ海峡で仕事をしているからこそ身に染みて分かっている。帰還の命令が妥当であることも。

 

 旋回して基地に機首を向けるヘリ。「こンなこと、してる場合じゃねえのに……」という、江風の絞り出すような呟きがヘッドセットから聞こえてきた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 鈴谷を助けた二人の少女の名前は、先に川に飛び込んだ方が「東風谷早苗」、後から飛び込んだ方が「博麗霊夢」と言った。鈴谷は二人に連れられ、低所得者用のマンションの屋上に上って、まず服を乾かし始める。

 屋上には大きな横長の看板が据え付けられており、博麗は持っていた紐を看板の支柱と支柱の間に結び付けて即席の洗濯紐を作ると、びしょ濡れになった三人の上着を引っ掛けた。鈴谷はスーツ姿だが、常夏の国に来た二人は共にTシャツにハーフパンツと、非常にラフな格好である。紐に引っ掛けられたのは、鈴谷のジャケットとブラウス、少女二人のTシャツだった。つまり、三人とも上半身は下着のみということになるが、女同士、衆目がある場所なわけでもないので、恥じらいというものは考えもしない。ちなみに、鈴谷と東風谷はブラジャーだったが、博麗は何とサラシを巻いていた。

 

 火を焚く必要もないほど温かいので、屋上を這い回る送水管に並んで腰掛けながら、半裸の三人は情報交換を始める。

 

「私たちは」

 

 どこの、何者であるか、という問い掛けに対し、神妙な面持ちで東風谷が答えた。

 

「幻想郷という場所から来ました。そこに守谷神社という神社があって、私はそこの風祝。霊夢さんは別の、博麗神社という神社の巫女です」

 

 聞いてすぐに意味を理解するには難のある発言だった。知らない名詞が複数出て来たので、まず分かりやすいところから咀嚼していく。どうやら二人は別々の神社の神職らしい。普通、神社の巫女と言えば、初詣の神社でおみくじを売っているようなアルバイトをイメージするが、中には正規雇用として神社に採用される本職も存在する。二人は見かけの年齢から「バイト巫女」のように思えるが、それなら自己紹介にわざわざ「巫女」と名乗ったりはしないだろう。“風祝”が何かは分からないが、東風谷の言い方から「巫女」と大差のない職のようだ。

 問題は、地名らしき「幻想郷」という名詞だ。聞いたことがないし、「幻想」と名の付く場所が存在するのも奇妙である。

 

「『幻想郷』ってのは、どこのことなの?」

 

 すると、東風谷は困ったような顔になった。まるで、その言葉を説明する語彙を持ち合わせていないと言わんばかりだ。そこで、鈴谷は少し助け船を出してみる。

 

「日本なの?」

「まあ、そうと言えると思います」

 

 はっきりしない答えに、眉間に皺が寄る。だが、短気を起こすにはまだ早い。彼女たちは有力な情報提供者になり得るからだ。

 

「都道府県で言えば、どこ?」

「……う~ん。難しいですね。あれは、何県なんだろ?」

 

 東風谷は首を傾げた。「何県なんだろ?」と言われても、それはむしろ鈴谷が知りたいことである。

 

「幻想郷は、こっちの世界の言葉じゃ説明しきれないわよ」

 

 不意に、黙って会話を聞いていた博麗が東風谷を挟んだ反対側から口を挟んだ。というより、悩む東風谷に対して助け舟を出したのだろう。鈴谷はあえて無言で首を傾げ、博麗にどういう意味なのか説明することを促した。

 

「あんたには信じられないかもしれないけど、幻想郷には神も、妖怪も、幽霊も実在するわ。それらすべては、こっちの世界で否定された幻想。そういう幻想たちが生き延びるために作った場所が、幻想郷なの。この早苗だって、元々こっちの世界の住人だったけど、守谷の神が存在を保てなくなるからって幻想郷に引っ越してきたのよ」

 

 博麗神社の巫女は饒舌につらつらと語ったが、鈴谷には話の半分も理解出来なかった。恐らく彼女は聡明で、色々なことを理解しているのだろう。ただ、頭の中にあるそれらの理解を適切に言語化して他者と共有するという行為がとことん苦手なのだ。学者や、官僚に多いタイプか。頭はいいが、口下手で、難解なことを咀嚼して相手の理解しやすいように言い換えることが出来ない。

 とは言え、博麗の言いたいことを把握しなければ、さすがにこの後の話には付いていけそうになかったので、仕方なく鈴谷は東風谷に視線を送った。聡い彼女はそれだけで自分に期待されている役割を理解したのだろう。言葉を選ぶようにゆっくりと解説をしてくれた。

 

「ええと、『こっちの世界』というのは、今私たちや鈴谷さんが居る、この世界のことです。ですが、幻想郷はこの世界とは別の、いわば異世界や不思議の国のような存在と言えるでしょう」

「夢の中の世界ってこと?」

「そうとも言えるかもしれませんね。普通の方法ではこちらの世界から幻想郷に行くことは出来ません。幻想郷はこちらの世界、私たちは『外の世界』と呼んでいますが、この『外の世界』とは結界で隔離されています。

幻想郷では、『外の世界』で否定された不思議や、忘れ去られた事象が存在します。例えば、魔法。例えば、奇跡。こちらの世界では、それらはすべて否定されていることでしょう。科学的に説明されるか、『気のせい』とか『勘違い』とか『幻覚だった』とか言われているようなことが、幻想郷では実際に存在するし、実際に起きるのです」

「魔法や奇跡が存在する世界? そんなものが、ホントに実在するってわけ?」

「そうです。実際、私の友人の一人は、本物の魔法が扱えて、星を降らせたり、箒で空を飛んだり出来るんですよ」

「毒リンゴとか食わそうとしたりする?」

「いいえ。彼女の場合は毒キノコですね」

 

 東風谷はにっこりと笑った。

 

 それにしても、魔法や奇跡も存在する世界に、神社まであるのだから、何とも統一性のないような混沌としているような気がする。不思議の国から来たのだから、不思議なことの一つでも出来るかもしれない。

 幻想郷という場所は極めて興味深い場所であったが、今鈴谷にとって重要なのは、夢とおとぎの国に想いを馳せることではない。そんな夢見がちな時分はとっくに過ぎたし、魔法や奇跡があったところで、欲しいと思うものは特にない。

 

「それで、その幻想郷から来た二人はさぁ、どういう理由があってこっちに来たの?」

「そりゃあ、あいつを追うためよ。あの、レミリア・スカーレットっていう餓鬼をね」

 

 今度は博麗が答えた。彼女が出した名前に聞き覚えがあって、鈴谷は目を細める。

 

 およそ二年前、東日本のある海軍鎮守府に「提督」として着任した外国人が居た。その人物の名前が「レミリア・スカーレット」。だが、実際には彼女は素性不明な不審人物であり、それに気付いた当該鎮守府の所属者によって追い出された。

 それ以来、この人物は行方不明になっているので、真実、一体どこの誰だったのか、何が目的でこの鎮守府に潜入していたのか、スパイなのか、そうではないのか、詳しいことは何一つ分かっていない。彼女について、当該鎮守府が提出した報告書ではその辺りのことは一切書かれていないし、そこには「追い出した」などと格好をつけて書いてあったが、その実、単に逃げられただけである。当人に詳細を尋問する機会も失われてしまったので真実は明らかになっていない。

 このことは海軍上層部の沽券に関わるので、一切公表されていない。よって、最高機密の情報となっているのだが、鈴谷が「レミリア・スカーレット」について知っていたのは、こうしたスパイと思しき不審人物を洗い出し、身辺調査を行い、時に逆スカウトを行い、時に捕縛して尋問をする、情報保全隊に所属しているからだ。当時、「レミリア・スカーレット」が潜入していた鎮守府の所属艦娘で、現在行方知れずとなっている者が一名存在しており、この艦娘たちを追うことが元々の鈴谷の仕事であった。

 

 思わぬところで思わぬ名前を聞くことになったのは、純粋に驚きである。だが、これは鈴谷にとって好都合だった。「レミリア・スカーレット」と「クリスティーナ・リー」は、どこかで繋がった。スカーレットの案件とリーの案件、それぞれ別の仕事を並行しなければならないのは面倒だと考えていたが、その二つが根っこのところで繋がっているなら、実質一つの仕事だ。面倒ごとが一つにまとまったなら、面倒さは半減であろう。

 

「その名前は聞いたことがあるけど、今回の話に関わってくるわけね」

 

「そうよ」博麗は首肯した。「どこで聞いたの?」

 

「それは言えない」

 

 きっぱりと鈴谷が断ると、博麗は俯き加減になって上目遣いで険のある視線を向けてくる。これが彼女の威嚇の仕方らしい。

 何となく以前の自分に重なるようで、いい気持ちにならない。誰が見ても不良と分かる不良だった頃の自分を、鈴谷はあまり好きではないのだ。もっとも、本質的なところは変わっていないものの、かつてより大人になった鈴谷は不快感を表に出さないように気を払いながら、もう一言付け加えた。

 

「守秘義務があるから」

「あ、そう」

 

 鈴谷が答えられないことを理解したのか、わざとらしく大きなため息を吐くと、もう興味をなくしたと言わんばかりに博麗は送水管から尻を離して干してあるTシャツに向かう。自分のTシャツに手を伸ばして乾き具合を確かめると、「全然ダメね」と呟いて、もう一度大きなため息を吐いた。そのまま彼女は目元に掛かった前髪をかき上げ、今度は看板の支柱に腰を預けると腕を組んでむっつり黙り込んでしまった。

 その様子を眺めていた東風谷が再び鈴谷に向き直り、すっかり話す気がなくなった博麗に代わって続きを口にする。

 

「レミリア・スカーレットさんは、吸血鬼です。ヴァンパイア」

「……マジで言ってんの、それ。吸血鬼って、あの血を吸う奴? ドラキュラ伯爵みたいな?」

「そうです。その吸血鬼です」

「ホントにそんなのが存在するなんて……」

 

 東風谷曰くは、幻想郷という場所においてフィクションに出て来るような妖怪変化が闊歩することは当たり前であり、日常であるらしい。だが、そもそもフィクションはあくまでフィクションとしてしか考えてこなかった鈴谷には、言葉で言われて理解しても、すんなりと頭に入ってくる話ではない。確かに世の中には化け物のような深海棲艦という存在が海を泳いでいるが、基本的に人類側の認識として、深海棲艦は「新種の生物」である。その生態は多くが謎に包まれているが、あくまで生物の範疇にあり、未解明ではあるものの「いずれ解明に至る」という前提条件をもってしての認識だった。

 しかし、吸血鬼はそうではない。ブラム・ストーカーの小説に出て来る架空の存在。それが吸血鬼に対する現代人のほぼ共通した認識であろう。何故なら、深海棲艦と違って吸血鬼は誰もがその存在を確認出来るようなものではないからだ。ネッシー、チュパカブラ、あるいはエリアンのような、都市伝説(法螺話)のキャラクターでしかない。

 

 それに、「吸血鬼」という単語には大きな因縁がある。忘れもしない七年前の出来事。横須賀の街を静かに襲っていた「吸血鬼」の脅威。しかしてその正体は、鈴谷の最愛の人であったわけだが。

 事の真相は結局分からずじまいだったが、この時も被害者の首筋に残されていた傷跡から「吸血鬼の仕業ではないか」と実しやかに囁かれた。もちろん、鈴谷も熊野が本当に「吸血鬼」になっていたとは考えていない。彼女が何を考え、何に苦しみ、どうしてあのような事件を起こしたのかは未だ謎であるし、恐らくはこの謎が解かれることは永遠にないだろうと思っている。何しろ、熊野はもう居ないのだ。死んでしまったのだ。死者が何かを言うことはない。そして、鈴谷自身、この謎が明らかになることを望んでいない。

 

 

 

 閑話休題。

 無論、熊野の事件でも、犯人が「吸血鬼の真似事」をしているのだという前提的な認識があったのでそういう噂が流れただけで、誰も本気で犯人が吸血鬼であるとは考えていなかった。「吸血鬼の仕業」というのは、あくまで熊野の犯行の様態に対する比喩的表現でしかなかったわけだ。

 

「ええ、そうです。その認識で間違いありません。だからこそ、吸血鬼は幻想なのです」

「架空の存在と見なされたからこそ、幻想になったってことなんだね」

 

 かつて、人々は吸血鬼の存在を信じていた。ところが、その名の知名度こそ非常に高いものの、科学技術が発達した現代ではほとんどすべての人々が吸血鬼はフィクションの中にしか存在しないと考えている。実際に世に存在していた吸血鬼はそうやって実在性そのものを否定されてしまったからこそ、それが否定されぬ世界、言い方を変えれば“自らを受け入れてくれる”世界に避難しなければならなくなった。その世界こそが「幻想郷」なのである。

 吸血鬼だけではない。昔の人々の目には不思議に映った現象の多くが科学的に説明されるようになり、誰も足を踏み入れたことがなかった土地が開墾されてどんな場所も地図に載るようになったことで、幻想がこの世界に存在する余地がなくなってしまったのだと、風祝は説いた。だからこそ、幻想たちが存在出来る世界、すなわち幻想郷が必要になったのだとも。

 

「吸血鬼を始めとした妖怪たちは、一人ひとりが人間が束になっても傷一つ付けるのがやっとのような強大な力を持っています。それでも、存在そのものを否定されてしまったら、彼ら・彼女らの力など意味を為しません。ただ煙のように薄れて消えていってしまうのです」

 

 東風谷の口ぶりには、彼女がその事実を悲観的に捉えていることが如実に表れていた。

 

「でも、その吸血鬼は自分を否定したはずの世界に戻って来た」

「はい。そして未だに幻想郷に帰って来ません」

 

 これは大変な事態なのです、と付け加えた東風谷は深刻な表情をしている。

 

「レミリアさんは幻想郷のパワーバランスを成す一角でした。幻想郷には他にも力の強い妖怪が居て、それ程広くない土地の中で棲み分けを行って共存しているわけです。もちろん、レミリアさんもその一人であり、彼女を欠いては幻想郷のバランスも崩れてしまいます。しかし、さっきも言った通りレミリアさんはある時『外の世界』、つまりこちらの世界に出て行ったきり、戻って来ていません。このままでは幻想郷のパワーバランスが狂ってしまいますから、私たちはレミリアさんが戻って来ない理由を探り、彼女を連れ戻すためにこちらにやって来たのです」

「……穏便に済ませたい感じがするね」

「それはそうですよ。私なんかでは全く敵わないくらい強大な存在なんです。事を構えるような展開は極力避けなければなりません」

「パワーバランスの一角を担ってるって言うんなら、他にも強い奴が居るわけでしょ? その『より強い存在』が連れ戻しに来ればいいじゃん? あんたたちじゃなきゃダメな理由とかあるの?」

 

 すると、東風谷は博麗と顔を見合わせ、相方に了承を取るような素振りを見せた。相方が頷いたので、東風谷は鈴谷の質問に答えることが出来たようだ。

 

「実は、妖怪たちは『外の世界』に来ることが基本的に出来ないんです。何故なら、妖怪たちはこちらでは既にその存在を否定されてしまっているので、無理に居続けようとすれば消えてしまう。だからこそ、幻想郷という場所が作られて、妖怪たちがそこに集まったのだと言えるのですけれど」

 

 東風谷の話は現実離れしすぎていて今一つ理解に難儀したが、それでも鈴谷は引っ掛かりが一つ解消されたことを感じ取った。スカーレットの強さというものがどれ程なのか、深海棲艦とまともに戦い得るものなのか、そこは分からない。少なくとも海軍に潜入していた時に彼女自身が深海棲艦と戦ったという「記録は」残っていない。一度だけ直接会敵したことがあったようだが、結局その時も当時部下だった艦娘たちが対応している。だから、スカーレットが強者と言われても今一つピンと来ないのだが、仮に東風谷の言う通り「強い」存在であるなら、スカーレットを含め、そうした存在が「こちらの世界」に来て暴れ回っていてもおかしくない。そうであれば、深海棲艦との戦争の様相というのも大きく変わっていただろう。

 だが、実際には「こちらの世界」に妖怪が跳梁跋扈することなどなく、強いて言うなら深海棲艦がそれに該当するであろうが、吸血鬼が何かをしたという話は今の今まで聞いたことがなかった。それはもちろん、吸血鬼が「実在しない」とされているからだ。少なくとも現代において地球上で最強の存在は人間か深海棲艦と言えるだろう。

 

 ようやく飲み込めた鈴谷は、スカーレットより「強い存在」が彼女を連れ戻しに来ない理由にも納得した。東風谷と博麗が派遣されたのは、彼女たちが紛れもなく人間であるからだった。人間は、幻想郷にも「こちらの世界」にも、共通して存在している。人間は、誰かが信じるか否かによって存在を否定されるようなものではない。ヒト科ヒト属の一種である生物であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。

 しかし、ここで矛盾が生じる。何故なら、スカーレット以外の幻想たちは「こちらの世界」に来れないにも関わらず、スカーレットは少なくとも半年間は「こちらの世界」で存在していたのだ。これは明らかに東風谷の説明と辻褄が合わないことだった。

 

「正直、その理由は分かりません。レミリアさんには仲間が居て、その仲間たちも幻想なのですが、彼女たちも消えたりしていないようですから、何かからくりがあるのだと思います。けれど、私たちにはそこまでが分かっていません」

 

 本当に東風谷たちが、スカーレットが“消えない”理由を知っているかどうかは判別しかねた。東風谷は困ったような顔でもっともらしく言っていたが、その言葉を鵜呑みにするほど鈴谷は脇が甘いつもりはない。誰かの言うことを馬鹿正直に信じていたら、防諜など務まらないからだ。

 とは言え、追及するだけの材料もないので、あえてそこに突っ込むことはしない。代わりに鈴谷は、今の彼女たちと吸血鬼の関係性を尋ねた。

 

「平たく言えば、レミリアさんが何を考えているのかが分からないのです。で、いつまでも出奔されたままでは困りますから、何とか連れ戻せないかと思ってシンガポールまでやって来た、というのが事の次第です」

 

 と、東風谷は困り顔だ。

 

「仮に、吸血鬼が帰ることを拒んだとしたら、どうするの?」

「うーん。そこは、最悪実力行使もあるでしょうけど……」

「まるで、力づくでどうにか出来るみたいなことを言うんだね。さっきは『全く敵わない』とか言ってたように思うけど?」

「それは、ほぼ間違いなくレミリアさんがこちらに来て弱体化しているからですよ。消えないだけで、力は大幅に弱まっているはず。ですが、私たちは人間なので力を失うことはないのです。存在としての強さが己の力の強さに直結する妖怪と違って、人間は人間ですから」

 

 東風谷曰くはそういうことなので、幻想郷にどれ程の数の人間が住んでいるかは知らないが、この年端もいかない少女二人が強大な吸血鬼を連れ帰るに適切な人選であるらしい。神職というのはそれほど力があるものなのだろうか。

 

「へえ。今のレミリア・スカーレットなら、あんたたちでもどうにか出来るってこと?」

 

 鈴谷としては特にそんな意図を持った発言ではなかったのだが、それまで面倒な説明事をすべて東風谷に丸投げして沈黙を維持していた博麗が敏感に反応した。

 

「は? 何言ってんの、元々あんなちんちくりんに負けるわけ……」

「あー! そうです! そうです! 私たちでもどうにかレミリアさんに勝てるくらいです。はいッ!」

 

 何か言い掛けた博麗を、東風谷が慌てて塞かき消すような大声で遮った。発言を妨害された方はいたく機嫌を損ねた様子だ。若干不貞腐れたような気持ちが見て取れた。

 

 少女二人とスカーレットの力比べがどうであるかに興味あるが、今の優先順位は他が上位になる。大事なのは、この少女たちがある事柄について答えていないことだった。

 東風谷は言った。レミリア・スカーレットが幻想郷に“戻って来ない理由”を探り、連れ戻すためにやって来たのだと。

 その言葉を素直に解釈するなら、彼女たちはスカーレットを連れ戻すことが役目であり、場合によっては吸血鬼が出奔したままの理由を聞いてある程度理解を示す必要性がある、と考えているようだ。そこに、スカーレットが「こちらの世界」に“来た理由”は含まれていない。何故ならば、彼女たちはその理由を知っているからであろう。

 

「一つ気になったんだけどさ」

 

 何となく裏の事情が読めてきた鈴谷は、組んでいた腕を解いて、さりげなく鈴谷の背後に回ろうとしている博麗に意識を割きつつ、視線は東風谷から外さずに問い掛ける。同時に、気付かれないように膝から力を抜いた。

 

 

「吸血鬼が幻想郷から出て来たのはなんで? その理由を、あんたたちは知ってるみたいだけど、良かったら鈴谷にも教えてくれるかなあって思うんだけど」

 

 一瞬、東風谷が博麗に目配せする。

 

「ねえ、“早苗ちゃん”」

 

 

 

 艦娘に猫なで声で名前を呼ばれた少女は、表情を強張らせた。怖気づかせるつもりはなかったが、舐めた態度をとられるのは気に食わない。これでも鈴谷は軍人、すなわち国家権力の一部であり、一般の少女から軽んじられるようでは面目も何もあったものではない。プライドの話ではないが、こちらの力をある程度誇示しておかなければ、重要な話はしてくれないだろう。

 果たして、威嚇が効いたのか、少女は答えた。ただし、東風谷ではなく博麗である。

 

 

「レミリアの奴がこっちに来て、初めに何をしてたかは知ってるわ」

 

 気付けば虎が威嚇しているような鋭い目付きの博麗が看板の支柱から腰を離し、両手を身体の横に垂らしたままの姿勢で直立していた。注目すべきは右手に御幣のような物が握られている点で、つい先ほどまで彼女はそんな物を持っていなかったはずだ。上半身はサラシだけなので隠すことも出来なかったはずだが、どこから取り出したのだろうか。いずれにしろ、彼女は警戒心を隠すつもりもないようで、御幣はその表れである。

 

「あんたがあいつの名前を知っていたのは、あいつがあんたたちの組織に潜り込んでいたから。違う?」

 

 そう問い掛ける博麗に、一瞬逡巡した鈴谷だが、すぐに「違わないよ」と首を振った。スカーレットの存在は、海軍内では機密事項で、それ故先程「レミリア・スカーレット」の名前を知っている理由を聞かれた時に、守秘義務を理由にして答えることを拒んだのだが、何のことはない、彼女たちは聞くまでもなく鈴谷の側の事情を分かっていたのだ。ならば、守秘義務に反するが、下手に情報を隠すより、ある程度開示した方が話は進みやすいだろう。

 

「確かに子供みたいな見てくれの外国人の将軍がうちの組織の中で指揮を振るっていたよ。そいつの名前が『レミリア・スカーレット』だった」

「そうよ。そいつがレミリアよ」

 

 かつて海軍に潜入していた「レミリア・スカーレット少将」なる人物は、とても背が低く、子供と見間違えるような背格好をしていたという。というより、スカーレットの見た目は子供そのものなのだ。彼女を映した写真は数少ないが、いくつか残されていたそれらを見た鈴谷はそう感じずにはいられなかった。不思議なことに、幼い姿の提督を、当時の鎮守府の全員が受け入れていたのである。それこそ、“魔法が掛かった”ように。

 

「で、あんたはレミリアが何で自分たちの組織に潜り込むようなことをしたのか、何をしようとしていたのかを探っているってわけね」

「そうだね。それが、鈴谷の仕事だし」

「それくらいのことなら、教えてあげてもいいわよ」

 

 博麗は、初めて笑った。不遜な笑みだったが、彼女のような年代の少女が浮かべるような表情ではなかったが、それでも笑みは笑みだった。

 

「要求は?」

 

 持ち掛けられた取引に、鈴谷は応じることにした。未だ博麗は警戒を解いていないが、彼女と対立する必要性はどこにもないし、彼女たちには利用価値がありそうである。訊いてはいるものの、実は彼女が何を言いだすかは見当がついていた。その上で、既に相手の要求を飲むことを決めていた。

 

「私たちに協力してくれる? こっちの世界じゃ、私たちに出来ることは限られてるし」

「いいよ。手を貸してあげる。その代わり、こっちのお願いも聞いてよね」

「交渉成立よ」

 

 そう言って、ようやく博麗は肩の力を抜いた。御幣を支柱に立掛け、強張っていた筋肉を解すように首元を揉みながら肩を回す。さらに、首を曲げて骨を鳴らすと、博麗は干してあるTシャツを取り上げ、大きく振って風で水分を飛ばそうとする。二度、三度それを繰り返してから徐にシャツを鼻に持って行き臭いを嗅ぐと、「臭い」と呟いた。

 気温も高いが、湿度も高いシンガポールの夜だ。干してもほとんど乾かない上、臭いも残るだろう。これ以上は干している意味がないと判断したのか、博麗は生乾きのシャツを着た。

 

「さっきの質問には答えてくれるんでしょ?」

 

 マイペースな博麗はそのまま好きにさせておくと何も教えてくれそうにないので、回答を催促する。巫女はTシャツを着る際に巻き込んだ髪を襟口から引き出しながら軽く頷いて、

 

「ああ、レミリアがこっちに来た理由?」

「そうそう」

「あれね、何だっけ? あの、海の化け物のこと……」

「深海棲艦?」

「そう。確かそんな名前。その深海なんたらを倒すために、あいつはこっちに来たみたい」

 

 鈴谷は口元に手をやる。これは極めて興味深い情報であった。

 深海棲艦は人類の不倶戴天の敵。それを、スカーレットは駆逐するためにやって来た。元々人間を襲い、喰らっていた吸血鬼が、である。

 無論、博麗の話には続きがあって、驚く鈴谷のことなど気にも留めていない彼女はつらつらと語る。

 

「幻想郷って内陸にあって、海には面していないの。だから、大体の物は自給自足で賄えるんだけど、海とは繋がっていないから一つだけどうしても外の世界から手に入れなきゃならない物がある」

「塩のこと?」

「そうよ」

 

 博麗は首肯した。

 

 

 塩。しお。Sault. 

 古代ローマでは「Sal」と呼ばれ、通貨の代わりとして兵士たちに現物支給されていた必需品である。塩自体が人間が生きていく上で欠かせられない物質であり、塩分の不足により脱水症状や筋肉の痙攣、果ては意識障害から昏睡に至り、最悪は死ぬ場合もある。特に、塩分不足による低ナトリウム血症は作戦行動中の艦娘にとって致命的な事態であり、艦隊に一人でも低ナトリウム血症の兆候があると、即刻作戦が中止されることもあり得るくらい深刻に考えられていた。こうした事態には日中炎天下での海上航行中に熱中症と共に陥りやすいため、各員の水分と塩分のバランス良い補給が厳命されている。

 こうした背景もあり、艦娘である鈴谷は塩がどれ程人体にとって不可欠なものであるかをよく理解していた。それでなくとも、四方を海に囲まれた日本は工業用途を含め大量に塩を消費する国であり、多くを輸入に頼っていたにもかかわらず、深海棲艦の出現で海外からの塩の供給が減って深刻な事態に陥ったことがあるのだ。今は自国内での生産量が十分増えて以前ほど塩不足が騒がれることはなくなったが、当然塩の価格は跳ね上がり、経済を圧迫するようになっていた。それで、多くの日本人は塩の重要性を嫌というほど思い知らされているはずだ。

 だから、内陸にあるという幻想郷が塩の調達に苦労するのは想像するまでもなかった。そして、その問題の深刻さについても鈴谷はすぐに実感を伴って理解した。幻想郷側が普段どのようにして塩を調達していたかは不明だが、外部と何らかの取引をして手に入れていたと考えるのが妥当だろうか。とすると、外部すなわち日本国で塩不足になりその価格が高騰するのは相当幻想郷に悪影響を及ぼしたはずである。それに対するリアクションとして、諸悪の根源たる深海棲艦を排除しようとするのは、当然と言えば当然だ。

 

「確かに深海棲艦が居なくなれば塩の安定供給は可能だね」

「外の世界の人間がいつまでも深海棲艦の駆除に手をこまねいているからこっちから出て行かなきゃならなくなったってわけよ。まあ、存亡も懸かっていたことだし」

 

 若干棘が含まれた表現だったが、博麗の言っていることは概ね正しい。鈴谷たち“外の世界の人間”側が深海棲艦との戦いを長いこと続けているのはまごうことなき事実であるし、決め手を欠いてここまで戦争が延びてしまっているのもまた事実である。

 

 最近の大学生より少し上の世代は、生れた時から国が深海棲艦と戦っていると言える世代だろう。もう四半世紀以上もこの戦いを続けているのだから、各国とも経済活動や政治体制は深海棲艦との戦いを前提としたものに変化していた。塩価格が高騰したのは、そうした状況下でさらに経済成長が起こったことが切欠であり、各家庭や企業とも塩が高くなったことに苦労しながらもなんとか対応をしている。むしろ、厚生労働省などは塩の需要過剰を逆手に取り、健康促進のためと称して減塩キャンペーンを主導したくらいなのだ。一時期は食費節約と高血圧の解消のため、減塩料理が大ブレークしたこともあった。

 こうした事象は、日本に限らず世界各国で類似しているという。これが意味するのは、人類は深海棲艦という存在を好むと好まざると受け入れ始め、その存在を当然として社会を構築し直したということだ。もっと簡潔で平たい表現を使うなら、「慣れた」とも言えるだろうか。

 人類は深海棲艦の存在に、海の異形と戦うことに、「慣れた」。「慣れてしまった」。それは例えば世界的な供給連鎖や人の移動、国際関係、学術研究などもそうである。いずれにしろ、人間社会のあらゆる領域で深海棲艦を前提とした仕組みが再構築され、それらが今の世界を動かしている。もっと言えば、深海棲艦との戦争も、むしろそのことを商売のタネにしている企業も存在するくらいで、艦娘の存在も賛否両論はありながらも広く社会に受容されているし、学校の教科書にも毎日のニュースにも当たり前のように「深海棲艦」や「艦娘」といった単語が現れるようになっていた。深海棲艦の権利――“アビシス・ライツ”――なる概念を主張する色物団体も出現しているというのだから、人類の深海棲艦への「慣れ」の程度が知れるというものである。

 ただし、こうして深海棲艦に「慣れた」のは、あくまで鈴谷の知っている世界の住人たちだけで、目の前の少女たちを含めた異世界の住人たちはそうではなかった。思うに、彼女たちが来た「幻想郷」という場所は限られた人数しか居ない小さなコミュニティで、経済活動のレベルも「こちらの世界」とは比較にならないほど低く、それ故に塩価格の高騰を許容出来る経済的な強靭さや冗長性がなかったのだろう。彼らは深海棲艦との戦いが長引くことに耐えられない。それを前提とした社会システムの再構築が出来ない。だから、「排除」という結論に達したのだ。

 

 

 潜入していた理由が分かり、腑に落ちていなかったことがすんなりと飲み込めた。スカーレットの“当初の”目的は、深海棲艦の討伐であったわけである。実際にどの程度深海棲艦を駆除するつもりであったのかは定かではないが、少なくとも幻想郷の社会システムが破綻を来さない程度にその影響力を減じる必要はあったであろう。そこで白羽の矢が立ったのが、幻想郷のパワーバランスの一角を担うというレミリア・スカーレットだった。

 ところが困ったことに、この強い吸血鬼は外に出て行ったきり、幻想郷側の意志に背いて独断専行をし始めてしまった。幻想郷側からすれば、それはそれは心休まらない事態だろう。狭いコミュニティの中にもかかわらず、強大だというスカーレットのような連中がひしめき合っている幻想郷で、微妙なバランスの上に成り立っていた社会がそれを支える重要な柱を一つ欠けばどうなってしまうかは簡単な想像だ。

 東風谷たちに与えられた使命は、可能な限り穏便にスカーレットを連れ戻すこと。問題は、間違いなくレミリア・スカーレットは自分が幻想郷でどのような影響力を持つか自覚しているのに、戻らないだけの強い目的を持っているという点だ。その自覚がなければ、彼女が幻想郷の中でパワーバランスを担うことが認められなかったであろう。何しろ、同等の存在は他にも居るらしいから、自分の力の強さも分からないほどの愚か者であれば、それこそ即座に排除されているはずだ。にもかかわらず、スカーレットは幻想郷に帰らず、「こちらの世界」に来たままだという。しかも、その仲間まで連れているというのだから、スカーレットには「こちら」に居続けるだけの何か強い理由があるのは間違いない。

 

「でも、レミリア・スカーレットが海軍に潜り込んだのはもう二年も前のことだよ? それにしては随分と時間が経っているような気がするけど?」

「実はレミリアさん、二年前に海軍に潜入し始めた後、一度戻って来ているんです」

 

 今度答えたのは東風谷の方だった。

 

「レミリアさんの潜入について調べておられたのならご存知かとは思いますが、潜入していたのがバレて追い出されていますよね。その後、レミリアさんは一旦幻想郷に戻って来たんです」

 

 なるほど、それでスカーレットが捕まらなかったのか。

 軍が血眼になってスカーレットの後を追っても、まったく足取りさえ掴めなかった理由がここにある。幻想郷に逃げ帰られていたのなら、それは捕まえられないはずだ。

 

「でも、また『こっち』に来たんだよね? やっぱり、深海棲艦を倒すために?」

「ええ、そうです。少なくとも、去年の時点ではそうでした。幻想郷には、そこを管理する『賢者』と呼ばれる妖怪たちが居ます。レミリアさんは『賢者』の一員ではないのですが、『賢者』に直談判して、一度失敗した深海棲艦の駆除を再度請け負うことの合意を取り付けました。ただ、さっきも言った通り、一年経ってもレミリアさんは帰って来ませんし、その気配もない。なので、私たちが派遣されることになったのです」

 

 そういうことだったのか、と鈴谷は独りごちる。

 

 スカーレットが幻想郷の管理者たる『賢者』に対して唱えた「深海棲艦の駆除」という目的は、「こちら」に来て活動する許しを得るための方便だった可能性が高い。いかな「賢者」と言えど力が弱まる「こちらの世界」では思うように動けない一方で、スカーレットとその一味には何かしらのからくりがあり、彼女たちは「こちらの世界」においても行動をさほど制限されないようであった。少なくとも、“消えてなくなることはなく、目的を追求できるだけの活動能力を維持することが可能”という見込みはあったようだ。だから、一度出てしまえば「賢者」の手の届かないところで思う存分やれるというわけである。

 目下、そのような奔放な振る舞いを見せる人物は、このシンガポールにおいて鈴谷の知る限り一人しか居ない。バラバラだったピースが少しずつ繋がり始め、段々と絵の全体がおぼろげながらその姿を現し始めた。

 

「で、今は『クリスティーナ・リー』って名乗ってるってことね」

 

 東風谷は首肯した。

 俄かには信じがたいが、スカーレットも東風谷たちも、そのような“信じがたいことがある”世界の住人であるのだ。例えば、スカーレットが年端もいかない少女の姿であったとしても、それは彼女がどこからどう見ても成人である「クリスティーナ・リー」と同一人物であることの否定材料にはなり得ない。

 

「ああいう手合いは自分の姿をある程度自由にいじれるの。だから、見た目に拘っちゃ駄目よ」

 

 と、合いの手を入れてくれる博麗の言葉はまさしくその通りであろう。

 

「大人の姿のレミリアさんも、子供の姿のレミリアさんも、どちらも同じレミリアさんです。でも、それが当たり前だと分からない『外の世界』の人たちには、別人に見えてしまう。そうやって他人を惑わすことが、レミリアさんが容姿を変えた狙いなのでしょう」

 

 と、東風谷が忠告を発する。

 レミリア・スカーレットはペテン師のようなものだ。いや、そのものだ、と言い切ってしまってもいいかもしれない。嘘を吐くし、真実は言わないし、人を騙そうとする。自らの姿さえも変えて、欺こうとする。

 さらに厄介なことに、本来この吸血鬼は艦娘でさえ敵わないような力の持ち主でもあるのだ。今はどうかは分からない。東風谷や博麗は勝てると考えているようだが、六ケ所でのあの暴れっぷりや、堂々と悪事を働く自由奔放ぶりに、スカーレットが弱体化したとは到底思えなかった。この点、少女たち二人には大きな認識の誤りがあるのではないだろうか。

 

 何よりももう一つ、スカーレットの力が弱まっていないことの証拠となり得る事実が存在する。

 鈴谷は念のため、スカーレットが二度目に「こちら」に来た日付を東風谷に確認した。彼女は「西暦で言うと」と断りを入れ、その日付を口にした。それこそが、スカーレットの力を示す言葉であった。

 

 

「ただ、あいつは今日、思い切った行動に出たわ」

 

 博麗は言う。

 

「あいつの手下に紅美鈴って奴が居る。さっき、あんたと追い駆けっこしてた奴よ。そいつがあんたたちの仲間を攫った。逃げる先は、もちろんレミリアのところ」

「それは鈴谷も知りたいところだね。見当はつく?」

「まだよ。あいつが次に何かすれば、その時に放出される妖力を感知して見付けられるかもしれないけど、今は大人しくしているみたいだから無理」

 

 そんなことが出来るのかと感心する。スカーレットと手下の足取りが分からない状況で、博麗の探知能力はそれ以外に頼る術がないものであった。

 気付けば街中に響いていたサイレンの音も聞こえなくなっている。手下のポルシェは上手いこと逃げおおせたのかもしれない。

 

「でも、霊夢さん。勘で何となく分かったりしませんか? 大体の方向だけでも」

「勘?」

 

 鈴谷が問い返すと、東風谷は「そうなんです!」と頷いた。

 

「霊夢さんの勘の鋭さって、神懸ってまして。ほとんど的中するんですよね。特にこういう時なんかは」

 

 と言われた本人は、うつむき加減で顎に手を当てて考え込んでいる様子だ。勘と言う割には悩んでいるように見える。

 だが、すぐに博麗はほっそりした腕を上げて、ある方向を指さした。その指の先を幻の白い雪がすり抜けていく。

 

「あっち。あっちの方に居ると思う」

「本当ですか?」

「うん。……けど、なんか嫌な感じがするのよね。早く向かった方がいいかも」

 

 鈴谷は東風谷を見る。その顔は曇っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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